第5話 口づけ
第32話
「では、もう一度確認します」
同じ言葉を、この1週間だけで何度聞いただろう。
エルは膝の上で両手を握った。
「あなたはパドゥーラ侯アムル=ドゥットゥカースの制止を振り切り、パドゥーラを脱出した。間違いありませんね?」
「……はい」
「その際、ヴァン殿の助力を受けた」
「はい」
「パドゥーラ兵から追跡を受けた」
「……はい」
淡々と質問が続く。
リブロフ王宮の一室。
窓はある。
扉もある。
だが、扉の外には兵士が立っていた。
ここへ連れてこられてから、エルは一度も自由に王宮の外へ出ていない。
最初は、それほど心配していなかった。
自分がパドゥーラを抜け出したことは事実である。
アムルにも迷惑をかけた。
ヴァンにも迷惑をかけた。
だから怒られるくらいは仕方がない。
事情をきちんと説明すればいい。
お父様もいる。
自分たちはリービッヒを裏切ったわけではない。
それを説明すれば分かってもらえる。
そう思っていた。
「では、ライプニッツについてお尋ねします」
エルは顔を上げた。
「……ライプニッツ?」
「パドゥーラ侯爵府は、ライプニッツから逃亡してきた住民を受け入れていますね?」
「それは――」
「事実か否かをお答えください」
「……はい」
「なぜです?」
「助けを求めてきたからです」
「それだけですか?」
「それだけって……」
エルは査問官を見つめた。
「困っている人がいたんです。追い返すなんてできません」
「その者たちはリービッヒ王国の臣民です」
「でも――」
「しかもライプニッツは、すでにリービッヒ王国へ返還されていた」
「分かっています」
「ではなぜ、ライプニッツ領主の許可なく受け入れたのです?」
「だって、帰したら――」
言いかけて、止まった。
「帰したら?」
「……危険だったからです」
「誰が危険にしたのです?」
「それは……」
「ライプニッツ領主トーマ=フランツベルク殿が、領民に危害を加えると判断したのですか?」
「そういう意味じゃありません」
「では、どういう意味でしょう?」
「だから……」
説明しようとする。
だが、言葉を重ねるたびに別の問いが返ってくる。
自分たちはただ、人を助けたかっただけなのに。
「次に、パドゥーラの統治について」
書類がめくられた。
「パドゥーラでは、リービッヒ王国の他地域とは異なる制度が多数施行されていると聞いております」
「……はい」
「領民の移住を自由にしている」
「はい」
「城門における通行税を徴収していない」
「はい」
「他国の商人にも広く交易を認めている」
「はい」
「土地の分配も行っている」
「それは新しく開墾した土地です」
「誰の許可を得て?」
エルは言葉に詰まった。
「……アムルです。それ以外に誰が」
「パドゥーラ侯の許可ですか?」
「はい」
「王国の許可ではなく?」
「……」
「お答えください」
「……はい」
また書類に何かが書き込まれた。
エルはそれを見ていた。
何を書いているのかは分からない。
「では、あなた自身についてお尋ねします」
「……はい」
「あなたはパドゥーラにおいて、どのような立場にありましたか?」
「どのようなって……」
「正式な官職です」
「私は……」
答えようとして、困った。
アムルを手伝っていた。
それだけだった。
困っている人の話を聞いた。
役人たちと相談した。
ティーエと予算の話をした。
ヴァンと政策を話した。
移住してきた人々の様子を見に行った。
必要ならアムルを叱った。
そんな毎日だった。
「特には……強いていうなら副官?」
「正式な官職はなかった?」
「はい」
「しかし、多くの政策決定に参加していた」
「それは……」
「人事にも関与した」
「相談されれば……」
「住民から直接陳情を受けていた」
「はい」
「外交交渉にも参加した」
「……はい」
「では、事実上の統治者の一人だったという理解でよろしいですね?」
「違います」
エルはすぐに否定した。
「私はアムルを手伝っていただけです」
「では、なぜライプニッツ住民からあなた宛てにも陳情書が届くのです?」
「それは……」
答えられなかった。
考えたこともなかった。
みんなに頼まれたから。
だから話を聞いた。
それだけだった。
査問官が再び書類に何かを書き込む。
その音が、妙に耳についた。
◇
どれほど時間が経ったのか分からない。
「最後に、モンド=ドゥットゥカース将軍についてお尋ねします」
エルの表情が変わった。
「父さん?」
「モンド将軍は、あなたとパドゥーラ侯との関係を承知していましたね?」
「はい」
「パドゥーラの統治についても?」
「知っています」
「止めなかった?」
「……」
「あなたがパドゥーラで王国の他地域とは異なる統治に関与していることを知りながら、止めなかった?」
「父さんは関係ありません」
エルの声が強くなった。
「私たちが自分で決めてやったことです」
「あなたをパドゥーラへ赴くことを認めたのはモンド将軍です」
「でも、それは――」
「あなたとパドゥーラ侯が親密な関係にあることも承知していた」
「それは関係ないでしょう!」
思わず声が大きくなった。
査問官は表情を変えなかった。
「関係があるか否かを判断するのは我々です」
「……」
「モンド将軍についても、別途事情を確認しております」
「……え?」
エルの顔から血の気が引いた。
「どういうことですか?」
「申し上げた通りです」
「父さんは何もしていません」
「それを確認しております」
「だったら――」
「本日の査問は以上です」
書類が閉じられた。
エルは呆然と査問官を見た。
終わった。
ようやく今日が終わった。
扉が開く。
兵士が二人、待っていた。
エルはゆっくり立ち上がった。
足に力が入らなかった。
何かを間違えたのだろうか。
自分が帰って説明すればいい。
アムルが来れば殺されるかもしれない。
だから自分だけ帰って、説明すればいい。
父さんと一緒に話せば、きっと分かってもらえる。
カレリア様に事情を話せばきっと。
そう思っていた。
なのに。
「……アム」
小さな声は、誰にも答えてもらえなかった。
◇
エル出奔から1ヶ月後
「馬鹿げている!」
怒声とともに、紙束が机へ叩きつけられた。
ロックだった。
「なんだ、この金額は!5000万ドゥエルだとふざけるな」
「ぼくに聞かないでよ!」
ティーエも怒っていた。
「こっちが聞きたいよ! こんなの払ったら何年分の予算が飛ぶと思ってるの!」
「払う必要などあるか!」
エヴァンスも吐き捨てる。
パドゥーラ候庁舎。
会議室には重苦しい空気が満ちていた。
リービッヒ王国から正式な要求書が届いていた。
ライプニッツ事件における軍事行動。
住民の受け入れ。
領民の逃亡を助長した責任。
そして、トーマ=フランツベルクの死。
それらを理由として、パドゥーラ侯爵府に巨額の賠償が要求されている。
「エルは?」
アムルが聞いた。
その声だけは静かだった。
「拘束が続いております」
ホウアンが答えた。
「父さんも?」
「同様です。少なくとも自由な行動は許されておりません」
「……そうか」
アムルはそれだけ言った。
ロックが机を叩く。
「大将、兵を出そう」
「どこに」
「リブロフだ!」
「何人で?」
「それは――」
ロックは黙った。
「兵を出した瞬間に、エルや父さんはどうなる」
「……くそっ」
ロックが拳を握る。
「では、賠償に応じますか?」
ホウアンが聞いた。
「払わない。払えないよ。パドゥーラの金はみんなのものだから」
アムルは答えた。
「承知いたしました」
ホウアンは淡々とうなずいた。
ティーエが少しだけ安堵した顔をした。
「しかし、それだけでは足りません」
ホウアンが続けた。
アムルは彼を見る。
「何が言いたい」
「リービッヒ側が最も警戒しているものは何か、お分かりでしょう」
「……」
「パドゥーラ侯アムル=ドゥットゥカース。モンド=ドゥットゥカース将軍。そしてエル=リージェット。この三者が結託しているという疑念です」
「してない」
「事実は問題ではありません」
冷たい言葉だった。
「そう見えることが問題なのです」
誰も反論しなかった。
「エル様は侯の命令に背いてパドゥーラを脱出した。それはすでに兵を出して追跡したことで示しております」
「ああ」
「ですが、不十分だということです」
ロックがホウアンを睨む。
「今度は何をやらせるつもりだ」
「明確にするのです」
ホウアンはアムルだけを見ていた。
「エル=リージェットはパドゥーラの使者としてリブロフへ赴いたのではない。侯の命令に反して逃亡した者であり、パドゥーラ侯とは利害を異にする存在であると」
「……」
「正式に訴追してください」
沈黙が落ちた。
「何の罪で」
アムルが聞いた。
「国家反逆罪、外患誘致罪。死に値する罪ならなんでもよろしい」
「ホウアン!」
ロックが立ち上がった。
だが、ホウアンは見向きもしない。
「それが最も明確です」
「貴様……!」
「ロック、やめろ」
アムルが止めた。
「大将!」
「分かってる」
アムルは目を閉じた。
しばらく、そのままだった。
「……それでエルが助かるのか」
「少なくとも、エル様の行動をパドゥーラの意思とみなす根拠は弱くなります」
「父さんは?」
「まだ足りません」
アムルが目を開いた。
「俺に何をさせたい」
「ドゥットゥカース家との絶縁を」
今度こそ、誰も声を出さなかった。
「侯がドゥットゥカース家の人間である限り、モンド将軍との結託を否定しきれません」
「俺は父さんの………」
「あなたはモンド将軍の血縁ではない。ならば切れる」
ホウアンは即答した。
「……」
「侯」
ホウアンの声には何の感情もなかった。
「ここでまた甘さを見せれば、その代価を支払うのはあなたではありません」
アムルの目が鋭くなる。
「エル様とモンド将軍、そしてパドゥーラの市民です。」
長い沈黙が続いた。
やがてアムルは椅子から立ち上がった。
「紙を用意しろ」
「大将」
ロックが呼ぶ。
アムルは振り返らなかった。
「エルを……… エル=リージェットを、パドゥーラに対する国家反逆罪で訴追する」
誰も言葉を挟めない。
「それから――」
一度だけ、アムルの声が止まった。
「俺は今日をもって、ドゥットゥカース家との縁を切る」
エヴァンスが目を伏せた。
ティーエも何も言わなかった。
「以後、俺をドゥットゥカース家の人間として扱うことを禁ずる」
ホウアンだけが頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
執務室には、アムル一人が残っていた。
机の上には、今日だけで何度見たか分からない書類が積み重なっている。
リービッヒ王国からの要求書。
賠償金の請求。
そして――自ら署名した、エル=リージェットへの国家反逆罪による訴追状。
さらにもう一枚。
ドゥットゥカース家との絶縁を宣言する文書。
「……」
アムルは椅子に深く腰掛けたまま、それを眺めていた。
「ずいぶん湿気た顔してるわね」
聞き慣れた声に顔を上げる。
扉にもたれかかるようにして、リオが立っていた。
「……リオ」
「なによ、その顔」
「いや」
リオは勝手に部屋へ入ってくると、机の前まで歩いてきた。
そして例の文書をちらりと見る。
「ドゥットゥカースと縁切りってことになれば、私もここにはいられないわね」
「……そうなるな」
アムルはそれだけ答えた。
出ていけとは言わなかった。
リオも、出ていけと言われたとは思っていない。
ただ、彼女もドゥットゥカースの人間だった。
ここに残れば、アムルがドゥットゥカース家と絶縁したという話そのものが疑われる。
そうなれば困るのはアムルだけではない。
リブロフにいるエルとモンドだった。
「悪い」
「なんであんたが謝るのよ」
「いや……」
「私が決めたことよ」
リオはあっさりと言った。
「それに、私がここにいたら何のためにこんなものまで書いたのか分からないじゃない」
指先で絶縁状を軽く叩く。
「……そうだな」
「気持ち悪いわね。いつもの馬鹿みたいな顔してなさいよ」
「どんな顔だよ」
「馬鹿みたいな顔」
「二回言うな」
ようやく返ってきた言葉に、リオは少しだけ笑った。
「まあ、あいつがいなくなったから、あんたでも寝取ってやろうかと思ったけど」
「……誰から誰を寝取るんだよ」
「あいつから、あんたを」
「……」
リオはしばらくアムルの顔を眺めた。
「やっぱりやめた」
「なんでだよ」
「あんたのこと結構好きだったわ。あいつがいなかったらあんたの側にいたかったくらい…… でも、今のこんな湿気た面の奴なんかと寝るほど私は安くない」
「……悪かったな」
「そうよ。もう少しマシな顔しなさい」
リオは肩をすくめた。
それからしばらく、何も言わなかった。
「……じゃあね」
「ああ」
「世話になったわ」
「こっちこそ」
リオは扉へ向かおうとした。
だが、二歩ほど進んだところで足を止めた。
「……やっぱり、一つだけ」
「ん?」
振り返ったリオが、アムルの前まで戻ってくる。
「なに――」
ふいに顔を近づけ、アムルの唇に自分の唇を重ねた。
「……!」
ほんの一瞬だった。
アムルが何かをするより先に、リオは離れた。
「……お前」
「なによ」
「いや……」
「これくらいはいいでしょ」
リオは平然と言った。
「結構好きだったって言ったじゃない」
「……そうだけど」
「それとも嫌だった?」
「そういう問題じゃないだろ」
「じゃあ、どういう問題よ」
「……」
答えられないアムルを見て、リオは小さく笑った。
「ほんと、湿気た顔」
「うるさいな」
「少しはマシになったじゃない」
リオは今度こそ扉へ向かう。
その背中を見ながら、アムルは口を開いた。
「リオ」
「なに?」
「エルに会ったら――」
そこで言葉が止まった。
何を伝える。
謝るのか。
待っていると言うのか。
必ず助けると言うのか。
今の自分には、そのどれを口にする資格もないように思えた。
そして、そもそもリオもどうなるかわからない。
「……いや。なんでもない」
「そう」
リオはそれ以上聞かなかった。
扉に手をかける。
そこで一度だけ振り返った。
「アムル」
「ん?」
「次に会うときまでには、その湿気た顔、なんとかしときなさいよ」
「努力する」
「努力じゃなくて、なんとかするの」
「無茶言うなよ」
「できるでしょ。あんたなんだから」
リオはそれだけ言うと、扉を開いた。
「じゃあね…… 私の初恋の……」
最後の言葉は誰にも聞こえなかった。
ただリオは振り返ることはなかった。
「ああ」
扉が閉じた。
一人になった執務室で、アムルはしばらく動かなかった。
ドゥットゥカース。
幼い頃に拾われてから、ずっと名乗ってきた名前だった。
モンドからもらった名前だった。
エルと自分を家族にした名前でもあった。
その名を、自分の手で捨てた。
アムルは絶縁状を裏返した。
「……湿気た顔、か」
小さく呟く。
そして、誰もいなくなった部屋で顔を覆った。




