第2話 ジャン=ワイズマン
「主席卒業おめでとう、ジャン!」
「法学だけでも大変なのに、医学まで修めるとはな。お前の頭はどうなっているんだ?」
「当たり前だ。出世に必要だからな」
ジャン=ワイズマンは、何でもないことのように答えた。
ニューアーク大学。都市同盟最高峰の学府であり、中央政府の高官や政治家を数多く輩出してきた名門である。
ジャンは十六歳で飛び級入学し、法学部を主席で卒業したうえに、医学まで修めてた。本人にとっては当然の結果だった。
「それで、卒業したら中央政府か?」
「ああ。軍総務局への採用が決まっている」
「さすがだな。将来は大臣にでもなるつもりか?」
「評議会議長だ」
「……本気か?」
「冗談で言う理由があるか?」
あまりにも平然とした答えに友人たちは笑ったが、誰もその可能性を否定しなかった。
ジャンの能力は、それほどまでに群を抜いていたのである。
「ジャン、そろそろ行きましょう」
そこへ恋人のエルザ=ジョシアが声をかけてきた。
由緒ある貴族の血筋を引く令嬢であり、ジャンにとっても申し分のない結婚相手だった。
もっとも、彼女を愛しているわけではない。容姿も家柄もよく、将来の政治家として必要な条件を満たしている。それで十分だと考えていた。
学歴は手に入れた。
友人たちとの人脈も築いた。
良血の恋人もいる。
評議会議長を目指すうえで、残るは実績だけだった。
◇
卒業から半年後。
中央政府の軍総務局に勤めていたジャンは、自ら希望してレンヌ要塞への赴任を決めた。
中央での仕事ぶりは申し分なかったが、新人官僚に任される仕事には限度がある。どれほど優秀でも、順番を待っているだけでは出世に時間がかかる。
ならば、前線で実績を作ればいい。
レンヌは都市同盟最大の軍事拠点であり、膨大な予算と物資を扱う重要な要塞だった。そこで成果を挙げれば、中央への栄転も早まるだろう。
危険はあるが、それ以上の利益が期待できる。
ジャンにとってレンヌは、出世のエスカレーターに乗るための場所にすぎなかった。
◇
レンヌ要塞は、ジャンの想像をはるかに超えていた。
二十メートルを超える巨大な城壁。幾重にも築かれた防壁。そして、西方から続く街道を完全に押さえるように建設された石造りの要塞。
建設から五十年、一度たりとも陥落したことのない都市同盟最大の軍事拠点である。
「これがレンヌか……」
ジャンは思わず城壁を見上げた。
ニューアークで資料を読んだときから、その規模については知っていた。しかし、紙の上に記された寸法と、実際に目の前にそびえ立つ巨大な石壁とでは、受ける印象がまるで違う。
「驚いただろう」
隣を歩いていたライアーが笑った。
中央から派遣されたジャンを案内するために、司令部から迎えに来た官僚だった。
「聞いたところじゃ、自分から志願してここへ来たんだって?」
「ええ。出世のチャンスでしょう?」
「……変わり者だな」
「よく言われます」
ジャンは涼しい顔で答えた。
ライアーは呆れたように笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
城門をくぐると、要塞の内側には思いのほか大きな町が広がっていた。
兵舎や倉庫が立ち並ぶ一方で、商店や住宅もあり、通りには兵士だけでなく商人や市民の姿も見られる。荷馬車には食糧や武器が積まれ、遠くでは整列した兵士たちが訓練を行っていた。
「思っていたより活気がありますね」
「ここには軍人だけじゃなく、市民も暮らしているからな。戦争中だからといって、商売まで止めるわけにはいかないさ」
「なるほど」
ジャンが周囲を眺めていると、広場の一角に同盟正規軍とは異なる装備を身につけた集団がいることに気づいた。
革鎧を着込んだ者もいれば、金属製の胸当てを身につけた者もいる。武器も剣や槍、弓など様々で、装備に統一性はない。
しかし、その動きには無駄がなかった。
「あれは?」
「ロスバルトだ。セイレンから来ている傭兵団でな。聞いたことくらいあるだろう?」
「ええ。傭兵の町セイレンですね。金で戦う連中でしょう?」
「まあ、間違っちゃいないが……」
ライアーは苦笑した。
「今じゃレンヌ防衛に欠かせない戦力さ。特に哨戒や小規模な戦闘じゃ、正規軍より頼りになることも多い」
「それほどですか」
「ああ。ここに長くいれば分かるよ」
ジャンはもう一度、傭兵たちへ視線を向けた。
◇
「あなたがジャン=ワイズマン?」
不意に後ろから声を掛けられた。
振り返ると、一人の若い女性が立っていた。
金色の髪を後ろで束ね、頬には一本の古い傷跡がある。整った顔立ちをしており、年齢は自分より少し上だろうか。
正規軍の将校とは違い、どこか気安い雰囲気をまとっていた。
「そうですが。あなたは?」
「ニューアーク大学の主席なんだって? 法学だけじゃなく、医学も修めているとか」
「ええ。よくご存じですね」
「中央から優秀な人材が来るって聞いてたからね」
女性はそう言うと、ジャンを頭から足先まで眺めた。
遠慮というものが、まるでない。
「頭は良さそう。顔も悪くないね」
「……それはどうも」
「でも、ちょっと頼りなさそうかな」
ジャンは眉を寄せた。
「初対面の人間に対して、随分な評価ですね」
「そう?」
「ええ。それで、あなたはどなたですか?」
「ああ、まだ名乗ってなかったね」
女性は軽く胸を叩いた。
「ユマ=リズナー。ロスバルト傭兵団を預かってる」
「……ロスバルト?」
ジャンは先ほど見かけた傭兵たちを思い出した。
「なるほど。あなたが団長でしたか」
「そういうこと」
「それで、その団長殿が私に何のご用でしょう?」
「品定め」
ユマはあっさり答えた。
「品定め?」
「うちはいつだって人手不足だからね。優秀な人材が来たって聞いたら、どんな人間か確かめたくなるでしょ?」
「なるほど。では、勧誘ですか?」
「まだ。まずはどんな人か見てから」
ジャンは思わず笑った。
「残念ですが、私は中央政府から派遣された官僚です。傭兵になるつもりはありませんよ」
「別に今すぐ傭兵になれとは言ってないよ。それより、官僚になって半年なんだって?」
「ええ」
「じゃあ、現場経験はほとんどないんだ」
「軍の実務については中央で学びましたし、必要な知識も身につけてきました」
「戦争は?」
「経験していませんね」
「そう」
ユマは少し考え込んだ。
「じゃあ、怪我人を診たことは?」
「大学で医学も修めています。基本的な診察や治療については理解していますよ」
「実際に?」
「実習も受けていますが」
「ふうん……」
ユマは腕を組み、もう一度ジャンを眺めた。
何かを測るような視線だった。
ジャンは次第に不愉快になってきた。
ニューアーク大学を主席で卒業した自分が、初対面の傭兵から値踏みされている。しかも、相手は自分の学歴にも官僚という肩書にも、それほど興味がないようだった。
「何か問題でも?」
「いや、別に」
ユマは首を振った。
「ただ、今まで見てきた官僚とあんまり変わらないのかなって」
「……それはどういう意味でしょう?」
「そのうち分かるよ」
ユマはそう言うと、くるりと踵を返した。
「じゃあね、主席さん」
片手をひらひらと振りながら、ユマは傭兵たちのいる方へ歩いていった。
ジャンはその後ろ姿を呆然と見送った。
「……何なんだ、あの女は」
能力を評価するなら、まず実績を見るべきだろう。相手についてろくに調べもせず、数分話しただけで勝手に評価を下すなど、あまりにもいい加減ではないか。
もっとも、傭兵の評価など気にする必要もない。
自分は中央政府から派遣された官僚であり、ここへ来た目的は実績を積んで出世することなのだから。
ジャンはそう結論づけると、ライアーに案内されて司令部へ向かった。
◇
その日の午後。
ジャンは司令部で必要な手続きを済ませ、ライアーとともに補給倉庫の確認へ向かっていた。
正式な職務の説明は夕刻に司令官から受ける予定だったが、それまでに施設を一通り見ておくよう勧められたのである。
補給倉庫の前まで来たところで、激しい口論が聞こえてきた。
「だから、医療物資が足りないと言っているでしょう!」
「送っていると言っているだろう! 帳簿にも記載されている!」
「だったら、どうして現場にはないのよ!」
見れば、倉庫を管理する役人と、ロスバルトの兵士たちが言い争っていた。
その中心にいるのは、先ほど出会ったばかりのユマである。
「また、あの人ですか……」
ジャンが呟くと、ライアーは困ったように頭を掻いた。
「最近は医療物資が不足していてな。補給部とロスバルトの間で揉めることが多いんだ」
「不足しているなら、補給を増やせばいいでしょう」
「それが簡単にできれば苦労しないさ」
二人に気づいた役人が、こちらへ駆け寄ってきた。
「ああ、ライアーさん! ちょうどいいところへ!」
「どうした?」
「またロスバルトの連中が、物資が足りないと騒いでいるんです。こちらは規定どおり支給しているというのに、何度説明しても納得してくれなくて!」
役人はジャンの姿を見ると、少し驚いたような顔をした。
「そちらの方は?」
「今日着任したジャン=ワイズマン君だ。中央から派遣されてきた」
「おお、それなら話が早い!」
役人は助かったとばかりに声を上げた。
「中央の方なら、帳簿に記載されている以上、こちらに問題がないことも理解していただけるでしょう!」
「帳簿を見せていただけますか?」
ジャンが尋ねると、役人はすぐに一冊の帳簿を持ってきた。
記載されている品目と数量、支給日、受領先を確認する。
確かに、医療用の包帯や薬品について、規定された数量が支給されたことになっていた。
「記録上は問題ありませんね」
「でしょう!」
「ただし、支給したという記録があることと、実際に受領したことは別です。受領記録も確認する必要があります」
役人の表情がわずかに曇った。
「それは……もちろんありますが」
「では、それも確認させてください。物資が足りないというのであれば、どこで不足が生じているのか調べる必要があります」
「……へえ」
横から声がした。
ユマだった。
「主席さん、意外とまともなこと言うじゃない」
「意外とは余計です」
「そう? でも、帳簿ばっかり見てても分からないことがあるよ」
「それは承知しています。ですから、実際の受領記録を確認すると――」
「だったら、ちょうどいい」
ユマはジャンの腕を掴んだ。
「ちょっと来て」
「……何ですか?」
「見てもらいたいものがあるの」
「今、仕事の話をしているのですが」
「だから、その仕事の話だよ」
そう言ってユマは、ジャンを半ば強引に引っ張っていった。
◇
連れて行かれたのは、城壁の内側に設けられた医療幕舎だった。
入り口には負傷した兵士たちが座り込み、包帯を巻いた腕を押さえている者や、片足を引きずりながら歩く者の姿もあった。
「ここは?」
「ロスバルトの医療班が使ってる幕舎。少し前に小競り合いがあってね、怪我人がまだ大勢いるの」
ユマは幕舎の前で足を止めた。
「医学も勉強したんでしょう?」
「ええ」
「だったら、中を見て」
そう言って幕を開いた。
中へ足を踏み入れた瞬間、ジャンは思わず顔をしかめた。
血と膿、それに汗や排泄物が混じった、何とも言えない臭気が鼻を突いたのである。
薄暗い幕舎の中にはいくつもの寝台が並び、その上では負傷兵たちが苦しそうに呻いていた。身体に巻かれた包帯は血で汚れ、何日も交換されていないと思われるものさえある。
奥では医療兵が負傷者の傷口を洗っていたが、患者が身をよじるたびに悲鳴が上がり、その声がほかの負傷兵たちの呻き声と重なっていた。
ジャンは足を止めた。
医学を学んでいた以上、傷の処置も感染症の恐ろしさも知識としては理解している。
解剖の実習も受けてきたし、血を見たことがないわけでもなかった。
しかし、大学の講義室で学ぶ医学と、目の前で生きた人間が苦しんでいる光景とは、まるで違っていた。
教科書に載っている患者は悲鳴を上げない。
解剖台の上の死体は、痛みを訴えながら腕を掴んでくることもない。
「……先生」
すぐ近くの寝台から、か細い声が聞こえた。
「水を……」
若い兵士だった。
まだ少年と呼んでもおかしくない顔立ちをしており、腹部には厚く包帯が巻かれている。その包帯は赤黒く変色し、額には大粒の汗が浮かんでいた。
医療兵が慌てて駆け寄り、兵士の身体を支える。
「もう少し待ってくれ。今、水を持ってくるから」
「痛い……」
兵士は苦しそうに顔を歪めた。
ジャンは何も言えなかった。
そのとき、奥の寝台で処置を受けていた兵士が、突然大きな悲鳴を上げた。
医療兵の手元には、感染した傷口から取り除かれた汚物が載っている。そこには、白い小さな蛆がいくつも蠢いていた。
ジャンの胃が大きく収縮した。
「……っ!」
慌てて口元を押さえたものの、込み上げてくる吐き気を抑えることができず、幕舎を飛び出した。
外へ出るなり地面に膝をつき、その場で激しく吐いた。
呼吸が乱れ、何度もえずく。
しばらくして、背中に手が触れた。
「……ごめん」
ユマだった。
「ちょっと刺激が強すぎたね」
ジャンは肩で息をしながら、何とか顔を上げた。
「……あんな状態で、放置しているんですか」
「放置してるわけじゃないよ。うちの医療班だって、できることは全部やってる」
ユマは幕舎へ視線を向けた。
「でも、包帯も薬も足りない。傷口を洗うための道具だって十分じゃないし、交換用の布も限られている。だから、使えるものは何度も洗って使うしかないんだ」
「……」
「少し前の小競り合いで、あれだけの負傷者が出たの。もっと大きな戦闘になったら、どうなると思う?」
ジャンはすぐには答えられなかった。
知識としては理解できる。
医療物資が不足すれば、治療の質が低下する。傷口から感染症が広がる危険も増し、本来なら助かるはずの患者まで命を落とすことになる。
だが、先ほど目にした兵士たちの顔を思い出すと、単なる数字として整理することが難しかった。
「……補給部の帳簿では、物資は支給されたことになっていました」
「そうだね」
「なら、現物と記録が一致していないことになります」
「だから困ってるんだよ」
ユマは肩をすくめた。
「こっちは何度も足りないって言ってるのに、向こうは帳簿に書いてあるから渡したはずだって、そればっかり」
「受領記録は?」
「あるものもあるよ。でも、書いてある数と実際に届いた数が合わないこともある」
「それはおかしいですね」
ジャンは眉を寄せた。
支給記録と受領記録が一致しないのであれば、どこかに問題がある。ただし、輸送途中で損失が生じた可能性もあれば、記録自体が間違っている可能性もある。現時点で不正があったと決めつけるのは早計だった。
「関係する帳簿を調べてみます」
「……調べてくれるの?」
「もちろんです。記録と現物が一致しないのであれば、原因を明らかにする必要がありますから」
ジャンは当然のように答えた。
ユマは少し意外そうな顔をしたが、すぐに口元を緩めた。
「そう。じゃあ、お願いしようかな」
「ただし、すぐに改善できるとは限りませんよ。記録上の誤りなら訂正できますが、物資そのものが不足しているのであれば、追加の補給が必要になります」
「分かってるよ」
ユマは頷いた。
「でも、調べてくれるだけでも助かる」
ジャンは立ち上がり、服についた土を払った。先ほどの吐き気はまだ完全には収まっていなかったが、いつまでも地面に座り込んでいるわけにもいかない。
「それでは、私はこれで」
「あ、ちょっと」
「まだ何か?」
「さっきは悪かったね。無理やり連れてきちゃって」
「本当にそう思っているなら、次からは事前に説明してください」
「はいはい」
ユマは軽く手を振った。
「じゃあ、またね。主席さん」
「……できれば、その呼び方はやめていただきたいのですが」
「考えとくよ」
まるで考える気のない返事だった。
ジャンは小さくため息をつき、司令部へ向かった。
◇
夕刻。
ジャンはレンヌ要塞司令官の執務室へ案内された。
分厚い扉を開くと、そこには前線要塞とは思えないほど豪奢な部屋が広がっていた。
床には高価そうな絨毯が敷かれ、磨き上げられた大きな机の向こうには、立派な椅子が置かれている。壁には絵画が飾られ、棚には年代物と思われる酒瓶が並んでいた。
ジャンは思わず室内を見回した。
前線の司令官ともなれば、ある程度の格式は必要なのだろう。しかし、ここまで豪華にする必要があるのかどうかは疑問だった。
「おお、来たか!」
奥から大きな声が響いた。
椅子に深く腰掛けていた男が、満足そうに笑みを浮かべている。
レンヌ要塞司令官、グリフィス三世。
五十を過ぎた恰幅の良い男であり、豊かな腹を立派な軍服で包み、胸元にはいくつもの勲章を飾っていた。
「君がジャン=ワイズマン君だな?」
「はい。本日付でレンヌ要塞司令部勤務を拝命いたしました、ジャン=ワイズマンです」
ジャンは一礼した。
「うむ、うむ。ニューアーク大学の主席だそうだな。法学だけでなく医学まで修めたと聞いておるぞ」
「ありがとうございます」
「中央もなかなか気前がいい。これほど優秀な人材を送ってくれるとは、実にありがたい話だ!」
グリフィスは大きな声で笑った。
ジャンは表情を変えなかったが、内心ではその声量に少し閉口していた。
「中央での勤務は半年だったそうだな?」
「はい」
「若いのに随分と評価が高いらしいではないか。君のような人材には、ぜひとも頑張ってもらいたいものだ」
「ご期待に沿えるよう努力いたします」
「うむ。それで、君には司令部付きの出納係と医療物資補給係を兼任してもらうことにした」
グリフィスは机の上の書類を手に取った。
「まずは帳簿から覚えたまえ。各部隊の支出を確認し、予算を適切に管理する。それに医療物資の補給も担当してもらう。中央で軍総務局にいた君なら、難しい仕事ではなかろう」
「承知しました」
ジャンは即答した。
出納係といえば、地味な仕事である。
しかし、組織全体の金の流れを把握できるという点では、決して悪い役職ではなかった。どの部署がどれほどの予算を使い、何を必要としているのか。それを把握すれば、組織の実態も自然と見えてくる。
まずはそこから始めるのも悪くないだろう。
「よろしい!」
グリフィスは満足そうに頷いた。
「戦場というものは、剣だけで動くわけではない。兵士を動かすにも、武器を揃えるにも、すべて金が必要になる」
「仰るとおりです」
「だからこそ、予算の管理は重要なのだ。無駄な支出は抑え、必要なものに金を回さねばならん」
ジャンは室内をもう一度見回した。
高価そうな絨毯。
壁に飾られた絵画。
棚に並んだ酒瓶。
どれも前線防衛に必要なものとは思えなかったが、今ここで指摘するほどの材料はない。
まずは帳簿を確認してから判断すべきだろう。
「何か質問はあるかね?」
グリフィスが尋ねた。
「一つ、よろしいでしょうか」
「うむ。何でも聞きたまえ」
「医療物資についてですが、現場では不足しているという話を聞きました」
グリフィスの眉が、わずかに動いた。
「ほう?」
「補給部の帳簿では支給済みとなっていましたが、実際に医療幕舎を確認したところ、十分な物資が届いていないようでした。受領記録との照合が必要かと思います」
「ああ、その話か」
グリフィスはすぐに笑顔へ戻った。
「心配はいらん。物資は予定どおり送られておる」
「ですが、現場では不足しているとのことで――」
「前線の連中というものは、いつも不足していると言うものだ。食糧が足りん、武器が足りん、薬が足りんとな。すべての要求を聞いていたら、いくら予算があっても足りんよ」
「それは理解できます。ただ、帳簿と現物が一致していないのであれば、確認する必要はあると思いますが」
「ならば、君が調べればよい」
グリフィスは鷹揚に頷いた。
「そのために中央から来てもらったのだからな。数字に問題があるなら訂正し、必要な報告を上げればよい。そういう仕事は君の得意分野だろう?」
「ええ」
「結構。君は数字を見て、しっかり仕事をしてくれたまえ。現場の苦情にいちいち付き合っていては、仕事が進まんからな」
「承知しました」
ジャンは一礼した。
少なくとも、帳簿を調べること自体を止められたわけではない。それならば、まず実際に調べてみればいいだけの話だった。
「ところで、ワイズマン君」
「はい」
「君の家は商家だったそうだな?」
「父が商売をしております」
「ほう、なるほど。それなら金の扱いには慣れておるだろう。実に結構なことだ」
グリフィスは満足そうに笑った。
「このレンヌで実績を積めば、君の将来にも大いに役立つだろう。私も中央には多少の顔が利くのでな。優秀な若者には、できるだけ機会を与えてやりたいと思っておる」
「ありがとうございます」
ジャンは丁寧に頭を下げた。
願ってもない話だった。
中央で何年も昇進を待つより、こうした有力者の下で実績を積んだ方が、出世は早まるかもしれない。
しかも、グリフィスは自分の能力を高く評価しているようだった。
少なくとも、最初の印象は悪くない。
「では、明日からよろしく頼むぞ」
「はい。精一杯務めさせていただきます」
ジャンは再び一礼すると、執務室を後にした。
◇
その夜。
ロスバルトの宿舎では、ユマと副長のトウヤが焚き火を囲んでいた。
日が沈むとレンヌの空気は冷え込み、城壁の向こうから吹き込む風が、時折焚き火の炎を揺らしていた。
「そういえば、ユマ」
トウヤが薪を一本くべながら口を開いた。
「今日、中央から来たっていう官僚を見に行ったんだろ?」
「ああ、あの主席さんね」
「どうだった?」
ユマは少し考えた。
「頭は良さそうだったよ。顔も悪くないし」
「ほう」
トウヤが面白そうに笑った。
「ずいぶん評価が高いじゃねえか」
「素材だけならね」
「何だよ、それ」
ユマは肩をすくめた。
「ニューアーク大学の主席で、法学も医学も修めている。しかも官僚としての仕事ぶりも相当優秀らしいよ。話してみても頭の回転は速そうだったし、少なくとも馬鹿ではないと思う」
「じゃあ、何が不満なんだ?」
「うーん……」
ユマは焚き火を眺めた。
「自分のことばっかり考えてる感じかな」
「そうなのか?」
「まだよく分からないけどね。話していても、相手が何を考えてるかより、自分の言っていることが正しいかどうかを気にしてるみたいだった」
トウヤは苦笑した。
「いかにも中央の官僚って感じだな」
「でしょう?」
「それで、ロスバルトには向かなそうか?」
「今のままじゃね。現場も知らないし、人も知らない。頭が良くても、それだけじゃ役に立たないこともあるから」
ユマはそこで言葉を切った。
「でもさ」
「何だ?」
「今日、医療幕舎に連れていったんだよ」
「ああ、例の物資の件か」
「うん。最初は帳簿だの受領記録だの言ってたから、実際に見せてやろうと思って」
「それで?」
「吐いてた」
トウヤは思わず吹き出した。
「おいおい、大丈夫だったのか?」
「大丈夫だったさ。でも、落ち着いたら物資の記録を調べるって言ってた」
「へえ」
「少なくとも、見なかったことにするつもりはないみたい」
ユマは薪を火の中へ押し込んだ。
「だから、まだ何とも言えないね」
「何だ。品定めは失敗か?」
「一日会っただけで、全部分かるわけないじゃない」
「そりゃそうだ」
トウヤは笑った。
「じゃあ、しばらく様子を見るか」
「そうだね」
ユマは頷いた。
「明日から何をするか、見てみようかな」
焚き火の中で薪が小さく弾けた。




