第6話 侵攻計画
「敵襲だぁぁぁぁっ!!」
絶叫が、パドゥーラ城の西城壁を駆け抜けた。
278年9月。
その日は朝からひどく風が強く、チル湖の湖面には白い波頭が立っていた。西城壁に掲げられた旗も、千切れそうなほど激しくはためいている。
「どうした!?」
「湖だ! 西を見ろ!」
兵士たちが一斉に城壁の向こうへ目を向けた。
広大なチル湖。その西の湖面に、黒い影が浮かんでいる。
「……船?」
一隻、二隻、三隻。
それだけではない。
その後ろからさらに船影が現れ、強い西風を受けて帆を大きく膨らませながら、驚くほどの速度で湖面を走ってくる。
「なんだ……あれ……」
十や二十ではなかった。
その後ろにもいる。さらにその後ろにも。
西の湖面を埋め尽くすように、無数の船影が次々と姿を現していた。
「鐘を鳴らせ!」
「急げ!」
「敵襲! 敵襲だぁぁぁっ!!」
警鐘が鳴り響き、兵士たちが走り始める。伝令は城壁の階段を駆け下り、静かだったパドゥーラ城は一瞬にして騒然となった。
誰も知らなかった。
なぜ、これほどの船団が西から現れたのか。
そして、なぜこの日だったのか。
◇ ◇ ◇
1年前。
「……難しい」
エル=リージェットは、机いっぱいに広げられた地図を見つめていた。向かいに座るヴァンは何も言わず、その横顔を見ている。
この二か月、何度となく繰り返された言葉だった。
元老院が決定したパドゥーラ侵攻。投入できる兵力はおよそ二万、作戦期間は三十日以内。
それだけでも、パドゥーラを相手にするには十分すぎるほど厳しい条件だった。
だが、エルとヴァンはそこへ、さらに一つの条件を加えていた。
――パドゥーラ本国を、可能な限り無傷で回収する。
元老院から命じられたものではない。
二人が、この戦争をリービッヒの再建につなげるためには必要だと判断した条件だった。
「正面から戦えば勝てない」
エルが言った。
「そうだね」
「二万では足りない。仮に勝てたとしても、三十日では終わらない」
「長期戦になれば、その時点で条件から外れるだろうね」
「それに……」
エルの指が地図の上を動いた。
パドゥーラを囲む農地。灌漑設備、工房、製鉄設備、倉庫、街道。
かつて、自分たちが何もないところから少しずつ作り上げてきたものだった。
「壊したら、意味がない」
ヴァンが静かに頷いた。
「パドゥーラを取ること自体が目的ではない、ということだね」
「そう」
エルは頷いたが、そこに笑顔はなかった。
長い拘禁と幽閉によって、一時は精神そのものを壊しかけた。そこから半年以上をかけ、ようやく食事を取り、眠り、人と話せるところまで戻ってきた。
何時間でも地図に向かえる。軍事について考えることもできる。
だが、以前のエルに戻ったわけではない。
「今のリービッヒには、国を立て直す力がない」
声は淡々としていた。
「食料も、鉄も、お金も足りない。このままじゃ、カレリアが何をしようとしても……国が持たない」
「……そうだね」
「パドゥーラには、それがある」
エルの指が地図の上で止まった。
「だから、壊さずに取り戻したい」
「さらに難しくなるよ」
「分かっています」
「二万、三十日。それだけでも厳しい。そのうえ生産基盤を保全するとなれば、大規模な戦闘そのものを避ける必要がある。市街戦も攻城戦も、できる限り避けなければならないだろうね」
「はい」
エルは顔を上げた。
「でも、壊したらリービッヒを立て直せない」
少し間を置く。
「カレリアを守れない」
ヴァンはしばらく何も言わなかったが、やがて視線を地図へ戻した。
「では、パドゥーラ軍を撃破するという考えそのものを捨てようか」
エルがヴァンを見る。
「……どういうこと?」
「必要なのはパドゥーラ本国だ。パドゥーラ軍ではない」
ヴァンの指がパドゥーラから北へ動き、ライプニッツを示した。
「彼らを本国からどかせばいい」
「どかす……」
「主力をライプニッツ方面まで引き出す。その間に本国を取る」
そこから指を南へ戻す。
「パドゥーラ本国を回収した後は、回廊を封鎖する」
「北に出た軍は?」
「放置していい」
「ライプニッツも?」
「必要ないだろうね」
ヴァンは即答した。
「今回の目的は、リービッヒの旧領すべてを奪還することではない。必要なのは、ここだ」
指先がパドゥーラを示す。
エルは黙って地図を見た。
ライプニッツ以北を捨てる。パドゥーラ軍主力とも戦わない。パドゥーラ本国だけを奪い、その後に回廊を閉じる。
「……それなら、二万でも」
「可能性は出てくる」
「でも、どうやってパドゥーラ軍をライプニッツまで動かせば……」
「それも考えないといけないね。ただ、その前にもう一つある」
ヴァンが再びパドゥーラを指した。
「彼らが北へ動いたとして、僕たちはどうやってここへ入る?」
エルは答えられなかった。
それこそが、この二か月間、二人を最も悩ませてきた問題だった。
街道を使えば発見される。山を越えれば時間がかかる。パドゥーラ回廊を正面から抜けようとすれば、必ず戦闘になる。
戦えば時間を失い、兵も失う。
そして、戦場になった土地も傷つく。
「……入れない」
エルが呟いた。
「どこから入っても、防衛網に捕まる」
「突破しようとする限りは、そうだろうね」
「戦わずに抜けられればいい。でも……」
答えは出なかった。
そのとき、扉を叩く音がした。
「エル様」
「どうぞ」
入ってきたのはミアだった。両手に盆を持ち、空いている場所へ食事を並べていく。
「お食事をお持ちしました」
「ありがとう。そこに置いて」
「はい」
ミアは皿を置いたが、そのまま出ていこうとはしなかった。
エルはもう地図へ視線を戻している。
「……エル様」
「何?」
「冷めないうちに召し上がってください」
エルはしばらく地図を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった」
ようやく食器を手に取る。
ミアは何も言わなかった。以前なら、もう少し強く食べるよう勧めたかもしれない。
今は、エルが自分から食事を口へ運ぶ。それだけで少し安心できた。
一口、もう一口と食べたところで、エルの手が止まった。
「……パクー?」
「はい。チル湖のものが入ったそうです」
「そう……」
エルは皿の上の魚を見た。
パクー。
パドゥーラにいた頃は珍しくもなかった。何度も食べたし、あの人が自分で釣ってきたこともある。
自分で釣り、自分で捌いて、何でもない顔で食卓へ並べていた。
何も持たずに帰ってきた日もあった。
――今日は駄目だった。
そんなことを言っていた。
どうしてだったか。
魚がいなかったわけではない。
確か――。
「……風」
エルが呟いた。
ヴァンが顔を上げる。
「風?」
「西風」
エルは食器を置いた。
「チル湖では、時々すごく強い西風が吹く」
「聞いたことがあるのかい?」
「以前、聞きました。釣りができなくなるくらい、強い風が吹く日があるって」
誰から聞いたのかは言わなかった。
エルは立ち上がり、地図の西側へ目を向ける。
チル湖。
その向こう側。
「……西から」
指を西岸へ置き、そこからゆっくりと湖上を横切らせる。
パドゥーラまで。
「ミア」
「はい」
「チル湖周辺の気象記録を集めて。風向きと強さが分かるものを、できるだけ古いものまで」
「気象記録ですか?」
「うん」
「分かりました」
ミアが一礼して部屋を出ていった。
エルは、そのまま地図を見つめ続ける。
「先生」
「うん」
「調べてみる価値はあると思う」
「そうだね。調べてみよう」
◇ ◇ ◇
数日後。
机の上には、集められた大量の記録が積み上げられていた。
気象記録、船舶の運航記録、漁業に関する記録。さらに湖岸の町々から集めた報告まで、エルとヴァンは一つずつ確認していった。
一年。
二年。
三年。
さらに過去へ遡る。
「……あるね」
ヴァンが一枚の記録を置いた。
強い西風。
別の年にもある。
さらに別の年にも。
「時期が近い」
「そうだね」
二人は記録を並べていった。
年によって多少の前後はあるが、明らかな偏りがあった。
「九月五日から……二十日」
「おおむね、この期間だね」
例年、9月5日から20日。
チル湖では、この時期に強い西風が吹く日がある。
エルは地図を引き寄せた。
「船を使えば、いけると思う」
「二万を?」
「うん」
ヴァンはしばらく地図を見た。
「相当数の船が必要になるね」
「準備期間はある」
「西岸へ秘かに集める必要もある」
ヴァンは地図の上で距離を測りながら、船の数、兵力、物資、渡湖に必要な時間を一つずつ確認していく。
やがて顔を上げた。
「……できると思う」
エルの表情は変わらなかった。
「十分な西風が吹けば、短時間で渡湖できる」
「防衛網を通らなくていい」
「そうだね」
「回廊も、街道も使わなくていい」
「その必要がなくなる」
エルの指が西岸から湖上を進み、そのままパドゥーラへ到達する。
「戦わずに、パドゥーラ本国まで行ける」
ヴァンが頷いた。
「これなら設備を傷つけずに済む可能性も高い」
「……はい」
ようやく一つ、条件を満たす方法が見えた。
だが、エルは喜ばなかった。
「残るのは、パドゥーラ軍ですね」
「そうだね」
ヴァンの指が東へ動く。
「レミーラを使おう」
「レミーラ?」
「リービッヒ国内が混乱しているという情報を、意図的に流す」
「でも、継承戦争が終わったばかりでは」
「だからこそだよ」
ヴァンは静かに答えた。
「継承戦争直後のレミーラに、大規模な侵攻を行う余力はない」
「なら、動かないのでは?」
「逆だね。継承戦争そのものは終わった。だから大軍を出すことはできなくても、小さく動くことならできる」
エルがヴァンを見る。
「威力偵察?」
「その程度で十分だ」
ヴァンの指がレミーラから国境を越えた。
「隣国が混乱していると知れば、それがどの程度なのか確認したくなる。東部辺境軍を少し動かす程度なら、今のレミーラにもできるだろう」
「それを見れば……」
エルの視線がライプニッツへ移る。
「パドゥーラ軍は動く」
「無視はできないだろうね」
第三次コスタ戦役で、パドゥーラはレミーラ軍の強さを嫌というほど知っている。国境付近でその軍が動けば、放置できるはずがない。
「レミーラに勝ってもらう必要はない」
「パドゥーラ軍を本国からどかせばいい」
「そういうことだね」
ヴァンがライプニッツを指した。
「ここまで引き出す。その間に二万をチル湖西岸から渡す」
「パドゥーラ本国を回収する」
「そして回廊を封鎖する」
「ライプニッツ以北は……」
「放棄する」
エルはしばらく地図を見つめ、やがて頷いた。
「それでいいと思う」
「いいのかい?」
「はい」
エルの指がパドゥーラを示した。
「必要なのは、ここです」
農地、灌漑設備、工房、製鉄設備。
そして、そこで暮らしている人々。
「ここを壊さずに取り戻す。それを作戦の条件にする」
「元老院に認めさせるんだね」
「はい。認められれば、占領後の軍紀にも使えます」
ヴァンが頷く。
「略奪なんてさせない」
エルの声に迷いはなかった。
「農地も、工房も、倉庫も、製鉄設備も。勝手に奪ったり、壊したりさせない」
「それがリービッヒのためでもある」
「うん」
パドゥーラを守るためだけではない。
リービッヒを守るため。
カレリアを守るため。
そのためには、パドゥーラを壊してはならない。
「これで提出する」
「分かった」
エルは地図を見た。
二か月間探し続けた答えが、ようやく形になった。
それでも、その顔に笑みは浮かばなかった。
◇ ◇ ◇
カレリアから提出されたパドゥーラ侵攻作戦案は、元老院で審議された。
投入兵力は、およそ二万。作戦期間は三十日以内。
まず、リービッヒ国内が混乱しているという情報を意図的にレミーラへ流し、その軍事行動を誘発する。それによってパドゥーラ軍主力をライプニッツ方面へ誘引し、その間に侵攻軍をチル湖西岸へ集結させる。
出撃期間は9月5日から20日。
強い西風が吹いた日をもって船団を出し、チル湖を横断。パドゥーラの防衛網そのものを迂回して本国を電撃的に制圧し、その後にパドゥーラ回廊を封鎖する。
ライプニッツ以北は放棄する。
そしてもう一つ。
パドゥーラ本国の農地、灌漑設備、工房、製鉄設備、その他の生産基盤は可能な限り無傷で接収し、占領地における略奪および不必要な破壊を禁ずる。
それは、エルとヴァンが元老院に新たに認めさせた作戦条件だった。
パドゥーラをただ奪うためではない。
その生産力を、リービッヒ再建の礎とするために。
審議の結果、作戦案は可決された。
同時に、人事も発令された。
エル=リージェット。
リービッヒ王国軍将軍に任ずる。
さらに、蟄居ならびに病気療養によって軍務を離れているモンド=ドゥットゥカースに代わり、コク侯軍司令官代理を命ずる。
命令書を受け取ったエルは、しばらく黙ってその文字を見つめていた。
「謹んで、お受けいたします」
それだけだった。
将軍になった。
父の軍を預かることになった。
そして、自分が立てた作戦でパドゥーラを攻める。
これまで地図の上にしかなかったものが、これから現実になる。
船を集める。兵を選ぶ。物資を運び、情報を流す。
もう作戦ではない。
戦争が始まる。
◇ ◇ ◇
その夜。
エルは一人、机に向かっていた。
灯りの下で日記を開き、ペンを取る。
今日あったことを、一つずつ書いていった。
パドゥーラ侵攻作戦が正式に認められたこと。
パドゥーラ本国を可能な限り無傷で回収し、その力をリービッヒ再建に用いることも認められたこと。
リービッヒ王国軍将軍に任命されたこと。
父に代わり、コク侯軍司令官代理を務めることになったこと。
そこまで書いて、手が止まった。
しばらく何も書けなかった。
開かれた日記を見つめる。
やがて、もう一度だけペンを動かした。
最後に、一行だけ書いた。
『もう、後には引けない。』




