余話 パドゥーラの歌姫
余話
276年11月8日。
「ただいま……」
久しぶりに帰ってきたティエちゃんは、それだけ言った。
「おかえり、ティエちゃん。ずいぶん久しぶりじゃない」
「うん……」
「ご飯は?」
「いらない」
「え?」
「ちょっと寝るね」
それだけ言うと、ティエちゃんは自分の部屋へ入っていった。
私は閉じられた扉をしばらく眺めていた。
「……どうしたんだろ」
ここしばらく、ティエちゃんはずっと城に詰めていた。
主計長なんて大層な役職についてから忙しいのはいつものことだけれど、それにしても今回は長かった。
何日も帰ってこないことだって珍しくない。
だから久しぶりに帰ってくると聞いて、今日は少しくらいゆっくり話せると思っていた。
それなのに。
ティエちゃんは、そのまま眠り続けた。
昼を過ぎても起きてこない。
夕方になっても起きてこない。
夜になって一度様子を見に行ったけれど、眼鏡を外したまま、布団の中ですうすうと寝息を立てていた。
「……どれだけ働いてたのよ」
仕方なく、その日はそのまま寝かせておいた。
翌朝。
ようやく起きてきたティエちゃんは、寝癖のついた髪のまま食卓についた。
「おはよう」
「……おはよう」
「よく寝たね」
「うん」
「少しは元気になった?」
「……うん」
全然、元気そうじゃない。
パンをちぎって口へ運んでいるけれど、目はどこか遠くを見ている。
「ティエちゃん」
「なに?」
「なんかあった?」
「別に」
「アムちゃんと喧嘩した?」
「してないよ」
「じゃあ――」
少し迷ってから聞いた。
「エルちゃん?」
ティエちゃんの手が止まった。
ほんの一瞬。
それだけだった。
「……違うよ」
またパンをちぎり始める。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ何?」
「なんでもないって」
いつものティエちゃんなら、もう少し上手に誤魔化したと思う。
だから、余計に聞けなかった。
結局ティエちゃんは、その日の昼過ぎには城へ戻っていった。
何をしに帰ってきたんだろう。
寝るためだけだったんじゃないだろうか。
◇
それから、変な話を聞くようになった。
「城で何かあったらしいぞ」
最初にそう言ったのは父さんだった。
「何かって?」
「知らん」
「父さん、鉄鋼ギルド長でしょ」
「鉄鋼ギルド長だからって、城の中のことを何でも知ってるわけじゃねえよ」
「使えないなあ」
「お前な」
父さんは呆れた顔をした。
それだけなら、まだ気にしなかったと思う。
でも、劇場でも同じだった。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「エル様のこと」
衣装を直していた女の子が声を潜めた。
「エルちゃんがどうしたの?」
「いなくなったって」
「……は?」
「王都で何かあったらしいよ」
「捕まったって話もあるぞ」
「嘘でしょ」
「パドゥーラ侯と何かあったんじゃないかって」
「それは絶対ない」
思わず即答していた。
アムちゃんとエルちゃんだって喧嘩くらいする。
昔から何度も見てきた。
でも、それでエルちゃんがいなくなるなんてことはない。
それに。
ついこの前まで、街では別の話でもちきりだった。
11月5日エルちゃんの誕生日。
アムちゃんとエルちゃんが婚約するんじゃないか。
みんな、そんなことを言っていた。
アムちゃんが宝飾品店で指輪を買っているところまで見た人がいるらしい。
誰に渡すのかなんて、考えるまでもない。
私だって、とうとうかと思った。
むしろ遅いくらいだと思っていた。
「エルちゃんは王都に行ってるだけでしょ」
そう言って笑った。
笑ったはずだった。
でも。
頭に浮かんだのは、食卓でパンをちぎっていたティエちゃんだった。
――エルちゃん?
そう聞いた瞬間。
ティエちゃんの手は、確かに止まった。
◇
12月15日。
その日、ティエちゃんが久しぶりに帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
十一月に帰ってきたときよりは、ずっとまともだった。
ちゃんと私の顔を見ている。
話しかければ返事もする。
それでも、疲れているのは分かった。
「ご飯、食べる?」
「うん」
「今日は泊まれる?」
「そのつもり」
「そっか」
それだけで少し嬉しかった。
ちょうど父さんがギルドの会合だったので二人で食事をした。
父さんがまた腰を痛めたこと。
市場に変な香辛料が入ってきたこと。
そんな、どうでもいい話をした。
ティエちゃんも少しだけ笑った。
食事が終わったあとだった。
「ティファ」
「ん?」
「聞いて欲しいことがあるんだ」
声が違った。
私は黙ってティエちゃんを見た。
「……もう隠さなくていいから」
「何を?」
ティエちゃんは少し俯いた。
「エルのこと」
胸がざわついた。
「今日、正式に追放令が出た。国家反逆罪…」
「……追放?反逆罪?」
「うん」
ティエちゃんは一度だけ息を吸った。
「エルは、パドゥーラから国家反逆罪で追放された」
「……え?」
何を言っているのか分からなかった。
パドゥーラから?
エルちゃんが?
「ちょっと待って」
「うん」
「エルちゃんって、アムちゃんの副官だよね?」
「うん」
「それに二人は婚……」
そこまで言って、言葉が止まった。
婚約したんじゃないの?
本人たちから聞いたわけじゃない。
でも、みんなそう思っていた。
アムちゃんが宝飾品店で指輪を買っていたことだって、街ではとっくに知られている。
私だって、そうなんだと思っていた。
「……なんで?」
それしか出てこなかった。
「なんでエルちゃんが、パドゥーラから追放されるの?」
「……いろいろあったんだ」
「いろいろって」
ティエちゃんは、そこから少しずつ話してくれた。
城で何が起きたのか。
エルちゃんが戻ってこられなくなったこと。
パドゥーラで何が起きていたのか。
全部を理解できたわけじゃない。
政治のことなんて私にはよく分からない。
でも。
どうしてティエちゃんが十一月にあんな顔をしていたのか。
それだけは、少し分かった。
「アムちゃんは?」
「……働いてるよ」
「働いてる?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと」
「遊びにも行ってないの?」
「行ってない」
「釣りは?」
「行ってないと思う」
「……アムちゃんが?」
「うん」
それは変だった。
アムちゃんが仕事をする。
それ自体は別におかしくない。
やるときはやる人だ。
でも、仕事が終わったら遊ぶ。
釣りに行く。
料理をする。
エルちゃんに悪戯する。
それがアムちゃんだった。
「最近は、仕事がなくなると自分から探してるくらい」
「……嘘」
「本当」
そんなの、アムちゃんじゃない。
「……そっか」
たぶん。
暇になりたくないんだ。
何もしなくなったら、エルちゃんのことを考えてしまうから。
だから忙しくしている。
辛いと思う時間まで、仕事で埋めている。
「ティエちゃんも?」
「ボク?」
「ずっと働いてたんでしょ」
「まあね」
ティエちゃんは、少しだけ笑った。
「今月の支払いもあるし、止めるわけにはいかないから」
「うん」
「軍の予算も組み直さないといけないし、各地から報告も来るし……アムルもあんな感じだから、ボクが……」
ぽたり。
テーブルに何かが落ちた。
ティエちゃんが黙った。
眼鏡を外して、袖で目元を拭う。
「……ごめん」
「ティエちゃん?」
「大丈夫」
眼鏡をかけ直す。
「それでね、来年の予算も……」
ぽたり。
また落ちた。
ティエちゃんはもう一度目元を拭った。
「……おかしいな」
笑おうとした。
でも、笑えていなかった。
「ティエちゃん」
「大丈夫だから」
大丈夫なわけがなかった。
「ボクまで止まったら……仕事が……」
声が震えた。
「パドゥーラ、回らなくなるから……」
そうだ。
ティエちゃんだって、辛かったんだ。
アムちゃんはティエちゃんの大切な友達だ。
エルちゃんだってそうだ。
なのに。
アムちゃんがあんな状態で。
エルちゃんはいなくなって。
それでもティエちゃんは、ずっと城で仕事をしていた。
自分まで止まったら、パドゥーラが回らなくなるから。
「だから……ボクは……」
私はそっと立ち上がった。
ティエちゃんの後ろへ回った。
その身体を後ろから抱き締めた。
ティエちゃんの言葉が止まった。
私は何も聞かなかった。
大丈夫とも言わなかった。
エルちゃんは帰ってくるとも言わなかった。
ただ、少しだけ腕に力を入れた。
「ティエちゃん」
「……」
「頑張ったね」
「……」
それだけ。
ティエちゃんは何も言わなかった。
ただ、泣いていた。
私の腕の中で。
ずっと、泣いていた。
◇
翌日。
12月16日。
リオちゃんがやってきた。
「ティファ、いる?」
「いるけど。どうしたの?」
「挨拶」
「挨拶?」
「私、パドゥーラを出るから」
「……え?」
昨日、エルちゃんのことを聞いたばかりだった。
今度はリオちゃんだった。
「どこ行くの?」
「アスナム」
「アスナム?南部の?」
「本家。しばらく置いてもらう」
ドゥットゥカース本家。
詳しいことは分からない。
でも、リオちゃんがそこへ行くということが、ただの旅行じゃないことくらいは分かった。
「いつ帰ってくるの?」
「さあ」
「さあって」
「分からないものは分からないわよ」
いつものリオちゃんだった。
でも、いつもより少しだけ静かだった。
「アムちゃんには?」
「もう挨拶してきた」
「そっか」
どんな挨拶をしたのかまでは聞かなかった。
「それで、私にも?」
「まあね」
「なんで?」
「ご飯とか」
「ご飯?」
「結構たべせてもらったし。それ以外にもいろいろ世話になったから」
「なにそれ」
思わず笑った。
「急にそんなこと言うと気持ち悪いよ、リオちゃん」
「うるさいわね。人がせっかく礼を言いに来たのに」
「はいはい」
リオちゃんは少しだけ顔を背けた。
「……今までありがと」
今度は笑えなかった。
「また食べに来ればいいじゃん」
「……そうね」
「今度はもっと美味しいの作ってあげる」
「それ、あんたが作るの?」
「作れるよ!」
「どうだか」
「失礼な」
少しだけ、いつもの感じに戻った。
「じゃあね、ティファ」
「うん」
「ティーエにもよろしく」
「自分で言えばいいのに」
「面倒」
「もう」
リオちゃんは手を振って歩き出した。
私は、その背中をずっと見ていた。
角を曲がって見えなくなるまで。
◇
新しい年になった。
年が変わったからといって、何かが元に戻るわけではなかった。
「そういえば最近、グランワルドさん見ないね」
何気なく父さんに聞いた。
返ってきた答えは簡単だった。
「軍を辞めたぞ」
「……え?」
「知らなかったのか?」
「いつ?」
「年末だ」
「なんで?」
聞いてから、分かった。
グランワルドさんは、ずっとエルちゃんに忠誠を誓っていた。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
街の空気も変わっていた。
「門閥貴族どもが!」
酒場で怒鳴っている人がいた。
「エル様が何をしたっていうんだ!」
悔しそうに話している人もいた。
「これからどうなるんだろうねえ」
市場では不安そうな声を聞いた。
「リービッヒと戦争になるんじゃないか?」
「まさか」
「でも、エル様まで追放したんだぞ」
「もうリービッヒなんか知るか」
「そんな簡単な話じゃないだろ」
みんな言うことが違った。
怒っている人。
悲しんでいる人。
不安そうな人。
これからのパドゥーラを心配している人。
誰が正しいのか、私には分からなかった。
ただ、みんなが何かを失ったような顔をしていた。
そんなある日。
「鉄鋼ギルドで決まった」
父さんが言った。
「何が?」
「これからドゥットゥカースの名は使わん」
「……え?」
「ギルドの決定だ」
「なんで?」
「いろいろあるんだよ」
「でも……」
ドゥットゥカース。
それは私にとって、難しい家柄の名前なんかじゃなかった。
アムちゃんの名前だった。
「アムちゃんは?」
「侯が決定したことだ」
「……そう」
よく分からなかった。
でも。
何かが変わっていくことだけは分かった。
エルちゃんがいなくなった。
リオちゃんもいなくなった。
グランワルドさんも軍を去った。
ティエちゃんは城で働き続けている。
アムちゃんも、ずっと働いているらしい。
ずっと。
街は、それでも動いていた。
朝になれば市場が開く。
工房から煙が上がる。
子供たちは学校へ行く。
商人たちは大声で客を呼ぶ。
劇場だって開いている。
でも、前とは違った。
◇
私はしばらく、歌うのをやめようかと思った。
こんなときに歌って、何になるんだろう。
エルちゃんが帰ってくるわけじゃない。
リオちゃんが戻ってくるわけでもない。
ティエちゃんが泣かなくて済むわけでもない。
アムちゃんの辛さが消えるわけでもない。
街のみんなの不安だってなくならない。
だったら。
こんなときに歌なんて――。
「シャンテ、そろそろだぞ」
舞台袖で声をかけられた。
「……うん」
幕の向こうから、人のざわめきが聞こえる。
いつもより少ない。
それでも、人がいる。
今日も劇場まで来てくれた人たちがいる。
私は幕の隙間から客席を覗いた。
みんな、いろんな顔をしていた。
笑っている人もいる。
疲れている人もいる。
寂しそうな人もいる。
――違う。
ふと、そう思った。
私は何を考えていたんだろう。
私はシャンテだ。
歌姫だ。
楽しいときだけ歌う。
みんなが笑っているときだけ歌う。
そんなのは違う。
こんなときだからこそ。
歌わないとならない。
私には政治なんて分からない。
軍を動かすこともできない。
難しい計算なんて、ティエちゃんみたいにはできない。
エルちゃんを連れ戻すこともできない。
アムちゃんの代わりに何かを背負うこともできない。
だけど。
歌うことならできる。
「シャンテ、出るぞ」
「はい!」
私は大きく息を吸った。
幕が開いた。
光の中へ、一歩踏み出す。
そこには、パドゥーラの人たちがいた。
だから私は歌う。
この街で。
このパドゥーラで。
悲しんでいる人に。
怒っている人に。
不安で眠れない人に。
城で頑張っているティエちゃんに。
辛さを忙しさで埋めているアムちゃんに。
そして――。
ここにはいない、エルちゃんにも。
少しでも届いてほしい。
この歌声が。
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