第2話 数字の向こう側
◇
辞令交付の翌朝。
ジャン=ワイズマンは、レンヌ要塞司令部の一室で大量の書類と向き合っていた。
司令部付き出納係兼医療物資補給係。
それが、彼に与えられた最初の仕事だった。
出納係といえば聞こえはいい。
実際にやることは、各部隊から上がってくる請求書と帳簿を照合し、支出を記録し、必要な物資を各部署へ割り振ることである。
それに加えて医療班から提出される医薬品や包帯などの要求を取りまとめ、不足分を補給部へ申請する。
地味な仕事だった。
ニューアーク大学を主席で卒業した人間に最初に任せる仕事としては、あまりにも地味である。
だが、ジャンに不満はなかった。
むしろ好都合だった。
金の流れを見ることができる。
どの部署がどれだけの予算を使い、何を必要とし、どこに無駄があるのか。
組織というものは、帳簿、金の流れを見れば大抵のことが分かる。金を制するものは組織を制する。
「……ひどいな」
ジャンは思わず呟いた。
赴任して三日。
すでにいくつもの不自然な支出を見つけていた。
司令官用の酒。来客用の食材。 司令部の調度品。
前線要塞とは思えない金額が並んでいる。
昨日案内された司令官執務室を思い出す。
高価そうな絨毯。壁に掛けられた絵画。 棚に並んでいた年代物の酒。
あれらがどこから出ているのか。
考えるまでもなかった。
「中央は何をしているんだ。いや俺が中央から派遣か」
ジャンは帳簿へ数字を書き込んだ。
軍事予算は無限ではない。
一枚の金貨を酒に使えば、その金貨を武器には使えない。
絵画を買えば、その分だけ兵士に渡る装備は減る。
当たり前の話である。
にもかかわらず、ここではその当たり前が守られていない。
これなら削れる。
ジャンはそう考えた。
レンヌ要塞の支出を整理し、無駄な予算を削減する。
結果を数字として示せばいい。中央へ戻った時、明確な実績になる。
ニューアーク大学主席卒業。
それだけでは足りない。
官僚の世界で必要なのは、結果である。その結果が未来を拓く。
ジャンは次の書類を手に取った。
そして眉をひそめた。
「……ロスバルト」
また、その名前だった。
ロスバルト傭兵団。
セイレンを本拠とする傭兵団である。
報酬。食糧。 武器。 矢。 医薬品。
正規軍とは別枠で、かなりの物資が支給されている。
ジャンは別の帳簿を開いた。
先月。その前。 さらにその前。
「多すぎるだろ」
数字を合計する。
間違いではない。
レンヌ要塞の予算のかなりの部分が、ロスバルト傭兵団に費やされている。
昨日までなら、単に前線だから仕方がないと思ったかもしれない。
だが、実際の数字を見ると話は違った。
レンヌには都市同盟の正規軍がいる。
それなのに、なぜこれほどの金を払ってまで傭兵を雇う必要があるのか。
「ここだな」
ジャンは帳簿に印をつけた。
削れる。
少なくとも、見直す余地はある。
◇
「削減?」
ユマ=リズナーは露骨に眉をひそめた。
「はい」
ジャンは書類を差し出した。
ロスバルト傭兵団の詰所。ジャンが訪れた時、ユマは部下たちと地図を囲んでいた。
「過去半年分の支出を確認しました。」
「それで?」
「ロスバルト傭兵団への支出が多すぎます。」
ユマの眉間に皺が寄った。
「だから減らす?」
「適正化です。」
「同じでしょ。」
「違います。」
ジャンは即答した。
「不要な支出を削減し、本当に必要な部署へ再配分する。行政として当然のことです。」
ユマは書類を受け取った。
数秒眺める。
そして机へ放り出した。
「却下。」
「あなたに決定権はありません」
「だったら、なんで私に持ってきたのよ」
「現場の意見を聞いておこうと思っただけです」
「聞く気ないじゃない」
「合理的な説明があれば聞きます」
ユマがジャンを睨む。
ジャンも見返した。
「……あんた、昨日来たばっかりよね?」
「三日前です」
「似たようなもんでしょ」
「三日と一日は三倍違います」
「そういう話してない」
ユマは額を押さえた。
「いい? ロスバルトが抜けたら、この辺の警備を誰がやるの?」
「正規軍です」
「その正規軍が足りないから私たちがいるんだけど。」
「足りないのであれば、中央へ増援を要求すればいい。」
「そんなことはとっくに司令部に具申してるわよ。」
ジャンが黙った。
「何度もね」
ユマは地図の一点を指した。
「昨日も小競り合いがあった。先週にもあった。その前の週にも。街道の警備、偵察、哨戒、村の避難誘導。全部、正規軍だけでやれると思う?」
「それは司令部が判断することです」
「だから、その司令部が私たちを雇ってるんでしょうが!」
詰所にユマの怒声が響いた。
周囲にいた傭兵たちがこちらを見る。
ジャンは小さく息を吐いた。
「感情的にならないでください」
「誰のせいよ!」
「私は数字の話をしています」
「私は人間の話をしてんの!」
二人の間に沈黙が落ちた。
ジャンは机の上の書類を取った。
「では、その人間を維持するために、どれだけの金が必要かを考えるのが私の仕事です」
「……嫌な奴」
「よく言われます」
「嘘つけ。絶対友達いないでしょ」
「ずいぶんいたと思いますが。それ仕事に関係ありますか?」
「ない!」
ユマは椅子へ乱暴に腰を下ろした。
ジャンは書類をまとめる。
「ともかく、支出については再検討します。」
「勝手に減らしたら承知しないからね」
「合理的な理由がある支出なら削りません」
「あんたの合理的と私の合理的が違うのよ」
「それなら数字で説明してください」
「ほんっと腹立つ!」
背後で誰かが笑った。
ジャンは振り返らず、詰所を出た。
話にならない。
現場の人間は、すぐ感情を持ち出す。
必要だ。危険だ。 仲間がいる。
だから金を出せ。
そんな理屈で予算が組めるなら、官僚など必要ない。
もっと明確な結果を出さなければならない。
誰が見ても分かる形で。
予算を削減する。無駄をなくす。
それなら中央の人間にも数字で示せる。
ジャンは抱えた帳簿を見た。
まだ調べる余地はいくらでもある。
◇
数日後。
昼時の食堂は、兵士たちの喧騒に包まれていた。
ジャンは一人、遅い昼食を取っていた。
固いパンをスープに浸しながら、傍らに置いた帳簿へ目を落とす。
どう考えても多い。
ロスバルト傭兵団に支払われている報酬だけではない。
食糧、武器、医薬品。正規軍とは別枠で計上される彼らへの支出は、ジャンには到底看過できるものではなかった。
「団長、また例の話してたぞ」
近くの卓から聞こえた声に、ジャンの手が止まった。
ロスバルトの傭兵たちだった。
「例の話?」
「新しい都市同盟を作るってやつだよ。今の同盟じゃ駄目なんだとさ。」
「ああ、新都市同盟構想とかいうやつか」
「ゼルキアもセントハイムもセイレンも、同じ立場で話せるようにするって話だろ?」
ジャンは思わず吹き出した。
「……何がおかしい?」
傭兵の一人が振り返る。
ジャンは口元を押さえた。
「失礼。あまりにも馬鹿馬鹿しかったもので」
「なんだと?」
「新都市同盟構想でしたか?」
ジャンはパンを皿へ戻した。
「無学な田舎者の夢想ですよ」
食堂の空気が変わった。
「てめえ……」
「違いますか?」
ジャンは悪びれることなく続ける。
「都市同盟がどうやって維持されていると思っているんです。法を整備し、官僚を育成し、外交を担い、軍事費を負担する。そんなものをセイレンのような辺境都市が担えるとでも?」
「俺たちは、その辺境で戦ってんだぞ」
「それは傭兵として報酬を受け取ってのことでしょう」
男が立ち上がった。
ジャンも目を逸らさない。
「あなた方が今日こうして食事を取れるのも、都市同盟の秩序が維持されているからです。そして、その秩序を支えているのはゼルキアです。だからゼルキアには拒否権まで与えられている。初等部でも教えられているような常識だ。」
「ふざけるな俺たちが命がけで戦ってるから、ゼルキアの連中は安全な場所で偉そうなこと言ってられるんじゃねえか!」
「逆ですよ」
ジャンは即座に切り返した。
「ゼルキアが秩序を作っているから、あなた方は戦うことだけを考えていられる」
椅子が大きな音を立てた。
周囲の視線が集まる。
それでもジャンは止めなかった。
「都市間の平等? 結構な理想です。しかし、責任も能力も異なる都市に同じ権限を与えればどうなるか。それは平等ではありません。ただの無責任です」
「ユマ団長は本気だ」
「でしょうね」
ジャンは冷たく笑った。
「だから夢想だと言っているんです。」
男の拳が震えた。
「いつか団長が、お前らに分からせる」
「楽しみにしていますよ」
ジャンは再びパンを手に取った。
「もっとも、その新都市同盟とやらができる頃まで、皆さんが生存されていればの話ですがね」
次の瞬間。
視界が横へ吹き飛んだ。
「――っ!」
椅子ごと床に転がる。
一瞬遅れて、頬に焼けるような痛みが走った。
「てめえ……!」
傭兵の男が拳を握り締めていた。
「今のを、もう一度言ってみろ!」
「おい、やめろ!」
「離せ!」
周囲の傭兵たちが男を羽交い締めにする。
ジャンは床に手をつき、ゆっくりと身体を起こした。
切れた唇を指で拭う。
血がついていた。
「……なるほど」
「ああ!?」
「反論できなくなったら暴力ですか」
食堂が静まり返った。
男を押さえていた傭兵まで、唖然としてジャンを見る。
「さすがは辺境のならずもの集団ですね。大変、分かりやすい」
「こいつ、もう一発殴らせろ!」
「馬鹿! やめろ!」
ジャンは倒れた椅子を起こし、何事もなかったように座り直した。
そして床に落ちたパンを見る。
「……食事まで無駄になった」
「誰のせいだと思ってやがる!」
再び食堂が騒然となった。
ジャンは腫れ始めた頬を押さえながら、深くため息をついた。
まったく。
政治を知らない者ほど、政治を簡単に語る。
平等。自由。新しい同盟。
言葉だけなら、いくらでも美しいものを並べられる。
それを現実に動かすために、どれほどの制度と金と人間が必要なのか。
彼らは何も知らない。
◇
それから数日。
ジャンの頬から腫れが引く頃には、ロスバルト傭兵団の帳簿について一つの結論が出ていた。
「……合ってる」
ジャンは不機嫌そうに呟いた。
何度計算しても同じだった。
ロスバルトへ支給された食糧。
矢。
武器。
医薬品。
それぞれの数量を、司令部の出納記録とロスバルト側から提出された受領記録と照合する。
多少の誤差はある。
戦場である以上、当然だ。
破損した武器もある。
輸送中に失われた物資もある。
戦闘で消費された矢の数など、一つ残らず数えられるはずもない。
だが、それを考慮すれば数字は合っている。
少なくとも、ジャンが期待していたような大規模な浪費はなかった。
「……あれだけ偉そうに言っておいて、これか」
気に入らない。
実に気に入らない。
あの女――ユマ=リズナーに報告すれば、さぞ得意げな顔をするだろう。
想像しただけで腹が立つ。あの透かした顔を狼狽させてやりたかった。
だが、数字は数字だった。
自分に都合が悪いからといって変えるわけにはいかない。
ジャンはロスバルト関係の書類を脇へ退けた。
そこで手が止まった。
「……待てよ」
何かがおかしい。
ロスバルトへの支出は合っている。
正規軍への支給も、おおむね合っている。
では――。
ジャンは最初の帳簿へ戻った。
レンヌ要塞に搬入された物資の総量。
そこから各部隊への支給分を引く。
ロスバルトへの支給分も引く。
司令部で使用された分も引く。
倉庫の在庫を確認する。
「…………」
合わない。
ジャンはもう一度計算した。
やはり合わない。
紙の上で数字を追う。
特に目についたのは医療物資だった。
包帯。消毒用の酒精。薬品。
その他、負傷兵の治療に必要な物資。
帳簿上では、確かにレンヌ要塞へ搬入されている。
ところが医療班への支給記録と在庫を足しても、搬入された量には届かない。
「どこに消えた?」
ジャンは呟いた。
紛失。破損。記帳漏れ。
可能性はいくらでもある。
だが、一度や二度ではない。
数か月にわたって、同じような数字のずれが続いている。
医療物資だけではなかった。
食糧にもある。
装備品にもある。
一つ一つは、それほど大きくない。
だが積み重ねれば無視できない量になる。
ジャンは椅子の背にもたれた。
ロスバルトが使っていると思っていた。
違った。
正規軍でもない。
では、この物資はどこへ行っている?
「……これは、報告するべきだな」
ジャンは書類をまとめた。
◇
「なるほど」
グリフィスは、ジャンの報告書を眺めながら頷いた。
「よく調べたね、ワイズマン君」
「ありがとうございます」
ジャンはグリフィスの机の前に立っていた。
相変わらず豪華な部屋だった。
窓際には彫刻の施された机。壁には絵画。棚には酒瓶。
以前なら単に趣味の悪い部屋だと思っただけだった。
今は違う。
あの酒一本はいくらだ。 あの絨毯はいくらだ。
そんなことばかり考えてしまう。
「それで?」
グリフィスが書類を机へ置いた。
「君はどう考えているのかな」
「横流しの可能性があります」
グリフィスの表情は変わらなかった。
「ほう」
「もちろん、現段階では断定できません。ただ、単純な記帳漏れでは説明できない量です」
「前線では物がなくなるものだよ」
「それは理解しています」
「本当に?」
グリフィスは微笑んだ。
「君は大学を出たばかりだろう。数字というものを少し信用しすぎているんじゃないかな」
「数字が間違っている可能性はあります」
「そうだろう」
「ですが、毎月同じように間違えるのは不自然です」
グリフィスの笑みが、ほんのわずかに止まった。
「倉庫の管理者にも確認しました。搬入記録に間違いはないとのことです。医療班の受領記録も確認しました。こちらも帳簿と一致しています」
「ずいぶん熱心だね」
「仕事ですので」
「そうか」
グリフィスは椅子へ深く腰掛けた。
「分かった。こちらでも調べておこう」
「いつ頃までに結果が出ますか?」
「ワイズマン君」
「はい」
「君は少し働きすぎだ」
ジャンは眉をひそめた。
「そうでしょうか」
「若いうちは熱意がある。それはいいことだ。だが、自分の担当を越えてあれこれ首を突っ込むのは感心しないな」
「出納は私の担当ですが」
沈黙。
グリフィスはしばらくジャンを見つめた。
やがて笑った。
「確かにそうだ」
「では、調査を続けます」
「いや」
グリフィスは首を振った。
「それには及ばない」
「しかし――」
「こちらで調べると言っただろう」
声は穏やかだった。
だが、先ほどまでとは何かが違った。
「分かりました」
ジャンは一礼した。
納得はしていない。
だが司令官が調査すると言う以上、これ以上言う必要もない。
「失礼します」
ジャンは部屋を出た。
扉が閉じる。
グリフィスは机の上に残された報告書へ目を落とした。
先ほどまでの笑みは消えていた。
◇
三日後。
「文書係?」
「そうだ」
ジャンの直属の上官は、気まずそうに頷いた。
「本日付で、君は司令部文書係へ異動となる」
「なぜです?」
「命令だ」
「理由を聞いています」
「……人員配置の適正化だそうだ」
ジャンは黙った。
どこかで聞いた言葉だった。
「私の仕事に問題がありましたか?」
「俺に聞くな」
「では、誰に聞けば?」
「ワイズマン君」
上官は声を低くした。
「余計なことをするな」
「余計なこと?」
「そういうところだ」
ジャンは眉をひそめた。
意味が分からない。
帳簿を調べた。
不自然な数字を見つけた。
司令官へ報告した。
それだけだ。
何が問題なのか。
「文書係へ行け。今日からだ」
「……分かりました」
不満はあった。
だが命令なら従うしかない。
文書係。
名前の通り、司令部に届く報告書や命令書を整理し、必要に応じて清書する部署である。
出納係よりさらに地味だった。
中央政府で栄達するはずの人間に、延々と書類を書き写させる。
嫌がらせか。ジャンはそう思った。
だが、仕事は仕事だ。
与えられた以上、完璧にやる。そして力を見せつけてやる。
そう決めた。
◇
文書係に移って五日目。
「これを清書してくれ」
「はい」
ジャンは上司から渡された書類を受け取った。
レンヌ周辺を警備しているロスバルトからの報告だった。
ジャンは原文に目を通す。
敵部隊の活動が活発化。
街道周辺で小規模ながら複数回の交戦。
現地指揮官は、防衛兵力の不足を訴えている。
カーライル騎士団の派遣を求む。
「……増援要請ですね」
「ああ」
上司が別の紙を渡した。
「これが回答だ」
ジャンは受け取った。
目を通す。
そして、もう一度読んだ。
「……増援不要?」
「ああ」
「誰が判断したんです?」
「司令部だ」
「それは分かっています」
ジャンは二枚の書類を机に並べた。
「理由は?」
「知らん」
「敵兵が増えています」
「そう書いてあるな」
「現場指揮官も兵力不足を訴えている」
「そうだな」
「なのに増援不要?」
上司が嫌そうな顔をした。
「俺に言うな」
「この報告内容なら、増援不要という結論にはなりません」
「ワイズマン君」
「はい」
「きみの仕事は何だ」
「文書を作成することです」
「なら作れ」
「内容がおかしくても?」
「判断するのはきみではない。司令部はこの程度の小競り合いで、カーライル騎士団を動かす必要はないと結論を出した」
ジャンは黙った。
確かにそうだ。
文書係に軍事上の決定権などない。
ましてジャンは軍人ですらない。
「……分かりました」
ジャンは筆を取った。
書く。
ロスバルトからの増援要請について。
レンヌ周辺の情勢は、現有兵力をもって対処可能と判断する。
よって、カーライル騎士団の派遣を必要とせず。
綺麗な文字だった。
誰が読んでも意味を取り違えない、簡潔な文章。
ジャンは筆を置いた。
「これでよろしいですか」
「ああ」
上司が受け取る。
「ご苦労」
ジャンは原文を見た。
敵兵増加。
兵力不足。
カーライル騎士団の派遣要請。
そして、自分が書いた回答を見る。
カーライル騎士団の派遣を必要とせず。
「……おかしい」
小さく呟いた。
「何か言ったか?」
「いえ」
その日は、それ以上何も言わなかった。
◇
一週間後。
またロスバルトから報告が来た。
敵との小競り合いは続いている。
前回よりも交戦の範囲が広がっていた。
負傷者も増えている。
そして再び、カーライル騎士団の派遣要請。
ジャンは回答書を見た。
派遣を必要とせず。
「…………」
今度は何も言わずに清書した。
まだ判断できない。
軍事の専門家ではない自分には分からない事情があるのかもしれない。
カーライル騎士団を動かすにはロスバルト以上に金がかかる。
別方面への備えも必要なのだろう。
そう考えることはできた。
だが、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
◇
さらに一週間が過ぎた。
また、ロスバルトから報告が届いた。
ジャンは書類を受け取ると、すぐに原文を開いた。
敵部隊の活動、さらに活発化。
偵察範囲の複数地点で敵兵を確認。
警戒区域拡大のため、現有兵力では対応困難。
カーライル騎士団の派遣を求む。
ジャンはゆっくりと顔を上げた。
「……これも?」
「ああ」
上司は短く答えた。
回答書を差し出す。
ジャンは読んだ。
派遣を必要とせず。
「…………」
三通の報告書を机に並べた。
最初の報告。
敵兵増加。
兵力不足。
次の報告。
交戦範囲拡大。
負傷者増加。
そして今回。
敵軍活動活発化。。
状況は明らかに悪化している。
なのに回答だけは、最初から何一つ変わっていない。
カーライル騎士団の派遣を必要とせず。
「おかしい」
今度は声に出した。
「何がだ」
「状況が変わっています」
ジャンは三枚の報告書を指した。
「ロスバルトの報告内容は、一週間ごとに悪化している。それなのに司令部の結論だけが変わらない」
「だから?」
「判断の根拠を確認させてください」
「きみが確認してどうする」
「文書を作るためです」
「命令された通りに書けばいい」
「内容を理解せずに公文書を作れというんですか?」
上司は深く息を吐いた。
「ワイズマン君。余計なことは考えるな」
また、その言葉だった。
余計なこと。
ジャンは黙った。
そして、ふと別の書類へ目を向けた。
中央政府へ送付する定期報告書だった。
ジャンはそれを手に取った。
レンヌ周辺。
情勢、おおむね安定。
敵軍に大規模な活動なし。
現有兵力をもって対処可能。
カーライル騎士団の派遣を必要とせず。
「……違う」
ジャンは原文を引っ張り出した。
もう一度比べる。
違う。
ロスバルトは敵兵が増えたと言っている。
中央政府への報告には、大規模な活動なし。
ロスバルトは兵力不足を訴えている。
中央政府への報告には、現有兵力で対処可能。
ロスバルトは住民の避難が始まったと報告している。
そのこと自体が記載されていない。
要約の範囲ではない。
意味そのものが変わっている。
「なんだ、これは」
ジャンの背筋に冷たいものが走った。
物資が消えている。
ロスバルトは繰り返しカーライル騎士団の派遣を求めている。
司令部はそれを拒否している。
そして中央には、問題なしと報告している。
偶然なのか。
それとも――。
「ワイズマン君」
背後から声がした。
ジャンが振り返る。
文書係の上司だった。
「何をしている」
「過去の報告書を確認しています」
「なぜだ」
「内容に不一致があります」
上司の顔が強張った。
「原文と中央への報告が一致していません。これでは中央が正確な状況を把握できない」
「しまえ」
「ですが」
「しまえ」
声が低かった。
ジャンは上司を見る。
「……理由を教えてください」
「ワイズマン君」
「はい」
「世の中には、知らなくていいこともある」
「公文書ですよ」
ジャンは即答した。
「知らなくていい公文書とは何です?」
上司は何も答えなかった。
◇
翌朝。
ジャンは再び呼び出された。
今度はグリフィスの執務室だった。
「やあ、ワイズマン君」
グリフィスは以前と変わらない笑顔で迎えた。
「文書係の仕事はどうだね?」
「問題ありません」
「そうか。それはよかった」
「ただ、一つお聞きしたいことがあります」
「なんだね?」
「レンヌから中央への報告についてです」
グリフィスの指が止まった。
「ロスバルトからの報告と、中央へ提出している報告の内容が異なります」
「そうかね」
「はい」
「戦場から来る情報は錯綜している。特に傭兵団からの情報は眉唾物も多い。そんなものをすべて中央へ送れば、かえって混乱を招く」
「だから内容を整理する?」
「情報を分析・精査した結果の整理だ」
「敵軍の活動が活発化している可能性を、『大規模な活動なし』と書き換えることも整理ですか?」
沈黙。
グリフィスは笑っていた。
だが、目は笑っていなかった。
「ワイズマン君」
「はい」
「君は本当に優秀だな」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
初めてだった。
グリフィスの笑顔が完全に消えた。
「君にはもっと適した仕事があるようだ」
「適した仕事?」
「医療班だ」
ジャンは一瞬、意味が分からなかった。
「……医療班?」
「君は最初、医療物資の補給も担当していただろう」
「はい」
「最近、負傷者が増えている。人手が足りないらしい」
「私は医師として赴任したわけではありません」
「だが、医師免許は持っている。そうだったな」
「……はい」
「司令部としては、医療物資の管理、負傷者の記録、必要であれば治療の補助。君なら十分に役立てるだろう」
「それは――」
「命令だ」
グリフィスはジャンの言葉を遮った。
ジャンは黙った。
出納係。
文書係。
そして医療班。
なるほど。
ようやく理解した。
「……左遷ですか」
「人員配置の適正化だよ」
グリフィスは微笑んだ。
ジャンは、その顔をしばらく見つめた。
「分かりました」
それだけ言って一礼する。
扉へ向かう。
「ワイズマン君」
背後からグリフィスが呼び止めた。
「はい」
「若いうちは、賢すぎるのも考えものだ」
ジャンは振り返った。
「ご忠告、ありがとうございます」
「うむ」
「ですが司令官」
「なんだね?」
「数字が合わないものは、どう計算しても合いませんよ」
グリフィスの顔から笑みが消えた。
ジャンは一礼した。
「失礼します」
扉を閉める。
廊下へ出ると、ジャンは大きく息を吐いた。
「……くそ」
出世するためにレンヌへ来た。
無駄を削れば評価されると思った。
それがどうだ。
赴任して一月も経たないうちに二度も配置を変えられ、今度は医療班である。
中央へ戻った時、どう説明すればいい。
前線で負傷兵の記録をつけていました。
そんな経歴のどこを評価されるというのか。
「最悪だ」
ジャンは歩き出した。
その時の彼は、本気でそう思っていた。
医療班への転属など、自分の将来には何の役にも立たない。
ただの左遷。
ただの嫌がらせ。
それだけだと。




