第2話 ルートビッヒの憂鬱(中)
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婚儀の話が一段落すると、三人はしばらく取り留めのない話をしていた。
やがてマリーが、ルートビッヒの机の上へ視線を向ける。
積み上げられた書類は、先ほどからほとんど減っていない。
「それにしても、相変わらず多いわね」
「減らん」
「次席宰相なんて、なるものじゃないわね」
「俺もそう思う」
「辞めれば?」
「辞められるならな」
ルートビッヒは新しい書類を一枚取り上げ、ざっと目を通すと脇へ置いた。
「即位された直後は、まだよかった」
「陛下?」
「ああ」
マリーも少し表情を改める。
現皇帝フィリップ=ハイマン。
ルートビッヒ自身が継承戦争で支援し、帝位につけた男である。
「仕事をする意欲はある。政務を臣下へ丸投げするわけでもない。それ自体は悪くない」
「なら、何が問題なの?」
「最近は、何をするにも『祖父を超える』だ」
ルートビッヒの声には、明らかな疲れが混じっていた。
「軍を増やす。祖父を超えるため。新しい政策を始める。祖父を超えるため。宮廷を大きくする。祖父を超えるため」
「カール=ハインツ陛下を、ずいぶん意識されているのね」
「意識するだけならいい。最近は、それ自体が目的になり始めている」
カール=ハインツ=ハイマン。
征服王。
二十歳で帝位につき、七十年以上にわたってレミーラを治めた大皇帝である。
小国が乱立していた地域を次々と併呑し、皇帝権を強化して、レミーラを大陸有数の国家へ押し上げた。その功績だけを見れば、偉大な皇帝だったことに疑いはない。
だが、ルートビッヒはその名を聞いても、無条件に敬意を抱くことはなかった。
「カール=ハインツが偉大だったことは認める」
ルートビッヒは言った。
「領土を広げ、帝国を強くした。それを否定するつもりはない。だが、そのためにどれだけの金を使った」
軍事費は膨れ上がり、後宮も肥大化した。晩年には財政が悪化し、その負担は民や地方貴族へ押しつけられていった。
「俺の家も、それで潰れた」
マリーは何も言わなかった。
ホフマンも黙っている。
「軍事費を賄うために税を増やした。後宮の維持にも金を使った。その結果がどうなったのか、俺はよく知っている」
ルートビッヒは一度、目を閉じた。
「お姉様が、自分を売った」
ほんの短い言葉だった。
「俺たちを生かすためにな」
それ以上は語らなかった。
マリーも、何も聞かなかった。
「陛下が祖父を目標にすること自体を止めるつもりはない」
ルートビッヒは続ける。
「だが、失敗まで真似るなと言っている」
「それ以外にも、何かあるの?」
「ああ。政策にも失敗が目立ち始めている」
ルートビッヒは、机の端に積まれた書類を指で叩いた。
「物価を抑えようとしたところまではいい。戦後の物価高に苦しんでいる者がいるのも事実だ」
「でも、やりすぎた?」
「そうだ」
政府は市場への介入を強め、通貨と信用を締めつけ、物価を強引に押し下げようとした。
確かに、価格そのものは下がった。
だが、その代償はすぐに表れた。
商人は仕入れを控え、工房は生産を減らし、人々も金を使わなくなった。物はあっても売れず、仕事が減り、賃金も下がる。
皇都を中心に、経済が急速に冷え込み始めていた。
「物価を下げることと、経済を止めることは違う」
ルートビッヒは言った。
「今は深刻な物価下落と景気後退が同時に進んでいる。修正を進言しているが、陛下は一度決めた政策を変えることを、自分の失敗を認めることだと思っておられる節がある」
「それは厄介ね」
「ああ」
そこでホフマンが静かに口を開いた。
「以前でしたら、もう少し周囲の意見にも耳を傾けておられたのですが」
「リシュリー殿が生きておられれば、また違ったのかもしれんがな」
先帝の時代から長く帝国を支え、フィリップにとっては幼い頃からの守り役でもあった主席宰相リシュリー。
その男は、継承戦争の最中に死んだ。
そして現在、その後を継いで主席宰相の座にあるのがフルーリーだった。
「フルーリー殿が主席宰相になってからは、陛下をいささか甘やかしすぎる」
「フルーリー殿は止めないの?」
「止めることもある。だが最後には、陛下の望む形へ収めることが多い」
ルートビッヒは苦い顔をした。
「皇帝を立てることと、好きにさせることは違う」
「あなたとは合わなそうね」
「向こうも同じことを思っているだろう」
マリーは茶器を手にしたまま、しばらく考えていた。
「……それでかもしれないわね」
「何がだ」
「陛下の評判。かなり落ちてるわよ」
ルートビッヒがマリーを見る。
「ケルンでも聞くし、皇都へ来る途中でも聞いたわ。特に商人はひどいものよ。物が売れない。仕事が減った。陛下はいったい何を考えているんだ、って」
「そうか」
「そうか、じゃないわよ」
マリーは呆れたように続ける。
「その一方で、あなたの評判はずいぶんいい」
「俺の?」
「ええ」
第三次コスタ戦役で東部辺境軍を率いた将。
継承戦争を終わらせた立役者。
そして現在は帝国次席宰相として、軍政と財政の立て直しに奔走している男。
もちろん、民衆が宮廷内部の事情まで知っているわけではない。
それでも、うまくいったことにはルートビッヒの名が挙がり、失敗した政策にはフィリップの名が挙がる。
そんな空気が、帝国内に少しずつ生まれていた。
「皇都でも聞いたわよ」
マリーは言った。
「『ルートビッヒ殿下なら何とかしてくれる』って」
ルートビッヒは露骨に嫌そうな顔をした。
「俺の評価が上がっても何にもならん」
「そういう問題じゃないでしょう」
「俺は皇帝ではない。帝国を治めるのは陛下だ」
「でも、民はそんなふうに綺麗に分けて見てくれないわよ」
「困ったものだ」
ルートビッヒは、本気でそう思っているようだった。
そこでホフマンが静かに口を開く。
「ルートビッヒ様」
「何だ」
「陛下も、その評判についてはご存じかと思います」
ルートビッヒの視線がホフマンへ向いた。
「知っているのか」
「少なくとも、耳には入っているでしょう」
「……余計に面倒だな」
マリーが眉を上げる。
「気にされてる?」
「さあな」
ルートビッヒは茶を口にした。
「陛下が俺と競ってどうする」
そこには、対抗心など欠片もない。
だからこそ、事態は面倒だった。
ルートビッヒ本人が望むと望まざるとにかかわらず、帝国内では少しずつ二人が比較され始めている。
「それで今度は後宮だ」
ルートビッヒが話を戻した。
「ああ……」
マリーの顔に、露骨に嫌そうな色が浮かぶ。
「ようやく整理したんだぞ」
カール=ハインツの長い治世で膨れ上がった後宮には、女たちだけが暮らしているわけではない。
侍女、料理人、警護兵、医師、衣装を整える者、雑務を担う者。
一人の女を囲えば、その何倍もの人員と金が動く。
「ようやく人数を減らした。余分な建物も閉じた。人員も配置し直した」
「大変だったでしょうね」
「大変だった」
ルートビッヒは即答した。
「それを、また増やすと言い出している」
「……何で?」
「女遊びが過ぎる」
「ああ」
「国庫は火の車だというのに」
長年の戦争、中央軍と辺境軍の維持、荒廃した地域の復興、道路や橋、城塞の修繕。
必要な支出はいくらでもある。
しかも今は経済まで冷え込み、税収にも不安が出始めていた。東部辺境軍ですら、次年度の予算をどこまで抑えるか検討している最中である。
「陛下には三度ほどお諫めしています」
ホフマンが言った。
「三度?」
マリーが聞き返す。
「はい」
「それで?」
「四度目を、いつ申し上げるか考えているところです」
「……大変ね」
「ああ」
ルートビッヒは深く息を吐いた。
「しかも最近は、反対意見をあまり聞かなくなってきた」
「即位前は、そんな人だった?」
「いや」
ルートビッヒは首を振る。
「有能とまではいかんが、少なくとも人の話は聞いた」
「皇帝になって変わった?」
「そう見える」
自分は皇帝である。
自分こそが帝国を動かす。
その意識が、少しずつ強くなっているのだろう。
もちろん、それ自体は皇帝として必要なものなのかもしれない。
だが、一線を越えれば専横になる。
「陛下は祖父を超えたいのだろう」
ルートビッヒは言った。
「ならば、祖父ができなかったことをすればいい」
マリーがルートビッヒを見る。
「祖父が残した失敗を繰り返して、それで何を超えたというんだ」
「本人には言ったの?」
「似たようなことはな」
「怒った?」
「怒った」
「でしょうね」
マリーは茶を飲んだ。
「あなたも大変ね」
「まったくだ」
ルートビッヒは机の上の書類へ視線を落とした。
「帝国はいろんなところが軋んでいる」
軍。
財政。
経済。
皇室。
中央と地方。
長い年月をかけて領土を広げ続けてきた巨大な帝国の内部には、いくつもの歪みが残されている。
「治さねばならない」
ルートビッヒは静かに言った。
「道は険しいがな」
マリーはしばらく彼を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「まあ、あなたなら何とかするでしょう」
「随分簡単に言うな」
「だって私、東部辺境領だけでも手一杯だもの。帝都まで面倒見られないわ」
「期待していない」
「それも失礼ね」
「事実だ」
「はいはい」
少しだけ空気が緩んだ。
重い話が続きすぎたことを、ルートビッヒ自身も感じていたのかもしれない。
茶器を手に取り、ふと思い出したようにマリーを見る。
「それから、マリー」
「何?」
「お前のところに、婚儀の話は来るか?」
マリーの手が止まった。
「……なくはないわよ」
それまで帝国の行く末を話していた二人の会話は、そこでまったく別の方向へ転がり始めた。




