第5話 同盟総会(後)
278年5月5日。
同盟総会本会議。
都市同盟に加盟するすべての都市が意思を示す、同盟最高の意思決定機関である。総票数は二百五十六票。各加盟都市へ割り当てられたすべての票が、この議場で行使される。
この日は会期最終日だった。
会期中に各常任委員会で予備提案を通過した議案が次々と本会議へ上程され、採決されていく。通常議案である二号議案は過半数の賛成で可決されるが、同盟憲章そのものに関わる一号議案には、総票数の四分の三以上という高い可決条件が課されている。
ユマ=リズナーが提出した一号第一議案――新都市同盟構想。
その採決は、会期最終日に行われることとなっていた。
そして、ついにその時が来た。
壇上へ立ったユマは、広い議場をゆっくりと見渡した。
ゼルキア、セントハイム、イーストポート、カーライル。そして、名前を聞いても多くの者が場所すら知らないような小さな山岳都市や鉱山都市まで、今日はすべてが同じ議場にいる。
ユマは一度だけ息を吐き、口を開いた。
「私は、この同盟が好きです」
最初にそう言った。
ざわついていた議場が静まる。
「だから、変えたいと思っています」
ユマは少し間を置いた。
「私たちの都市同盟は、自由と平等を掲げて始まりました。大きな都市だから偉いわけじゃない。小さな都市だから従わなければならないわけでもない。それぞれの都市が、自分たちの意思で生きる。その自由を守るために手を取り合った。それが、私たちの始まりだったはずです」
広い議場に、ユマの声だけが響く。
「でも、長い時間が経ちました。都市は豊かになり、人が増え、交易が広がった。大学ができ、道ができ、港ができ、軍隊も強くなった。私たちは間違いなく成功しました」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、その成功の中で歪みも大きくなった。富が集まる都市と取り残される都市がある。人口が増える都市もあれば、若者が去っていく都市もある。同じ都市同盟の市民なのに、生まれた都市によって得られる機会まで違い始めています」
ユマは首を横に振った。
「私は、豊かな都市から富を奪えと言っているんじゃありません。成功した都市を引きずり下ろせとも言っていない。みんなで貧しくなろうなんて、もっと言っていません」
議場のあちこちから、小さな笑いが起こる。
「私が言いたいことは、一つです」
ユマは議場を見渡した。
「もう一度、つながりましょう」
少し間を置いて、続ける。
「山には山にしかないものがあります。鉱山には鉱山にしかないものがある。港には港の役割があり、農地を持つ都市も、学問を担う都市も、国境を守る都市も必要です。一つの都市ですべてを持つ必要なんてない」
ユマは少し笑った。
「だから同盟なんでしょう?」
議場の空気が、少しずつ変わっていく。
「まだ間に合います。今なら、私たちは自分たちの手で変えられる。誰かに壊されてから作り直す必要はありません。戦争で焼かれてから反省する必要もない」
ユマの声が、わずかに強くなる。
「私たちは話し合える。投票できる。そして、自分たちの未来を、自分たちで選ぶことができます」
それから、ユマは改めて議場全体を見渡した。
「私は今日、皆さんに新都市同盟構想への賛成をお願いするために、ここへ立っています。でも、それ以上にお願いしたいことがあります」
声を少し落とす。
「考えてください。この同盟を、次の世代にどんな姿で渡したいのか」
議場は静まり返っていた。
「私たちの祖父や祖母が作ったものを、そのまま守ることだけが受け継ぐことではありません。彼らが何を願い、この同盟を作ったのか。それを受け継ぐことこそ、私たちの仕事だと私は思います」
そこでユマは、ほんの少し間を置いた。
「私は、昔の都市同盟を壊したいんじゃありません」
代表者たちを見渡す。
「むしろ逆です」
「自由でありたい。対等でありたい。どこで生まれた人間でも、自分の力で未来を選べる場所でありたい。その願いを、これから先も残したいんです」
声が少しだけ強くなった。
「形を守るために、願いを失ってしまったら意味がない」
「百年前に正しかった仕組みが、百年後も同じ形で正しいとは限りません。でも、百年前にこの同盟を作った人たちの願いは、今も正しいと私は信じています」
ユマは一度、議場の一番奥まで視線を送った。
「だから、変えましょう」
「昔を捨てるためじゃない。昔から受け継いできたものを、次の百年へ渡すために」
誰も動かなかった。
「今日、ここで何もしないことも一つの選択です。今まで通りでいいと決めることも、もちろんできます」
ユマは静かに続けた。
「でも、その結果を次の世代に渡すのも、私たちです」
「私たちは、昔の人たちからこの同盟を預かりました。そしていつか、次の人たちへ渡さなければならない」
そこで少し笑った。
「だったら私は、少しでも良くして返したい」
ユマは胸を張った。
「私は、この同盟が好きだから」
最初の言葉へ戻る。
「だから今日、皆さんにお願いします」
「変えることを、恐れないでください」
「私たちなら、自分たちの手でこの同盟を変えられる。私はそう信じています」
ユマは深く一礼した。
「以上です」
一瞬の静寂。
それから、拍手が起こった。
だが、まだ何も決まってはいない。
◇
投票は秘密投票で行われた。
セイレンのように、一人の代表者が都市に割り当てられた票をすべて投じる都市もあれば、複数の代表者へ票を分けて投じる都市もある。投票方法そのものは各都市によって異なっており、誰がどちらへ票を投じたのかを外から知ることはできない。
やがて投票が終わり、開票が始まった。
傍聴席で結果を待つジャンは、腕を組んだまま開票の数字を追っていた。
事前の票読みは、およそ八十。
そこまで取れれば十分だと考えていた。
前回は、本会議に議案を持ち込むことすらできなかった。今回は初めから、憲章改定そのものを成立させられるとは考えていない。
必要なのは総票数の四分の三。
二百五十六票のうち、百九十二票である。
あまりにも遠い。
だから今回は、どこまで支持を広げられるかを見る戦いでもあった。
開票が進む。
五十。
六十。
七十。
ここまでは想定内だった。
やがて八十へ到達した。
ジャンは小さく息を吐いた。
しかし、数字は止まらない。
八十一。
八十五。
九十。
「……?」
ジャンが顔を上げた。
百を超えたあたりから、議場にもざわめきが広がり始める。
百十。
百二十。
明らかにおかしい。
事前に賛成を約束していた票だけでは、ここまで届かない。
誰かが入れている。
しかも、一人や二人ではない。
秘密投票である以上、それが誰なのかは分からなかった。
百二十八。
そして百二十九。
都市同盟全体の過半数を超えた。
ざわめきが一段と大きくなる。
百三十。
百三十一。
「――百三十二」
そこで開票が止まった。
議場が大きく揺れた。
百三十二票。
壇上近くにいるユマも、その数字を見つめていた。
予想していなかった。
隣にいるカールも、珍しく何も言わない。
やがて議長が立ち上がった。
「開票結果を申し上げます」
ざわめきが少しずつ収まっていく。
「賛成、百三十二票。反対、百二十四票」
議場が静まり返った。
数字だけなら勝っている。
だが。
「本案は同盟憲章改定案であるため、可決には総票数の四分の三以上の賛成を必要とします」
必要なのは百九十二票。
届かない。
「よって、本案を否決します」
木槌が鳴った。
負けた。
紛れもない敗北だった。
新都市同盟構想は否決され、同盟憲章は変わらない。
それでもユマは静かに立ち上がった。
「ありがとうございました」
議長へ頭を下げ、それから各都市の代表者たちへ向き直って、もう一度深く一礼する。
そのときだった。
ぱち。
どこかで手を叩く音がした。
ぱち、ぱち。
別の場所からも続く。
一人、また一人と加わり、やがて拍手は議場全体へ広がっていった。
ユマが顔を上げる。
誰が賛成票を投じたのかは分からない。誰が反対票を投じたのかも分からない。
それでも、拍手だけは隠されていなかった。
やがて音は議場を満たした。
万雷の拍手だった。
否決された提案者へ送られるには、あまりにも大きな拍手。
ユマはもう一度頭を下げ、その拍手の中を歩いて自分の席へ戻った。
百三十二票。
勝つには足りない。
まだ六十票も足りなかった。
だが、八十だと思っていた。
それが百三十二だった。
都市同盟の過半数が、この構想に賛成したのである。
もう、セイレンだけの夢ではない。
席へ戻ると、カールが待っていた。
「負けたね」
「はい」
カールはいつもの調子で答えた。
ユマは椅子へ腰を下ろしたが、拍手はまだ続いている。
もう一度、百三十二という数字を見た。
そして笑った。
「……次は、勝てる」
◇
同盟総会が閉会した、その日の夜。
セントハイム代表団の宿舎には、重い空気が漂っていた。
「百三十二票……」
一人が吐き捨てるように言ったが、誰も答えなかった。
新都市同盟構想そのものは否決されている。同盟憲章改定に必要な百九十二票には遠く及ばず、形式上は完全な敗北だった。
にもかかわらず。
「……恐ろしいことが起きた」
老代表の一人が呟き、その場にいた者たちが顔を上げた。
「八十票程度と聞いていた」
「我々もそう見ていた」
「それが百三十二だ」
都市同盟の半数以上が、新都市同盟構想に賛成票を投じた。
それだけではない。
「しかも秘密投票だ」
誰が入れたのか分からない。
表向きは反対を唱えていた都市から票が流れた可能性もある。一都市の中で、代表者の判断が割れた可能性すらあった。
「イーストポート、カーライル、サドリー……そのあたりは分かる。山岳都市や鉱山都市も、ロンド商会に相当切り崩されている」
「だが、それだけでは百三十二にはならん」
沈黙が落ちた。
誰にも、その残りを説明できない。
「今日の演説を聞いて票を変えた者がいる」
「それも一人や二人ではない」
「次はどうなる?」
誰かが問う。
答えは、その場にいる全員が分かっていた。
今回、ユマ=リズナーは本会議まで議案を運んだ。
次は、本気で勝つために票を取りに来る。
あと六十。
数字だけを見れば遠いが、今回も八十から百三十二まで伸びた。
「この流れは止まらんぞ」
一人が低く言った。
「次回の総会までに、さらに地方都市を回るだろう。ロンド商会も動くし、カーライルもいる。セイレンの軍事的発言力も増している」
「何より――」
別の男が言葉を継いだ。
「ユマ=リズナーには、人を動かす力がある」
万雷の拍手。
あの光景を思い出したのか、何人かの顔が歪んだ。
「……では、どうする」
誰もすぐには答えなかった。
やがて一人が窓の外へ目を向けた。
「総会の中で止められないのなら、総会の外で止めるしかあるまい」
静かな声だった。
誰も何も言わなかった。
ただ、その言葉を否定する者もいなかった。
◇
同盟総会が閉会してから数日。
ユマ=リズナーは、ほとんど休む暇がなかった。
「また?」
「またです」
カールが淡々と答える。
「今日は昼にサドリー代表団との会食。夕刻から山岳都市連合の懇談会、その後は商業ギルド主催の夜会があります」
「……総会より忙しくない?」
「総会で百三十二票を取った人間が何を言っているんです」
「否決されたんだけどね」
「誰もそうは見ていません」
ユマは深くため息をついたが、口元は笑っていた。
総会前とは、明らかに空気が違う。
街を歩けば声をかけられ、これまで距離を取っていた都市の代表者が自分から会談を申し込んでくる。新都市同盟構想に反対票を投じたと公言する者ですら、「一度、詳しく話を聞きたい」と言ってくるようになった。
何かが変わり始めている。
それを感じているのは、ユマだけではなかった。
「姉さま、今日も帰るの遅い?」
「たぶんね」
ユナが不満そうに頬を膨らませる。
「せっかく一緒に来たのに」
「遊びに来たんじゃないんだよ」
「分かってるけど」
「なら手伝いな」
「もう十分手伝ってるよ」
実際、軍事委員会でもユナは忙しかった。セイレン代表団の一員として各都市との顔合わせも増え、これまで「ユマの妹」として見られていた少女が、一人の政治家として認識され始めている。
それでも本人は、まだその扱いに慣れていなかった。
「ジャンは?」
「また商人連中に捕まってる」
ユナが少しだけ笑う。
「人気者だね」
「借金持ちの商人が人気者とは、世も末だね」
ユマも笑った。
◇
「ずいぶんなことになったな」
ジャンは壁際で杯を持ちながら、会場を眺めていた。
今夜もまた夜会だった。
都市代表や商人、学者、地方の有力者たちが集まり、あちこちに人の輪ができている。そして、その中心にはユマがいた。
「セイレン代表、ぜひ今度うちの都市にも」
「新都市同盟構想について、もう少し聞かせていただきたい」
「今回はこちらも反対に回ったが、次は分からんぞ」
「条件次第では――」
人が途切れない。
少し前なら、考えられなかった光景だった。
ジャンは杯に口をつける。
二年半。
鉱山を回り、山岳都市へ入り、赤字同然の取引もした。商品を流し、人をつなぎ、その結果として八十票ほどを確保したつもりだった。
それが百三十二。
「……すごいですね」
隣にいたトウヤが言った。
「ああ」
「クリス様の頃以来かもしれません」
「何が?」
「これほど都市同盟の空気が、一つの方向へ動くのは」
ジャンはもう一度、ユマを見る。
笑っていた。
何人もの代表者に囲まれ、いつもの調子で言葉を返している。そこへユナも加わり、姉妹そろって年配の代表者たちに捕まって、何やら笑われていた。
「……変わるかもしれないな」
ジャンが呟く。
「ええ」
トウヤも頷いた。
都市同盟の中で、何かが動き始めている。
誰もが、それを感じていた。
◇
夜も更けた。
「疲れた……」
会場を出た途端、ユマが大きく伸びをした。
「お姉ちゃん、飲みすぎ」
「飲まされたんだよ」
「断ればいいじゃん」
「政治家が全部断れると思ってる?」
「じゃあ半分断る」
「それができたら苦労しないさ」
ユナが呆れたようにため息をつく。
ジャンも少し後ろを歩いており、トウヤは周囲を警戒しながらその前方につく。カールも一緒だった。
「しかし」
ユマが振り返った。
「百三十二とはね」
「まだ言ってるのか」
「だって、あんた八十って言ったじゃない」
「俺に言うな」
「役に立たないねえ」
「山岳都市まで引っ張ってきたのは誰のおかげだ」
「はいはい。感謝してますよ」
ユマは笑った。
「でも、本当に行けるかもしれない」
ジャンの表情が少しだけ真面目になる。
「あと六十だぞ」
「六十しか、だよ」
「簡単に言うな」
「前回はゼロだった。今回は八十だと思ったら百三十二になった」
ユマは前を向いた。
「次はもっと増やす」
その声には確信があった。
「次は――」
ユマが足を止める。
前方から、一人の男が近づいてきた。
「セイレン代表!」
若い男だった。
服装はごく普通で、見える範囲では手に何も持っていない。
ユマが振り返る。
「はい?」
「今日の演説、感動しました!」
「ああ、ありがとう」
ユマはいつものように笑った。
「これからも頑張ってください!」
「もちろん」
男が近づいてくる。
トウヤが一歩前へ出ようとした。
だが、その前に男が声を上げた。
「セイレン代表!」
さらに距離を詰める。
「握手を――」
「いいよ」
ユマが手を差し出した。
その瞬間だった。
男の腕が動いた。
「――っ!」
鈍い音がした。
ユマの身体が揺れる。
一瞬、誰も何が起きたのか分からなかった。
「姉さま?」
ユナが首を傾げる。
男の手元から何かが落ちた。
短い刃物だった。
石畳に当たり、乾いた音を立てる。
ユマは自分の腹部へ目を落とした。
服が、ゆっくりと赤く染まり始めている。
「……え?」
その身体が崩れた。
「ユマ!」
ジャンが駆け出す。
トウヤは即座に男へ飛びかかり、その場へ押さえ込んだ。カールの顔から血の気が引く。
そして。
「姉さま!!」
ユナの叫び声が、夜の街に響いた。




