第3話 左遷先の客人
第3話
◇
翌朝。
ジャン=ワイズマンは、新しい職場にいた。
レンヌ要塞西部に設けられた医療区画。
正確には、その一角にある医療班の事務室である。
「……左遷だな。」
誰に聞かせるでもなく、ジャンは呟いた。
レンヌ要塞へ赴任して、一か月。
ニューアーク大学主席という肩書きを引っ提げ、司令官付き官僚として中央から送り込まれた結果がこれだった。
医療班の手伝い。
もちろん、医療班の仕事そのものを軽んじるつもりはない。
ジャンは医学も修めている。
負傷者の治療補助くらいならできるし、薬品についても一通りの知識はある。
問題はそこではない。
司令官付き官僚が、たった一か月で医療班へ配置転換されたという事実である。
誰がどう見ても左遷だった。
「まあ、いい。」
グリフィス三世の顔を毎日見なくて済む。どうせ中央に戻れば挽回の余地はいくられでもある。
そう考えれば悪いことばかりでもない。
ジャンは机に積み上げられた書類を手に取った。
負傷者名簿。
治療記録。
薬品の在庫。
包帯、酒精、薬草の使用量。
原隊復帰者の記録。
死亡者の処理。
そこに治療の補助まで加わる。
一枚。二枚。三枚。
確認するにつれて、ジャンの眉間に皺が寄っていった。
「……これを何人で?」
「三人です。」
医療班の責任者が答えた。
ジャンは顔を上げた。
「私を含めて?」
「はい。」
「馬鹿ですか?」
「……」
責任者が黙った。
「失礼。言い方が悪かった」
ジャンは書類を机へ戻した。
「無理だと思いますが。」
「ですが、人手が……」
「ないのでしょう。見れば分かります。」
この一か月、周辺でレミーラ軍との小競り合いが増えている。
当然、負傷者も増えていた。
その一方で、レンヌ要塞の人員が増えたわけではない。
どこも人手不足。
だから医療班もこの有様なのだろう。
「仕事はします。」
ジャンは言った。
「ですが、この人数ではさすがに処理ができない。最低でもあと二人、人手を寄越してください。」
「二人ですか……」
「読み書きと簡単な計算ができれば構いません。高度な医学知識までは要求しません。」
「探してみます。」
「お願いします。」
責任者が出ていく。
ジャンは再び書類を見る。さて。どこから手をつけるべきか。
少なくとも、この山を今日中に半分にはしたい。
◇
そして昼前。
「連れてきました。」
やっとか。
ジャンは書類から顔を上げた。
人手を要求してから、ずいぶん待たされた。
これで少しは仕事が――
「……」
見覚えのある女が立っていた。
ユマ=リズナー。
先日、散々やり合ったあの女である。
その後ろには、十二歳ほどの少女と少年がたっている。
少女は金髪碧眼、髪を両側で結んでいる。表情は闊達な印象を受ける。
少年同じく金髪碧眼で短髪で大人しそうな印象だ。
「あんた、左遷されたんだって?」
「……」
ジャンは無言で書類へ視線を戻した。
「帰ってもらえますか。」
「人を連れてきてやったのに?」
「人手は頼みましたが、あなたは頼んでいない。」
「相変わらず可愛くないねえ、主席殿は。」
ユマが笑う。
「司令官付きから医療班の手伝いか。ずいぶん出世したじゃない。」
「ロスバルト隊長様は左遷という言葉の意味をご存じで?」
「知ってるから言ってるのよ。そのくせ左遷先なのにいきなり人員要求。」
「……」
「ニューアーク大学主席が包帯と薬瓶の整理とはねえ。」
「仕事に貴賤はないですよ。」
「へえ。立派立派。」
ジャンはため息をついた。
「それで。」
ユマの後ろを見る。
「人手というのは?」
「ああ。」
ユマが横へ一歩ずれた。
「この子たち。」
「こんにちは。」
「こんにちは。」
少女と少年が頭を下げる。
ジャンは二人を見る。
ユマを見る。
もう一度、二人を見る。
「……私は人手を寄越せと依頼したはずですが。」
「連れてきたよ。」
「子供が二人いるように見えますが。」
「主席殿は勉強のし過ぎで目が悪くなったってことはないみたいね。」
「喧嘩を売っているのですか?」
「人が足りないのよ。慢性的にね。」
ユマは肩をすくめた。
「読み書きと簡単な計算ができればいいって依頼だと思ったけど?」
「そう依頼しました。」
「できるのよ。」
「……この子たちが?」
「できるよ。」
少女がむっとした顔で割り込んだ。青い綺麗な目でこちらを睨んでいる。
「わたし、字も書けるし計算もできる。」
「ぼくもできるよ。」
少年も続く。
「薬草の置き場所も知ってるよ。」
「負傷兵の所属も分かる。」
「……ほう。」
ジャンの表情がわずかに変わった。
ユマがそれを見逃さなかった。
「なに? 急に興味出た?」
「業務に耐えうるかどうか確認しているだけです。」
「素直じゃないねえ。」
「あなたはいつまでここに?」
「邪魔?」
「まことに遺憾ながら。」
「じゃあ、もう少しいようかな。」
「帰れ。」
少女がユマの服を引っ張った。
「姉さま。この人、誰?」
「ああ、言ってなかったね。」
ユマが楽しそうにジャンを指差す。
「元ニューアーク大学主席の、ジャン=ワイズマン大先生。」
「元をつけるな。」
「主席だったのは本当でしょ?」
「その言い方だと大学を追い出されたように聞こえる。」
「似たようなものじゃない?」
「全然違う。」
少女が首を傾げる。
「偉い人?」
「本人はそう思っているみたいね。」
「あなたに今、発言権はない。」
ユマが笑った。
「で、こっちが妹のユナ。そっちが弟のリック。」
「ユナ=リズナーです。」
「リック=リズナーです。」
ジャンの眉が動いた。
「リズナー?」
「ああ。」
ユマは二人の頭に手を置いた。
「私の妹と弟。」
「……」
ジャンは三人を順番に見る。
「お前たち、姉弟だったのか。」
「似てるでしょ?」
「弟妹とはずいぶん人相が違うから驚いた。」
「まだ会って一分でしょ。」
「あなたよりは期待できる。」
「やっぱり可愛くないねえ、主席殿は。」
「お互い様ですよ。」
ユマは笑いながら、ユナとリックの背中を軽く押した。
「まあ、好きに使っていいよ。団長一家だから、ロスバルトのことなら下手な兵士より知ってるから。」
「姉さま。」
「なに?」
「わたしたち、売られた?」
「違う違う。社会勉強。」
「いったいどこにそんな要素が。」
ジャンが呆れる。
「じゃあね、主席殿。」
「二度と来るな。」
「また冷やかしに来るよ。」
「来なくてけっこう。」
手を振りながら去っていくユマを見送り、ジャンは深く息を吐いた。
そして、残された二人を見る。
ユナとリックも、じっとジャンを見ている。
「……さて。」
ジャンは椅子に座り直した。
「君たち二人の姉上の性格については同情する。」
「姉さま、いい人だよ?」
「それについて議論するつもりはない。」
「姉さまと仲悪いの?」
「最悪だ。」
「姉さまも同じこと言ってた。」
「……」
ジャンは額を押さえた。
「まあいい、仕事を始めるぞ。」
◇
「ユナ。」
「はい。」
「この名簿を負傷者の所属ごとに分けてくれ。同じ部隊はまとめておけ。」
「うん、分かった。」
「リック。」
「はい。」
「薬品庫へ行って、この一覧と実際の在庫数を照合してきてほしい。数字が違っても勝手に直すな。両方書いて持ってきてくれ。」
「分かったよ。」
「分からないことがあったらまずは聞く。適当に判断される方がのちのち困る。」
「うん。」
二人が動き出す。
ジャンも自分の仕事へ戻った。
さて、どの程度使えるか。
期待はしていなかった。十二歳の子供である。
単純作業を任せられるだけでも十分だった。
ところが。
「終わったよ。」
「……」
ジャンは顔を上げた。
ユナが整理した名簿を持って立っている。
「もうか?」
「うん。」
受け取る。
確認する。
間違いは――ない。
少なくともざっと見た限りでは。
「リックは?」
「まだ薬品庫。」
「そうか。」
「次は?」
「……」
ジャンはユナを見る。
「これを。」
別の書類を渡す。
「治療済みと治療継続中に分けてほしい。そのあと所属ごとにまとる。」
「分かった。」
ユナが持っていく。
しばらくして、リックも戻ってきた。
「先生。」
「なんだ。」
「三つ違ってた。」
「見せろ。」
一覧を受け取る。
帳簿上の数字と実在庫。
両方がきちんと記載されている。
「勝手に直してないな?」
「うん。先生が直すなって言ったから。」
「よし。」
ジャンは差異の理由を調べるため、別の帳簿を取り出した。
少し前の使用記録と照合する。
一件は記載漏れ。
一件は数量の転記ミス。
残る一件は――
「これは昨日使った分だな。」
「あ、本当だ。」
「記録がまだこちらに回ってきていない。」
帳簿へ書き込む。
顔を上げると、リックが待っていた。
「次は?」
「……お前たち。」
「なに?」
「普段からこういう仕事をしているのか?」
ユナとリックが顔を見合わせた。
「ときどき?」
「姉さまの手伝いとか。」
「団長一家だから?」
「うん。」
「……なるほど。」
ジャンは少しだけ二人への認識を改めた。
子供ではある。
だが、少なくとも役には立つ。
そこらの字が書けるだけの兵士を寄越されるより、よほどいい。
「では次だ。」
ジャンは負傷者名簿を一枚取った。
「この男。所属が第一戦隊となっているが。」
「うん。」
「第一戦隊とはなんだ?」
ユナが首を傾げた。
「第一戦隊は第一戦隊だよ?」
「それでは説明になっていない。」
「ロスバルトの。」
「それは分かる。」
ジャンは名簿を指で叩いた。
「傭兵団の内部を戦隊単位に分けているのか?」
「うん。」
「いくつある。」
「団長直属と、第一から第五まで。」
ジャンの手が止まった。
「……六個?」
「そう。」
「一戦隊の人数は?」
「だいたい千人くらい。」
「待て。」
ジャンはユナを見る。
「ロスバルトは全部で何人いる。」
「全部?」
「全部。」
「今?」
「現在の総兵力でいい。」
ユナは少し考えた。
「五千から六千くらい?」
「……」
ジャンは無言になった。
「どうしたの?」
「いや。」
おかしい。
「それは傭兵団という規模なのか?」
「傭兵団だよ?」
ユナは当然のように答えた。
「契約ごとに兵を集めるのではなく?」
「ずっといるよ。」
「契約がないときは何をしている。」
「訓練。」
「……ほかには?」
「セイレンの警備。」
「ほかには?」
「街道の巡回とか。」
「ほかには?」
「災害があったら手伝う。」
リックが付け加える。
「冬は雪かきもするよ。」
「軍隊じゃないか。」
「傭兵だよ?」
ユナが真顔で答えた。
「……」
どうやら本人には何の疑問もないらしい。
「では、その五千人の給料は誰が払う。」
「仕事を頼んだ街。」
「契約がない場合は。」
「セイレン。」
「セイレン市政府が?」
「傭兵ギルド。」
「その傭兵ギルドの長は誰だ。」
「団長の姉さま。」
「セイレンの市長は。」
「団長の姉さま。」
「……」
ジャンは額を押さえた。
「それを普通は市軍というんじゃないのか。しかもあいつ市長かよ。」
「でもロスバルトは傭兵団だよ?」
「もういい。」
ジャンは椅子の背にもたれた。
どうやら、自分が知っている傭兵という言葉と、セイレン人が使っている傭兵という言葉には、かなり大きな隔たりがあるらしい。
常時五千人以上を抱える。
部隊編成は固定。
訓練制度がある。
装備も一定程度規格化はされている。獲物が違うのは先祖伝来とかなんとか。
負傷者は所属部隊まで記録され、治療後は原隊へ復帰させる。
平時には市内警備や街道巡回まで担当する。
どう考えても常備軍だった。
ただし。
彼ら自身には、その認識がない。
「中央の資料には、こんなことまで書いてなかったぞ……」
「中央って、セイレンのことあんまり好きじゃないから。」
ユナが何でもないことのように言った。
「それはお前が言っていいのか?」
「ダメなの?」
「……俺に聞くな。」
「先生、中央の人でしょ?」
「だから困っている。」
リックがくすくす笑った。
ジャンはため息をつく。
とんでもないところへ左遷されたものだ。
そう思いながら、もう一度ロスバルトの負傷者名簿を見る。
先ほどまでとは、少しだけ違って見えた。
◇
昼を少し過ぎた頃。
「お腹すいた。」
ユナが言った。
「ぼくも。」
リックが続く。
ジャンは書類から顔を上げた。
「もうそんな時間か。」
窓を見る。太陽はすでに高い。
仕事を始めると時間を忘れる。
学生時代から変わらない悪癖だった。
「先生、お昼食べないの?」
「食べる。」
「どこで?」
「食堂だろう。」
「ここの?」
「ほかにどこがある。」
ユナとリックが顔を見合わせた。
「ロスバルトの食堂。」
「近いよ。」
「……部外者が入っていいのか?」
「大丈夫。問題ないよ。」
「姉さまもいるかも。」
「では、ここで食べる。」
「なんで?」
「急に食欲が失せた。」
「姉さまのこと嫌いすぎじゃない?」
「俺とあの女の関係について、お前たちが心配する必要はない。」
「やっぱり仲悪いね。」
「だから最悪だと言っただろう。」
結局。
二人に連れられる形で、ジャンはロスバルトの食堂へ向かうことになった。
◇
食堂は思っていたより広かった。
長い卓がいくつも並び、ロスバルトの兵士たちが思い思いに食事を取っている。
黒パン。
豆と野菜の煮込み。
干し肉。
豪華とは言い難い。
だが、量は十分にある。
兵士の食事としては悪くない。
「先生、こっち。」
ユナに呼ばれ、ジャンは4人用の向かいへ腰を下ろした。
周囲からいくつか視線を感じる。
無理もない。
中央から来た官僚が、団長の妹弟と一緒にロスバルトの食堂へ来たのだ。違和感しかないだろう。
ジャンは周りに視線を向けずに食事を取りはじめる。
その時
「おい。」
声がした。
嫌な予感がする。
顔を上げる。
「……」
「なんだ、その顔。」
男が立っていた。
見覚えがある。忘れるはずもない。先日、自分を殴った男だった。
「ハンスさん。」
ユナが不安そうに男を見る。
男は気にした様子もなく、自分を指さした。
「ハンス=ベッカーだ。」
「また殴りにでも来たのか?」
「せっかくだ。名前くらい覚えとけ。」
「暴力を振るう人間の名前を逐一記憶していたら、頭がいくつあっても足りない。」
「お前、また殴られてえのか?」
「やってみろ。今度は治療費まで請求する。」
「2人ともやめてよ」
ユナが2人を睨み付ける。
「わりぃ、わりぃ。今日はそういう用じゃなぇんだ。」
ハンスはそのままジャンの向かいへ腰を下ろした。
「誰がこの席に座っていいと言った。」
「ここ、俺らの食堂だぞ。それに空いてる場所もここしかねえ。」
「それもそうか。」
「納得すんのかよ。」
ハンスがパンをちぎる。
ジャンも食事を始めた。
しばらくは、沈黙の中で食事が進んだ。
先に口を開いたのはジャンだった。
「ところで何の用だ?」
「なあ、先生よ。」
「なんだ。」
「あんた、政治とか金のことに詳しいんだろ?」
「政治と経済だ。」
「似たようなもんじゃねえかよ。」
「全然違う。」
「じゃあ聞くけどよ。」
ハンスはパンを片手に身を乗り出した。
「なんで街を一個越えるたびに税金取られるんだ?」
ジャンの手が止まった。
「……何の話だ?」
「セイレンからゼルキアまで物を運ぶだけで、途中の街で何回も金を取られるだろ?」
「通行税のことか。」
「関税じゃねえのか?」
「場合による。」
「何が違う。」
「徴収する理由と対象が違う。」
「分からん。」
「だろうな。」
「馬鹿にしてんのか。」
「説明してやるから黙って聞け。」
ジャンはパンを皿へ置いた。
「まず、都市同盟は一つの国家ではあるが、各都市の自治権が強い。」
「知ってる。」
「なら話は早い。都市ごとに徴税権がある。当然、それぞれが自分たちの財源を確保しようとする。」
「それで荷物から金取るのか。」
「そういう場合もある。他には自都市の産業を守るため、外から入ってくる商品へ税をかける場合もある。」
「例えば?」
「セントハイムが自分たちの鉄を守りたいとする。」
「うん。」
「他都市から安い鉄が大量に入ってくれば、セントハイムの鉄が売れなくなる。」
「だから外の鉄を高くする?」
「そうだ。それが保護関税だ。」
「なるほど。」
ハンスが頷いた。
ジャンは少し意外に思った。
一度説明すれば理解する。
「じゃあさ。」
「なんだ。」
「それって都市同盟全体で見たら損じゃねえの?」
ジャンがハンスを見る。
「なぜそう思う。」
「だって安い鉄があるのに、わざわざ仲間に高くして買わせるんだろ?」
「そうだな。」
「その分、剣とか鎧とか農具も高くなる。」
「場合によっては。」
「だったら仲間うちで困るだけじゃねえか。」
「……」
ジャンは少しだけ姿勢を変えた。
「お前、学校は?」
「行ってねえよ。」
「読み書きは。」
「おふくろが教えてくれた。」
「計算は?」
「それもおふくろだ。いや、おやじからも給料の計算に使うからって教えてもらったな。」
「意外と学識のある家庭だな。」
「そんなことねえぜ。」
ハンスは首を振る。
「読み書きくらいなら家で教えるだろ。周りの家もそんなもんだったぞ。」
「……そうなのか。」
「ああ。セイレンでは国母のクリス様がだいぶ前にそうしろって広めたんだ。」
ジャンは少し考えた。
セイレンについて、また一つ自分の認識と違う部分が出てきた。
学校へ行っていない。
だから無学ではある。
だが、文字も数字も家庭で習っている。むしろ家庭学習を推奨している。
理解力も低いわけではない。
実際に物資を運び、武器を使い、給金で生活している。だから経済の話を、自分の生活に置き換えて考えられるのはわかる。
「お前の疑問は正しい。」
「だろ?」
「ただし、セントハイム側にも理屈がある。」
「どんな?」
「安い商品に押されて地元の産業が壊滅すれば、そこで働いていた人間が職を失う。」
「ああ。」
「一度失った産業は簡単には戻らない。特に鉄のような軍事的にも重要な産業なら、単純に安い方から買えばいいとはならない。」
「面倒くせえな。」
「経済とはそういうものだ。」
「じゃあどうすりゃいいんだ?」
「知らん。」
「知らねえのかよ。」
「問題が分かったからといって、答えが一つになるとは限らない。そもそもわかったらいまごろ大政治家か大金持ちだ。」
ハンスがしばらく考える。
「先生。」
「なんだ。」
「そういう話、なかなか面白いな。」
「そうか?」
「ああ。」
ハンスは煮込みを口へ運んだ。
「俺、こういうの知らねえから。」
「知らないなら覚えればいい。」
「馬鹿でも?」
「知識がないことと、頭が悪いことは違うだろ。」
ハンスがジャンを見る。
「俺のこと馬鹿だと思ってただろ。」
「人を殴るような奴の品性は常に最低評価だ。」
「一言多いんだよ。」
「だが、理解力はある。」
「……」
「なら問題ない。」
ハンスは一瞬、妙な顔をした。
それから笑った。
「やっぱお前、ムカつくけど面白えな。」
「お前に好かれたいと思ったことは一度もない。」
「また教えろよ。」
「授業料を取るぞ。」
「飯くらいなら奢ってやる。」
「安すぎる。」
「傭兵の給料舐めんな。」
向かいでユナが笑っていた。
「先生、楽しそう。」
「どこがだ。」
「ハンスさんも。」
「嬢ちゃん、俺とこいつのどこが楽しそうに見える?」
「いっぱい喋ってる。」
「それだけか?」
「先生、興味ない人とはあんまり喋らないよ。」
「……お前は俺と会ってまだ半日だろう。」
「でも分かるよ。女の感ってやつかな。」
「……まあいい」
ジャンは答えず、残ったパンを口へ入れた。
◇
翌日。
ハンスは今度は商人が払う市場使用料について聞いてきた。
その次の日には別の隊員が加わり、都市ごとに貨幣の価値が違うのはなぜかと聞いてきた。
さらにその翌日には三人になった。
気がつけば、昼食のたびに誰かがジャンへ質問を持ってくる。
ジャンも、聞かれれば答えた。
分からないものは分からないと言った。
間違った理解をしていれば訂正した。
意見が違えば議論した。
そんな日が1ヶ月ほど続いた。
◇
「楽しそうだったわね。」
ある日の昼。
食堂を出たところで声がした。
ジャンは立ち止まった。
「……またあなたですか。」
壁にもたれて、ユマが立っている。
「またとは失礼ね。」
「暇なのですか?」
「隊長に向かっていい度胸してるわね。」
「私はあなたの直属の部下ではありませんし、忙しいなら仕事をしてください。」
「しているわよ。ちょうど巡回の帰り。」
ユマは食堂の中を覗いた。
「ハンスたちと、ずいぶん盛り上がっていたじゃない。」
「講義していただけです。」
「税金の話で?」
「今日は貨幣制度です。」
「はいはい。」
「何ですか、その反応は。」
「いや。あんた、ああいう話してる時は本当に楽しそうだなって。」
「専門ですから。」
「それだけ?」
「何が言いたいのです。」
「別に。」
ユマが笑う。
「無学な傭兵なんて相手にしないと思ってた。」
「知識がないことと、頭が悪いことは違います。」
「へえ。」
「知らないなら教えればいい。理解できるなら問題ありません。」
「なるほどねえ。」
「なんですか。」
「あんた、官僚よりも学校の先生向きかもね。」
「喧嘩を売っているのですか?」
「褒めてるのよ。」
「あなたの褒め方はいちいち腹が立つ。」
「それはお互い様でしょ。」
ユマが歩き出した。
「ちょっと付き合って。」
「嫌です。」
「即答しない。」
「では、どこへ?」
「城壁。」
先ほどまでの軽い調子が、少しだけ消えていた。
ジャンはそれに気づいた。
「何か?」
「少し話したいことがあるの。」
◇
二人は西側の城壁へ上がった。
眼下には街道が延びている。
その先。
レンヌの西にはコスタ平原が広がり、さらに向こうにはレミーラ帝国領がある。
一見すれば、平穏だった。
荷馬車が街道を進み、遠くでは農民が畑を耕している。
「それで。」
ジャンが言った。
「何の話です?」
「最近、暇になったでしょ?」
「医療班が?」
「そう。」
「ええ。」
ジャンも城壁から西を眺めた。
一か月ほど前までは、レミーラ軍との小競り合いが続いていた。
数十人。多い時には数百人。
レミーラ側の部隊がレンヌ周辺へ姿を見せ、ロスバルトの哨戒部隊と接触する。
戦闘になっても長くは続かない。
しばらくすると、敵は引いていく。
そんなことが何度も繰り返されていた。
だが、それも今はない。
「ここ1カ月くらい、ずいぶん静かになった。」
「ええ。おかげで負傷兵も減りました。」
「いいことね。」
「そんな話をするために、わざわざ私をここまで?」
「まさか。」
ユマは西の平原を見る。
「一時期はどうなるかと思ったけど、どうやら向こうも強行偵察を打ち切ったみたい。」
「司令部も同じ見解でしたね。」
「なら、ひとまず安心ってところかな。」
「そうですね。」
ジャンは答えた。
レミーラ軍が何を目的に強行偵察を繰り返していたのか。
それは分からない。
だが、少なくとも現在は戦闘が減っている。
負傷兵も減った。
敵の姿も見えなくなった。
普通に考えれば、状況は好転している。
「悪かったわね。」
ユマが城壁から身を起こした。
「少し考えを整理したかっただけ。」
「それで、整理できましたか?」
「まあね。」
もう一度、西の平原を見る。
「念のため、司令部にはカーライル騎士団へ増援要請を出すよう伝えてあるから。」
「……」
「仮にレミーラがまた動いたとしても、カーライルが後詰めに入ればいつも通りにできる。」
ジャンの口が開きかけた。
「それは――」
だが、そこで止める。
司令部にいた頃。
ジャンは、その要請がどう扱われたかを知っている。
カーライル騎士団の派遣を必要とせず。
グリフィス三世は、そう判断していた。
だが、それは司令部内部で知った情報だ。
今のジャンが、勝手に口外していいものではない。
「……なに?」
ユマが振り返る。
「いえ。」
ジャンは口を閉じた。
「なんでもありません。」
「そう?」
「ええ。」
ユマは少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「ユナとリックにも良くしてくれてるみたいだし。」
少しだけ表情を緩める。
「ありがとう。」
「仕事をさせているだけですよ。」
「はいはい。」
ユマは小さく笑った。
「じゃあ、またね。主席殿。」
「できれば来ないでください。」
「それは姉弟を預けている保護者としては無理。」
手を振りながら、ユマは城壁を下りていった。
ジャンはその後ろ姿を見送る。
増援要請。
カーライル騎士団。
そして、今では姿すら見せなくなったレミーラ軍。
「……」
何かが引っかかる。
だが。
その正体を言葉にできるほどの材料は、まだなかった。
◇
同じ頃。
レンヌの遥か西。
レミーラ帝国東部辺境軍の本営。
机上に広げられた地図を、ルートビッヒ=シュナイダーは黙って見つめていた。
その傍らに、副官ホフマンが立つ。
「準備は整いました。」
「そうか。」
ルートビッヒは地図上のレンヌへ視線を落とす。
「敵に動きは?」
「ありません。」
「結構。」
短く答える。
「各隊、そのまま待機。」
「はっ。」
ルートビッヒは地図から目を離さなかった。
「あとは――」
一拍。
「下知を待て。」




