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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第四章 変転

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第13話 剣

エル拘禁解放時

挿絵(By みてみん)


 最初の一か月、エルはほとんど何も話さなかった。


 朝になれば目を覚ます。


 食事を運べば、少しだけ食べる。


 夜になれば眠る。


 それだけだった。


 誰かが部屋へ入ってくれば身体を強張らせた。


 廊下から男の声が聞こえるだけで、毛布を握る指に力が入った。


 だからミアは、できるだけ何もしなかった。


「エル様。お昼ご飯ですよ」


 返事はない。


「今日はスープとパンです」


 小さな卓に食事を置く。


 それから窓を見る。


「少し暖かいですから、窓を開けてもいいですか?」


 返事はなかった。


「……ちょっとだけにしますね」


 窓を少しだけ開ける。


 冷たい風が部屋へ入り、長い銀色の髪を揺らした。


 エルは窓の外を見た。


 ミアは何も言わなかった。


 食べろとも言わない。


 元気を出せとも言わない。


 話しかけ続けることもしなかった。


 ただ、毎日やってきた。


 食事を運び、部屋を掃除し、湯を用意する。


 エルが眠っていれば静かに出ていく。


 起きていれば、少しだけ話しかける。


 返事がなくても気にしなかった。


 そんな日々が続いた。


     ◇


 二か月目に入る頃には、ミアが部屋へ入っても、エルは怯えなくなっていた。


「おはようございます」


 返事はない。


「今日はいい天気ですよ」


 ミアがカーテンを開く。


 エルが窓の外を見る。


 それだけだった。


 けれどミアには十分だった。


 以前はカーテンを開けても、外を見ることさえなかった。


「髪、梳かしますね」


 エルは拒まなかった。


 ミアはエルの後ろに回ると、長い銀髪へゆっくり櫛を入れた。


 ところが途中で引っかかった。


「……あっ」


 慌てて手を止める。


「痛かったですか?」


 エルの肩が少しだけ動いていた。


 しばらくして、小さく首を横に振る。


「ごめんなさい。だいぶ傷んでますね」


 長い間、十分な手入れなどできなかった。


 毛先は傷み、何度梳かしても絡まる。


 それでもミアは毎日、少しずつ櫛を入れた。


 数日後。


 また櫛が引っかかった。


 エルが小さく顔をしかめる。


「ごめんなさい」


 ミアがすぐに櫛を止めた。


「やっぱり痛いですよね」


「……ミア」


 小さな声だった。


 ミアの手が止まった。


「はい?」


「切って」


「え?」


「髪」


 エルは自分の髪を手に取った。


「切ってほしい」


「……よろしいんですか?」


「うん」


「でも、こんなに綺麗なのに」


「櫛、痛いから」


「あ……」


 ミアは少し考えてから頷いた。


「そうですね。では切りましょう」


「うん」


「どのくらいにします?」


 エルは肩の辺りへ手を当てた。


「これくらい」


「分かりました」


 鋏を持ってくる。


 銀色の髪を一束ずつ取り、慎重に切り始めた。


 しゃきん。


 しゃきん。


 長い髪が床へ落ちていく。


 最初のうちは順調だった。


 右を切る。


 左を切る。


 鏡を見る。


「……あれ?」


 右が少し長い。


 右を切る。


 もう一度見る。


「……」


 今度は左が長く見える。


 左を切る。


 すると、また右が長い。


「……ミア?」


「大丈夫です」


「まだ何も言ってないよ」


「大丈夫ですから」


「……そう」


 しゃきん。


 しゃきん。


 さらに髪が落ちていく。


 やがてミアの額に汗が浮かび始めた。


「……できました」


 自信のない声だった。


 エルは鏡を見る。


「……」


 首を右へ傾ける。


 左へ傾ける。


 自分の髪を触る。


 肩まで残すはずだった髪は、どう見てもそれよりかなり短かった。


「……短い」


「すみません!」


 ミアが頭を下げた。


「揃えていたら、どんどん短くなってしまって……!」


 エルはもう一度、鏡を見る。


 短くなった銀髪。


 小さな顔がすっかり出ている。


「なんか……」


「はい……」


「男の子みたい」


「ご、ごめんなさい!」


 その慌てた顔を見て。


「ふふっ」


 小さな笑い声が漏れた。


 ミアが顔を上げる。


「エル様?」


「ミア、下手」


「う……」


「ふふっ」


「エル様が少し動いたんですよ」


「動いてないよ」


「動きました」


「動いてない」


「ちょっとだけです」


「ミアが下手なんだよ」


「もう知りません」


 そう言いながら、ミアも笑った。


 ほんの少し前まで、声をかけても返事すらなかった。


 そのエルが笑っている。


 ミアはそれ以上何も言わなかった。


 床に落ちた髪を片付け始める。


 その途中で、一つの青いリボンを拾った。


「あ」


 ずっとエルの髪を飾っていたものだった。


 ミアはそれを持ち上げた。


「エル様」


「なに?」


「このリボン、またつけますか?」


 エルの表情が止まった。


 青いリボンを見る。


「……」


「短くなりましたけど、少し工夫すればつけられると思いますよ」


「……いらない」


「え?」


「もう、つけなくていい」


 ミアは手の中のリボンを見る。


「お気に入りだと思っていました」


「……うん」


「では、どうして?」


 少しだけ間があった。


 エルは鏡へ視線を戻した。


「子どもっぽいから」


「そうですか?」


「うん」


「私は似合っていたと思いますけど」


「もういいの」


 ミアはエルを見た。


 だが、それ以上は聞かなかった。


「分かりました。では、しまっておきますね」


「……うん」


 ミアが丁寧にリボンを畳む。


 その手元をエルは見ていた。


「ミア」


「はい?」


「……捨てないでね」


「もちろんです」


「うん」


 エルは鏡へ向き直った。


 短くなった銀髪。


 そこにはもう、青いリボンはなかった。


     ◇


 三か月が過ぎる頃には、短い会話ならできるようになった。


 知らない人間を怖がることはまだあった。


 特に男が近づけば表情が硬くなる。


 それでもミアと二人でいる時には、少しずつ以前の表情を見せるようになっていた。


 ある日の昼前。


「エル様」


「なに?」


「今日のお昼、何が食べたいですか?」


「……お昼?」


「はい。食欲も戻ってきましたし、今日はエル様のお好きなものを作っていただこうと思いまして」


 ミアは紙とペンまで用意していた。


「何でもいいですよ」


「なんでも?」


「はい」


 エルは少し考えた。


「……カエル」


「えっ」


 ミアの手が止まった。


「カエル」


「……蛙、ですか?」


「うん」


「食べるんですか?」


「うん」


「カエルを?」


「うん」


「…………」


 ミアが困った顔で紙を見る。


 どうやら本当に厨房へ頼むつもりらしい。


「ミア」


「はい」


「冗談」


「…………」


 顔を上げる。


 エルが少し笑っていた。


「エル様」


「なに?」


「そういう冗談を言う方だったんですか?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「自分でも忘れてた」


 エルが小さく笑う。


 ミアも笑った。


「では、本当は何がいいですか?」


「んー……お魚」


「お魚ですね」


 ミアが紙に書く。


「でも」


「はい?」


「カエルも美味しいよ」


 ペンが止まった。


「……冗談ですよね?」


 エルは答えなかった。


「エル様?」


「ふふっ」


「どっちなんですか」


 そんな日が、少しずつ増えていった。


 ある日、ミアは一冊の本を持ってきた。


「エル様。これ、どうぞ」


「なに?」


「日記帳です」


「日記?」


「はい。気持ちを落ち着かせるのにいいって聞きました」


「……誰に?」


「え?」


「誰に聞いたの?」


「……たぶん、偉い学者さんです」


 エルがじっと見る。


「適当」


「すみません」


 エルがまた少し笑った。


「毎日書かなくてもいいそうですよ。書きたいことがある時だけで。今日食べたものでも、お天気でも」


「……うん」


「嫌なら使わなくてもいいです」


「分かった」


 その日、エルは日記帳を開かなかった。


 次の日も。


 その次の日も。


 白い紙は、白いままだった。


 それから何日かして。


 ミアが部屋を掃除していると、日記帳の置かれている場所が変わっていた。


 中を見るようなことはしなかった。


 エルも何も言わなかった。


 それから時々、エルは日記帳を開くようになった。


 毎日ではない。


 何日も触れないこともある。


 書いたとしても、ほんの少し。


 それでも日記帳は、いつも机の片隅に置かれるようになった。


     ◇


 五か月が過ぎた。


 エルは目に見えて回復していた。


 以前のように誰とでも話せるわけではない。


 大勢の人間に囲まれることも、まだ苦手だった。


 それでもミアとは普通に話せる。


 カレリアが訪ねてくれば、一緒にお茶を飲めるようにもなった。


 その日も、二人は向かい合っていた。


 だが、いつもとは少し違った。


「エル」


「なに?」


「今日は、話があるの」


 カレリアの表情が硬い。


 エルもそれに気づいた。


「このままでは、あなたの軟禁は解かれないと思う」


「……うん」


 分かっていた。


 自分が置かれている立場も、少しずつ理解できるようになっていた。


「でも、私はあなたをこのままにしておきたくない」


「……」


「それとね」


 カレリアは自分の膝の上で手を握った。


「あなたを見ていて、決めたことがあるの」


「私を?」


「うん」


 カレリアは少し黙った。


「私は今まで、政治には関わらないようにしてきた」


 王族として生まれた。


 だが、政治の中心に立とうとはしなかった。


 元老会議にもほとんど姿を見せなかった。


「権力なんて欲しくなかった。余計なことをしなければ、誰かを傷つけることもないと思ってた」


 それでいいと思っていた。


 だが、この数か月。


 カレリアは嫌でも国の姿を見ることになった。


「この国は、このままじゃ駄目」


 エルは黙って聞いている。


「みんな自分のことばかり。国が苦しくなっているのに何もしない。自分たちの暮らしが変わらないから、まだ大丈夫だと思ってる」


 安い麦が入ってくる。


 物価は抑えられる。


 自分たちはこれまで通り暮らせる。


 だから何も変えない。


「このままだと、リービッヒは滅びる」


 エルの瞳が僅かに動いた。


「だから私、もう逃げない」


「カレリア……」


「力を持つ」


 今までのカレリアなら、口にしなかった言葉だった。


「この国を守れるだけの力を持つ。誰かに任せて、何かが起きてから悲しむんじゃなくて、私がやる」


 そしてカレリアは、エルを真っ直ぐ見た。


「だから、エル」


「うん」


「私の剣になってほしい」


 エルは黙った。


 カレリアも待った。


 長い沈黙の後。


「……私に、何ができる?」


「私が間違えそうになったら止めて」


「うん」


「守らなきゃいけない人がいるなら、守って」


「うん」


「この国を守るために戦わなきゃいけない時は――」


 カレリアは一度、息を吸った。


「私のために戦ってほしい」


 エルは俯いた。


 しばらく、そのままだった。


 やがて椅子から立ち上がった。


 カレリアの前へ進む。


 そして静かに膝をついた。


「エル?」


 短い銀髪が揺れた。


 エルは顔を上げた。


「私の剣は、あなたに預ける」


 カレリアは何も言わなかった。


 ただ、強く頷いた。


     ◇


 277年7月


 リブロフ元老会議。


 会議場に入ってきた少女を見て、ざわめきが広がった。


「……カレリア殿下?」


「なぜ殿下が……」


 これまで政治への関与を避け、元老会議にもほとんど姿を見せなかった王女である。


 カレリアは集まった貴族たちの視線を受けながら、用意された席へ座った。


 この日の議題は、一つ。


 パドゥーラ問題であった。


「これ以上、何を議論する必要がある!」


 ガレスが声を荒らげた。


「パドゥーラの反逆は、もはや明白ではないか!」


「その通りだ!」


 イーワンも机を叩いた。


「トーマは奴らに殺された! いつまで反逆者どもを放置するつもりだ! 直ちに討伐軍を編成すべきだ!」


 だが、会議場の反応は鈍かった。


「そう簡単に申されても……」


 一人の貴族が口を開いた。


「軍を動かせば、その軍に食わせねばなりませぬ」


「それに、パドゥーラとの交易を止めれば穀価が……」


「我が領にも大量のパドゥーラ産の麦が入っております」


「ノースジョウ方面への食料供給もある」


 別の貴族が言葉を濁した。


「それに……我々の領内の商人も、パドゥーラとの取引を――」


「だから何だ!」


 ガレスが机を叩いた。


「反逆者から麦を買わねば、この国は維持できぬとでも言うのか!」


 誰も答えなかった。


 それ自体が答えだった。


 第三次コスタ戦役。


 その後半、リービッヒ軍を支えた食料のかなりの部分がパドゥーラから供給されていた。


 戦争が終わった後も、それは変わらなかった。


 安価なパドゥーラ産の麦は国内の物価を押し下げた。


 民衆はどうにか生活できた。


 だから大規模な不満も起きなかった。


 そして、その安さに頼りきったまま、自らの領地を立て直す努力を怠った者も多かった。


 今さらパドゥーラとの関係を断てば、その代償を最初に払うのは自分たちだった。


「情けない……!」


 イーワンが吐き捨てる。


 ガレスは軍務を担当する者へ目を向けた。


「では聞く」


「はっ」


「現状、この国が動かせる兵力はどれほどだ」


 男は手元の資料へ視線を落とした。


「……二万前後でございます」


「二万か」


「はい」


「ならば二万を出せ!」


「しかし――」


「まだ何かあるのか!」


「期間がございます」


 ガレスの眉が動いた。


「期間?」


「はい」


 男は言いにくそうに答えた。


「現在、軍用として確保できる兵糧では……」


 一度、言葉を切る。


「三十日が限界でございます」


 静まり返った。


 二万。


 三十日。


 その条件でパドゥーラを討て。


 誰もが頭の中で地図を思い浮かべた。


 北。


 パドゥーラ回廊。


 かつてアーネム帝国が山を削り、断崖を切り開いて作った狭隘な道。


 南。


 プラタ川。


 そして西には、広大なチル湖。


 天然の要害に囲まれたパドゥーラへ、二万の兵で攻め込む。


 しかも三十日以内。


「……無理ではないか」


 誰かが呟いた。


 誰も否定しなかった。


「では」


 静かな声が響いた。


 全員がそちらを見る。


 カレリアだった。


「その条件で、侵攻作戦を立案させていただけませんか」


「……殿下?」


「兵力二万。作戦行動期間三十日」


 カレリアは一人一人を見るように、会議場を見渡した。


「その条件で、パドゥーラを奪還する方法を考えさせます」


 しばらく誰も言葉を発しなかった。


 やがて一人が尋ねた。


「……誰に、でございますか?」


「エル=リージェットです」


 空気が変わった。


「馬鹿な!」


 イーワンが立ち上がった。


「なぜ、あの女に!」


「パドゥーラを知っているからです」


「知っているどころではない! 奴はパドゥーラ侯と――」


「だからです」


 カレリアは遮った。


「パドゥーラの地形を知っています。軍を知っています。城を知っています。パドゥーラがどのような場所なのかを知っています」


 そして一拍置いた。


「何より、パドゥーラ侯がどう戦う人間なのかを知っています」


 反論が止まった。


「ヴァンにも協力させます」


「ヴァンだと?」


 またざわめきが起きる。


 以前の査問会で、門閥貴族たちのパドゥーラとの商業関係まで暴き立てた男である。


「二人に作らせます」


 ガレスがカレリアを睨んだ。


「殿下」


「はい」


「あの女を信用せよと?」


「いいえ」


 即答だった。


 ガレスの眉が僅かに動く。


「信用していただく必要はありません」


「ならば、なぜ作らせる」


「証明させるためです」


「何を」


「エルの忠誠を」


 再び会議場が静かになった。


「エルは、私に忠誠を誓いました」


「言葉など何の証明にもならん」


「はい」


 カレリアは否定しなかった。


「ですから、パドゥーラを打倒するための作戦を作らせます」


 ガレスはしばらくカレリアを見ていた。


「……中途半端なものを出してきた場合はどうする」


「……」


「意図的に欠陥を残した作戦。パドゥーラ侯を利するための偽りの作戦。そのようなものを提出したと判断した場合――」


 ガレスの声が低くなる。


「今度こそ処断する」


 何人もの視線がカレリアへ集まった。


「それでも作らせるというのか?」


 カレリアは僅かに唇を噛んだ。


 それでも視線を逸らさなかった。


「はい」


「殿下」


「それでも構いません」


 ガレスの目を真っ直ぐ見返す。


「エルに作らせてください」


 沈黙が続いた。


 やがてガレスが腕を組んだ。


「……そこまで言うならば、見せてもらおうではないか」


 反対の声は、もう上がらなかった。


 兵力二万。


 作戦行動期間三十日。


 その条件の下、エル=リージェットとヴァンに対パドゥーラ侵攻作戦を立案させることが決定された。

これで3章は終わります。次に余話が1話入ります。

明日から4章を更新していきます。

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