第7話 約束
第七話
処刑台の上だった。
「待て……」
両腕を押さえつけられる。
「やめろ」
首を台に押しつけられた。
冷たい木の感触が頬に触れる。
「待てって言ってるだろ!」
頭上で、金具の外れる音がした。
カシャン。
「やめろ!」
次の瞬間。
ヒュン――
風を切る音。
「やめ――」
ザンッ。
首が飛んだ。
視界がぐるりと回る。
空が見えた。
処刑台が見えた。
そして最後に、自分の身体が見えた。
首を失った身体が、力なく前へ崩れていく。
――ああ。
俺、死んだのか。
「――っ!」
ジャンは跳ね起きた。
荒い息を吐く。
暗い。
石壁。
鉄格子。
狭い寝台。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
右手が自分の首へ伸びる。
ある。
ちゃんと繋がっている。
「…………最悪だ。」
額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
ジャンはそのまま寝台へ倒れ込んだ。
「夢の中くらい、無罪にしてくれてもいいだろ……」
返事はない。
当然だった。
ここは牢獄。
そしてジャン=ワイズマンは、死刑囚だった。
◇
死刑判決を受けたからといって、すぐに死ぬわけではない。
それが、ジャンが最初に自分へ言い聞かせたことだった。
ニューアーク大学で法学を修め、死刑制度についても当然学んでいる。
判決から執行までは、通常なら半年。一年ほどかかることも珍しくない。
ならば、まだ時間はある。
再審を請求する。
グリフィス三世の証言には疑問点がある。
レンヌ要塞から脱出した者は自分だけではない。
ロスバルトのほか正規兵にも生存者は大勢いる。
証人の再尋問を求めてもいい。
手続き上の瑕疵を探してもいい。
一つが駄目なら次。
それも駄目なら、さらに次。
再審が認められなくても、その請求自体に意味がある。
裁判を続ける。
とにかく時間を稼ぐ。
半年。
一年。
生きてさえいれば、状況は変わる。
レンヌ陥落について新しい証言が出てくるかもしれない。
グリフィスの証言に綻びが生まれるかもしれない。
恩赦があるかもしれない。
ともかく死んでしまえば終わりだ。
生きていれば可能性はゼロではない。
「考えろ……」
ジャンは寝台の上で天井を睨んだ。
「考えろ、ジャン=ワイズマン。」
それだけは得意だった。
何も持たずに牢へ放り込まれても、頭の中までは取り上げられていない。
まだ、なんとかなる。
◇
最初の面会者は父だった。
「ジャン…」
「父さん。」
「……大変なことになったな。」
「ええ。」
ジャンは父の次の言葉を待った。
弁護士を手配した。
再審のために動いている。
何でもよかった。
だが、父の口から出た言葉は違った。
「我が家まで疑われている。」
「…………」
「お前が国家に対して反逆行為を働いたとなれば当然だ。私も方々へ説明して回っている。」
「そうですか。」
「子どものころから出来の良かったお前には期待していたんだがな。」
父は小さく息を吐いた。
「弟もいる。」
「…………」
「ワイズマン家まで、お前と共倒れになるわけにはいかん。」
言っている意味は、すぐに分かった。
代わりはいる。
「分かってくれるな。」
「……ええ」
それ以上、ジャンは何も言わなかった。
父はしばらく座っていたが、やがて立ち上がった。
「身体には気をつけろ。」
「はい」
死刑囚に向かって何を言っているのだろう。
そう思ったが、口には出さなかった。
父が去ったあとも、ジャンはしばらく同じ場所に座っていた。
「……弟がいてよかったな、父さん。」
独り言だけが、牢の中に残った。
◇
二人目は恋人のエルザだった。
「久しぶり、ジャン。」
「ああ」
エルザは向かいに座った。
いつもと変わらない格好だった。
「大変なことになったわね。」
「死刑だからな。」
「……そうね。」
エルザは一度だけ視線を逸らした。
「父から、あなたとはもう関わるなと言われたわ。」
「そうか」
「あなたと付き合っていたことまで問題にされてる。私まで疑われたら、家にも迷惑がかかるから。」
「それで?」
「…………」
少しの沈黙。
「私には、どうすることもできないわ。」
「そうだな」
「ジャン」
「何?」
「私のこと、恨まないで。」
ジャンはエルザを見た。
それで分かった。
「恨まないさ。」
「……本当?」
「ああ」
「そう」
エルザは小さく息を吐いた。
「ありがとう。」
その表情には、安堵の色が浮かんでいた。
「じゃあね、ジャン。」
「ああ」
エルザは立ち上がった。
最後まで涙を見せることなく、部屋を出ていった。
◇
三人目はライナーだった。
「私も可能な範囲では動いた。」
開口一番、そう言った。
「だが、上が決めたことだ。私の立場ではどうにもならない」
「分かっています」
「君も官僚だったんだ。組織というものは理解しているだろう」
「ええ」
「……すまない」
「いえ」
ライナーは安心したようだった。
それから中央の近況を少し話して帰っていった。
足音が遠ざかる。
ジャンは寝台へ戻った。
「……自己弁護に来ただけ、少しは良心の呵責があるのかとは思う。」
父も。
エルザも。
ライナーも。
ジャンを助けるために来たわけではなかった。
自分は悪くない。自分にはどうしようもなかった。
だから恨まないでほしい。
それを、これから死ぬ予定の人間に確認しに来ただけだ。
「まあ……だから何だって話だけど。」
それでも、来ただけましなのだろう。
そう思うことにした。
次の日も、面会者を待った。
その次の日も。
大学時代の知人なら大勢いた。
一緒に講義を受けた者。酒を飲んだ者。
将来について語った者。
ニューアーク大学主席ともなれば、交友関係だってそれなりにあった。
だが。
誰も来なかった。
一人も。
レンヌの赴任から何日目だったか。
ジャンは壁を眺めながら、ふと思い出した。
『あんた、友達いないでしょ?』
ユマに言われた言葉だった。
あのときは腹が立った。
何を根拠にそんなことを言うのかと思った。
自分には大学時代の仲間もいる。
そう思っていたのに。
「……本当にいなかったんだな。」
乾いた笑いが漏れた。
「俺、友人なんかいなかったんだ。」
牢の中には、その乾いた笑いに応えてくれる者すらいなかった。
◇
判決から八日目。
役人が二人、牢へやって来た。
「ジャン=ワイズマン。」
「はい」
ジャンは立ち上がった。
再審について何か動きがあったのか。
一瞬、そう期待した。
「死刑執行日が決定した。」
「…………」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「いつです?」
「二十日後だ。」
「……二十日?」
「今月三十日。日の出後に執行する。」
「待ってください。」
ジャンは鉄格子へ歩み寄った。
「再審を請求します。」
「承知している。」
「なら、なぜ執行日が決まるんです?」
「決定事項だ。」
「異議申立ては?」
「認められない。」
「そんな馬鹿な話があるか!」
役人の表情は変わらない。
「判決から二十日ですよ!? 死刑執行まで二十日なんて聞いたことがない!早すぎる。」
「我々は決定を伝えに来ただけだ。」
「誰の決定です?」
答えはなかった。
二人が背を向ける。
「待て!」
鉄格子を掴む。
「まだ手続きは終わってない! 再審請求だってある! 執行を止めろ!」
足音が遠ざかっていった。
「…………ふざけるな!」
鉄格子を握る指に力が入った。
「ふざけるなよ……」
半年。一年。
その時間を使うつもりだった。
生き延びて、その間に何かを変えるつもりだった。
それが。
二十日。
たった二十日。
「なんで俺が……」
レンヌを捨てたのは自分ではない。
救援要請を出さなかったのも自分ではない。
兵士を置き去りにして逃げたのも自分ではない。
「俺が何をした!」
鉄格子を殴った。
鈍い音が響く。
「逃げたのはグリフィスだろうが!」
もう一度。
「なんであいつが生きて!」
拳が痛んだ。
「なんで俺が死ぬんだよ!」
返事はなかった。
◇
それからの数日間、ジャンは怒り続けた。
看守に食ってかかった。
再審を要求した。
紙と筆を寄越せと怒鳴った。
裁判官に会わせろと言った。
中央へ上申書を出せと言った。
何度も。
何度も。
だが、何も変わらなかった。
二十日が十九日になった。
十九日が十八日になった。
怒鳴っても一日は一日だった。
十七日。
十六日。
十五日。
やがて、怒鳴ることにも疲れた。
◇
死刑執行まで残り一週間。
「食事だ」
看守が皿を置いた。
「…………」
「食べないのか?」
「……あとで」
看守は何も言わずに去っていった。
ジャンは寝台に横になったまま、動かなかった。
腹は減っていた。
だが、起き上がるのが面倒だった。
考えることにも疲れた。
怒ることにも疲れた。
あと何日なのかも、数えなくなった。
どうせ、その日は来る。
天井を見る。
舌を噛み切ったら死ねるだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
処刑台へ連れていかれるくらいなら、その前に。
ジャンは舌先を歯で挟んだ。
少しだけ力を入れる。
「…………」
やめた。
怖かった。
「……馬鹿みたいだな。」
死刑になるというのに。
自分で死ぬことすらできない。
「怖いに決まってるだろ……」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
ジャンは目を閉じた。
もう、どうでもよかった。
◇
「ジャン!」
声がした。
目を開ける。
「こっち!」
ユナが手を振っていた。
レンヌの医療班の天幕だった。
負傷兵が並び、薬草と血の臭いが入り混じっている。
「何してるの、早く!」
「俺は医者じゃないんだぞ。」
「知ってるよ。」
「なら呼ぶな。」
「人手が足りないの!」
反対側ではリックが包帯を抱えて走っている。
「ジャン、これどこ?」
「そっちじゃない。右だ。」
「こっち?」
「逆だ!」
「あ、そっか」
「お前、右と左くらい覚えろ!」
少し離れたところでユマが笑った。
「案外、面倒見いいじゃない。」
「誰のせいでこんなことしてると思ってるんです?」
「はいはい」
「聞いてます?」
「聞いてる、聞いてる」
忙しかった。
うるさかった。
暑かった。
腹も減っていた。
最悪の環境だった。
なのに。
「ジャン」
ユナが袖を引いた。
「今度は何だ?」
「お腹減ったよぉ」
「さっき食っただろ」
「足りないよ」
「知らん」
「帰ったらなんか食べさせてよ」
「なんで俺が」
「お願い」
「…………」
「ね?」
「分かったよ。帰ったらなんか食わせてやる」
ユナの顔が明るくなる。まるで太陽だ。
「本当に?」
「ああ」
「約束だよ」
隣からリックが顔を出した。
「ぼくも」
「お前もかよ」
「だめ?」
「……二人分くらい変わらん」
「やった!」
二人が笑った。
ジャンも――。
◇
目を開けた。
石の天井があった。
「…………」
しばらく動けなかった。
夢だった。
レンヌではない。
ユナもいない。
リックもいない。
医療班の喧騒もない。
暗い牢獄だけだった。
頬が冷たかった。
ジャンは指で触れた。
濡れている。
「……なんだ、これ」
涙だった。
もう一度、頬を拭う。
次から次へと流れてくる。
「なんで……」
悲しいのか。
怖いのか。
寂しいのか。
自分でも分からなかった。
「なんで、なんで俺、泣いてるんだよ……」
答えてくれる者はいなかった。
◇
その日の午後。
「面会だ。」
ジャンは顔を上げた。
もう誰が来てもどうでもよかった。
父か。
エルザか。
あるいは、また誰かが自分で自分を許すための儀式として来たのか。
扉が開く。
「久しぶり」
ジャンは目を見開いた。
「……ユマ」
「随分ひどい顔ね。」
「…………」
ユマは向かいの椅子へ腰を下ろした。
ジャンは何も言わなかった。
「セイレンに戻れることになったから、最後の挨拶に来た。」
「……そうか。」
会話が途切れた。
ユマはしばらくジャンを見ていた。
ジャンは俯いたままだった。
以前なら、何か言っただろう。
裁判の不当性。
グリフィスへの恨み。
都市同盟への怒り。
だが、もう言葉が出なかった。
「何か言いたいことはある?」
「…………」
沈黙。
ユマは少し待った。
「そう」
椅子から立ち上がる。
そのまま踵を返した。
「あ……」
小さな声が漏れた。
ユマが振り返る。
「何?」
ジャンは俯いたまま、しばらく黙っていた。
「一つだけ……お願いがある」
「何?」
「二人に……」
喉が詰まった。それでも言わなくては。
「二人に、約束、守れなくてごめんって……伝えてほしい」
「そう。わかった。」
それだけだった。
ユマは扉へ向かう。
振り返ることなく、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
ジャンは、また一人になった。
◇
死刑執行日の朝。
ジャンは夜明け前に起こされた。
よく眠れたのかどうかも分からなかった。
身体を洗われた。
服を替えさせられた。
簡単な食事が出たが、ほとんど喉を通らなかった。
「時間だ」
「……はい」
目隠しをされた。
何も見えなくなる。
腕を取られ、歩かされる。
廊下。
階段。
やがて外へ出たらしい。
朝の冷たい空気が頬に触れた。
馬の鳴き声が聞こえた。
「乗れ」
「馬車?」
返事はない。
ジャンは促されるまま馬車へ乗った。
こどもの頃にみたことがある。死刑囚は馬車で処刑場に運ばれてきていた。
扉が閉まる。
しばらくして、馬車が動き出した。
車輪が石畳を叩く。
ガタガタ。
ガタガタ。
ジャンは目隠しをされたまま座っていた。
不思議と恐怖はなかった。
いや。
恐怖を感じることにも疲れていたのかもしれない。
馬車は走り続けた。
ガタガタ。
ガタガタ。
まだ走る。
「…………」
処刑場とは、こんなに遠かっただろうか。
さらに時間が過ぎる。
「……まだですか?」
返事はなかった。
「処刑場まで、あとどれくらいです?」
沈黙。
馬車だけが走り続ける。
「…………?」
そのときだった。
「クスッ」
ジャンが顔を上げた。
「……?」
誰か、笑った?
気のせいか。
死ぬ前には幻聴でも聞こえるのだろうか。
「くっ……」
まただ。
「……誰かいるんですか?」
返事はない。
「ふっ……ふふっ……」
明らかに誰かが笑いを堪えている。
「…………」
ジャンの眉間に皺が寄った。
「いったい何なんです?」
「もう……無理……」
聞き覚えのある声だった。
「え?」
「あははははは!」
とうとう耐えきれなくなったらしい。
女の子の大きな笑い声が馬車の中に響いた。
ジャンは目隠しをされたまま固まった。
「……ちょっと待て」
この声。
「ユナ?」
「あははは! ごめん、ジャン! もう無理!」
「…………は?」
隣からリックの笑い声も聞こえてくる。
そして、もう一人。
「まったく。もう少し我慢しなさいよ」
「だって姉さま、ジャンがずっと『まだですか』って……!」
「ユマ?」
ジャンの声が裏返った。
目隠しが外された。
眩しさに目を細める。
最初に見えたのは、目の前で腹を抱えて笑っているユナだった。
「ジャン、すごい顔!」
「…………」
その横にリック。
そしてユマ。
ジャンは三人を順番に見た。
「…………何してるんです?」
「見れば分かるでしょ」
「分からないから聞いてるんです!」
ユナがまた吹き出した。
「元気じゃない」
「処刑場は!?」
「行かないわよ」
「…………は?」
ユマは何でもないことのように言った。
「あなたを買ったの。」
ジャンが固まる。
「…………はい?」
「だから、あなたを買った。」
「……どういう意味です?」
「そのままの意味。」
「説明になってない!」
「詳しい話は帰りながら。」
「帰る?」
「セイレンに。」
「…………」
ジャンは再び固まった。
その袖を、ユナが引っ張った。
「ジャン」
「……なんだよ」
ユナはまだ笑っていた。
笑いすぎたのか、それと何か別の感情もあるのか目元には涙も浮かんでいる。
「おかえり、ジャン」
「…………」
ジャンは何も言えなかった。
馬車はそのまま、セイレンへ向かって走っていった。




