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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第一章 都市同盟

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第9話 脱出

   ◇


 レンヌ急襲から二週間。


「今のところ、穴はないな」


 ルートビッヒ=シュナイダーは、天幕の中央に置かれた卓上の地図を見下ろしながら呟いた。


「間違いありません」


 傍らに立つホフマンが頷いた。


 ルートビッヒは、レミーラ帝国東部辺境軍に属する若き将校であり、現在はレンヌ攻略軍の全軍を指揮している。そしてホフマンは、幼い頃から彼を知る腹心であり、その軍務を支える副官でもあった。


「この一か月……いや、それ以前から随分と無理をしたからな。これで簡単に破られては、たまらんさ」


 ルートビッヒは地図に記されたレンヌ要塞を指先で叩いた。


 今回の作戦のため、帝国軍は数か月にわたって強行偵察を繰り返していた。ロスバルト傭兵団の哨戒範囲や出撃速度、周辺街道の状況、さらに攻撃を受けた際のカーライル騎士団の反応まで調べ上げたのである。


 その結果を基に、主力軍は険しい北部山地を大きく迂回し、敵の警戒が比較的薄いレンヌ東方へ進出した。


 東門への奇襲は、本気の攻略戦だった。


 守備隊の対応が少しでも遅れていれば、帝国軍はそのまま東門を突破し、要塞を制圧できた可能性が高い。


 しかし、ロスバルト傭兵団の動きは予想以上に早かった。


 だが、それも想定の範囲内だった。


 東門への攻撃が続いている間、事前にレンヌ内部へ潜入させていた工作員が、西側の兵糧庫や貯蔵施設を襲撃した。


 城門を突破できれば、それでよし。


 突破できなくとも、食糧を焼き払えば、その後の籠城を困難にできる。


 いずれにしても、レンヌを追い詰めることができる作戦だった。


 そして現在、帝国軍は主要街道を封鎖し、要塞を外部から孤立させていた。伝令兵や小規模な補給部隊はことごとく阻止され、包囲開始後に都市同盟各地から散発的に現れた援軍も、レンヌへ合流する前に各個撃破している。


 東方のウィンザーにも守備兵力は存在するが、包囲を突破できるほどの戦力ではない。


「カーライルは?」


「まだ動けておりません」


 ホフマンが答えた。


「レンヌが攻撃されたと知り、ようやく本格的な出兵準備に入ったようですが、兵の集結と補給の手配には時間がかかります。どれほど急いでも、大規模な救援軍が到着するまでには一か月以上を要するでしょう」


「そうか」


 ルートビッヒは小さく息を吐いた。


 それならば、問題はなかった。


 兵糧庫は焼いた。街道も押さえ、外部との連絡も遮断した。救援軍についても、到着する前に各個撃破できている。


 レミーラ軍は過去にも正面攻撃で攻略しようとしたが、いずれも失敗していた。


 ならば、同じことをする必要はない。


 ここまで追い込んでおいて、最後だけ焦って城壁へ兵をぶつける理由などなかった。


 あとは食糧が尽きるのを待てばいい。


「ただし、一つだけやらねばならぬことがある」


 ルートビッヒは地図上の一点を指差した。


「ここは開けておけ」


 ホフマンが視線を落とす。


「……退路を残すのですか?」


「ああ」


「完全包囲にはなりませんが」


「だからいい」


 ルートビッヒは顔を上げた。


「死兵となられてはかなわんからな」


 逃げ場を失った兵は、最後まで戦うしかない。


 ましてレンヌには、東門への奇襲を食い止めたロスバルト傭兵団がいる。彼らが死を覚悟して城壁に籠もれば、いくら食糧が不足していようと、攻略には相応の犠牲を強いられるだろう。


 しかし、逃げ道が残されていれば話は変わる。


「食糧が尽きかけ、救援も来ない。そんな状況で逃げ道があると分かれば、どうすると思う?」


「……撤退を考えるでしょうな」


「そうだ。そして、一度逃げ始めれば、もはや城壁は守ってくれん」


 ルートビッヒの指が止まった。


「そこで叩く」


 声色は変わらなかった。


「逃げてきたところへ兵を集中させ、追撃する。二度とレンヌへ手を出せん程度にはな」


「承知しました」


 ホフマンが一礼した。


 ルートビッヒは再び地図へ目を落とした。


 包囲を完全に閉じる必要はない。一か所だけ穴をあけておく。追い詰められた者には、その穴が希望に見えるだろう。


 だが、その先に待っているものが何なのかは、まだ敵には分からない。


「あとは、誰が最初に食いつくかだな」


 ルートビッヒは静かに呟いた。


 ◇


 司令部で撤退の話が持ち上がってから、一週間後。


 ジャン=ワイズマンは、ロスバルト傭兵団の宿舎を訪れていた。


「ユマ、少しいいか?」


「何だい?」


 机に向かって書類を整理していたユマが顔を上げた。


「珍しいねぇ。ロスバルトの経費なら、もう削れるところなんてないよ」


「そんな話じゃない。確認したいことがある」


「おや、経費削減だって立派な仕事だろう?」


「いいから聞け。ふざけている時間が惜しい」


「はいはい。どうぞ」


 ユマは書類を机へ置き、椅子の背にもたれた。


 ジャンは少し考えてから口を開いた。


「一番最初にカーライルへの増援要請を出したのは、いつだ?」


 ユマの表情から笑みが消えた。


「三か月前だよ」


「……三か月?」


「そう。レミーラ軍の動きがおかしいと判断した時点でね。今の戦力では対応できなくなる可能性があるから、カーライル騎士団の派遣を求めたんだ」


「返答は?」


「ないよ」


「一度も?」


「一度も」


 ジャンは眉をひそめた。


 三か月前といえば、自分がレンヌへ赴任するよりも前のことである。


 つまり、ロスバルトは自分が出納係として働いていた頃から、繰り返し増援を要請していたことになる。


「……そういうことか」


「何がだい?」


「俺が文書係にいた頃、カーライル騎士団の派遣は必要ないという報告書を何度も清書させられた」


「ああ、言ってたね」


「だが、それ以前から同じような処理が続けられていたということだ」


 ジャンは苦々しい顔をした。


 中央政府には、レンヌ周辺の情勢は安定していると報告されていた。敵軍の活動が活発化していることも、防衛兵力が不足していることも、都合よく削除されていたのである。


 自分は命令に従って清書しただけだった。


 しかし、その文書が中央の判断に使われたことも事実だった。


 内容に疑問を持ちながら、結局は提出してしまった。


 今になって考えれば、あれもレンヌを孤立させた原因の一つなのだろう。


「……まったく、馬鹿馬鹿しい」


「何だい。自分の仕事に文句でもあるのかい?」


「仕事そのものじゃない。あんな連中の下で働いていたことがだ」


 ユマは少し驚いたようにジャンを見た。


「へぇ。ずいぶん変わったことを言うようになったね」


「別に変わってない」


「そうかい?」


「それより、もう一つ伝えておきたいことがある」


 ジャンは少し声を落とした。


「先週、司令部の会議で撤退が検討された」


 ところが、ユマは驚かなかった。


「ふーん。やっぱりね」


「……やっぱり?」


「どうも最近、きな臭いと思ってたんだよ」


 ユマは腕を組んだ。


「先々週までは、私も司令部の会議に呼ばれていたんだ。兵力の配置や食糧の配給、今後の防衛計画まで、散々意見を求められたよ」


「……」


「ところが、先週からぱったり呼ばれなくなった。何を決めているのか尋ねても、司令部内で検討中だって言うばかりでね」


 ジャンの眉が動いた。


「……俺もだ」


「え?」


「撤退の話が出た会議を最後に、俺にも招集が来なくなった」


 ユマは一瞬ぽかんとした顔をしたが、次の瞬間、声を上げて笑い始めた。


「あははは! そりゃ傑作だね!」


「何がおかしい!」


「いやぁ、あんたもとうとう、こっち側の人間にされたんだと思ってね」


「どういう意味だ?」


「そのまんまだよ」


 ユマは机の上に置かれていた地図を広げた。


「今の話で確信した。グリフィスは逃げるつもりだね」


 ジャンは黙った。


「……自分たちだけで、か?」


「おそらくね」


 ユマは地図に視線を落とした。


「ロスバルトを会議から外し、あんたみたいな、命令にいちいち疑問を挟む官僚も外した。そのうえで撤退を検討しているのに、実際に城を守っている私たちには何も知らせない」


「つまり……」


「ああ。私たちに最後までレンヌを守らせ、その間に自分たちは逃げるつもりなんだろうさ」


「……随分な話だな」


「分かりやすいだろ?」


 ジャンは反論しなかった。


 むしろ、これまでのグリフィスの行動を考えれば、あまりにも辻褄が合っている。


「だが、どうやって逃げるつもりなんだ? レンヌは完全に包囲されているんだろう?」


「そこが問題なんだよ」


 ユマは地図の上に指を置いた。


「見た目には、ね」


「……どういうことだ?」


「レミーラ軍の包囲は確かに見事さ。主要街道を押さえ、こちらの伝令も補給部隊も通さない。散発的にやってきた援軍まで、きっちり潰している」


 ユマは地図上のレンヌを指先で叩いた。


「だけど、ここまで見事に作戦を進めている将軍が、何も考えずに包囲網を作っているとは思えないんだよ」


「それはそうだろうな」


「なら、どうして全部を塞がないと思う?」


「……全部?」


「逃げ道のことさ」


 ジャンが地図へ視線を落とすと、ユマはレンヌの周囲を指でなぞりながら説明を続けた。


「敵の目的は、レンヌを攻略することだろう? 食糧を焼いて、外部との連絡を断ち、救援軍まで撃破した。ここまでやっておいて、今さら無理に城壁を攻める必要はない」


「兵糧攻めで降伏させればいいわけだからな」


「そういうこと。でも、守備隊が降伏しなかったら?」


「食糧が尽きるまで待つだけだろう」


「それでも戦うとしたら?」


 ジャンは少し考えた。


 レンヌは難攻不落の要塞である。守備兵が死ぬ覚悟で城壁に籠もれば、攻略には相応の犠牲を払うことになるだろう。


「……死兵になるか」


「そのとおり。だけど、逃げ道が一つだけ残されていたら?」


「死にたくない奴は、そこへ向かうだろうな」


「そういうことさ」


 ユマは頷いた。


「だから、敵は一か所だけ開けておくと思うんだ。逃げられると思わせれば、守備隊の方から城を出てきてくれるからね」


「……なるほど」


「もっとも」


 ユマの指が地図上の一点で止まった。


「その先に待っているのは、自由じゃないだろうけどね」


 ジャンが顔を上げた。


「どういう意味だ?」


「考えてもみなよ。あれだけ巧妙にレンヌを追い詰めた将軍が、せっかく城から出てきた敵を、そのまま見逃すと思うかい?」


「……思わないな」


「でしょ?」


 ユマは地図を軽く叩いた。


「そこは退路じゃない」


 一拍置いて、言った。


「処刑場だよ」


 ジャンは黙って地図を見つめた。


 なるほど。


 逃げ道を残すことで守備隊を城外へ誘い出し、そこで撃破する。


 堅固な要塞を攻めるより、はるかに少ない損害で敵を壊滅させることができるだろう。


「……グリフィスは、そこへ行くと思うか?」


「行くだろうね」


 ユマは即答した。


「あの男が、逃げ道を見つけておとなしく城に残ると思うかい?」


「……思わないな」


「だろう? しかも、相手はここまで見事な作戦を立てた将軍だよ。グリフィスが相手より一枚上手だとは、とても思えないね」


「ひどい評価だな」


「事実だろ?」


「否定はしない」


 ユマは地図を眺めながら、しばらく考え込んだ。


 やがて、その口元に小さな笑みが浮かんだ。


「……なるほどね」


「今度は何だ?」


「向こうがグリフィスを釣ってくれるなら、こっちにも使い道があるかもしれない」


 ジャンが眉を寄せた。


「まさか、何か仕掛けるつもりか?」


「まだ何もしないよ。グリフィスが本当に逃げるかどうかも分からないんだからね」


 そう言いながらも、ユマの視線はすでに地図の南へ向いていた。


「ただ、敵が逃げるグリフィスを追いかければ、その分だけほかの場所は手薄になるはずさ」


「……南か?」


「さて、どうだろうね」


 ユマはいたずらっぽく笑った。


「でも、グリフィスがその気なら、こっちにも考えがあるよ」


 ◇


 それから二週間後。


 レンヌ要塞内が、にわかに騒がしくなった。


 兵士たちが廊下を走り、各所で怒号が飛び交っている。中庭には何台もの荷車が集められ、馬が次々と引き出されていた。


 ジャンが医療班の事務室から出たところで、一人の兵士が目の前を駆け抜けようとした。


「おい、待て!」


 ジャンが呼び止めると、兵士は慌てて足を止めた。


「何があった?」


「司令官が……グリフィス司令官が、撤退を開始しました!」


「……そうか」


 ジャンは驚かなかった。


 むしろ、ようやくかと思った。


 急いで城壁へ上がると、東方にはすでに大きな砂煙が立ち上っていた。


 レンヌの正規兵と騎兵が東へ向かって進み、その後ろには長い荷車の列が続いている。


 ジャンは目を細めた。


「……何だ、あれは?」


 撤退する部隊としては、荷車の数があまりにも多かった。


 荷台には幾つもの大きな木箱が積まれており、中には布で覆われた、巨大な調度品と思われるものまである。


 遠目では中身までは分からない。しかし、戦場から撤退する軍隊が運ぶ荷物としては、明らかに不自然だった。


 いったい、何をそんなに持ち出しているのだろうか。


「……あいつ」


 ジャンは呆れたように呟いた。


「何を考えているんだ?」


「どうやら、大事な財産を置いていくのが惜しいらしいね」


 背後から声がした。


 振り返ると、ユマが立っていた。彼女も城壁の上から正規軍の撤退を眺めていたが、その顔に驚きはなかった。


「やっと始まったね」


 むしろ、待ちくたびれたとでも言いたげだった。


「予想どおりだな」


「まあね。食糧もそろそろ限界だし、あの男がいつまでも城に残っているとは思わなかったよ」


「まさか、あの荷車も財産なのか?」


「中身までは分からないけどね。あの男なら不思議じゃないだろう? 長年溜め込んできたものを、全部置いて逃げるような人間じゃないからね」


「……救いようがないな」


「今さらだよ」


 ジャンはもう一度、東方へ目を向けた。


 そこで、あることに気づいた。


「……本当に開いている」


 あれほど隙なくレンヌを囲んでいたレミーラ軍の包囲網に、一か所だけ不自然なほど大きな穴が開いている。


 そして、グリフィスの部隊は迷うことなく、そこへ向かっていた。


「言ったとおりだろ?」


 ユマは平然としていた。


「俺たちは逃げなくていいのか?」


「焦りなさんな。まだ早いよ」


「何?」


「もう少し引きつけないとね」


 ユマは動かなかった。


 城壁の上にはロスバルトの幹部たちも集まっていたが、誰一人として撤退を始めようとはしない。


 その間にも、グリフィスの部隊は東へ進み続けていた。


 正規兵と騎兵が先行し、その後ろを荷車がゆっくりと進んでいく。食糧不足で衰弱した兵士たちは、重い荷車を押しながら必死に隊列についていった。


「……あれで逃げ切れるのか?」


 ジャンが呟いた。


「さあね。でも、逃がしてくれる相手だとは思えないね」


 ユマが答えた、その直後だった。


 グリフィス隊の側面、地平線の向こうからレミーラ軍の旗が現れた。


「……来たね」


 ユマが小さく呟く。


 次の瞬間、帝国軍の騎兵が一斉に突撃し、グリフィス隊の横腹へ襲いかかった。


「……罠か!」


 ジャンが叫んだ。


 それは逃げ道などではなかった。


 逃走する敵を誘い込み、一方的に攻撃するために用意された狩り場だったのである。


 正規兵の隊列が崩れ、前へ逃げようとする者とレンヌへ戻ろうとする者が入り乱れた。その混乱へ帝国軍の騎兵が次々と突入し、逃げ惑う兵士たちを斬り倒していく。


 悲鳴と怒号、馬の嘶きが重なり合った。


 そして、逃走をさらに妨げたのが荷車だった。


 馬が倒れて荷車が横転し、後続の兵士たちが行き場を失う。積荷が崩れると、中から金銀や食器、絵画、調度品が転がり出し、グリフィスが守ろうとした財産が次々と路上へ散らばっていった。


「……馬鹿だ」


 ジャンは思わず呟いた。


「本当に財産を持ち出していたのか。こんな状況になっても、荷物を捨てないとはな」


 それでもグリフィスの旗だけは、護衛の騎兵に守られながら東へ進み続けていた。


 後方では兵士たちが次々と討たれているというのに、司令官は振り返る様子すらない。


「……ひどいな」


「だから、今さらだって」


 ユマは冷たく答えた。


 しかし、彼女はまだ動かなかった。


「まだか?」


「まだだよ」


「このままでは、グリフィス隊が全滅するぞ」


「そうだろうね」


「……お前」


「最初に私たちを見捨てたのは、あの男だよ」


 ユマは淡々と答えた。


「だからといって、全滅していいとは思わないけどね。でも、今ここで動けば、私たちまで敵の罠に飛び込むことになる」


 ジャンは口を閉じた。


 確かに、今のレミーラ軍はグリフィス隊の追撃に集中している。ここでロスバルトまで東へ出れば、同じ運命をたどる可能性が高かった。


 ユマは東の戦場を見つめながら、時折、南側の包囲陣へ視線を向けていた。


「……ほら、動き始めたよ」


「何?」


「あそこさ」


 ユマが南を指差した。


 ジャンもそちらへ目を向ける。


 南側の包囲陣から、レミーラ軍の一部が移動を始めていた。


 東での追撃に加わるつもりらしい。


「……南の兵まで?」


「そりゃ、行きたくもなるだろうね」


 ユマは遠ざかる荷車の列を見た。


「あんなに分かりやすく財産を積んで逃げてるんだから」


 グリフィスが持ち出した金銀、美術品、高価な家具の数々。


 それらを奪えば、帝国軍にとっては莫大な戦利品になる。


 現に、東の戦場では荷車をめぐって兵士たちが殺到し始めていた。


 逃げる敵を追う者もいれば、荷車を奪おうとする者もいる。さらに獲物を求めて、南側からも兵が東へ流れ始めていた。


 一隊、さらに一隊。


「……あいつ」


 ジャンが呟いた。


「自分の財産で、敵まで釣っているぞ」


「助かるねぇ」


 ユマが笑った。


「まさか、こんなところで役に立つとは思わなかったよ」


「お前、本当に性格が悪いな」


「最初に裏切ったのは、あいつだよ」


 ユマは平然と答えた。


「利用できるものは利用しないとね」


 その目が南側の包囲陣へ向いた。


 敵の主力は東でグリフィスを追撃している。南を守る兵も減り、包囲陣の間隔が広がり始めていた。


 しかし、ユマはまだ動かない。


 兵力が薄くなったとはいえ、まとまった部隊が残っているうちに南門を開けば、脱出する市民や負傷者まで敵の攻撃にさらされる。食糧も体力も残されていない彼らに、敵兵と戦いながら逃げることなどできるはずがなかった。


 まずは南側の敵を排除し、安全な通路を確保する必要がある。


 ユマは東へ移動していく帝国軍を見つめ、さらに一隊が南の陣地を離れるのを確認した。


「……よし」


 ゆっくりと右手を上げる。


 周囲に控えていたロスバルトの幹部たちが、一斉に顔を向けた。


「頃合いだね」


 ユマは南側の包囲陣を指差した。


「まずは残っている敵兵を排除するよ。退路を確保してから、非戦闘員を脱出させる」


 幹部たちが頷いた。


「年少者と傷病者、戦えない者を優先する。荷物は最小限、五日分の携行食と水を持たせておくれ。戦闘が終わり次第、すぐに移動を始められるよう準備しておくんだよ」


「はっ!」


 指示を受けた幹部たちが走り出した。


 南門の内側では、すでにロスバルトの兵士たちが武装を整えている。一方、戦闘に参加できない市民や負傷者たちは、案内役の兵士によって待機場所へ集められていた。


 脱出経路についても準備は進んでいる。


 南門から敵の包囲を突破したあとは、東街道へは出ず、南の山地へ入る。そのまま山沿いを東へ進み、ウィンザー南方を目指す予定だった。


 平坦な街道と比べれば、移動には時間がかかる。負傷者や子供を連れた行軍ともなれば、なおさらだろう。


 しかし、帝国軍の主力が待ち構える東街道を進むより、生き延びられる可能性は高かった。


「……お前は、その後どうするんだ?」


 ジャンが尋ねた。


「もちろん、殿だね」


 ユマは事もなげに答えた。


「団長のお前が残るのか?」


「団長だから残るんだよ。最後の一人が無事に逃げるまで、誰かが敵を食い止めておかないといけないだろ?」


「……そうか」


 ジャンは短く答えた。


 ユマの言うことは正しい。それに、彼女が一度決めたことを今さら説得で変えられるとも思えなかった。


「ジャン」


 ユマが向き直った。


「ユナとリックを頼みます。ウィンザーで会いましょう」


 いつもの軽口ではなかった。


 ジャンは少し戸惑いながら、ユマの顔を見た。


「……俺でいいのか?」


「ロスバルトはいつだって人手不足なのよ。今だって、戦える大人が足んないからね」


 ユマは肩をすくめた。


「それに、あの二人はあんたを信頼している。私も、知らない誰かに預けるより、あんたに任せた方が安心できるんだよ」


「……」


 ジャンは返事に詰まった。


 つい先日まで、顔を合わせるたびに嫌味を言い合っていた相手である。その女から、自分の弟妹を任せたいと言われるとは思っていなかった。


 しかも、ただ一緒に歩いていけばいいという話ではない。


 敵軍の包囲を突破し、険しい山道を越え、二人を無事にウィンザーまで連れていかなければならない。


 軍務の経験もない自分に、それが務まるのか。


 そう考えなかったわけではなかった。


 しかし、ユマが言うように、ロスバルトの兵士たちはこれから戦わなければならない。二人の面倒を見るために、戦える人間を割く余裕などないのだろう。


「……分かった」


 ジャンは頷いた。


「二人は俺が連れていく。ウィンザーで待っているぞ」


「ありがとう」


 ユマは嬉しそうに笑った。


「頼んだよ、主席殿」


 そのとき、少し離れた場所から二人の声が聞こえてきた。


「姉さま!」


「姉さま!」


 ユナとリックが駆け寄ってくる。


 ユマは二人を迎えると、まず妹の頭を軽く撫で、それから弟へ目を向けた。


挿絵(By みてみん)


「二人とも、ジャンと一緒に先に行くんだよ。ちゃんと言うことを聞くんだよ」


「うん!」


「分かった!」


「勝手なことをして、ジャンに迷惑をかけるんじゃないよ」


「大丈夫だよ!」


 ユナは元気よく答えた。


 リックも大きく頷く。


 ユマはそんな二人を見て、少しだけ表情を緩めた。


「じゃあ、ウィンザーでね」


 ユナは背筋を伸ばし、姉をまっすぐ見つめた。


「姉さま、ご武運を!」


「姉さま、頑張って!」


 リックも拳を握りしめた。


「ああ。二人とも、いい子にしてるんだよ」


 ユマはにっこり笑った。


 それからジャンへ目を向ける。


「頼んだよ、主席殿」


「ああ」


 ジャンは頷いた。


「約束は守る」


「そうかい。それなら安心だね」


 ユマは笑うと、三人から離れた。


 そして、腰に下げた剣を確かめ、南門へ向き直る。


 門の向こうには、まだレミーラ軍の兵士たちが陣を構えている。数こそ減っていたが、こちらの脱出を見逃してくれるはずもなかった。


 ならば、力ずくで道を開くしかない。


「さて」


 ユマは剣の柄に手を置いた。


 その顔から、先ほどまでの穏やかな表情が消える。


 目の前にいるのは、ロスバルトの兵士たちだった。


 数週間に及ぶ籠城によって、誰もが疲れ切っていた。食糧は減り、負傷者も増え、満足に休むことさえできなかった。


 それでも、兵士たちの目から戦意は失われていなかった。


 ユマは彼らを見渡した。


「じゃあ、ちょっくらやってきますか!」


 そう言って剣を抜く。


「ロスバルト! 全軍出るぞ!」


「おおおおおっ!!」


 兵士たちの雄叫びが、レンヌの南門に響き渡った。


 巨大な門扉が開かれ、武装したロスバルト傭兵団が一斉に動き出す。


 その先頭には、剣を掲げたユマの姿があった。


 ジャンはユナとリックを傍らに、出撃していく兵士たちを見送っていた。


 目の前で始まろうとしている戦いは、レンヌを守るためのものではない。


 レンヌから、一人でも多くの人間を生きて帰すための戦いだった。

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