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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第五章 278年の嵐 前編

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第1話 ニューアークにて(前)

【あらすじ】


 278年。


 ニューアークで大学三年生となったリックは、故郷セイレンの未来を思いながら学問に励んでいた。寡黙な同居人レンと、突然部屋に転がり込んできたジェイ。騒がしくも穏やかな日々の中で、戦争を経験したリックは、自分とは異なる立場から平和を願う人々に出会う。


 一方、同盟総会を迎えたユマたちは、新都市同盟構想を掲げ、改革へ挑もうとしていた。ジャンが交易を通じて結んできた地方都市との関係を足がかりに、同盟の未来を問うユマ。その声は、長く動かなかった政治の世界に変化をもたらし始める。


 だが、変わり始めた時代の陰で、別の計画も進んでいた。


 リービッヒ王国の再建とカレリアを守るため、エルはパドゥーラ侵攻の準備を進めていた。かつてアムルと暮らし、ともに育てた町。その豊かさを奪うために、自ら兵を率いて向かわなければならない。


 そして秋。北方でレミーラ軍への対応に追われるアムルの留守を、戦火が襲う。


 町を守ろうとするティーエと仲間たち。かつて受けた恩に報いるため、援軍を送ろうとするセイレン。そして、初めて総司令官として軍を率いるユナ。


 同盟の理想、国への責任、大切な人への想い。

 それぞれが守ろうとするものを抱えたまま、278年の嵐が吹き始める。


【人物紹介】


――ニューアーク――


◆リック=リズナー

ニューアークに留学する大学三年生。

ユマとユナの弟。故郷セイレンへ学んだことを持ち帰るため、政治や法律、経済を学ぶ。戦場を知る自身と、豊かな都市で暮らす学生たちとの感覚の違いに戸惑いながら、少しずつ視野を広げていく。


◆ジェニー=アンダーソン(ジェイ)

リックと同じ大学で学ぶ法学部の学生。

気が強く、思い立ったらすぐに行動する。ある事情からリックとレンの部屋へ転がり込み、二人の生活を騒がしくする。反戦運動や孤児院の慰問にも熱心で、ユマに強い憧れを抱いている。


◆レン=サカキ

セイレンからの留学生。リックの同居人。

かつてロスバルトの少年兵として戦った経験を持つ。寡黙で落ち着いており、身の回りのことにも几帳面。ジェイに振り回される日々の中でも、淡々と自分の調子を保っている。


◆E・ハサン

大学の政治学教授。

リックをニューアークへ招いた人物。都市同盟の制度を、成立した背景と現在の働きの両面から読み解く。講義を通じて、リックに同盟の仕組みと改革の難しさを考えさせる。


◆エルザ

ハサン研究室の助手。

リックにとって、研究上の相談相手であり、学生生活の悩みも話せる存在。穏やかな態度で話を聞き、ときにはからかいながら、考え込むリックに別の見方を示す。


――セイレン・都市同盟――


◆ユマ=リズナー

セイレン代表。

都市間の格差や古い制度の問題に向き合い、新都市同盟構想の実現を目指す。人を惹きつける言葉と行動力を持ち、政治上の損得だけでは譲れない信義を大切にしている。


◆ジャン=ワイズマン

ロンド商会を通じて同盟改革を支える商人。

地方都市との交易を広げ、ユマの構想を支える関係を築いてきた。皮肉や軽口を交わしながらも、仲間への情は深い。情勢が大きく動く中、ユナの判断を支える役目も担う。


◆ユナ=リズナー

ユマの妹。リックの双子の姉。

姉の傍らで政治と軍事を学び、セイレン代表団の一員として経験を積む。パドゥーラの危機を前に、軍を率いる責任を引き受けることになる。周囲の人に対して優しく、不安を抱えながらも役目に向き合う。


◆カール=マルテル

ユマを支える実務の担い手。

同盟総会での折衝や多忙な日程を、冷静に取り仕切る。ユマにも遠慮なく物を言い、その理想を実際の政治活動へつなげていく。表舞台に立つ彼女を、身近なところから支える存在。


◆トウヤ

ロスバルトの軍人。

赤髪の実直な青年。総会では代表団に同行し、戦場では副将としてユナを補佐する。部隊を動かす実務に長け、まだ指揮官として経験の浅いユナにとって、頼れる支えとなる。


◆エドワード=カーライル

カーライル公。リズナー姉弟の祖父。

厳格な態度の奥に、孫たちへの愛情を持つ。政治家としての立場と祖父としての顔を併せ持ち、都市同盟の将来を巡る動きの中で、ユマたちと関わっていく。


――パドゥーラ――


◆アムル

パドゥーラ侯。

エルと別れてからも領主として政務を続けているが、その喪失は戦場での判断にも影を落としている。北方のレミーラ軍に対処する中、自らが築いてきた町と仲間たちを脅かす事態に直面する。


◆ティーエ

パドゥーラの宰相。アムルの親友。

留守を預かる中、突然の侵攻に直面する。戦場で兵を指揮した経験はないが、領民と兵士を守るために決断を迫られる。日々の仕事で築いてきた信頼と、アムルへの揺るがぬ思いが支えとなる。


◆コンラート

アムルの釣り仲間を名乗る老人。

飄々としていて、危機の中でも軽口を絶やさない。一方で、戦況を見る目と兵の扱いには並外れたものがある。突然現れたこの老人が、窮地に立つティーエへ力を貸す。


◆キース

パドゥーラ軍の指揮官。

本国が危機に陥る中、セイレンへ援軍を求める使者となる。過去の両者の対立も承知したうえで、町を救うために頭を下げる。救援軍との連携を担う人物でもある。


◆ジョン=ブラン

パドゥーラ軍北方師団を率いる将。

かつてアムルとエルを助けた古い知己。世の中に失望していたが、アムルが作ろうとする町に希望を見いだし、その建設に加わった。厳しい言葉の奥に、仲間とパドゥーラへの深い思いを持つ。


◆ロック

アムルとともに戦うパドゥーラの武将。

口は悪いが、戦況を見極める目は確か。エルを失ってからのアムルの変化にも気づいている。危機に際しては自分の役割を素早く見定め、仲間が進むために必要な場所を引き受ける。


◆エヴァンス

アムルを支えるパドゥーラの武将。

前線で兵を率い、アムルとともに突破口を開く。アムルの不調を案じながらも、必要なときには迷わず応じる。多くを語らずとも通じ合う、戦場での信頼を築いている。


◆ティファ(シャンテ)

パドゥーラの歌姫。

アムルとエルの双方を知り、二人を大切に思っている。戦火が迫る町でも舞台に立ち、市民の心を支える。争いが人々の暮らしへ入り込む中、歌うことだけでは守れないものに向き合う。


――リービッヒ王国――


◆エル=リージェット

リービッヒ王国軍将軍。コク侯軍司令官代理。

カレリアを守り、王国を立て直すため、パドゥーラ侵攻を計画する。優れた軍才を持つ一方、攻める先はアムルとともに暮らした町でもある。断ち切れない想いを抱えたまま、自ら選んだ戦争の責任を負う。


◆ヴァン

エルが「先生」と呼ぶ人物。

侵攻計画の立案をともに進める。兵力や時間の制約だけでなく、占領後の国の再建まで見据えて考える。エルの意図を理解し、冷静な分析によって作戦を具体化していく。


◆アンスバッハ

リービッヒ王国軍総司令官。

パドゥーラ侵攻軍を率いる。兵力と自身の地位に強い自負を持ち、エルとは作戦上の優先順位を巡って隔たりがある。戦場では、かつての因縁を持つ相手とも向き合うことになる。


◆ケント

エルの副官。

護衛や兵への指示を担い、戦場でも占領した町でも彼女を支える。エルに対する強い忠誠心を持ち、厳しい判断を迫られる彼女を間近で見つめる。


――レミーラ帝国――


◆ルートビッヒ=ハイマン

帝国次席宰相兼東部辺境軍司令。

皇位継承戦争を経て、帝国中央で重きをなす立場となった。国内の整理を進める一方、リービッヒの動向にも目を配る。全面戦争を避けつつ、隣国の実情を探ろうとする。


◆ハイファ

東部辺境軍司令代理。

帝都にいるルートビッヒに代わり、現地で軍を指揮する。紅竜騎兵を率いてライプニッツ方面へ進出し、巧みな機動でパドゥーラ軍に圧力をかける。

リック・ジェイ・レン

挿絵(By みてみん)




 278年2月。


 ニューアーク大学へ入学してから、およそ二年半。


 リック=リズナーは大学三年生になっていた。


「…………」


 自室の机に向かい、リックは黙々と教本を読み進めていた。


 机の上には政治学、法学、経済学に関する本が積まれている。その横には講義で取ったノートが何冊か並び、開いた一冊には細かな字がびっしりと書き込まれていた。


 三年前期試験まで、あと二週間。


 ここ数日は講義が終わればまっすぐ寮へ戻り、夕食まで勉強するのが日課になっている。


 元々、リックは勉強が嫌いではない。


 むしろ好きな方だった。


 ニューアーク大学へ来た目的そのものが政治学を学ぶことであり、国費まで使って留学させてもらっている以上、遊んで過ごすつもりなど最初からなかった。


 問題があるとすれば――。


「だから違うって言ってるでしょ!」


「…………」


「こっちが先! 絶対こっちから説明した方が分かりやすいって!」


「…………」


「だいたいさあ、なんでこんな回りくどい文章にするのよ! 普通の人が読んでも分かんないじゃん!」


 リックは教本から目を上げた。


 正面の机。


 腰まで届く長い黒髪を揺らしながら、小柄な女が大量の紙を広げている。


 ジェイ。


 本名、ジェニー=アンダーソン


 同じニューアーク大学法学部の学生である。


 そして――なぜか今、リックと同じ部屋で生活している女でもあった。


「……ジェイ」


「なに?」


「うるさい」


「喋ってないと考えがまとまらないの」


「僕は喋られると考えがまとまらないんだよ」


「じゃあ気にしなきゃいいじゃん」


「できたら苦労してないよ」


 ジェイは「細かいなあ」とでも言いたげに口を尖らせると、再び紙へ視線を落とした。


 静かになった。


 リックも教本へ戻る。


 三十秒ほどだった。


「ねえ、レン。これどう思う?」


「知らん」


「見てもいないじゃん!」


「見なくても分かる」


「何が?」


「俺に聞く話じゃない」


 部屋のもう一方。


 青みがかった髪を長く伸ばし、右目を前髪で隠した青年が本から顔も上げずに答えた。


 レン=サカキ。


 セイレンからの国費留学生であり、リックとはニューアークへ来て以来、同じ部屋で暮らしている。


 身長は百七十センチ。


 元はロスバルトの少年兵で、レンヌ戦にも従軍している。


 口数は少ない。


 私物も少ない。


 リックも物を大量に買い込む性格ではないため、本来この部屋は学生二人が暮らしているとは思えないほど整然としていた。


 本来は、である。


「レン、ちょっとくらい手伝ってよ」


「試験前だ」


「私だって試験前だよ」


「なら勉強しろ」


「してるよ!」


「それは勉強じゃないだろ」


「これだって大事なの!」


 今では床の隅にジェイの荷物が置かれ、棚の一角も占領され、机の上には用途不明の紙束まで積まれている。


 どうしてこうなったのか。


 少し前まで、ここにはリックとレンしかいなかった。


 二人とも真面目で、朝は決まった時間に起き、講義へ行き、帰れば本を読む。


 掃除の分担でも揉めたことはない。


 夜中まで騒ぐこともない。


 お互い必要以上に干渉しない。


 実に平穏な二人暮らしだった。


 そこへ、ジェイがやって来た。


     ◇


 その日は雨だった。


 講義を終えたリックとレンが寮へ戻る途中、ずぶ濡れになって歩いている同級生のジェイを見つけた。


「……何してるの?」


 声をかけると、ジェイは振り返った。


「あ、リク君」


 いつもの元気はなかった。


 髪は濡れ、服も雨を吸って身体に張りついている。


「傘は?」


「ない」


「見れば分かるよ。どうしてこんなところ歩いてるの?」


「……ちょっと色々あって」


「色々?」


「男と喧嘩した」


 レンが無言でジェイを見る。


「彼氏?」


「元彼」


「……何したの?」


「向こうが先に手を出したんだからね!」


「何したの?」


「だから向こうが――」


「ジェイ」


「…………ちょっと殴った」


「やっぱり」


「一発だけ!」


「帰れば?」


「帰るところがない」


「え?」


「だから今日、泊めて」


「なんで僕のところなの!?」


「他に頼める人いないし」


「だからって男二人の部屋に来る?」


「リク君なら真面目だから何もしないでしょ」


「そういう問題じゃないよ!」


 結局、一晩だけという約束で部屋へ入れた。


 翌日もいた。


 三日後もいた。


 一週間後には着替えが増えていた。


 気がつけば棚の一角を占領していた。


 そして現在に至る。


     ◇


「……ジェイ」


「今度はなに?」


「いつまでここにいるの?」


「え?」


 ジェイが顔を上げた。


 心底不思議そうな顔だった。


「何?」


「いや……」


「だから何?」


「…………もういい」


「変なリク君」


 リックは額を押さえた。


 向かいでは、レンが小さく息を吐いた。


 おそらく同じことを考えている。


 もう聞くだけ無駄なのだ。


「そうだ!」


 突然ジェイが立ち上がった。


「リク君、これ読んで!」


 紙を一枚突き出してくる。


「嫌だよ」


「まだ何も言ってないじゃん!」


「試験勉強してるの見れば分かるだろ」


「五分でいいから!」


「嫌だ」


「三分!」


「時間の問題じゃない」


「ケチ!」


「なんで僕が怒られるんだよ!」


 その横でレンは何事も起きていないかのようにページをめくった。


 リックは一瞬、彼を睨んだ。


「レン」


「なんだ」


「少しは助けてよ」


「無理だ」


「即答しないでよ」


「俺には止められない」


「僕にも無理だよ」


「じゃあ諦めろ」


「…………」


 最近、レンはジェイへの対処を完全に放棄していた。


 賢明なのかもしれない。


     ◇


「ジェイ、そろそろ行くよ」


 時計を確認して、リックは教本を閉じた。


 午後最初の講義が始まる。


「先行ってて」


「また?」


「大丈夫。ちゃんと行くから」


 ジェイは先ほどから広げている紙に顔を近づけたまま答えた。


「遅刻するよ」


「しないって」


「この前もそう言って遅刻したじゃないか」


「あれは時計が悪かったの」


「時計のせいにするなよ……」


 リックは鞄を肩に掛けた。


 レンも立ち上がる。


 二人で部屋を出ようとしたところで、ジェイが手だけを振った。


「いってらっしゃーい」


「君も来るんだよ」


「あとで行くって!」


 扉を閉める。


 廊下へ出たところで、リックはため息をついた。


「……来ると思う?」


「知らん」


「だよね」


 二人は並んで歩き出した。


     ◇


 ニューアーク大学。


 重厚な石造りの校舎がいくつも並び、その間を石畳の道が走っている。


 正門から見える本館は百年以上の歴史を持つ建物で、高い尖塔と幾本もの太い石柱が並ぶ姿には、大学というより古い宮殿を思わせるような威厳があった。


 その周囲には法学部、文学部、自然科学部などの学舎が立ち並び、さらに奥には巨大な図書館がある。


 ニューアーク大学。


 ニコス大学と並び、都市同盟最高峰の学府――その双璧と称される大学である。


 各都市から集まってくる学生の多くは、それぞれの故郷では秀才と呼ばれてきた者たちだった。


 リックもその一人ではある。


 入学して二年半。


 講義についていけなくなったことはないし、成績も悪くない。ハサン教授から直接誘われて入学した以上、自分にそれなりの学力があることくらいは分かっている。


 だが、ここにはそんな人間がいくらでもいた。


 故郷では一番だった。


 学校では誰にも負けなかった。


 そんな学生たちが毎年のように集まり、その中でさらに成績を競っている。


 この大学へ来て、リックは一つだけ認識を改めたことがある。


 ジャン――ゼルキアではクルーニーと名乗っている男のことである。


 ニューアーク大学は、姉のユマの母校でもある。


 そしてジャンの母校でもあった。


 ジャンは昔から何かにつけて、


「俺はニューアーク大学主席だぞ」


 と言っていた。


 また始まった。


 昔のリックは、その程度にしか思っていなかった。


 ユナは何度も聞かされて露骨に呆れた顔をしていたし、リック自身も、どうしてあれほど昔の成績を自慢したがるのか不思議だった。


 だが、自分が実際にこの大学へ入ってみると、その意味が少し変わった。


 ここにいる学生は、みんな頭がいい。


 その中で一番を取った。


「…………」


 改めて考えると、とんでもない。


 もちろん、だからといってリック自身が主席を目指そうとは思わなかった。


 誰かよりいい成績を取るためにニューアークへ来たわけではない。


 政治や法を学ぶ。


 セイレンへ持ち帰る。


 それが自分の目的だった。


 それでも――。


(たしかに、あれだけ言いたくもなるのかな……)


 ほんの少しだけ、ジャンの気持ちが分かった。


「何してる」


 隣から声がした。


「え?」


「止まってるぞ」


 レンに言われて、リックは自分が本館を見上げたまま立ち止まっていたことに気づいた。


「……なんでもないよ」


「そうか」


 レンはそれ以上聞かなかった。


「行こう。ハサン教授の講義に遅れる」


 二人は再び歩き出した。


 俊才たちが行き交う石畳を抜け、法学部の学舎へ向かう。


 広い講義室は、すでに多くの学生で埋まっていた。


     ◇


 リックは前方寄りの席を選び、ノートを机に置いた。


 レンは少し離れた席へ座る。


 ジェイの姿はない。


(やっぱり来てないじゃないか……)


 そう思ったところで、講義室の後方が少し騒がしくなった。


 振り返る。


 ジェイが駆け込んできた。


 間に合ったらしい。


 こちらを見つけると当然のように隣へ座る。


「間に合った」


「ギリギリだよ」


「間に合えば同じでしょ」


「同じじゃないよ」


「しーっ。教授来たよ」


「誰のせいだと思ってるんだ……」


 やがて教壇へ一人の男が現れた。


 E・ハサン教授。


 五十歳。


 ニューアーク大学を代表する政治学者の一人であり、リックをこの大学へ誘った本人でもある。


「さて」


 ハサンは教壇に資料を置いた。


「今日は都市同盟について、少し話をしましょうか」


 ざわついていた教室が静まっていく。


「皆さんは都市同盟の中で生まれ、都市同盟の中で生活しています。ですから、都市同盟が存在することを当たり前だと思っている」


 ハサンは学生たちを見渡した。


「しかし、当然ながら最初から存在していたわけではありません」


 黒板に一つの名前を書く。


 ゼルキア。


「現在の都市同盟という考え方の原型を作ったのはゼルキアです」


 続いて、その横にいくつかの都市名を書き加えていく。


「もっとも、最初から現在のような強固な軍事同盟を作ろうとしていたわけではありません」


 チョークが動く。


 自由貿易。


「始まりはもっと単純です。都市間の関税障壁を減らし、商人と商品を自由に往来させる。つまり自由貿易を中心とした都市間の協商協定でした」


 リックはノートへ書き留めていく。


「それがリービッヒと対抗するなかで次第に外交上の協力へ発展し、最終的には相互防衛を含む軍事同盟へと変化していった。それが現在の都市同盟です」


 ハサンは一度チョークを置いた。


「さて、ここで問題です」


 学生たちを見る。


「現在の都市同盟制度において、もっとも大きな問題の一つとされているものは何でしょう?」


 何人かが手を挙げる。


 一人の学生が指名された。


「拒否権です」


「そうですね」


 ハサンは頷いた。


 黒板に大きく、


 ――拒否権。


 と書く。


「では、これを要求した都市は?」


「ゼルキア……では?」


「違います」


 ハサンは笑った。


「むしろゼルキアは反対しました」


 教室から小さなどよめきが起こる。


「要求したのはセントハイムです」


 セントハイム。


 その名が黒板へ加えられた。


「加盟都市の主権を守るため、重要事項について一部都市の意思だけで決定されることを防ぐ。そのための安全装置としてセントハイムは拒否権を要求した」


 さらにハサンは続ける。


「そして、もう一つ」


 黒板に分数を書く。


 四分の三。


「都市同盟の基本的な規則、すなわち憲章そのものを簡単に変更できないよう、改正には全票の四分の三以上の賛成を必要とすることになりました」


 ハサンは学生たちへ振り返った。


「いわゆる硬性憲章ですね。制度の安定という意味では、極めて合理的な考え方です」


 そこで言葉を切る。


「少なくとも――作った当時は」


 黒板へ数字が並ぶ。


 二五六。


「現在の同盟会議の総票数です」


 その下へ、


 一九二。


 と書く。


「憲章改正には百九十二票以上が必要となる」


 さらに別の数字。


 六五。


「逆に言えば、六十五票以上が反対すれば、憲章は改正できません」


 教室が静かになった。


「都市同盟設立当時、ゼルキアとセントハイムの票を合わせても、およそ五十票程度でした」


 六十。


「つまり当時は、この二都市が揃って反対したとしても、それだけでは憲章改正を阻止することはできなかった」


 ハサンがその数字を丸で囲む。


「ところが、都市同盟は成功しました」


 その言葉に、リックは顔を上げた。


「自由貿易は経済を発展させた。交易は拡大し、産業は成長した。これは都市同盟の大きな功績です」


 ハサンは淡々と続ける。


「しかし同時に、産業は特定の都市へ集中していった」


 ゼルキア。


 セントハイム。


 二つの都市名をチョークで叩く。


「産業が集まれば人も集まる。人口が増えれば、票の再配分によって同盟会議における票も増える」


 五十という数字の横に線を引く。


 その先へ、


 八十余。


「現在、この二都市を合わせた票数は八十票を超えています」


 何人かの学生が顔を見合わせた。


「面白いでしょう?」


 ハサンは笑った。


「少数派の権利を守り、制度を安定させるために作られた仕組みが、時代の変化によって別の意味を持つようになった」


 リックは黙って黒板を見る。


「ゼルキアとセントハイムが共同歩調を取る限り、憲章改正は極めて困難です。そして、その状況を変えようにも――」


 ハサンが四分の三という数字を指した。


「そのためには、憲章を変えなければならない」


 小さな笑い声が教室に起こった。


「制度というものは難しいものですねぇ」


 ハサン自身も楽しそうだった。


「作った人間が百年後まで予測できるわけではありません。重要なのは、なぜその制度が作られたのか。そして現在、その制度がどのように機能しているのか。その二つを混同しないことです」


 リックはその言葉をノートへ書き留めた。


 その時だった。


 隣から、かすかな紙の擦れる音がした。


「…………」


 リックは横を見る。


 ジェイが何枚もの紙を広げて、何かを猛烈な勢いで書き込んでいる。


 時々文章を消しては書き直し、別の紙と見比べ、また何かを書く。


 講義を聞いていない。


 しかも、恐ろしく真剣な顔だった。


 ハサンの講義で見せたことなど一度もないほどの集中力である。


(……何やってるんだ、こいつ)


 リックは眉を寄せた。


 ジェイは気づかない。


 ハサンの講義は続いている。


「さて。ところが前回の同盟会議で、少々面白い提案がされました」


 リックの視線が教壇へ戻った。


「セイレン代表、ユマ=リズナーの提唱した――新都市同盟構想です」


「…………」


 リックの手が、一瞬だけ止まった。


 姉さま。


 もちろん、口には出さない。


 ここで自分とユマの関係を知る者はごく限られている。


「この構想については、政治学者や法学者を志す皆さんは新聞などで名前くらいは聞いたことがあるでしょう」


 ハサンは黒板に、新都市同盟、と書き加えた。


「簡単に言えば、現在の都市同盟が抱えている問題を、新たな枠組みを作ることで解決しようというものです」


 その下に二つの言葉を書く。


 拒否権の廃止。


 都市間格差の是正。


「代表的なものが、この二つです。加盟都市による拒否権を廃止する。そして、特定の大都市に産業や富が集中してきた現状についても是正を図る」


 ハサンは先ほど黒板に書いたゼルキアとセントハイムの名へ目を向けた。


「なかなか挑戦的な構想です」


 教室のあちこちから小さな笑いが漏れた。


 ここはゼルキアである。


 その意味が分からない学生はいない。


「当然、反対意見も多い。拒否権は加盟都市の主権を守るために設けられた制度です。また、都市間格差をどのような方法で是正するのかという問題もある」


 ハサンはそこで少し間を置いた。


「ただ――」


 黒板に残っている、自由貿易の自由という文字を指した。


「都市同盟が、そもそも何のために作られたのか。その理念まで遡って考えるのであれば、私は非常に面白い提案だと思います」


 学生たちの何人かがノートへ視線を落とした。


「都市同盟とは、ゼルキアやセントハイムを豊かにするためだけに作られたものではありません。都市と都市が協商し、互いに利益を得る。そのための仕組みから始まったものです」


 ハサンは教壇へ軽く手をついた。


「ならば、現在の都市同盟はその理念を実現できているのか。新都市同盟構想が正しいかどうかとは別に、その問いを我々に投げかけているという点では興味深い」


 そして肩をすくめた。


「もっとも、前回の同盟総会では予備提案すら通りませんでした」


 正式な議題として取り上げられる以前の段階で終わった。


「しかし――」


 ハサンはチョークを置いた。


「次の四月から始まる同盟総会で、どうなるか。楽しみですねぇ」


 どこか愉快そうに学生たちを見渡す。


「今度の同盟総会、面白いことになるかもしれませんねぇ」


 ほどなく、講義の終了を告げる鐘が鳴った。


「では、本日はここまで」


 学生たちが一斉に動き始める。


 リックはノートを閉じた。


 姉さまが何をしようとしているのか。


 もちろん、リックは知っている。


 だが、ハサン教授の講義という形で改めて聞いてみると、自分がこれから学ばなければならないことが、まだいくらでもあることを思い知らされる。


 そして横を見る。


 ジェイはまだ書いていた。


「……ジェイ」


「ちょっと待って。あと少し」


「講義、終わったよ」


「え?」


 ようやく顔を上げる。


 教室を出ていく学生たちを見回し、ジェイは目を瞬かせた。


「もう?」


「…………」


 リックは何も言わなかった。


 ただ、深いため息を一つついた。

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