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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第六章 278年の嵐 後編

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第5話 再侵攻

 278年11月。


 リブロフ王宮。


 元老会議。


 伯爵以上の爵位を持つ者に参加を認められた、リービッヒ王国の最高意思決定機関である。


 その日の議場には、いつにも増して重い空気が漂っていた。


 オーウェン=フランツベルク。


 ガレス=フランツベルク。


 イーワン=フランツベルク。


 ギース。


 そして、第一王女カレリア。


 その他にも、王国各地から伯爵以上の諸侯が席を連ねている。


 オーウェンを中心とする宮廷派。


 その中でも、ガレス、イーワン、ギースは強硬な意見を持つ者たちだった。


 一方のカレリアは、彼らとは異なる派閥に属している。


 そして、その腹心がエル=リージェットだった。


 長机の上には、膨大な書類が積み重ねられていた。


 パドゥーラ侵攻作戦書。


 元老会議による承認記録。


 現地軍から送られた軍報。


 軍議の議事録。


 各部隊の行動記録。


 そして、戦死したアンスバッハが発した軍令。


 敗戦。


 その事実そのものに、議論の余地はない。


 パドゥーラの完全制圧には失敗。


 北の砦も落ちなかった。


 総司令官アンスバッハは戦死。


 侵攻軍は撤退を余儀なくされた。


 さらに、その後。


 パウロ=フランツベルクがラレドごとパドゥーラへ帰順している。


「まずは、エル=リージェットだ」


 口火を切ったのはガレスだった。


「今回の侵攻作戦を立案したのは、あの女だ。作戦が失敗した以上、立案者の責任を確認する必要がある」


 異論は出なかった。


 エル本人は、この場にはいない。


 撤退させた軍をまとめ、現在もラレド付近に駐留している。


 わざわざリブロフへ呼び戻す必要もなかった。


 何を提案したのか。


 何を命じられたのか。


 そして、何をしたのか。


 その大半が、記録として残されている。


「作戦書を」


 オーウェンが言った。


「はい」


 記録官が一冊の書類を開く。


「パドゥーラ侵攻作戦。立案、エル=リージェット。元老会議へ提出され、審議の後、正式に承認されております」


「作戦そのものに問題は?」


 イーワンが尋ねた。


「現在までの検証では、重大な欠陥は認められておりません」


「だが、失敗した」


 ギースが低く言った。


「結果としては、その通りです」


「ならば、どこかで作戦が破綻したということだ」


「実際の作戦進行を確認します」


 記録官が次の書類を取り出した。


「エル=リージェットが今回の作戦で最重要としていたのは、パドゥーラ回廊の遮断です」


 地図が広げられる。


 パドゥーラ回廊。


 北方へ出ていたパドゥーラ本軍が帰還するための道。


「回廊を遮断し、北方のパドゥーラ本軍を帰還させない。その間にパドゥーラ市街を確保する。これが作戦の基本です」


「回廊を開ければ?」


 ガレスが聞く。


「北方のパドゥーラ軍が帰還できます」


「つまり、作戦の前提そのものが崩れる」


「はい」


 記録官は続けた。


「エル将軍は作戦開始前から、回廊の遮断だけは絶対に維持するよう、アンスバッハ総司令官へ繰り返し念押ししております」


「記録は?」


「残っています」


 そこまでは。


 元老会議が承認した作戦そのものだった。


 問題は、その後である。


「北の砦だ」


 オーウェンが言った。


「はい」


「アンスバッハは、どれほど攻撃を続けた」


「五日です」


 何人かの顔が険しくなった。


 北の砦は落ちなかった。


 それでもアンスバッハは攻撃を続けた。


 そして五日目。


 西方から、別の軍が現れた。


「ロスバルト、およそ二千」


 記録官が読み上げる。


「西方より、パドゥーラ領内へ進入しております」


「その時の軍議録を」


 オーウェンが命じた。


「はい」


 紙をめくる音がした。


「アンスバッハ総司令官は、ロスバルト軍を火事場泥棒と判断。駆逐を命じています」


「誰に」


「エル=リージェットに」


 ガレスが眉を寄せた。


「エルは反対したのか」


「はい」


「内容は?」


「敵は二千程度。現時点では放置し、後で奪還すればよい。今は北の砦を優先すべきだと進言しております」


「それでも、アンスバッハは?」


「駆逐を命じました」


「エルは」


「命令を受諾しています」


 記録官は、そこで一度言葉を切った。


「ただし、その直後に――」


 紙へ視線を落とす。


「『それをすると、北の砦の後詰めが減る』と警告しております」


「アンスバッハの返答は」


「『構わん。砦など、あと一押しだ』と」


 議場が静かになった。


「パウロも、その場にいたはずだ」


 オーウェンが言う。


「はい」


「何と言っている」


「パウロ=フランツベルクも反対しております。すでに五日間攻撃を続け、損害が出ている。ここで兵を分ければ危険だ、と」


 ガレスの表情が硬くなった。


「それに対して、エルは?」


「パウロを制止しております」


「制止?」


「『私は総司令の命に従う。リービッヒに忠誠を誓ったから』と」


 カレリアが初めて、わずかに目を伏せた。


「その後、エル将軍は同席していた記録官へ、このやり取りを確実に記録するよう命じています」


 ギースが鼻を鳴らした。


「随分と用意のいいことだ」


「何か問題がありますか」


 カレリアの声だった。


 ギースが見る。


「自分が立案し、元老会議が承認した作戦とは異なる命令を受けたのです。何を進言し、誰が最終的に命令したのかを記録に残す。当然のことでしょう」


「問題があるとは申しておりません」


「ならば、事実だけ確認してください」


 カレリアの声は穏やかだった。


挿絵(By みてみん)


 エルを庇おうと声を荒らげることもない。


 ただ。


 記録を見ろ。


 そう言っている。


「エルは何人を連れて行った」


 イーワンが聞いた。


「一万のうち五千です」


「全軍ではない?」


「はい」


「理由は」


「ロスバルト二千に対して、それ以上は不要と判断したものと思われます。また、北の砦方面の戦力を、これ以上減らさない意図もあったものと」


 イーワンが腕を組んだ。


「ならば聞く」


 その視線が書類へ落ちる。


「そこまで危険を理解していたのなら、なぜ止めなかった」


 議場が静まった。


「回廊の遮断を絶対条件とした。ロスバルト二千は放っておけと言った。後詰めが減るとも警告した」


 イーワンは続ける。


「それほど分かっていたのであれば、なぜアンスバッハに従った」


「それは」


 答えたのは、カレリアだった。


「アンスバッハ将軍が総司令官だったからでしょう」


「結果として、その判断は間違っていた」


「結果を知っている今なら、何とでも言えます」


 視線がイーワンへ向く。


「元老会議が任命した総司令官へ進言した。危険も伝えた。それでも総司令官が命令した。ならば従うしかない」


「従わなければよかった」


「では今後」


 カレリアは淡々と返した。


「副将は、自分の判断が総司令官より正しいと思えば、命令を拒否してよいことにしますか?」


「……」


「それを軍と呼ぶのですか」


 答えはなかった。


「カレリア殿下の言う通りだ」


 オーウェンが言った。


 今度はガレスが父を見る。


「父上」


「エルを処罰するために、抗命を正しい行為だったことにするわけにはいかん」


「しかし」


「ガレス」


 オーウェンが静かに止める。


「お前が同じ立場なら、どうする」


「……」


「三度進言した。それでも総司令官が命令を変えなかった」


 ガレスは答えない。


「そこで兵を動かさないのか」


「……それは、できません」


「ならば同じだ」


 議場に、紙をめくる音だけが響いた。


「アンスバッハ本人から話が聞ければな」


 一人の伯爵が呟いた。


 誰も答えなかった。


 本人は死んでいる。


 もし生きていれば。


 現場では事情が違った。


 エルの判断にも問題があった。


 自分には別の軍事的意図があった。


 いくらでも弁明はできただろう。


 責任を分けることもできたかもしれない。


 だが。


 今あるのは、記録だけだった。


 そして、その記録には。


 回廊を遮断しろと主張したエルがいる。


 ロスバルト二千を放置しろと進言したエルがいる。


 北の砦の後詰めが減ると警告したエルがいる。


 それでも、総司令官の命令に従ったエルがいる。


「撤退についても確認しましょう」


 カレリアが言った。


「はい」


 記録官が次の報告書を開く。


「アンスバッハ総司令官戦死後、エル=リージェットが残存部隊の指揮を引き継いでおります」


「結果は」


「各部隊を収容しながら撤退。現在、ラレド付近で再編を終えています」


「戦闘可能な兵は」


「一万五千」


 議場がわずかにざわめいた。


「一万五千残ったのか」


「はい」


 敗戦だった。


 損害も大きい。


 だが。


 軍は消えていない。


 まだ戦える。


「撤退に失敗していれば?」


「さらに大きな損害を受け、主力そのものを失っていた可能性があります」


 しばらく誰も話さなかった。


 やがて。


 オーウェンが、目の前の書類を閉じた。


「これで、何を罰する」


 答える者はいない。


「作戦を立案したのは、エル=リージェットだ」


 オーウェンが言う。


「その作戦を承認したのは、我々だ」


 議場を見渡す。


「本人は承認された作戦を遂行しようとした。危険を指摘した。総司令官の命令には従った。そして敗戦後には、一万五千を連れて帰った」


 低い声だった。


「死人にすべての責任を押しつけるつもりはない」


 誰も口を挟まない。


「だが、生きている者を処罰するために、記録を捻じ曲げるつもりもない」


 結論は決まった。


「エル=リージェットに、今回の敗戦について処罰すべき事由は認められない」


 異論はなかった。


「処分なし」


 カレリアは何も言わなかった。


 安堵した様子も見せない。


 ただ静かに、手元の書類を閉じた。


「だが」


 ガレスが口を開いた。


「罪がないことと、信用できることは別です」


 カレリアが顔を上げる。


「何を疑っているのです」


「パドゥーラ侯との関係ですよ」


 アムルはエル=リージェットを国家反逆罪で訴追した。


 さらに、ドゥットゥカース家との絶縁まで宣言している。


 形式上は。


 関係を切った。


 だが。


「そこまでしているのに、まだ疑うのですか」


 カレリアが尋ねる。


「そこまでしなければならないほど、深い関係だったとも言える」


 イーワンが答えた。


 カレリアは黙った。


 その理屈まで、否定するつもりはなかった。


「今回、エルが裏切った事実はない」


 オーウェンが言った。


「軍人としての能力も疑わん」


 そして。


「それ以上は、今決める必要がない」


 それで議論を切った。


 ◇


「では」


 別の伯爵が口を開いた。


「フランツベルク家の責任は、どうなるのです」


 ガレスの顔が険しくなる。


「どういう意味だ」


「そのままです」


 伯爵は引かなかった。


「トーマ=フランツベルクは、ライプニッツを失う原因を作り、その過程で死んだ」


 空気が張りつめる。


「そして今度は、パウロ=フランツベルクがラレドごとパドゥーラへ寝返った」


 ギースが机へ手を置いた。


「パウロの行為は本人の反逆だ」


「では、フランツベルク家には何の責任もないと?」


「貴様――」


「やめろ」


 オーウェンだった。


 ギースが口を閉じる。


「事実だ」


「父上」


「トーマの件も、パウロの件も。我が家と無関係だとは言わん」


 ガレスも黙った。


「責任については、いずれ私が答える」


 オーウェンは地図を見る。


 パドゥーラ。


 セイレン。


 ラレド。


 そして、その周辺の諸侯。


「奴らは、セレス協商などと名乗った」


 ギースが吐き捨てる。


 パドゥーラとセイレン。


 セレス山脈南麓に古くから存在する二都市が、セレスという地域の名を掲げて政治協力を結んだ。


 もはや。


 一都市の反乱ではない。


 大陸中央部に、新たな政治圏が生まれようとしている。


 さらにパウロが、ラレドごと帰順した。


 周辺の領主にも動揺が広がっている。


 すでにパドゥーラへの服属を申し出た者までいた。


「放置すれば、次が出ます」


 カレリアが言った。


「分かっている」


 ガレスが答える。


「ならば今度こそ、パドゥーラを潰すべきだ」


「いや」


 オーウェンが否定した。


「父上?」


「目的を増やすな」


「ですが――」


「前回の失敗から、何も学ばないつもりか」


 ガレスが黙る。


「今必要なのは、パドゥーラを滅ぼすことではない」


 オーウェンの指が、地図上のラレドを押さえた。


「ラレドを取り戻す」


「それだけですか」


「それでいい」


「パドゥーラ侯を討てるなら」


「討てるなら討てばよい」


 オーウェンは淡々と答えた。


「だが、それを目的にはするな」


 諸侯が恐れているのは。


 王国への忠義ではない。


 どちらにつけば生き残れるかだ。


 パドゥーラへ行けば守られる。


 リービッヒには、もう取り戻す力がない。


 そう思われれば。


 離反は止まらない。


「パドゥーラ軍を破る」


 オーウェンが言った。


「ラレドを取り戻す」


 それだけでいい。


「王国はまだ戦える。離反したところで安全にはならない。その事実を見せればよい」


 カレリアも異論を唱えなかった。


「兵は一万五千残っている」


「はい」


「問題は」


 オーウェンは少しだけ間を置いた。


「将だな」


 アンスバッハは死んだ。


 パウロは敵へ行った。


 敗れた軍をもう一度まとめ、戦場へ戻せる総司令官が必要だった。


「エル=リージェットでは?」


 一人の伯爵が尋ねる。


「能力には問題がないのでしょう」


「一軍なら任せられる」


 オーウェンが答えた。


「全軍は?」


「任せん」


 即答だった。


「では、誰を」


「モンドを戻す」


 ざわめきが起きた。


「モンド=ドゥットゥカースを?」


「そうだ」


「しかし、蟄居中ですぞ」


「知っている」


 オーウェンの声は変わらない。


「私が蟄居させた」


 トーマの死。


 その政治的責任を負わせるためだった。


「ですが」


 一人の伯爵が身を乗り出した。


「かつてパドゥーラ侯の養父だったのですぞ」


「かつて、だ」


 オーウェンは返した。


「パドゥーラ侯自身が、ドゥットゥカース家との絶縁を宣言した」


「形式上はそうでしょう。しかし、情まで消えたとは」


「私も消えたとは思っていない」


 予想外の答えに、男が黙る。


「ならば、なおさら危険では?」


 イーワンが言った。


「モンドにも情は残っているはずです」


「残っているだろう」


「父上」


「だが」


 オーウェンは息子を見る。


「私は、モンドを知っている」


 南北戦争以来。


 長い付き合いだった。


「ドゥットゥカース家そのものを、無条件に信用しているわけではない」


 それでも。


「モンドが王国を裏切るとは思っていない」


「父上は甘い」


 ガレスが言った。


「そうかもしれんな」


 オーウェンは否定しなかった。


「ならば、お前が代わりを挙げろ」


「……」


「一万五千の敗残兵をまとめ、再びラレドへ出し、パドゥーラ軍と戦わせられる総司令官を」


 ガレスは黙った。


「いないのだろう」


 返事はなかった。


「モンドを蟄居させたのは、反逆を疑ったからではない」


 オーウェンが続けた。


「トーマの死に対して、政治的責任を取らせる必要があったからだ」


 そして。


「責任は取らせた」


 低い声だった。


「今度は、働かせる」


 異論は出なかった。


「モンド=ドゥットゥカースを軍務へ復帰させる」


 オーウェンが言った。


「ラレド奪還軍総司令」


 カレリアが続ける。


「ヴァンは?」


「現在、正式な軍職には就いておりません」


「ならば、軍師として任用する」


 オーウェンが答えた。


「エル=リージェットとギルフォードを、その指揮下へ置く」


 それ以上は決めない。


 どの兵を誰に預けるか。


 どこへ配置するか。


 どう戦うか。


 それは。


 政治家が決めることではない。


「軍の編成、配置、運用はモンドに一任する」


 オーウェンは言った。


「陛下へ上奏する」

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