第10話 逃亡
◇
レンヌ要塞、南門。
「おい、聞いたか? 東門の方がすごいことになってるらしいぞ」
城門を包囲していたレミーラ兵の一人が、隣の兵士に声をかけた。
「何がだ?」
「戦利品だよ。逃げ出したグリフィスとかいう司令官が、金銀財宝を山ほど積んでたらしい。追撃した連中は大儲けだって話だ」
「本当か?」
「ああ。南の連中も何隊か向かったぞ。俺たちも行こうぜ」
兵士は東の方角を指差した。
すでに南門を囲んでいた部隊の一部が持ち場を離れ、東へ向かっていた。逃げる正規兵を追撃するためという名目だったが、本当の目当てが戦利品であることは誰の目にも明らかだった。
「おい! 何をしている!」
部隊長が怒鳴った。
「勝手に持ち場を離れるな! 戦列に戻れ!」
しかし、兵士たちは聞く耳を持たなかった。東では莫大な財宝が手に入るという噂が広まり、すでに戦列は乱れ始めている。
部隊長が再び怒鳴ろうとした、そのときだった。
背後で、重い音が響いた。
「……何だ?」
振り返った部隊長の目に、ゆっくりと開いていくレンヌの南門が映った。
「なっ……!」
次の瞬間、城門から武装した兵士たちが一斉に飛び出してきた。
「ロスバルト! 突っ込むよ!」
先頭に立つユマ=リズナーが剣を掲げる。
「おおおおっ!!」
鬨の声とともにロスバルト傭兵団が突撃し、手薄になっていたレミーラ軍の包囲陣へ襲いかかった。
「敵襲! 南門から敵が出てきたぞ!」
「迎え撃て! 隊列を組め!」
部隊長が必死に命じるものの、すでに遅かった。
戦利品を求めて兵が離脱し、各隊の間隔が広がっていたところへ、ロスバルトの精鋭がまとまって突撃してきたのである。
正面の兵士たちはたちまち押し崩され、側面から立て直そうとした部隊も、トウヤ率いる兵に撃退された。
「駄目だ! 支えきれん!」
「逃げろ!」
ついに南門を囲んでいたレミーラ兵たちが背を向け、次々と逃げ始めた。
ユマはその様子を確認すると、傍らの伝令へ命じた。
「南門へ伝えろ! 道は開いた、すぐに逃げろと!」
「はっ!」
伝令が馬を返し、城内へ駆け戻っていく。
ほどなくして、南門から避難民たちが姿を現した。
子供の手を引く母親、負傷兵を支える仲間、老人を背負った若者。数週間の籠城で衰弱した人々が、ロスバルトの兵士たちに誘導されながら、次々と南へ進んでいく。
目指すのは南方の山岳地帯だった。
ユマはその長い人の列を一度だけ振り返ると、再び剣を構えた。
「ここからが本番だね」
当然、レミーラ軍も黙って見送ってはくれなかった。
南側の包囲を破られたと知った帝国軍は、周辺に残っていた兵力を集め、反撃を開始したのである。
「敵、接近!」
「分かってるよ! 避難民には近づけるんじゃない!」
ユマたちは南の山地へ向かって伸びていく人々の列を背に、追いすがる帝国軍を迎え撃った。
槍を構えた敵兵が押し寄せ、矢が飛び交う。ロスバルトの兵士たちは隊列を維持しながら攻撃を受け止め、敵が退けば少しずつ後退する。
その戦闘がしばらく続いた頃、トウヤがユマのもとへ駆け寄ってきた。
「ユマ! 避難民の先頭は山道へ入った。ここで一度下がるぞ!」
「分かった!」
ユマは即座に頷いた。
「第一隊から順に後退! 後ろの部隊は援護しておくれ!」
号令を受けた兵士たちが、互いを援護しながら後退を始める。
ユマも剣を振るい、迫ってきた帝国兵を退けると、避難民の列が消えていった南の山々へ目を向けた。
あの中には、ユナとリックがいる。
そして、二人を託したジャンも。
自分が追いつくまで、どうか無事でいてほしい。
「……三人とも、無事におくれよ」
誰に聞かせるでもなく呟くと、ユマは再び剣を構えた。
まだ、殿の仕事は終わっていなかった。
◇
レンヌを脱出してから二日後。
「……待て」
山道の途中で、ジャン=ワイズマンの足が止まった。
「どうしたの?」
先を歩いていたユナが振り返る。
「少し……待ってくれ……」
ジャンは膝に両手をつき、肩を大きく上下させながら荒い呼吸を繰り返した。額から流れ落ちた汗が頬を伝い、顎の先からぽたぽたと地面へ落ちていく。
「ジャン?」
リックも足を止め、心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫……だ」
どうにか息を整えたジャンは、再び歩き始めた。しかし、わずか二歩進んだところで足が止まり、再び膝に手をついてしまう。
「全然、大丈夫じゃないじゃん」
「うるさい……」
「顔、真っ青だよ」
「俺は……ニューアーク大学主席だぞ……」
ユナが首を傾げた。
「それ、今関係ある?」
「主席の俺でも……体育だけは苦手だったんだ……」
「やっぱり関係ないよ」
リックが真顔で答えると、ジャンはぜいぜいと息を切らしながら、それでも妙な意地だけは捨てずに言い返した。
「人間に必要なのは……体力じゃない……」
「じゃあ、何?」
「知性だ……」
ユナは周囲に連なる山々を見渡し、それからジャンへ視線を戻した。
「今、一番必要なのは、この山を越える体力だと思う」
「…………」
反論できなかった。
レンヌを脱出してから、すでに二日が経過していた。
三人は南の山地へ入り、山道を登っては下り、下ってはまた登るという行程を繰り返している。東街道を使えたなら、ここまで苦労することはなかっただろう。しかし、街道にはレミーラ軍が展開している以上、険しい山中を迂回してウィンザーを目指すしかなかった。
しかも、食糧不足が続いていたレンヌからの脱出である。
もともと十分な体力を持っていなかったジャンにとって、ろくな休息も取れない山越えは、もはや苦行と呼ぶほかなかった。
「お前たち……どうしてそんなに元気なんだ……?」
「これくらいなら、まだ大丈夫だよ」
ユナが当然のように答えた。
「普通だよね?」
「うん。まだ歩けるよ」
リックまで頷いた。
「普通なものか……」
ジャンは恨めしそうに二人を見た。
二人とも、まだ十二歳である。それなのに、二十二歳の自分よりも明らかに元気だった。
「ロスバルトでは……こんなことまで訓練するのか……?」
「走ったり、山道を歩いたりするのは普通だよ。大事な訓練だからね」
「ロスバルトは山岳戦も多いし」
そもそも、二人の故郷であるセイレン自体が山岳地帯にある。幼い頃から山道を歩くことに慣れているのだろう。
一方のジャンは、ニューアーク大学では勉学に打ち込み、卒業後も官僚として机に向かう生活を送ってきた。
頭を使うことなら誰にも負けないという自負はある。
だが、そんな自負が山道で役に立つはずもなかった。
「俺は……官僚だ……」
「知ってるよ」
ユナにあっさり返され、ジャンはそれ以上言い返す気力も失った。
そして、ついに限界が訪れた。
「あ……」
突然、膝から力が抜けた。
慌てて両手を地面についたものの、身体を支えきれず、そのまま山道へ倒れ込んでしまう。
「ジャン!?」
「死んだ?」
「勝手に……殺すな……」
どうにか顔だけを横へ向けたが、もはや息をするだけで精いっぱいだった。本人も気づかないうちに、口元からは涎まで垂れている。
それを見たユナが目を丸くした。
「……涎出てる」
「見るな……」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫に……見えるか……?」
「見えない」
「なら聞くな……」
ユナとリックは顔を見合わせた。
「立てる?」
「無理だ……」
「でも、行かないと」
「分かってる……」
二人はジャンの左右へ回り込み、それぞれ腕を取った。
「ほら、立って」
「せーの!」
「おい……ちょっと待て……」
十二歳の二人に両側から引っ張られ、ジャンはどうにか上体を起こされた。足元がおぼつかないため、二人が支えていなければ、そのまま再び倒れていただろう。
「子供二人に引きずられるほど……落ちぶれた覚えは……」
「道に倒れて涎垂らしてた人が言わないで」
「ぐっ……」
「ほら、歩くよ!」
「……その話は忘れろ」
どうにか歩き始めたものの、ジャンの足はすでに限界を迎えていた。足を持ち上げるだけでも苦しく、二人に支えられなければ、数歩進むことさえ難しい。
そんな状態でしばらく進んだところで、ジャンは足を止めた。
「……もういい」
「何が?」
「お前たちだけで行け」
その言葉に、ユナの表情が変わった。
「このままじゃ、三人とも遅れる」
ジャンは肩で息をしながら、それでもできるだけ冷静な声を作った。
「予定では、あと二日ほどでウィンザーだ。この道を進めば、そのうち味方の哨戒部隊にも出会えるだろう。俺に付き合って歩くより、その方がずっと安全だ」
「でも……」
「俺を置いていけ」
「駄目」
ユナの返事は即答だった。
「ユナ」
「駄目だよ」
ユナはジャンの腕を自分の肩へ回し、もう一度身体を支え直した。
「ロスバルトは仲間を見捨てないんだから」
「……俺はロスバルトじゃないぞ」
「でも、仲間でしょ?」
「…………」
ジャンは言葉に詰まった。
今度はリックが反対側から身体を支えた。
「それに姉さまから、ユナと僕とジャンの三人でウィンザーへ行けって言われてるんだよ」
「……」
「ジャンだけ置いていったら、姉さまとの約束を破ることになる」
リックも譲るつもりはないらしい。
ジャンは二人を見た。
十二歳の子供たちである。
本来なら、自分が守り、無事にウィンザーまで連れていくはずだった。
ところが、実際にはその二人に支えられ、歩くことさえ満足にできなくなっている。
情けないことこの上なかった。
「リック、そっち持って」
「うん」
「おい……」
「ほら、歩く!」
「横暴だぞ……」
「喋れるなら歩いてよ!」
「どういう理屈だ……」
そこでユナが真顔になった。
「ジャンがいつも言ってるじゃん。合理的に考えれば、これだけ喋れるなら、まだ歩けるはずだよ」
「…………」
十二歳の少女に、自分が普段使っている言葉で言い返された。
しかも、反論するだけの体力すら残っていない。
「ほら、行くよ!」
「もう少しだからね」
「……覚えてろよ」
「元気あるじゃん!」
「ない……」
二人に両側から支えられながら、ジャンは再び山道を歩き始めた。
◇
一方、レンヌ要塞では、レミーラ帝国軍による接収作業が進められていた。
「南門から、敵の残存部隊が脱出しておりました」
入城したルートビッヒ=シュナイダーは、城内を見渡しながら将校の報告を聞いていた。
五十年間、一度も陥落したことのない巨大要塞。
その城壁には今、レミーラ帝国の金獅子の旗が掲げられ、帝国兵たちが各施設を次々と接収している。
「数は?」
「およそ三千。残存守備兵のほか、民間人も多数含まれているものと思われます」
「方角は?」
「南です。そのまま山地へ入ったとの報告がございます」
ルートビッヒがわずかに眉を上げた。
「東ではなく、南か」
「はい」
「……賢明だな」
東街道は帝国軍が厳重に警戒している。そこを避けて南の山地へ逃げたのであれば、少なくとも正面から追撃部隊と衝突する危険は減らせるだろう。
「追撃しますか?」
「出せ。ただし、多くはいらん」
「よろしいので?」
「城の接収が先だ」
レンヌの主だった抵抗は終わっていたが、それですべてが片づいたわけではない。城壁や武器庫、貯蔵施設をはじめ、各門や城内区画のすべてが完全に帝国軍の管理下へ入ったわけではなく、場所によっては残兵の抵抗も続いていた。
ここで兵力を分散させ、せっかく手に入れた要塞の接収に支障をきたすのは避けたかった。
「それで、グリフィスは?」
「それが……」
報告に来た将校が言い淀んだ。
ルートビッヒの眉が動く。
「逃がしたのか?」
「……申し訳ありません」
「理由は?」
「敵が、大量の荷車を連れておりまして……」
「荷車?」
「はい。追撃の途中で、それらが次々と放棄されたのですが……」
将校は少し言いにくそうにしながらも、報告を続けた。
「中には金銀や絵画、絨毯、家具など、高価な調度品が大量に積まれておりました。そのため、将兵の一部が鹵獲品の確保に向かい、追撃から脱落してしまいました」
「……何?」
「さらに、南側へ展開していた部隊の一部まで、鹵獲品を狙って東へ移動しまして……」
「それで南門が手薄になったのか」
「はい」
ルートビッヒは、しばらく何も言わなかった。
グリフィスを誘い出すため、意図的に包囲網の一角を開けておいた。
そして、グリフィスは狙いどおりその穴へ飛び込み、逃走する正規兵も大きな損害を受けた。レンヌそのものも陥落している以上、作戦自体はほぼ完全な成功と言っていい。
しかし、逃げる司令官があれほど大量の私財まで持ち出すとは、さすがのルートビッヒも想定していなかった。
しかも、その財産が今度はこちらの兵を釣った。
南側の包囲が手薄になったことで残存守備隊に脱出の機会を与え、グリフィス自身も財産を放棄しながら逃げた結果、追撃の手から抜けてしまったのである。
「……我が軍の鍛え方が甘かったな」
ルートビッヒが呟くと、それまで黙っていたホフマンが口を開いた。
「ルートビッヒ様。今回ばかりは、大目に見ていただけませんか」
ルートビッヒが横を見る。
「理由は?」
「将兵たちは、あのルーブル山地を越えて参りました。限られた補給で道なき道を進み、そのままレンヌへの奇襲から包囲戦まで続けております」
「ああ」
「しかも、今回の戦いでは、個人的な武功を立てる機会はほとんどありませんでした」
ホフマンの言うことにも一理あった。
今回の作戦は、強行偵察による情報収集から始まり、山地を迂回した奇襲、工作員による兵糧庫の破壊、街道封鎖、救援軍の各個撃破、そして兵糧攻めへと続くものだった。
作戦全体を見れば、極めて合理的である。
大きな損害を出すことなく、五十年間落ちなかったレンヌを攻略しているのだから、これ以上の成果を求めるのは難しいだろう。
だが、兵士一人一人にしてみれば事情は異なる。
敵将を討ち取ったわけでもなければ、城壁を乗り越えて一番槍を立てたわけでもない。
長期間にわたって過酷な任務をこなし続けた末に、ようやく目の前へ現れたのが、莫大な財宝を積んだ荷車だったのである。
「作戦は成功しております」
ホフマンは城内を見渡しながら続けた。
「五十年間落ちなかったレンヌも、こうして我らの手に落ちました。ここは将兵への恩賞代わりと思って、大目に見てやってください」
ルートビッヒはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かっている、ホフ」
ホフマンがわずかに笑う。
「ありがとうございます」
「俺一人で武功を独占するつもりはない。ただし、次からは――」
ルートビッヒは報告に来た将校へ目を向けた。
「逃げる敵と、落ちている財産のどちらを取るべきか、少しは考えさせろ」
「はっ! 申し訳ありません!」
「それと、鹵獲品の管理はきちんとやれ。勝手な持ち出しや隠匿は許さん」
「承知しました!」
将校が深く頭を下げた。
「まったく……強欲な男だとは聞いていたが」
ルートビッヒは額へ手を当て、呆れたように笑った。
「自分の財産に命を救われるとはな」
なんとも皮肉な話だった。
莫大な私財を守ろうとしたグリフィスは、その財産を持ち出したことで追撃を受けた。しかし、同じ財産が敵兵の欲望を刺激し、結果として自分の逃走を助けることになったのである。
本人が意図していたかどうかは知らないが、これほど馬鹿馬鹿しい話も珍しかった。
「まあいい。あんな俗物が生き延びたところで、碌なことにはならんだろうが」
ルートビッヒは改めて地図へ目を落とした。
「南へは?」
「すでに軽装の追撃部隊を派遣しております」
「なら、それでいい。追いつけるなら叩け。だが、無理なら深追いはさせるな」
「承知しました」
ルートビッヒは南の山々へ視線を向けた。
守れない城を捨て、厳重に警戒された東街道を避けて山地へ逃れた。
少なくとも、その判断はグリフィスのものとは明らかに違う。
「敵にも、まともな判断をする奴はいるらしい」
ルートビッヒの口元がわずかに緩んだ。
東門での戦いもそうだった。
奇襲そのものは成功していた。あれほど迅速に守備隊が集結しなければ、レンヌは初日に陥落していたかもしれない。
そして今回も、東へ逃走するグリフィスを囮として利用し、南側の包囲が薄くなったところを突いている。
少なくとも、敵の中にはこちらの意図を読み、状況に応じて判断できる指揮官が存在しているということだった。
「……面白い」
ルートビッヒは小さく呟いた。
それからホフマンへ向き直る。
「まずはレンヌを完全に押さえるぞ」
「はい」
五十年間、一度として敵の手に落ちなかった巨大要塞。
その城壁の上では、レミーラ帝国の金獅子の旗が風を受けて翻っていた。
◇
ウィンザーまで、あと一日。
予定よりもかなり遅れていたものの、ジャンたち三人はどうにか山中を進み続けていた。
あれからもジャンの体力は回復せず、ユナとリックに支えられながら歩くことが多かった。それでも休息を挟み、少しずつ距離を稼いできたことで、ようやく目的地まであと一日というところまで辿り着いたのである。
もっとも、ジャン本人はすでに限界だった。
足の裏にはいくつも豆ができ、膝は歩くたびに痛んだ。肩や背中も重く、何より、空腹と疲労で頭がうまく働かない。
こんな状態で、あと一日も歩かなければならないのか。
そう考えただけで気が遠くなりそうだった。
「……ジャン、もう少しだよ」
ユナが声をかけた。
「分かってる……」
「ウィンザーに着いたら、ちゃんと休めるから」
「……ああ」
ジャンはどうにか頷いた。
そのときだった。
「……止まって!」
突然、ユナが足を止めた。
「どうした?」
ジャンも立ち止まると、ユナは後ろを振り返り、小さく手を上げた。
「静かに」
三人は口を閉じた。
最初は風が木々を揺らす音しか聞こえなかったが、やがて遠くから、規則的な音が響いてきた。
一つではない。
いくつもの音が重なり、少しずつ大きくなっている。
リックが地面へしゃがみ込み、耳をつけた。
「……馬だ」
その一言で、ジャンの顔から血の気が引いた。
「追手か?」
ユナが後方へ目を向けた。
「分からない。でも、こっちに来てる」
ジャンも耳を澄ませた。
確かに馬蹄の音だった。
しかも、かなりの数がいるらしい。
「ジャン、走るよ!」
「待て!」
「待ってる場合じゃない!」
ユナが腕を引き、三人は一斉に走り出した。
正確には、ユナとリックが走り、ジャンが二人に引きずられるようについていったのである。
疲れ切った足は思うように動かず、少し走るだけで息が上がった。何度も足がもつれ、そのたびに二人が身体を支えてくれる。
しかし、馬蹄の音は容赦なく近づいてきた。
「速い……!」
「ジャン、もっと!」
「これが……限界だ……!」
ジャンも必死だった。
ここまで来て、追手に捕まるわけにはいかない。
だが、山道とはいえ、馬に追われる人間が簡単に逃げ切れるはずもなかった。
やがて後方から、別の人間の叫び声まで聞こえてきた。
「敵だ!」
「逃げろ!」
どうやら、近くを進んでいたほかの避難者たちも追われているらしい。
ジャンは一瞬だけ振り返った。
木々の隙間から、馬に乗った兵士たちの姿が見えた。
レミーラ軍だった。
「……くそっ!」
ジャンは歯を食いしばったが、もう足が動かなかった。
その場で膝をつき、荒い息を吐く。
「ジャン!」
「……もういい!」
ジャンは二人の手を振りほどいた。
「お前たちだけ行け!」
「またそれ!?」
「今度は本当に無理だ!」
ユナが何か言い返そうとしたが、ジャンは構わず続けた。
「いいから走れ! 俺に付き合ってたら、三人とも捕まる!」
「嫌!」
「ユナ!」
「ジャンも一緒に行く!」
「無理だって言ってるだろ!」
「嫌なものは嫌!」
「この馬鹿!」
「ジャンの馬鹿!」
「今それを言い返すな!」
こんな状況でも、ユナは頑として譲らなかった。
ジャンはリックへ向き直った。
「リック! お前がユナを連れていけ!」
「でも……!」
「いいから行け!」
ジャンは怒鳴った。
自分は戦えない。
剣などまともに使ったこともなく、ここに残ったところで時間稼ぎにすらならないかもしれない。
それでも、三人まとめて捕まるよりはましだった。
ユマから二人を託された。
必ずウィンザーまで連れていくと約束した。
だが、自分が足手まといになっている以上、二人を先に行かせるしかない。
「……頼むから、行ってくれ」
ジャンは息を切らしながら言った。
「お前たちまで捕まる必要はないだろう」
しかし、ユナは動かなかった。
リックも同じだった。
二人はジャンの両側に立ち、再びその身体を支えようとする。
「……お前たち、本当に馬鹿だな」
「ジャンにだけは言われたくないよ!」
「……くそ」
背後から馬蹄の音が迫ってくる。
もはや逃げ切れる距離ではなかった。
ジャンは乾いた笑みを浮かべた。
「こんなところで死ぬ予定じゃなかったんだがな……」
ニューアーク大学を主席で卒業し、将来は評議会議長になるつもりだった。
そのために中央政府へ入り、誰よりも早く出世するはずだった。
それが今では、山道で十二歳の子供二人に支えられ、敵兵から逃げることさえできない。
あまりにも情けない。
そう思った、そのときだった。
「……?」
今度は前方からも馬蹄の音が響いてきた。
ジャンは顔を上げた。
山道の先からも、騎兵がこちらへ向かってきている。
「……冗談だろ」
口元に乾いた笑みが浮かぶ。
後ろには追撃隊。
そして、前にも騎兵。
どうやら完全に挟み撃ちにされたらしい。
「どれだけ念入りなんだ……最悪だな」
「違う!」
突然、ユナが叫んだ。
「何が……?」
「旗!」
「旗?」
ジャンも前方へ目を向けた。
木々の隙間から、一枚の旗が見えてくる。
白と黒。
風を受けて翻るその旗を見た瞬間、ユナとリックの表情が変わった。
「ロスバルト!」
ユナが叫んだ。
「トウマさんの旗だ!」
前方から騎兵が一気に駆けてきた。
先頭に立つのは、金髪の若い男だった。
男は剣を抜くと、後続の騎兵たちへ向けて声を張り上げた。
「敵騎兵を確認! 第三戦隊、前へ!」
トウマ率いるロスバルト第三戦隊が、山道へ雪崩れ込んだ。
「友軍を救出する!」
「おおおっ!」
鬨の声とともに、第三戦隊がレミーラ軍の追撃隊へ突撃する。
追手の騎兵たちも一瞬は迎え撃とうとしたが、彼らはあくまでレンヌから脱出した残存兵を追うために派遣された小規模な部隊にすぎなかった。
戦隊規模のロスバルトを相手に、山道で正面から戦う理由などない。
短い衝突の末、レミーラ兵は次々と馬首を返した。
「追うな!」
トウマの声が飛ぶ。
「友軍の救出を優先しろ!」
第三戦隊はそれ以上の追撃を行わず、山道へ散っていた味方の救助へ移った。
もともと第三戦隊は、レミーラ軍による強行偵察が続いていた頃、ユマが追加派遣を決めていた部隊だった。
しかし、ウィンザーへ到着した時には、すでにレンヌへ通じる街道が封鎖されていたため、無理な突破を避け、周辺地域の哨戒に当たっていたのである。
そして今回、南の山地から脱出してくる味方と、それを追撃するレミーラ兵を発見したのだった。
ジャンは目の前で起きたことを、しばらく呆然と眺めていた。
「……助かったのか?」
「うん!」
ユナが笑った。
「言ったでしょ?」
「……何をだ?」
「ロスバルトは――」
ユナはジャンを見た。
「仲間を見捨てないって!」
「…………」
ジャンは何も答えられなかった。
ロスバルトの傭兵たちが、次々と山道へ駆けつけてくる。
負傷した兵士へ肩を貸す者、倒れている市民を抱き起こす者、子供たちを安全な場所へ誘導する者。
誰もが、自分の仕事を理解しているようだった。
ジャンはそんな光景を見つめながら、ようやく助かったのだと実感した。
そして、危機が去ったと理解した、その瞬間だった。
身体から一気に力が抜けた。
「ユナ様! リック様!」
第三戦隊の兵士たちが駆け寄ってきた。
「ご無事でしたか!」
「うん! みんなも無事?」
「はい! それより、こちらの方は?」
兵士の一人がジャンを見て、少し戸惑ったような顔をした。
見るからに疲れ切った男が、十二歳の姉弟に両側から支えられている。
「ジャンだよ!」
ユナが答えた。
「……ジャン?」
兵士が首を傾げる。
ジャンは荒い息を吐きながら、どうにか顔を上げた。
「ニューアーク大学……主席だ……」
「今それ言う?」
ユナが呆れた。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫だ……」
「とてもそうは見えませんが……」
「少し……休めば……」
そこまでだった。
再び膝から力が抜け、ジャンはそのまま地面へ崩れ落ちた。
「ジャン!?」
ユナが慌てて横へしゃがみ込み、顔を覗き込む。
リックも反対側から様子を確かめた。
「……大丈夫。生きてるよ」
「本当?」
「うん。ちゃんと息してる」
ユナはほっと胸を撫で下ろした。
すると、リックが何かに気づいた。
「……また涎出てる」
「……見るな……」
倒れたまま、ジャンがかすれた声を出した。
「まだ喋れるんだ」
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫……だ……」
「本当にニューアーク大学主席なの?」
「主席と……体力は……関係ない……」
「まだ言ってる」
「人間に必要なのは……ち……」
最後まで言い切ることはできなかった。
そこで、ジャンの意識は急速に遠のいていった。
ニューアーク大学を主席で卒業し、将来は評議会議長になると豪語していた若き官僚。
そのレンヌからの脱出行は、十二歳の姉弟に支えられ、最後には山道で涎を垂らしながら気絶するという、本人にとって実に不本意な形で幕を閉じた。




