第6話 父親として
翌日。
王宮からの使者が、モンド=ドゥットゥカースのもとを訪れた。
「出仕命令です」
「……出仕か」
モンドは差し出された書状を受け取った。
二年ぶりだった。
276年11月。
トーマの死を受け、モンドは軍務から外された。
蟄居。
そう呼ばれてはいたが、厳重に屋敷へ閉じ込められていたわけではない。
軍務から遠ざけられ、表立った政治活動を制限された。
実態としては、半ば引退に近かった。
皮肉なことに、その二年間が身体には良かった。
長く患っていた身体も、以前よりは持ち直している。
五十歳。
若い頃のような無理は利かない。
それでも、二年前より体調は良かった。
「ラレドだろうな」
モンドは書状を閉じ、立ち上がった。
◇
リブロフ王宮。
案内された部屋には、すでに一人の男が待っていた。
「久しぶりだね」
「ヴァン」
四十八歳になった旧友だった。
モンドの顔を見たヴァンが、少し目を細める。
「君は少し顔色が良くなったね」
「二年も戦場から離れていればな」
「やはり休養は大事だよ」
「好きで休んでいたわけではない」
「身体には良かっただろう?」
「……それは否定せん」
そこまで話したところで、扉が開いた。
オーウェンが入ってくる。
二人は姿勢を正した。
「陛下の裁可が下りた」
オーウェンは一通の書状を机へ置いた。
「モンド=ドゥットゥカース」
「はい」
「本日をもって蟄居を解く。軍務へ復帰せよ」
「承知いたしました」
「ラレド奪還軍総司令を命じる」
「謹んでお受けいたします」
「ヴァン」
「はい」
「正式に軍師として任用する。モンドを補佐しろ」
「承知しました」
「エル=リージェット、ギルフォードを両名の指揮下へ置く」
その名前に。
モンドの目が、ほんのわずかに動いた。
「現在、戦闘可能な兵力は一万五千」
「目的はラレド奪還ですね」
「ああ」
「パドゥーラ攻略までは?」
「求めん」
オーウェンは即答した。
「ラレドを取り戻せ。それで十分だ」
「軍の編成、配置、運用については」
「任せる」
「承知いたしました」
モンドは頭を下げた。
それから少し間を置く。
「エルについて、何か制限はございますか」
「ない」
「よろしいので?」
「今回の敗戦について、処罰すべき事由は認められなかった。軍人としての能力にも問題はない」
オーウェンはそこで一度言葉を切った。
「ただし、信用については別だ」
「承知しております」
「準備を始めろ」
「はい」
オーウェンはそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
しばらく。
モンドもヴァンも何も言わなかった。
やがて、モンドが息を吐く。
「また、お前と戦場か」
「そうだね」
「十六の頃には、五十になってまでお前と戦争をしているとは思わなかった」
「私はまだ四十八だけどね」
「二つしか違わん」
「二年は大きいよ」
「昔から、そういうところだけ細かいな」
「君が大雑把なんだ」
モンドは鼻で笑った。
二人きりになれば、口調も自然と昔へ戻る。
肩書も。
爵位も。
何もなかった頃。
十六の頃から続いている話し方だった。
「それで」
モンドが椅子へ腰を下ろす。
「エルはどうだ」
ヴァンの表情から笑みが消えた。
「軍人としてなら問題ないよ」
「俺は父親として聞いている」
「分かっている」
ヴァンも向かいへ座った。
「かなり厳しい査問を受けたようだな」
「あの子は素直すぎるからね。辛かっただろうね」
ヴァンは困ったように笑う。
「もう少し私みたいに楽しめると良かったのだけれど」
「お前はやりすぎだ」
「何がだい?」
「査問官が逃げ出したそうじゃないか」
「私としては普通に対応しただけなんだけどね」
「馬鹿を言う。普通に対応して査問官が逃げるか」
「昔のことを少し思い出しただけだよ」
「査問官の過去を査問中に思い出すな」
「偶然だよ」
「お前の偶然ほど信用できんものはない」
「心外だね」
「看守には先生と呼ばれていたそうじゃないか」
「相談されたから答えていただけだよ」
「何の相談だ」
「親権とか、相続とか、土地とか」
「……」
「恋愛とか」
「お前は軟禁されて何をしていたんだ」
「暇だったからね」
「本当に昔から変わらんな」
「君に言われたくはないよ」
モンドは呆れたように笑った。
ほんの少しだけ。
昔の時間が戻った。
だが。
「エルには、お前みたいな図太さはない」
「そうだね」
「あの子は全部まともに受け止める」
「昔からね」
モンドは目を伏せる。
「姿だけなら、シェリーによく似たんだがな」
「本当によく似ている」
「顔も、髪も、目元も」
遠い昔を見るように、モンドが目を細める。
「だが、性格はまるで違う」
「シェリーはもっと物静かだったからね」
「ああ」
慈悲深いところは似ている。
困っている人間を放っておけないところも。
けれど、シェリーはもっと穏やかな女だった。
エルのように、思い立った瞬間に飛び出していくような娘ではない。
「エルは君の狩りについて行きたがったね」
ヴァンが言った。
「シェリーが止めるのに必死だった」
「ああ。朝から弓を持って待っていたことまであった」
「まだ小さかったのにね」
「連れていかんと言えば、一日中不満そうな顔をしていた」
モンドの口元が、わずかに緩む。
「家でシェリーの手伝いでもすればいいものを、家事はまったくやらなかったな」
「その横で、アムルはいつもシェリーの料理を手伝っていた」
「あいつは昔から、妙なところでまめだった」
「料理を覚えるのも早かった」
「家事だけなら、エルよりよほど役に立ったな」
「それをエルに言ったら怒るよ」
「昔も怒った」
二人が小さく笑う。
「本当に、誰に似たのやら」
モンドが呟いた。
ヴァンがじっとこちらを見る。
「……何だ」
「何も」
「俺を見るな」
「何も言っていないよ」
「顔が言っている」
ヴァンは笑った。
「思い込んだら曲げないところは、君によく似ていると思うけどね」
「似ていない」
「人のためなら自分を後回しにするところとか」
「それも違う」
「そもそも、君がこの国へ戻ったのだって、シュデスとの約束を果たすためだろう?」
「……」
「似ているじゃないか」
モンドはしばらく黙った。
「……嫌なところばかり似たものだ」
「いいところでもあるよ」
「本人が苦しまなければな」
笑みが薄れた。
モンドは椅子へ深く腰掛ける。
「軍の道に進ませなければよかったのか」
「そうだねぇ」
「そもそも、お前が家に軍略書なんぞ置くのも悪い」
「私かい?」
「そうだ。あいつら、子どもの頃から暇さえあれば読んでいただろう」
「本に罪はないよ」
「置いた奴にはある」
「随分な言いがかりだね」
「お前が変なものを置かなければ、もう少し普通の子どもになったかもしれん」
「君も地図を広げて、一緒に教えていただろう?」
「……それはそうだが」
「二人とも楽しそうだったよ」
モンドは黙る。
やがて、少しだけ笑った。
「アムルとエルは、子どもの頃から仲が良かった」
「うん」
「いや。あいつを引き取った時から、か」
「アムルに『アムル』という名前をつけたのも、エルだったね」
「ああ」
名前すら持っていなかった少年。
その少年へ。
幼いエルが名前をつけた。
「どちらが姉になるか、兄になるかでもめてね」
「エルは、自分が先に家にいたから姉だと言い張っていた」
「アムルは、自分の方が少し大きいから兄だと」
「結局、少し大きかったアムルを兄ということにした」
「ああ」
「でも、エルは一度もアムルを兄とは呼ばなかったね」
「アムルも、エルを妹とは呼ばなかった」
二人は顔を見合わせた。
「……考えてみれば」
モンドが言った。
「最初から妙だったのかもしれんな」
「そうだね」
「俺たちは兄妹ということにしたが」
「本人たちは、少し違ったのかもしれない」
南北戦争の頃までは。
二人とも、自分たちは兄妹なのだと思おうとしていた。
その関係から外れてはいけない。
互いにそう思っていた。
だから。
自分の中にあるものへ、名前をつけようとしなかった。
「コスタ戦役の後は、もう隠す気もなかったがな」
「恋人だったね」
「ああ」
モンドの顔に苦笑が浮かぶ。
「俺はもっと前から、自然に進んでいけば、あいつは養子から婿養子になると思っていたよ」
「私もそう思っていた」
「あの二人なら、それが一番自然だった」
「随分と遠回りしたけれどね」
「遠回りどころではない」
笑みが消えた。
少しの沈黙が落ちる。
「今のエルは、リボンをつけていないのか」
モンドが聞いた。
「青いリボンかい?」
「ああ」
ヴァンは一拍置いた。
「つけていないよ」
「……そうか」
モンドは目を伏せる。
「あれを最初に贈ったのも、アムルだったな」
「エルが十歳の誕生日だったね」
「ああ」
懐かしむように、少しだけ笑った。
「あいつが急に俺の手伝いを始めてな」
「珍しかったね」
「薪を運ぶ。庭を掃く。買い物にもついてくる」
「ずいぶん真面目だった」
「何を企んでいるのかと思ったら、『少し良いやつを買いたいから駄賃をくれ』だ」
「青いリボンを買うために」
「ああ」
まだ子どもだった。
自分の金など持っていない。
だから働いた。
エルの誕生日に、少しだけ良いものを贈りたかった。
「エルは喜んでいたね」
「随分とな」
「それから、青いリボンをよくつけるようになった」
「ああ」
今は。
ない。
モンドの笑みが消えた。
「そこまで捨てたか」
ヴァンは答えなかった。
少しして。
「今のエルは危ういよ」
静かに言った。
「分かる」
「命令は聞く。判断もできる。兵も率いる。一万五千をまとめて帰還させた」
「軍人としては何の問題もない」
「うん」
「だから危ない」
ヴァンが静かに頷いた。
「昔のあの子なら、もっと怒った」
モンドが言った。
「嫌なら嫌だと言った。納得できなければ聞いた」
「ああ」
「俺にだって、遠慮なく言い返した」
「それは今も昔も、君が言われるだけのことをしていたんじゃないかな」
「今はその話をしていない」
「失礼」
モンドは息を吐く。
「今は?」
「必要なことしか話さない。命令ならやる」
「笑わないか」
「ほとんど」
「怒らない」
「あまり」
「泣かない」
「私の前ではね」
モンドは目を閉じた。
パドゥーラ侵攻。
エルは一度、アムルと敵味方に分かれた。
かつて暮らした場所へ攻め込んだ。
昔の仲間たちと戦った。
そして。
アムルとも戦った。
一度戦ったからこそ。
モンドには分かった。
次は、もっと危ない。
最初の戦いを乗り越えたのではない。
あの子は。
壊れたまま帰ってきただけなのだ。
その状態で。
もう一度、アムルと戦わせる。
「今のエルなら、戦えるだろう」
「戦うよ」
「アムル相手でも」
「ああ」
モンドは低く息を吐いた。
「そこが一番困る」
戦えないのであれば。
止められる。
命令を拒むならば、軍から外すこともできる。
だが。
今のエルは戦う。
相手が敵なら。
剣を向ける。
それがアムルでも。
「そして、その後のことを考えていない」
モンドが言った。
ヴァンは少し黙った。
「……私も、そう見える」
「軍人としては使いやすい」
命令を守る。
迷わない。
自分の命さえ惜しまない。
「だが、それを立派な軍人とは呼ばん」
モンドの声が低くなる。
「壊れたまま動いているだけだ」
「そうだね」
「ヴァン」
「何だい?」
「お前が付いていて、そこまでになったか」
「耳が痛いね」
「責めているのではない」
「分かっている」
モンドは息を吐いた。
「俺があの子のそばにいたところで、あの子が決めたことを止められたとは思えん」
「たぶんね」
「そういう子だ」
「君に似たんじゃないかい?」
「それは今言うな」
ヴァンがわずかに笑った。
しばらくして。
「アムルはどうしている」
モンドが尋ねた。
「詳しいことまでは分からない。ただ、以前とはかなり違うようだね」
「……そうか」
「気になるかい?」
モンドが顔を上げた。
「当たり前だろう」
少しだけ声が強かった。
「あいつがドゥットゥカースの名を捨てたから何だ」
「……」
「俺との縁を切ったから何だ」
ヴァンは黙って聞いていた。
「あいつが何のためにそうしたのかくらい、俺には分かる」
「君とエルを守るためだね」
「ああ」
王国に背く存在となった。
そのままドゥットゥカースを名乗っていれば。
疑いはモンドにも及ぶ。
エルにも及ぶ。
だから、アムルは切った。
家族が嫌になったからではない。
家族を守るために。
自分から、その家族ではなくなった。
「なら、俺まであいつを息子ではないと思ってどうする」
「そうだね」
「エルは娘だ」
モンドは机上の軍令を見る。
「アムルは息子だ」
形式など。
関係なかった。
「昔から、あの二人は互いがいれば、それでよかった」
「うん」
「兄妹だと言い聞かせていた頃ですら、そうだった」
そして今。
互いへの感情を認めたあとで。
二人は離れた。
敵になった。
それでも。
愛情だけは消えなかった。
「嫌いになったから殺し合っているのなら、まだましだった」
モンドが呟いた。
ヴァンは何も言わない。
「愛したまま殺し合っている」
「……そうだね」
「エルはアムルを斬るだろう」
「ああ」
「アムルも、必要ならエルを斬る」
それも。
否定はできなかった。
「だが」
モンドは少しだけ言葉を探す。
「あいつらは、その先を考えているのか」
ヴァンの返事は遅かった。
「私には、そうは見えない」
「俺にもだ」
アムルはパドゥーラ侯として立っている。
エルは、エルではない何かを装って、リービッヒの将として立っている。
だが。
エルを失った後も。
何事もなかったようにパドゥーラ侯として生き続けるアムルを、モンドには想像できなかった。
アムルを失った後も。
そのまま軍人として生き続けるエルも。
「どちらが勝っても」
モンドが呟く。
「二人とも戻ってこない」
ヴァンは静かに目を伏せた。
「どうにかしてやりたい」
「うん」
「二人ともな」
「ああ」
「だが」
モンドは苦く笑った。
「今の俺には、どうにもできん」
それは。
ラレド奪還軍総司令の言葉ではなかった。
一人の父親の言葉だった。
娘を救いたい。
息子も救いたい。
だが。
自分はリービッヒの将である。
王国を捨てることはできない。
与えられた責任から逃げることもできない。
そして今から。
その息子が率いる軍を破るために。
娘を連れて、戦場へ向かわなければならない。
「行こうか」
ヴァンが言った。
「ああ」
「一万五千を見ないとね」
「そうだな」
モンドは立ち上がった。
二年間、遠ざかっていた戦場へ戻る。
三十年以上前から隣を歩いてきたヴァンが、その横に立つ。
二人で扉へ向かう。
その途中。
モンドが一度だけ足を止めた。
「ヴァン」
「何だい?」
「俺は、間違えたのかな」
「何を?」
「二人を軍人にしたことだ」
ヴァンは少し考えた。
「分からないよ」
「そうか」
「でも」
ヴァンは静かに続けた。
「私たちが何も教えなかったとしても、あの二人なら結局、自分たちで何かを背負ったんじゃないかな」
「……そういう子だったな」
「うん」
モンドは小さく笑った。
「本当に、嫌なところばかり似たものだ」
「誰に?」
「言わせるな」
ヴァンも笑った。
二人は並んで歩き出した。
再び。
戦場へ。
その先には。
モンドが今でも息子だと思っている男がいる。
そして。
その男を愛したまま、剣を向けようとしている娘がいる。
どうすれば。
二人とも連れて帰れるのか。
今はまだ。
モンドにも分からなかった。




