第6話 責任の所在
第6話 責任の所在
◇
レンヌ失陥から二か月後。
ゼルキア都市同盟中央本部。
ユマ=リズナーは、長机の向こうに並ぶ男たちを眺めながら、何度目かのため息を飲み込んだ。
査問が始まって、すでに二時間を超えている。
「では、改めて確認する。」
中央に座る査問官が書類をめくった。
「レンヌ要塞への敵襲を、ロスバルトは事前に察知できなかった。」
「そうだね。」
「その点について、貴官は責任を認めるか。」
「認めない。」
ユマはぶっきらぼうに即答した。
査問官の眉がわずかに動く。
「敵軍がレンヌへ接近していたにもかかわらず?」
「うちの連中は、命令された場所をちゃんと見回ってたよ。」
ユマは机上の書類を指した。
「哨戒記録も全部そこにある。」
補佐官が書類を査問官へ渡す。
レンヌ要塞司令部が発行した哨戒命令書と、ロスバルトが提出していた日々の哨戒記録。
査問官が目を通していく。
「ロスバルトに割り当てられていた哨戒区域に異常はなかった。レミーラ軍が入ってきたのは、その外だ。」
「ルーブル山地か。」
「そう」
ユマは腕を組んだ。
「レンヌ峰より北を大きく迂回して、山を越えてきた。あんなところから二万近い兵を連れてくるなんて、こっちも想定してなかったよ。」
「つまり、敵将がロスバルトの哨戒網を把握していたと?」
「それはそう考えるのが自然だろうね。」
ユマはあっさり認めた。
「そこは完全にやられた。でも、ここ数十年、見張れと命令されてもいない場所から敵が来たことまで、うちの責任にされたらたまらないよ。」
査問官たちが書類を確認する。
誰からも反論は出なかった。
「では、レンヌ放棄について聞こう。」
「どうぞ」
「ロスバルト傭兵団は、要塞司令官の許可を得ることなく撤退した。」
「司令官が先に逃げちまったからね。」
室内の空気が固まった。
隣に座っていたトウヤが小さく咳払いする。
「……言葉を慎みたまえ。」
「事実だよ。」
ユマは肩をすくめた。
「グリフィス三世以下、司令部の主要人物は東門から脱出している。その際、ロスバルトには撤退命令も同行命令も出されていない。」
別の書類が開かれる。
レンヌから持ち出した公文書だった。
命令書。
哨戒報告。
司令部内の往復文書。
逃げるには邪魔になる紙の束を、ユマは捨てなかった。
そして今、その紙の束がロスバルトを救っている。
「食糧庫は焼失。東街道は封鎖。司令官は撤退。指揮系統も崩壊してた。」
ユマは指を折りながら並べていく。
「その状態でレンヌに残って、何を守れっていうの?」
「……」
「うちの連中を全員死なせれば満足だった?そんな契約までされてないよ。」
「ユマ」
トウヤが低い声でたしなめた。
「分かってるよ。」
ユマは椅子へ座り直した。
「言い過ぎた。」
査問官は咳払いすると、次の書類を取り上げた。
「最後に、カーライルへの救援要請について確認する。」
ユマの表情から笑みが消えた。
「ロスバルト側は、レミーラ軍の活動が活発化した時点で、増援の必要性をレンヌ司令部へ上申を行った。」
「間違いなく行ったね。」
「しかし、中央に救援要請は届いていない。」
「そうらしいね。」
「その理由について、貴官はどう説明する。」
ユマは答えなかった。
代わりに、一枚の文書を差し出した。
査問官が受け取る。
目を通した。
室内が静かになった。
レンヌ要塞司令官。グリフィス三世の署名。
中央本部宛ての報告書。
レンヌ周辺における敵軍の活動は限定的。
現在の守備兵力をもって対処可能。
そして。
カーライル騎士団の派遣を必要とせず。
「……これは原本か」
「司令部の保管庫にあったものだよ。」
「写しは?」
「ある。日付も封印も好きなだけ調べればいい。」
査問官たちの間で小声のやり取りが始まった。
ユマは黙って待った。
やがて中央の査問官が顔を上げる。
「ロスバルトが増援の必要性を上申していたことは、関連文書からも確認されている。」
別の査問官が続ける。
「哨戒任務についても、命令された区域における重大な怠慢は認められない。」
「また、レンヌからの撤退については、指揮系統崩壊後の措置であり、部隊保全上やむを得ないものであったと判断する。」
中央の査問官が書類を閉じた。
「以上をもって、レンヌ陥落について、ロスバルト傭兵団に軍務上の重大な過失は認められない」
ユマはふぅと小さく息を吐いた。
「ただし」
続く言葉に顔を上げる。
「レンヌ防衛契約は、その目的を達成していない。契約報酬については別途精算を行う」
「……はいはい」
ユマは力なく手を上げた。
「分かりましたよ」
◇
査問室を出ると、ユマは廊下の壁に背中を預けた。
「ふう……かなり危なかったね。」
隣を歩いていたトウヤも息を吐く。
「だが、これで我々への嫌疑は晴れたな。」
「まあ、かわりに報酬はほとんど消えたけどね……」
ユマはがっくりと肩を落とした。
「装備も馬も減ってるし、負傷者もいるし。これじゃ完全に赤字だよ。」
「命が残っただけましだろう。」
「団長としてはそうなんだけどさ。」
ユマは頭を掻いた。
「せっかくの外貨獲得の機会を失った市長としては笑えないんだよ。」
トウヤが苦笑する。
ユマも笑った。
だが。
その笑みが、ふっと消えた。
「……でも、あいつはそうはいかないな。」
「あいつ?」
「ジャンだよ」
トウヤの表情も変わった。
ジャン=ワイズマン。
中央からレンヌへ送り込まれてきた、口の悪い若い官僚。
あいつがいなければ。
中央へ救援要請が出されていないことを、ユマは知りえなかった。
「……まさか、あの爺さんまで生きてるとはね。」
ユマが呟いた。
グリフィス三世。
レンヌを捨てて逃げた男。
そして。
生きて中央へ帰ってきた男。
トウヤは何も言わなかった。
ユマも、それ以上は言わなかった。
◇
「被告、ジャン=ワイズマン。前へ」
呼ばれて、ジャンは立ち上がった。
両側に立つ衛兵に促され、法廷の中央へ進む。
高い天井。
壁に掲げられた都市同盟旗。
左右を埋める傍聴席。
その奥、高い位置に裁判官たちが並んでいる。
ジャンは被告人席に立った。
こんな場所に立つ理由が、いまだに分からなかった。
ゼルキアに戻ってすぐ彼の身柄は拘束された。
それから何度もこの場に立った。
「被告、ジャン=ワイズマン」
裁判長が書面を読み上げる。
「貴官には、レミーラ帝国軍への軍事機密漏洩、および敵国への内通の嫌疑がかけられている。」
「否認します。」
ジャンは即答した。
「私はレミーラ帝国と接触したことはありません。」
「では、順に確認しよう。」
検察官が立ち上がった。
「被告はレンヌ要塞司令官付き官僚として、要塞内の軍事情報へアクセス可能な立場にあった。」
「もちろん完了ですからありました。ただし職務上必要な範囲で、です」
「食糧備蓄量についても?」
「把握していました。」
「各門の守備兵力についても?」
「資料を見る権限はありました。」
「ロスバルト傭兵団の配置についても?」
「司令部内で共有されていた情報です。」
検察官が一枚の書類を持ち上げた。
「レミーラ軍は、ロスバルトの主要哨戒区域を避け、レンヌ峰より北のルーブル山地を迂回して接近した。」
ジャンは黙って聞いていた。
「さらに初動において西門を攻撃。レンヌ守備隊を混乱させ、その間に食糧庫を攻撃している」
「それが?」
「敵軍はあまりにも正確に、レンヌの弱点を突いていると思わんかね?」
「だから私が情報を流したと?」
「その可能性を述べている。」
「推測の域をでない話です。」
「もちろん」
検察官はあっさり認めた。
「それだけならばな」
次の書類が取り出される。
「被告は、レンヌ包囲以前からロスバルト傭兵団との接触を繰り返している。」
「食堂で話をしていただけです。」
「軍務に関する話も?」
「多少は」
「新たな政治構想についても議論していたそうだな。」
ジャンは眉をひそめた。
「それがスパイ容疑と何の関係があるんです?」
「被告が都市同盟の現行体制に不満を抱いていたことを示す。」
「私はゼルキニスト――ゼルキア至上主義者だ。議論はしたが、現行体制の批判などしていない。」
「無論だ。」
検察官は頷いた。
それ以上は追及しなかった。
その態度が、かえって気味が悪かった。
「では、次だ。」
証人が呼ばれた。
レンヌ司令部に勤務していた官僚だった。
ジャンも顔を知っている。
たしか、一緒にレンヌに赴任したライアーという男だった。
「被告には不審な点があったか。」
「……はい」
「具体的に。」
「着任当初より、頻繁に資料庫へ出入りしていました。」
「私は司令官付きです!」
思わず声が出た。
槌が鳴る。
「被告。発言は許可を得てから行え。」
「……失礼しました。」
ジャンは歯を食いしばった。
証言は続いた。
ジャンが軍務記録を閲覧していた。
食糧備蓄を調べていた。
哨戒記録を確認していた。
グリフィスの命令に疑問を呈していた。
ロスバルトの人間と頻繁に話していた。
都市同盟中央の政策について議論もしていた。
どれも事実だった。
だからこそ厄介だった。
嘘なら崩せる。
間違いなら訂正できる。
だが、事実を並べ替え、意味だけを変えられると、一つずつ説明しなければならない。
「そしてレンヌ陥落時。」
検察官が言った。
「被告は正規守備隊と行動を共にせず、ロスバルト傭兵団とともに要塞を脱出した。何故かね?」
「取り残されたんです。」
「司令官は被告に撤退命令を伝えなかった?」
「そうです。」
「なぜだろうな。」
「私に聞かれても知りません。」
検察官は少し間を置いた。
「では、本人に聞くことにしよう。」
ジャンが眉をひそめた。
「証人を」
法廷脇の扉が開いた。
一人の男が入ってきた。
五十を過ぎた、恰幅のいい男。
その顔を見た瞬間。
「……は?」
声が漏れた。
見間違えるはずがない。
レンヌ要塞司令官。
グリフィス三世。
「……生きていたのか。」
グリフィスがジャンを見る。
以前と変わらない。
人の良さそうな笑みさえ浮かべていた。
「久しぶりだな、ワイズマン君」
ジャンは言葉を失った。
あの男が。
部下を置き去りにして。
大量の荷車を引き連れて逃げた男が。
何事もなかったような顔で、そこに立っている。
「証人」
裁判長が告げる。
「レンヌ要塞司令官として、被告ジャン=ワイズマンの勤務状況について証言せよ」
「承知しました」
グリフィスは丁寧に頭を下げた。
◇
「ワイズマン君は非常に優秀な官僚でした。」
ジャンの眉が動く。
「ニューアーク大学を主席で卒業しただけあって、仕事も速く、理解力も高い。私も当初は大いに期待しておりました。」
「当初は?」
検察官が尋ねる。
「ええ」
グリフィスが困ったような顔をした。
「しかし、次第に気になる行動が目立つようになりましてな。」
「具体的には?」
「必要以上に軍務資料を調べていたことです。」
「必要以上?」
「食糧備蓄。各門の兵力。哨戒区域。増援計画。そういったものを随分と熱心に。」
「職務です!」
ジャンが叫んだ。
槌が鳴る。
「被告、静粛に!」
「ですが――」
「発言を許可していない。」
ジャンは歯を食いしばった。
グリフィスは少し悲しげな目でこちらを見ている。
その顔が、たまらなく腹立たしかった。
「もちろん、当時は私も職務熱心なのだろうと思っておりました。」
グリフィスは大仰に続ける。
「ですから、特に咎めることもしなかった。」
「では、いつから疑念を?」
「レミーラ軍の攻撃を受ける以前からです。」
法廷が静かになる。
「先ほど申し上げた通り、当初は職務に熱心なのだろうと思っておりましたが……」
グリフィスは少し考えるように間を置いた。
「余りにも熱心なのです。包帯や酒精の数量を一本単位で調べる。普通なら気にも留めないところまで、一つ一つ確認していく。」
「それで部署異動をしたと。」
裁判官が確認する。
「その通りです。ただ、その時点では私も、そこまで深刻には考えておりませんでした。」
グリフィスは続ける。
「ですが、レンヌが攻撃を受けた際に――」
声が低くなった。
「敵の攻撃はあまりにも正確でした。」
グリフィスはゆっくりと言った。
「我々の哨戒を避け、最も警戒の薄い場所から現れた。西門を突き、混乱に乗じて食糧庫を攻撃した。」
ジャンはグリフィスを睨んだ。
「私も前線経験は長い。ですが、これほど正確にこちらの弱点を突かれたことは一度もなかった。」
グリフィスは一度言葉を切った。
「ですから、そのとき、私は思ったのです。」
視線がジャンへ向く。
「これらの情報をすべて敵に伝えたもの者が、レンヌの中にいたのではないか、と。」
「……」
「そしてその者は、他部署への異動後、ロスバルトとも頻繁に接触していた。」
「待て」
ジャンが低い声を出した。
「ロスバルトの情報までも敵に流していたとでも言うのか?」
「私はそのようなことは言っていないよ。」
グリフィスは穏やかに答えた。
「ただ、ロスバルトの所属するセイレン市はセントハイムの軍事衛星都市。ゼルキア出身の我が部下たちは、ほとんど自ら接触を避けていました」
そこで傍聴席へ目を向ける。
「ゼルキア市民の皆様にも、少しはその辺りの心情をご理解いただけるのでは?」
小さなざわめきが起こった。
「それが、ワイズマン君はロスバルトと積極的に意思疎通を図っていた。私はその行為が、にわかには信じられませんでした。」
「まったくの無関係だ。」
再び槌が鳴る。
「被告!」
ジャンは息を荒くした。
グリフィスは嘘を言っていない。
そこが一番腹立たしかった。
自分が資料を調べていたのも事実。
ロスバルトの連中と話していたのも事実。
敵が哨戒網を避けたのも事実。
食糧庫を攻撃したのも事実。
ただ、それぞれ無関係な事実を一本の線で結んでいる。
「証人」
検察官が尋ねた。
「レンヌ撤退時、なぜ被告へ撤退命令を伝えなかったのですか。」
「混乱しておりましたからな。」
グリフィスはため息を吐いた。
「敵襲によって指揮系統は大きく乱れていた。すべての者へ命令が行き届かなかったことについては、司令官として私にも責任があります」
そして、わずかに目を伏せる。
「ただ、彼の行動を訝しく思った私は、その少し前に彼を司令部から他部署へ異動させておりました。あの混乱の中、司令部付きでない者にまで命令が行き届かなかったことについては、やむを得ない部分もあったかと。」
ジャンは目を見開いた。
こいつ。
自分で左遷しておいて。
それを、今度は撤退命令が届かなかった理由に使っている。
「ですが」
グリフィスが続けた。
「結果として、ワイズマン君はロスバルトと行動を共にし、無事に脱出している。」
検察官が尋ねる。
「仮に被告がレミーラ側の協力者だったとするならば、なぜ敵軍へ合流せず、ロスバルトとともに撤退したのでしょうか。」
「さあ」
グリフィスは首を傾げた。
「逃げ遅れたのか? 詳しいことは分かりませんがね。」
そこで一度、言葉を切った。
「ただ、私も長く戦場におります。戦闘中に所属する部隊から一人で離脱するなど、かえって命を失う原因になります。」
「つまり?」
「目の前に撤退する部隊があるなら、それについていく。生き延びることだけを考えれば、何ら不自然ではありません。」
裁判官たちが黙って聞いている。
グリフィスの前線経験が長いことは、ここにいる者たちも知っていた。
「それに――」
グリフィスがジャンを見る。
「敵地へ逃げ込むより、中央へ戻った方が、さらなる諜報活動に使えると踏んだのかもしれませんな。」
「なっ……!」
「無論、推測にすぎません。」
グリフィスはすぐに付け加えた。
「私は彼の考えを知る立場にはありませんので。」
まただ。
断定しない。
証拠があるとも言わない。
ただ、あり得る可能性として置いていく。
「ですが、敵側へ逃げなかったからといって、それだけで嫌疑が晴れるとも思いません。」
検察官が頷いた。
「以上です」
「待て!」
ジャンが叫んだ。
「私から質問させろ!」
裁判長がジャンを見る。
「何を質問する」
「司令官がレンヌから逃げたときのことです。」
グリフィスの表情が、ほんのわずかに固まった。
「グリフィス司令官」
ジャンはまっすぐ男を見る。
「あなた、撤退の際、自分の私財を大量に荷車へ積み込んだ。」
傍聴席がざわめいた。
「私財?」
グリフィスが眉を上げる。
「そんなものを持ち出すはずがない。」
「レンヌの城壁から私は見たぞ。司令官が多くの荷車を引き連れて撤退するのを」
「はあ……」
グリフィスがため息を吐いた。
「確かに私は、レンヌの資産の一部を持ち出した。」
「そうだろう。」
「ただ、それは戦乱から保護すべき同盟の資産です。むざむざ敵に渡せと?」
「絵画も?」
「財産には違いない」
「酒も?」
「……」
「高級家具まで?」
グリフィスが怪訝そうな顔をした。
「……酒? 高級家具?」
「そうだ」
「私はそのようなものを持ち出していない。証拠でも?」
「何を――」
「ワイズマン君」
グリフィスは静かに言った。
「君は今、城壁から見た、と証言したな」
「それがどうした」
「城壁の上から、荷車の中身まですべて見極められるほど目がいいのか?」
「……!」
ジャンの言葉が詰まった。
確かに見た。
大量の荷車が東門から出ていくところを。
兵たちがそれを守りながら逃げていくところを。
だが。
その中に何が積まれていたのか。
城壁の上からでは細かく確認するすべはない。
「ふざけるな!!」
法廷が騒然となった。
裁判長の槌が激しく鳴る。
「静粛に!」
「被告を制止しろ!」
衛兵がジャンの腕を掴んだ。
「離せ!」
「ワイズマン君」
グリフィスが静かに言った。
ジャンが睨みつける。
「君が私を嫌っていたことは、よく分かった。」
「……なんだと」
「それもまた、証言として記録していただきたい。」
一瞬。
ジャンは何も言えなくなった。
法廷の書記官が、黙々と筆を走らせている。
――司令官に対する強い敵意。
今のやり取りさえ。
自分を罪人にする材料になっていく。
「証人、退廷を許可する。」
「承知しました。」
グリフィスは裁判官たちへ丁寧に一礼した。
証言台を降りる。
法廷脇の扉へ向かう途中。
ジャンの前を通り過ぎた。
その瞬間だった。
グリフィスが、ほんのわずかに顔を向けた。
そして。
口元だけで笑った。
「……!」
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないほど小さな笑み。
だが、ジャンには分かった。
あれは勝ち誇った顔だった。
グリフィスは何も言わない。
そのまま扉の向こうへ消えていった。
扉が閉まる。
ジャンは、その扉を睨み続けていた。
あいつは分かっている。
自分が何をしているのか。
分かったうえで。俺をここに立たせている。
◇
グリフィスが去った後も、裁判は続いた。
一つ。
また一つ。
証拠が提示される。
ジャンは反論した。
資料庫への出入り。
職務上必要だった。
哨戒情報の閲覧。
司令官付き官僚なら当然だ。
ロスバルトとの接触。
公然と食堂で行っている。
都市同盟中央に関する議論。
それ自体は罪ではない。
レミーラ軍との通信記録。
存在しない。
金銭の授受。
存在しない。
敵軍との接触証言。
存在しない。
直接証拠など、一つもなかった。
「被告はレミーラ軍との接触を否定している。」
「当然です。していませんから。」
「だが敵軍は、被告が把握し得た情報を用いたかのように行動した。」
「偶然です。」
「偶然?」
「敵将ルートビッヒ=シュナイダーが優秀だった。それだけでしょう。」
法廷が静かになった。
ジャンは続ける。
「レンヌの防衛配置は、外から見てもある程度推測できる。西側から攻撃すれば守備隊が混乱することも、食糧庫を失えば長期防衛が不可能になることも、軍人なら考えるのでは?」
「なるほど、被告は敵将を高く評価しているわけだ。」
「評価も何も、事実を述べています。」
「敵将を評価し、味方の司令官を繰り返し批判していた。」
「それが何だと言うんです。」
検察官は答えなかった。
次の証拠へ移った。
そうやって。
状況証拠だけが積み上がっていった。
軍事情報へアクセスできた。
敵はその情報を知っているかのように動いた。
ロスバルトと親しくしていた。
司令官と対立していた。
そして要塞陥落後、正規軍とは行動せず、ロスバルトとともに逃げた。
個別に見れば、どれも説明できる。
だが並べてしまえば。
一つの筋書きが出来上がる。
ジャンは、ようやく理解し始めていた。
これは、自分が何をしたかを調べているのではない。
レンヌがなぜ落ちたのか。
その答えを作っている。
ロスバルトには責任を負わせられなかった。
持ち出された公文書があったから。
ならば。
別の誰かが生贄にとして必要になる。
そして、その生贄として。自分が必要なのだ。
◇
「最後に申し開きはあるか」
裁判長が尋ねた。
ジャンは立ち上がった。
「あります。」
法廷を見渡す。
「検察側が提示した証拠に、私とレミーラ帝国を直接結びつけるものは一つもありません。」
声は震えていなかった。
「私が資料を閲覧した。事実です」
「ロスバルトと話した。事実です」
「グリフィス司令官と対立していた。それも否定しません。」
一つずつ認める。
「しかし、それらを並べたところで、私がレミーラへ情報を流した証拠にはならない。」
誰も動かなかった。
「敵との通信記録はない。」
「金銭の授受もない。」
「接触したという証言もない。」
「私が情報を渡したという物的証拠もない。」
一つずつ。
確認するように言った。
「何もないでしょう。」
静寂だけが返ってきた。
「レンヌが陥落した責任を問いたいのであれば、軍事的判断を誤った者を問うべきです。」
一瞬。
グリフィスの笑みが頭に浮かんだ。
だが、もう名前は出さなかった。
「少なくとも」
ジャンは言った。
「私は、敵国へ情報を流していない」
静寂。
裁判長が書面へ目を落とした。
「判決を言い渡す。」
ジャンは立ったまま待った。
「被告、ジャン=ワイズマン」
妙に遠くから声が聞こえた。
「国家に属する軍事機密を敵国へ漏洩し、レンヌ要塞陥落を招いた罪は重大である。」
何を言っている。
「よって――」
違う。
「被告を」
違う。
「死刑に処する」
音が消えた。
ジャンは裁判長を見ていた。
意味が分からなかった。
死刑。
今。
確かにそう言った。
その瞬間。
頭に浮かんだのは。
法廷を出ていく直前に見せた。
グリフィスの笑みだった。
「……待ってください」
声が出た。
「判決は以上である」
「待ってください!」
衛兵が左右から近づいてくる。
腕を掴まれた。
「私は反論したでしょう!」
引かれる。
「全部説明した!」
誰も答えない。
「おかしいだろ!」
法廷の扉が近づいてくる。
ニューアーク大学主席。
中央官僚。
将来を約束されていた。
自分は間違っていない。
説明すれば分かる。
証拠を示せば分かる。
ずっとそう思っていた。
扉が開いた。
薄暗い廊下へ連れ出される。
法廷の喧騒が、背後で扉に遮られた。
そこでようやく。
ジャンの口から、小さな声が漏れた。
「……俺は何もやっていない。」




