第12話 カレリア
カレリア&ミア
「ミアさん」
呼び止められ、ミアは足を止めた。
王宮の廊下だった。
振り返ると、見覚えのある若い兵士がこちらへ駆けてくる。
「あら。久しぶりね」
「お久しぶりです」
同郷の男だった。
ミアの故郷はラレドである。
貧しい下級貴族の家に生まれたミアは、幼い頃から王宮へ奉公に出されていた。
やがてカレリア付きの侍女となり、今では身の回りの世話だけではなく、多少込み入った用事まで任されるようになっている。
故郷を離れて長い。
それでも、リブロフにラレド出身者がまったくいないわけではなかった。
幼なじみのケントもそうだった。
彼は平民の生まれだったが、兵士となってラレドを離れ、リブロフへやってきた。
南北戦争ではアムルとエルの父であるモンドの脱出を助け、そのまま彼の部隊へ加わった。
今では百人ほどを率いる立場にまでなっている。
昔から槍だけは上手かった。
それ以外は、まあ。
そんなことを考えていると、若い兵士が周囲を気にするように声を落とした。
「実は、ミアさんに渡してほしいって頼まれたものがありまして」
「私に?」
「はい」
差し出されたのは、小さく折り畳まれた紙だった。
「誰から?」
「ヴァン先生です」
「ヴァン……?」
ミアは一瞬考えた。
すぐに思い当たる。
「エル様と一緒にリブロフへ来られた方?」
「たぶん、その人です」
「先生って?」
「いや、なんていうか……先生なんですよ」
「?」
よく分からない。
「ヴァン様は、私に何と?」
「それだけ渡せば分かるって」
「会ったこともないのだけれど」
「本人もそう言ってました」
ますます意味が分からない。
ミアは紙を開いた。
書かれていたのは、たった一行だった。
――十一月の客人は、まだ帰っておりません。
「…………」
ミアの表情が変わった。
「ミアさん?」
「これ、いつ預かったの?」
「数日前です。ミアさんになかなか会えなくて」
「そう」
十一月。
客人。
そしてヴァン。
分からないはずがなかった。
「……まだ?」
エルがリブロフへ戻ってきたことは知っている。
査問を受けていることも知っていた。
それ自体は不思議ではない。
エルがパドゥーラを離れた経緯について、宮廷が事情を聞きたいと考えることまでは理解できる。
だが。
十一月に来た人間が。
まだ帰っていない?
ミアはもう一度、一行だけの文章を見る。
助けてほしいとは書かれていない。
危険だとも書かれていない。
エルの名前すらない。
だからこそ、気味が悪かった。
ヴァンという男は、わざわざ面識すらない自分を選び、この一文を届けてきた。
何もないはずがない。
「ありがとう」
「いえ」
「このことは誰かに話した?」
「いいえ」
「そのまま誰にも話さないで、お願いします。」
「……分かりました」
ミアは踵を返した。
歩調が速くなる。
向かう先は一つしかなかった。
◇
「カレリア様」
「どうしたの、ミア?」
机に座っていたカレリアは書類から顔を上げた。
昨今のパドゥーラ情勢に関する報告書を脇に置く。
「少し、見ていただきたいものがあります」
ミアは紙を差し出した。
カレリアが受け取る。
「何?」
「ヴァン様からです」
「ヴァン?」
「エル様と一緒にリブロフへ来られた方です」
「ああ……」
カレリアの表情が少し曇った。
エルが帰ってきていることは知っていた。
そもそも――。
帰ってきてほしい。
そう書いたのは、自分だった。
パドゥーラとリービッヒの関係が急速に悪化していた。
エルがあのままパドゥーラにいることを心配していた。
だから手紙を書いた。
帰ってきてほしい、と。
そしてエルは帰ってきた。
その後、事情を聞かれていることも知っていた。
当然、多少時間はかかるだろうと思っていた。
パドゥーラ侯の最も近くにいた人間である。
聞かなければならないことも多い。
だからカレリアも、あえて口を挟まなかった。
それが――。
「十一月の客人は、まだ帰っておりません……?」
カレリアが読み上げる。
「どういうこと?」
「私にも詳しくは分かりません。ただ……」
ミアは少し躊躇った。
「まだ査問が続いている、という意味ではないでしょうか」
「まさか」
カレリアは即座に否定した。
だが、その声には自信がなかった。
「もう何か月経っていると思っているの?」
「ですから、不思議なのです」
「…………」
カレリアはもう一度紙を見る。
たった一行。
それだけだった。
「ミア」
「はい」
「エルの査問記録を取り寄せて」
「承知しました」
◇
最初の記録を読んだとき、カレリアはまだ冷静だった。
エルがなぜパドゥーラを離れたのか。
アムル=ドゥットゥカースとの関係。
モンドからどのような指示を受けていたのか。
パドゥーラの内情。
リービッヒへの帰属意思。
厳しい質問もある。
答えにくい質問もある。
だが、国家として確認する必要があると言われれば理解できなくもなかった。
「……ここまでは分かるわ」
カレリアは次の記録を手に取った。
ミアが黙って隣に立っている。
一枚めくる。
さらにめくる。
「…………」
カレリアの指が止まった。
「これ、前にも聞いていない?」
ミアが前の記録を確認する。
「はい」
「答えているわよね?」
「答えておられます」
さらに読む。
また同じ質問。
表現を少し変えただけだった。
次も。
その次も。
アムルとの関係。
パドゥーラへの忠誠。
リービッヒへの忠誠。
なぜ戻った。
誰のために戻った。
どちらを選ぶ。
何を捨てる。
最初の頃には存在していた事実確認という目的が、少しずつ消えていく。
「…………」
紙をめくる音だけが部屋に響いた。
二か月目。
明らかに変わっていた。
新しい情報を引き出しているわけではない。
すでに答えの出ていることを、何度も何度も繰り返している。
「何なの、これ……」
カレリアの声が低くなった。
さらに数枚読む。
そして、読むのをやめた。
「ミア」
「はい」
「この査問、今は?」
ミアは一瞬答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
カレリアが顔を上げる。
「……まだやっているの?」
「はい」
椅子が大きな音を立てた。
カレリアが立ち上がった。
「行くわよ」
「はい」
ミアも迷わなかった。
◇
「カレリア様」
兵士が慌てて前へ出た。
「ここから先は――」
「エル=リージェットに会います」
「ですが、現在は面会を――」
「開けなさい」
「しかし」
「開けなさい」
声は大きくなかった。
だが、兵士は動けなかった。
「誰の命令で私を止めているの?」
「それは……」
「私はエルに会うと言っています」
兵士たちが顔を見合わせる。
王族であるカレリアを実力で止めることなどできない。
やがて一人が鍵を取り出した。
扉が開く。
カレリアが入った。
その後ろからミアも続く。
薄暗い部屋だった。
最初、カレリアには誰がいるのか分からなかった。
寝台の端に、人が座っていた。
俯いている。
銀色の髪は乱れていた。
頬は痩せている。
肩も以前よりずっと細く見えた。
カレリアが足を止める。
ミアも動かなかった。
「…………」
誰?
一瞬だけ、本当にそう思った。
けれど。
銀色の髪。
見間違えるはずがない。
「……エル?」
反応がない。
カレリアが一歩近づいた。
「エル」
ゆっくりと顔が上がった。
焦点の定まらない氷青の瞳が、カレリアを見る。
「…………」
しばらくして。
「……カレリアさま?」
その声を聞いた瞬間だった。
カレリアの中で何かが切れた。
「何よ……これ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
ミアがエルのところへ駆け寄った。
「エル様」
「……ミア?」
「はい」
ミアはしゃがみ込み、エルの手を取ろうとした。
右手は冷たかった。
そして、そこで気づいた。
左手だけが固く握り締められている。
「ミア……久しぶり」
「……はい」
昔のエルなら、もう少し笑ったはずだった。
南北戦争の頃。
カレリアをリブロフから逃がすため、三人で必死になって動いた。
あの頃のエルは、こんな目をしていなかった。
ミアは何も言えなくなった。
カレリアが振り返った。
「誰がやったの」
兵士たちは答えない。
「誰が、こんなになるまで続けろと言ったの!」
「カレリア様、我々は命令に――」
「もういい」
カレリアはエルへ戻った。
「エル。行くわよ」
「……どこに?」
カレリアの表情が歪んだ。
「ここじゃないところ」
「でも……査問が……」
「終わり」
「でも……」
「いいの」
カレリアはエルの肩に手を置いた。
「もういいから」
ミアがエルを立たせる。
足元がふらついた。
「エル様」
「大丈夫……」
「大丈夫ではありません」
ミアが身体を支えた。
三人が部屋を出ようとした、そのときだった。
「お待ちください!」
廊下の向こうから声が響いた。
数人の男たちを従え、イーワン=フランツベルクが歩いてくる。
「カレリア様。何をなさっているのです」
「見れば分かるでしょう」
「その者はいまだ査問中です」
「知っています」
「でしたら――」
「査問記録は全部読みました」
イーワンが黙った。
「必要な情報は出尽くしています」
「それを判断するのは――」
「では、何を聞くの?」
「…………」
「二か月目から同じことしか聞いていないじゃない」
イーワンの顔が強張った。
「これは国家の問題です。エル=リージェットはパドゥーラ侯と深い関係にあり――」
「彼女は私が呼びました」
「……何ですと?」
「私が手紙を書いてリブロフへ来るように促しました。」
カレリアは一歩、イーワンへ近づいた。
「リブロフへ帰ってきてほしいって」
「それと査問とは別の問題です」
「別ではありません」
カレリアの声が震えた。
「私が帰ってきてほしいと頼んだのよ」
その後ろでは、ミアがエルを支えている。
「それを信じて帰ってきた子を、あなたたちは何か月ここに閉じ込めたの?」
「しかし彼女には、パドゥーラとの――」
「エルはパドゥーラで反逆罪に問われています」
イーワンが言葉を止めた。
「リービッヒへ帰ってきたからよ」
「…………」
「パドゥーラ侯から反逆者として扱われて、それでもリービッヒへ帰ってきた人間を――」
カレリアはエルを見た。
痩せた身体。
乱れた銀髪。
以前の面影を辛うじて残した顔。
「リービッヒは、何の罪でこんなにしたの?」
「罪の有無を確認するための査問です」
「もう確認したでしょう」
「カレリア様」
「却下します」
「……何を」
「これ以上の査問を認めません。エルは私が預かります」
「そのようなことを勝手に決められては困ります」
「そう」
カレリアは頷いた。
妙にあっさりと。
「では、私がルーテイトに話をしてきます」
イーワンの顔が変わった。
「……陛下に?」
「ええ」
カレリアが振り返る。
「私の弟でしょう?」
「いや、それは……」
「エルをこれ以上拘束する必要があるのなら、国王に説明してください」
「カレリア様。この程度のことで陛下を煩わせる必要は――」
「この程度?」
カレリアの声が凍った。
「反逆罪が、この程度のことなのですか?」
「…………」
「なら、エルは連れていきます」
「しかし――」
「止めるの?」
イーワンは答えなかった。
答えられなかった。
カレリアを止めるなら、国王ルーテイトのところまで話を持っていかれる。
形式上とはいえ、この国の王である。
その実姉が直接訴えるというのだ。
何より、査問記録を見せられて困るのは自分たちだった。
「…………」
誰も動かなかった。
カレリアは背を向けた。
「ミア」
「はい」
「行きましょう」
ミアはエルを支えながら歩き始めた。
「……カレリア」
「何?」
「ごめん……」
カレリアの足が止まった。
「何であなたが謝るのよ」
「だって……」
「謝るのは私よ」
それ以上は言えなかった。
自分が呼んだ。
自分が帰ってきてほしいと願った。
その言葉を信じて、この子は帰ってきた。
なのに。
何も知らなかった。
カレリアは前を向いた。
「行こう、エル」
「……うん」
◇
その日のうちに、エルは別の部屋へ移された。
牢ではない。
窓もある。
寝台も清潔だった。
ただし、自由に王宮の外へ出ることは許されない。
監視もつく。
拘禁から軟禁へ。
それがカレリアと宮廷側の間で成立した、ひとまずの妥協だった。
部屋へ入ると、ミアはエルを寝台に座らせた。
「カレリア様」
「何?」
「少し、エル様のお身体を確認したいのですが」
カレリアの表情が変わった。
「……お願い」
その意味は説明する必要もなかった。
「エル。私は外にいるから」
「……うん」
カレリアが部屋を出る。
ミアは扉が閉まったことを確認してから、エルの前へしゃがんだ。
「エル様」
「なに?」
「少しだけ、お身体を見せていただけますか?」
「……どうして?」
「念のためです」
「…………」
「すぐ終わりますから」
エルはぼんやりとミアを見つめたあと、小さく頷いた。
「……うん」
「ありがとうございます」
ミアは慎重に衣服を緩めた。
腕。
肩。
背中。
脇腹。
手首。
一つずつ確かめていく。
痣はない。
殴られた痕もない。
蹴られたような傷もない。
縄で強く拘束された形跡も見当たらない。
ミアは小さく息を吐いた。
「……よかった」
「何が?」
「いえ。何でもありません」
少なくとも、暴力を振るわれていたわけではない。
拷問を受けていたわけでもない。
それだけは、本当に良かった。
けれど。
痩せている。
もともと華奢な人だった。
それがさらに細くなっていた。
食事そのものは与えられていたはずだ。
それでも、明らかに以前とは違う。
ミアは衣服を戻そうとして、ふと手を止めた。
左手。
先ほどからずっと握られたままだった。
「エル様」
「……なに?」
「左手を見せていただいてもよろしいですか?」
「…………」
返事がない。
「何か痛むのですか?」
「違う」
「では――」
ミアが手を伸ばした。
その瞬間。
「だめ」
エルが左手を引いた。
それまでの弱々しい反応とは明らかに違った。
握った手を胸元へ抱え込む。
「これは、だめ」
ミアはすぐに手を引いた。
「取りません」
「…………」
「何も取りませんよ」
しばらくして。
エルが恐る恐る左手を開いた。
掌の中に、小さな指輪があった。
「…………」
ミアは黙った。
誰から贈られたものなのか。
聞く必要はなかった。
アムル=ドゥットゥカース。
エルがパドゥーラにいた頃。
二人がどれほど近しい関係だったのか、ミアも知っている。
その関係が今どうなっているのかも。
指輪は、エルの掌の中に収まっていた。
ずっと握っていたのだろう。
薄く跡まで残っている。
「……これだけは」
エルが小さく呟いた。
「はい」
「これだけは……取らないで」
「取りません」
ミアは即座に答えた。
「絶対に取りません」
「…………」
エルは再び指輪を握った。
ぎゅっと。
離してしまえば、何もかも本当に終わってしまうとでも思っているように。
ミアはそれ以上、何も聞かなかった。
服を戻す。
そして細くなった肩へ布を掛けた。
「終わりましたよ」
「……うん」
「少し休みましょう」
「……うん」
エルは横になった。
それでも左手だけは開かなかった。
身体には、目立った傷一つなかった。
それを確認できたことに、ミアは少しだけ安心した。
だが。
傷一つないまま、人はここまで変わってしまうのか。
そのことが、今度は怖くなった。
「ミア」
「はい?」
寝台から小さな声がした。
「……いてくれる?」
ミアは一瞬だけ目を見開いた。
そして、寝台の横へ椅子を寄せた。
「はい」
座る。
「ここにおります」
「……ありがとう」
エルが目を閉じた。
左手には、指輪が握られたままだった。
ミアはその手を見つめた。
南北戦争のあの日。
カレリアが王宮から逃げるため、エルと自分は一緒に動いた。
あのとき助けてもらったことを、忘れたことはない。
なら。
今度は自分の番だった。
その日。
エル=リージェットに対する査問は事実上停止された。
だが、彼女が自由になったわけではない。
拘禁は解かれたものの、王宮内での軟禁は続く。




