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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第七章 君のいる場所へ

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第4話 アムル(前)

 水面が揺れた。


 アムルは川岸に腰を下ろし、釣り竿を片手に浮きを眺めていた。


 今日は暖かく、風も弱い。穏やかな日差しが川面に反射し、時折吹く風が岸辺の草を揺らしている。


 釣りをするには申し分のない日だった。


 ただし、魚が釣れるかどうかは別の話である。


「……釣れないな」


 もう随分と待っている気がする。


 竿を少し持ち上げてみると、餌はちゃんとついていた。魚がいないのか、それとも餌が気に入らないのか。どちらにせよ、今のところ成果はない。


 アムルはもう一度仕掛けを水へ落とし、浮きが落ち着くのを待った。


 まあ、いい。


 魚が釣れれば嬉しいし、釣れなかったところで困るわけでもない。何も考えず、こうして川を眺めている時間は嫌いではなかった。


「アム!」


 背後から声がした。


 振り返ると、土手の上にエルが立っている。


「何してるの?」


「見れば分かるだろ」


「釣れてないじゃん」


「今から釣れるんだよ」


 エルは笑いながら土手を下りてくると、アムルの隣にしゃがみ込み、水面を覗き込んだ。


挿絵(By みてみん)


「本当に何もいないね」


「いるよ」


「どこに?」


「水の中」


「それはそうでしょ」


 エルが呆れたように笑い、アムルもつられて笑った。


「それより、帰るよ」


「もう?」


「今日はティファがご飯作ってくれるって」


 アムルは竿を見て、それから水面を見て、もう一度竿へ視線を戻した。


「……あと少し」


「だめ。いつまでも帰れないでしょ」


 エルは呆れたように息を吐くと、アムルの手から勝手に竿を取り上げた。


「あっ」


「はい、終わり」


「横暴だ」


「ご飯なくなるよ」


「それは困る」


 アムルはあっさり立ち上がった。


「最初からそうすればいいのに」


「魚も食べたかったんだよ」


「一匹も釣れてないけどね」


「明日は釣れる」


「はいはい」


 エルが竿を返してくれたので、アムルは道具を片づけ、彼女と並んで歩き出した。


 川沿いの道を歩きながら、今日の夕食は何だろうかと考える。


 魚料理だったら、少し複雑な気分になりそうだった。



◇



 ティファの家に着くと、扉の向こうからいい匂いが漂ってきた。


「遅いよ」


 扉を開けるなり、ティーエに言われた。


「僕たち、もう食べ始めるところだったんだよ」


「私はちゃんと呼びに行ったからね」


 エルが先回りするように言った。


「アムが帰りたがらなかっただけ」


「一匹釣れそうだったんだよ」


「全然釣れてなかったよ」


「エル」


「何?」


「言わなくてもいいことってあると思う」


「事実でしょ」


 テーブルにはすでに料理が並べられており、ティファが最後の皿を置いているところだった。


「二人とも、話してないで座って。せっかく作ったんだから、温かいうちに食べてほしいの」


「ほら、アム」


 エルに背中を押され、アムルは席についた。


 そこにはティーエとリオ、それにバーナードもいる。


「遅えぞ、侯爵様」


「釣りしてた」


「で、釣れたのか?」


「……聞かないでくれ」


 バーナードが鼻で笑った。


「なんだ、一匹も釣れなかったのか」


「おまえは釣りしないから分からないと思うけど、難しいんだよ」


「誘い方が悪いんじゃないか?」


「誘い方?」


「魚だって女と同じだろ。餌ぶら下げて待ってるだけじゃ駄目なんだよ。向こうから食いつきたくなるように誘わねえと」


「何それ」


 リオが呆れた声を出した。


「魚の話だよ」


「女の子を引っかける話にしか聞こえないけど」


「似たようなもんだろ」


「ふうん」


 リオの口元が意地悪く歪んだ。


「あんただって、この前、花屋の女の子に振られてなかった?」


 一瞬、バーナードの顔が止まった。


 それを見て、アムルは思わず吹き出した。


「おい」


「何?」


「誰から聞いた」


「知らない」


「お前だろ、言いふらしたの」


「事実を言っただけじゃない」


 バーナードはじろりとリオを見た。


「……なんか言ったか? 洗濯板」


 リオの眉がぴくりと動いた。


「あ?」


「だから、なんか言ったかって」


「いま、なんて言った?」


「聞こえなかったのか?」


「この遊び人!」


「誰が遊び人だ!」


「あんた以外に誰がいるのよ!」


 二人が同時に立ち上がり、テーブルを挟んで睨み合った。


「ちょっと! ご飯の前にやめてよ!」


 ティファが慌ててリオの腕を掴む。


「だって、こいつが――」


「バーナードも」


 今度はエルがバーナードの前へ入った。


「そのくらいにして」


「俺は別に――」


「して」


「……はい」


 バーナードが渋々座ると、リオもティファに肩を押されて席へ戻った。それでも二人はまだ、互いを睨み合っている。


 アムルはその様子を面白そうに眺めていた。


 それに気づいたエルが振り返る。


「アムルも面白がってないで止めてよ」


「いつものことじゃん」


「いつものことだから止めるの」


「放っておけば、そのうち終わるだろ」


「終わらないよ」


「そうかな」


「そうだよ」


 エルは呆れたように息を吐いたが、すぐに笑みを浮かべた。


 その笑顔が、アムルのすぐ隣にあった。


 ティーエが料理を取り分け、ティファはまだリオを宥めている。バーナードは不満そうな顔をしていて、リオも負けじと睨み返していた。


 くだらない。


 本当に、くだらない。


 魚が釣れなかったとか、花屋の女の子に振られたとか、洗濯板だとか、遊び人だとか。


 そんなことで、みんな騒いでいる。


 アムルは笑っていた。


 その横で、エルも笑っていた。


 ティーエがいて、ティファがいて、リオがいて、バーナードがいる。


 そして、エルもいる。


 何も考えなくていい。


 今日の食事が終われば、明日はまた釣りに行けばいい。今度こそ一匹くらい釣って、エルを驚かせてやりたい。


 そんなことだけを考えていればよかった。


 誰かを救ったわけでも、戦いに勝ったわけでもない。ただ魚を釣ろうとして失敗し、みんなに笑われただけの一日だった。


 それでも楽しかった。


 それが、当たり前だった。


挿絵(By みてみん)



◇



 目を開けた。


 薄暗い部屋の天井が見えたが、しばらくの間、アムルは自分がどこにいるのか分からなかった。


 無意識に右手を伸ばしてみる。


 何もない。


 誰もいない。


 そこにあるのは冷たい寝台と静かな部屋だけで、料理の匂いも、ティーエの声も、リオとバーナードの喧嘩も、ティファの呆れた声も聞こえなかった。


 もちろん、エルの笑い声も。


 アムルは天井を見たまま、しばらく動かなかった。


「…………またか」


 夢だった。


 途中から、たぶん分かっていた。


 それでも、起きたくなかった。


 片腕で目を覆いながら、もう一度眠れば続きを見られるだろうかと少しだけ考える。


 けれど、窓の向こうはもう白み始めていた。


 朝だった。



◇



 執務室には、今日も書類が積み上がっていた。


 ラレド戦の後始末に、負傷兵への補償、損耗した装備の補充、戦場となった村々への支援。さらに冬を前にした食糧備蓄や街道の補修、軍馬、薪、薬、避難民の受け入れまである。


 いくら片づけても、次が来る。


 アムルは一枚目の書類を開いた。


「南部倉庫から食糧を出す案ですが、現在の避難民数を考えますと、備蓄の半分程度を放出すれば当面は――」


 向かいに座る官吏の説明を聞きながら、アムルは書類に並んだ数字を追った。


 南部倉庫の現在の備蓄量。


 避難民の人数。


 冬季の消費見込み。


 次の搬入予定。


 もし雪で街道が止まれば、その後の補給は期待できない。


 そこで、いつもの問いが頭に浮かんだ。


 ――パドゥーラ侯なら、どうする。


「半分は多い。三割にしよう。街道が止まった時の分は残しておきたい」


「しかし、それでは当面の食糧が不足するおそれがあります」


「足りない分は城下の商会から買って。価格はこちらで保証する。倉庫にある食糧は、金を出せばすぐに補充できるものじゃないからね」


「承知しました」


 官吏が素早く書き留める。


 次は、戦災民の住居だった。


 アムルは報告書を読み、また考える。


 ――パドゥーラ侯なら、どうする。


「空いている兵舎を使おう」


「兵の宿舎が不足しますが」


「城内の空き部屋も開ける。兵には悪いけど、しばらく詰めてもらって。冬に避難民を外で寝かせるわけにはいかないだろ」


「承知しました。軍の担当官とも調整いたします」


「お願い」


 次の書類を開く。


 その次も、そのまた次も。


 判断には以前より時間がかかるようになったが、それでも答えは出せた。


 政務なら、まだ何とかなる。


 資料があり、人の話を聞くことができ、考える時間もある。一度出した答えを見直すこともできるし、必要ならティーエや他の者に意見を求めることだってできた。


 だから、自分に問いかければいい。


 パドゥーラ侯なら、どうする。


 そうやって一つずつ考えれば、少なくとも大きく外れた答えにはならない。


「本日は以上です」


「うん。ありがとう」


 官吏が頭を下げ、部屋を出ていった。


 扉が閉まってしばらくすると、廊下から微かな話し声が聞こえてくる。


「閣下は、本当にお強い方だな」


 先ほどの官吏だった。


「ラレドから戻られたばかりだろう」


「ああ。それでも毎日執務に出ておられる。我々も弱音を吐いてはいられんな」


「まったくだ。あれほどの方に仕えられるのは、幸運なことだよ」


 足音が遠ざかっていく。


 アムルは手元の書類を見たまま、しばらく動かなかった。


「……強い、か」


 そう見えるらしい。


 それなら、それでいい。



◇



 昼を過ぎた頃、ティーエが何枚もの書類を抱えてやってきた。


「アムル、これ見てほしいんだ」


「うん」


 受け取ったのは、戦災地域に対する税の猶予措置だった。来春まで一部を免除し、復旧状況に応じて段階的に戻していく案らしい。


 内容を読む。


 悪くない。


 それでも、もう一度考える。


 ――パドゥーラ侯なら、どうする。


「ここ。来春で一度区切ろう。その時点で状況を見て、延ばすか決めたほうがいいと思う」


「僕もそのつもりだよ」


「なら、それで」


 書類を返した。


 ティーエは受け取ったものの、その場を動こうとはしなかった。


「何?」


「ううん」


「何かあるなら言って」


 少し迷ってから、ティーエが口を開いた。


「……アムル、ちゃんと寝てる?」


「寝てるよ」


「何時間?」


「分からない」


「分からないって……」


「寝てるから大丈夫」


 ティーエは黙った。


 アムルは、その顔を見ながら少しだけ笑う。


「夢も見るし」


 ティーエの目がわずかに動いた。


「……どんな?」


「昔の夢」


「そう」


 それ以上は聞いてこなかった。


 聞かないのではない。


 聞けないのだろう。


 最近のみんなは、ずっとそうだった。


 ティーエも、ロックも、エヴァンスも、誰もはっきりとは口にしない。それでも、昔からアムルを知っている者ほど、何かがおかしいことには気づいている。


 当然だった。


 本人が一番よく分かっていた。



◇



 ティーエが出ていったあと、アムルは椅子にもたれ、天井を見上げた。


 俺は今、パドゥーラ侯をやっている。


 最近になって、ようやくそのことを自覚するようになった。


 パドゥーラ侯アムル。


 そういう人間を、自分は演じている。


 昔は、こんなことを考えたこともなかった。


 誰かが困っていれば助けたし、嫌なことがあれば嫌だと言った。分からなければ、分からないと言った。


 エルがやりたいと言えば一緒にやったし、ティーエがそのほうがいいと言えば、だったらそうするかと思った。


 それだけだった。


 今は違う。


 何かを決めるたびに、いちいち考える。


 パドゥーラ侯ならどうする。


 領主ならどうする。


 兵を率いる人間ならどうする。


 みんなが必要としているアムルなら、どうする。


 時間さえあれば、それなりの答えは出せる。


 だから周りから見れば、自分はちゃんとやっているように見えるのだろう。もしかしたら、昔より侯爵らしく見えるのかもしれない。


 でも。


 じゃあ、俺は?


 アムルは目を閉じた。


 そもそも、自分はパドゥーラ侯になりたかったのだろうか。


 分からない。


 エルがやったほうがいいと言ったからなのか。


 みんなが必要だと言ったからなのか。


 それなら、自分自身は何がしたかった。


 分からない。


 今は何がしたい。


 それも分からない。


 エルに会いたい。


 それだけは、はっきり分かる。


 けれど、会ってどうしたいのかと聞かれれば、その答えさえ分からなかった。


 仕事をしている間は、そんなことを考えなくて済む。


 エルが抜けたところにできた空白を、仕事で埋めようとしている。


 埋まるはずなどないのに。




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