第4話 包囲
主要キャラクター
ユマ=リズナー
ジャンとユナ
アーネム大陸ゼルキア地方図
第四話
朝。
ジャンは宿舎へ向かって歩いていた。
空はまだ薄暗い。
レンヌの朝は早い。
兵士たちはすでに起き出し、交代を終えた夜番が欠伸をしながら兵舎へ戻っていく。
城壁の向こうから吹き込む風は冷たかった。
ジャンは抱えていた書類を持ち直した。
昨日整理した負傷兵の記録と、医療物資の在庫表。
包帯。消毒用の酒。薬草。縫合糸。
どれも足りない。
補給担当へ提出する要求書まで作ったが、通る可能性は低いだろう。
「おはよう、主席殿。」
「……」
聞き覚えのある声に、ジャンは足を止めた。
朝から聞きたい声ではない。
振り返る。
「ずいぶんな顔だねえ。」
ユマ=リズナーがいた。
いつものように気楽な顔をしている。
「朝からあなたですか。」
「なんだい、その言い方は。」
「昨日一日で十分です。」
「ひどいねえ。せっかく挨拶してやったのに。」
「それはどうも。」
ジャンは再び歩き出した。
ユマが当然のようについてくる。
「医療班はどうだい?」
「最悪です。」
「へえ。」
「人手不足。物資不足。予算不足。」
「そいつは大変だ。」
「他人事ですね。」
「実際、あたしの仕事じゃないからね。」
「そうですか。」
「でも。」
ユマが横目でジャンを見る。
「顔は昨日よりマシになった。」
「何の話です?」
「仕事してる人間の顔になったってことさ。」
ジャンは眉を寄せた。
「昨日まで仕事をしていなかったと?」
「してたんじゃない?」
「……」
「ただ、紙と仕事してただけで。」
「朝から喧嘩を売りに来たのなら買いませんよ。」
「残念。」
ユマが笑った。
ジャンはため息をつく。
どうしてこの女は朝からこんなに元気なのか。
そのときだった。
遠くで音がした。
低い。
腹の底に響くような鐘の音。
ジャンは足を止めた。
「……?」
二度目。
今度ははっきりと聞こえた。
轟音。
続いて、鐘が鳴った。
ひとつ。
二つ。
三つ。
けたたましい警鐘がレンヌ中へ響き渡る。
「敵襲!」
西の城壁の方角から声が上がった。
「敵襲――!」
通りにいた兵士たちが一斉に走り出す。
ジャンは反射的にユマを見た。
先ほどまで笑っていた女の顔から、笑みが消えていた。
「西? 東じゃない。」
「ユマ?」
「官舎へ行きな。」
「何を――」
「早く!」
怒鳴られた。
ユマはすでに走り出していた。
◇
レミーラ軍の攻撃は、唐突だった。
西方。
ゼルキアから続く街道方面から、突如として敵軍が接近した。
ほぼ同時に、レンヌ周辺へ展開していた部隊が各所で攻撃を受けた。
城壁から鐘が鳴り続ける。
「第三隊、西門へ!」
「弓兵は城壁へ上がれ!」
「負傷者を下げろ!」
「急げ!」
怒号が飛び交う。
ジャンは医療班へ駆け込んだ。
すでに負傷兵が運び込まれ始めていた。
「ジャン!」
ユナが駆け寄ってくる。
「何があったの!?」
「俺にもわからない。」
「姉さま?」
「城壁へ向かった。」
「姉さまも?」
隣にいたリックが顔を上げる。
「二人とも、ここから動くな。」
「でも――」
「邪魔になる。」
ジャンは言い切った。
「今の俺たちにできることをやるぞ。」
ユナとリックが顔を見合わせる。
「……うん。」
「わかった。」
負傷兵が担架で運び込まれてきた。
「手伝って!」
「はい!」
二人が走っていく。
ジャンも袖をまくった。
◇
戦闘は昼過ぎまで続いた。
レンヌは難攻不落と称される要塞である。
五十年間、一度として敵の手に落ちていない。
その城壁は今日も役割を果たした。
ロスバルトを中心とした守備隊は素早く配置につき、レミーラ軍の攻撃を押し返した。
敵軍は撤退。
レンヌは守られた。
少なくとも。
城壁だけは。
「水!」
「こっちにも!」
「包帯が足りない!」
「倉庫から持ってこい!」
「その倉庫が燃えたんだよ!」
ジャンの手が止まった。
「……何?」
兵士が叫ぶ。
「東の食糧庫がやられた!」
「食糧庫?」
「ああ!」
ジャンは立ち上がった。
外へ出る。
東の空へ黒煙が上がっていた。
一つではない。
いくつもの煙が空へ伸びている。
それが何なのか。ジャンにも理解できた。
食糧庫。
「やられた。」
声がした。
振り返る。
ユマが立っていた。
頬に煤がついている。
左腕には簡単な包帯が巻かれていた。
「怪我を?」
「かすり傷。問題ないよ。」
ユマは黒煙を見上げる。
「そうじゃない。」
「……?」
「あたしたちはやられた。」
ジャンは眉を寄せた。
「防衛には成功したのでしょう。」
「そう。」
「敵は撤退した。」
「そう。」
「なら――」
「敵は最初から城を落とすつもりじゃなかった。」
ユマの声が低くなる。
「攻撃された場所を見ればわかる。」
ゼルキア方面へ続く、守備の薄い西門。
周辺陣地。
そして食糧庫。
「守備の薄い西門を攻めて、守備隊を誘導する。城壁に張りつけて、こっちの目を西へ向ける。その間に少数の別働隊で東の食糧庫を潰す。」
「……」
「なんで見抜けなかった。」
ユマが呟く。
「哨戒は間違いなく出していた。」
黒煙を睨みながら考え込む。
「レンヌ峰の裏側から……? そんなところから?」
しばらくして。
「いや。」
ユマが首を振った。
「そもそも城壁なんかどうでもよかったんだ。」
独り言を続けていたユマの目が止まる。
「目的は食糧。」
ジャンも煙を見る。
「兵糧攻めか。」
「そういうこと。」
ユマは舌打ちした。
「嫌な奴だね。」
「敵の指揮官が?」
「ああ。」
「合理的だと思いますが。」
「だから嫌なんだよ。」
ユマがしゃがみ込む。
地面に指で線を引いた。
「レンヌの守備兵力は足りてる。」
一本。
「城壁も問題ない。」
二本。
「水もある。」
三本。
「問題は食糧。」
「どれくらい残っています?」
「今確認させてる。」
「なら判断はそれからでしょう。」
「いや。だいたいはわかる。」
ユマは首を振った。
「元々レンヌには籠城用の備蓄がある。一か所にまとめているわけじゃないから、全部はやられていない。人数と残量を計算すれば――」
ユマが地面に数字を書き始める。
兵数。
軍民のおおよその人数。
一日あたりの消費量。
残存食糧。
ジャンは黙って見ていた。
意外だった。
「何だい?」
「いえ。」
「言いたいことがあるなら言いなよ。」
「計算ができるんですね。」
「殴るよ? あんたと同じ大学に留学してて、成績は上位の方だった。」
「冗談です。」
「今はそんな冗談に付き合う暇はないよ。」
ユマは数字を見つめる。
「配給を絞る。軍馬も減らす。周辺部隊をすぐに城内へ戻して、余計な補給線を切る。」
しばらく考える。
「守れる。」
ユマは言った。
「少なくとも一か月は確実に。」
「……」
「一か月あれば十分だ。」
立ち上がる。
「カーライルが間に合う。」
ジャンは答えなかった。
「レンヌ包囲。敵活動活発化。中央がそれを知っていれば、もう準備は進めているはず。カーライル騎士団も予定通り準備を進めていれば、1カ月もすればあらわれる。そうなればレミーラは撤退せざるを得ない……」
「来ませんよ。」
ユマが止まった。
「いま何て?」
「カーライルは来ません。」
「どういう意味だい?」
「そのままの意味です。」
ジャンは黒煙から視線を外した。
「レンヌ司令部は、カーライル騎士団の派遣を必要としていないと報告しています。」
一瞬。
ユマの表情が消えた。
「……いつから?」
「少なくとも私が確認した範囲では、一か月前か、それ以前から。」
「待ちな。」
ユマが一歩近づく。
「最近の小競り合いは?」
「局地的な衝突。」
「レミーラ軍の増加は?」
「確認できず。」
「周辺部隊から警告は?」
「過大評価。」
「……」
「そう処理されています。」
「中央には?」
「レンヌの防衛体制に問題なし。」
次の瞬間。
襟元を掴まれた。
「おい。」
ユマだった。
乱暴に引き寄せられ、ジャンはたたらを踏む。
「あんた、それ本気で言ってるのか?」
「私が虚偽を報告する理由がありますか。」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
ユマの手に力が入る。
「中央は! 中央はレンヌが危険だってことを知らないのか!?」
「たぶん。」
ジャンは自分の襟を掴んでいる手を見た。
怒りで震えている。
「危険ではないと認識しています。私が書きましたから。」
「……この腐れ官僚――」
そこまで言って。
ユマが止まった。
ジャンを見る。
そして。
「……いや。」
吐き捨てるように呟いた。
「グリフィスか。」
ジャンは少しだけ眉を上げた。
「ご明察です。」
「それどころか。」
ジャンは続ける。
「カーライル騎士団の派遣は必要ない、と。」
ユマの目が細くなる。
「誰が出した。」
「グリフィス三世司令官です。」
「……やっぱりか。」
ユマの手が離れた。
ジャンは乱れた襟を直す。
「悪かったね。」
「別に構いません。」
「普通は怒るところだよ。」
「あなたに怒ったところで状況は改善しないでしょう。」
「そういうところ、本当に可愛くないね。」
「よく言われます。」
ユマはもうジャンを見ていなかった。
黒煙を睨んでいる。
「これから中央に何かしらの形で連絡は入る。そこからさらにカーライル側で出兵準備。」
「順調に進んでも――」
「二、三か月……」
ジャンは黙った。
ユマが地面に書いた数字を見る。
一か月。
「これでは食糧が尽きる。」
「……」
しばらく二人とも何も言わなかった。
城壁の上では兵士たちが勝利を喜んでいる。
敵を退けた。
レンヌは守られた。
歓声が聞こえる。
ユマだけが笑っていなかった。
「落ちる。」
ジャンはユマを見る。
「レンヌは落ちる。」
◇
それからの日々。
レンヌ司令部も、何もしなかったわけではない。
食糧の配給制限。
市内に残る食糧の徴発。
城外部隊の収容。
負傷兵の整理。
中央への救援要請。
次々と対策が決められた。
だが。
すべてが遅かった。
レミーラ軍は本格的な包囲を開始した。
街道は封鎖され、通信は途絶した。
伝令兵は外へ出ても戻ってこない。
小規模な補給部隊も潰され、レンヌへ届くことはない。
夜になると敵兵が現れ、朝には消える。
城壁へ攻撃を仕掛けたかと思えば、すぐに退く。
追撃すれば伏兵が待っている。
レンヌ守備隊は少しずつ削られていった。
そして。
食事が減った。
最初は三食。それが二食になった。
一食あたりの量も減った。
兵士の間に苛立ちが広がる。
それでも中央から援軍は来ない。
何日経っても。何週間経っても。
◇
包囲から二週間が経った。
「では、食糧配給については現状を維持するということで。」
「しかし、それでも、もう一か月は持ちません。」
「だからといって、これ以上兵士への配給を減らせば戦闘に支障が出る。」
「軍民分を減らすしか――」
「暴動が起きたらどうする。」
「中央への追加要請は?」
「すでに出している。出しているが、届く可能性は低い。」
ジャンは黙って話を聞いていた。
狭い会議室。
並べられた書類。
難しい顔をした官僚たち。
何度目だろう。
同じ話をしている。
食糧が足りない。
兵士は減らせない。
中央へ要請する。
届くかどうかもわからない回答を待つ。
そして翌日。
また同じ話をする。
「本日はここまでとしましょう。」
ようやく会議が終わった。
ジャンは書類をまとめて席を立った。
今日も。
何も決まらなかった。
◇
医療班の執務室へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
扉を開ける。
「おかえり。」
ユナがいた。
机に頬杖をついている。
向かいではリックが帳簿を整理していた。
「まだいたのか。」
「うん。」
「もう仕事は終わっただろ。」
「ジャンを待ってた。」
「俺を?」
「今日はどうだったの?」
ジャンは抱えていた書類を机へ置いた。
「何も進展はない。」
「そっか。」
ユナが机に突っ伏した。
それ以上は聞いてこなかった。
しばらくして。
「すごいお腹すいた。」
「ユナ。」
リックがたしなめる。
「だって、お腹すいたんだもん。」
「みんな同じだよ。」
「わかってるよぉ。」
ユナが机に突っ伏したままジャンを見る。
「ジャンは?」
「俺も腹は減ってる。」
「だよねぇ。」
今日の夕食も少なかった。
薄い粥。
小さなパン。
最初の頃と比べれば半分近い。
大人でも足りない。
育ち盛りの二人なら、なおさらだろう。
「何か食べたいものでもあるのか?」
なぜだかわからない。
何となく聞いた。
ユナが起き上がった。
「いいの?」
「何が。」
「好きなもの言って。」
「別に食わせてやるとは――」
そこまで言って。
ジャンはやめた。
「……まあいい。」
「え?」
「帰ったら何か食わせてやる。どうせ使っていない給料が貯まっている。」
ユナが目を丸くする。
「ほんと?」
「ああ。」
「何でも?」
「好きなものを食え。」
「ほんとに!?」
「中央の官僚だ。そのくらいの金はある。」
「やった!」
ユナが一気に元気になった。
「何にしよう!」
「まだ帰ってもいないだろ。」
「考えるくらいいいじゃん。」
「好きにしろ。」
「お肉もいいし、お魚もいいし、甘いものも食べたいし――」
「一つにしろとは言ってない。」
ユナが止まった。
「……全部でもいいの?」
「食えるならな。」
「ジャン、お金持ち!」
「普通だ。」
ニューアーク大学を主席で卒業し、中央から派遣された官僚。
少なくとも十二歳の子供二人に飯を食わせた程度で困窮するような給料ではない。
「ぼくも?」
リックが聞いた。
「当然だろ。」
「ぼく、何も言ってないよ。」
「お前だけ見てろっていうのか。」
「……ありがとう。」
リックが嬉しそうに笑った。
「じゃあ三人で行こう!」
ユナが言う。
「勝手に決めるな。」
「ジャンも食べるでしょ?」
「俺が金を払うんだから俺も行くだろ。」
「じゃあ三人じゃん。」
「……そうだな。」
ユナが満足そうに頷いた。
そして。
「本当に約束だよ。」
「何が。」
「帰ったら、好きなもの食べさせてくれるって。」
「覚えてる。」
「忘れないでよ。」
「忘れはしない。」
「絶対?」
「しつこいな。」
ジャンは書類を開いた。
「約束だ。」
「うん!」
ユナが笑った。
「ぼくも覚えてるからね。」
「お前まで念を押すな。」
リックも笑った。
うるさい。
仕事の邪魔だ。
そう思いながら。
ジャンは二人を追い出さなかった。
窓の外を見る。遠くに炎が見える。
城壁のさらに向こう。レンヌを取り囲むレミーラ軍の篝火だった。
◇
包囲から三週間が経った。
「本当に来ないじゃないか!」
司令官執務室に怒声が響いた。
グリフィス三世が机を叩く。
「中央は何をしている!」
誰も答えない。
「救援要請は出したのだろうな!」
「は、はい。」
「ではなぜ来ない!」
「中央評議会は、現在救援の準備をしているはずです――」
「はず!?」
グリフィスの顔が赤くなる。
「伝令がまったく来ないのです。敵に情報が封鎖されています!」
副官たちは司令官の怒りに触れぬよう、必死に弁明を続ける。
ジャンは部屋の隅でその光景を見ていた。
以前なら。
何か言ったかもしれない。
だが今は何も言わなかった。
原因を作ったのは誰なのか。
この部屋にいる全員が知っている。
「食糧は?」
「現在の配給を維持した場合……」
担当官が言い淀む。
「あと三週間ほどです。」
「三週間……」
「さらに減らせば、一か月は。」
「減らせ!」
「しかし、すでに兵士への配給も――」
「減らせと言っている!」
「はっ!」
グリフィスが椅子へ沈み込む。
額の汗を拭う。
「あと、一か月……」
呟く。
「一か月、カーライルからの増援は来ない。」
ジャンは目を伏せた。
正確には、まだ一か月以上かかる。
増援が届いたときには、もう遅い。
あの日のユマの言葉を思い出す。
『レンヌは落ちる』
今のところ。
すべてその通りになっていた。
「司令官。」
副官の一人が口を開いた。
「……何だ。」
「万一に備える必要があるかと。」
「万一?」
「レンヌが維持できなくなった場合です。」
部屋が静まり返った。
グリフィスが男を見る。
「貴様。」
「司令官をお守りすることも我々の任務です。」
「……」
「レンヌが陥落すれば、司令官が捕虜となる可能性があります。」
「私に捕虜になれと言うのか。」
「ですから。」
副官は声を落とした。
「その前に退避を。」
ジャンが顔を上げた。
「敵の守備が薄い南門からなら、まだ抜けられる可能性があります。」
「待ってください。」
思わず口を挟んだ。
全員がこちらを見る。
「何だね、ワイズマン君。」
「司令官が逃げるのですか?」
「逃げるとは何だ!」
グリフィスが立ち上がった。
「戦略的撤退。転進だ!」
「守備隊は?」
「……」
「軍民は?」
「それは現場の指揮官が判断する!」
「レンヌ司令官はあなたでしょう。」
「口を慎め!」
怒鳴り声が響く。
ジャンは黙った。
グリフィスは荒い息をしながら椅子へ座る。
「まだ決定したわけではない。」
誰に言うでもなく呟く。
「万一だ。」
副官が頷く。
「もちろんです。」
「万一に備えて退路を確認するだけだ。」
「はい。」
「護衛は最小限に。」
「承知しました。」
「中央へ状況を報告する必要もある。」
「おっしゃる通りです。」
一つずつ。
言葉が積み上げられていく。
逃亡が撤退になり。
撤退が退避になり。
退避が中央への報告という任務へ変わっていく。
ジャンはそれを黙って聞いていた。
キャラクターや地図も出来上がりしだいのせていきます。




