第8話 包囲
◇
それからの二週間、レンヌ要塞では籠城に向けた準備が進められていた。
司令部も、何もしなかったわけではない。
食糧の配給を制限し、市内の商人や住民が保有する食糧を買い上げ、必要に応じて徴発する。城外に残っていた部隊を収容し、負傷兵の治療と後方への移送も急がせた。
中央政府へは救援要請が送られ、カーライル騎士団の早期派遣を求める文書も作成された。
だが、すべてが遅かった。
ルートビッヒ=シュナイダー率いるレミーラ帝国軍は、最初の攻撃を終えると、速やかにレンヌの包囲へ移行していた。
街道は次々と封鎖され、要塞と外部を結ぶ連絡網も寸断された。司令部は何度も伝令を送り出したが、戻ってきた者はほとんどおらず、補給部隊もレンヌへ到着する前に襲撃を受けた。
それだけではない。
帝国軍は夜間になると要塞周辺へ小部隊を送り込み、守備隊を挑発するように攻撃を仕掛けてきた。ところが、ロスバルトの部隊が出撃するとすぐに撤退し、追撃すれば伏兵による反撃を受ける。
まともに戦おうとすれば逃げられ、追えば損害を出す。
この繰り返しによって、守備隊は少しずつ疲弊していった。
そして、何より深刻だったのが食糧である。
当初は一日三食だった配給が二食に減らされ、やがて一食当たりの量まで削られるようになった。
兵士たちの間には不満が広がり、市民からも苦情が寄せられる。食糧を隠し持つ者や、配給をめぐって争いを起こす者まで現れ始めていた。
それでも、中央から援軍は来なかった。
一日、また一日と時間だけが過ぎていく。
そして、包囲開始から二週間が経過した。
◇
「では、食糧の配給については、ひとまず現状を維持するということで」
「しかし、それでは一か月も持ちません」
司令部の会議室で、食糧管理を担当する官僚が異議を唱えた。
「現在の備蓄量と消費量を考えれば、これ以上の配給制限は避けられません。特に市民への配給が予想以上に増えています」
「だからといって、兵士への配給をさらに減らせば戦闘に支障が出る。空腹で武器も持てなくなっては、城壁を守ることなどできんぞ」
「それなら、民間人への配給を――」
「今以上に減らすのか? ただでさえ不満が高まっているというのに、暴動でも起きたらどうする」
その言葉に、誰も答えられなかった。
狭い会議室には、食糧の在庫表や配給記録が机いっぱいに広げられていた。出席者は誰もが疲れ切った顔をしており、議論が進むにつれて苛立ちを隠さなくなっている。
「中央への追加要請はどうなっている?」
「すでに出しています」
別の官僚が答えた。
「ただ、伝令が戻っておりませんので、中央に届いているかどうかも確認できていません」
「それでは何も分からんではないか!」
「そう言われましても……」
ジャン=ワイズマンは、部屋の端でそのやり取りを黙って聞いていた。
医療班の物資管理を担当している関係で、食糧や医薬品の配分を協議する会議にも呼ばれるようになっていたのである。
しかし、毎回話し合われる内容はほとんど同じだった。
食糧が足りない。
兵士への配給を減らせば防衛に支障が出るが、市民への配給を削りすぎれば騒乱を招く。ならば中央へ救援を求めるしかないが、その要請が届いているのかさえ分からない。
結局、誰も責任を取るような決断を下せないまま、翌日にはまた同じ数字を眺めることになる。
ジャンは机の上の在庫表に目を落とした。
数字そのものは正しい。
問題は、いくら計算しても食糧が増えるわけではないことだった。
「……本日は、ここまでとしましょう」
ようやく会議の終了が告げられた。
結局、配給量を現状のまま維持するという暫定的な方針だけが確認され、具体的な解決策は何一つ決まらなかった。
ジャンは書類をまとめ、席を立った。
明日も、おそらく同じ会議が開かれるのだろう。
そんな予感がした。
◇
医療班の事務室へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
扉を開けると、ユナが机に頬杖をついており、向かいではリックが帳簿を整理していた。
「おかえり、ジャン!」
「……まだいたのか。もう仕事は終わっただろう?」
「うん。ジャンを待ってたんだよ」
「俺を?」
「今日の会議はどうだったの? 何か決まった?」
ジャンは抱えていた書類を机へ置いた。
「何も進展はない。食糧が足りないという事実を、何人もの大人が集まって確認しただけだ」
「そっか……」
ユナは残念そうに呟くと、そのまま机へ突っ伏した。
それ以上、何も聞いてこなかった。
しばらくして、彼女のお腹が小さく鳴った。
「……お腹すいた」
「ユナ」
リックがたしなめる。
「だって、お腹すいたんだもん」
「みんな同じだよ。我慢しないと」
「分かってるよぉ」
ユナは机に突っ伏したまま、ジャンを見上げた。
「ジャンは?」
「俺だって腹は減ってる」
「だよねぇ……」
今日の夕食は、薄い粥と小さなパンだけだった。
包囲が始まった頃に比べれば、配給量は半分近くまで減っている。大人でも十分とは言い難い量なのだから、育ち盛りの二人にはなおさら物足りないだろう。
ジャンは二人を眺めた。
ユナは空腹で机から起き上がる気力もないらしく、リックも平気な顔をしているが、何度か自分のお腹を押さえていた。
「……何か食べたいものでもあるのか?」
「え?」
ユナが顔を上げた。
なぜそんなことを聞いたのか、ジャン自身にもよく分からなかった。何となく口に出しただけで、特に深い意味はない。
ところが、ユナはすぐに身を起こした。
「いいの!?」
「何が?」
「好きなもの言って!」
「別に食わせてやるとは――」
そこまで言って、ジャンは口を閉じた。
目の前の二人が、自分を期待に満ちた顔で見つめている。
「……まあ、いいか」
「え?」
「レンヌから帰ったら、何か食わせてやる」
ジャンは少し考えてから続けた。
「どうせ給料も使う機会がないまま貯まっているしな。二人に食事を奢るくらい、どうということもない」
ユナの目が大きくなった。
「ほんと!?」
「ああ」
「何でもいいの?」
「好きなものを食え」
「ほんとに!?」
「俺は中央政府の官僚様だぞ。子どもに奢るくらいの金はある」
ジャンは得意げに胸を張った。
「やったぁ!」
それまで机に突っ伏していたユナが、勢いよく立ち上がった。
「何にしよう! お肉もいいし、お魚もいいし、甘いものも食べたいなぁ!」
「まだ帰ってもいないだろう」
「考えるくらいいいじゃん!」
「好きにしろ」
「でも、一つに決められないよぉ……」
「別に一つにしろとは言ってないぞ」
ユナの動きが止まった。
「……全部でもいいの?」
「食えるものならな」
「ジャン、お金持ち!」
「普通だ」
ジャンとしては、特別なことを言ったつもりはなかった。
ニューアーク大学を主席で卒業し、中央政府から派遣された官僚である。十二歳の子供二人に食事を奢った程度で困窮するような給料ではない。
「……ぼくも?」
リックが遠慮がちに尋ねた。
「当然だろう」
「でも、ぼく、何も言ってないよ」
「お前だけ見ていろっていうのか?」
「……ありがとう」
リックが嬉しそうに笑った。
すると、ユナが二人の間へ身を乗り出した。
「じゃあ、三人で行こう!」
「勝手に決めるな」
「ジャンも食べるでしょ?」
「俺が金を払うんだから、俺も行くに決まってるだろう」
「じゃあ、三人じゃん!」
「……そうだな」
ユナは満足そうに頷いた。
「ねえ、ジャン。本当に約束だよ?」
「何が?」
「帰ったら、好きなものを食べさせてくれるって!」
「分かってる」
「忘れないでよ?」
「忘れはしない」
「絶対?」
「しつこいな」
ジャンは机の上の書類を開き、二人に背を向けた。
「約束だ」
「うん!」
ユナが満面の笑みを浮かべた。
「ぼくも覚えてるからね」
「お前まで念を押すな」
リックも笑った。
まったく、うるさい連中だ。
仕事をするなら、さっさと帰ってもらった方がありがたい。
そう思いながらも、ジャンは二人を追い出さなかった。
ユナは早速、何を食べるかリックと相談を始めている。
肉料理がいい。
いや、魚も食べたい。
甘い菓子も忘れてはいけない。
そんな話を聞きながら、ジャンは書類の整理を続けた。
しばらくして、ふと窓の外へ視線を向けた。
遠くに、いくつもの炎が見えている。
城壁のさらに向こう、レンヌを取り囲むように並んだレミーラ軍の篝火だった。
帰ったら、三人で食事に行く。
何の気なしに交わした約束だったが、それを果たすためには、まずこの要塞から生きて帰らなければならない。
ジャンはしばらく篝火を眺めていたが、やがて視線を机へ戻した。
「……ほら、いつまでも喋ってないで帰れ。明日も仕事があるんだろう?」
「はーい!」
「おやすみ、ジャン」
「ああ。おやすみ」
二人が出ていくと、事務室は急に静かになった。
ジャンは再び筆を取り、残っていた仕事に取りかかった。
◇
包囲から三週間。
「本当に来ないじゃないか!」
レンヌ司令官の執務室に怒声が響いた。
グリフィス三世が机を叩き、居並ぶ副官や官僚たちを睨みつけている。
「中央は何をしている! 救援要請は出したのだろうな!」
「は、はい。すでに何度も伝令を送っております」
「では、なぜ援軍が来ない!」
「それが、伝令が一人も戻っておりませんので……」
「言い訳をするな!」
グリフィスの顔が怒りで赤く染まった。
副官の一人が必死に説明を続けた。
「敵軍によって街道が封鎖され、外部との連絡が完全に途絶えております。中央へ要請が届いているかどうかも、現在のところ確認できておりません」
「そんなことは分かっている! 私が聞いているのは、いつ救援が来るのかということだ!」
「そ、それは……」
誰も答えられなかった。
ジャンは部屋の隅で、その光景を黙って見ていた。
以前なら、何か言ったかもしれない。
だが、今は何も言わなかった。
そもそも、このような事態を招いた原因がどこにあるのか。
少なくとも、この部屋にいる人間なら、知らないはずがなかった。
「……食糧は?」
グリフィスが尋ねた。
担当官が手元の資料を確認する。
「現在の配給量を維持した場合、あと三週間ほどです」
「三週間……」
「さらに配給を削減すれば、一か月程度まで延ばせる可能性はあります。ただし、すでに兵士も市民も相当な制限を受けており、これ以上は健康状態や士気への影響が懸念されます」
「減らせ!」
「しかし、司令官。これ以上兵士への配給を減らせば、城壁の防衛にも支障が――」
「減らせと言っている!」
グリフィスは再び机を叩いた。
「食糧が尽きたら、戦うどころではないだろう! 一日でも長く持たせるのだ!」
「……承知しました」
担当官は頭を下げた。
グリフィスは荒い息を吐きながら椅子へ沈み込み、額に浮かんだ汗を拭った。
「あと一か月……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「一か月あれば、カーライルから増援が来る。そうだろう?」
副官たちは互いに顔を見合わせたが、誰も明確には答えなかった。
ジャンも目を伏せた。
仮に今すぐ中央政府が状況を把握し、カーライルへ出兵を命じたとしても、騎士団が準備を整えてレンヌへ到着するまでには相応の時間が必要になる。
まして、すでに敵軍が周辺の街道を封鎖しているのだ。
準備の整っていない騎士団を無理に送り込めば、救援部隊まで各個撃破される危険がある。
一か月で到着する保証など、どこにもなかった。
ジャンは、あの日のユマの言葉を思い出した。
――このままじゃ、レンヌは落ちるよ。
今のところ、状況は彼女の予想したとおりに進んでいた。
「司令官」
そのとき、副官の一人が口を開いた。
「……何だね?」
「万一に備え、今のうちから準備を進めておく必要があるかと存じます」
「万一?」
「レンヌの防衛が維持できなくなった場合です」
部屋が静まり返った。
グリフィスがゆっくりと顔を上げる。
「……貴様、何が言いたい?」
「我々には、司令官の身をお守りする任務もございます。万一レンヌが陥落すれば、司令官が捕虜となる可能性も否定できません」
「私に捕虜になれと言うのか!」
「いいえ。ですから、その前に退避を検討しておくべきかと」
ジャンが顔を上げた。
副官は周囲を見回すと、少し声を落とした。
「敵軍の包囲には、比較的警戒の薄い場所も確認されております。そこからなら、まだ脱出できる可能性があります」
「待ってください」
思わずジャンが口を挟んだ。
全員の視線が集まる。
「何だね、ワイズマン君?」
グリフィスの声が低くなった。
「司令官が逃げるのですか?」
「逃げるとは何だ!」
グリフィスが勢いよく立ち上がった。
「戦略的撤退だ! いや、必要に応じた転進と言うべきだろう!」
「守備隊はどうなるのです?」
「……」
「レンヌの市民は?」
「それは現場の指揮官が適切に判断する!」
「レンヌの司令官は、あなたでしょう」
「口を慎め!」
怒鳴り声が室内に響いた。
ジャンは口を閉じた。
グリフィスは荒い息を吐きながら、ゆっくりと椅子へ座り直した。
「……まだ決定したわけではない」
誰に言うでもなく呟く。
「そうだろう? あくまで万一に備えるという話だ」
「もちろんです、司令官」
副官が即座に頷いた。
「万一の際に備え、退路を確認しておくだけでございます」
「うむ。それなら問題はあるまい」
グリフィスは少し落ち着きを取り戻した。
「護衛の準備もしておいた方がよいな」
「はい。信頼できる兵士を選抜しておきます」
「必要最小限でいい。大人数で動けば敵に発見される危険があるからな」
「承知しました」
「それに……そうだな。中央へ直接、状況を報告する者も必要だろう」
グリフィスは思いついたように続けた。
「レンヌの現状が中央に正しく伝わっていない可能性もある。ならば、司令官である私が直接説明に赴くことにも意味があるのではないか?」
「おっしゃるとおりです。司令官ご自身が報告されれば、中央も事態の重大さを理解するでしょう」
「うむ。もちろん、レンヌを見捨てるという意味ではないぞ」
「当然でございます」
「救援を一日でも早く派遣させるためだ。そうだな?」
「はい。あくまで、そのための措置です」
グリフィスは満足そうに頷いた。
ジャンは、そのやり取りを黙って聞いていた。
少し前まで、誰もレンヌを離れるなどとは口にしていなかった。
ところが、いったん退避という言葉が出ると、話は驚くほど速く進み始めた。
護衛を選抜する。
退路を確認する。
中央への報告に必要な書類を準備する。
先ほどまで食糧配給一つ決められなかった人間たちが、今度は次々と具体的な方針を決めていく。
ジャンは、妙な感心すら覚えていた。
なるほど。
逃亡という言葉を使わなければ、これほど話が進むものなのか。
最初は戦略的撤退と呼ばれ、それが転進になり、やがて司令官の退避という表現に変わった。そして今では、中央政府へ状況を直接報告するための重要な任務になっている。
誰も、自分たちが逃げるとは言わない。
しかし、実際にやろうとしていることは、最初から何一つ変わっていなかった。
ジャンは目の前の男たちを眺めた。
これが、レンヌを守るために集められた司令部の人間たちなのか。
自分はこんな連中の下で、出世しようとしていたのか。
そう考えると、何とも馬鹿馬鹿しい気分になった。
だが、今さら何を言ったところで、状況が変わるとも思えなかった。
ジャンは再び口を閉じ、机に広げられた書類へ目を落とした。
結局、変わったのは呼び方だけだった。




