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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第五章 278年の嵐 前編

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第9話 白狼

コンラート

挿絵(By みてみん)


 パドゥーラ市街の北。


 山間へ続く街道を塞ぐように、その砦は築かれていた。


 規模そのものは大きくない。だが左右を険しい山に挟まれているため、攻める側が一度に展開できる兵力には限りがある。


 その小さな砦を、今はリービッヒ軍一万五千が包囲していた。


「それで、回廊はどうなっている」


 陣幕の中。


 机いっぱいに広げられた地図を前に、アンスバッハが尋ねた。


「パドゥーラ回廊方面にも敵兵が残っていると思われます。ただ、正確な兵数は確認できておりません」


「ふん」


 アンスバッハは地図へ目を落とした。


 パドゥーラ市街はすでに落ちた。残っているのは北の砦と、回廊方面へ逃れた残存兵だけである。


「パウロ」


「はい」


「二千を連れて回廊へ向かえ」


 パウロが顔を上げた。


「二千ですか?」


「封鎖するだけでいい。こちらが砦を落とすまで、連中を外へ出すな」


「……承知しました」


 これで北の砦へ向けられる兵は一万三千。


 それでも、この程度の砦を攻略するには十分すぎる兵数に見えた。


「さて」


 アンスバッハが陣幕の外へ目を向けた。


「始めるぞ」


 その時だった。


「おーい!」


 砦の上から声が響いた。


 アンスバッハが眉をひそめる。


「……なんだ?」


「おーい、アンスバッハ!」


 今度は明確に名指しだった。


 城壁の上から、一人の老人がこちらを見下ろしている。頭頂部はすっかり禿げ上がり、残った白髪を後ろへ流した、小柄な老人だった。


 コンラートである。


「久しぶりじゃな!」


「……」


 アンスバッハは目を細めた。


 老人の顔をじっと見つめる。


 そして、その表情が変わった。


「……貴様」


「なんじゃ。忘れたのか?」


「コンラート……?」


「おお。ちゃんと覚えとったか」


 コンラートは嬉しそうに笑った。


 だが、アンスバッハは笑わない。


「なぜ貴様がそこにいる」


「成り行きじゃよ」


「成り行きだと?」


「釣りをしとったら、こうなった」


「……ふざけるな!」


 アンスバッハの怒声が谷間へ響いた。


「かつて北部の白狼と呼ばれた貴様が、なぜパドゥーラの砦などにいる!」


「――え?」


 少し離れた場所にいたティーエが、思わず振り返った。


「北部の……白狼?」


 その異名なら、ティーエも知っていた。


 南北戦争当時、北部軍を率いた将軍。


 名門の出でも、有力貴族の庇護を受けたわけでもない。誰とも徒党を組まず、戦場で積み重ねた実績だけで将軍の地位までのし上がった男である。


 敵の動きを読み、誘い、崩し、気づいた時には逃げ道まで奪われている。


 その老獪な用兵から、北部でその名を知らぬ者はいなかった。


 だが。


 ティーエは目の前の老人を見た。


 アムルから聞いていた話とは、あまりにも違う。


 釣りばかりしている変わった老人。


 魚が釣れたと喜んでは持ってきて、暇さえあれば川へ出ていく。


 ティーエがコンラートについて知っていたのは、その程度だった。


「……コンラートさん?」


「なんじゃ?」


「北部の白狼って……」


「ああ」


 コンラートは頭を掻いた。


「昔、そんな呼ばれ方もしとったな」


「聞いてませんよ!?」


「聞かれんかったからのう」


「そういう問題ですか!?」


 ティーエの声が砦に響いた。


 コンラートはまるで気にした様子もなく、再びアンスバッハを見下ろした。


「それよりお前、元気そうじゃないか」


「貴様……!」


「あれだけライプニッツで失敗しておいて、どの面下げて将軍なんぞやっとるんじゃ?」


 周囲のリービッヒ兵たちがざわついた。


 アンスバッハの顔が引きつる。


「勝敗は兵家の常だ! 貴様とて南北戦争では我らに敗れただろう!」


「わし自身はモンドにすら敗れておらんぞ。まあ、周りが負けたのは認めるが」


「負けたことには変わらん!」


「まあ確かにそうじゃな」


 コンラートが肩をすくめた。


「だが、お前ほどしょっちゅう負けとったら世話ないぞ」


「貴様……!」


「昔と同じじゃな。兵の数だけは立派じゃ」


 砦の内部から笑い声が漏れた。


 アンスバッハのこめかみに青筋が浮かぶ。


「攻めろ!」


 副官が驚いて振り返った。


「しかし、まだ敵の配置が――」


「構わん! あの砦を落とせ!」


 角笛が鳴った。


 盾を並べたリービッヒ兵が、一斉に斜面を登り始める。


 それを見たコンラートは、先ほどまでの笑みを消した。


「……相変わらずじゃのう」


 その瞬間だけ、ティーエには目の前の老人がまるで別人に見えた。


「弓兵、まだ射るな」


 コンラートの声が変わる。


 大声ではない。


 だが、不思議なほどよく通った。


 兵士たちが弓を構える。


「まだじゃ」


 リービッヒ兵が近づいてくる。


 広かった隊列は、砦へ近づくにつれて狭い進入路へ押し込まれていった。


 それでもコンラートは動かない。


「まだ」


 先頭が防壁へ迫る。


 後続が詰まり、隊列の密度がさらに高くなった。


「今じゃ!」


 合図と同時に轟音が響いた。


 斜面の上へ積み上げられていた石と丸太が、一斉に転がり落ちる。


「うわっ!」


「止まれ!」


「後ろがつかえている!」


 狭窄部へ押し込まれていた兵士たちは逃げ場を失った。


「撃て!」


 今度は矢が降った。


「退け!」


「退路を――」


「前が詰まっている!」


 敵兵が混乱する中、コンラートは目の前だけでなく、戦場全体を見ていた。


「左は追うな。そこは逃がせ」


「はい!」


「右だけ押せ。深追いするなよ」


 逃げ道を一つ残す。


 それによって敵兵は完全な潰走にはならず、一方向へ流れていく。


 追えば、さらに討ち取れる。


 だが、追わない。


 兵力の少ない側が、目先の勝ちに欲を出してはいけない。


 やがて敵陣から角笛が鳴った。


 リービッヒ軍が退いていく。


 最初の攻撃は失敗した。


「……」


 コンラートは、撤退していく敵を黙って見つめた。


 勝った。


 だが、それだけだった。


 敵陣には、まだいくらでも兵がいる。


 次の攻撃も、その次も来る。


「さて」


 老人は小さく息を吐いた。


「ここからじゃな」


 ◇


 パドゥーラ侯爵庁舎は、ほとんど無傷で接収された。


 逃げた官吏もいたが、大半は残っている。


 エルは、従順に業務を続ける者を追放しなかった。


「仕事を続けて」


 それだけだった。


 戸籍、食糧、水路、衛生。


 占領したからといって、それらを止める理由はない。行政を止めれば、困るのは市民だった。


 午後になると、エルは市街へ出た。


挿絵(By みてみん)


 護衛にはケントたちがついている。


 歩き慣れた道だった。


 角を曲がれば何があるか知っている。この路地を抜ければどこへ出るのかも、考えるまでもない。


 町並みも、ほとんど変わっていなかった。


 新しい建物がいくつか増え、見覚えのない看板がある。


 それくらいだった。


 それなのに、人だけがいない。


 店の戸は閉ざされ、窓も閉じている。時折、わずかに開いた隙間からこちらを見ている者がいた。


 エルと目が合う。


 すぐに隠れた。


「……」


 エルは何も言わず、歩き続けた。


 声が聞こえた。


「あんなの天使じゃない」


「悪魔だ」


「俺たちの町になんてことを……」


「きっとここにいた時からこうだったんだ……」


「でも、あの人にも事情が――」


「事情があったら何してもいいのかよ」


 全部、聞こえていた。


 それでもエルは歩いた。


 かつて笑顔で自分を迎えてくれた町は、もうそこにはなかった。


 不意に、何かが飛んできた。


 べちゃり、と外套に当たる。


 腐った卵だった。


「貴様!」


 ケントが振り返り、剣の柄へ手をかける。


「やめて」


「しかし、エル様!」


「気にしない」


 エルは外套についた汚れを見た。


 誰が投げたのか探そうともしない。


「行くよ」


「……はい」


 ケントは手を下ろした。


 再び歩く。


 やがて、大きな建物が見えてきた。


 歌劇場だった。


 エルが足を止める。


 中から歌声が聞こえた。


「……」


 知っている声だった。


 ティファ。


 こんな時にも歌っている。


 町が占領され、リービッヒ兵が通りを歩いていても、歌劇場から歌声が聞こえてくる。


「なんだ、こいつら」


 護衛の兵士が顔をしかめた。


「こんな時に歌なんか歌いやがって」


「不謹慎にもほどがある」


「黙らせますか?」


 一人が歌劇場へ向かおうとした。


「駄目」


 エルが止める。


「ですが――」


「元老院から略奪は禁止されている」


「……略奪ではありません」


「勝手に民家や店へ入るのも駄目」


「敵兵が潜んでいるかもしれません」


「証拠がある?」


 エルは歌劇場を見た。


「歌ってるだけでしょ」


 兵士は足を止めた。


「歌くらい、歌わせてなさい」


 エルは歩き出した。


 背後から、ティファの歌が聞こえ続けている。


 聞き慣れた声だった。


 何度も聞いた。


 以前なら、何のためらいもなく中へ入ることができた。


 今は違う。


 自分にはもう、この歌声を聴く権利はない。


 エルは振り返らなかった。


 その時だった。


「エル様!」


 馬蹄の音が響く。


 一騎の伝令が駆けてきた。


 エルの前で馬を止め、転がるように降りる。


「申し上げます!」


「何?」


「西方に軍勢が現れました!」


「どこの軍?」


「旗印から、セイレン、ロスバルトと思われます!」


「……ロスバルト」


「都市同盟軍と思われます!」


 エルは黙った。


 ロスバルト。


 なぜ。


「数は?」


「およそ二千!」


「……そう」


「アンスバッハ将軍にも、すでに報告しております!」


「分かった」


 エルは踵を返した。


「戻る」


 ◇


 北の砦を巡る戦いは、その後も続いた。


 二日目。


 アンスバッハは正面攻撃を避け、斜面側から兵を回した。


 コンラートはそこだけ守備兵を薄く見せ、敵が入り込んだところで側面から叩いた。


 三日目。


 攻城梯子を増やし、一斉に城壁へ取りつかせる。


 コンラートは一部をあえて城壁際まで引きつけ、梯子が集中したところへ石を落とした。


 四日目。


 攻撃は夜明け前から始まった。


 今度こそ奇襲になるはずだった。


 だが砦では、夜通し交代で兵が配置されていた。


 結果は同じだった。


「……あの老狐め」


 陣幕へ戻ったアンスバッハが吐き捨てる。


 正面から押せば引く。


 迂回すれば、すでに待ち構えている。


 守っていると思えば突然兵を出して叩き、追えば退き、退けば追ってこない。


 こちらが何をしようとしているのか、常に一手先を読まれていた。


 それでも、時間だけは確実に過ぎていく。


 五日目。


 また一度リービッヒ軍を退けたあと、砦の中には重い空気が漂っていた。


 戦術で勝っても、兵力差は消えない。


 敵は翌日になれば、また新しい兵を前へ出せる。


 こちらは違う。


 負傷した兵は減ったまま。


 死んだ兵は戻らない。


 城壁も少しずつ削られていた。


 負傷兵が運ばれていく様子を、ティーエは黙って見ていた。


「コンラートさん」


「なんじゃ、坊主」


「……守りきれるでしょうか?」


 コンラートは敵陣を見た。


「分からん」


「……」


「ただ、守りきらんとならん」


 楽観的なことは言わなかった。


 北部の白狼。


 そう呼ばれた男であっても、ないものをあるとは言わない。


「わしは指示は出す」


 コンラートは続けた。


「どこを守るか。どこを捨てるか。いつ兵を下げるか。それを決めるのは、わしの仕事じゃ」


「……」


「だが、兵を叱咤することはできん」


「それは……?」


「坊主。お前の仕事じゃ」


「僕の?」


「そうじゃ」


 コンラートは笑った。


「わしは所詮、よそ者じゃからな」


 ティーエは思わず老人を見る。


 南北戦争で北部軍を率いた名将。


 北部の白狼。


 それでも、この老人は自分をよそ者だと言う。


「そんなわしが『命を懸けろ』と言ったところで、兵は命までは預けん」


「……」


「だが、お前さんは違う」


 コンラートは城壁の兵士たちを見る。


「パドゥーラ侯の親友で、宰相として身を粉にして働いてきた。ここの連中は、それを知っとる」


「僕に、何を言えと?」


「立派なことなんぞ言わんでいい」


 コンラートは答えた。


「お前さんが『アムルは来る』と言えば、それは願望ではなくなる」


「……」


「兵にとって、真実になる」


 ティーエはしばらく黙っていた。


 それから、城壁へ上がった。


 疲れ切った兵士たちがいる。


 傷を負った者。


 包帯を巻いたまま槍を握っている者。


 五日間、戦い続けている。


「ティーエ様?」


 何人かが気づいた。


 ティーエは兵士たちを見た。


 気の利いた言葉など、思いつかなかった。


 だから、そのまま言った。


「必ずアムルは来る!」


 兵士たちが顔を上げる。


「だから、それまで守り切れ!」


 一瞬の沈黙。


 そして。


「おおっ!」


 声が上がった。


「侯爵様が来るぞ!」


「それまで持たせろ!」


「まだ終わってねえ!」


 兵士たちが再び武器を握る。


 コンラートは少し離れた場所から、その光景を見ていた。


「……大したもんじゃ」


 戦術なら教えられる。


 兵の配置もできる。


 敵の動きも読める。


 だが、あれだけは自分にはできない。


 コンラートは敵陣へ視線を戻した。


 勝つ必要はない。


 時間を買えばいい。


 ◇


 同じ日。


 パドゥーラ侯爵庁舎で軍議が開かれた。


「ロスバルト、およそ二千。西方よりパドゥーラ領内へ進入しております」


 報告を聞いたアンスバッハは鼻を鳴らした。


「やはりな」


「やはり?」


 パウロが聞き返す。


「火事場泥棒だ」


 アンスバッハは地図の西側を指した。


「パドゥーラが落ちたと見るや、領地を掠め取りに来たのだろう」


「都市同盟が、そのような理由で兵を出すでしょうか」


「現に出ているではないか」


 アンスバッハは吐き捨てるように言った。


「あの盗人どもを追い返せ」


 そしてエルを見る。


「コク侯軍司令代理。お前が行け」


「……」


 エルは地図へ目を落とした。


「放っておいても、後で取り戻せる」


「何?」


「二千でしょ」


 西方を指す。


「今は北の砦を落とす方が先。取られても後で取り戻せる」


「奴らを好きにさせるな」


「……」


「行け」


「分かったよ」


 エルはあっさりと答えた。


 だが、そのまま続ける。


「それをすると、北の砦への後詰めが減る」


「構わん」


 アンスバッハは即答した。


「砦など、あと一押しだ」


「そうはいきません」


 パウロが口を挟んだ。


「すでに五日です。こちらも損害を出しています。今ここで兵を分ければ――」


「パウロ君」


 エルが遮った。


「しかし、エル様」


「私は総司令の命に従う」


 声に感情はなかった。


「リービッヒに忠誠を誓ったから」


「……」


 エルは部屋の隅へ目を向けた。


「記録官」


「はっ」


「ちゃんと書いておいて」


 記録官が一瞬だけ手を止めた。


「……承知しました」


「エル様?」


 パウロがエルを見る。


「パウロ君こそ、司令官の命令に逆らうのはやめた方がいい」


「……」


 パウロは黙った。


「ただし」


 エルは再び地図を見る。


「一万全部は連れていかない」


 アンスバッハが眉を寄せた。


「何?」


「五千で行く」


「二千の相手に五千か」


「十分」


 エルは平坦に答えた。


「あのくらいなら、たとえ同数でも敵じゃない」


 自慢でもなければ、強がりでもなかった。


 ただ必要な兵数を述べただけだった。


 アンスバッハも、それ以上は何も言わない。


 北の砦への攻撃は継続。


 パウロの二千は回廊を封鎖。


 そしてエルは、コク侯軍五千を率いて西へ向かう。


 軍議は、それで終わった。

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