第7話 奇襲
ジャンとユナ
ルートビッヒ
アーネム大陸ゼルキア地方図
◇
朝。
ジャン=ワイズマンは、医療班で整理した書類を抱え、宿舎へ向かって歩いていた。
レンヌの朝は早い。空はまだ薄暗かったが、兵士たちはすでに活動を始めており、夜番を終えた者たちが欠伸をしながら兵舎へ戻っていく。城壁の向こうから吹き込む風は冷たく、ジャンは抱えていた書類を持ち直しながら歩調を速めた。
昨日整理した負傷兵の記録と、医療物資の在庫表。
包帯、消毒用の酒精、薬草、縫合糸。
どれも不足していた。
補給担当へ提出する要求書も作成したが、これまでの経緯を考えれば、まともに物資が届くかどうかは怪しいものだった。
「おはよう、主席殿」
「…………」
聞き覚えのある声に、ジャンは足を止めた。
朝から最も聞きたくない声の一つだった。
「ずいぶんな顔だねぇ。朝から機嫌が悪いのかい?」
振り返ると、ユマ=リズナーがいつもの気楽な笑みを浮かべて立っていた。
「朝からあなたですか」
「何だい、その言い方は。せっかく挨拶してやったのに」
「昨日一日で十分です」
「ひどいねぇ」
ジャンが再び歩き出すと、ユマも当然のようについてきた。
「それで、医療班はどうだい?」
「最悪ですよ。人手不足に物資不足、おまけに予算も足りない。よく今まで運営できていたものだと感心しているところです」
「そいつは大変だね」
「他人事ですね」
「実際、私の仕事じゃないからね」
「そうですか」
「でも、以前よりはいい顔になったよ」
ジャンは眉をひそめた。
「何の話です?」
「ちゃんと仕事をしている人間の顔になったってことさ」
「以前は仕事をしていなかったと?」
「してたんじゃない?」
ユマは楽しそうに笑った。
「ただ、紙とばっかり仕事してたみたいだけどね」
「朝から喧嘩を売りに来たのなら、相手をするつもりはありませんよ」
「そりゃ残念」
ジャンはため息をついた。
どうしてこの女は、朝からこれほど元気なのだろう。
そのときだった。
遠くから、腹の底に響くような重い音が聞こえた。
「……?」
ジャンが足を止める。
続いて、もう一度。
今度は先ほどよりもはっきり聞こえた。
何か巨大なものが石壁に叩きつけられたような轟音だった。
そして、警鐘が鳴り響いた。
一つ、二つと鐘の音が重なり、たちまちレンヌ要塞全体へ広がっていく。
「敵襲! 敵襲だ!」
東の城壁から怒号が上がった。
「東門に敵軍接近! 総員、配置につけ!」
通りを歩いていた兵士たちが一斉に駆け出した。
ジャンは反射的にユマへ視線を向けた。
先ほどまで笑っていた彼女の顔から、笑みが完全に消えていた。
「……東?」
ユマが呟いた。
「西じゃないのかい?」
レミーラ帝国軍が活動していたのは、これまで主にレンヌの西方だった。
ところが、警鐘は東から聞こえている。
東方は都市同盟の後方へ続く地域であり、大規模な敵軍が出現するとは考えられていなかった。
ユマは一瞬だけ考え込んだが、すぐにジャンへ向き直った。
「主席さん、医療班へ戻りな」
「何が起きているんです?」
「まだ分からない。だけど、あんたがここにいても仕方ないだろう?」
「それはそうですが――」
「早く!」
鋭い声だった。
ジャンが返事をするより早く、ユマは城壁へ向かって走り出していた。
◇
レミーラ帝国軍の攻撃は、あまりにも唐突だった。
北部の山地を迂回した帝国軍が、レンヌの東方から姿を現し、そのまま東門へ攻撃を仕掛けてきたのである。
これまで帝国軍が活動していたのは主に西方であり、東側から大規模な攻撃を受けることなど、守備隊の誰も予想していなかった。
しかも、帝国軍の攻撃は激しかった。
弓兵の援護を受けた歩兵が次々と城壁へ押し寄せ、東門には攻城槌が打ちつけられる。城壁へ取りついた兵士たちは梯子を登り、門前では守備兵と帝国兵が激しく衝突した。
「第三隊、東門へ!」
「弓兵は城壁に上がれ!」
「予備兵力を回せ! 門を突破させるな!」
城壁の上では怒号が飛び交い、守備兵たちが必死になって敵を押し返していた。
帝国軍の攻撃は、決して見せかけではなかった。
もし守備隊の対応が遅れていれば、東門は突破されていただろう。そして、一度城内へ侵入を許せば、いかに堅固なレンヌ要塞といえども、陥落は免れなかったかもしれない。
だが、ロスバルト傭兵団の対応は早かった。
ユマの指揮によって各戦隊が速やかに配置につき、東門へ予備兵力が投入される。城壁に取りつこうとした帝国兵は次々と撃退され、門扉へ迫った攻城部隊も激しい反撃を受けた。
帝国軍は何度も攻撃を繰り返したが、ロスバルトの防衛線を崩すことはできなかった。
そして昼過ぎ。
突破が困難と判断した帝国軍は、ついに攻撃を断念して後退を始めた。
レンヌの東門は守られた。
五十年間、一度として敵の手に落ちたことのない巨大要塞は、今日もその堅固さを証明したのである。
しかし、東門で激しい戦闘が続いている間、要塞の反対側では別の事態が進行していた。
レンヌ西部。
兵糧庫を中心とした貯蔵施設が集まる一角に、数人の男たちが姿を現していた。
彼らは帝国軍の軍装を身につけていなかった。以前からレンヌへ入り込み、市民や労働者に紛れて機会をうかがっていた工作員たちだった。
東門への攻撃によって守備隊の注意が東側へ集中したことで、西側の施設を守る兵士は普段よりも少なくなっていた。
工作員たちは、その機会を逃さなかった。
兵糧庫の警備兵が襲われ、ほどなくして建物から火の手が上がった。さらに周辺の貯蔵施設でも相次いで火災が発生し、保管されていた食糧や資材に燃え移った炎は、瞬く間に広がっていく。
東門で敵を撃退したという知らせが届いた頃には、西側の兵糧庫から巨大な黒煙が立ち上っていた。
◇
ジャンが医療班へ駆け込んだとき、すでに最初の負傷兵が担架で運び込まれ、医療兵たちが慌ただしく治療の準備を進めていた。
「先生!」
ユナが駆け寄ってきた。
「何があったの!? 外がすごく騒がしいよ!」
「俺にも分からん。東の城壁が攻撃されているらしい」
「姉さまは?」
「城壁へ向かった」
「姉さまも戦うの?」
隣にいたリックが不安そうに尋ねた。
「傭兵団の団長なんだから、当然だろう。それより、お前たちはここから動くな」
「でも……」
「外へ出たところで邪魔になるだけだ。今の俺たちにできる仕事をするぞ」
ジャンが言い切ると、二人は顔を見合わせ、やがて頷いた。
「……うん!」
「分かった」
そのとき、新たな負傷兵が担架で運び込まれた。
「誰か手を貸してくれ!」
「はい!」
ユナとリックが駆け寄っていく。
ジャンも抱えていた書類を机へ置くと、袖をまくった。
今は出世のことなど考えている場合ではなかった。
それから数時間、医療班は休む暇もなかった。
東門から運び込まれる負傷兵は後を絶たず、治療台はすぐに埋まった。医師たちが傷の深い者から治療に取りかかり、ジャンも縫合や止血を手伝いながら、必要な薬品と包帯を次々に割り振っていく。
ユナとリックも指示に従って働いた。運び込まれた兵士の名前と所属を記録し、治療を終えた者を別の幕舎へ案内する。
ようやく負傷兵の搬入が落ち着き始めたのは、昼を過ぎてからだった。
「東門の敵が退いたぞ!」
外から声が聞こえた。
続いて、あちこちから歓声が上がる。
どうやら守備隊は、帝国軍を撃退したらしい。
ジャンも小さく息を吐いた。
少なくとも、これ以上負傷者が増え続ける事態は避けられそうだった。
ところが、その直後だった。
「水を持ってこい!」
「こっちにも包帯を!」
「倉庫から追加の物資を運べ!」
「無理だ! 倉庫が燃えてる!」
医療区画に飛び込んできた兵士の言葉に、ジャンの手が止まった。
「……何だって?」
「西の兵糧庫がやられた! ほかの施設にも火が回ってる!」
「兵糧庫?」
ジャンは立ち上がり、医療区画の外へ出た。
すると、西の空には何本もの黒煙が立ち上っていた。風に煽られた煙が要塞の上空へ広がり、焦げ臭い匂いがここまで漂ってくる。
ジャンは、その光景を見つめた。
兵糧庫。
巨大なレンヌ要塞にとって、城壁と同じくらい重要な施設だった。
「……やられたよ」
背後から声がした。
振り返ると、ユマが立っていた。
顔には煤がつき、左腕には簡単な包帯が巻かれている。
「怪我をしたんですか?」
「かすり傷さ。そんなことはどうでもいい」
ユマは西の黒煙を睨んだ。
「私たちは、完全にやられたんだよ」
ジャンは眉を寄せた。
「東門の防衛には成功したのでしょう? 敵軍は撤退したと聞いていますが」
「ああ、守ったよ。ロスバルトの連中もよくやってくれた。あのまま戦っていれば、敵も無傷では済まなかっただろうね」
「ならば、勝利ではありませんか」
「東門ではね」
ユマは苦々しげに答えた。
「でも、敵は東門を攻撃している間に、西の兵糧庫まで潰していったんだよ」
「……どういうことです?」
「兵糧庫の警備兵が襲われた。敵は外から侵入してきたんじゃない。最初からレンヌの中に潜り込んでいた連中だよ」
「工作員ですか」
「そういうことさ。しかも一か所じゃない。西側の施設がほとんど同時に襲われている。偶然なんかじゃないね」
ユマは舌打ちした。
「東門への攻撃だって本気だったよ。少しでもこちらの対応が遅れていたら、あのまま突破されていただろうね」
「つまり、城門を攻略できればそれでよし。できなければ、別の手段で損害を与えるつもりだったと?」
「そういうことだね」
ユマは西の空へ目を向けた。
「東門が突破できないと分かったから、敵は引いた。でも、その時にはもう、兵糧庫を焼く仕事は終わっていたんだよ」
ジャンも黒煙を見上げた。
なるほど。
合理的な作戦だった。
正面から要塞を攻略できれば、もちろんそれが最善である。しかし、強固な城壁を突破できなくても、内部の食糧を破壊すれば籠城能力を大きく削ぐことができる。
どちらに転んでも攻撃側が利益を得られる、よく考えられた作戦だった。
「……厄介な指揮官ですね」
「まったくだよ」
「ですが、実に合理的です」
「だから嫌なんだよ」
ユマはそう吐き捨てると、その場にしゃがみ込み、地面へ数字を書き始めた。
「とはいえ、全部焼かれたわけじゃない。レンヌには籠城用の備蓄があるし、兵糧庫だって何か所かに分散しているからね」
「残りでどれくらい持ちますか?」
「今、被害を確認させてるところだけど、だいたいの見当はつくよ」
ユマは守備兵と市民の人数を書き込み、一日当たりの食糧消費量を計算し始めた。
軍民合わせた人数、残存食糧の概算、配給を制限した場合の消費量。それぞれを手早く計算し、数字を並べていく。
ジャンは黙って眺めていた。
思っていた以上に計算が速い。
「……何だい?」
「いえ。計算ができるんですね」
「殴るよ?」
即答だった。
「あたし、あんたと同じニューアーク大学に留学してたんだけどね。成績だって上位だったんだよ」
「冗談です」
「今はそんな冗談に付き合ってる暇はないよ」
ユマは再び地面へ目を落とした。
「まず配給を減らす。軍馬も今の数を維持するわけにはいかないね。それから、城外の部隊を収容して、余計な食糧の消費を抑える」
「市民への配給も制限しますか?」
「もちろん。ただし、子供や傷病者の分は確保しないとね。食糧があっても、人が先に倒れちまったら意味がない」
ユマは数字をいくつか書き直した。
正確な被害状況が判明するまでは概算にすぎない。しかし、残存する倉庫の位置と普段の備蓄量は把握している。
そして、しばらくして顔を上げた。
「……守れるね」
「どれくらいです?」
「被害が想定を大きく上回っていなければ、一か月は持たせられるはずだよ」
ユマは立ち上がった。
「一か月あれば十分さ」
「……十分?」
「ああ。カーライルが間に合う」
ジャンは答えなかった。
ユマは気づかずに話を続けた。
「レミーラ軍の活動が活発になり始めたのは、もう何か月も前のことだよ。こちらも三か月前から増援を要請しているし、中央がまともに対応していれば、カーライル騎士団だって準備を進めているはずさ」
「…………」
「仮にレンヌが包囲されたとしても、カーライルが後方から迫れば敵だって無視できない。こちらが一か月持ちこたえれば、十分に勝算はあるよ」
「来ませんよ」
ユマの動きが止まった。
「……何だって?」
「カーライルは来ません」
ジャンは黒煙から視線を外し、ユマを見た。
その口調があまりにも平然としていたため、ユマは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「……どういう意味だい?」
「そのままの意味です。レンヌ司令部は、カーライル騎士団の派遣を必要としていないと、中央政府へ報告しています」
ユマの表情が消えた。
「……いつから?」
「少なくとも、私が文書係にいた頃からです。それ以前については確認していませんが、同じような報告が繰り返されていたようですね」
「待ちな」
ユマが一歩近づいた。
「じゃあ、これまでの小競り合いは?」
「局地的な衝突として処理されています」
「レミーラ軍の活動が増えていることは?」
「大規模な活動は確認されていない、と」
「周辺部隊からの警告は?」
「司令部の判断では、脅威を過大評価しているそうです」
「……中央には?」
「レンヌ周辺の情勢は安定しており、現有兵力で対処可能と報告されています」
次の瞬間、ジャンの襟元が乱暴に掴まれた。
「おい……!」
ユマが顔を近づけた。
その手は怒りで震えている。
「あんた、それを本気で言ってるのかい!?」
「私がこんなことで嘘をつく理由がありますか?」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
さらに強く引き寄せられ、ジャンは思わず足を踏み出した。
「中央は! 中央は、レンヌが危険だってことを知らないのかい!?」
「おそらく、危険ではないと認識しているでしょうね」
「……なんだって?」
「私が清書しましたから」
ユマの目が見開かれた。
「……この腐れ官僚!」
怒鳴りかけたところで、ユマの動きが止まった。
ジャンの顔を見つめ、それから何かに気づいたように眉を寄せる。
「……いや、違うね」
吐き捨てるように言った。
「グリフィスか」
「ご明察です」
ジャンは淡々と答えた。
「増援不要と判断したのはグリフィス三世司令官です。私は文書係として、その回答を清書するよう命じられました」
「……やっぱり、あの野郎か」
ユマの手が離れた。
ジャンは乱れた襟を直した。
「悪かったね」
「別に構いませんよ」
「普通は怒るところだよ」
「あなたに怒ったところで、状況が改善するわけではないでしょう」
「……本当に可愛げがないね、あんたは」
「よく言われます」
ユマはもうジャンを見ていなかった。
ただ、西の空に立ち上る黒煙を睨んでいる。
これまで何度も増援を求めてきた。
敵軍の活動が増えていることも、兵力が不足していることも、司令部へ繰り返し報告している。
それなのに、その情報は中央へ届いていなかった。
単に増援を拒否されたのではない。
増援が必要だという事実そのものを、なかったことにされていたのである。
「……あの野郎」
ユマが低く呟いた。
ジャンは少し考えた末に、口を開いた。
「そもそも、カーライルに増援を要請するのであれば、まず中央政府が現在の状況を正確に把握する必要があります」
「……そうだね」
「今日の攻撃について、司令部がいつ中央へ報告するのかは分かりません。仮にすぐ報告したとしても、そこから事実確認を行い、カーライルへ派遣命令を出すことになるでしょう」
「……」
「カーライル側も、命令を受けてから兵を集め、補給を準備しなければなりません。まして大規模な騎士団を動かすとなれば、相応の時間が必要になります」
ユマは黙って聞いていた。
その内容を、彼女自身も理解している。
中央への報告、事実確認、増援の決定、カーライル騎士団の動員と補給準備。
そして、レンヌまでの行軍。
どれも省略できるものではなかった。
「……順調に進んだとして、どれくらいだい?」
ユマが尋ねた。
「二、三か月は見込むべきでしょうね」
ジャンは答えた。
「しかも、それは中央政府が速やかに救援を決定した場合の話です。実際には、もっと時間がかかる可能性もあります」
「…………」
ユマは地面へ目を落とした。
そこには、先ほど自分が書いた数字が残っている。
残存食糧と一日当たりの消費量。
そして、籠城可能な期間。
一か月。
ユマはもう一度、計算を確かめた。
数字は変わらなかった。
どれだけ配給を切り詰めようと、軍民合わせてこれだけの人間を抱えている以上、食糧の消費には限度がある。
カーライルが二、三か月後に来たところで、間に合うはずがなかった。
「……これじゃ、食糧が尽きるね」
ユマが呟いた。
ジャンは何も答えなかった。
しばらく、二人とも黙って黒煙を見つめていた。
東門の城壁からは、まだ兵士たちの歓声が聞こえてくる。
敵の攻撃を退けた。
レンヌは守られた。
五十年間、一度も陥落したことのない巨大要塞は、今日も敵を撃退したのだ。
東門での勝利は、間違いなくロスバルトの働きによるものだった。あの迅速な対応がなければ、レンヌは今日にも陥落していたかもしれない。
しかし、敵はそれで終わりにしなかった。
城壁を突破できなくても、西側の兵糧庫を焼くことで、別の形でレンヌを追い詰めたのである。
そして、頼みの綱であるカーライルの増援は、まだ準備すら始まっていない。
これから敵が本格的な包囲に移れば、食糧を失ったレンヌには、救援が到着するまで持ちこたえる術がなかった。
ユマはゆっくりと顔を上げた。
「……落ちる」
ジャンが彼女を見る。
「このままじゃ、レンヌは落ちるよ」
キャラクターや地図も出来上がりしだいのせていきます。




