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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第二章 第三次コスタ戦役

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第10話 誤算

 リューザス籠城から、一か月が過ぎた。


 城壁の上からレミーラ軍の陣地を眺めながら、アムル=ドゥットゥカースは小さく息を吐いた。


 最初の十日ほど続いた激しい攻撃は、すでに鳴りを潜めている。


 もちろん、包囲が解かれたわけではない。


 東西南北。


 どちらを見てもレミーラ軍の旗がある。


 完全な包囲だった。


 それでも、一か月前とは違う。


 あの時、この古城へ逃げ込んだ三万人はただの敗残兵だった。


 所属も指揮官もばらばら。


 武器を失った者。


 負傷した者。


 何日も満足に眠っていない者。


 誰が誰の部下なのかすら分からない。


 そんな三万人だった。


 アムル自身も、最初の三日間は城壁に立ち続けた。


 敵が来れば戦う。


 崩れそうな場所があれば兵を集める。


 逃げ出そうとする者がいれば押し戻す。


 ロックとエヴァンスも同じだった。


 そうやって最初の猛攻をどうにか凌ぎ、戦況が安定してから、ようやくアムルはヴァンとともに軍の再編へ取りかかった。


 元の部隊を復元することは早々に諦めた。


 必要なのは、かつてのリービッヒ軍を元通りにすることではない。


 このリューザスで戦える軍隊を作ることだった。


 戦える者は城壁へ。


 負傷していても動ける者は運搬や修繕へ。


 重傷者の中でも帳簿をつけられる者、武具を直せる者はいる。


 兵士だけではない。


 従軍していた職人、御者、商人まで調べた。


 誰が何をできるのか。


 それを一人ずつ拾い上げ、組み直した。


 城壁にも生き残った将校を配置し、その下へ所属に関係なく兵を割り振った。


 一か月。


 ようやく三万人の敗残兵は、一つの軍隊になりつつあった。


「大将!」


 城壁の下から声が飛んできた。


 見下ろすと、ロックがこちらを見上げている。


「なんだ?」


「先生が呼んでるぞ!」


「ヴァン先生が?」


「食い物の話だとよ!」


「……嫌な話だな」


「籠城してんだから仕方ねえだろ!」


 もっともだった。


 アムルは城壁の階段へ向かった。


 ロックも階段を上がってきて、アムルと合流する。


「さっさと行くぞ。先生を待たせるな」


「分かってるよ」


 二人が移動しようとした、そのときだった。


「……ん?」


 ロックが足を止めた。


「大将、あれを見ろ」


「なんだ?」


「あそこだ。敵の陣地の向こう」


 ロックが指さしたのは、レミーラ軍の包囲陣よりもさらに後方に広がる森林地帯だった。


 木々に覆われた丘の一角から、灰色の煙が立ち上っている。


挿絵(By みてみん)


「……狼煙だな」


 アムルは目を細めた。


「何事だ?」


「さあな。敵の合図か?」


「いや、あの位置なら敵の後方だろ。味方かもしれない」


 二人はしばらく煙を眺めていた。


 周囲の兵士たちも気づいたらしく、城壁の上が少しずつ騒がしくなっていく。


「援軍か?」


「パドゥーラ軍じゃないのか?」


「本当に味方が来たのか?」


 兵士たちは口々に話し始めた。


 無理もない。


 レミーラ軍に完全に包囲され、外部との連絡も途絶えて一か月。


 今や城内の兵士たちは、自分たちが見捨てられたのではないかと不安を抱き始めていた。


 そこへ、敵の後方から狼煙が上がったのだ。


 たとえ小部隊であっても、味方が近くにいると分かれば心強い。


「……パドゥーラ軍かね」


 ロックが呟いた。


「だと思う」


 アムルは頷いた。


 そして、ふっと笑った。


「……エルだな」


「は?」


「エルが近くにいるんだよ」


「何で分かるんだ?」


「何となく」


「おい」


「でも、絶対にエルだと思う」


 アムルは嬉しそうに言った。


「こっちが困っているから、何とかしてやろうって考えたんだろうな」


「まあ、嬢ちゃんならやりそうだが……」


「それに、もう一つ意味があると思うんだ」


「何だ?」


 アムルは遠くの狼煙を見つめた。


「私はここにいるからアムも頑張れって意味だと思う」


 アムルの言葉を聞きロックは呆れたように顔をしかめた。


「……狼煙をラブレター代わりにする奴なんぞ古今東西聞いたことがないぞ」


「そうかな?」


 アムルは首を傾げた。


「でも、エルならやりそうだろ?」


「……否定できないのが腹立つな」


 ロックがため息をついた。


 アムルはもう一度、遠くの煙を見つめた。


 エルが近くにいる。


 そう思うだけで、胸の奥にあった重苦しいものが少しずつ消えていった。


 敗走し、三万人を預かり、敵に包囲されている。


 そんな状況でも、アムルは自分が判断を下さなければならなかった。


 ヴァンやロックたちが支えてくれているとはいえ、最後に責任を負うのは自分だ。


 だが、今は違う。


「……でも、エルがいるなら絶対にどうにかなるような気がしてきた」


「……重傷だな」


 ロックは呆れ果てたように言った。


 しかし、その表情は少しだけ緩んでいた。


「ただ、兵たちの顔をみる限り、士気は少しはまともになった。本当に嬢ちゃんが上げているなら、いい判断だ」


 兵士たちの顔を横目でみながらロックは言った。


「だろ? エルはすごいからな」


「……お前は本当にそればっかりだな」


 ロックはもう一度ため息をついた。


 アムルはしばらく考えた。


 そして、悪戯っぽく笑った。


「よし。こっちからも狼煙を上げよう」


「……何のためにだ?」


「意味なんてなくてもいいんだよ。向こうが狼煙を上げて、こっちも上げれば、連絡を取り合っているように見えるだろ?」


「……なるほど」


「敵からしたら嫌だと思うんだ。何を伝えているのか分からないわけだから。」


 アムルは楽しそうに続けた。


「救援の日時を決めているのかもしれないし、包囲突破の打ち合わせをしているのかもしれない。そう考え始めたら、いくらでも気になるだろ?」


「つまり、意味のない狼煙を上げて、敵に勝手に意味を考えさせるわけか」


「そういうこと」


「……嫌な奴だな、お前」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


 アムルは笑った。


「それに、エルにも俺が元気だって伝わるし」


「結局、それが一番の目的じゃねえか」


「まあね」


「……まったく」


 ロックは呆れたように首を振った。


 しかし、この作戦に反対する理由はなかった。


 こちらは狼煙を上げるだけ。


 それで敵が何かを警戒してくれるなら、十分に意味がある。


「よし。狼煙を上げろ!」


 ロックが兵士に命じた。


「はっ!」


 兵士たちが準備を始める。


 やがて、リューザスの古城からも一筋の煙が立ち上った。


 遠くの森林地帯から上がる狼煙。


 それに応えるように、古城から上がる狼煙。


 城壁の兵士たちは、その光景を興味深そうに眺めていた。


「何を伝えているんだろうな?」


「さあ。でも、味方がいるってことは確かだろ」


 兵士たちの間に、久しぶりに明るい声が戻り始めていた。


 アムルは満足そうに頷いた。


「よし。先生のところへ行こうか」


「お前な……」


 ロックは呆れながらも、アムルの後を追った。


 少なくとも、先ほどまで難しい顔をしていたアムルは、もういなかった。


 いつもの、何を考えているのか分からないが、妙に頼もしいアムルが戻ってきていた。


 そして、二人の狼煙を見たレミーラ軍の将兵たちは、その意味を理解できずに頭を悩ませることになる。


 ◇


「……あと一か月か」


 食料庫に入ったアムルは、積み上げられた穀物袋を眺めながら呟いた。


 リューザスに備蓄されていた兵糧は、もともと第七師団一万人の六か月分。


 三万人で消費すれば二か月分となる。


 籠城開始から一か月が経過した今、残りは一か月という計算だった。


「大将、本当に何とかなるんだろうな?」


 ロックが尋ねた。


「何とかするしかないだろ」


「簡単に言うなよ」


「難しく言っても状況は変わらないからね」


「……まったく」


 そのとき、帳簿を抱えたヴァンがやってきた。


「アムル、ロック。少し確認してほしいことがあるんだ」


「先生、どうしたんです?」


「食糧の帳簿を調べ直していたんだけどね。どうも最初の計算より備蓄が多いみたいなんだ」


「……多い?」


「うん。あと一か月分くらい余分にある」


 ロックが目を見開いた。


「おいおい、つまり?」


「あと二か月は持つと思うよ」


「あるじゃねえか!」


 食料庫にロックの声が響いた。


「最初から言ってくれよ!」


「今、確認できたところなんだよ」


 ヴァンは苦笑した。


 アムルは帳簿を受け取った。


「でも、ティーエにしては多いですね」


「そうなんだ」


 ヴァンが頷いた。


「もともとティーエ君が軍用物資の集積を担当していたんだけど、軍用だけでは説明できない量が追加されているんだ」


「……なるほど」


 アムルは少し考えた。


「エルの仕業だな」


「僕もそう思うよ」


 ヴァンが頷いた。


「おそらく、周辺住民への非常用備蓄も兼ねて、エルが増やすように指示したんだろうね」


「エルならそうしますね」


 アムルは笑った。


 軍の必要量を計算するのはティーエの仕事。


 だが、軍だけではなく、周辺で暮らす住民のことまで考えて備蓄を増やしたのなら、それはエルらしい判断だった。


 そして今、その余分な食糧が三万人の命を支えている。


「……またエルに助けられたな」


 アムルが小さく呟いた。


「また嬢ちゃんかよ」


 ロックが苦笑した。


「そうだよ。すごいだろ?」


「分かった、分かった」


 ロックは肩をすくめた。


「それより、大将。あと二か月で本当に何とかなるんだろうな?」


「一か月よりはずっといいだろ?」


 アムルは帳簿を閉じた。


「軍の再編も進んでいるし、時間があれば選べる手も増える」


「それはそうだが……」


「それに、外にはエルたちもいる」


 アムルは笑った。


「何とかなるさ」


 残り二か月。


 十分とは言えない。


 だが、一か月と二か月ではまるで違う。


 三万人を立て直す時間。


 この包囲を破る方法を考える時間。


 そして、生きて帰るための時間ができた。


 ◇


 籠城開始から、二か月が過ぎた。


「ルートビッヒ様、こちらの兵糧に問題が出てきました」


 ホフマンから告げられた言葉に、ルートビッヒは地図から顔を上げた。


「こちらの?」


「はい」


 妙な話だった。


 兵糧が尽きるというのなら、本来はリューザスに籠もるリービッヒ軍が先でなければならない。


 包囲され、外部からの補給を完全に断たれた三万の軍勢である。


 ところが二か月を過ぎても、リューザスが飢えている様子はない。


 それどころか、問題が出始めたのは包囲しているレミーラ軍の側だった。


「現地調達は?」


「従前と変わらず、ほとんど期待できません」


 ホフマンは淡々と答えた。


「リービッヒ軍が撤退以前に周辺の物資を大量に徴発しております。そのうえ、我々が失地を回復した際には住民への物資供出も行っておりますので」


「……あいつら」


 ルートビッヒは眉間を押さえた。


 敵地から物資を奪う。


 それは戦場ではあることだ。


 そこまでは分かる。


 だが、後先を考えず、ありったけ奪って自分たちで消費してしまえば、その土地を占領した側にも何も残らない。


 普通、占領後の統治のことを考えれば、根こそぎ奪うなど考えられない。


 一方で、ルートビッヒも焦土作戦によってリービッヒ軍の物資を奪うことを重視した結果、失地を回復した後、その地域の住民を食わせるために自軍の物資を供出しなければ戦後の統治に影響する。


 敵から奪えると見込んでいた物資がない。


 それどころか、自分たちの物資まで予定以上に住民へ回している。


 第一の誤算だった。


「敵が無能すぎるとこちらにも有害ということか……補給のほうは?」


「そちらも芳しくありません。ライプニッツ方面においては、パドゥーラ伯旗を掲げた小部隊が補給線への攻撃を継続しております」


「あの男の配下か。奴が指示しているとは思えんが、本国に有能な将官が残っているようだな」


「実際、厄介な動きをしております」


 ホフマンは別の報告書を開いた。


「森林地帯で複数の野営跡が発見されています。竈や天幕の跡などから、当初は二千から三千程度の兵力が活動している可能性があると報告されておりました」


「……二、三千か」


「はい。ただし、実際に確認された兵力はそれより少なく、同じ部隊が場所を変えながら野営跡を残している可能性もあります」


「兵力偽装か」


 ルートビッヒは地図を見下ろした。


「あり得るな。だが、別の部隊がいないとも限らん」


「そのため、後方警戒に兵力を割かざるを得ない状況です」


「分かっている」


 ルートビッヒは頷いた。


 二千から三千。


 仮にそれだけの兵力がいたとしても、包囲軍を撃破できるほどの戦力ではない。


 しかし、補給線を脅かし、背後から奇襲を仕掛けるには十分だった。


 放置してリューザスへの攻撃に全軍を投入するわけにはいかない。


「それと、もう一つ気になることがございます」


「何だ?」


「例の狼煙です」


 ルートビッヒが顔を上げた。


「……まだ続いているのか?」


「はい。頻度は一定ではありませんが、パドゥーラ軍が森林地帯で狼煙を上げると、リューザスの古城からも狼煙が上がることがあります」


「内容は?」


「依然として不明です。信号の規則性も確認できておりません」


「……そうか」


 ルートビッヒは腕を組んだ。


 最初にこの報告が届いたとき、外部の部隊と城内の守備兵が何らかの連絡を取り合っているものと考えた。


 包囲突破の打ち合わせ。


 援軍の到着予定。


 攻撃地点の指定。


 あるいは、こちらの注意を引きつけるための陽動。


 いくつかの可能性を検討した。


 しかし、どれも決め手に欠けていた。


 狼煙の後に包囲突破が行われたわけでもない。


 外部の部隊が攻勢を強めたわけでもない。


 かといって、何の意味もないと断定することもできなかった。


 そもそも、わざと意味不明な狼煙を上げて、こちらに余計な判断を強いている可能性もある。


 だが、それならば、なぜ城内からも呼応するように狼煙が上がるのだろうか。


 外部の部隊だけなら、示威行動と兵力偽装で説明がつく。


 しかし、城内からの返答は別だった。


 何かを伝えているのか。


 あるいは、何かを受け取ったことを知らせているのか。


 考えれば考えるほど、可能性ばかりが増えていく。


「……分からんな」


 ルートビッヒは小さく呟いた。


「いかがいたしましょう?」


「今までどおりでいい。敵の規模と動向の確認を続けろ。狼煙そのものに振り回される必要はない」


「承知いたしました」


 ルートビッヒは小さく息を吐いた。


 こちらは包囲軍。


 あちらは城内に籠もる三万人と、外部で活動する少数のパドゥーラ軍。


 兵力でも戦況でも優勢なのはこちらだった。


 それなのに、何を考えているのか分からない敵の動きに、余計な時間と兵力を使わされている。


「……嫌らしいことをする」


 ルートビッヒはわずかに笑った。


「なかなかいい指揮官がいるようだな」


 少ない兵力で、こちらに警戒を強いる。


 しかも、実際の兵数を把握させないよう、わざわざ野営跡まで偽装している。


 その手腕は評価に値した。


 ただ、あの狼煙が何を意味しているのか。


 それだけは、いまだに分からなかった。


 ルートビッヒは考えるのをやめ、ホフマンへ視線を戻した。


「他には?」


「それ以上に問題なのは、レンヌ・コスタ間でも敵残党による補給線への襲撃です」


「まだ掃討できんのか」


「兵を割いておりますが、成果は上がっておりません。それどころか――」


 ホフマンが一瞬、言葉を切った。


「昨日、兵糧庫の一つが焼かれました」


 ルートビッヒの目が据わった。


「……なんだと?」


 第二の誤算だった。


 敗走の過程で取り残されたリービッヒ兵。


 当初、ルートビッヒは彼らをさほど問題視していなかった。


 指揮系統を失い、数十人、数百人単位で山野を彷徨う敗残兵である。


 放っておいても飢えるか、投降する。


 そう考えていた。


 ところが二か月が経過した現在、その残党が中隊単位で蠢動を始めていた。


 補給部隊を襲う。


 橋を壊す。


 ルートビッヒも放置できなくなり、包囲軍の一部を割いて掃討に当たらせていた。


 それでも成果は上がらない。


 そしてついに、兵糧庫まで焼かれた。


「モルトたちは何をしている」


 ルートビッヒの声から笑みが消えた。


 ◇


「兵糧庫がやられただと?」


 報告を受けたモルトは、思わず立ち上がった。


「簡単な掃討すら出来んというのか!」


 彼にとっても意外な報告だった。


 味方はリューザスを巡る我慢比べ。


 まさか包囲している自分たちの方が先に兵糧を心配することになるなど、誰が予想しただろう。


 だが、それはモルトが無能だったからではない。


 彼らが追っている相手が、予想以上に厄介だったのである。


 ◇


「よーく燃えたなぁ」


 遠くで上がる黒煙を眺めながら、シェ=ウィンクは呟いた。


 リービッヒ王国軍第四師団、第十五中隊長。


 それが彼の肩書だった。


 もっとも、同僚からの評価は決して芳しいものではない。


 良くて――給料泥棒。


 平民出身のシェ=ウィンクは、中隊長へ昇進するまでは、有能という言葉が服を着て歩いているような男だった。


 命令された仕事は手早く片付ける。


 兵士の扱いもうまい。


 戦場での判断も早い。


 だからこそ、平民という出自にもかかわらず中隊長まで昇進した。


 そして――そこで止まった。


 中隊長という立場になり、それまで見えなかったものが見えるようになった。


 能力より家柄。


 功績より人脈。


 どれだけ働いても、その上には最初から席を予約されている者たちがいる。


 シェ=ウィンクは働くのをやめた。


 命令されたことだけをやる。


 余計な仕事はしない。


 危険なこともしない。


 昇進など期待しない。


 給料だけ受け取って、適当に軍人生活を終える。


 いつしか同僚からは給料泥棒と呼ばれるようになった。


 本人も、それで構わないと思っていた。


 だが。


「隊長! 見物していないでください。追っ手が来ます!」


「分ーかってる! さっさと運べ! 持てない分は全部燃やせ!」


「はい!」


挿絵(By みてみん)


 どうやら人間というものは、本当に死にそうになると変わるらしい。


 敗走。


 部隊の崩壊。


 指揮官の喪失。


 補給もない。


 行く場所もない。


 周囲にはレミーラ兵がいる。


 途方に暮れる部下たちを前にして、シェ=ウィンクは久しぶりに頭を使った。


 生きなければならない。


 自分も。


 こいつらも。


 そのためには、働くしかなかった。


「東へ抜けるぞ! 三日前に見つけた沢を使う!」


「でも、あそこは行き止まりじゃ――」


「それがいいんだよ。途中で北へ上がれる! 昨日確認した! いいから走れ!」


 兵士たちが動き出す。


 シェ=ウィンクも最後尾についた。


 本人は知らなかった。


 自分が今、レミーラ軍の補給計画にどれほど大きな打撃を与えたのか。


 彼が狙ったのは、ただの物資集積所だった。


 食料が欲しかった。


 冬を越すための衣類も欲しかった。


 だから襲った。


 まさかそこが、リューザス包囲軍を支える中核補給基地の一つだったとは夢にも思っていない。


「隊長!」


「今度はなんだ!」


「肉の塩漬け、思ったよりいっぱいあります!」


「全部持ってけ!」


「持てません!」


「じゃあ食えるだけ食って、残りは燃やせ!」


 戦略などない。


 祖国を救うという壮大な使命感もない。


 リューザスで時間を稼ぐ友軍を助けようなどとは、これっぽっちも考えていない。


 ただ、生き残りたいだけだった。


 だが、そのために必死になった男が率いる数百人の敗残兵が、結果として数万の軍勢を苦しめ始めていた。


 ルートビッヒは当初、彼らを寄生虫程度にしか考えていなかった。


 やがてその寄生虫が鬱陶しくなり、兵を送り込んで駆除しようとした。


 しかし、駆除するどころか――。


 寄生虫の方が、腹を食い破ったのである。


 ◇


「どうなさいますか?」


 ホフマンが尋ねた。


 ルートビッヒは答えず、地図を見つめていた。


 リューザスを包囲して二か月。


 本来ならば、先に音を上げるのは城内の三万であるはずだった。


 だが、現実は違う。


 現地から得られる物資はほとんどない。


 長く伸びた補給線は各地で襲撃を受け、ついには兵糧庫まで焼かれた。


 そのうえ、パドゥーラ軍は後方で活動を続けている。


 大軍ではない。


 だが、完全に無視することもできない。


 このまま包囲を続ければ、先に苦しくなるのはこちらかもしれない。


「敵戦力の殲滅という作戦目標は、すでに達成しております」


 ホフマンは続けた。


「リービッヒ軍は壊滅。残存する三万も、リューザスに封じ込めました。これ以上ここに留まる必要はありません」


 そして、静かに付け加える。


「撤退もありかと」


 ルートビッヒはしばらく何も言わなかった。


 やがて地図から顔を上げる。


「撤退は性に合わん」


 口元に、わずかな笑みが戻った。


「ならば、別の手でいく」

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