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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第五章 278年の嵐 前編

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第10話 信義

 278年9月20日。


 リービッヒのパドゥーラ侵攻開始から三日目。


 セイレン市長邸宅。


「なんでユマが死ななきゃならないんだよ!!」


 ジャン=ワイズマンの怒声が、部屋の空気を震わせた。


 ユナは、ジャンがこれほど大きな声を出すところを初めて見た。怒鳴った本人も肩で息をし、握りしめた拳を震わせている。


 医師はすでに部屋を出ていた。


 残された言葉だけが、重く沈んでいる。


 ――もって、数週間。


 寝台の上のユマは、以前とは別人のように痩せていた。頬は落ち、肌は青白い。


 刺された傷そのものは塞がりつつある。


 だが、容体は一向に回復しなかった。食事もほとんど取れず、熱も下がらないまま、日に日に体力だけが失われている。


「ジャン。取り乱しすぎ……」


「分かっている!!」


 また大声になった。


「分かってるよ! そんなこと!」


 ジャンは拳を握った。


「でも、もう少しなんだぞ」


「……」


「あと少しなんだ。俺たちが集めた票も増えてる。前とは違う。次なら勝てる。お前がいれば、次は必ず勝てる」


 ユマは黙ってジャンを見ていた。


「そうすれば、新都市同盟構想だって……」


 その先が続かなかった。


 ジャンは俯いた。


 次がある。


 ずっと、そう思っていた。


 一度負けたなら、次に勝てばいい。足りない票は集めればいい。セントハイムに押さえられた都市があるなら、別の都市を切り崩せばいい。


 そのために商会まで作った。


 借金まで増やした。


 全部、次の同盟総会で勝つためだった。


 だが。


 その次に、ユマはいない。


「……馬鹿野郎」


 小さく吐き捨てる。


「勝手に死ぬなよ……」


「勝手ではないよ」


「そういう話じゃねえよ!」


 ユマは少しだけ目を伏せた。


「困ったね……」


「何がだ」


「あんたがそこまで取り乱すとは思っていなかったよ」


「誰のせいだと思ってる」


 その時だった。


 廊下が騒がしくなった。


 何人もの足音が近づき、続いて扉が叩かれる。


「失礼いたします!」


「何です?」


 ユナが振り返った。


 入ってきた兵士は、明らかに慌てていた。


「パドゥーラより急使が到着しております!」


「パドゥーラ?」


 ジャンが顔を上げる。


「はい。至急、ユマ様にお目通りを願いたいと」


「申し訳ないが……」


 ジャンが断ろうとした。


「パドゥーラからの使者と言いましたね」


 寝台から声がした。


 ジャンが振り返る。


「ユマ……」


「すぐに通しなさい」


「だが、お前――」


「通しなさい」

挿絵(By みてみん)


 声は弱い。


 それでも、有無を言わせなかった。


「……分かりました」


 ほどなくして、一人の男が部屋へ入ってきた。


 旅装は泥に汚れ、顔には疲労が浮かんでいる。


 キースだった。


 ユナはその姿を見ただけで、ただ事ではないことを悟った。


 キースも寝台のユマを見て、一瞬言葉を失った。聞いていた以上に容体が悪い。


 だが、今は躊躇している時間すらない。


 深く頭を下げた。


「ユマ=リズナー殿」


「はい」


「パドゥーラより参りました。キースと申します」


「状況を聞かせてください」


「……はい」


 キースは顔を上げた。


「三日前、リービッヒ軍がパドゥーラ領内へ侵攻いたしました」


 ジャンの表情が変わった。


「何?」


「敵軍はチル湖より上陸。パドゥーラ市街は、すでに占領されております」


「市街が……」


 ユナが呟く。


「現在、北の砦にてティーエ様らが抗戦を続けております。また、パドゥーラ西方へ撤退した兵もおります。しかし――」


 キースは唇を噛んだ。


「敵軍の兵力は大きく、このままでは……」


 そこで言葉を切り、深く頭を下げる。


「あなた方と我々が、かつて敵として刃を交えたことは承知しております」


 誰も口を挟まなかった。


「その後も、両者の関係が常に良好であったとは申し上げられません」


 キースの頭が、さらに下がった。


「しかし、恥を忍んでお願い申し上げます」


「……」


「どうか、パドゥーラに援軍を」


 部屋が静まり返った。


 ジャンは何も言えなかった。


 パドゥーラ市街はすでに落ちている。


 北の砦も攻撃を受けている。


 今から軍を集め、そこから進軍する。


 間に合うのか。


 そもそも、セイレンが今すぐ動かせる兵がどれほどいる。


「……ユマ」


 ジャンが寝台を見る。


「困っている人がいれば、助けてあげるのが人間だと私は思います」


 ユマは静かに言った。


「まして、パドゥーラ侯は一昨年の飢饉の際、我々に無償で物資を融通してくれました」


 キースが顔を上げる。


「その後、我々はその恩を裏切りました」


「ユマ……」


「セントハイムから圧力を受けたとはいえ、我々がしたことです」


 一度、息を吸う。


 それだけで胸が苦しい。


「パドゥーラの人々が、あの時のことを許してくれているかは分かりません」


 それでも、ユマは続けた。


「でも今、私たちを頼ってくれています」


「……」


「なら、答えなければいけません」


「待て」


 ジャンが言った。


「気持ちは分かる。でも、軍を出すとなれば話は別だ」


「ジャン」


「セントハイムだって黙ってないかもしれない。それに何より――」


 ジャンはユマを見た。


「今のお前が軍を動かしたら、その後どうする」


「ジャン」


「お前の容体がこんな時に――」


「ジャン」


 三度目で、ジャンは黙った。


「あなたがあの時言ったように、私にもどちらに道理があるかは分かっているつもりです」


「……」


「パドゥーラは、我々が苦しんでいた時に助けてくれました」


 ユマの声は弱い。


 だが、言葉ははっきりしていた。


「セイレン人は、あの時の恩を忘れてはいません」


「……」


「あの時は、セントハイムに屈さざるを得ませんでした」


 ユマは目を閉じた。


「私も、あの時の恥を忘れてはいません」


 再び目を開く。


「今回は、そんなことはさせません」


「だが――」


「ジャン」


 ユマはまっすぐジャンを見る。


「私たちセイレン人は、どちらに道義があるのか分からないほど愚かではありません」


「……」


「私の体調一つで、大切な友人を見捨てるというのなら――」


 ユマが身体を起こそうとした。


「私は今すぐ自刃しま――」


「お前な!」


「ごほっ、ごほっ!」


「姉さま!」


 ユナが駆け寄った。


「ごほっ……ごほっ……!」


「無理しないで!」


「ユマ!」


 ジャンも寝台へ寄る。


 激しく咳き込み、ユマは胸を押さえた。


「はぁ……はぁ……」


「もう喋るな!」


「……嫌です」


「こんな時まで頑固になるな!」


「今……言わないと……」


 荒い呼吸を繰り返す。


 しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いた。


 ユマは隣にいる妹を見た。


「ユナ」


「……はい」


「総司令官は、あなたが務めなさい」


「……え?」


 ユナが固まった。


「私が?」


「そうです」


「待ってください。私が総司令官なんて――」


「何を驚いているのです」


 ユマは静かに妹を見る。


「そのために今まで、私の隣で勉強してきたのでしょう」


「でも……」


「ロスバルトを率いなさい」


「姉さま……」


「大丈夫です」


 何を根拠に。


 ユナはそう言いたかった。


 だが、言えなかった。


 姉の顔を見れば、言えるはずがなかった。


「トウヤを副将につけます」


「トウヤを?」


「ええ。実際の部隊運用は、彼に助けてもらいなさい」


 ユナは小さく頷いた。


「……分かりました」


 ユマは今度はジャンを見る。


「ジャン」


「……なんだよ」


「あなたには、ユナの補佐をお願いします」


「俺が?」


「はい」


 ユマはジャンを見つめた。


「そばにいてあげて」


 ジャンは何も答えなかった。


「私は、あなたたちの能力をよく理解しているつもり」


 ユマは二人を見る。


「引き受けてくれるよね」


 ジャンは唇を噛んだ。


 痩せ細った身体。


 蒼白な顔。


 それでも、こちらを見る目だけはいつものユマだった。


 もう、返せる言葉は一つしかない。


「……分かった」


 ユマの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


挿絵(By みてみん)


「ありがとう」


 小さな声だった。


 そして、キースを見る。


「使者殿」


「はい」


「セイレンは、パドゥーラ侯の友誼に応えます」


「……!」


「以前の過ちは、償えるものではないかもしれません」


 ユマは息を整えた。


「それでも、あの時の恩に報いるため、ただちに軍を発します」


 キースの目が大きく開いた。


「パドゥーラへ伝えてください」


 ユマは言った。


「セイレンは、今度こそあなた方を見捨てません」


「ああ……」


 キースは深く頭を下げた。


「ありがとうございます……!」


 ◇


 ロスバルト。


 出撃できる兵は二千。


 あまりにも少なかった。


 パドゥーラ市街はすでに占領され、北の砦では戦闘が続いている。本格的な動員を待っている時間などなかった。


 集められる兵だけを集める。


 用意できる食糧だけを持つ。


 そして出る。


 それしかない。


 ロスバルトの城門前には、二千の兵が並んでいた。


 その前にユナが立つ。


 すぐ傍らには、副将としてトウヤが控えていた。


 今回の総司令官はユナ。


 実際の部隊運用については、トウヤが補佐する。


 そしてジャンは軍人ではない。ユマから託された役目は、あくまでユナの傍らに立ち、その判断を支えることだった。


 これまでユナは、何度も姉の横に立ってきた。


 軍議にも参加した。


 戦争についても、兵についても学んだ。


 だが。


 自分の命令一つで二千人が動く。


 その重さだけは、何一つ学べていなかったように思えた。


「緊張してるか?」


 隣から声がした。


 ジャンだった。


「……してないように見える?」


「見えないな」


「なら聞かないでよ」


「そうだな」


 ジャンは兵列を見る。


「俺も怖い」


「ジャンも?」


「当たり前だろ。俺は商人だぞ」


「そこ大事?」


「大事だ」


「総司令官」


 トウヤが声をかけた。


「各隊、出撃準備が整いました」


「……分かった」


 ユナは一度息を吐いた。


 そして、前を向く。


 パドゥーラ。


 かつて姉たちを助けてくれた土地。


 そのパドゥーラが、今度は助けを求めている。


「行こう」


 ユナが言った。


「うん?」


「パドゥーラに」


 馬に乗る。


 トウヤも馬へ跨がった。


 キースが先導する。


 ジャンも続こうとして、慣れない手つきで馬の手綱を握った。


 ユナがちらりと見る。


「……大丈夫?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「乗ったことくらいある」


「いつ?」


「……昔」


「ジャン」


「行くぞ」


 誤魔化した。


 城門が開いた。


「全軍!」


 ユナは声を上げた。


「出発!」


「出るぞ!」


 トウヤの号令が各隊へ伝わる。


 角笛が鳴った。


 二千のロスバルト兵が動き始める。


 向かう先はパドゥーラ。


 その先に何が待っているのか。


 この時のユナは、まだ知らなかった。

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