第10話 信義
278年9月20日。
リービッヒのパドゥーラ侵攻開始から三日目。
セイレン市長邸宅。
「なんでユマが死ななきゃならないんだよ!!」
ジャン=ワイズマンの怒声が、部屋の空気を震わせた。
ユナは、ジャンがこれほど大きな声を出すところを初めて見た。怒鳴った本人も肩で息をし、握りしめた拳を震わせている。
医師はすでに部屋を出ていた。
残された言葉だけが、重く沈んでいる。
――もって、数週間。
寝台の上のユマは、以前とは別人のように痩せていた。頬は落ち、肌は青白い。
刺された傷そのものは塞がりつつある。
だが、容体は一向に回復しなかった。食事もほとんど取れず、熱も下がらないまま、日に日に体力だけが失われている。
「ジャン。取り乱しすぎ……」
「分かっている!!」
また大声になった。
「分かってるよ! そんなこと!」
ジャンは拳を握った。
「でも、もう少しなんだぞ」
「……」
「あと少しなんだ。俺たちが集めた票も増えてる。前とは違う。次なら勝てる。お前がいれば、次は必ず勝てる」
ユマは黙ってジャンを見ていた。
「そうすれば、新都市同盟構想だって……」
その先が続かなかった。
ジャンは俯いた。
次がある。
ずっと、そう思っていた。
一度負けたなら、次に勝てばいい。足りない票は集めればいい。セントハイムに押さえられた都市があるなら、別の都市を切り崩せばいい。
そのために商会まで作った。
借金まで増やした。
全部、次の同盟総会で勝つためだった。
だが。
その次に、ユマはいない。
「……馬鹿野郎」
小さく吐き捨てる。
「勝手に死ぬなよ……」
「勝手ではないよ」
「そういう話じゃねえよ!」
ユマは少しだけ目を伏せた。
「困ったね……」
「何がだ」
「あんたがそこまで取り乱すとは思っていなかったよ」
「誰のせいだと思ってる」
その時だった。
廊下が騒がしくなった。
何人もの足音が近づき、続いて扉が叩かれる。
「失礼いたします!」
「何です?」
ユナが振り返った。
入ってきた兵士は、明らかに慌てていた。
「パドゥーラより急使が到着しております!」
「パドゥーラ?」
ジャンが顔を上げる。
「はい。至急、ユマ様にお目通りを願いたいと」
「申し訳ないが……」
ジャンが断ろうとした。
「パドゥーラからの使者と言いましたね」
寝台から声がした。
ジャンが振り返る。
「ユマ……」
「すぐに通しなさい」
「だが、お前――」
「通しなさい」
声は弱い。
それでも、有無を言わせなかった。
「……分かりました」
ほどなくして、一人の男が部屋へ入ってきた。
旅装は泥に汚れ、顔には疲労が浮かんでいる。
キースだった。
ユナはその姿を見ただけで、ただ事ではないことを悟った。
キースも寝台のユマを見て、一瞬言葉を失った。聞いていた以上に容体が悪い。
だが、今は躊躇している時間すらない。
深く頭を下げた。
「ユマ=リズナー殿」
「はい」
「パドゥーラより参りました。キースと申します」
「状況を聞かせてください」
「……はい」
キースは顔を上げた。
「三日前、リービッヒ軍がパドゥーラ領内へ侵攻いたしました」
ジャンの表情が変わった。
「何?」
「敵軍はチル湖より上陸。パドゥーラ市街は、すでに占領されております」
「市街が……」
ユナが呟く。
「現在、北の砦にてティーエ様らが抗戦を続けております。また、パドゥーラ西方へ撤退した兵もおります。しかし――」
キースは唇を噛んだ。
「敵軍の兵力は大きく、このままでは……」
そこで言葉を切り、深く頭を下げる。
「あなた方と我々が、かつて敵として刃を交えたことは承知しております」
誰も口を挟まなかった。
「その後も、両者の関係が常に良好であったとは申し上げられません」
キースの頭が、さらに下がった。
「しかし、恥を忍んでお願い申し上げます」
「……」
「どうか、パドゥーラに援軍を」
部屋が静まり返った。
ジャンは何も言えなかった。
パドゥーラ市街はすでに落ちている。
北の砦も攻撃を受けている。
今から軍を集め、そこから進軍する。
間に合うのか。
そもそも、セイレンが今すぐ動かせる兵がどれほどいる。
「……ユマ」
ジャンが寝台を見る。
「困っている人がいれば、助けてあげるのが人間だと私は思います」
ユマは静かに言った。
「まして、パドゥーラ侯は一昨年の飢饉の際、我々に無償で物資を融通してくれました」
キースが顔を上げる。
「その後、我々はその恩を裏切りました」
「ユマ……」
「セントハイムから圧力を受けたとはいえ、我々がしたことです」
一度、息を吸う。
それだけで胸が苦しい。
「パドゥーラの人々が、あの時のことを許してくれているかは分かりません」
それでも、ユマは続けた。
「でも今、私たちを頼ってくれています」
「……」
「なら、答えなければいけません」
「待て」
ジャンが言った。
「気持ちは分かる。でも、軍を出すとなれば話は別だ」
「ジャン」
「セントハイムだって黙ってないかもしれない。それに何より――」
ジャンはユマを見た。
「今のお前が軍を動かしたら、その後どうする」
「ジャン」
「お前の容体がこんな時に――」
「ジャン」
三度目で、ジャンは黙った。
「あなたがあの時言ったように、私にもどちらに道理があるかは分かっているつもりです」
「……」
「パドゥーラは、我々が苦しんでいた時に助けてくれました」
ユマの声は弱い。
だが、言葉ははっきりしていた。
「セイレン人は、あの時の恩を忘れてはいません」
「……」
「あの時は、セントハイムに屈さざるを得ませんでした」
ユマは目を閉じた。
「私も、あの時の恥を忘れてはいません」
再び目を開く。
「今回は、そんなことはさせません」
「だが――」
「ジャン」
ユマはまっすぐジャンを見る。
「私たちセイレン人は、どちらに道義があるのか分からないほど愚かではありません」
「……」
「私の体調一つで、大切な友人を見捨てるというのなら――」
ユマが身体を起こそうとした。
「私は今すぐ自刃しま――」
「お前な!」
「ごほっ、ごほっ!」
「姉さま!」
ユナが駆け寄った。
「ごほっ……ごほっ……!」
「無理しないで!」
「ユマ!」
ジャンも寝台へ寄る。
激しく咳き込み、ユマは胸を押さえた。
「はぁ……はぁ……」
「もう喋るな!」
「……嫌です」
「こんな時まで頑固になるな!」
「今……言わないと……」
荒い呼吸を繰り返す。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いた。
ユマは隣にいる妹を見た。
「ユナ」
「……はい」
「総司令官は、あなたが務めなさい」
「……え?」
ユナが固まった。
「私が?」
「そうです」
「待ってください。私が総司令官なんて――」
「何を驚いているのです」
ユマは静かに妹を見る。
「そのために今まで、私の隣で勉強してきたのでしょう」
「でも……」
「ロスバルトを率いなさい」
「姉さま……」
「大丈夫です」
何を根拠に。
ユナはそう言いたかった。
だが、言えなかった。
姉の顔を見れば、言えるはずがなかった。
「トウヤを副将につけます」
「トウヤを?」
「ええ。実際の部隊運用は、彼に助けてもらいなさい」
ユナは小さく頷いた。
「……分かりました」
ユマは今度はジャンを見る。
「ジャン」
「……なんだよ」
「あなたには、ユナの補佐をお願いします」
「俺が?」
「はい」
ユマはジャンを見つめた。
「そばにいてあげて」
ジャンは何も答えなかった。
「私は、あなたたちの能力をよく理解しているつもり」
ユマは二人を見る。
「引き受けてくれるよね」
ジャンは唇を噛んだ。
痩せ細った身体。
蒼白な顔。
それでも、こちらを見る目だけはいつものユマだった。
もう、返せる言葉は一つしかない。
「……分かった」
ユマの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ありがとう」
小さな声だった。
そして、キースを見る。
「使者殿」
「はい」
「セイレンは、パドゥーラ侯の友誼に応えます」
「……!」
「以前の過ちは、償えるものではないかもしれません」
ユマは息を整えた。
「それでも、あの時の恩に報いるため、ただちに軍を発します」
キースの目が大きく開いた。
「パドゥーラへ伝えてください」
ユマは言った。
「セイレンは、今度こそあなた方を見捨てません」
「ああ……」
キースは深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
◇
ロスバルト。
出撃できる兵は二千。
あまりにも少なかった。
パドゥーラ市街はすでに占領され、北の砦では戦闘が続いている。本格的な動員を待っている時間などなかった。
集められる兵だけを集める。
用意できる食糧だけを持つ。
そして出る。
それしかない。
ロスバルトの城門前には、二千の兵が並んでいた。
その前にユナが立つ。
すぐ傍らには、副将としてトウヤが控えていた。
今回の総司令官はユナ。
実際の部隊運用については、トウヤが補佐する。
そしてジャンは軍人ではない。ユマから託された役目は、あくまでユナの傍らに立ち、その判断を支えることだった。
これまでユナは、何度も姉の横に立ってきた。
軍議にも参加した。
戦争についても、兵についても学んだ。
だが。
自分の命令一つで二千人が動く。
その重さだけは、何一つ学べていなかったように思えた。
「緊張してるか?」
隣から声がした。
ジャンだった。
「……してないように見える?」
「見えないな」
「なら聞かないでよ」
「そうだな」
ジャンは兵列を見る。
「俺も怖い」
「ジャンも?」
「当たり前だろ。俺は商人だぞ」
「そこ大事?」
「大事だ」
「総司令官」
トウヤが声をかけた。
「各隊、出撃準備が整いました」
「……分かった」
ユナは一度息を吐いた。
そして、前を向く。
パドゥーラ。
かつて姉たちを助けてくれた土地。
そのパドゥーラが、今度は助けを求めている。
「行こう」
ユナが言った。
「うん?」
「パドゥーラに」
馬に乗る。
トウヤも馬へ跨がった。
キースが先導する。
ジャンも続こうとして、慣れない手つきで馬の手綱を握った。
ユナがちらりと見る。
「……大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「乗ったことくらいある」
「いつ?」
「……昔」
「ジャン」
「行くぞ」
誤魔化した。
城門が開いた。
「全軍!」
ユナは声を上げた。
「出発!」
「出るぞ!」
トウヤの号令が各隊へ伝わる。
角笛が鳴った。
二千のロスバルト兵が動き始める。
向かう先はパドゥーラ。
その先に何が待っているのか。
この時のユナは、まだ知らなかった。




