第4話 アムル(前)
水面が揺れた。
アムルは川岸に腰を下ろし、釣り竿を片手に浮きを眺めていた。
今日は暖かく、風も弱い。穏やかな日差しが川面に反射し、時折吹く風が岸辺の草を揺らしている。
釣りをするには申し分のない日だった。
ただし、魚が釣れるかどうかは別の話である。
「……釣れないな」
もう随分と待っている気がする。
竿を少し持ち上げてみると、餌はちゃんとついていた。魚がいないのか、それとも餌が気に入らないのか。どちらにせよ、今のところ成果はない。
アムルはもう一度仕掛けを水へ落とし、浮きが落ち着くのを待った。
まあ、いい。
魚が釣れれば嬉しいし、釣れなかったところで困るわけでもない。何も考えず、こうして川を眺めている時間は嫌いではなかった。
「アム!」
背後から声がした。
振り返ると、土手の上にエルが立っている。
「何してるの?」
「見れば分かるだろ」
「釣れてないじゃん」
「今から釣れるんだよ」
エルは笑いながら土手を下りてくると、アムルの隣にしゃがみ込み、水面を覗き込んだ。
「本当に何もいないね」
「いるよ」
「どこに?」
「水の中」
「それはそうでしょ」
エルが呆れたように笑い、アムルもつられて笑った。
「それより、帰るよ」
「もう?」
「今日はティファがご飯作ってくれるって」
アムルは竿を見て、それから水面を見て、もう一度竿へ視線を戻した。
「……あと少し」
「だめ。いつまでも帰れないでしょ」
エルは呆れたように息を吐くと、アムルの手から勝手に竿を取り上げた。
「あっ」
「はい、終わり」
「横暴だ」
「ご飯なくなるよ」
「それは困る」
アムルはあっさり立ち上がった。
「最初からそうすればいいのに」
「魚も食べたかったんだよ」
「一匹も釣れてないけどね」
「明日は釣れる」
「はいはい」
エルが竿を返してくれたので、アムルは道具を片づけ、彼女と並んで歩き出した。
川沿いの道を歩きながら、今日の夕食は何だろうかと考える。
魚料理だったら、少し複雑な気分になりそうだった。
◇
ティファの家に着くと、扉の向こうからいい匂いが漂ってきた。
「遅いよ」
扉を開けるなり、ティーエに言われた。
「僕たち、もう食べ始めるところだったんだよ」
「私はちゃんと呼びに行ったからね」
エルが先回りするように言った。
「アムが帰りたがらなかっただけ」
「一匹釣れそうだったんだよ」
「全然釣れてなかったよ」
「エル」
「何?」
「言わなくてもいいことってあると思う」
「事実でしょ」
テーブルにはすでに料理が並べられており、ティファが最後の皿を置いているところだった。
「二人とも、話してないで座って。せっかく作ったんだから、温かいうちに食べてほしいの」
「ほら、アム」
エルに背中を押され、アムルは席についた。
そこにはティーエとリオ、それにバーナードもいる。
「遅えぞ、侯爵様」
「釣りしてた」
「で、釣れたのか?」
「……聞かないでくれ」
バーナードが鼻で笑った。
「なんだ、一匹も釣れなかったのか」
「おまえは釣りしないから分からないと思うけど、難しいんだよ」
「誘い方が悪いんじゃないか?」
「誘い方?」
「魚だって女と同じだろ。餌ぶら下げて待ってるだけじゃ駄目なんだよ。向こうから食いつきたくなるように誘わねえと」
「何それ」
リオが呆れた声を出した。
「魚の話だよ」
「女の子を引っかける話にしか聞こえないけど」
「似たようなもんだろ」
「ふうん」
リオの口元が意地悪く歪んだ。
「あんただって、この前、花屋の女の子に振られてなかった?」
一瞬、バーナードの顔が止まった。
それを見て、アムルは思わず吹き出した。
「おい」
「何?」
「誰から聞いた」
「知らない」
「お前だろ、言いふらしたの」
「事実を言っただけじゃない」
バーナードはじろりとリオを見た。
「……なんか言ったか? 洗濯板」
リオの眉がぴくりと動いた。
「あ?」
「だから、なんか言ったかって」
「いま、なんて言った?」
「聞こえなかったのか?」
「この遊び人!」
「誰が遊び人だ!」
「あんた以外に誰がいるのよ!」
二人が同時に立ち上がり、テーブルを挟んで睨み合った。
「ちょっと! ご飯の前にやめてよ!」
ティファが慌ててリオの腕を掴む。
「だって、こいつが――」
「バーナードも」
今度はエルがバーナードの前へ入った。
「そのくらいにして」
「俺は別に――」
「して」
「……はい」
バーナードが渋々座ると、リオもティファに肩を押されて席へ戻った。それでも二人はまだ、互いを睨み合っている。
アムルはその様子を面白そうに眺めていた。
それに気づいたエルが振り返る。
「アムルも面白がってないで止めてよ」
「いつものことじゃん」
「いつものことだから止めるの」
「放っておけば、そのうち終わるだろ」
「終わらないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
エルは呆れたように息を吐いたが、すぐに笑みを浮かべた。
その笑顔が、アムルのすぐ隣にあった。
ティーエが料理を取り分け、ティファはまだリオを宥めている。バーナードは不満そうな顔をしていて、リオも負けじと睨み返していた。
くだらない。
本当に、くだらない。
魚が釣れなかったとか、花屋の女の子に振られたとか、洗濯板だとか、遊び人だとか。
そんなことで、みんな騒いでいる。
アムルは笑っていた。
その横で、エルも笑っていた。
ティーエがいて、ティファがいて、リオがいて、バーナードがいる。
そして、エルもいる。
何も考えなくていい。
今日の食事が終われば、明日はまた釣りに行けばいい。今度こそ一匹くらい釣って、エルを驚かせてやりたい。
そんなことだけを考えていればよかった。
誰かを救ったわけでも、戦いに勝ったわけでもない。ただ魚を釣ろうとして失敗し、みんなに笑われただけの一日だった。
それでも楽しかった。
それが、当たり前だった。
◇
目を開けた。
薄暗い部屋の天井が見えたが、しばらくの間、アムルは自分がどこにいるのか分からなかった。
無意識に右手を伸ばしてみる。
何もない。
誰もいない。
そこにあるのは冷たい寝台と静かな部屋だけで、料理の匂いも、ティーエの声も、リオとバーナードの喧嘩も、ティファの呆れた声も聞こえなかった。
もちろん、エルの笑い声も。
アムルは天井を見たまま、しばらく動かなかった。
「…………またか」
夢だった。
途中から、たぶん分かっていた。
それでも、起きたくなかった。
片腕で目を覆いながら、もう一度眠れば続きを見られるだろうかと少しだけ考える。
けれど、窓の向こうはもう白み始めていた。
朝だった。
◇
執務室には、今日も書類が積み上がっていた。
ラレド戦の後始末に、負傷兵への補償、損耗した装備の補充、戦場となった村々への支援。さらに冬を前にした食糧備蓄や街道の補修、軍馬、薪、薬、避難民の受け入れまである。
いくら片づけても、次が来る。
アムルは一枚目の書類を開いた。
「南部倉庫から食糧を出す案ですが、現在の避難民数を考えますと、備蓄の半分程度を放出すれば当面は――」
向かいに座る官吏の説明を聞きながら、アムルは書類に並んだ数字を追った。
南部倉庫の現在の備蓄量。
避難民の人数。
冬季の消費見込み。
次の搬入予定。
もし雪で街道が止まれば、その後の補給は期待できない。
そこで、いつもの問いが頭に浮かんだ。
――パドゥーラ侯なら、どうする。
「半分は多い。三割にしよう。街道が止まった時の分は残しておきたい」
「しかし、それでは当面の食糧が不足するおそれがあります」
「足りない分は城下の商会から買って。価格はこちらで保証する。倉庫にある食糧は、金を出せばすぐに補充できるものじゃないからね」
「承知しました」
官吏が素早く書き留める。
次は、戦災民の住居だった。
アムルは報告書を読み、また考える。
――パドゥーラ侯なら、どうする。
「空いている兵舎を使おう」
「兵の宿舎が不足しますが」
「城内の空き部屋も開ける。兵には悪いけど、しばらく詰めてもらって。冬に避難民を外で寝かせるわけにはいかないだろ」
「承知しました。軍の担当官とも調整いたします」
「お願い」
次の書類を開く。
その次も、そのまた次も。
判断には以前より時間がかかるようになったが、それでも答えは出せた。
政務なら、まだ何とかなる。
資料があり、人の話を聞くことができ、考える時間もある。一度出した答えを見直すこともできるし、必要ならティーエや他の者に意見を求めることだってできた。
だから、自分に問いかければいい。
パドゥーラ侯なら、どうする。
そうやって一つずつ考えれば、少なくとも大きく外れた答えにはならない。
「本日は以上です」
「うん。ありがとう」
官吏が頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まってしばらくすると、廊下から微かな話し声が聞こえてくる。
「閣下は、本当にお強い方だな」
先ほどの官吏だった。
「ラレドから戻られたばかりだろう」
「ああ。それでも毎日執務に出ておられる。我々も弱音を吐いてはいられんな」
「まったくだ。あれほどの方に仕えられるのは、幸運なことだよ」
足音が遠ざかっていく。
アムルは手元の書類を見たまま、しばらく動かなかった。
「……強い、か」
そう見えるらしい。
それなら、それでいい。
◇
昼を過ぎた頃、ティーエが何枚もの書類を抱えてやってきた。
「アムル、これ見てほしいんだ」
「うん」
受け取ったのは、戦災地域に対する税の猶予措置だった。来春まで一部を免除し、復旧状況に応じて段階的に戻していく案らしい。
内容を読む。
悪くない。
それでも、もう一度考える。
――パドゥーラ侯なら、どうする。
「ここ。来春で一度区切ろう。その時点で状況を見て、延ばすか決めたほうがいいと思う」
「僕もそのつもりだよ」
「なら、それで」
書類を返した。
ティーエは受け取ったものの、その場を動こうとはしなかった。
「何?」
「ううん」
「何かあるなら言って」
少し迷ってから、ティーエが口を開いた。
「……アムル、ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
「何時間?」
「分からない」
「分からないって……」
「寝てるから大丈夫」
ティーエは黙った。
アムルは、その顔を見ながら少しだけ笑う。
「夢も見るし」
ティーエの目がわずかに動いた。
「……どんな?」
「昔の夢」
「そう」
それ以上は聞いてこなかった。
聞かないのではない。
聞けないのだろう。
最近のみんなは、ずっとそうだった。
ティーエも、ロックも、エヴァンスも、誰もはっきりとは口にしない。それでも、昔からアムルを知っている者ほど、何かがおかしいことには気づいている。
当然だった。
本人が一番よく分かっていた。
◇
ティーエが出ていったあと、アムルは椅子にもたれ、天井を見上げた。
俺は今、パドゥーラ侯をやっている。
最近になって、ようやくそのことを自覚するようになった。
パドゥーラ侯アムル。
そういう人間を、自分は演じている。
昔は、こんなことを考えたこともなかった。
誰かが困っていれば助けたし、嫌なことがあれば嫌だと言った。分からなければ、分からないと言った。
エルがやりたいと言えば一緒にやったし、ティーエがそのほうがいいと言えば、だったらそうするかと思った。
それだけだった。
今は違う。
何かを決めるたびに、いちいち考える。
パドゥーラ侯ならどうする。
領主ならどうする。
兵を率いる人間ならどうする。
みんなが必要としているアムルなら、どうする。
時間さえあれば、それなりの答えは出せる。
だから周りから見れば、自分はちゃんとやっているように見えるのだろう。もしかしたら、昔より侯爵らしく見えるのかもしれない。
でも。
じゃあ、俺は?
アムルは目を閉じた。
そもそも、自分はパドゥーラ侯になりたかったのだろうか。
分からない。
エルがやったほうがいいと言ったからなのか。
みんなが必要だと言ったからなのか。
それなら、自分自身は何がしたかった。
分からない。
今は何がしたい。
それも分からない。
エルに会いたい。
それだけは、はっきり分かる。
けれど、会ってどうしたいのかと聞かれれば、その答えさえ分からなかった。
仕事をしている間は、そんなことを考えなくて済む。
エルが抜けたところにできた空白を、仕事で埋めようとしている。
埋まるはずなどないのに。




