第6話 左遷先の客人(後)
◇
昼を少し過ぎた頃だった。
「お腹すいた」
ユナが書類を机に置き、お腹をさすった。
「ぼくも」
隣で仕事をしていたリックも顔を上げる。
ジャン=ワイズマンは二人の声にようやく筆を止め、窓の外を見た。いつの間にか太陽は高く昇り、昼食の時間をとうに過ぎていたらしい。
「もうそんな時間か」
仕事に集中すると時間を忘れる。学生時代から変わらない悪癖だった。
「先生、お昼食べないの?」
「食べるに決まってるだろう」
「どこで?」
「食堂だろう。ほかにどこがある?」
すると、ユナとリックが顔を見合わせた。
「ロスバルトの食堂に行こうよ」
「近いし、姉さまもいるかもしれないよ」
「……では、ここで食べる」
「なんで?」
「急に食欲が失せた」
ユナが呆れたようにジャンを見た。
「姉さまのこと嫌いすぎじゃない?」
「俺とあの女の関係について、お前たちが心配する必要はない」
「やっぱり仲悪いね」
「だから最悪だと言っただろう」
結局、食堂へ行こうと騒ぐ二人に押し切られ、ジャンもロスバルトの宿舎へ向かうことになった。
◇
ロスバルトの食堂は、ジャンが想像していたよりも広かった。
室内には長い卓がいくつも並び、大勢の兵士たちが思い思いに食事を取っている。献立は黒パンに豆と野菜の煮込み、それに干し肉という質素なものだったが、量は十分にあり、兵士の食事としては悪くなかった。
「先生、こっち!」
ユナに呼ばれ、ジャンは四人掛けの卓へ腰を下ろした。
周囲から何人かがこちらを見ている。無理もない。中央政府から派遣された官僚が、ロスバルト団長の弟妹と一緒に食事をしているのだから、奇妙に見えるのだろう。
もっとも、ジャンには他人の視線などどうでもよかった。
パンをスープに浸し、ようやく食事を始めたところで、不意に頭上から声がかかった。
「おい」
嫌な予感がした。
顔を上げると、見覚えのある男が立っていた。
いや、忘れるはずもない。
先日、食堂で自分を殴った傭兵だった。
「……また殴りにでも来たのか?」
「なんだ、その顔は。せっかくだから名乗っておいてやるよ。ハンス=ベッカーだ」
「暴力を振るう人間の名前を逐一覚えていたら、頭がいくつあっても足りないな」
「お前、また殴られてえのか?」
「やってみろ。今度は治療費まで請求してやる」
「二人ともやめてよ!」
ユナが二人を睨んだ。
「わりぃ、わりぃ。今日はそういう用じゃねえよ」
ハンスは悪びれた様子もなく、ジャンの向かいに腰を下ろした。
「誰が座っていいと言った?」
「ここは俺たちの食堂だぞ。それに、空いてる席もここしかねえ」
「……それもそうか」
「納得すんのかよ」
ハンスは呆れながらパンをちぎり、ジャンも何事もなかったように食事を再開した。
しばらく互いに黙って食べていたが、やがてジャンが口を開いた。
「それで、何の用だ?」
「なあ、先生よ。あんた、政治とか金のことに詳しいんだろ?」
「政治と経済だ。一緒にするな」
「似たようなもんじゃねえか」
「全然違う」
「まあいいや。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
ハンスはパンを片手に、少し身を乗り出した。
「なんで街を一つ越えるたびに、税金を取られるんだ?」
ジャンの手が止まった。
「……何の話だ?」
「セイレンからゼルキアまで荷物を運ぶと、途中の街で何度も金を取られるだろ。あれ、どうにかならねえのか?」
「通行税のことか?」
「関税じゃねえのか?」
「場合による。通行そのものに課される税と、持ち込む商品に課される税では意味が違う」
「分からん」
「だろうな。説明してやるから黙って聞け」
ジャンはパンを皿へ戻した。
「都市同盟は一つの国家としてまとまっているが、各都市の自治権が強い。それぞれが独自の徴税権を持っているから、通行する人間や商品から税を取ることができるんだ」
「通るだけで金を取るのか?」
「そういう税もある。それとは別に、自分たちの産業を守るため、外から持ち込まれる商品に関税をかけることもある」
「例えば?」
「そうだな。セントハイムが自分たちの鉄を守りたいとしよう。そこへ、ほかの都市から安い鉄が大量に入ってきたらどうなる?」
「そりゃ、セントハイムの鉄が売れなくなるだろうな」
「そのとおり。だから外から来た鉄に税をかけて値段を引き上げる。そうすれば、地元の鉄も価格で対抗できるわけだ」
「ああ、なるほど。そういうことか」
ハンスは納得したように頷いた。
ジャンは少し意外に思った。先日の一件から、単なる乱暴者だと考えていたが、説明すれば理解できる程度の頭はあるらしい。
「でもよ、それって同盟全体で考えたら損じゃねえの?」
「……なぜそう思う?」
「だって、安い鉄があるんだろ? それをわざわざ高くして買わせるんだから、剣も鎧も農具も高くなるじゃねえか。結局、困る奴が増えるだけだろ?」
ジャンはハンスを見直した。
なるほど。
思っていたより、面白いところに気づく男だった。
「お前、学校には行ったのか?」
「いや、行ってねえよ」
「読み書きや計算は?」
「おふくろとおやじに教わった。給料の計算くらい自分でできなきゃ困るってな」
「意外と学識のある家庭なんだな」
「そんなことねえぜ。俺の周りじゃ、どこの家でも同じようなもんだった」
「……そうなのか?」
「ああ。セイレンじゃ、昔から国母のクリス様が、親は子供に読み書きと計算を教えるようにって広めてたんだよ」
ジャンは興味を覚えた。
中央で見た資料では、セイレンは傭兵の町であり、教育水準もそれほど高くないとされていた。
しかし、学校へ通っていないことと、読み書きや算術を知らないことは別である。
家庭教育が広く行われているのなら、中央が把握している以上に、住民の基礎的な学力は高いのかもしれない。
実際、ハンスは経済に関する知識こそ乏しいが、説明された内容を自分の生活に当てはめて考えることができていた。
「お前の疑問は間違っていない」
「だろ?」
「ただし、セントハイム側にも事情がある。安い商品に押されて地元の産業が壊滅すれば、そこで働いていた人間が職を失う。一度失った産業を立て直すのは簡単じゃない」
「そりゃそうか」
「まして鉄のような軍事上も重要な物資なら、価格だけで判断するわけにもいかない。安いからといって、すべてを他都市からの輸入に頼るのは危険だ」
「面倒くせえな」
「経済とはそういうものだ」
「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」
「知らん」
「知らねえのかよ!」
ジャンは平然と答えた。
「問題が分かったからといって、答えまで一つになるとは限らないだろう。全部分かっているなら、俺は今頃、大政治家か大金持ちだ」
「そりゃそうか」
ハンスはしばらく考え込んでいたが、やがて感心したように頷いた。
「先生、こういう話って面白いな」
「そうか?」
「ああ。俺、今までこんなこと考えたこともなかったからよ」
「知らないなら覚えればいい。それだけのことだ」
「馬鹿でもか?」
「知識がないことと、頭が悪いことは違う。お前には理解力があるんだから、問題ないだろう」
ハンスは一瞬、妙な顔をした。
「……お前、俺のこと馬鹿だと思ってただろ?」
「人を殴るような奴の品性については、今も最低評価だがな」
「一言多いんだよ!」
「事実だろう?」
ハンスは呆れたように笑った。
「やっぱりお前、ムカつくけど面白えな。また何か教えてくれよ」
「授業料を取るぞ」
「飯くらいなら奢ってやる」
「安すぎる」
「傭兵の給料を舐めんなよ」
二人のやり取りを聞いていたユナが、楽しそうに笑った。
「先生、楽しそう!」
「どこがだ?」
「ハンスさんも楽しそうだよ」
「嬢ちゃん、俺とこいつのどこが楽しそうに見えるんだ?」
「だって、ずっとお喋りしてるもん。それに先生、興味のない人とはあんまり喋らないでしょ?」
ジャンはユナを見た。
「お前は俺と会って、まだ半日だろう」
「でも分かるよ」
ユナは得意げに胸を張った。
「女の勘ってやつかな!」
「十二歳が何を言っている」
「十二歳でも女だよ?」
「……まあいい」
これ以上付き合うと、また面倒なことになりそうだった。
ジャンは残っていたパンを口に放り込み、食事を終えた。
◇
翌日、ハンスは商人が払う市場使用料について尋ねてきた。
その次の日には別の傭兵が加わり、都市ごとに貨幣の価値が違う理由を聞いてきた。さらに翌日には三人が集まり、一週間もすると、誰が最初に質問するかで順番待ちができるほどになっていた。
いつの間にか、昼食のたびに誰かがジャンの卓へ座り、政治や経済について質問するようになっていたのである。
ジャンも、聞かれれば答えた。
間違った理解をしていれば遠慮なく訂正し、意見が違えば議論した。分からないことを聞かれたときは、分からないとはっきり言った。
相手が傭兵だからといって、いい加減な説明で済ませるつもりもなかった。
難しい話であれば、理解できるように説明すればいい。相手に理解力がある以上、それほど手間のかかることでもない。
何より、教えたことを相手が理解し、そこから新しい疑問を持ってくるのは、思っていた以上に面白かった。
そんな日々が、一か月ほど続いた。
◇
「楽しそうだったね」
ある日の昼、食堂を出たところで声をかけられた。
ジャンが振り返ると、壁にもたれかかったユマ=リズナーが、面白そうにこちらを眺めていた。
「……またあなたですか。暇なんですか?」
「失礼だねぇ。ちゃんと仕事はしているよ。ちょうど巡回の帰りさ」
「それなら、さっさと戻ればいいでしょう」
「そう邪険にするもんじゃないよ。ハンスたちと、ずいぶん盛り上がってたじゃないか」
「質問に答えていただけです」
「税金の話で?」
「今日は貨幣制度についてです」
「へぇ。そんな話で、よくあれだけ盛り上がれるもんだね」
「興味を持っている人間にとっては、十分に面白い話ですよ」
「そうかい」
ユマは笑った。
「でも、あんたが無学な傭兵たちに、あんなに熱心に教えるとは思わなかったよ」
「知識がないことと、頭が悪いことは違います」
「ほう?」
「知らないなら教えればいい。理解できるなら、何の問題もないでしょう」
ジャンが当然のように答えると、ユマは少し感心したような顔をした。
「なるほどねぇ。あんた、官僚より学校の先生に向いてるんじゃないかい?」
「喧嘩を売っているんですか?」
「褒めてるんだよ」
「あなたの褒め方は、いちいち腹が立ちますね」
「それはお互い様だろう?」
ユマは楽しそうに笑うと、壁から身体を起こした。
「ところで、ちょっと付き合っておくれ」
「嫌です」
「即答するんじゃないよ」
「では、どこへ?」
「西の城壁さ。少し話したいことがあるんだ」
先ほどまでの軽い調子がわずかに消えたことに、ジャンは気づいた。
「……何かあったんですか?」
「まあ、歩きながら話そうじゃないか」
◇
二人はレンヌ要塞の西側の城壁へ上がった。
眼下には街道が延び、その先には広大なコスタ平原が広がっている。さらに西へ進めばレミーラ帝国領だったが、今は荷馬車が街道を行き交い、遠くでは農民たちが畑を耕していた。
一見すれば、平穏そのものだった。
「それで、何の話です?」
ジャンが尋ねると、ユマは城壁の上から西の平原を眺めたまま答えた。
「最近、医療班も暇になっただろう?」
「暇というほどではありませんが、負傷兵は減りましたね」
「そうだね。この一か月、レミーラ軍との小競り合いもずいぶん減ったからね」
少し前までは、帝国軍の小部隊がレンヌ周辺へ頻繁に姿を見せていた。
数十人、多いときには数百人という兵力で接近し、ロスバルトの哨戒部隊と交戦する。しかし、しばらく戦うと撤退し、数日後にはまた別の場所へ現れる。
それが何度も繰り返されていた。
ところが、この一か月ほどは敵の姿をほとんど見かけなくなっていたのである。
「一時期はどうなるかと思ったけど、どうやら向こうも強行偵察を打ち切ったみたいだね」
「司令部も同じ見解でしたよ」
「そうかい。それなら、ひとまず安心といったところかな」
「ええ。少なくとも、今は状況が好転しているように見えます」
ジャンも西の平原へ視線を向けた。
レミーラ軍が何のために強行偵察を繰り返していたのか、正確な理由は分からない。だが、実際に交戦回数が減り、負傷兵も減少しているのだから、状況が改善したと判断する材料はある。
「まあ、油断するつもりはないけどね」
ユマは城壁に肘をついた。
「念のため、司令部にはカーライル騎士団へ増援要請を出すよう伝えてあるんだよ。もしレミーラがまた動き始めても、カーライルが後詰めに入ってくれれば、いつもどおり対処できるさ」
「…………」
ジャンの表情が止まった。
「どうしたんだい?」
「いえ……」
何かを言いかけたが、そこで口を閉じた。
知っている。
ジャンは、その増援要請がどう扱われたのかを知っていた。
カーライル騎士団の派遣を必要とせず。
グリフィス三世はそう判断しており、中央政府へ送られた報告書にも、レンヌ周辺の情勢は安定していると記載されていた。
しかも、ロスバルトが繰り返し訴えていた兵力不足や敵軍の活動活発化については、ほとんど触れられていなかったのである。
だが、それは司令部の文書係として知った情報だった。
今は医療班に異動しているとはいえ、正式な権限もないまま軍の内部文書について話すわけにはいかない。
「……何でもありません」
「そうかい?」
ユマは少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上追及しなかった。
「まあ、何にせよ平和なのはいいことだよ。それより、ユナとリックにもよくしてくれているみたいだね」
「仕事をさせているだけですよ」
「それでも助かってるみたいだからね。ありがとう」
「礼を言われるようなことではありません。あの二人も、相応に働いていますから」
「はいはい。分かったよ」
ユマは小さく笑った。
「じゃあ、またね。主席殿」
「できれば、もう来ないでいただきたいのですが」
「それは無理だね」
「なぜです?」
「弟妹を預けている保護者として、たまには様子を見に来ないといけないだろう?」
「…………」
ジャンが何も言い返せずにいると、ユマは満足そうに手を振り、城壁を下りていった。
その後ろ姿を見送りながら、ジャンは改めて西の平原へ目を向けた。
ロスバルトが繰り返していた増援要請。
カーライル騎士団の派遣を認めなかったグリフィス。
中央政府へ送られた、実態とは異なる報告書。
そして、突然姿を見せなくなったレミーラ軍。
確かに、戦闘が減ったこと自体は歓迎すべきことだった。敵の偵察活動が終わったのであれば、今後も平穏な日々が続く可能性はある。
しかし、そもそもレミーラ軍は何のために、あれほど執拗に強行偵察を繰り返していたのだろうか。
「……妙だな」
ジャンは小さく呟いた。
何かが引っかかる。
ただ、その違和感の正体を明らかにするには、まだ材料が足りなかった。
◇
同じ頃。
レンヌ近郊、レミーラ帝国東部辺境軍本営。
大きな天幕の中央では、ルートビッヒ=シュナイダーが机に広げられた地図を見下ろしていた。
レンヌ要塞と周辺の街道、ロスバルト傭兵団の哨戒範囲、そしてカーライルへ続く道。地図には細かな書き込みが加えられ、これまでの偵察によって確認された情報がまとめられていた。
傍らには、副官のホフマンが控えている。
「準備は整いました」
「そうか。敵に動きは?」
「ありません。ロスバルトの哨戒も、これまでと大きく変わっておりません」
「カーライルは?」
「騎士団に出動の兆候はありません」
「そうか」
ルートビッヒは短く答えると、再び地図へ目を落とした。
この数か月、帝国軍は繰り返しレンヌ周辺へ小部隊を送り込み、敵の反応を確かめてきた。
どの街道が警戒されているのか。ロスバルトはどこまで出撃してくるのか。どの程度の兵力を投入すれば、要塞の守備隊が動くのか。
そして、レンヌが攻撃を受けたとき、カーライルは動くのか。
必要な情報は、すでに集まっていた。
偵察部隊が現れなくなったことで、レンヌの警戒も落ち着きつつある。少なくとも、敵が大規模な軍事行動を準備している様子は確認されていなかった。
「各隊は予定どおり待機させろ」
「はっ」
ホフマンが一礼した。
ルートビッヒは、地図上に記されたレンヌ要塞を見つめた。
もはや、確かめるべきことはない。
「あとは下知を待て」
静かな声だった。
しかし、その言葉を聞いたホフマンの表情が引き締まった。
「承知しました」
ルートビッヒはそれ以上何も言わず、ただ目の前の地図を見つめていた。




