第8話 ロンド商会(後)
「会頭。面会を求めている者がおりますが」
書類から目を離さず、キャシー=シュバルツは答えた。
「名前は?」
「ロンド商会と名乗っております」
「ロンド商会?」
そこで初めて、キャシーは顔を上げた。
聞いたことがない。
少なくともシュバルツ商会が取引先として把握している商会の中に、そのような名前はなかった。
「どこの商会?」
「セイレンで新しく設立された商会とのことです」
「新しく?」
「はい」
「規模は?」
「……確認できた限りでは、かなり小さいものかと」
「そう」
キャシーは再び書類へ視線を落とした。
「時間が限られているの。冷やかしなら帰ってもらって」
「承知いたしました。ただ――」
秘書が言葉を続けた。
「鉄鉱石の件で、と申しております」
キャシーの手が止まった。
「鉄鉱石?」
「はい。パドゥーラ向けの鉄鉱石について話がある、と」
数秒、沈黙する。
やがてキャシーは机の上の書類を閉じた。
「……会ってみます」
「よろしいのですか?」
「鉄鉱石なら話は別よ。通して」
「承知いたしました」
秘書が退出する。
キャシーは椅子の背にもたれ、わずかに考え込んだ。
ロンド商会。
やはり聞いたことのない名だった。
だが、パドゥーラと鉄鉱石。
その二つが並んだ以上、無視するわけにはいかなかった。
キャシー=シュバルツ。
リービッヒでも最大級の商会であるシュバルツ商会を率いる女である。
南北戦争以前、シュバルツ商会は北部諸侯との取引を中心として勢力を拡大していた。
しかし戦争が終わり、その北部諸侯の多くが没落すると、商会もまた大きな打撃を受けることになった。
さらに商会が成長する過程で行ってきた数々の謀略が明るみに出たことで、その信用も大きく失われた。
その苦境の中で商会を引き継いだのがキャシーだった。
そして彼女は、一つの大きな賭けに出た。
誰もが見捨てた土地。
パドゥーラである。
南北戦争で荒廃し、人口は流出し、新しくやってきた統治者は旧伯爵家の財産を売り払ってようやく行政を維持していた。
その土地へ、シュバルツ商会は巨額の資金を投じた。
五千万ドゥエル。
当時のパドゥーラにとっては、到底自力では用意できない金額だった。
無謀な投資だと笑う者もいた。
シュバルツ商会もろとも沈むつもりかと陰口を叩く者もいた。
だが、キャシーは賭けた。
アムル=ドゥットゥカースという男だけにではない。
その周囲に集まった人間たちと、パドゥーラという土地そのものに。
結果として、その判断は正しかった。
トネリーによる灌漑事業。
移住者への農地開放。
ティーエを中心とする財政再建。
ジウ、バーナードらによる製鉄技術の発展。
それらへ注ぎ込まれた資金は、パドゥーラを大きく変えた。
そしてシュバルツ商会もまた、パドゥーラの成長とともに戦後の苦境から立ち直った。
今や両者は、単なる貸し手と借り手ではない。
シュバルツ商会はパドゥーラの麦や鉄製品を各地へ流通させ、パドゥーラはシュバルツ商会を通じて不足する物資を調達する。
互いになくてはならない取引相手となっていた。
そのパドゥーラが現在、欲しがっているもの。
その一つが鉄鉱石だった。
「ロンド商会、ね……」
キャシーは小さく呟いた。
どこの誰かは知らない。
だが、本当に鉄鉱石を持ってきたのなら、少しくらい時間を使ってもいい。
しばらくして扉が開いた。
「ロンド商会の方々をお連れしました」
キャシーは商人としての笑顔を作り、入口へ顔を向けた。
そして少し驚いた。
「……ジャン=ワイズマン?」
「覚えていたか」
「もちろんです」
以前、パドゥーラを訪れたセイレンの参事官。
その名前くらいは当然知っている。
だが、問題はそこではない。
「ロンド商会代表、ジャン=ワイズマンだ」
「……あなた、何をしているんですか?」
「見ての通り商売だ」
「それは見れば分かります」
キャシーの視線が隣へ移る。
ユナが軽く頭を下げた。
そして、その少し後ろにはハンスもいる。
どう見ても大商会の一行には見えない。
「それで、鉄鉱石というのは?」
「ああ」
ジャンは持ってきた布袋を机の上へ置いた。
「これだ」
中から赤褐色の石を取り出す。
キャシーはそれを眺めた。
「サドリー産?」
「ああ。ミネット鉱というらしい」
「リンが多いやつですね」
「知ってるのか」
「名前くらいは。でも、私は鉄屋ではありませんから」
キャシーは鉱石を手に取ると、後ろを振り返った。
「バーナードさん」
「はいはい」
奥から一人の男が出てきた。
バーナード。
パドゥーラ鍛冶組合を率いるジウの息子であり、ティファの兄でもある。
父親譲りの鍛冶の腕は確かで、製鉄技術に関してもパドゥーラでは指折りの人材だった。
ただし、人間としてまで父親が太鼓判を押しているかは怪しい。
酒好き、女好き。
妹のティファですら呆れかえるほどである。
あのティファでも……。
「見てもらえます?」
「どれどれ」
バーナードは鉱石を受け取った。
「……へぇ」
表面を眺め、重さを確かめる。
「サドリーのミネット鉱か?」
「分かるのか?」
「そりゃ鉄屋だからな」
ジャンは少し身を乗り出した。
「使えるか?」
「使える」
即答だった。
「……リンが多いぞ」
「知ってる」
「サドリーじゃ、それで売れないらしい」
「普通の炉なら嫌がるだろうな」
バーナードは鉱石を机へ置いた。
「でも、うちなら使える」
「なぜ?」
「アスナムから入れた製鋼法がある。まだ改良中だが、こういうリンの多い鉄を処理するための技術だ」
「じゃあ、リンは取り除ける?」
「取り除ける」
「なら、そのリンは捨てるのか?」
「まさか」
バーナードが笑った。
「肥料にする」
「……肥料?」
「そうだよ」
キャシーがそこで口を挟んだ。
「ジャンさん。今のパドゥーラが何をしているか、ご覧になったでしょう?」
「灌漑か」
「ええ。耕せる土地がどんどん増えている。でも土地だけ増えても作物は勝手には育ちません」
バーナードが鉱石を指で叩く。
「鉄を作って、その残りは畑に使う」
「…………」
「だから、むしろ都合がいい」
ジャンは鉱石を見る。
サドリーでは、これが売れない理由だった。
リンが多い。
質のいい鉄を作る邪魔になる。
だから価値がない。
それがパドゥーラでは違う。
鉄を作ることができる。
さらに邪魔になるはずのリンまで肥料として使える。
「どれくらい欲しい?」
ジャンが尋ねる。
バーナードとキャシーが顔を見合わせた。
「持ってこられるだけ」
キャシーが答えた。
「……本気か?」
「ええ」
今度はバーナードが笑った。
「こっちは鉱石がなくて炉を遊ばせてるんだ。選り好みしてる余裕なんかないよ」
「なるほどな……」
ジャンは椅子へ背を預けた。
「サドリーの連中、驚くだろうな」
「なんで?」
「あいつらはリンが多いから売れないと思ってる」
バーナードは少し考えてから答えた。
「じゃあ言ってやれよ」
「何を?」
「パドゥーラじゃ、リンが多いから欲しいってな」
ジャンはしばらく黙っていた。
そして笑った。
◇
「それで」
キャシーは指を組んだ。
「鉱石そのものについては問題ありません。むしろ、こちらとしては歓迎します」
「ああ」
「ですが、ジャンさん」
「なんだ?」
「どうやって運び出すつもりです?」
ジャンが黙った。
「…………」
「採掘する人間は?」
「鉱山都市だ。人なら問題なくいる。これから雇う」
「荷車は?」
「これから用意する」
「馬は?」
「これからだ」
「輸送費は?」
「…………」
キャシーが微笑んだ。
「ロンド商会には、お金がありませんね?」
「ない」
即答した。
隣でユナが小さく俯いた。
悲しいほど事実だった。
ロンド商会は設立されたばかりである。
ロスバルトから資金を引き出し、ユナとハンスまで小口ながら自分の金を貸している。
それでも、各地を回って本格的な商売を始めるには到底足りない。
「商品は見つけた。売り先も見つけた。サドリー鉱業ギルドも協力してくれる。働きたい人間もいる。問題は最初に鉱石を掘って、ここまで運ぶための金がない」
「つまり?」
「ああ」
ジャンは堂々と言った。
「金を貸してくれ」
キャシーはしばらく何も言わなかった。
そして、笑った。
「鉄鉱石を売りに来たと思ったら、最後は借金の申し込みですか」
「仕方ないだろ。金がないんだから」
「威張って言うことではありませんよ」
「分かってる」
キャシーは改めてジャンを見る。
面白い男だとは思った。
売れない鉱石を見つけた。
それを必要としている場所を探した。
そこまではいい。
だが、それを運ぶ金がない。
普通ならそこで終わる。
この男は金まで他人から借りて商売にしてしまおうとしている。
「いいでしょう」
キャシーは答えた。
「必要な資金を融資します」
「助かる」
「もちろん利子はいただきます」
「……分かってる」
「商売ですから」
「分かってるよ」
「それと――」
キャシーは続けた。
「一つ、お願いしたい仕事があります」
「仕事?」
「ええ」
キャシーは少し姿勢を正した。
「シュバルツ商会は以前から、都市同盟側に代理店を必要としていました」
ジャンが眉を上げる。
「代理店?」
「私たちはリービッヒの商会です。リービッヒ国内であれば自由に商売できますが、都市同盟ではそうはいきません」
「そりゃそうだ」
都市同盟は一つの国家ではない。
それぞれの都市が独自の商人組合を持ち、異なる商慣習を持ち、外部の商人に対する規則も異なる。
ましてシュバルツ商会ほどの巨大な外国商会が直接乗り込めば、現地商人から警戒されるのは当然だった。
「そこで都市同盟内で私たちの取引を代行してくれる商会を探していたんです」
「それをロンド商会にやれと?」
「一部で構いません」
「具体的には?」
「基本的にはパドゥーラの商品です」
キャシーは答えた。
「麦と鉄」
「なるほど」
「あなた方がこちらから麦と鉄製品を買い付けて、都市同盟各地へ売る。そして帰りには各地の物産を買い付けて持ってきてもらう」
ジャンの表情が変わった。
これは悪くない。
むしろ、今のロンド商会にとっては願ってもない話だった。
商会を作ったはいい。
だが、安定して仕入れられる商品がなかった。
パドゥーラの麦と鉄。
どちらも生活に欠かせない。
どこの都市へ持っていっても一定の需要がある。
そして帰りには、その都市で安く手に入るものを積んで帰ればいい。
今回のサドリーならば、それが鉄鉱石だった。
「一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「なんで俺たちなんだ?」
キャシーが笑った。
「あなたがジャン=ワイズマンだからです」
「…………」
「都市同盟の事情を知っている。各都市との交渉もできる。そして何より――」
キャシーは机の上のミネット鉱を指した。
「誰も価値を見出さなかったこれを、わざわざここまで持ってきた」
ジャンは黙って聞いている。
「ロンド商会がどんな商会になるのか、少し興味が湧きました」
「買いかぶりだと思うがな」
「そうかもしれません」
キャシーはあっさり認めた。
「私は以前にも一度、誰も見向きもしない相手に大金を貸したことがありますから」
バーナードが笑う。
「成功してるな」
「ええ」
キャシーも笑った。
「ですから、もう一度くらい賭けてみてもいいでしょう。今回の金額なら、たいしたものでもありませんし」
「大商会は言うことが違うな」
「あなたが返すんですよ?」
「分かってる」
ジャンはしばらく考えた。
そして手を差し出した。
「分かった。引き受けよう」
「よろしくお願いします」
二人は握手を交わした。
こうしてロンド商会はシュバルツ商会から新たな借金を背負うと同時に、その都市同盟における代理業務の一部を請け負うことになった。
社員三人の零細商会としては、いささか大きすぎる仕事であった。
◇
数日後。
ジャンたちは再びサドリーへ戻っていた。
話は早かった。
仕事なら、いくらでも欲しい者がいた。
サドリー鉱業ギルドも、自分たちの鉱石に継続的な買い手がつくのであれば反対する理由などない。
ギルド自身もロンド商会へ資金を出すことになった。
鉱山から鉄鉱石を掘り出す者。
選別する者。
荷車へ積む者。
それを運ぶ者。
シュバルツ商会から借りた金を元手に人を雇い、荷車を集め、馬を用意する。
止まっていたものが、少しずつ動き始めた。
そして最初の荷車に赤褐色の鉱石が積み上げられていくのを見ながら、ジャンは帳簿を開いていた。
「…………」
収入。
まだほとんどない。
支出。
人件費。
荷車。
馬。
食料。
輸送費。
そこに新しくシュバルツ商会からの借入金が加わった。
ジャンは帳簿を閉じた。
「借金が増えた」
隣にいたユナが覗き込む。
「どれくらい?」
「聞かない方がいい」
「そんなに?」
「ああ」
ジャンは遠い目をした。
「商会を作ったときより増えてる」
「ふーん」
ユナはあまり気にした様子もなく、荷車に積まれていく鉱石を眺めた。
「まあ、ここまできたら一緒じゃない?」
「一緒じゃない」
「一緒だよ」
「借金は増えれば増えるほど大変になるんだぞ」
「でも返すんでしょ?」
「そのつもりだ」
「だったら頑張ろうよ」
ユナは笑った。
「私も一緒に返してあげるから」
「…………」
ジャンはユナを見る。
本人は何でもないことのように言っている。
実際、ユナもすでにロンド商会へ自分の金を貸している。
ハンスも同じだった。
ジャンとしては社員に給料を払うどころか、社員から金を借りていることになる。
「お前な」
「なに?」
「いや……」
ジャンは何か言おうとして、やめた。
もう一度、鉱石を満載した荷車を見る。
サドリーでは価値がないと思われていた石だった。
それを掘り出すことで仕事が生まれる。
運べば金になる。
パドゥーラでは鉄になり、残ったリンは肥料になる。
そして帰ってくる荷車には、パドゥーラの麦と鉄製品を積めばいい。
サドリーの人間はそれを買う。
売れれば、また鉱石を運ぶ。
まだ小さな流れにすぎない。
だが、流れはできた。
一つの都市でできるのなら、他でもできるかもしれない。
麦と鉄を持っていく。
そして、その土地にあるものを持って帰る。
売れないものなら、売れる場所を探す。
仕事がないなら、仕事になるものを探す。
ジャンはまだ知らなかった。
これから一年半。
彼が同じようなことをいくつもの都市で繰り返すことになることを。
時には新しい商路を開き。
時には地元の商会へ資金を出し。
時には経営の苦しい商会そのものを買い取り。
パドゥーラの麦と鉄を売りながら、その土地の物産を別の都市へと繋いでいく。
ユマがセントハイムやゼルキアに反感を持つ都市を政治によって切り崩していく一方、ジャンは経済によって都市を一つずつ結びつけていくことになる。
そして、その動きを最も早く理解した者の一人が、セイレン財政官カール=マルテルであった。
だが彼は、それをセントハイムへ知らせなかった。
政治と経済。
二つの方向から静かに広がった流れは、一年半後には新都市同盟構想に賛同する約八十票の勢力へと成長していく。
しかし今のジャンにとって、そんな未来は知ったことではない。
もっと切実な問題があった。
「……返せるかな」
「返せるよ」
「根拠は?」
「ジャンなら大丈夫」
「それは根拠じゃない」
「じゃあ私も頑張る」
「だから根拠になってない」
「ハンスもいるし」
少し離れたところで荷車を確認していたハンスが振り返った。
「俺もですか?」
「だって社員でしょ?」
「まあ、そうですが」
「三人で返せば大丈夫だよ」
「お前、簡単に言うなあ……」
ジャンは頭を抱えた。




