第5話 再侵攻
278年11月。
リブロフ王宮。
元老会議。
伯爵以上の爵位を持つ者に参加を認められた、リービッヒ王国の最高意思決定機関である。
その日の議場には、いつにも増して重い空気が漂っていた。
オーウェン=フランツベルク。
ガレス=フランツベルク。
イーワン=フランツベルク。
ギース。
そして、第一王女カレリア。
その他にも、王国各地から伯爵以上の諸侯が席を連ねている。
オーウェンを中心とする宮廷派。
その中でも、ガレス、イーワン、ギースは強硬な意見を持つ者たちだった。
一方のカレリアは、彼らとは異なる派閥に属している。
そして、その腹心がエル=リージェットだった。
長机の上には、膨大な書類が積み重ねられていた。
パドゥーラ侵攻作戦書。
元老会議による承認記録。
現地軍から送られた軍報。
軍議の議事録。
各部隊の行動記録。
そして、戦死したアンスバッハが発した軍令。
敗戦。
その事実そのものに、議論の余地はない。
パドゥーラの完全制圧には失敗。
北の砦も落ちなかった。
総司令官アンスバッハは戦死。
侵攻軍は撤退を余儀なくされた。
さらに、その後。
パウロ=フランツベルクがラレドごとパドゥーラへ帰順している。
「まずは、エル=リージェットだ」
口火を切ったのはガレスだった。
「今回の侵攻作戦を立案したのは、あの女だ。作戦が失敗した以上、立案者の責任を確認する必要がある」
異論は出なかった。
エル本人は、この場にはいない。
撤退させた軍をまとめ、現在もラレド付近に駐留している。
わざわざリブロフへ呼び戻す必要もなかった。
何を提案したのか。
何を命じられたのか。
そして、何をしたのか。
その大半が、記録として残されている。
「作戦書を」
オーウェンが言った。
「はい」
記録官が一冊の書類を開く。
「パドゥーラ侵攻作戦。立案、エル=リージェット。元老会議へ提出され、審議の後、正式に承認されております」
「作戦そのものに問題は?」
イーワンが尋ねた。
「現在までの検証では、重大な欠陥は認められておりません」
「だが、失敗した」
ギースが低く言った。
「結果としては、その通りです」
「ならば、どこかで作戦が破綻したということだ」
「実際の作戦進行を確認します」
記録官が次の書類を取り出した。
「エル=リージェットが今回の作戦で最重要としていたのは、パドゥーラ回廊の遮断です」
地図が広げられる。
パドゥーラ回廊。
北方へ出ていたパドゥーラ本軍が帰還するための道。
「回廊を遮断し、北方のパドゥーラ本軍を帰還させない。その間にパドゥーラ市街を確保する。これが作戦の基本です」
「回廊を開ければ?」
ガレスが聞く。
「北方のパドゥーラ軍が帰還できます」
「つまり、作戦の前提そのものが崩れる」
「はい」
記録官は続けた。
「エル将軍は作戦開始前から、回廊の遮断だけは絶対に維持するよう、アンスバッハ総司令官へ繰り返し念押ししております」
「記録は?」
「残っています」
そこまでは。
元老会議が承認した作戦そのものだった。
問題は、その後である。
「北の砦だ」
オーウェンが言った。
「はい」
「アンスバッハは、どれほど攻撃を続けた」
「五日です」
何人かの顔が険しくなった。
北の砦は落ちなかった。
それでもアンスバッハは攻撃を続けた。
そして五日目。
西方から、別の軍が現れた。
「ロスバルト、およそ二千」
記録官が読み上げる。
「西方より、パドゥーラ領内へ進入しております」
「その時の軍議録を」
オーウェンが命じた。
「はい」
紙をめくる音がした。
「アンスバッハ総司令官は、ロスバルト軍を火事場泥棒と判断。駆逐を命じています」
「誰に」
「エル=リージェットに」
ガレスが眉を寄せた。
「エルは反対したのか」
「はい」
「内容は?」
「敵は二千程度。現時点では放置し、後で奪還すればよい。今は北の砦を優先すべきだと進言しております」
「それでも、アンスバッハは?」
「駆逐を命じました」
「エルは」
「命令を受諾しています」
記録官は、そこで一度言葉を切った。
「ただし、その直後に――」
紙へ視線を落とす。
「『それをすると、北の砦の後詰めが減る』と警告しております」
「アンスバッハの返答は」
「『構わん。砦など、あと一押しだ』と」
議場が静かになった。
「パウロも、その場にいたはずだ」
オーウェンが言う。
「はい」
「何と言っている」
「パウロ=フランツベルクも反対しております。すでに五日間攻撃を続け、損害が出ている。ここで兵を分ければ危険だ、と」
ガレスの表情が硬くなった。
「それに対して、エルは?」
「パウロを制止しております」
「制止?」
「『私は総司令の命に従う。リービッヒに忠誠を誓ったから』と」
カレリアが初めて、わずかに目を伏せた。
「その後、エル将軍は同席していた記録官へ、このやり取りを確実に記録するよう命じています」
ギースが鼻を鳴らした。
「随分と用意のいいことだ」
「何か問題がありますか」
カレリアの声だった。
ギースが見る。
「自分が立案し、元老会議が承認した作戦とは異なる命令を受けたのです。何を進言し、誰が最終的に命令したのかを記録に残す。当然のことでしょう」
「問題があるとは申しておりません」
「ならば、事実だけ確認してください」
カレリアの声は穏やかだった。
エルを庇おうと声を荒らげることもない。
ただ。
記録を見ろ。
そう言っている。
「エルは何人を連れて行った」
イーワンが聞いた。
「一万のうち五千です」
「全軍ではない?」
「はい」
「理由は」
「ロスバルト二千に対して、それ以上は不要と判断したものと思われます。また、北の砦方面の戦力を、これ以上減らさない意図もあったものと」
イーワンが腕を組んだ。
「ならば聞く」
その視線が書類へ落ちる。
「そこまで危険を理解していたのなら、なぜ止めなかった」
議場が静まった。
「回廊の遮断を絶対条件とした。ロスバルト二千は放っておけと言った。後詰めが減るとも警告した」
イーワンは続ける。
「それほど分かっていたのであれば、なぜアンスバッハに従った」
「それは」
答えたのは、カレリアだった。
「アンスバッハ将軍が総司令官だったからでしょう」
「結果として、その判断は間違っていた」
「結果を知っている今なら、何とでも言えます」
視線がイーワンへ向く。
「元老会議が任命した総司令官へ進言した。危険も伝えた。それでも総司令官が命令した。ならば従うしかない」
「従わなければよかった」
「では今後」
カレリアは淡々と返した。
「副将は、自分の判断が総司令官より正しいと思えば、命令を拒否してよいことにしますか?」
「……」
「それを軍と呼ぶのですか」
答えはなかった。
「カレリア殿下の言う通りだ」
オーウェンが言った。
今度はガレスが父を見る。
「父上」
「エルを処罰するために、抗命を正しい行為だったことにするわけにはいかん」
「しかし」
「ガレス」
オーウェンが静かに止める。
「お前が同じ立場なら、どうする」
「……」
「三度進言した。それでも総司令官が命令を変えなかった」
ガレスは答えない。
「そこで兵を動かさないのか」
「……それは、できません」
「ならば同じだ」
議場に、紙をめくる音だけが響いた。
「アンスバッハ本人から話が聞ければな」
一人の伯爵が呟いた。
誰も答えなかった。
本人は死んでいる。
もし生きていれば。
現場では事情が違った。
エルの判断にも問題があった。
自分には別の軍事的意図があった。
いくらでも弁明はできただろう。
責任を分けることもできたかもしれない。
だが。
今あるのは、記録だけだった。
そして、その記録には。
回廊を遮断しろと主張したエルがいる。
ロスバルト二千を放置しろと進言したエルがいる。
北の砦の後詰めが減ると警告したエルがいる。
それでも、総司令官の命令に従ったエルがいる。
「撤退についても確認しましょう」
カレリアが言った。
「はい」
記録官が次の報告書を開く。
「アンスバッハ総司令官戦死後、エル=リージェットが残存部隊の指揮を引き継いでおります」
「結果は」
「各部隊を収容しながら撤退。現在、ラレド付近で再編を終えています」
「戦闘可能な兵は」
「一万五千」
議場がわずかにざわめいた。
「一万五千残ったのか」
「はい」
敗戦だった。
損害も大きい。
だが。
軍は消えていない。
まだ戦える。
「撤退に失敗していれば?」
「さらに大きな損害を受け、主力そのものを失っていた可能性があります」
しばらく誰も話さなかった。
やがて。
オーウェンが、目の前の書類を閉じた。
「これで、何を罰する」
答える者はいない。
「作戦を立案したのは、エル=リージェットだ」
オーウェンが言う。
「その作戦を承認したのは、我々だ」
議場を見渡す。
「本人は承認された作戦を遂行しようとした。危険を指摘した。総司令官の命令には従った。そして敗戦後には、一万五千を連れて帰った」
低い声だった。
「死人にすべての責任を押しつけるつもりはない」
誰も口を挟まない。
「だが、生きている者を処罰するために、記録を捻じ曲げるつもりもない」
結論は決まった。
「エル=リージェットに、今回の敗戦について処罰すべき事由は認められない」
異論はなかった。
「処分なし」
カレリアは何も言わなかった。
安堵した様子も見せない。
ただ静かに、手元の書類を閉じた。
「だが」
ガレスが口を開いた。
「罪がないことと、信用できることは別です」
カレリアが顔を上げる。
「何を疑っているのです」
「パドゥーラ侯との関係ですよ」
アムルはエル=リージェットを国家反逆罪で訴追した。
さらに、ドゥットゥカース家との絶縁まで宣言している。
形式上は。
関係を切った。
だが。
「そこまでしているのに、まだ疑うのですか」
カレリアが尋ねる。
「そこまでしなければならないほど、深い関係だったとも言える」
イーワンが答えた。
カレリアは黙った。
その理屈まで、否定するつもりはなかった。
「今回、エルが裏切った事実はない」
オーウェンが言った。
「軍人としての能力も疑わん」
そして。
「それ以上は、今決める必要がない」
それで議論を切った。
◇
「では」
別の伯爵が口を開いた。
「フランツベルク家の責任は、どうなるのです」
ガレスの顔が険しくなる。
「どういう意味だ」
「そのままです」
伯爵は引かなかった。
「トーマ=フランツベルクは、ライプニッツを失う原因を作り、その過程で死んだ」
空気が張りつめる。
「そして今度は、パウロ=フランツベルクがラレドごとパドゥーラへ寝返った」
ギースが机へ手を置いた。
「パウロの行為は本人の反逆だ」
「では、フランツベルク家には何の責任もないと?」
「貴様――」
「やめろ」
オーウェンだった。
ギースが口を閉じる。
「事実だ」
「父上」
「トーマの件も、パウロの件も。我が家と無関係だとは言わん」
ガレスも黙った。
「責任については、いずれ私が答える」
オーウェンは地図を見る。
パドゥーラ。
セイレン。
ラレド。
そして、その周辺の諸侯。
「奴らは、セレス協商などと名乗った」
ギースが吐き捨てる。
パドゥーラとセイレン。
セレス山脈南麓に古くから存在する二都市が、セレスという地域の名を掲げて政治協力を結んだ。
もはや。
一都市の反乱ではない。
大陸中央部に、新たな政治圏が生まれようとしている。
さらにパウロが、ラレドごと帰順した。
周辺の領主にも動揺が広がっている。
すでにパドゥーラへの服属を申し出た者までいた。
「放置すれば、次が出ます」
カレリアが言った。
「分かっている」
ガレスが答える。
「ならば今度こそ、パドゥーラを潰すべきだ」
「いや」
オーウェンが否定した。
「父上?」
「目的を増やすな」
「ですが――」
「前回の失敗から、何も学ばないつもりか」
ガレスが黙る。
「今必要なのは、パドゥーラを滅ぼすことではない」
オーウェンの指が、地図上のラレドを押さえた。
「ラレドを取り戻す」
「それだけですか」
「それでいい」
「パドゥーラ侯を討てるなら」
「討てるなら討てばよい」
オーウェンは淡々と答えた。
「だが、それを目的にはするな」
諸侯が恐れているのは。
王国への忠義ではない。
どちらにつけば生き残れるかだ。
パドゥーラへ行けば守られる。
リービッヒには、もう取り戻す力がない。
そう思われれば。
離反は止まらない。
「パドゥーラ軍を破る」
オーウェンが言った。
「ラレドを取り戻す」
それだけでいい。
「王国はまだ戦える。離反したところで安全にはならない。その事実を見せればよい」
カレリアも異論を唱えなかった。
「兵は一万五千残っている」
「はい」
「問題は」
オーウェンは少しだけ間を置いた。
「将だな」
アンスバッハは死んだ。
パウロは敵へ行った。
敗れた軍をもう一度まとめ、戦場へ戻せる総司令官が必要だった。
「エル=リージェットでは?」
一人の伯爵が尋ねる。
「能力には問題がないのでしょう」
「一軍なら任せられる」
オーウェンが答えた。
「全軍は?」
「任せん」
即答だった。
「では、誰を」
「モンドを戻す」
ざわめきが起きた。
「モンド=ドゥットゥカースを?」
「そうだ」
「しかし、蟄居中ですぞ」
「知っている」
オーウェンの声は変わらない。
「私が蟄居させた」
トーマの死。
その政治的責任を負わせるためだった。
「ですが」
一人の伯爵が身を乗り出した。
「かつてパドゥーラ侯の養父だったのですぞ」
「かつて、だ」
オーウェンは返した。
「パドゥーラ侯自身が、ドゥットゥカース家との絶縁を宣言した」
「形式上はそうでしょう。しかし、情まで消えたとは」
「私も消えたとは思っていない」
予想外の答えに、男が黙る。
「ならば、なおさら危険では?」
イーワンが言った。
「モンドにも情は残っているはずです」
「残っているだろう」
「父上」
「だが」
オーウェンは息子を見る。
「私は、モンドを知っている」
南北戦争以来。
長い付き合いだった。
「ドゥットゥカース家そのものを、無条件に信用しているわけではない」
それでも。
「モンドが王国を裏切るとは思っていない」
「父上は甘い」
ガレスが言った。
「そうかもしれんな」
オーウェンは否定しなかった。
「ならば、お前が代わりを挙げろ」
「……」
「一万五千の敗残兵をまとめ、再びラレドへ出し、パドゥーラ軍と戦わせられる総司令官を」
ガレスは黙った。
「いないのだろう」
返事はなかった。
「モンドを蟄居させたのは、反逆を疑ったからではない」
オーウェンが続けた。
「トーマの死に対して、政治的責任を取らせる必要があったからだ」
そして。
「責任は取らせた」
低い声だった。
「今度は、働かせる」
異論は出なかった。
「モンド=ドゥットゥカースを軍務へ復帰させる」
オーウェンが言った。
「ラレド奪還軍総司令」
カレリアが続ける。
「ヴァンは?」
「現在、正式な軍職には就いておりません」
「ならば、軍師として任用する」
オーウェンが答えた。
「エル=リージェットとギルフォードを、その指揮下へ置く」
それ以上は決めない。
どの兵を誰に預けるか。
どこへ配置するか。
どう戦うか。
それは。
政治家が決めることではない。
「軍の編成、配置、運用はモンドに一任する」
オーウェンは言った。
「陛下へ上奏する」




