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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第五章 278年の嵐 前編

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第7話 そして風が吹く

 278年6月。


 レミーラ帝国首都、ルルーシュ。


 帝国宰相府の一角で、ルートビッヒ=ハイマンは積み上げられた書類に目を通していた。


「閣下。マリー様からです」


 副官のホフマンが、一通の書簡を差し出した。


「マリーから?」


 ルートビッヒは書類から顔を上げ、その手紙を受け取ると封を切った。


 マリー=フォン=ケルン。


 ケルン公爵令嬢にして、ルートビッヒがもっとも信頼を置く側近の一人である。


 先の皇位継承戦争において、ルートビッヒは東部辺境軍の主力である鉄騎兵を率いて介入した。支持したのは、皇位継承候補の中でももっとも弱いと目されていたフィリップ=ハイマンだった。


 そして勝った。


 フィリップは帝位につき、ルートビッヒもまた、その功績によって皇籍への復帰を認められた。


 現在の役職は帝国次席宰相兼東部辺境軍司令。鉄騎兵も東部へは戻らず、ルートビッヒ直属の軍として帝都ルルーシュに駐留している。


 そのため現在、東部辺境軍の現地指揮は司令代理のハイファに委ねられていた。


「……なるほど」


 手紙を読み進めていたルートビッヒが呟いた。


「何か?」


「リービッヒで混乱が起きているらしい」


 ホフマンの表情がわずかに変わる。


「マリー様からの情報ですか」


「ああ。しかし相変わらず馬鹿な国だ。我々が帝都でこうしている間に、少しは真面目に政治に取り組めばよいものを」


 呆れたように言いながら、ルートビッヒは再び書簡へ目を落とした。


 マリーがそう書いている以上、リービッヒ国内で何らかの混乱が起きていること自体を疑う必要はない。


 問題は、その先だった。


 混乱するリービッヒに対して、帝国がどこまで手を伸ばすべきなのか。


 書簡の後半を読む限り、マリーも全面侵攻を求めているわけではなかった。彼女が提案しているのは、リービッヒ国内の混乱が軍事面にどこまで及んでいるのか、それを確かめるための限定的な軍事行動だった。


「ホフマン」


「はい」


「どう見る?」


「今、新たな戦争を始める必要はないかと」


「俺も同意見だ」


 ルートビッヒは手紙を机へ置いた。


 皇位継承戦争が終わったばかりである。フィリップを帝位につけることには成功したものの、帝国中央の整理はまだ完全には終わっていない。


 ルートビッヒ自身も次席宰相として帝都を離れられず、切り札である鉄騎兵までルルーシュに留めている。その状態で新たな大戦を始める理由などなかった。


 リービッヒが勝手に混乱しているのなら、なおさらである。


 だが、その混乱がどの程度なのかを知る価値はある。


「少し揺さぶってみるか」


「威力偵察ですか」


「ああ。こちらが国境を越えた時、誰が出てくるのか。どれほどの兵を、どの程度の速さで集めるのか。それを見るだけでも今のリービッヒの状態は分かる」


 ルートビッヒは椅子へ背を預けた。


「ハイファに伝えろ。紅竜騎兵によるライプニッツ方面への威力偵察を許可する」


「承知しました」


「ただし深入りはするな。本格的な戦争を始める気はない。相手の反応を見るだけでいい」


「そのように伝えます」


 ホフマンが一礼する。


 ルートビッヒはもう一度、マリーの手紙へ目を落とした。


 リービッヒ国内に混乱あり。


 それが本当なら、少し突けば何かが出てくる。


 ならば、それを見ればいい。


 この時のルートビッヒにとっては、それだけの話だった。


 ◇


 278年8月。


 レミーラ帝国東部辺境軍が動いた。


 ハイファ率いる紅竜騎兵を中心とした部隊が国境を越え、ライプニッツ方面へ侵入したのである。


 だが、攻めない。


 村を焼くこともなければ、城を落とそうとする様子もない。街道沿いへ姿を現しては退き、パドゥーラ側が兵を出せば一定の距離を保ちながら後退する。


 あくまで威力偵察だった。


 パドゥーラがどのように反応するのかを確かめ、それによって現在のリービッヒ北部の防衛能力を測る。それがハイファに与えられた任務である。


 しかし、パドゥーラ側からすれば放置できる相手ではなかった。


 紅竜騎兵。


 その名には、まだ第三次コスタ戦役の記憶が色濃く残っている。


 ライプニッツ方面へ現れたレミーラ軍に対し、パドゥーラ侯アムルは本軍を率いて北上した。


 それと呼応して、ライプニッツ・コスタ方面の守備を担うジョン=ブランの北方師団も動く。本軍と北方師団はコスタ平原周辺で合流し、レミーラ軍の南下に備えた。


 だが、戦いは始まらなかった。


 アムルが近づけば、レミーラ軍は退く。追撃を止めれば再び現れ、街道や水場へ小規模な騎兵隊を送り込んでくる。


 無理に追えば、その先に何が待っているのか分からない。


 アムルは第三次コスタ戦役で、レミーラ軍の強さを知っていた。


 紅竜騎兵。


 鉄騎兵。


 そして、ルートビッヒ。


 いずれも一度の判断ミスで軍そのものを壊滅させかねない相手だった。


 特に今回は、鉄騎兵の姿が見えない。


 主力は帝都にいるという情報も入っている。だが、その情報だけを信じて警戒を解くほど、アムルはレミーラ軍を甘く見てはいなかった。


 迂闊には動けない。


 一方、レミーラ軍にも決戦する理由はなかった。


 命令は威力偵察である。こちらが姿を見せたことでパドゥーラ本軍だけでなく北方師団まで動いたのなら、それだけでも十分な成果だった。


 結果として、両軍はコスタ平原を挟んで睨み合うことになった。


 一日が過ぎた。


 三日が過ぎた。


 さらに一週間。


 レミーラ軍は帰らず、パドゥーラ軍もまた本国へ戻れない。


 睨み合いは、そのまま長期化していった。


 ◇


 9月5日。


 エルは窓辺に立っていた。


 まだ夏の暑さを残した空気が部屋へ入り込み、短くなった銀色の髪をわずかに揺らしている。


 机の上には地図が広げられていた。


 パドゥーラ、ライプニッツ、コスタ平原。街道、山地、チル湖、そして現在までに確認されている両軍の配置。


 何度も見た地図だった。


 配置も距離も、ほとんど頭に入っている。それでもエルは報告書を読み、地図を確かめ、また次の報告書へ目を通した。


 パドゥーラ侯はコスタ平原。


 パドゥーラ本軍も、レミーラ軍への対応のため北へ出ている。さらに北方師団もコスタ方面へ展開していた。


 条件は整いつつある。


 だが、まだ一つ足りない。


「……まだ」


 エルは窓の外を見た。


 木々は揺れている。


 風は吹いていた。


 だが、待っている風ではない。


 エルはしばらく外を見つめてから、静かに窓を閉じた。


 ◇


 9月10日。


 五日が過ぎた。


 コスタ平原の状況は、ほとんど変わっていない。


 紅竜騎兵は退かず、パドゥーラ本軍と北方師団もまた持ち場を離れない。


 報告書を読み終えたエルは、それを机へ置いた。傍らにはヴァンがいる。


「パドゥーラ侯は?」


「まだコスタ平原だね。北方師団も同じだ。レミーラ側も大きく動いていないから、しばらくはこの状態が続くだろう」


「そう」


 エルは地図へ視線を落とした。


 パドゥーラ周辺に残された兵力、各街道の状況、予定している進軍路。それらを一つずつ確認していく。


 レミーラが実際に動いたのは、こちらにとって都合がよかった。


 もっとも、それだけにすべてを賭けていたわけではない。


 情報を流してもレミーラが動かなければ、別の陽動策を用意するつもりだった。必要なのは、パドゥーラ本軍を本拠から引き離すこと。それだけである。


 今回は、流した情報を受け取ったレミーラが自ら動いた。


 こちらが決められるのは、相手へ何を見せるかまでだ。


 その情報を受け取って相手がどう判断するかまでは決められない。


 だが、動くのであれば利用する。


 動かなければ、別の手を使う。


 作戦とはそういうものだった。


「まだ?」


 ヴァンが尋ねた。


「まだ」


 エルは短く答えた。


 ヴァンも、それ以上は何も言わない。


 エルは窓を開けた。


 風が部屋へ流れ込み、頬を撫でながら短い銀髪を揺らす。


 しばらくその強さを確かめるように立っていたが、やがて小さく首を横へ振った。


「……まだ吹かない」


 ◇


 9月14日。


 早朝。


 夜が明けようとしていた。


 エルはすでに起きており、机の上には夜のうちに届いた報告書が並べられていた。


 コスタ平原。


 ライプニッツ。


 パドゥーラ。


 街道の状況。


 残存兵力。


 一枚ずつ確認し、最後の報告書を置く。


 状況に大きな変化はない。


 パドゥーラ侯は、まだ北にいる。


 北方師団もコスタ方面を離れていない。


 エルは椅子から立ち上がり、窓へ向かった。


 窓を開く。


 冷たい朝の空気が、一気に部屋へ流れ込んだ。


 その瞬間だった。


 強い風が吹いた。


 短い銀髪が大きく揺れ、机の上に置かれていた報告書が一枚、床へ舞い落ちる。


 エルは動かなかった。


 東の空が白み始めている。


 吹き込んでくる風を頬に受けながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。


「……吹いた」


 小さな声だった。


 振り返る。


「先生」


「うん」


「始める」


 ヴァンは静かにエルを見た。


「いいのかい?」


「うん」


 それだけだった。


 エルは部屋を出た。


 廊下には、すでに兵士たちが待機している。


「全軍に伝えて」


 兵士が姿勢を正した。


「出撃する」


「はっ!」


 伝令が走り出した。


 ほどなくして、静かだった朝が軍の音へ変わっていく。


 馬が引き出され、武具を身につけた兵士たちが持ち場へ集まり、各隊の旗が次々と掲げられる。西岸で待機していた船団にも、出撃命令が伝えられていった。


 エルはその様子をしばらく見たあと、一度だけ自室へ戻った。


 机へ向かい、引き出しを開ける。


 日記帳を取り出した。


 頁を開き、ペンを握る。


 しばらく何も書けなかった。


 やがて、ゆっくりと文字を記していく。


 九月十四日。


 ようやく風が吹いた。


 これで全部、予定通り。


 そこで手が止まった。


 エルは、自分の書いた文字を見つめた。


 すべて予定通りだった。


 情報は流れた。


 レミーラは動いた。


 パドゥーラ本軍も北方師団も、本国から離れた。


 船も兵も物資も、西岸へ集め終えている。


 そして今日、待っていた西風が吹いた。


 作戦上の条件は、すべて揃った。


 それなのに、最後の一行だけが書けなかった。


 エルの手が、無意識に胸元へ伸びた。


 服の上から、そこにあるものを握る。


 指輪だった。


 パドゥーラ侵攻作戦が認められてから、何度も捨てようとした。


 もう必要ない。


 持っていてはいけない。


 そう思い、何度も外へ持ち出した。


 それでも、捨てることだけはできなかった。


 左手につけておくことなど、できるはずもない。


 だから鎖に通した。


 誰にも見えないよう、服の下へ隠した。


 今もそこにある。


 エルは服越しに指輪を強く握った。


 あの人が今、どこにいるのかは分かっている。


 コスタ平原。


 レミーラ軍と睨み合っている。


 自分が流した情報がきっかけとなって。


 自分が立てた作戦によって、本国から引き離されている。


 ここまで全部、自分で決めた。


 自分で考え、自分で準備し、自分で命令を出した。


 もう誰かのせいにはできない。


 エルはゆっくりと指輪から手を離した。


 表情は変わらない。


 もう一度、ペンを握る。


 そして最後に、一行だけ書いた。


 『これから私は、あの人を殺しに行く。』

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