第4話 独立
◇
「敵軍が、ラレド方面へ戦力を再集中させています」
パドゥーラ城。
ホウアンの報告を受けても、アムルは表情を変えなかった。
机上には、チル湖周辺の地図が広げられている。
その南。
ラレド。
つい先日、ラレド侯パウロ=フランツベルクが、領地ごとパドゥーラへ帰順したばかりだった。
「規模は?」
「まだ不明です」
ホウアンは答えた。
「北の砦から敗走した部隊の再編も進めているようです。少なくとも、今回の敗北だけで攻撃を断念するつもりはないでしょう」
「そうか」
短い返事だった。
パドゥーラは勝った。
侵攻してきたリービッヒ軍を退け、総司令官アンスバッハは戦死した。
ラレドは帰順。
都市同盟のセイレンとはセレス協商を成立させ、パドゥーラは正式に独立を表明した。
それでも。
戦争は終わっていない。
アムルには、最初から分かっていた。
「ラレドには警戒を続けるよう伝えてくれ。パウロだけに任せるわけにはいかない。必要な物資も送る」
「承知しました」
「ただし」
アムルは地図から目を離さなかった。
「今すぐ何もかも軍へ回すな」
ティーエが顔を上げる。
「まずは、こっちを立て直す」
「うん」
「やることが多すぎる」
それは、その通りだった。
勝った軍には、勝った後の仕事がある。
死んだ者を数えなければならない。
負傷した者を治療し、散り散りになった兵をまとめなければならない。
新たに得た土地を治める必要もある。
そして。
急激に大きくなったパドゥーラそのものを、作り直さなければならなかった。
◇
最初に処理されたのは、北部兵団だった。
アムルの前に、一枚の書類が置かれた。
北部兵団司令官。
ジョン=ブラン。
戦死。
記されているのは、それだけだった。
「……」
アムルはしばらく、その名前を見ていた。
北部兵団を率い続けた男。
セレスの山中で自分たちを助けてくれた男。
パドゥーラへ来て。
北を守り。
最後には、自分を逃がすために残った。
アムルは筆を取った。
署名する。
その直前。
手が止まった。
ほんのわずかな時間だった。
やがて、アムルは自分の名前を書いた。
書類を脇へ置く。
「次」
ティーエが一瞬だけアムルを見た。
何も言わず、もう一枚を差し出す。
シェ=ウィンクを、北部兵団司令官に任ずる。
「本人には?」
「内示してあるよ」
ティーエが答えた。
「受けるって」
「そうか」
アムルは署名した。
誰かが死ねば。
別の誰かが、その場所に立たなければならない。
悲しいからといって、軍は止まらない。
「正式に発令してくれ」
「分かった」
ティーエが二枚の書類を受け取る。
ジョン=ブランの戦死確認。
シェ=ウィンクの司令官任命。
同じ机の上で。
同じ日の仕事として処理された。
◇
次は、領土だった。
「ライプニッツとコスタについては、正式にパドゥーラ領へ編入する」
アムルが言った。
すでに両地域とも、実質的にはパドゥーラの統治下にある。
だが、独立を表明した以上、いつまでも委任統治という曖昧な状態にしておくわけにはいかなかった。
ライプニッツ。
コスタ。
二つの地域は、正式にパドゥーラの領域となる。
「ラレドは?」
ロックが尋ねた。
「パウロに任せる」
アムルは答えた。
「ラレドまで直轄にする必要はない。今までどおり、パウロが領主として治めればいい」
「分かった」
「問題は、その周辺だよ」
ティーエが新しい書類を机へ置いた。
「帰順の申し出が増えてる」
アンスバッハが敗れた。
パウロが寝返った。
パドゥーラは独立を宣言した。
さらに、セイレンとのセレス協商まで成立した。
それを見ていたラレド周辺の領主たちが、一斉に態度を変え始めていた。
「昨日までで七家」
ティーエが書類をめくる。
「今日も二家から使者が来てる」
「条件は?」
「領地と家臣の安堵。それと、リービッヒ軍が来た場合の保護」
「……」
アムルは黙った。
保護。
当然の要求だった。
こちらへ帰順する。
その代わりに守ってほしい。
だが、一家を受け入れるたびに、守らなければならない土地が増える。
兵がいる。
食料がいる。
金がいる。
街道も確保しなければならない。
「……受け入れる」
アムルが言った。
「ただし、自領の兵は維持させる。全部をパドゥーラ軍で守ることはできない」
「うん」
ティーエが記録する。
「それで伝えるよ」
また一つ。
パドゥーラの支配圏が広がった。
◇
増えたのは、領土だけではない。
パドゥーラそのものが、もう以前の規模ではなかった。
伯爵領でもない。
侯爵領ですらない。
まして。
アムル、ティーエ、ロックたち数人が顔を突き合わせて、何とか回せるような土地ではなくなっていた。
「次に、人事を決める」
アムルが言った。
室内に集まっていた者たちが顔を上げる。
「ティーエ」
「うん」
「主計局長を解く」
ティーエは驚かなかった。
ただ、続きを待つ。
「主席宰相に任ずる」
しばらく沈黙があった。
主計局長とは違う。
財政だけを見ていればいい立場ではない。
行政。
人事。
帰順した領主たちとの調整。
外交。
そして、各部局の統括。
パドゥーラという国の政務全体を預かる。
それが主席宰相だった。
「……分かった」
ティーエは答えた。
「頼む」
「うん」
それだけだった。
だが、意味は重い。
これからは、誰か一人の補佐をしていれば済むわけではない。
アムルがいなくても。
ティーエ自身が、国のために判断しなければならない。
主席宰相として。
アムルは次にホウアンを見る。
「ホウアン」
「はい」
「参謀長に任ずる」
「承知しました」
これまでにも、ホウアンは実質的に軍略や情報の取りまとめを担ってきた。
それを正式に軍制の中へ組み込む。
ホウアンも、それ以上の言葉は口にしなかった。
「コンラート」
「うむ」
「正式にパドゥーラ軍へ任用する。パドゥーラ城守備隊司令官を頼む」
「承知した」
コンラートは静かに頷いた。
「城内の兵については、こちらで編成を見直しておこう」
「頼む」
北部派の歴戦の将軍。
かつてはパドゥーラとは別の場所に立っていた男に、今度はパドゥーラの中枢そのものを預ける。
それを問題にする者は、もう誰もいなかった。
「ロック」
「ああ」
「将軍格に任ずる」
「……俺を?」
「嫌か?」
「いや」
ロックは少しだけ笑った。
「今さら断れんだろ」
「じゃあ決まり」
「軽いな、おい」
久しぶりに、ほんの少しだけ以前のアムルらしい返しがあった。
だが。
すぐに表情は戻った。
「エヴァンスもだ」
「ああ」
エヴァンスも頷いた。
これまで二人は、アムルの下で何度も兵を率いてきた。
だが、これからは違う。
アムルから一部隊を預かるだけではない。
一つの戦線を預かる。
必要なら、アムルがいなくても決断する。
兵を進める。
退かせる。
戦う。
そして。
その結果に、自分自身で責任を負う。
誰も、いつまでもアムルの判断を待ってはいられない。
パドゥーラは。
そこまで大きくなっていた。
◇
会議は続いた。
軍制。
行政。
帰順領主への対応。
ライプニッツとコスタへの官吏派遣。
戦死者遺族への補償。
負傷兵への手当て。
農地。
倉庫。
ラレドへの補給。
セイレンとの連絡。
一つ片付けば、次が出る。
そのすべてに、アムルは目を通した。
必要なものは承認する。
不要なものは退ける。
判断が必要なものは、その場で決める。
パドゥーラ侯として。
誰も。
今のアムルを怠惰だとは言わなかった。
以前より、はるかに働いている。
以前より、はるかに真面目だった。
仕事を後回しにすることもない。
釣りへ逃げることもない。
くだらない冗談を言って、ティーエに怒られることもなくなった。
だからこそ。
ロックやティーエには分かっていた。
これは。
以前のアムルではない。
◇
すべてが終わる頃には、日が暮れていた。
皆が部屋を出たあとも、アムルだけは残っている。
机上には、まだ書類があった。
ライプニッツ。
コスタ。
ラレド。
帰順した諸侯。
新しい軍制。
新しい官職。
パドゥーラは、大きくなった。
守るためだった。
最初から。
それだけだった。
パドゥーラを守る。
そのために戦った。
すると、ライプニッツを守ることになった。
コスタも守ることになった。
今度はラレドが加わった。
さらに、その周囲の領主たちまで助けを求めてきた。
守るものが増える。
そのために兵を増やす。
兵が増えれば、リービッヒから警戒される。
警戒されれば。
また軍が来る。
アムルは、一枚の報告書を手に取った。
ラレド方面。
リービッヒ軍、再編の兆候あり。
敵が。
また来る。
「……」
誰が来るのか。
まだ報告にはない。
アムルは、それを尋ねようとはしなかった。
紙を机へ戻す。
「ラレドを守る」
小さく呟いた。
それが。
パドゥーラ侯の役目だった。
◇
夜。
パドゥーラの酒場。
ロックとエヴァンスは、向かい合って酒を飲んでいた。
戦勝を祝うような騒がしさはない。
町は少しずつ平静を取り戻している。
だが。
これで戦争が終わったと思っている者は、ほとんどいなかった。
二人もしばらく黙ったまま、酒を飲んでいた。
「……まさかな」
やがて、ロックが口を開いた。
「エルが来るとはな」
「ああ」
エヴァンスが答える。
「拘束を解かれたとは聞いていた」
ロックは杯の中を見る。
「それが本当だったのは……良かったんだがな」
「ああ」
生きていた。
拘束も解かれていた。
そのこと自体は、良かった。
あの日、パドゥーラを去ったエルが生きている。
それだけなら。
喜べた。
だが。
再び現れたエルは、リービッヒ軍を率いていた。
パドゥーラを攻めるために。
「俺はな」
ロックが言った。
「あの時、もっと強く止めておくべきだったと思ってる」
エヴァンスは黙っていた。
「エルを?」
「ああ」
ロックは頷いた。
「止められたかどうかは分からん」
あの時のエルは、もう決めていた。
何を言っても、止まらなかったかもしれない。
「それでもだ」
ロックは酒を飲んだ。
「俺はあいつに言った」
エヴァンスが目を向ける。
「どうやっても、あんたは持っている側の人間だってな」
「……ああ」
「今になって思うよ」
ロックは杯を置いた。
「あいつは馬鹿じゃない」
低い声だった。
「そんなこと、自分で分かってたはずなんだ」
自分が何を持っているのか。
どういう家に生まれたのか。
誰から愛されているのか。
どれだけ多くの人間から守られてきたのか。
エルが分からないはずがない。
「分かってて、苦しんでたんだ」
「……」
「俺は、分かってる奴に向かって、まるで何も分かってないみたいなことを言った」
ロックは目を伏せる。
「何を偉そうに言ってたんだろうな」
エヴァンスは慰めなかった。
そんな言葉で済む話ではない。
「止めるどころか」
ロックは続けた。
「背中を押したのかもしれん」
「ロック」
「俺一人の責任だとは思ってない」
ロックは遮った。
「そんな話じゃない」
「……」
「エルが悪くないって言いたいわけでもない。あいつが自分で決めたことだ。それくらい分かってる」
ロックは指先で杯を回した。
「ただな」
小さく息を吐く。
「俺たちも、あいつらに甘えてたんじゃないかって思うんだ」
「……甘えてた?」
「ああ」
ロックはエヴァンスを見る。
「俺も、お前も、ティーエも」
少し間を置いた。
「みんな、どこかで思ってたんだろうな」
「何を」
「アムルなら何とかする」
エヴァンスは黙った。
「エルなら分かる」
さらに続ける。
「二人なら大丈夫だ」
南北戦争でも。
コスタでも。
いくつもの危機があった。
それでも最後には何とかなった。
アムルが考え。
エルが支え。
二人で乗り越えてきた。
いつの間にか。
それが当たり前になっていた。
「当たり前なわけがなかった」
ロックが言った。
今回の戦争で見た。
敵軍を率いるエル。
そして今。
パドゥーラ侯として、朝から晩まで黙々と書類に署名し続けるアムル。
二人とも生きている。
だが。
以前の二人ではなかった。
「今日、俺たちは将軍になった」
ロックが言った。
「ティーエは主席宰相。ホウアンは参謀長。シェ=ウィンクは北部兵団を背負う。コンラートのじいさんは、この城を守る」
「ああ」
「だったら」
ロックは杯を置いた。
「俺たちも変わらないとな」
エヴァンスがロックを見る。
「いつまでも、あいつ一人に全部決めさせるわけにはいかん」
しばらくして。
エヴァンスが頷いた。
「ああ」
短い。
だが。
その返事は強かった。
ロックはもう一度、杯を傾ける。
「……また来ると思うか」
誰とは言わなかった。
エヴァンスにも、聞き返す必要はなかった。
「来るだろう」
「そうか」
「あいつがリービッヒの将である限りはな」
「……そうだな」
ロックは目を伏せた。
今度こそ。
同じことを繰り返してはいけない。
「誰か一人に、全部背負わせるのはやめんとな」
エヴァンスは答えなかった。
ただ静かに、杯を傾けた。
外では夜風が吹いていた。
戦争は終わっていない。
パドゥーラも。
アムルも。
もう、以前と同じではない。
それでも。
次の戦いへ進まなければならなかった。




