第1話 ルートビッヒの憂鬱(前)
ルートビッヒ&マリー&ホフマン
279年1月。
皇都ルルーシュ。
レミーラ帝国の中心にそびえる皇宮。その大広間には朝から多くの貴族や官僚が集い、最奥の玉座には第十五代皇帝フィリップ=ハイマンが座していた。
皇帝の左右には帝国政府の重臣たちが並び、少し離れた場所には東部辺境を代表する諸侯たちの姿もある。
この日、正式に新たなケルン公が誕生する。
名を呼ばれ、一人の女が赤い絨毯の上を進んだ。
マリーナ=フォン=ケルン。
普段の彼女を知る者ならば、一瞬誰なのか分からなかったかもしれない。
いつもは好き勝手な方向へ跳ねている髪は綺麗に整えられ、薄く化粧まで施されている。華美になりすぎない公爵家の正装に身を包み、背筋を伸ばして歩くその姿には、領民から「おてんば姫」「へんてこ姫」と親しまれている普段の面影など、ほとんど残っていなかった。
マリーナは玉座の前まで進むと、静かに膝をついた。
フィリップが詔書を読み上げる。
東部辺境領統領。
そして、ケルン公爵。
かつて父アレン=フォン=ケルンが担っていた地位を、その唯一の実子であるマリーナへ正式に継承させるという内容だった。
もちろん、異論がなかったわけではない。
東部辺境は帝国の一地方とはいえ、独自の軍事力と強い結束を持つ一大勢力である。その中心となるケルン公爵位を若い女へ継がせることについて、中央貴族の一部からは反対意見も出ていた。
だが、それを押し切ったのがルートビッヒだった。
女だからという理由だけで、能力のある者を排除する。
そんなものは、統治にとって無益でしかない。
マリーナは長年にわたり家宰として東部辺境領の内政、財政、兵站を担ってきた。領内の事情をろくに知らない者へ爵位を与えるくらいなら、彼女に任せた方がはるかに合理的である。
ルートビッヒの主張は一貫していた。
そして何より、当の東部辺境側がマリーナを支持している。
フィリップも最終的にはその意見を認めた。
「マリーナ=フォン=ケルン。そなたをケルン公爵に叙する」
「謹んで拝命いたします」
マリーナは深く頭を垂れた。
その所作には、乱れ一つなかった。
少なくとも、この瞬間だけを見れば。
◇
数日後。
「ヴァーーーーーーーー、もうやってらんない」
皇宮で見事な礼を披露した新任ケルン公爵は、宰相府の一室で机に突っ伏していた。
向かいに座ったルートビッヒは、手元の書類から目だけを上げる。
「何がだ」
「全部よ。叙任式。晩餐。挨拶。知らない貴族へのお礼。知らない貴族からのお祝い。知らない貴族の奥様からのお祝い。知らない貴族の娘さんからのお祝い」
「公爵になったのだから仕方ないだろう」
「だから公爵なんて嫌だったのよ」
「今さら言うな」
ルートビッヒは淡々と書類を一枚めくった。
マリーはようやく身体を起こすと、腹の辺りを押さえる。
「それにあの服。コルセットがきついのよ。息ができないかと思った」
「死にはしない」
「あなたたち、よく毎日あんな格好で暮らせるわね」
「俺はコルセットをしない」
「そういう意味じゃないわよ」
「分かっている」
ルートビッヒはようやく書類を置いた。
マリーはすでに公爵としての正装を脱ぎ、普段に近い服装へ戻っている。あれほど綺麗に整えられていた髪も、わずか数日でいつものように好き勝手な方向へ跳ね始めていた。
「しかし」
「何?」
「真面目にやれば、存外悪くないのだな」
マリーが怪訝な顔をした。
「何の話?」
「お前だ」
「私?」
「ああ。思ったより綺麗だった」
マリーは数秒、黙った。
「……それ、褒めてる?」
「褒めている」
「『思ったより』が余計なのよ」
「普段のお前を知っているからな」
「失礼ねえ」
「事実だろう」
「女にそんなこと言ってたら嫌われるわよ」
「別に構わん」
「そういうところよ」
マリーは呆れながら茶を飲んだが、特に不機嫌になった様子はない。ルートビッヒも、それ以上この話題を続ける気はないようだった。
「改めて言うが、叙任おめでとう」
「ありがとう」
今度はマリーも少しだけ姿勢を正した。
「殿下には、このたびのケルン公への叙任に際して格別のご配慮をいただき、感謝申し上げます」
「急にどうした」
「一応、公爵として正式なお礼くらい言っておこうと思って」
「当たり前のことをしただけだ。力ある者を、女だからというだけで公爵にしないなど無益に過ぎる」
「それでも、ずいぶんご無理をさせてしまったようです」
「アレン様から受けた恩を思えば、大したことではない」
その言葉だけは、ルートビッヒも少し静かになった。
アレン=フォン=ケルン。
かつて何も持たなかった自分を拾い、その才能を認め、軍を預けてくれた男である。
今のルートビッヒがあるのは、アレンなくして考えられない。
もっとも、それだけを理由にマリーを推したわけでもなかった。能力がなければ、たとえアレンの娘であろうとケルン公爵には推していない。
「それで、今日はお時間は?」
「お前が来るというのだ。午前中は空けてある」
「ずいぶん待遇がいいわね」
「そう思うなら、もう少しありがたがれ」
「ありがたがってるわよ」
「そうは見えん」
「なら、ゆっくりさせてもらいます」
「ああ。ホフももうじき来る」
マリーは嬉しそうに頷いた。
「そう。久しぶりに三人で話せるわね」
「二か月しか経っていないがな」
「それでもよ」
ルートビッヒは茶を口にしてから、ふと思い出したように言った。
「先年のライプニッツへの威力偵察は惜しかったな」
「ええ。敵将も何人か討ち取れたし、コスタもあと少しだったんだけど、やっぱり山岳戦は苦手ね」
278年、東部辺境軍はライプニッツ方面へ軍を進めている。
名目上は威力偵察だったが、状況が許せばコスタへ足場を築くことも視野に入れた軍事行動だった。
「下手に領地が増えても負担が増すだけだ。その方がいい」
「私もそう思う」
マリーは即答した。
「今のケルンに、これ以上の土地を抱える余裕なんてないから」
東部辺境領は広い。
だが、豊かではない。
森林と山地が多く、林業や漁労、馬産には適している一方、大量の穀物を生産できる土地は少なかった。
東部辺境が長年コスタ平原を求めてきた最大の理由も、そこにある。
自分たちの食を、自分たちで確保したい。
それは侵略の野心であると同時に、東部辺境で生きる者たちにとっては生存の問題でもあった。
「取るだけなら簡単なのよ」
マリーは言った。
「問題はその後。守備兵を置いて、役人を送って、道を直して、荒れた畑を戻して……そんなお金、どこにもないわ」
「その判断ができるから、お前を公爵にした」
「褒めても何も出ないわよ」
「褒めてはいない。評価しているだけだ」
「それを普通は褒めてるっていうの」
ルートビッヒはそれには答えず、茶器へ手を伸ばした。
「そういえば」
「何?」
「お前が熱を上げている、あの男。最近は振るわんようだな」
マリーは一瞬だけ考えた。
「ああ、アムル?」
「他に誰がいる」
「ええ。この前は負けたみたいね」
278年末。
パドゥーラとリービッヒの戦いについては、遠く離れた東部辺境にも断片的ながら情報が伝わってきていた。
「妹だったか?」
「妹……というか、恋人……というか」
マリーは首を傾げた。
「その辺、外から見てるとよく分からないのよ。とにかく、その娘が敵に回ったみたい」
「なるほど」
ルートビッヒは、それ以上追及しなかった。
「あちらも大変だな」
「大変なんてもんじゃないでしょうね」
そう答えてから、マリーは少しだけ表情を改めた。
「ただ、負けたからといってパドゥーラの勢いが衰えたわけでもないわ」
「どういうことだ」
「その戦いの最中に、都市同盟の一部とパドゥーラが手を結んだ」
ルートビッヒの目がわずかに細くなる。
「都市同盟と?」
「ええ。全部じゃないみたいだけどね。少なくとも今までみたいに、パドゥーラだけを孤立させておけばいい状況ではなくなってる」
「厄介だな」
「そうとも言えないわ」
「ほう」
マリーは身を起こした。
「どうも交易関係は、かなり開くつもりみたい。コスタからリースにも商人が入ってきてる」
「もうか」
「ええ。まだ規模は小さいけど」
東部辺境領にとって、それは無視できない変化だった。
長年、彼らがコスタ平原を求めてきた最大の理由は食料である。
森林はある。馬もいる。魚も獲れる。
しかし、穀物が足りない。
だからこそ、コスタ平原を欲した。
「うまく交易できれば、食料問題も少しは解決できるかもしれない」
ルートビッヒは少し考えた。
「ふむ」
「下手に戦って土地を取るより、東部辺境領にはその方がいいかもしれないわね」
「戦費もいらん。占領地の維持費もいらん」
「そういうこと」
マリーは頷いた。
「こっちの馬や木材、鉄製品なんかを売って、向こうから穀物を買う。安定して続けられるなら、その方がずっと楽よ」
「理屈ではな」
「ええ」
マリーもそこは慎重だった。
「まだ様子見は必要よ。パドゥーラと都市同盟がどこまで本気なのかも分からないし、リービッヒ情勢だって落ち着いてない」
「だが、選択肢にはなる」
「そうね」
ルートビッヒはしばらく黙った。
東部辺境にとって、コスタ平原は長い間、奪うべき土地だった。
だが、もし戦わずとも必要な食料を手に入れられるのであれば、コスタを求める意味そのものが変わる可能性がある。
「調べておけ」
「もう調べてるわよ」
「さすがに早いな」
「誰だと思ってるの」
マリーは少しだけ得意そうに胸を張った。
その時、扉が叩かれた。
「入れ」
「失礼いたします」
姿を見せたのはホフマンだった。
茶色の強い癖毛に、穏やかな顔立ち。軍人としても政務官としても高い能力を持ちながら、その印象にはどこか柔らかさがある。
「お待たせいたしました、ルートビッヒ様」
「ああ。座れ」
「はい」
ホフマンは席につく前にマリーを見る。
「マリー様もお変わりなく」
「二か月ぶりですけどね」
「ただ、この前も町で奇怪なことをなされたとのこと。これからは多少、公爵様らしく振る舞われませんと、ケルンの民がまた訝しげにマリー様を見ますよ」
「ホフまでうるさいわねえ。ケルンの人は慣れているわ」
「そのケルンの方々がドン引きされるようなことは、お控えになられてはいかがですか」
「……」
マリーが黙った。
ルートビッヒは何も言わない。
少なくとも、この件に関してホフマンが間違ったことを言っているとは思わなかった。
「……まあ、それはさておき」
マリーは強引に話を変えた。
「ホフ。ついにオー兄とミリー様の婚儀が決まったわ」
「本当ですか?」
ホフマンの表情が明らかに変わった。
ルートビッヒも、手にしていた茶器を止める。
「……決まったのか」
「ええ。驚かせたいから、私から二人に伝えてほしいって、オー兄とミリー様から頼まれたの」
「姉上からは何も聞いていませんでした」
「だから驚かせたかったんでしょう」
ホフマンはしばらく何も言わなかった。
「……そうですか」
その声は、普段より少しだけ柔らかかった。
ルートビッヒもまた黙っている。
オスワルト。
アレン五兄弟の長男にして、鉄騎兵団長。
剛毅で実直。幾度となくルートビッヒと戦場を渡り歩き、互いに背中を預けてきた腹心である。
そして、ミリー。
「それにしても、よくお姉様が承知したな」
ルートビッヒが言った。
「今回は、オー兄がもう聞かなかったのよ」
「聞かなかった?」
ホフマンが尋ねる。
「ええ」
マリーは少しだけ声を落とした。
「ミリー様、子供ができたの」
「……」
ホフマンが固まった。
「姉上が?」
「オー兄の子よ。当たり前でしょう」
「いや、それは分かっていますが……」
珍しくホフマンが言葉に詰まる。
ルートビッヒも一瞬だけ目を見開いたが、すぐに元の表情へ戻った。
「それでもミリー様は、まだ婚儀はしないって言ったみたい。自分のような女が、オー兄の妻になるべきじゃないって」
ルートビッヒの表情から、わずかに柔らかさが消えた。
「……お姉様らしいな」
責める声ではなかった。
その理由を、ルートビッヒは誰よりもよく知っている。
かつて父の家が没落し、皇籍を失ったルートビッヒは、食べるものにも困るほど追い詰められた。
主家が没落してなお彼を見捨てなかったのが、使用人であったホフマンの一家だった。
だが、その一家にも余裕などない。
最後には、ミリーが自らを売った。
ホフマンたち家族を、そしてルートビッヒを生かすために。
後にアレンに救われ、ルートビッヒとホフマンはケルンへ移った。ミリーも身請けされ、家へ戻ることができた。
それでも、失ったものまでなかったことにはならない。
「それでオスワルトは?」
「怒ったわ」
マリーが答えた。
「もうあなた一人の問題じゃない。お腹にいるのは俺の子でもある。今度ばかりはあなたのわがままは聞かない、って」
「そうか」
ルートビッヒは静かに頷いた。
「オスワルトなら、そう言うだろうな」
「それに私が正式にケルン公になったでしょう。オー兄がケルン公になることもなくなった。ミリー様がずっと気にしていたことも、一つなくなったわ」
アレンの死後、オスワルトは五兄弟の長男として暫定的にケルン公の役割を担っていた。
マリーが正式に継がないのであれば、そのまま公爵位を継承する可能性もあった。
それもまた、ミリーにとっては大きな壁だったのだろう。
自分のような過去を持つ女が、ケルン公爵夫人になってよいのか。
だが、もうその心配はいらない。
正式なケルン公爵は、マリーになった。
「姉上は……それでも拒んだのですか」
「最後までね」
「……まったく」
ホフマンは小さく息を吐いた。
「最後はどうした」
「押し切ったそうよ。オー兄も今回は絶対に引かなかったって」
「そうか」
短い返事だった。
だが、その声は穏やかだった。
「それなら、よかった」
「でしょう?」
「ああ」
ルートビッヒは茶器を置いた。
「オスワルトなら、何も言うことはない」
「私もそう思います」
ホフマンも頷いた。
「姉上には、幸せになっていただきたいですから」
「なるわよ。相手はオー兄なんだから」
マリーは当然のように言った。
ルートビッヒにも異論はない。
ミリーが幸せになる。
それだけで、十分だった。




