第9話 ブランド戦略
276年5月。
「じゃあ、姉さま。行ってくるね」
「はいはい」
上機嫌で部屋を出ていく妹を見送りながら、ユマ=リズナーは頬杖をついた。
久しぶりに与えた休暇だった。
ここのところユナには外交関係の仕事を随分と手伝わせている。もうすぐ20歳、いつまでも自分の後ろに立たせておくつもりはない。休める時くらい休ませてやろうと思ったのだ。
それなのに朝から妙に楽しそうだった。
行き先を聞く必要すらない。
「ロンド商会?」
「うん!」
即答だった。
ユマは小さくため息をついた。
「……あれじゃ通い妻だわ」
本人に聞こえていないのが、せめてもの救いだった。
◇
「ジャン、遊びに来たよー!」
セイレン市庁舎近くにあるロンド商会の扉を開けたユナは、そこで足を止めた。
「あれ?」
以前と違う。
人が増えている。
一人は妙に細長い男だった。背だけはやたらと高い。
もう一人は対照的に丸い。
二人とも机に向かって、猛烈な勢いで何かを書いている。
しかも見覚えがあった。
「あれ? あなたたち……」
二人も顔を上げた。
「あ、ユナさん」
「お久しぶりです」
「やっぱり! ロスバルトにいた人だ!」
かつてロスバルトの隊員だった二人である。
ジャンが兵士たちを相手に経済や政治について好き勝手に喋っていた、講義というより井戸端会議に近い集まりにも顔を出していた。
「社員になったの?」
「そうみたいです」
「そうみたい?」
「先生に、ちょうどいいから座れって」
「それで?」
「働いてます」
「……採用って、そんなのでいいの?」
「俺たちもそう思います」
その時だった。
「ユナ……」
地の底から響くような声がした。
「え?」
奥を見る。
ジャン=ワイズマンがいた。
「…………」
ユナはしばらく黙った。
「ジャン?」
「なんだ」
「すごい顔してるよ」
「知ってる」
不精髭が生えていた。
目の下には隈まである。
いつもならば多少は整えている髪も乱れ、机の上には書類が山積みになっている。
その隣には、さらに酷い顔をしたハンスがいた。
「ユナさん……」
「ハンス?」
「助けてくれ」
「え?」
「書類に殺される。戦場の敵兵も大概だがこいつらは……」
「喋ってないで働け」
ジャンは顔も上げずに言った。
「人間には休息が必要なんだよ!」
「納期は待ってくれん」
「俺たち、このままじゃ死ぬぞ!」
「死ぬ前に倒せ。戦場ではそうやってきたはずだろ」
「無茶苦茶だ!」
ユナは呆然と室内を見回した。
人が二人も増えている。
なのに以前より酷くなっている。
「なんでこんなことになってるの?」
「サドリーとシュバルツだ」
ジャンが答えた。
「取引が増えた。契約も増えた。荷も増えた。金の出入りも増えた。結果がこれだ」
「儲かってるんでしょ?」
「儲かってる」
「じゃあ、よかったじゃん」
「だから忙しいんだ」
「へえ……」
ユナは他人事のように頷いた。
ジャンがようやく顔を上げた。
「ちょうどいい。座れ」
「え?」
「お前も非常勤とはいえ、うちの社員だ。働け」
「いつ社員になったの!?」
「ユナ=ワイズマン商会の代表者の一人だ。それにいつも働いてる」
「うん?ロンドじゃ。そんなのはいいけど勝手に働かせてるだけしょ!」
「同じことだ」
「違うよ!」
ジャンは書類の束を持ち上げた。
「これ、確認してくれ」
「待ってよ。私、今日お休みなんだけど」
「だから時間があるんだろ」
「そういう意味のお休みじゃないよ!」
「ユナさん」
ハンスが両手を合わせた。
「頼む」
「ハンスまで!」
「俺を助けると思って!」
「なんでせっかくのお休みなのに……」
泣きそうな顔をしながらも、ユナは椅子に座った。
そして結局、働いた。
◇
「……終わった」
日が傾く頃。
最後の書類を置いたハンスが机に突っ伏した。
「もう駄目だ……」
細長い元隊員も椅子にもたれかかり、丸い元隊員は机に額をつけている。
ユナもぐったりしていた。
「私のお休み……」
「助かった」
「返してよ」
「何を?」
「私のお休み!」
「無理だ」
「酷い!」
ジャンだけが立ち上がった。
「さて」
大きな地図を机の上に広げる。
ハンスが恐る恐る顔を上げた。
「……社長」
「なんだ」
「まさかとは思いますけど」
「次の仕事だ」
「休みましょうよ!」
悲鳴が上がった。
ジャンは無視した。
指が地図の西へ向かう。
セレス山脈。
その中腹にある一つの都市で止まった。
「次はここだ」
「ヒュッテ?」
ユナが覗き込む。
「ああ。ヒュッテを中心とするセレス山岳都市群に入る」
「でも……」
ユナは地図を見た。
「そんなところ、儲かるの?」
「ふっ、甘いなユナ」
「なにが?」
「俺たちはインフラを目指すんだ」
「……はぁ?」
ユナは眉を寄せた。
「インフラって道路とか用水路でしょ?」
「そうだ」
「ロンド商会は商会だよ?」
「だから俺たちが、そのインフラになる」
「意味分かんない」
ジャンはヒュッテを指先で叩いた。
「最初は安くていい。こっちの利益なんてトントンで構わん。安く、確実に、継続して商売する。そうやってロンド商会を食い込ませる」
「それで?」
「そのうちどうなると思う?」
「どうなるって……」
ユナは少し考えた。
「……私たちがいないと困る?」
「そういうことだ」
ジャンが笑った。
悪い顔だった。
「値上げはそこからだ」
「うわぁ……」
「馬鹿。既存の大きな交易路なんて、セントハイムや大商会がとっくに押さえてる。そんなところへ後から入ったところで価格競争になるだけだ。むしろ儲けにくい」
指が再びヒュッテを叩く。
「ところが、こういう小さな市場は誰も本気で取りに来ない」
「儲からないからでしょ?」
「だからいいんだよ。競争相手がいない。ブルーオーシャンだ」
「そんなにうまくいくかなぁ」
「いかないと、この前お前が投資した小遣いも焦げ付くぞ」
「…………え?」
「頑張らないとな」
「待って」
ユナがジャンの袖を掴んだ。
「お金返してよ」
「ご存じの通り、すでに使用済みだ」
「酷いよ! 悪魔!」
「そもそも俺の借金のほとんどは、お前のところの市長が元凶だ」
「それは姉さまでしょ!」
「姉の罪は妹が働いて返せ」
「そんな法律ないよ!」
「今作った」
「わーん!」
細長い元隊員と丸い元隊員が笑っていた。
◇
数日後。
ジャンとユナはヒュッテにいた。
「わあ……」
街へ入った途端、ユナが声を漏らした。
美しい町だった。
セレス山脈から流れ落ちる水が、谷間に細長い湖を作っている。
湖面は青く澄み、その向こうには緑に覆われた山々が幾重にも連なっていた。
斜面には牧草地が広がり、羊の群れが小さな白い点となって動いている。
湖岸から山の斜面へ向かって、灰色の石で造られた家々が並んでいた。
木々の間を抜ける風は涼しく、街のどこからでも湖と山が見える。
山賊上がりの荒々しさを残すセイレンとも違う。
衰退した鉱山都市サドリーとも違う。
人と荷車と工房がひしめくパドゥーラとも違った。
「すごいね、ジャン」
「ああ」
「綺麗……」
「ああ」
「…………」
「…………」
「それだけ?」
「で、何が売れる?」
「もう!」
ユナが頬を膨らませた。
だが、結論から言えば。
何も売れなかった。
「麦ですか? 間に合っております」
「鉄? 別に不足していませんが」
「新しい取引先? 今のところ必要ありません」
「結構です」
「お引き取りください」
夕刻。
ジャンとユナは並んで歩いていた。
二人とも肩を落としている。
「…………」
「…………」
「そんなに毎回、飛び込み営業がうまくいくわけないよ」
「……だな」
珍しくジャンが素直に認めた。
「麦は足りてる」
「うん」
「鉄も足りてる」
「うん」
「ここの主力商品は革製品と木工品」
「でま、綺麗だったよ」
「だが、革も木工も他で作ってる。重いし、運賃もかかる。これだけじゃきつい」
「じゃあ、売るものないじゃん」
「そうなるな」
ジャンは頭を掻いた。
「ちょっと情報収集が必要だ」
「最初にしようよ」
「……その通りだ」
そんな二人の前に、もう一人。
同じように肩を落としている男がいた。
「……誰も私のことを理解してくれない」
「…………」
「…………」
ジャンとユナが見る。
二十代半ばほどだろうか。
青年は道端の長椅子に座り、原稿の束を抱えていた。
「どうしたの?」
ユナが声をかけた。
「私の作品を……誰も読んでくれないんです」
「作品?」
「純愛小説です」
青年は原稿を差し出した。
ジャンが受け取る。
数頁読む。
「…………」
さらに数頁。
「…………」
「どうです?」
「駄目だな」
「えっ」
「ジャン!」
ユナが原稿を取り上げた。
「そんな言い方しなくてもいいでしょ」
ユナも読む。
「……でも、文章自体は上手だよ」
「本当ですか!」
青年の顔が輝いた。
「もちろんです。私はニコス大学の文芸学科を出ていますから」
「ニコス?」
ジャンが眉をひそめた。
「はい」
「はぁ……だからこんな駄文を書く」
「なっ!?」
「ニューアークならなぁ」
「あんなやつらはただの行政文書屋です!味気もない文字の羅列しか書けません」
「なかなか言うな。しかし、確かに文章は上手い」
「でしょう!」
「話がつまらん」
「なぜですか!」
「なんでこいつら、お互い好きなのに延々とすれ違ってるんだ」
「それが純愛というものです!」
「三頁で告白すれば終わるだろ。効率が悪い」
「文学を何だと思っているんですか!」
「売れる文章」
「違います!」
青年の名はエミール=ヘルダー。
二十六歳。
ヒュッテからニコス大学へ進学し、文芸学科を卒業した本格派だった。
そして現在。
故郷ヒュッテで、一冊もまともに売れない文芸家だった。
◇
翌日。
ジャンはヒュッテの市場を歩き回っていた。
革。
木工。
羊毛。
薬草。
昨日みた通り、どれも悪いものではない。
だが運んでまで売るとなると決め手に欠ける。
「……難しいな」
宿へ戻る。
「ただいまー」
少し遅れてユナも戻ってきた。
「おう」
ジャンは帳面から顔を上げ――。
鼻を動かした。
「……ユナ」
「なに?」
「なんかお前、いつもよりいい匂いがしないか?」
「え?」
ユナが目を丸くした。
それから少しだけ嬉しそうに笑った。
「なに? やっと私の魅力に気づいた?」
「いや、そうじゃなくて。匂いだよ」
「…………」
「なんだよ」
「もういい」
ユナは不満そうに荷物を置いた。
「コスメだよ」
「こすめ?」
「化粧品。市場で見つけたの。ここの品、結構いいよ」
小さな瓶を取り出す。
「昔から山の薬草を使って化粧品を作ってたんだって」
「貸せ」
ジャンは瓶を受け取った。
「これ、いくらだった?」
「えっと……」
ユナが値段を答える。
「…………」
「なに?」
「安いよな?」
「まあ、確かにセイレンで手に入るものよりも安いよ」
「これならいける」
「何が?」
ジャンは瓶を見つめた。
小さい。
軽い。
運賃もたいしてかからない。
そして何より。
「ユナ」
「なに?」
「人間は豊かになると、腹を満たすだけじゃ満足しなくなる」
「?」
「いい服を着る。うまいものを食う。綺麗になりたがる。生活に必要じゃないものに金を使い始める」
「……これみたいな?」
「ああ」
パドゥーラは豊かになっている。
ならば嗜好品の市場はこれからさらに大きくなる。
「これだ」
「売るの?」
「違う」
「?」
「高く売る」
「同じじゃん」
「同じじゃない」
ジャンは笑った。
「ブランド品にする」
「ぶらんど?」
「ヒュッテという名前ごと売るんだ」
ジャンは少し考えた。
そして、ある人物を思い出した。
◇
「嫌です」
エミールは即答した。
「まだ何も言ってないぞ」
「どうせろくな話ではないでしょう」
「これに文章をつけろ。お前のところの特産品だろ?」
ジャンは香水の瓶を差し出した。
「……香水?」
「セレスの山でも、湖でも、薬草でも何でもいい。都市の女が欲しくなるような文章を書け」
「私は文学者ですよ!なぜそんな文章を書かないとならないのです」
「売れない文学者だろ」
「あなたは昨日から失礼すぎませんか!?」
「金は払う」
「やります」
「早いね」
ユナが呟いた。
「生活がありますから、こんな悪魔にでも時には従わなければなりません」
数時間後。
ジャンはエミールの書いた文章を読んでいた。
「…………」
「どうです?」
「…………」
「何か言ってください」
「エミール」
「はい」
「小説家は諦めろ」
「なぜですか!」
「うちで働け」
「話がつながっていません!」
「つながってる。お前の小説はいらん」
「失礼な!」
「だが、その文章力は欲しい」
「…………」
エミールが黙った。
ジャンは原稿を机に置く。
「ヒュッテには売るものがないんじゃなかった」
「?」
「売り方を知らなかっただけだ」
香水の瓶を指した。
「こいつに物語をつける。セレスの山、湖、薬草、ヒュッテの職人。全部まとめて商品にする」
「……物語を売る?」
「ああ」
「…………」
エミールは自分の書いた文章を見た。
ジャンが手を差し出した。
「ロンド商会に来い」
「私は小説家です」
「好きに書け」
「え?」
「仕事が終わってからならな」
「…………」
「給料は出す」
「行きます」
「決まりだ」
「文学の心までを金で買われた気がする……」
「売れたじゃん」
ユナが笑った。
「初めて」
「ユナさんまで!」
◇
数日後。
ジャンたちはレプターにいた。
シュバルツ商会レプター支所の一室。
キャシー=シュバルツは、机の上に並べられた小瓶を一つ手に取った。
「香水?」
「ヒュッテ産です」
「まったく聞いたことないわね」
「だから持ってきました」
キャシーが蓋を開ける。
香りを確かめた。
「……悪くないわね」
「でしょう」
「いくらで売るつもり?」
「まだ売りません」
「は?」
ジャンは二本の瓶を取り出した。
「最初は無償で渡してください」
「誰に?」
「リオかシャンテ」
キャシーが目を細めた。
「なるほど」
さすがに商人である。
意図にはすぐ気づいた。
「有名な女の子に使わせるわけね」
「そうです」
「エルちゃんじゃ駄目なの?」
「駄目です」
「即答ね」
「エル様が使って綺麗でも、誰も商品のせいだと思わないでしょう」
「……まあ、そうね」
「それに」
ジャンは少し考えた。
「何もつけなくても、なんかいい匂いしそうじゃないですか。あの人」
キャシーが吹き出した。
「あなた、本人の前で言ってみなさいよ」
「嫌ですよ」
「でも、リオちゃんなら?」
「パドゥーラ三大美女の一人でしたっけ。それでもエル様ほど現実離れしていない」
「シャンテなら歌姫」
「人前に出る機会が多い。どちらでもいいです」
ジャンは香水の瓶を机の中央へ置いた。
「まず、あの人が使っているものが欲しいと思わせる」
「それから売る?」
「ええ」
「悪い商売するわね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
その横で、エミールが深々とため息をついた。
「私の文章が、このような男の金儲けに使われるとは……」
「給料払ってるだろ」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ返せ」
「それは嫌です。私にも生活があります」
「お前も十分こっち側だ」
ユナが笑った。
ヒュッテの小さな香水瓶が、机の上に並んでいる。
まだ誰も知らない。
セレス山脈の小さな都市の名も。
そこで作られてきた品々の価値も。
けれどジャンは、もう次を考えていた。
香水だけではない。
革製品もある。
木工品もある。
美しい湖がある。
山がある。
そして、それらに物語を与えられる男も手に入れた。
商品を売るのではない。
ヒュッテという名前そのものを売る。
そしていつか、ヒュッテの工房も商人も住民も、ロンド商会なしでは外の市場へ出られないほど深く食い込む。
最初は安くていい。
利益など、トントンで構わない。
値上げするのは――その後だ。
ロンド商会の次の商売が、静かに始まろうとしていた。




