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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第一章 都市同盟

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第5話 逃亡

第5話 逃亡 


  ◇

 レンヌ急襲より2週間


「今のところ、穴はないな。」


 ルートビッヒは天幕の中で卓上に広げられた地図を見下ろした。


「間違いなく。」


 傍らに立つホフマンが答える。


 ルートビッヒ=シュナイダー。


 レミーラ帝国東部辺境軍に属する若き将校であり、現在はレンヌ攻略軍を率いている。


 そしてホフマンは、幼い頃からルートビッヒを知る腹心であり、その軍務を支える副官でもあった。


「この一か月――いや、その前からだいぶ無理をした。そう簡単に破られてはたまらんさ。」


 ルートビッヒは地図上のレンヌを指先で叩いた。


 レンヌの哨戒網、救援の状況を把握するための強行偵察。


 その哨戒網を潜り抜けるための険しい山地の大迂回。


 敵の死角である西門への奇襲。


 それを囮にしての兵糧庫への攻撃と、街道の占拠を含む完全な情報封鎖。


 レンヌ攻囲後、都市同盟各地から散発的に現れた援軍も、各個に撃破した。


 東のウィンザーにも兵はいる。


 だが、レンヌを救援できるほどの数ではない。


 そして何より――。


「カーライルは?」


「当然、まだ来ておりません。我々の急襲をうけて進発準備に入ったそうですが、どんなに急いでも一か月以上はかかります。」


「そうか」


 ルートビッヒは小さく息を吐いた。


 ならば問題はない。


 無理に城壁を破る必要もなかった。


 食糧庫を焼き、街道を断ち、外から来る小規模な援軍を潰した。


 レンヌは堅城である。

 

 今までは正攻法に固執して攻め落とすことはできなかった。


 だからこそ、ここできてあせって正面から攻める必要はない。


 あとは待てばいい。


「ただし、ここは開けておけ。」


 ルートビッヒが地図上の一点を指した。


 ホフマンが視線を落とす。


「退路を?」


「ああ。」


「完全包囲にはなりませんが……」


「だからいい。」


 ルートビッヒは顔を上げた。


「死兵となられてはかなわんからな。」


 逃げ場を失った兵は、死ぬまで戦う。


 ただでさえ堅牢なレンヌで、そのような兵を相手にする必要はない。


「この堅城の守備すらまともにできんやつが敵だ。逃げ道があると思えば、そこへ流れる。」


「なるほど……」


「ただ――」


 ルートビッヒの指が、開けられた退路をゆっくりとなぞった。


「逃げる者は殲滅する。」


 声色は変わらなかった。


「今後、レンヌに二度と手出しできんようにな。」


「承知しました。」


 ホフマンは一礼した。


 ルートビッヒは再び地図へ視線を落とす。


 包囲を完成させる必要はない。


 むしろ、一か所だけ開けておいた方がいい。


 追い詰められた者には、それが希望に見える。


 あとは――。


 誰が最初に食いつくか。


 それだけだった。


     ◇


 あの会議から一週間後。


 ジャンはロスバルトの宿舎を訪れていた。


「ユマ。少しいいか。」


「なに? 珍しいわね。削減できる経費なんて、もうないわよ。」


 机に向かっていたユマが顔を上げる。


「そんなくだらないことじゃない。確認したいことがある。」


「あら、経費削減はくだらなくないわよ。」


「いいから聞け。ふざけている時間が惜しい。」


「ふーん、どうぞ。」


 ジャンは一瞬、言葉を選んだ。


「一番最初にカーライルへの救援要請を出したのは、いつだ?」


 ユマの表情から笑みが消えた。


「三か月前。」


「……三か月?」


「そう。レミーラの動きがおかしいと判断した時点ですぐにね。カーライル騎士団の増援が必要だって。」


 ジャンは黙り込んだ。


 三か月前。


 自分がレンヌへ赴任するよりも前だ。


「その返答は?」


「もちろん、ない。」


 ジャンは眉間を押さえた。


 やはり。


 自分が文書係になる以前から、ロスバルトは救援を求めていた。


 それなのに中央は動いていない。


 カーライルも来ない。


 つまり――。


「中央には、俺が書かされたような『増援の必要なし』という報告書が送られ続けていた。」


「そうでしょうね。」


 あっさりとした返答だった。


 だが、ジャンにとってはそうではない。


 自分はこの数か月、レンヌから中央へ送る文書を作っていた。


 グリフィスの指示に従い、戦況を軽く書き、増援の必要はないと記した。


 知らなかったとはいえ――。


 自分もまた、レンヌを孤立させる情報封鎖の一端を担っていたことになる。


「……そういうことか。」


「納得した?」


「したくはないがな。」


 ジャンは顔をしかめた。


 少し黙ったあと、口を開く。


「実は、お前に伝えておきたいことがある。」


「なに?」


「一週間前の会議で、司令部は撤退を検討し始めた...」


 ユマはやはり驚かなかった。


「ふーん。やっぱりね」


「……やっぱり?」


「なんかきな臭いと思ってたのよ。」


 ユマは椅子の背にもたれた。


「先々週までは会議に呼ばれてた。兵の配置だの、食糧だの、守備計画だの、散々意見を聞いてきた。」


「……」


「先週から、ぱったり呼ばれなくなった。」


 ジャンは眉をひそめた。


「……俺もだ。」


 一瞬。


 ユマはぽかんとジャンを見た。


 やがて吹き出す。


「あはは。」


「何がおかしい。」


「そりゃおかしいさ。あんたもこっち側の人間にされたみたいね。」


「どういう意味だ。」


「そのまんまの意味よ。」


 ユマは笑いながら机の上の地図を広げた。


「あんたの話を聞いて確信した。グリフィスは逃げるつもりなのよ。」


 ジャンは黙った。


「自分たちだけで……」


「そう。」


 ユマは即答した。


「ロスバルトを会議から外した。あんたみたいな気に入らない官僚も外した。撤退を検討してるのに、守備を任されてる私たちには何も言わない。」


 地図の上で指を滑らせる。


「つまり、私たちに最後までレンヌを守らせて、その間に自分たちは逃げるつもり。」


「……」


「分かりやすいわよね。」


 ジャンは反論しなかった。


 むしろ、辻褄が合いすぎていた。


「だが、どうやって逃げる。」


「そこまでは知らない。」


 ユマはあっさり答えた。


「ただ――」


 地図へ視線を落とす。


「敵が、あれだけ綺麗に包囲してるのにね。」


「……何だ?」


「全部塞いじゃったら、自分たちも困るでしょ。」


 ジャンの目が細くなる。


「敵が?」


「うん。」


 ユマは地図上のレンヌを指先で叩いた。


「考えてもみなさいよ。このレンヌを、ここまで追い込んだ将軍よ。」


 ジャンも地図を見る。


 難攻不落。


 そう呼ばれ、五十年もの間、一度として陥落したことのないレンヌ要塞。


 その哨戒網を大迂回によって潜り抜けた。


 西門への奇襲を囮に兵糧庫を焼き、街道を押さえ、外部との連絡を断った。


 その後も散発的に現れる援軍を各個に撃破し、ついにはカーライルが到着するより早く、この要塞を陥落寸前まで追い込んでいる。


「そんな奴が、何も考えずに包囲網へ穴を残すと思う?」


「……思わないな。」


「でしょ。」


 ユマは迷わなかった。


「絶対に一か所は開ける。」


「なぜだ。」


「全部塞いだら、逃げられない兵は死ぬまで戦う。でも――」


 ユマの指が地図の上を滑る。


「逃げ道が一つだけあったら?」


「死にたくないから、そこへ殺到する。」


「そういうこと。」


 ユマは笑った。


「だから、そこは退路じゃない。」


 一拍置く。


「処刑場よ。」


 ジャンは地図を見つめた。


「……グリフィスはそこへ行くと思うか?」


「行くでしょうね。」


 ユマは即答した。


「この堅城をまともに守れなかった男が、あの将軍より一枚上手とは思えないもの。」


「ひどい評価だな。」


「事実でしょ。」


 否定できなかった。


 ユマは地図を眺めたまま、しばらく考えていた。


 やがて、その口元に笑みが浮かぶ。


「なるほどね。」


「今度は何だ。」


「向こうがグリフィスを釣ってくれるなら、こっちにも使い道があるってこと。」


 ジャンが眉を寄せる。


「まさか――」


「まだ何もしないわよ。グリフィスが本当に逃げるかも分からないんだから。」


 そう言いながらも、ユマの目はすでに地図の南へ向いていた。


「でも、グリフィスがその気なら――」


 指先が、レンヌの南門を叩く。


「こっちにも考えがあるわ。」


     ◇


 それから二週間後。


 レンヌ要塞内が、にわかに騒がしくなった。


 兵が走る。


 怒号が飛ぶ。


 馬が引き出され、荷車が次々と中庭へ集められていく。


 ジャンが執務室から廊下へ出たとき、一人の兵士が目の前を駆け抜けていった。


「何があった!」


 呼び止める。


 兵士が足を止め、振り返った。


「司令官が――グリフィス司令官が撤退を開始しました!」


「……」


 ジャンは驚かなかった。


 やはりか。


 すぐに城壁へ向かう。


 西方には、すでに大きな砂煙が上がっていた。


 レンヌ正規兵。


 騎兵。


 そして、長い荷車の列。


「……なんだ、あれは。」


 ジャンは目を細めた。


 兵糧を運ぶ荷車にしては数が多すぎる。


 しかも積まれているのは、撤退する軍隊には似つかわしくないものばかりだった。


 大きな箱。


 豪奢な椅子。


 絨毯。


 絵画。


 食器。


 中には、どうやって運び出したのか分からないほど大きな調度品まである。


 ジャンには見覚えがあった。


 グリフィスの司令官執務室に置かれていた品々だった。


「……あいつ。」


 呆れて言葉が続かない。


「全部持っていくつもりか?」


「でしょうね。」


 声に振り返る。


 ユマがいた。


 城壁の上から、逃げていく正規兵を眺めている。


 その顔に驚きはない。


 むしろ――。


「やっと来たね。」


 待ちくたびれたとでも言いたげだった。


「予想通りだな。」


「まあね。そろそろ食糧も尽きるからね。」


「あの荷車まで予想してたのか?」


「そこまでは知らない。」


 ユマは苦笑する。


「でも、あの男なら不思議じゃないわね。せっかく溜め込んだ財産だもの。」


「救いようがないな。世も末だ。」


「あんたが言うのはいかがなものとも思うけど、まあ今さらでしょ。」


 ジャンも西を見る。


 そして、気づいた。


 あれほど隙なくレンヌを包囲していたレミーラ軍。


 その包囲網に、一か所だけ不自然なほど大きな穴が開いている。


 そこへ向かって、グリフィス隊が進んでいた。


「……本当に開けた。」


「言った通りでしょ。」


 ユマは平然としている。


「俺たちは逃げなくていいのか?」


「あせりなさんなって。」


「何?」


「まだ早い。」


 ユマは動かなかった。


 ロスバルトの兵たちも動かない。


 ただ西へ逃げていくグリフィス隊を見ている。


「よく食い込ませてから、ひっかけないと意味はないわ。」


「食い込ませるって……」


 その瞬間だった。


 グリフィス隊の側面に、レミーラ軍の旗が現れた。


「来た。」


 ユマが呟く。


 次の瞬間。


 グリフィス隊の横腹へ、レミーラ兵が襲いかかった。


「……罠か。」


 逃げ道ではなかった。


 逃げ道に見せかけた狩り場。


 いや。


 ユマが言った通り――処刑場だった。


 正規兵の列が崩れる。


 前へ逃げようとする者。


 レンヌへ戻ろうとする者。


 その間へレミーラ兵が切り込んでいく。


 悲鳴。


 怒号。


 馬の嘶き。


 さらに、荷車が道を塞いだ。


 倒れた馬。


 横転した荷車。


 そこから金銀や食器、調度品が路上へ散らばる。


「馬鹿だ……」


 ジャンが呟いた。


「こんなときまで荷物を捨てないのか。」


 それでもグリフィスの旗は先へ進んでいる。


 兵を置き去りにして。


 財産を積んだ荷車を引き連れて。


「……ひどいな」


「だから今さらだって」


 ユマは冷たく答えた。


 だが、まだ動かない。


「まだか?」


「まだ。」


 レミーラ軍がさらに西へ流れる。


 グリフィスを逃がすまいと、追撃部隊が次々に食いついていく。


 そして。


「ほら。」


 ユマが南を指した。


 南側の包囲陣からも兵が動き始めていた。


「南まで?」


「そりゃ行くでしょうね。」


 ユマは遠ざかる荷車の列を見る。


「あの馬鹿が、あれだけ分かりやすく財産積んで逃げてるんだもの。」


 金銀。


 美術品。


 高価な家具。


 長年グリフィスがレンヌで溜め込んできた財産。


 敵から奪えば、それらはすべて鹵獲品となる。


 西側だけではない。


 南側を封鎖していた兵の一部まで、逃げるグリフィス隊へ吸い寄せられていく。


 一隊。


 さらに一隊。


「……あいつ、自分の財産で敵まで釣ってるぞ。」


「助かるわね。」


「お前……」


「最初に裏切ったのはあいつよ。利用できるものは利用しないと。」


 ユマは笑った。


「グリフィスには、最後くらい役に立ってもらいましょ。」


 南側の包囲が薄くなる。


 まだ。


 もう少し。


 ユマはじっとその動きを見続けた。


 やがて。


「よし」


 右手を上げる。


「今!」


 待機していたロスバルト兵たちが一斉に動いた。


     ◇


「南門を開けろ!」


 巨大な門が、音を立てないようゆっくりと開かれていく。


「年少者、傷病者、戦えない者はできる限り先行すること!」


 ユマの声が飛ぶ。


「持ち出す荷物は最小限! 五日分の携行食と水を優先! 捨てられるものは捨てな!」


 兵が動く。


 負傷者を担架へ載せる者。


 子どもの手を引く者。


 歩けない老人を背負う者。


 残った守備兵の一部も、ロスバルトに続いて南門へ向かっていた。


「東街道には出ない! 南の山地へ入る!」


 正面からウィンザーを目指せば、当然追撃を受ける。


 だから一度南へ抜ける。


 山地を伝い、東へ回り込んでウィンザーの南方を目指す。


「隊列を崩すな! 年少者と傷病者を先に!」


 ジャンは次々に南門を抜けていく人々を見た。


 やがてユマが振り返る。


「ジャン!」


「なんだ。」


「ユナとリックを連れて先に行って。」


「……俺が?」


「そう」


「お前は?」


「殿」


 当然のことのように答えた。


「団長のお前が残るのか?」


「団長だから残るのよ。当たり前でしょ?」


 ユマは少し離れた場所へ顔を向けた。


「ユナ! リック!」


「姉さま!」


 二人が走ってくる。


 ユマは弟妹を順番に見る。


「二人とも先に行って。」


「姉さまは?」


「あとから行く。」


 ユナが何か言おうとした。


 だが、ユマは先にジャンを指した。


「ジャンと一緒に」


「ジャンと?」


 ジャンが眉をひそめる。


「ジャン」


 ユマの声が少しだけ低くなる。


「二人を頼みます」


 ジャンは、その顔を見た。


 冗談ではなかった。


「……分かった。」


「三人とも必ずウィンザーまで一緒に行くこと。」


「お前も来いよ。」


「もちろん」


 ユマは笑う。


「でも最後にね。」


 振り返る。


「殿は私が務める。」


 ジャンはそれ以上何も言わなかった。


「行くぞ」


「うん」


「分かった」


 ユナとリックを連れ、南門を抜ける。


 そのときはまだ。


 ジャンは、自分が二人を守ってウィンザーまで連れていくつもりだった。


     ◇


「……待て」


 山道の途中。


 ジャンの足が止まった。


「どうしたの?」


 ユナが振り返る。


「少し……待て……」


 膝に両手をつく。


 呼吸が荒い。


 額から流れた汗が頬を伝い、顎から落ちる。


「ジャン?」


 リックも足を止めた。


「大丈夫?」


「大丈夫……だ」


 息を整える。


 二歩進む。


 また止まる。


「全然大丈夫じゃないじゃん。」


「うるさい……」


「顔真っ青だよ。」


「俺は……ニューアーク大学主席だぞ……」


 ユナが首を傾げた。


「それ、今関係ある?」


「主席の俺でも……体育は苦手だったんだ……」


「やっぱり関係ないよ。」


 リックが真顔で言った。


「人間に必要なのは……体力じゃない……」


「じゃあ何?」


「知性だ……」


 ユナが周囲の山を見渡す。


「今、一番必要なのはこの山を登りきる体力だと思う。」


「…………」


 反論できない。


 山道を登る。


 下る。


 また登る。


 それを二日間繰り返した。


 東街道なら、歩くだけならこれほど苦労はしなかっただろう。


 だが、そこには敵がいる。


「お前たち……なんで平気なんだ……」


「これくらいならまだいけるよ。」


 ユナが答える。


「普通だよね」


「うん」


 リックも頷いた。


「普通なものか……」


 ジャンは恨めしそうに二人を見る。


 十二歳。


 二人とも十二歳である。


 なのに、自分より明らかに元気だった。


「ロスバルトって……こんなことまで訓練するのか……」


「走るし、歩くよ。大事な訓練。」


「傭兵だから。それにロスバルトは山岳戦が専門だよ。」

 

 こいつらの故郷セイレンは山岳だった。


「俺は官僚だ……」


「知ってる」


 そして。ついに限界が来た。


「あ……」


 ジャンの膝が折れた。


 そのまま両手を地面につき――。


 べしゃり、と倒れ込む。


「ジャン!?」


「死んだ?」


「勝手に……殺すな……」


 顔だけ横へ向ける。


 息をするだけで精いっぱいだった。


 口元から涎が垂れた。


 ユナが目を丸くする。


「……涎出てる」


「見るな……」


「本当に大丈夫?」


「大丈夫に……見えるか……?」


「見えない」


「なら聞くな……」


 ユナとリックが顔を見合わせる。


「立てる?」


「無理だ……」


「でも行かないと」


「分かってる……」


 二人に両側から腕を取られ、無理やり身体を起こされる。


「おい……」


「ほら」


「歩くよ」


「子ども二人に引きずられるほど……落ちぶれた覚えは……」


「倒れて涎垂らしてた人が言わないで」


「ぐっ……忘れろ」


 少し進む。


 だが、ジャンの足はもうまともに動かなかった。


「……もういい」


「何が?」


「お前たちだけ行け」


 ユナの足が止まった。


「このままじゃ三人とも遅れる」


 ジャンは肩で息をしながら言った。


「あと二日もすればウィンザーだ。この道を行けば、そのうち味方の哨戒にも当たる」


「でも」


「俺を置いていけ」


「駄目」


 即答だった。


「ユナ」


「駄目だよ。」


 ユナはジャンの腕をそのか細い肩へ回す。


「ロスバルトは仲間を見捨てない。」


「……俺はロスバルトじゃないぞ。」


「でも仲間でしょ。それに姉さまからはユナと僕とジャンの三人でウィンザーへって命令されてる。」


「……」


 ジャンは言葉を失った。


「リック、そっち持って。」


「うん」


「おい……」


「歩く!」


「横暴だぞ……」


「喋れるなら歩いてよ!」


「どういう理屈だ……」


「ジャンのいつも言う合理的には、まだそれだけの元気があれば歩ける。」


 十二歳の少年少女に論破されたジャンは、二人に両側から支えられ、再び歩き始めた。


     ◇


「南門から敵の残存部隊が脱出しておりました。」


 レンヌへ入城し報告を受けたルートビッヒは、接収の始まった城内を見渡した。


「数は?」


「おおよそ三千人程度。残存守備兵に加え、民間人も含まれているものと思われます。」


「方角は?」


「南です。そのまま山地へ入っています。」


 ルートビッヒはわずかに眉を上げた。


「東ではなく南か。」


「はい」


「……賢明だな。」


 報告に来た将校が顔を上げる。


「追撃しますか?」


「出せ。ただし多くはいらん。」


「よろしいので?」


「城の接収が先だ。」


 レンヌの防衛設備は、まだ完全にレミーラ軍の管理下へ入ったわけではない。最後の残存部隊が抵抗を続けてはいた。


「グリフィスは?」


「それが……」


 将校が言い淀んだ。


 ルートビッヒの眉が動く。


「逃がしたのか?」


「申し訳ありません。」


「理由は?」


「敵が大量の荷車を連れておりまして……」


「荷車?」


「金銀、絵画、絨毯、家具……高価な調度品が大量に積まれておりました。追撃中にそれらが次々に放棄され、将兵の多くがそれらを鹵獲するために追撃から脱落しました。」


「……」


「西側だけではありません。南側に展開していた部隊の一部も鹵獲品を狙って追撃に加わり、そのため――」


「南門が薄くなったか。」


「はい」


 ルートビッヒはしばらく黙った。


 グリフィスを仕留めるために開けた穴。


 そこへ本人は狙い通り食いついた。


 正規兵の多くも叩いた。


 レンヌも陥落した。


 作戦そのものは成功している。


 だが。


 逃亡する司令官が、あれほど大量の私財まで抱えてくるとは考えていなかった。


 しかも、その財産が今度はこちらの兵を釣った。さすがにそれは計算外だった。


 結果として南側の包囲が薄くなり、残存守備隊に脱出の機会を与えた。


 そして、財産を次々と置き去りにしたことで、グリフィス自身まで追撃の手から逃れた。


「……我が軍の鍛え方が甘かったな。」


「ルートビッヒ様。」


 それまで黙って横にいたホフマンが口を開いた。


「今回ばかりは大目に見ていただけませんか。」


 ルートビッヒが隣を見る。


「将兵たちは、あのルーブル山地を越えて参りました。」


「ああ」


「限られた補給で道なき道を進み、そのままレンヌを包囲しております。」


 ホフマンは静かに続ける。


「ですが、この戦いでは個人的な武功を挙げる機会をほとんど与えておりません。」


 奇襲。


 兵糧庫への攻撃。


 街道封鎖。


 情報封鎖。


 そして包囲。


 作戦としては、これ以上ないほど順調だった。ほとんど味方の犠牲は出ていない。


 だが、兵士一人一人にとってみれば、敵将を討ち取ったわけでもなければ、城壁を乗り越えて一番槍を挙げたわけでもない。


「作戦自体はうまくいっております。五十年間落ちなかったレンヌも、こうして我らの手に落ちました」


 ホフマンは城内を見渡した。


「ここは恩賞代わりと思って、大目に見てやってください」


「……」


 ルートビッヒはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「分かっている、ホフ」


 ホフマンがわずかに笑う。


「ありがとうございます」


「俺だけが武功を独り占めするつもりはない。」


「ただし次からは、逃げる敵と財産のどちらを取るかくらい考えさせろ。」


「もちろんです。」


「まったく……」


 ルートビッヒは額を押さえた。


「強欲な男だとは聞いていたが、自分の財産に命を救われるとはな。」


「まあいい、あんな俗物が生きていればこの先もロクなことにならん。」


 皮肉な話だった。


「南へは?」


「すでに軽装の部隊を出しております。」


「なら、それでいい。追いつけるなら叩け。無理なら深追いはさせるな。」


「承知しました。」


 ルートビッヒは南へ目を向けた。


 守れない城を捨てた。


 罠と見た東街道を避け、南の山地へ逃げた。


「敵の中にもまともな判断をする奴がいるものだ。」


 少なくとも、レンヌ司令官とは比較にならいほどまともらしい。


 思わず口元が緩んだ。


 そうでなくては面白みもない。


「まずレンヌを完全に押さえる。」


 五十年間落ちなかった要塞。


 その要塞にいま、レミーラ軍の旗が翻った。


     ◇


 ウィンザーまで残り1日となった山中。


 ジャンたち3人は多少遅れながらも何とか進んでいた。


「止まって!」


 ジャンの横を歩いていたユナが突然足を止めた。


「どうした?」


 ジャンが尋ねる。


 ユナは振り返った。


「静かに…… 音がする。」


 ジャンも耳を澄ませる。


 遠くから聞こえる。


 規則正しい音。一つではない。


「馬……」


 地面に耳をつけ、音を探っていたリックが呟く。


 ジャンの顔から血の気が引いた。


「追手か」


 ユナがジャンの腕を引っ張る。


「ジャン、走るよ!」


「待て!」


「待ってる場合じゃない!」


 三人が走り出す。


 いや。


 ユナとリックは走っている。


 ジャンも走っているつもりだったが足が思ったようには動かない。


 背後の馬蹄は容赦なく近づいてくる。


「速い……」


「ジャン、もっと!」


「これが……限界だ……!」


 足がもつれる。


 転びそうになる。


 二人に引き起こされる。


 また走る。


 馬蹄が大きくなる。


 もう友軍の逃げろという声まで聞こえる。


「駄目だ……」


「ジャン!」


「もういい!」


 ジャンは二人の手を振りほどいた。


「お前たちだけ行け!」


「またそれ!?」


「今度は本当に無理だ!」


 背後。


 木々の間に騎兵の姿が見えた。


「行け、ユナ!」


「嫌!」


「リック! こいつを連れていけ!」


「でも!」


「行け!」


 ジャンが叫ぶ。


 自分は戦えない。


 剣などほとんど使ったこともない。


 ここに残って抵抗したところで、時間稼ぎにすらならないかもしれない。


 それでも。


 三人まとめて捕まるよりはましだ。


「早く行け!」


 ユナは動かなかった。


「ジャンも一緒に行く!」


「無理だって言ってるだろ!」


「嫌!」


「この馬鹿!」


「ジャンの馬鹿!」


「今それを言い返すな!」


 追手が迫る。


 騎兵が武器を抜くのが見えた。


「……くそ」


 ジャンは息を吐いた。


「こんなところで死ぬ予定ではなかったんだがな……」


 そのときだった。


 別の音。


 前方からも馬蹄が響く。


「……冗談だろ」


 ジャンが乾いた笑いを浮かべる。


 前にも騎兵。後ろにも騎兵。


 どれだけ敵将は念入りな奴なんだ。


「最悪だな」


「違う!」


 ユナが叫んだ。


「何が――」


「旗!」


 山道の向こう。


 木々の隙間から旗が見える。


 ジャンには分からない。


 だが、ユナとリックには分かった。


 二人の顔が一気に明るくなる。


「ロスバルト! トウマさんの旗だ!」


 前方から騎兵が駆けてくる。


 先頭の男が剣を抜いた。


「敵、騎兵を確認!」


 後続へ叫ぶ。


「第三戦隊、前へ!」


 トウマ率いるロスバルト第三戦隊が、山道へ雪崩れ込む。


「友軍を救出する!」


 第三戦隊が突撃する。


 レミーラ側の追撃隊が足を止めた。


 彼らはあくまで、レンヌから脱出した残存兵を追うために派遣された小規模な部隊。


 戦隊規模のロスバルトを相手に、正面から戦う理由はない。


 短い衝突。


 すぐにレミーラ兵が退いていく。


 第三戦隊は、レミーラ軍の強行偵察を受けた時点で、ユマが追加派遣を決めていた部隊だった。


 だが、彼らがウィンザーへ到着した頃には、すでにレンヌへの街道は封鎖されていた。


 無理な突破を避け、ウィンザー周辺の哨戒に当たっていたところへ、山地から逃げてくる友軍と、それを追うレミーラ兵を発見したのである。


 ジャンは、その光景を呆然と見ていた。


「……助かったのか?」


「うん」


 ユナが笑った。


「言ったでしょ」


「何をだ」


「ロスバルトは仲間を見捨てないって」


「……」


 返事ができなかった。


 張り詰めていたものが一気に切れる。


 全身から力が抜けた。


 第三戦隊の兵士が自分たちに向けて駆け寄ってくる。


「ユナ様、リック様! ご無事で――そちらは?」


「ジャン」


 ユナが答える。


「……ジャン?」


「ニューアーク大学主席だ……」


「今それ言う?」


 ユナが呆れた。


「大丈夫か!」


「大丈夫だ……」


「全然そう見えないぞ」


「少し休めば……」


 兵士の問いかけに虚勢を張って答えたが、そこまでだった。


 ジャンの膝が折れる。


「ジャン!」


 再び地面へ倒れ込んだ。


 ユナがあわててジャンの隣にしゃがみ込む。


「大丈夫。生きてる。」


「また涎出てるよ。」


「……見るな……」


 リックも覗き込む。


「本当にニューアーク大学主席なの?」


「主席と……体力は……関係ない……必要なのは……ち……」


「まだ言ってる」


 ユナが笑った。


 ジャンは反論しようとした。


 だが、もう声が出なかった。


 意識が遠のいていく。


 ニューアーク大学主席。


 将来を嘱望された若き官僚。


 そのレンヌ脱出は――。


 十二歳の姉弟に支えられ。最後は地面に涎を垂らして終わった。

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