第2話 ニューアークにて(中)
昼時の学生食堂は混雑していた。
講義を終えた学生たちが一斉に押し寄せ、広い食堂のあちこちから話し声と食器の触れ合う音が聞こえてくる。
リックは空いている席を見つけると、昼食の載った盆を置いた。
パンとスープ、それに肉と野菜を煮込んだ料理。
決して豪華ではないが、学生食堂の値段を考えれば十分だった。
「…………」
席についたリックは、鞄から一通の手紙を取り出した。
差出人はユナ=リズナー。
双子の姉から届いた手紙だった。
定期的に手紙のやり取りはしている。
もっとも、最近の姉はセイレンにじっとしていることの方が少ないらしい。
リックはパンをちぎりながら封を開いた。
『リックへ。
元気にしていますか。
ちゃんと食べていますか。
勉強ばかりして寝不足になっていませんか』
「…………」
冒頭から姉らしかった。
(姉さん、僕はもう二十歳を過ぎてるんだけど……)
そう思いながら続きを読む。
最初の方にはセイレンの近況や、共通の知人たちについての他愛もない話が並んでいた。
やがて内容が仕事の話へ移っていく。
『姉さまは、今度の同盟会議でも新都市同盟構想を提出するつもりです。
前回は予備提案すら通らなかったけれど、今回は前よりもずっと本気みたい。
最近はその準備でずっと忙しそうです』
「…………」
昨日のハサン教授の講義を思い出した。
新都市同盟構想。
拒否権の廃止。
都市間格差の是正。
教授は面白い提案だと言っていた。
そして四月から始まる同盟総会は、面白いことになるかもしれない、と。
(姉さま、頑張ってるんだな……)
さらに読み進める。
『ジャンも忙しくしています。
ロンド商会は新しくサウスウィンドとカーライルに支店を出しました。
この前までヒュッテに進出したって話をしていたのに、今度は二都市同時です。
本人は「今は利益より商圏を広げる方が重要だ」とか言っています。
セントハイムにも支店を出そうとしたみたいだけど、地代が高すぎて諦めました。
「こんなところで商売できるか!」って怒ってました。
セントハイムなんだから仕方ないと思うけど』
「へえ……」
思わず声が漏れた。
ヒュッテ。
サウスウィンド。
カーライル。
少し前まで、ジャンはヒュッテで新しい商品を見つけたという話をしていたはずだった。
それがもう二つも新しい支店を出している。
(すごいな、ジャン……)
ニューアーク大学で主席だった。
それだけでも、この大学へ来てから改めて凄さを実感した。
だが、ジャンはもう大学で学問をしている人間ではない。
今は実際に商会を動かし、都市から都市へ商圏を広げている。
姉さまもそうだ。
ユナもそうだ。
みんな、自分の場所で前へ進んでいる。
自分も頑張らなければならない。
そう思いながら、リックは手紙の続きを読んだ。
『追伸。
またジャンの借金が増えました』
「…………」
リックの手が止まった。
『この前、私が貸したお金もなくなりました。
というか、私のお小遣いまで使い込まれました。
あとで倍にして返すとか言っていましたが……
なんで私の想い人は、こんなにお金遣いが荒いんでしょうか。
リック。
あなたは絶対にこんな大人にならないでください。
金と女には気をつけてね。
姉さんより』
「…………」
しばらく手紙を見つめる。
「何やってるんだよ、ジャン……」
思わず苦笑した。
さっきまで感心していた気持ちを返してほしい。
だが――。
(ユナも大変だな……)
ジャンを想い人だと堂々と手紙に書けるくらいなのだから、そこについてはもう何も言うまい。
それはずいぶんと前から知っていた。
問題は、その想い人である。
ニューアーク大学主席。
現在はロンド商会を率いて各都市へ商圏を広げている。
そして借金王。
ユナの小遣いまで使い込んだらしい。
(……金と女か)
金については分かる。
気をつけよう。
女については――。
「彼女?」
「うわっ!」
突然、耳元で声がした。
リックは思わず身体を引いた。
振り返る。
ジェイがいた。
いつの間に来たのか、リックの肩越しに手紙を覗き込もうとしている。
「何するんだよ!」
「手紙読んでたから」
「だからって後ろから覗くなよ!」
「彼女?」
「違うよ。姉さんからだ」
「へぇ」
ジェイは少し意外そうな顔をした。
「兄弟いたんだ」
「いるよ」
「初めて聞いた」
「言ってないからね」
「どんな人?」
「なんで君に説明しなきゃいけないんだよ」
「いいじゃん。気になるし」
「悪い?」
「悪くないけど」
リックは手紙を畳み、封筒へ戻した。
「それで、何の用?」
「よくぞ聞いてくれました」
「嫌な予感しかしない」
「じゃじゃん!」
ジェイが一枚の紙をリックの目の前へ突き出した。
「…………」
大きな文字が踊っている。
反戦運動への参加を呼びかけるビラだった。
昨日、寮でも。
ハサン教授の講義中にも。
ジェイが必死になって書いていたものの正体を、リックはようやく理解した。
「……これ作ってたの?」
「そう!」
「試験前に?」
「そう!」
「ハサン教授の講義中も?」
「細かいことはいいの!」
「よくないよ」
ジェイは気にする様子もなく、リックの正面の椅子へ座った。
「それでね」
「嫌だ」
「まだ何も言ってない!」
「どうせろくな話じゃないだろ」
「失礼な!」
ジェイはビラを机の上へ置いた。
「リク君にも参加してほしいの」
「嫌だよ」
「即答!?」
「僕はそういう活動をするためにニューアークへ来たんじゃない」
「でもさ」
ジェイは身を乗り出した。
「リク君、傭兵だったんでしょ?」
「…………」
リックの表情が、わずかに変わった。
「戦場にも行ったことあるんだよね?」
「……あるよ」
「だったら――」
ジェイは何の悪意もなく笑った。
「リク君にも、戦場がどんなところなのか話してほしいんだ」
リックは答えなかった。
机の上には、反戦を訴える一枚のビラ。
その向こうでは、ジェイが期待に満ちた目でこちらを見ていた。
「だからさ、リク君にも戦場の悲惨さとか、そういったものを伝えてもらえないかなと思って」
「…………」
「もちろん、ちゃんとお礼はするよ。それに、どうしても今度の弁論大会で勝ちたいんだ」
ジェイは悪びれる様子もなく続けた。
「そうすれば、私みたいなお馬鹿でも政党のお偉いさんから声がかかるかもしれないし――」
ドンッ。
「ひっ」
ジェイの肩が跳ねた。
リックの拳が、机を叩いていた。
食器が小さく音を立てる。
周囲の学生たちが一斉にこちらを見た。
「……リク君?」
「君は現実のことなんて、全然分かっちゃいない」
「え?」
ジェイの顔から笑みが消えた。
「戦場がどんなところか知りたい?」
眼鏡の奥の目が鋭くなる。
「あそこは地獄だよ」
「…………」
「一度でも行ってみれば分かる。人が死ぬ。昨日まで一緒にいた人がいなくなる。町が焼ける。逃げる場所もなくなる」
声が大きくなっている。
分かっていた。
だが、止まらなかった。
「そんなことを知らないから、賛成だ反対だって簡単に言えるんだ」
「わ、私は……」
「弁論大会で勝ちたい?」
リックは吐き捨てるように言った。
「政党のお偉いさんに声をかけてもらいたい?」
「…………」
「そんな子どものお遊びに付き合うために、僕はここに来てるわけじゃないんだ!」
ジェイがのけぞった。
「僕は勉強しにここへ来たんだ。国で待っている人たちのために、君らの起こしている戦争で苦しんでいる人たちのために、もっと色々なことを学ばなきゃいけないんだ!」
周囲が静まり返っている。
「ふざけるな」
「…………」
ジェイは何も言えなかった。
いつもうるさいほど喋る女が、目を丸くしたままリックを見ている。
「……こんな話しかないなら、僕はもう行くよ」
椅子を引く。
「あ……」
そこでようやく、リックも周囲から集まる視線に気づいた。
少しだけ頭が冷えた。
だが、今さら座り直す気にはなれなかった。
鞄を掴む。
「リ、リク君」
後ろからジェイの声が聞こえた。
リックは振り返らなかった。
そのまま学生食堂を出ていった。
「…………」
残されたジェイは、しばらく呆然としていた。
机の上には、自分で作った反戦運動のビラ。
そしてリックが途中まで食べていた昼食が残っている。
「……怒らせちゃった」
ぽつりと呟いた。
「ジェイ」
「なに……」
近くの席から声がした。
同じ学部の女学生が、にやにやしながらこちらを見ている。
「青春ねぇ」
「はぁ!?」
ジェイが顔を上げた。
「な、何が青春よ!」
「だって、あんたが男とあんな大喧嘩するところ初めて見た」
「喧嘩じゃない! 一方的に怒られただけ!」
「なおさら青春じゃない」
「どこがよ!」
別の女学生まで笑いながら割り込んでくる。
「例の彼でしょ?」
「例の彼って何!?」
「一緒に住んでる。あんまり目立たなかったけどよく見たら綺麗な顔してるじゃん」
「リク君とはそんなんじゃないって!」
「あらあら」
「だから違う!」
いつもならここからさらに言い返すところだった。
だが、ジェイは途中で口を閉じた。
「…………」
机の上のビラを見る。
先ほどまで自信満々にリックへ突きつけていた紙だった。
「……でも」
少しだけ肩を落とす。
「今回は、私が悪かったかも」
女友達たちが顔を見合わせた。
「あら」
「珍しい」
「うるさい!」
◇
「はぁ……」
何度目だろう。
リックは机に頬杖をついたまま、またため息をついた。
ハサン研究室。
午後のゼミが終わり、学生の大半はすでに帰っている。
目の前には開いたままの本がある。
先ほどから同じページを一度もめくっていなかった。
(……やりすぎた)
分かっている。
ジェイに悪気などなかった。
あの子はそういう奴だ。
思いついたら一直線。
良くも悪くも裏表がない。
自分が戦場にいたことを知っているから、戦争反対を訴えるために話を聞きたい。
それだけだったのだろう。
それなのに――。
「はぁ……」
「どうしたの?」
「え?」
顔を上げた。
いつの間にか、一人の女性が立っていた。
エルザ女史。
ハサン研究室の助手であり、リックにとっては研究上の相談相手でもある。
両手にはコーヒーカップが一つずつあった。
「ため息なんてついて珍しい」
「……すみません」
「謝ることじゃないでしょう」
エルザは少し笑い、一つをリックの前へ置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
カップを受け取る。
香りを嗅いだだけで、少し気持ちが落ち着いた。
エルザは向かいの椅子へ座った。
「それで?」
「え?」
「何かあったんでしょう?」
「……そんなに分かりますか」
「リック君、分かりやすいもの」
「そうですか……」
リックは困ったように笑った。
しばらく黙ってから、観念する。
「……生まれて初めて、女性に怒鳴りました」
「あら」
「姉さんにも、あんな怒り方をしたことなかったのに」
「なに? 例の彼女と喧嘩でもしたの?」
「彼女じゃありません」
反射的に否定した。
エルザがくすりと笑う。
「ジェイのこと?」
「……ええ」
「やっぱり」
「一方的に僕が怒鳴っただけです」
リックはカップへ視線を落とした。
「そんなつもりで話したわけじゃないと思うんです。ただ……あまりに子どもっぽく感じて、腹が立って」
「リック君が怒鳴ったの?」
「……ええ」
「そうなんだ」
エルザが微笑んだ。
「ふふっ」
「……何かおかしいですか?」
「ごめんなさい」
エルザは口元へ手を添えた。
「若いって素敵だなと思って」
「からかわないでくださいよ……」
「それと、少し安心したの」
「安心?」
「リック君にも、ちゃんと感情をぶつけられる友達ができたんだなって」
「…………」
リックは返事に困った。
「怒ることが正しいとは言わないわ。でも、ずっと冷静でいることだけが大人でもないでしょう?」
「……そういうものですかね」
「さあ?」
エルザは肩をすくめた。
「私は政治学の助手であって、人間関係の専門家じゃないもの」
「なんですか、それ」
思わず笑った。
少しだけ、肩の力が抜ける。
「ただ」
エルザはコーヒーを一口飲んだ。
「悪かったと思っているなら、謝った方がいいんじゃない?」
「……そうですね」
「向こうも案外、同じことを考えてるかもしれないわよ」
「ジェイが?」
「どうかしらね」
エルザは楽しそうに笑った。
「ところで――」
窓の外へ目を向ける。
「もうじき、同盟会議が始まるわね」
「…………」
四月。
ハサン教授が昨日話していた、次の同盟総会。
「はい」
リックは頷いた。
姉さまが、再び新都市同盟構想を提出する。
ユナも動いている。
ジャンも各地を飛び回っている。
自分もここで、もっと学ばなければならない。
「今年は、色々動きそうね」
「……そうですね」
◇
その日の夕方。
リックは寮の自室の前で立ち止まっていた。
「…………」
入りづらい。
自分の部屋なのに。
昼間あれだけ怒鳴っておいて、どんな顔をして入ればいいのか。
(……いや)
謝ろう。
大人げなかった。
それは事実だ。
リックは意を決して扉を開けた。
「ただい――」
「あ」
ジェイがいた。
部屋の中央で立っている。
いつものように騒いではいなかった。
目が合う。
「…………」
「…………」
気まずい。
レンはいない。
こんな時に限っていない。
「リク君」
「ジェイ」
二人が同時に口を開いた。
また黙る。
「…………」
「…………」
そして。
「ごめん」
「ごめんなさい」
二人の声が、綺麗に重なった。
「…………」
「…………」
リックが目を瞬かせる。
ジェイも目を丸くしていた。
「……なんでジェイが謝るの?」
「それ、こっちの台詞なんだけど」
「僕は怒鳴ったから」
「私は無神経だったから」
「…………」
「…………」
また沈黙。
先に吹き出したのはジェイだった。
「何これ」
「……僕にも分からないよ」
リックも苦笑する。
昼間から胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけ消えた。
「まあ……」
ジェイが頭を掻く。
「今日は反戦運動の話しないから」
「今日は?」
「今日は」
「…………」
「明日はするかも」
「やめてよ」
「考えとく」
「絶対やるつもりじゃないか」
いつもの調子だった。
リックはため息をつく。
けれど、昼間までとは少し違うため息だった。
静かだった部屋に、またジェイの声が響き始める。
少し前までなら、迷惑だと思っただけだった。
今も迷惑ではある。
それでも――。
ニューアークへ来て二年半。
勉強するためだけに来たはずのこの街で、どうやら自分は、少し変わった友人を作ってしまったらしい。




