第1話② ジャン
レンヌ要塞は、ジャンの想像をはるかに超えていた。
二十メートルを超える城壁。
幾重にも築かれた防壁。
中央街道を完全に押さえる巨大な石造要塞。
建設から五十年、一度たりとも陥落したことのない都市同盟最大の軍事拠点である。
「これがレンヌか……。」
思わず漏らした言葉に、隣を歩くライヤーが笑った。
「驚いただろ。」
「ここは前線であり、官僚にとっては登竜門でもある。」
「ここで成果を出せば中央へ戻った時の評価は段違いだ。」
ジャンは小さく頷く。
危険な任地。しかし、それ以上に出世への近道。
そんな認識だった。
城門をくぐると、多くの兵士たちが慌ただしく行き交っている。
その中に、同盟正規軍とは違う格好をした集団が目に入った。
革鎧に大小様々な武器。
規律は保たれているが、どこか軍とは違う空気をまとっている。
「あれは?」
「ロスバルト。」
ライヤーが短く答えた。
「セイレンの傭兵部隊だ。聞いたことくらいあるだろ。」
「今じゃレンヌ防衛に欠かせない戦力さ。」
「セイレン……。」
ジャンは少し考える。
「ああ、傭兵の町セイレンの連中ですか。金で戦う。」
ライヤーは苦笑した。
「そう言うな。あいつらは都市同盟の大事な戦力だ。好き好んでこんな僻地にきてくれる。」
ジャンは返事をしなかった。
傭兵。
金で雇われた兵士。
その程度の認識しか持っていなかった。
◇
「あなたがジャン=ワイズマン?」
不意に後ろから声を掛けられる。
振り返ると、一人の若い女性が立っていた。
金色の髪を後ろで束ね、頬には一本の古い傷跡。
綺麗な顔立ち、年齢は自分より少し上だろうか。
しかし、その瞳だけは不思議なほど人を見透かしていた。
「そうですが。」
「ニューアーク大学主席って聞いてる。」
ジャンは首をかしげる。
「私をご存じで?」
「ロスバルトはいつだって人手不足。優秀な人材は放っておけない。」
ジャンは少し笑う。
「なるほど。では、勧誘ですか。」
「まだ。」
女性は即答した。
「まずは見極め。」
そして軽く胸を叩く。
「私は、ユマ=リズナー。」
「ロスバルトを預かってる。」
ジャンは会釈した。
「へえ、それはどうも。よろしくお願いします。」
ユマは返事をせず、ジャンを頭から足先まで眺める。
「官僚半年。現場経験なし。」
「戦争も知らない。」
ジャンは怪訝そうに答える。
「ええ。ですが勉強はしてきました。」
その一言を聞いたユマは、小さく息を吐く。
「……期待外れ。」
「頭は良さそう。」
「姿形も悪くない。」
「でも。今まで見てきた官僚と同じく、大したことはなさそう。」
そう言い残し、ユマは踵を返した。
ジャンは呆気に取られる。
「何なんだ……。」
出会って五分。
彼は人生で初めて、学歴にも肩書にも興味を示さない人間と出会った。
◇
その日の午後。
補給倉庫前では役人とロスバルトの兵士が激しく口論していた。
「だから医療物資が足りないと言ってるでしょう!」
「送っている!」
「帳簿にも記載されている!」
「それ以上どうしろと言うんだ!」
役人はジャンの姿を見つけるなり叫んだ。
「ああ、ちょうどいい!」
「今日着任した司令官付きの官僚様だ!」
「文句ならこの方に言ってくれ!」
兵士たちの視線が一斉に集まる。
その中にはユマもいた。
「ちょうどいい。」
「現実を見てもらいましょう。」
そう言うとユマはジャンの腕を掴み、医療幕舎へ連れて行く。
「中を見て。」
「それだけ。」
幕を開いた瞬間。
血の臭い。
膿の臭い。
腐敗臭。
傷口に湧く蛆。
苦しみに呻く兵士たち。
ジャンが大学で学んできた医学とは、まるで違う世界だった。
「うっ……!」
彼は幕舎を飛び出し、その場で激しく吐いた。
息が整わない。吐き気が止まらない。
そんなジャンの背中を、ユマは黙ってさする。
「ごめん。」
「刺激が強すぎたね。」
ジャンは肩で息をしながら言った。
「……こんなの、聞いてない。」
「そう。あなたは聞いてない。」
「でも、この人たちは毎日ここにいる。」
「少し前に小競り合いがあっただけで、この有様。」
ジャンは言葉を失った。
「物資は……。届いてるはずじゃ。」
ユマは静かに答える。
「帳簿の上ではね。でも現実には届いてない。」
「誰かが途中で消してる。」
ジャンは顔を上げる。
官僚である彼には、その意味がすぐに理解できた。
汚職。
しかも前線の補給で。
「そんな馬鹿な……。」
「馬鹿な話だけど。これがレンヌ。」
ユマはそう言い残し、再び幕舎の中へ戻っていった。
ジャンは立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
◇
夕刻。
ジャンは司令官執務室へ案内された。
分厚い扉を開くと、そこには戦場とは思えないほど豪奢な部屋が広がっていた。
高価そうな絨毯。磨き上げられた机。壁には名画が飾られ、棚には年代物の酒が並ぶ。
外では負傷兵が苦しみ、医療物資が不足しているとは思えない空間だった。
「失礼します。」
「おお、来たか。」
椅子に深く腰掛けた男が、笑みを浮かべる。
レンヌ要塞司令官グリフィス三世。
五十を過ぎた恰幅の良い男である。
「君がジャン=ワイズマン君だな。」
「ニューアーク大学主席。」
「中央もなかなか気前がいい。」
無駄にデカい声だという思いながらジャンは敬礼する。
「本日付で司令官付き官僚を拝命いたしました。」
「精一杯務めさせていただきます。」
「うむ。」
グリフィスは満足そうに頷く。
「若い者は元気があってよろしい。」
「君は司令部付き出納係兼医療物資補給係に配属する。帳簿から覚えたまえ。」
「戦場というものは剣ではなく、数字で動く。」
「兵士は毎日減るが、予算は減らしてはならん。」
ジャンは一瞬だけ違和感を覚えた。
医療幕舎。
あの負傷兵たち。
そして、この部屋。
あまりにも対照的だった。
「何か質問は?」
ジャンは少し迷う。
だが結局、口を開いた。
「医療物資についてですが……。」
「現場では不足しているとの話を聞きましたが。」
グリフィスは一瞬だけ眉を動かした。
しかし、すぐ笑顔に戻る。
「ああ、その話か。心配はいらん。」
「物資は予定どおり送られている。」
「前線の連中というのは、いつも不足していると言うものだ。」
「君は数字だけ見ていればいい。」
数字だけ見ていればいい。
その言葉が妙に耳に残った。
帳簿には届いている。
しかし現場には届いていない。
どちらが正しいのか。
ジャンにはまだ分からなかった。
◇
その夜。
ロスバルトの宿舎。
焚き火を囲みながら、副長のトウヤが口を開いた。
「ユマ。今回来たってやつらはどうだった?」
ユマは薪を火へくべながら、少し考える。
「そうね。」
「あの主席さん、頭は良さそう。」
「姿形も悪くない。」
トウヤは思わず笑った。
「意外と評価が高いじゃねぇか。」
「素材だけならね。」
ユマは静かに首を振る。
「でも、中身はまだ分からない。」
「……ただ。」
「目はあんまり綺麗じゃなかった。」
「むしろ汚いくらい。」
「今まで見てきた官僚と、あんまり変わんない。」
炎が薪を弾けさせる。
「ロスバルトには向かないか?」
「ええ。」
「現場も知らない。」
「人も知らない。」
「今のままじゃ、同盟の小役人にしかなれない感じ、役に立たない人。」
「だから期待はしない。」
「どうせ、すぐ中央へ帰る人だから。」
トウヤは肩をすくめた。
「じゃあ放っておくか。」
「そうね。あと……他の連中は、もっと酷かった。」
ユマは揺れる炎を見つめ、小さく頷く。
「もし私の思い違いなら、その時は考え直せばいい。」




