第7話 セイレンは元気です
279年3月。
ニューアーク大学では四年生の前期試験が終わり、学生たちも束の間の休息に入っていた。
「……おかしい」
リック=リズナーは、自分の部屋の中央に立って腕を組んだ。
半年ほど前まで、この部屋にはもう一人住人がいた。
レン=サカキ。
レンがセイレンへ戻ったことで、ベッド一つ、机一つ、棚一つ分の空間が丸々空いた。本来なら以前よりずっと広くなっているはずである。
ところが、どう見ても狭い。
窓際には見覚えのない鞄が二つ。棚の半分には女性物の衣服が収まり、その横には小瓶や化粧道具が並んでいる。机の端には政治思想の本と大学の教科書、その上には髪留めまで転がっていた。
「何が?」
ベッドに寝転がりながら本を読んでいたジェイが顔を上げた。
腰まで伸びた黒髪が、ベッドの上に広がっている。
「レンがいなくなったんだから、部屋は広くなったはずなんだ」
「そうね」
「前より狭いんだけど」
「気のせいじゃない?」
「きみの荷物が増えてるんだよ」
ジェイは本を閉じ、部屋を見回した。
「そう?」
「そうだよ」
「必要なものしか持ってきてないわよ」
「だったら自分の部屋に置けばいいじゃないか」
「こっちにいる時間のほうが長いんだから、こっちに置いたほうが便利でしょ」
「ここ、ぼくの部屋なんだけど」
「知ってる」
「じゃあ何でこんなことになってるの?」
「恋人の部屋なんだからいいでしょ」
ジェイは平然としている。
リックは何か言おうとして、結局やめた。
実際、ジェイがこの部屋にいること自体には、もう何の違和感もなかった。
授業が終われば来る。
食事も一緒。
調べ物をするときも一緒。
気づけば服が増え、本が増え、日用品まで増えていた。
レンがいなくなって空いた場所を、ジェイが当然のように埋めている。
「……まあ、いいけど」
「じゃあ最初から言わないの」
「一応言っておかないと、本当に全部きみのものになりそうだから」
「細かい男ね、リク君」
「ぼくの部屋なんだけどな……」
リックは苦笑しながら机へ向かった。
――半年前。
そもそも、自分がニューアークへ戻ってきたこと自体、一時は考えられなかった。
278年9月。
姉さまが死んだ。
セイレンへ戻ったリックが見たのは、市長を失った故郷だった。
姉さまを慕って各都市から集まっていた人々の多くも、それぞれの故郷へ帰っていくことになった。
カール=マルテルをはじめ、市政の中枢を担っていた人材が一気にいなくなる。
ユナも残っている。
町がこれからどうなるのかさえ分からない。
そんな状況で、自分だけゼルキアへ戻って大学生活を続けていいのか。
リックにはどうしてもそうは思えなかった。
だからジャン=ワイズマンに言った。
『ぼく、セイレンに残ろうと思う』
『駄目だ』
即答だった。
『でも今のセイレンは人が足りない。ぼくにだって何か――』
『お前はゼルキアへ戻れ』
『ジャンさん』
『今だからこそだ』
ジャンは机の上に広げていた地図へ視線を落とした。
セイレンだけではない。
ゼルキア、セントハイム、パドゥーラ。そして都市同盟に加盟する大小の都市。
『ユマの夢は必ず実現する』
リックは顔を上げた。
慰めではなかった。
死んだ姉さまの夢を懐かしんでいるのでもない。
実現する。
ジャンはそう言い切った。
『そのためにはゼルキアに信用できる人間が必要なんだ』
『ぼく?』
『そうだ』
ジャンはゼルキアを指で叩いた。
『俺たちはゼルキアを知らなさすぎる。新聞の記事や政治家の演説じゃない。今のゼルキア人が何を考えているのか知りたい』
ジャンは一つずつ数えるように続けた。
『学生は何を考えている。商人は何を恐れている。市民は何に不満を持っている。何を望んで、どんな連中を支持している。今のゼルキアそのものを見てこい』
『それを、ぼくが?』
『大学へ戻れ。勉強しろ。人と会え。話を聞け。そして俺に教えろ』
『……それが役に立つの?』
『役に立たせるのが俺の仕事だ』
相変わらずだった。
できるかどうかを考えてから動くのではない。
やると決めてから、どうやればできるのかを考える。
ただ、そのジャンも姉さまが死んでからは、長い間動けずにいた。
仕事だけはしていた。
セイレンを支え、ロンド商会を回し、目の前にあるものを処理していた。
それでも、新しいことには手をつけなかった。
そんなジャンが、ようやく先の話をしていた。
姉さまの夢は終わっていない。
ジャンも、前へ進もうとしている。
『分かった』
リックは頷いた。
『ぼく、戻るよ』
『頼む』
『私もやる』
横から声がした。
リックとジャンが同時に振り向く。
そこにジェイがいた。
それまで黙って二人の話を聞いていたのである。
『何をだ?』
『手伝うって言ってるの』
ジャンが眉を上げた。
『お前が?』
『悪い?』
『いや』
『ゼルキア人が何を考えてるのか知りたいんでしょ。だったら、ゼルキア人の私がいたほうがいいじゃない』
以前のジェイなら、もっと勢いだけで言っていたかもしれない。
パドゥーラへ行ってから、少し変わった。
過激なのは変わらない。
口も悪い。
気に入らないものには今でも真正面から噛みつく。
ただ、動く前に考えるようになった。
『私、パドゥーラで見たから』
ジェイは言った。
『壊すだけじゃ、何にもならないって。壊した後に何を作るのかまで考えなきゃ駄目なんでしょ』
そして、まっすぐジャンを見た。
『ユマさんの夢を実現するのに役に立てるなら、私もやる』
ジャンはしばらくジェイを見てから、リックへ顔を向けた。
『信用できるのか?』
『できるよ』
リックは迷わなかった。
ジェイが一瞬こちらを見る。
だが、何も言わずに顔を逸らした。
それから半年。
二人はニューアークへ戻り、大学生活を続けながらゼルキアを見て回ってきた。
新聞を読む。
学生集会へ行く。
酒場で話を聞く。
市場へ行き、商人と話す。
政治集会があれば覗きに行き、大学では学生たちの議論にも耳を傾けた。
最初は調査のつもりだった。
ただ、一緒に街を歩き、一緒に食事をして、一緒に帰るうちに、それが調査なのかデートなのか、二人ともあまり区別しなくなった。
ジェイも最近は授業に真面目に出ている。
以前とは違い、教科書にはちゃんと書き込みがあり、講義のノートも取っている。
本人は、
『前から必要な授業には出てたわよ』
と言い張っているが、リックの記憶とはかなり違っていた。
「リク君」
「ん?」
「手紙」
現実へ戻る。
ジェイが、扉の下から差し込まれていた封筒を拾い上げていた。
差出人を見る。
「ユナだ」
「見せて」
リックが封を切るより早く、ジェイが後ろへ回る。
そして何のためらいもなくリックの背中に抱きつき、そのまま肩越しに便箋を覗き込んできた。
「きみ、自分で読めばいいじゃないか」
「リク君が読めば一緒に読めるでしょ」
「近いよ」
「今さら?」
「……まあ、そうだけど」
リックは便箋を広げた。
見慣れたユナの字だった。
『リックへ。
前期試験が終わる頃でしょうか。
セイレンは元気です。
姉さまがいなくなってから、もう半年になります。
ジャンが残ってくれるといったものの、最初は本当にどうなるんだろうと思いました。
カールさんたち、姉さまを慕って他の都市から来ていた人たちもほとんど帰ってしまって、市役所は人が全然足りなくなりました。
でもロンド商会から、会計や商業、それから事務ができる人たちを何人も出向させてもらっています。
そのおかげで、市政は今のところ安定しています。
それ以上に驚いているのは、セイレンのみんなです。
市役所で働きたいという人も増えました。
商人の人たちも協力してくれています。
市民のみんなも、前より町のことを自分たちでやろうとしてくれています。
姉さまがいた頃より忙しいはずなのに、不思議なくらい町に勢いがあります。
姉さまがいなくなったから終わりじゃない。
たぶん、みんな同じことを考えているんだと思います』
リックの目が、そこで止まった。
背中にいたジェイも黙っている。
半年。
まだ半年しか経っていない。
姉さまが死んだことを受け入れられたわけではない。
セイレンのみんなだって、きっと同じだった。
それでも町は動いている。
いや。
姉さまがいなくなったからこそ、自分たちが動かなければならないと考えているのかもしれない。
リックは続きを読んだ。
『パドゥーラとの正式な取引も始まりました。
食料品がたくさん入ってくるようになったので、麦や野菜を中心に物価がかなり下がっています。
逆にセイレンの商品もパドゥーラでよく売れているそうです。
最近は商人の人たちもすごく元気です。
ジャンは「取引は片方だけが儲かっても続かない」って言っています。
今のところ、セイレンもパドゥーラも両方得をしているみたいです』
「パドゥーラとの交易、順調なんだ」
ジェイが呟いた。
「そうみたいだね」
「また行きたいなあの町に」
「調査に?」
「もちろん」
「遊びたいって顔してるけど」
「両方でいいじゃない」
「それはそうだね」
ジェイが満足そうに笑った。
リックは続きを読む。
『それから、ロンド商会はゼルキアへ進出するための準備を始めています。
まだ実際に動くのは少し先みたいです。
ジャンも、この半年は新しいことをする余裕がなかったから。
でも最近になって、
「そろそろ反撃を始める」
と言うようになりました。
何に反撃するのか聞いたけど、教えてくれませんでした。
借金に対する反撃ではないと思います。
借金は確実に増えています』
「……増えてるんだ」
リックは思わず呟いた。
背中でジェイが笑った。
『あと、エミールさんに何か書かせています。
新しい同盟についての政治パンフレットみたいです。
ジャンに何に使うのか聞いたら、
「そのうち分かる」
としか言いませんでした。
さすがに私にも何を考えているのか分かりません。
エミールさんは、純愛小説じゃなければ本当に文章が上手いです。
本人に言ったら怒りました。
そういえば、この前、私とジャンのことも純愛小説にしてって頼んでみました。
そうしたら、
「あなた方では売れません」
と言われました。
売れない純愛小説ばっかり書いてるくせに、へぼのくせに失礼だと思います。
ジャンは横で笑っていました。
もっと失礼です』
「……相変わらずだなあ」
「何が?」
「みんな」
「でも何で売れないの?」
「ぼくに聞かれても」
「普通に好き同士なんでしょ?」
「そうだと思うけど」
「じゃあいいじゃない」
「エミールさんには何か別の基準があるんじゃない?」
「面倒くさそう」
「たぶんね」
ジェイがさらに体を寄せてきた。
柔らかなものが、リックの背中に押し当てられる。
「……きみ」
「なに、リク君?」
「胸が……」
ジェイの動きがぴたりと止まった。
「……なによ」
リックも黙った。
何というか。
感触が妙だった。
「…………」
「…………」
そして気づいた。
「……パッドだった」
「ムカつく!」
後頭部を叩かれた。
「痛っ!」
「なんで分かるのよ!」
「分かるよ! こんなに押しつけられたら!」
「押しつけてない!」
「きみが後ろから抱きついてきたんじゃないか!」
「恋人なんだから抱きつくくらいいいでしょ!」
「そこは何も言ってないよ!」
「じゃあ胸のことも言わないで!」
「ぼくが悪いの!?」
「今のはリク君が悪い!」
「理不尽だよ……」
ジェイは頬を真っ赤にして胸元を押さえた。
「……ほんとムカつく」
「ぼく、何もしてないんだけど」
「うるさい」
そう言いながらも、離れようとはしない。
今度は少しだけ位置をずらして、再び肩越しに手紙を見る。
「続き」
「まだあるね」
残っているのは最後の数行だった。
『それと最後に、私事です。
ついにジャンを婚約させることに成功しました』
「…………」
リックは瞬きをした。
もう一度読む。
『ついにジャンを婚約させることに成功しました』
「えええええっ!?」
「うるさっ!」
ジェイが耳を押さえた。
「なに、リク君!?」
「ユナが……ジャンと婚約した!」
「え?」
ジェイが身を乗り出す。
そして数秒。
「……あの二人って婚約者とかじゃなかったの?」
「違うよ」
「嘘」
「本当」
「だってお姉さん、裸でジャンさんに抱きしめられてたじゃない」
「あれはユナが勘違いしたから!」
「何をどう勘違いしたらそうなるのよ」
「ぼくに聞かないでよ!きみだってジャンを査問したじゃないか」
リックは慌てて続きを読む。
『方法は姉さまを参考にしました。
ジャンが仕事で疲れ果てている時に、婚約契約書を他の書類に混ぜて、
「はいこれ。ジャンのサイン」
って渡しました。
普通に書いてくれました。
あとで気づいて、
「おい、これは何だ」
って言われました。
婚約契約書だよって言ったら怒られました。
でも、本気で嫌がっているわけではないのは分かっていたので、
「ジャン、嫌なの?」
って聞いて、上目遣いでちょっと泣きそうな顔をしてみました。
そうしたら、
「……分かった」
って言ってくれました。
チョロいです。
そのあとすぐ普通の顔に戻ったら、
「お前、今の演技だろ!」
ってまた怒られました。
たぶんばれました。
でも婚約はそのままです。
ジャンは放っておくと仕事ばかりして何も進めないので、これくらいしないと駄目だと思います』
「…………」
リックは長い沈黙の後、天井を見上げた。
「姉さまのやり方、そこを受け継ぐんだ……」
「いいじゃない」
ジェイはあっさり言った。
「いいの?」
「ジャンさんも嫌じゃないんでしょ?」
「まあ……そうみたいだけど」
「だったらいいでしょ。こういう面倒くさい男は女が進めないと、ずっと仕事してるわよ」
「きみ、ユナの味方なんだ」
「当然」
「なんで?」
「女だから」
「その理屈は分からないなあ」
ジェイはもう一度手紙を眺め、それから少し笑った。
「でも、良かったね」
「うん」
今度はリックも素直に頷いた。
本当に良かったと思う。
半年。
何もなかったことにはなっていない。
姉さまの死が消えることもない。
ジャンも、ユナも、セイレンのみんなも、きっとまだ痛みを抱えている。
それでも町は前へ進み始めた。
市民が立ち上がった。
パドゥーラとの交易も始まった。
ジャンはゼルキアへ向けて動き始めている。
エミールは、何に使うのか分からない政治パンフレットを書いている。
そしてユナは、面倒くさい男をとうとう婚約者にした。
止まったままではない。
姉さまが作ろうとしたものは、姉さまがいなくなっても生きている。
「リク君」
「ん?」
「返事書くんでしょ?」
「うん」
「私も書く」
「いいけど、変なこと書かないでよ」
「書かないわよ」
ジェイがさっそく机へ向かい、勝手にペンを取る。
「何を書くつもり?」
「ご婚約おめでとうございます」
「普通だね」
「失礼ね」
ジェイは少し考えた。
「それと、今度は服を着たまま進めてくださいって」
「駄目!」
リックが慌ててペンを取り上げる。
「何よ!」
「絶対駄目!」
「冗談よ!」
「きみの冗談は信用できないよ!」
「返してよ、リク君!」
「嫌だ!」
リックがペンを高く掲げる。
身長の低いジェイが飛びつき、そのまま二人で騒ぎ始めた。
窓の外には、まだ冬の名残を残した冷たい風が吹いていた。
それでも季節は、確実に春へ向かっている。
セイレンも。
ジャンも。
そして、ニューアークにいる二人も。
姉さまの残した夢もまた、ゆっくりと次の季節へ向かって動き始めていた。




