第8話 セントハイムへ
アーネム大陸セントハイム地方図
第8話
◇
「しかし――」
ジャンは寝台の上で身体を起こしたまま、ユマを見た。
「どうやって俺を買ったんだ」
死刑判決を受けた人間を、刑の執行直前に連れ出したのだ。
金を積んだ。
それだけで済む話とは思えない。
ところがユマは、さも当然のように肩をすくめた。
「ゼルキアって便利よねぇ」
「何がだ」
「お金さえあれば、なんだって買えるんだから」
「…………」
ジャンは黙った。
否定できなかった。
「まあ、いろいろとルートがあんのよ」
ユマは軽い調子で続ける。
「ただ、今回はちょっと面倒だったかな」
「面倒?」
「グリフィスがだいぶごねてね。あいつ、本当にあんたに消えてもらいたかったみたいよ」
ジャンの表情から、わずかに笑みが消えた。
「刑の執行日まで短縮するわ、こっちが話を持っていってもなかなか首を縦に振らないわ。結構大変だったんだから」
「……そうか」
「だから条件を付けた」
ユマが指を一本立てる。
「まず、ロスバルトはレンヌで起きたことについて何も知らない」
もう一本。
「当然、誰かに話すこともない」
三本目。
「それから、グリフィスが今回失った財産の一部について、こっちから保証金を出す」
そして最後に、ジャンを指差した。
「まあ、こんなところで納得させたわ」
「…………」
「ああ、それとあんた」
「俺?」
「ゼルキア市民権剥奪」
「……ああ」
「ついでに、あんたは今後ゼルキア市への立ち入りも禁止。これも条件」
ジャンはしばらく何も言わなかった。
故郷へ帰れない。
もう、自分はゼルキア市民ですらない。
改めて言葉にされれば、胸に来るものがないわけではない。
だが。
生きている。
それだけで十分だった。
「そのせいで、まあ――」
ユマが妙な間を置いた。
「値段も上がった」
「上がった」
隣で聞いていたユナが、おかしそうに笑った。
「……人を商品みたいに言うな」
ジャンはため息をつく。
それから、ユマを見た。
「すまなかったな」
「ん?」
「助けてもらった」
「ああ」
ユマはちらりと横を見る。
「まあ、礼なら二人に言いな」
「二人?」
「あんたの刑が決まってから、泣きついてきて大変だったんだから」
ジャンが視線を向ける。
そこにはユナとリックがいた。
「犬や猫じゃないんだから、そう簡単に拾ってこれないって言っても聞かないし」
「姉さま!」
「だって本当でしょ」
ユナが頬を膨らませる。
リックも少し気まずそうに視線を逸らした。
ジャンは二人を見つめた。
処刑を待っていた夜。
もう二度と会えないと思っていた二人だった。
「……そうか」
それ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。
ユナが笑う。
リックも小さく笑った。
ジャンも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「さて」
ユマが手を叩いた。
「まあ、それはいいとして」
妙に明るい声だった。
「ジャン。今、名前書ける?」
「名前?」
「そう。意識ある?」
「見ればわかるだろ」
「じゃあ元気ね。ここに名前書いて」
紙とペンを差し出される。
ジャンは訝しみながら受け取った。
「ここか?」
「そうそう」
「ああ」
さらさらと名前を書く。
ジャン=ワイズマン。
長年書き慣れた自分の名前だった。
ユマは紙を受け取ると、感心したように眺めた。
「へえ。さすが元官僚。綺麗な字だね。」
「元を付けるな。」
「じゃ、契約成立っと。」
「…………」
ジャンの動きが止まった。
「今、なんと言った?」
「契約成立。」
「契約?」
ユマが紙を折ろうとする。
「待て」
「何?」
「なんだその紙。見せろ。」
「あっ」
「見せろ!」
ジャンはユマから紙を奪い取った。
そして読む。
一行。
二行。
三行。
読み進めるにつれて、ジャンの顔から血の気が引いていった。
「…………おい。」
「何?」
「なんだ、これは。」
「借用書と労働契約書。」
「それは読めばわかる!」
ジャンが紙を突きつける。
「なんで俺がこんなものに署名している!」
ユマはきょとんとした。
「誰がただで助けたなんて言った?」
「は?」
「身代金の肩代わりをしてもらったんだから、その返済は当たり前でしょ?」
「待て待て待て!」
ジャンはもう一度金額を見る。
「にしても、この金額はなんだ。レンヌでおまえらに払っていた報酬くらいあるじぇねえか。」
「評価高いでしょ、あんた。」
「そんな評価、喜べるか!」
「大丈夫よ。労働契約上の給与は主席様にふさわしく中央官僚以上に出してるわよ。」
ユマがにっこり笑った。
「大昇給。気前がいいでしょ?」
「俺はまだ働くとも言ってない!」
「働かないでどうやって返すの?」
「そもそも――」
ジャンの目が、借用書のある一文で止まった。
「……おい」
「今度は何?」
「元本返済だけじゃないのか」
「もちろん」
「金利付き……だと?」
「うん」
ジャンはさらに読む。
そして絶句した。
「…………複利」
ユマの顔が輝いた。
「私、複利って大好き」
「…………」
「どんどん増えていく」
ユマは楽しそうに両手を広げた。
「金利のシステムを考えたゼルキア人って素敵よね。」
「それはセントハイム人だ!」
ジャンが叫んだ。
「ゼルキア人はそんなアコギなことはしない!」
ジャンは借用書を握り締める。
「認めん」
「何を?」
「裁判を要求する」
「いいよ」
あまりにもあっさり返され、ジャンが一瞬黙る。
「……いいのか?」
「うん。どこでやる?」
「どこって――」
「あんた、ゼルキア市民権ないけど。」
「…………」
「被裁判権も消滅してるけど?セイレンでやる?私が市長だけど。」
「…………」
ジャンの口が震えた。
だが、ニューアーク大学主席はまだ死なない。
「心神喪失状態で締結された契約は無効だ!」
びしりとユマを指差す。
「俺は死刑執行直前に連れ出され、長時間の拘束と精神的苦痛を受けた直後だ! 正常な判断能力を欠いていたことは明白――」
「こんなに元気なのに?」
ユマが笑った。
「…………」
「さっきから私に怒鳴りっぱなしじゃない」
「姉さま酷い」
ユナがとうとう口を挟んだ。
「ユナ」
「なに?」
「俺もそう思う」
「でしょ?」
「ちょっと、二人とも」
「リック」
「ぼくに振らないでよ」
リックは即座に逃げた。
ジャンは再び借用書を見る。
そこには間違いなく自分の署名がある。
ジャン=ワイズマン。
見事な筆跡だった。
ニューアーク大学主席。
元ゼルキア中央官僚。
そして現在――。
無国籍。
無職。
多額の借金持ち。
「…………」
死刑は免れた。
どうやら人生までは助からなかったらしい。
◇
数日後。
ロスバルトはセントハイムへ向けて街道を進んでいた。
ゼルキアを離れてから、すでに何日かが過ぎている。
日が暮れると、一行は街道沿いに野営地を設けた。
焚き火がいくつも並び、鍋から湯気が立ちのぼっている。
兵士たちは思い思いに食事を取り、武具を手入れし、あるいは仲間と話していた。
その一角。
ジャンは焚き火の前に座っていた。
向かいにはユマ。
その隣にはユナとリックがいる。
ジャンはしばらく黙って火を眺めていたが、やがて口を開いた。
「で」
「ん?」
「当面、俺は何をすればいい?」
ユマがジャンを見る。
「家庭教師」
「家庭教師」
ユナとリックが揃って笑った。
「…………家庭教師?」
ジャンは二人を見る。
それからユマを見る。
「誰のだ」
「見ればわかるでしょ」
ユマが隣の二人を指差した。
「ユナとリックの」
「俺が?」
「あんたが」
「なぜ」
「あんた、知識だけは一流だから」
「待て」
ジャンの眉が動いた。
「知識だけとはなんだ。俺はニューアーク大学を首席で――」
「まあ、それはいいとして」
「よくない!」
ユマは綺麗に無視した。
「あんたもご存知の通り、この子たちは市長の血縁者なの。勉強はしなきゃいけない。もちろん基礎的なことは習得させたけど、高等教育を受けた専門家がいるんだから使わないともったいないでしょ」
「俺は教材か何かか」
「そんな高等なもんじゃないよ。ただの借金持ち」
「…………」
「それに二人とも、そろそろ難しいことを勉強させたいと思ってたし」
ユナが笑いながらジャンを見る。
「よろしくね、先生」
「先生」
リックまで続いた。
「…………」
ジャンは額を押さえた。
ついこの間まで中央官僚だったはずなのだが。
「それだけじゃないわよ」
「まだあるのか」
「隊員たちへの講義」
「……講義?」
「読み書き、算術、法律、政治、経済。まあ、その辺ね」
ジャンが顔を上げる。
「兵士に?」
「傭兵に法律や経済が必要ないとでも?」
「そうは言っていないが……」
「ハンスなんかから要望されてるのよ」
「ハンス?」
「ほら、あんた殴った奴」
「あいつか!」
忘れるはずがない。
レンヌへ来て間もない頃。
食堂でユマを馬鹿にした結果、見事に殴り飛ばしてくれた男である。
「なんであいつが俺の講義を聞きたがるんだ」
「面白かったんだって」
「殴っておいてか?」
「殴ったことと、あんたの話が面白かったことは別でしょ」
「どういう理屈だ……」
「ほかにも聞きたいって奴が結構いるのよ。レンヌにいる間、あんた食堂でいろんな奴と話してたでしょ。」
ジャンは黙った。
確かに話していた。
税制。
物価。
都市ごとの産業。
傭兵という職業の経済的意味。
最初は無学な傭兵相手に何を話しているのだと思っていた。
ところが意外にも質問は返ってきた。
中には、ジャンが説明に困るほど現実に即した質問を投げてくる者までいた。
「……なるほどな」
「だから、移動中は二人の家庭教師。それと夜営地で希望者に講義」
ユマは指を折って数える。
「セイレンまではあと二十日以上はかかるから、暇でしょ?」
「俺はまだ病み上がりみたいなものだぞ」
「そうね。さっき靴擦れしたわね」
「…………」
「まあ、本来業務ではないから追加の手当ては出すわよ」
ジャンの目がわずかに動いた。
「いくらだ」
「食いついた」
「食いついた」
ユナまで真似する。
「うるさい。俺には借金があるんだ!」
「誰から借りたの?」
「おまえだよ!」
ユナとリックが堪えきれずに笑う。
ユマは満足そうに頷いた。
「じゃ、決まりね」
「待て。まだ追加の手当てを聞いていない」
「ちゃんと払うって」
「具体的な金額を言え」
「細かい男ねぇ」
「おまえとの金銭契約で細かくならない奴は破産する!」
「失礼ね」
「複利で身代金を貸し付ける奴が言うな!」
野営地にジャンの声が響いた。
近くにいたロスバルトの兵士たちが何事かと振り返る。
その中に、見覚えのある顔があった。
ハンス=ベッカーだった。
「おっ、先生!」
「誰が先生だ!」
「講義、明日からか?」
「…………」
ジャンはユマを見る。
ユマは笑っている。
ユナも笑っている。
リックまで笑っている。
逃げ場はなかった。
「……わかった」
ジャンは大きく息を吐いた。
「やればいいんだろう。やれば」
「よろしくね、先生」
ユナがもう一度言った。
「よろしく、先生」
リックも続く。
「おう、よろしくな先生!」
ハンスまで乗ってくる。
「おまえら……」
ジャンは頭を抱えた。
ニューアーク大学主席。
元ゼルキア中央官僚。
死刑囚を経て――。
今度は家庭教師になった。
しかも、生徒は十二歳の双子と傭兵たちである。
幼いころからジャン=ワイズマンが想像していた華々しい人生は、どうやらずいぶん妙な方向へ進み始めていた。
◇
それからしばらくして、一行はセントハイムへ到着した。
翌朝。
「じゃ、私たちはこれからセントハイム庁舎に行ってくるから」
宿の玄関で、ユマはそう言った。
すでに外出の支度を整え、その隣にはトウヤが立っている。
ジャンは椅子に腰掛けたまま二人を見た。
「出頭か」
「人聞き悪いわね」
「出頭要請を受けたんだろ」
「まあね」
ユマは面倒そうに頭を掻いた。
「レンヌから帰ってきたと思ったら、ゼルキアであれだけ派手にやったでしょ。説明しろってさ」
「大変だな」
「セイレンの宗主国様だからねぇ」
その言葉には、わずかに棘があった。
「団長の私から直接説明しないとならないことが、たくさんあんのよ。まあ、罰するとかそういう類ではないわね。話を聞いてゼルキアの失敗を嘲り笑いたいだけ。」
「なるほどな」
「たぶん一日潰れるから、今日は休み。あんたたちも好きにしてていいよ」
ユナの顔が明るくなった。
「ほんと?」
「変なところ行かないでよ」
「行かないよ」
「リックも」
「わかってる」
ユマは最後にジャンを見る。
「先生、二人よろしく」
「待て」
「何?」
「なんで俺が引率なんだ」
「家庭教師でしょ?」
「授業時間外だ」
「細かいなぁ。労働時間外でもあるから追加手当支給。それでいいでしょ。」
「よくない。」
「じゃ、よろしく」
「おい!」
ジャンの抗議を無視して、ユマはトウヤとともに宿を出ていった。
◇
「なかなかの町だな」
ジャンは素直に感想を口にした。
セントハイムの大通り。
左右には石造りの建物が立ち並び、その一階には商店が軒を連ねている。
布。
陶器。
香辛料。
宝飾品。
書物。
食料品。
通りには荷車が絶えず行き交い、商人たちの呼び声が飛び交っていた。
街角では旅商人らしい一団が値段を交渉し、その向こうを仕立ての良い服を着た男女が歩いていく。
ゼルキアとはまるで違う雰囲気。
ゼルキアが質実剛健といった気風だが、ここはも少し華やかだ。
「さすが同盟第二の都市だ」
「第二?」
ユナが不思議そうにジャンを見上げた。
「同盟一じゃないの?」
「何を言ってる。第一はゼルキアだ。だから同盟本部も置かれている。」
「でも、商売ならセントハイムの方が上だって姉さま言ってたよ」
「商業だけで都市の格が決まるわけじゃない」
「そうなの?」
「人口、政治、学術、工業――総合すればゼルキアが都市同盟第一の都市だ」
「ふーん」
ユナはあまり納得していない顔だった。
「でも姉さま、セントハイムの方がお金持ちだって」
「だから商業だけならそうだと言ってるだろ」
「じゃあ、セントハイムが一番じゃない?」
「おまえは人の話を聞いているのか?」
「聞いてるよ」
ユナが笑った。
「まあいい。次の店にいこう」
三人は再び歩き出した。
しばらくすると、通りから甘い匂いが漂ってきた。
「お腹すいた」
ユナが言った。
ジャンがそちらを見る。
「おまえ、いつも腹減らしてるな」
「育ち盛りだから」
「便利な言葉だな、それ」
ユナが店先を指差す。
「あれ食べたい」
焼き上がったばかりの菓子が並んでいた。
「ジャン、おごって」
「俺が?」
「保護者でしょ?」
「家庭教師は食費まで負担しない」
「一個だけ」
「仕方ないな」
ジャンは懐に手を入れた。
「…………」
探る。
何もない。
反対側も探る。
「…………」
「どうしたの?」
「待て」
「お金ないの?」
「…………」
ジャンは黙った。
そうだった。
自分には財布がない。
そもそも刑務所から身一つで連れ出されたのだ。
財産どころか、着ている服さえロスバルトから借りたものである。
「残念」
ユナが心底残念そうに言った。
「その顔をするな!」
「だって、おごってくれるって言ったのに」
「金さえあればおごってる!」
「借金まであるもんね」
「知ってるなら言うな!」
「何やってんだ、先生?」
聞き覚えのある声がした。
三人が振り返る。
「あ」
ハンス=ベッカーだった。
今日は鎧を着ていない。
普段の軍装とも違う、ごく普通の市民と変わらない格好をしている。
しかも、その両手にはいくつかの包みがあった。
「ハンス?」
ユナが首を傾げる。
「何してるの?」
「見りゃわかるだろ。買い物だよ」
ハンスは包みを持ち上げた。
「今日は非番なんだ」
「それ、何?」
「土産」
「誰に?」
「うちのガキども」
ジャンがハンスを見る。
「おまえ、子供がいるのか?」
「あ?」
ハンスが眉を寄せた。
「いて悪いか」
「いや……」
「なんだよ、その意外そうな顔は」
「おまえが人の親だとは思わなかった」
「相変わらず失礼な野郎だな!」
「ジャン、ハンスさんにも失礼」
「俺だけ悪いのか?」
ハンスは呆れながら三人を見る。
「で、何してたんだ?」
「ジャンがお金持ってなかった」
ユナが即答した。
「言うな!」
「おごるって言ったのに」
「だから言うな!」
ハンスは一瞬きょとんとしたあと、大声で笑った。
「なんだ先生、金ねえのか!」
「笑うな」
「ニューアーク大学主席様が無一文かよ」
「いろいろあったんだよ!」
「知ってるよ」
ハンスはまだ笑っていた。
やがて店先の菓子を見る。
「しょうがねえな」
「何がだ」
「俺がおごってやるよ」
「いらん」
「なんでだよ」
「これ以上借金を増やしてたまるか」
「貸すんじゃねえよ」
ハンスは自分の拳を軽く握って見せた。
「ほら。この前の本当の慰謝料だ。レンヌの食堂の水だけじゃさすがにな。」
「あれもひどいが、お菓子だけだと安い慰謝料だな」
「じゃあいらねえな」
「待て」
「いるのかよ」
「俺はいらん。二人に買ってやってくれ」
ユナの顔がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「おう」
「やった!」
「……先生より話がわかる」
「聞こえてるぞ」
ハンスは笑った。
「菓子だけじゃなんだし、せっかくだ。飯でも食ってくか」
「いい店を知っているのか?」
「ああ」
「おまえが?」
「先生」
「なんだ」
「今の一言で慰謝料なしにしてもいいんだぞ」
「…………悪かった」
「よろしい」
◇
ハンスに案内された店は、大通りから少し外れたところにあった。
大きな窓から柔らかな光が入り、小さな丸机が整然と並んでいる。
酒場のような騒々しさはない。
客たちは茶や食事を楽しみながら、静かに会話をしていた。
ジャンは店内を見回した。
「意外だな」
「おい」
「まだ何も言ってない」
「続きがわかるんだよ」
「いい趣味の店だ」
「ほらな」
「褒めてるだろ」
「『おまえみたいな傭兵にしては』が頭についてる」
「被害妄想だ」
「相変わらず口が減らない先生だな」
四人は席についた。
しばらくして、注文した料理が運ばれてきた。
焼きたてのパン。
香草を添えた肉料理。
野菜を煮込んだスープ。
そしてユナとリックの前には、アップルパイが置かれる。
「いただきます!」
ユナが待ってましたとばかりに手を伸ばした。
「姉さん、早いよ」
そう言いながら、リックもパンをちぎる。
「おいしい!」
「ほんとだ」
二人はすっかり料理に夢中になった。
ジャンはその様子を見ながら、自分の前に置かれた茶を口にする。
「……悪くないな」
「だろ?」
ハンスが得意げに言った。
「セントハイムに来ると、だいたいここに寄る」
「ずいぶん慣れているんだな」
「そりゃな。ロスバルトにいりゃ、セントハイムには何度も来る」
「仕事でか?」
「仕事もあるし、行きにも帰りにも寄る。セイレンじゃ手に入らねえもんも多いからな」
ハンスは先ほど買った包みを軽く叩いた。
「子供への土産も?」
「そういうこと」
「何を買ったんだ」
「上の娘には髪飾り。下の坊主には図鑑だ」
「へえ」
「なんだよ」
「いや」
ジャンは少し笑った。
「本当に父親なんだなと思って」
「まだ疑ってたのかよ」
「ジャン、失礼だよ」
リンゴパイを頬張りながら、ユナが言った。
「食べながら喋るな」
「はーい」
返事だけは素直だった。
ハンスが笑う。
「しかし先生、意外と教えるの上手いよな」
「……何の話だ」
「講義だよ」
ハンスはパンをちぎった。
「結構評判いいぞ」
「そうなのか?」
ジャンは少しだけ姿勢を正した。
「なんだ。知らなかったのか」
「毎晩集まってくるから、暇を持て余しているだけだと思っていた」
「暇なのもある」
「おい」
「でも、つまらなかったら二日目から誰も来ねえよ」
「それは……まあ、そうだな」
「特に金の話は人気ある」
「経済か」
「難しい言葉は知らねえけどな」
ハンスは肩をすくめた。
「俺たち傭兵は、いろんな町に行く。給金もらって、そこで飯食って、物買って、家に金送る。物の値段が上がっただの、税金が変わっただのは、そのまま生活に響くからな。」
「なるほど」
「先生の話聞いてると、『あの町であれが高かったのはそういうことか』ってのが結構ある」
ジャンは黙ってハンスを見る。
ニューアーク大学では、経済を理論として学んだ。
税制。
貨幣。
交易。
都市間の物資流通。
だが目の前の男にとって、それらは学問ではない。
昨日まで買えていたパンが、今日はなぜ高いのか。
給金をどの町で使えば得なのか。
故郷へいくら送れるのか。
すべて自分たちの生活そのものだった。
「そういうものか」
「そういうもんだ」
ハンスが茶を飲む。
「まあ、難しすぎる時もあるけどな」
「どこがだ」
「先生、説明してるうちにどんどん楽しくなるだろ」
「……悪いか」
「最初はみんな分かってるんだけど、途中から先生一人だけ楽しそうに喋ってる時がある」
「…………」
「昨日なんか途中から半分くらい置いていかれてたぞ」
「なぜ質問しない!」
「質問できるところまで戻ってこねえんだよ」
「なら、なぜ最後まで聞いている」
「寝る前にはちょうどいいんだよ」
「…………何?」
「よく眠れる」
ハンスは真顔だった。
「先生の講義を聞いた日は、寝付きがいいってのも事実だ」
「それは講義の評判がいいとは言わん!」
ユナが吹き出した。
「わかる!」
「わかるな!」
「ジャン、わたしたちの授業でもあるよ」
「おまえまで言うのか」
「わたしが分からないって言うと、もっと詳しく説明してくれる」
「当然だろう」
「もっと分からなくなる」
「…………」
リックが静かに頷いた。
「ぼくも」
「おまえら……」
ハンスが声を上げて笑った。
「まあ、役には立ってるんだからいいじゃねえか」
「睡眠導入剤として雇われた覚えはない!」
「家庭教師と講師だろ?」
「そっちの役に立ってると言え!」
「だから先生も勉強だな」
「俺が?」
「教える勉強」
「…………」
ジャンは不満そうに茶を飲んだ。
反論したい。
だが、思い当たる節がありすぎた。
ジャンは話を変えるように窓の外を見た。
「しかし、セントハイムはずいぶん平穏なんだな」
「ああ」
窓の向こうでは、大通りを大勢の人間が歩いている。
商人。
職人。
買い物客。
走り回る子供たち。
兵士の姿もあるが、誰も緊張していない。
ゼルキア以上にゆとりを感じる。
「こっちは長いこと大きな戦がないからな」
ハンスが答えた。
「東にはリービッヒがあるだろう」
「あるよ」
「国境は近いはずだ」
「だから兵は置いてる。でも、ここ何年も大きく動いてねえ。」
ハンスはパンを口に運ぶ。
「リービッヒもこっちに手を出してこねえし、こっちも向こうへ行かねえ。小競り合いくらいはあるけど、まあ静かなもんだ」
「それでこれだけ商業が発展したのか」
「それもあるんじゃねえか?」
「曖昧だな」
「俺は学者じゃねえぞ」
「それもそうか」
「殴るぞ」
「慰謝料が増えるぞ」
「金ないくせに、そういうところだけ頭回るな」
ジャンが笑う。
ハンスも笑った。
「でもまあ、ゼルキアとは違うな」
ハンスが続けた。
「西はレミーラがいる。レンヌもある。今は敵にとられちまったけど。どうしたって戦の話が多くなる」
「同じ都市同盟っていっても、ゼルキアとセントハイムだけでも状況は違う。」
「…………」
「ゼルキアからすりゃレミーラが怖い。セントハイムからすりゃリービッヒが気になる。俺たちセイレンからすりゃ――」
そこでハンスは少しだけ笑った。
「どっちも偉そうで面倒くせえ」
「おまえ、それをここで言うのか」
「カフェで一兵卒の話なんか聞かれねぇよ。」
「傭兵らしいな」
「セイレン人らしいって言ってくれ」
ジャンは苦笑した。
だが、妙に納得もしていた。
都市同盟。
ひとつの国のように呼ばれている。
けれど実際には、それぞれの都市がそれぞれの事情を抱え、それぞれ違う方向を見ている。
ニューアーク大学で学んだ同盟制度の知識なら、ジャンにもある。
だが、こうして歩いてみなければ見えないものもあるらしい。
「ジャン」
ユナが呼んだ。
「なんだ」
「これのサウスウィンドウ産オレンジのタルトも頼んでいい?オレンジ大好きなの。」
見ると、ユナが品書きの別の菓子を指差している。
「俺に聞くな」
「なんで?」
「金を払ってるのはハンスだ」
二人が揃ってハンスを見る。
「…………」
ハンスはやれやれといった顔で品書きを見た。
「いいぞ」
「やったー!」
ユナの顔が一気に明るくなる。
「じゃあ、ぼくも」
リックも隣の菓子を指差した。
「おい」
ジャンが口を挟む。
「二個も悪い」
「いいって」
ハンスはあっさり答えた。
「ただし――」
そして親指でジャンを指した。
「こっから先は、こいつにつけとく」
「…………は?」
ジャンの顔から笑みが消えた。
「待て。なんで俺だ」
「おまえが最初におごるって言ったんだろ」
「それは金を持っていると思っていたからだ!」
「払うつもりがあったなら後払いでもいいじゃねえか」
「よくない!」
「ジャン、ごちそうさま」
ユナが笑う。
「ありがとう、ジャン」
リックまで頭を下げた。
「まだ頼んでもいない!」
「すみませーん」
ハンスが店員を呼ぶ。
「おい、待て!」
ジャンの制止を完全に無視して、ハンスは菓子を二つ追加した。
「これでまた借金増えたな」
「増やすな!」
「いいじゃねえか」
ハンスは平然としている。
「すごい借金抱えてるらしいじゃねえか」
「…………誰から聞いた」
「みんな知ってるぞ」
「なぜだ!」
「団長が楽しそうに喋ってた」
「ユマァ……!」
この場にいない債権者へ、ジャンの怒声が飛んだ。
ハンスは腹を抱えて笑う。
「今さらケーキ二個増えたところで、誤差の範囲内だ。大して変わらんだろ」
「…………」
ジャンは絶句した。
反論しようと口を開く。
だが。
身代金。
複利。
そこへ追加される、焼き菓子二個。
確かに総額から見れば、誤差と言えなくもない。
「……もういい。好きにしてくれ」
ジャンは力なく椅子にもたれた。
やがて追加の菓子が運ばれてくる。
「いただきます!」
「いただきます」
ユナとリックが嬉しそうに食べ始めた。
ハンスも満足そうに茶を飲んでいる。
ジャンだけが黙って天井を見上げていた。
死刑を免れてからというもの。
なぜか彼の借金だけは、順調に増え続けていた。




