余話 『妾腹なので実家で使用人をしていた私、毒姉に「代わりに嫁いで」と言われてイケメン侯爵様のもとへ行ったら、なぜか本当に結婚することになりました』
パウロとアイリーン
余話
「お願いしますから命だけは助けてくださぃぃーーーー!」
少女の絶叫が、ドラグーン伯爵家の応接室に響き渡った。
床に膝をつき、両手を組んで必死に命乞いをしている。
長い赤い髪は乱れ、目には大粒の涙が浮かんでいた。
「私、言われた通りにしただけなんですぅ! 騙そうとか、そんなつもりじゃなくて! お嬢…… お姉様が、代わりに行っておいてって言うからですぅ! 悪いのは全部お姉様なんですうぅ~~」
「…………」
ラレドの貴公子ことラレド候パウロ=フランツベルクは困っていた。
非常に困っていた。
別に殺すつもりなどない。
そもそも、なぜこの娘は自分が殺されると思っているのだろう。
「ご令嬢」
「ひゃい!」
少女の肩が跳ねた。
「顔を上げてください」
「ご、ごめんなさいぃ!」
「謝らなくていいので」
「ふぇぇ……」
泣きながら顔を上げる。
アイリーン=ドラグーン。
ドラグーン伯爵の妾腹の娘。
そして――今日、この場にいるはずではなかった娘である。
本来ここにいるべきだったのは、ドラグーン伯爵家の嫡女だった。
話の始まりは、よくある政略結婚だった。
かつて名門と謳われたドラグーン伯爵家は、今や見る影もなく没落している。
それでも誇りだけは昔のままだった。
家を再興するため、ドラグーン伯は娘を大貴族フランツベルク家へ嫁がせようとした。
当初の希望は、ミュルス大公オーウェンの長男、あるいは次男。
しかし、さすがのオーウェンもそれは断った。
妾ならば受け入れてもよい。
そう返答したところ、今度はドラグーン家が拒絶した。
名門ドラグーン家の娘を妾になどできるものか。
没落してなお、その矜持だけは健在だったらしい。
そこで妥協案として浮上したのが、三男であるパウロだった。
南北戦争で軍功を立てた若き将軍。
現在はラレド侯。
麗しの貴公子。
爵位もある。
領地もある。
そして何より、オーウェンの三男という肩書がある。
ドラグーン家としても、これならば体面を保てる。
双方の思惑は一致した。
ただし、一つ問題があった。
パウロは――オーウェンの実子ではない。
それを知ったドラグーン家の嫡女は、結納の日になって逃げた。
そして、
『あんた、代わりにやっておいて』
そう言い残して。
結果、姉の衣装を着せられ、何も分からないままこの場に座らされていたアイリーンの正体が露見した。
現在に至る。
「本当にごめんなさいぃ……」
また泣き始めた。
パウロは小さく息を吐いた。
どうしたものだろう。
ドラグーン家が何を考えているのかは分かる。
嫡女が逃げたなどと正直に話せば、フランツベルク家の面子を潰す。
だからといって、妾腹の娘を替え玉にするなど、さらに悪い。
それくらいのことは分かりそうなものだが。
パウロは泣き続ける少女を見た。
そのときだった。
床についたアイリーンの手が目に入った。
「……」
パウロの視線が止まった。
妙な手だった。
貴族の令嬢の手ではない。
指先は荒れていた。
ところどころ小さな傷があり、爪も綺麗に整えられているとは言い難い。
水仕事をしている者の手だった。
「その手は?」
「ふぇ?」
アイリーンは自分の手を見る。
「どうしたのですか」
「どうしたって……」
きょとんとした。
「お掃除とか、お洗濯とか、お料理のお手伝いとか……」
「あなたが?」
「はい」
「使用人がいるでしょう」
「私も似たようなものなので……」
アイリーンは何でもないことのように答えた。
そして、また不安そうにパウロを見る。
「……怒りました?」
「いいえ」
「よかったぁ……」
心底安心したように胸を撫で下ろす。
パウロはその手を見つめた。
荒れた、小さな手。
その手を見ているうちに――。
ずっと昔のことを思い出した。
◇
パウロは、ミュルス大公オーウェンの三男とされている。
だが、そこに血のつながりはない。
話は、パウロが生まれるよりも前に遡る。
若き日のオーウェンは、一人の女に手を出した。
身分の低い女だった。
貴族社会の底辺に近い身分の女。
やがて女は妊娠した。
だが、フランツベルク家にとって、その身分はあまりにも低かった。
女は追放された。
そして、フランツベルク家の外で一人の娘を産んだ。
スターラッツ。
後にパウロの姉となる女性だった。
追放された母は別の男と再婚した。
その夫婦の間に生まれたのが、パウロである。
だからパウロとオーウェンの間に血縁はない。
それでもパウロがフランツベルクの姓を名乗ることになったのは、姉のおかげだった。
フランツベルク家にはある問題が生じていた。
宮廷での影響力をさらに強めたいオーウェンは、自らの娘を王宮へ送り込みたかった。
だが、正妻との間に生まれた娘は、宮廷工作の駒として使うには少々造形が悪かった。
そこで思い出されたのが、かつて追放した娘だった。
スターラッツは美しく成長していた。
オーウェンは彼女を呼び戻した。
その頃には母はすでに亡くなっている。
スターラッツには、幼い弟だけが残されていた。
『願いを一つかなえてもらえるのならば、そのお話をお受けします』
姉はそう言ったという。
『パウロも連れていって』
幼い弟を、フランツベルク家の一員として保護すること。
それがスターラッツの提示した唯一の条件だった。
条件は受け入れられた。
スターラッツは王宮へ入った。
そして国王シュデス三世の寵愛を受け、二人の子をもうけることになる。
後のリービッヒ王家へと続く血だった。
一方、幼いパウロはフランツベルク家の庇護下へ入った。
もっとも、オーウェン自身が育てたわけではない。
預けられた先は、ツペルニクス男爵家だった。
厳しい家だった。
朝は早かった。
礼儀作法にも厳しかった。
勉学を怠れば叱られた。
剣の稽古で手を抜けば、容赦なくやり直しを命じられた。
けれど――。
そこには愛情があった。
失敗すれば叱られた。
成功すれば褒められた。
病気になれば心配してくれた。
食卓には自分の席があった。
パウロにとって家族と呼べる人々は、フランツベルク家よりもむしろツペルニクス家の人々だった。
やがて成長したパウロに、オーウェンは軍へ入るよう命じた。
理由は単純だった。
フランツベルク家には武力が必要だった。
宮廷だけではない。
軍にも自分たちの力が必要になる。
パウロは、そのための人材だった。
軍人になりたいか。
そんなことを聞かれた記憶はない。
命じられたから軍へ入った。
そして、そこでモンド=ドゥットゥカースと出会った。
モンドの旗下で戦い、学び、軍人として頭角を現した。
南北戦争。
その戦争で、パウロは大きな軍功を立てた。
アムル=ドゥットゥカースという規格外の少年ほどではない。
それでも若き将として十分すぎる戦果だった。
戦後、パウロはラレド侯となった。
自らの力で勝ち取った爵位。
だが、それすらフランツベルク家にとっては都合がよかった。
これで自分たちは有力な軍人と、その領地を手に入れた。
――何を、私は選んだのだろう。
時折、パウロはそう考えることがあった。
フランツベルク家の一員になることを選んだわけではない。
ツペルニクス家へ預けられることも。
軍人になることも。
戦場へ行くことも。
そして――。
南北戦争の最中。
ツペルニクス家が反乱を起こした。
理由が何であれ、オーウェンにとってそれは許し難い行為だった。
自らの面子を潰した家。
その報復は苛烈だった。
ツペルニクス家は族滅された。
自分を育ててくれた家が消えた。
自分をフランツベルク家の武力として育てた男の命令によって。
それでもパウロは、フランツベルクを名乗った。
姉が、自分を守るために手に入れてくれた名前だったから。
その姉、スターラッツの面影を強く残しているのがカレリアだった。
だからこそパウロは、カレリアを大切にした。
そしてカレリアもまた、大貴族を好まなかった。
自分の母がどのような出自だったのかを知っている。
フランツベルク家のことも好きではない。
それでも、パウロだけは信用してくれた。
姉が自分を守った。
ならば今度は、自分がその娘を守ろう。
それくらいは、自分で決めたことだったのかもしれない。
◇
「……あの」
弱々しい声で、パウロは現実へ引き戻された。
アイリーンがこちらを見ている。
「やっぱり……私、殺されますか?」
「いいえ」
「でも、ずっと黙ってるからぁ……」
「少し昔のことを思い出していました」
「昔?」
「ええ」
パウロはもう一度、アイリーンの手を見た。
この娘も何も選んでいない。
妾腹に生まれたことも。
使用人同然に扱われたことも。
姉の代わりにここへ座らされたことも。
すべて他人が決めた。
自分と同じだった。
そのとき、廊下が騒がしくなった。
「ラ、ラレド侯閣下!」
ドラグーン伯が飛び込んできた。
顔面蒼白だった。
後ろから家族や家臣たちが続く。
伯爵はパウロの前まで来ると、深々と頭を下げた。
「このたびは、まことに、まことに申し訳ございません!」
「……」
「娘がとんでもないことをいたしました! 本来であれば到底許されることではございません!」
アイリーンがびくりとする。
「ひぃ……」
「この娘は妾腹の子でございまして! 決してラレド侯閣下のお相手として用意した娘では――」
パウロは静かに聞いていた。
「何卒、この件につきましては――」
「わかりました」
ドラグーン伯が顔を上げた。
「は?」
「事情は理解しました」
「で、では……」
安堵しかけた伯爵に、パウロは告げた。
「この方と結婚します」
沈黙。
誰も動かなかった。
ドラグーン伯が口を開く。
閉じる。
もう一度開く。
「…………はい?」
「アイリーン殿と結婚すると申し上げました」
「い、いや、しかし!」
伯爵は明らかに混乱した。
「この娘は妾腹でございますぞ!」
「私もミュルス大公の実子ではありません」
「そ、それは……」
「何か問題が?」
「…………」
問題だと言えるはずがなかった。
そもそも嫡女が逃げた理由の一つが、それなのだから。
パウロはアイリーンを見る。
本人が一番理解できていなかった。
「ふぇ……?」
「アイリーン殿」
「は、はいっ!」
「あなたの意思も聞いておきましょう」
「わ、私の?」
「私と結婚していただけますか」
また沈黙。
アイリーンの瞳が大きくなる。
口が小さく開いた。
「…………」
パウロは待った。
これは彼女が決めることだ。
自分も、これまで何も選べなかった。
生まれる家も。
育つ家も。
軍人になることも。
戦う場所も。
ならば――。
花嫁くらい、自分で選んでやる。
そして彼女にも選ばせればいい。
「無理にとは――」
「け、結婚したら……」
「はい?」
「殺されませんか?」
「…………殺しません」
「本当に?」
「本当です」
アイリーンの目から、再び大量の涙が溢れ出した。
「ふぇ……」
そして両手を胸の前で握り締める。
「死にたくないから結婚しますぅ――――!」
「…………」
パウロは黙った。
ドラグーン伯も黙った。
家臣たちも黙った。
誰一人として、この婚約の成立を祝福する言葉を思いつかなかった。
こうして。
後にラレド侯夫人となるアイリーン=ドラグーンと、パウロ=フランツベルクの婚約は成立した。
およそ恋愛とは呼び難い形で。
◇
そして翌朝。
「……どういうことですか?」
ラレド侯邸へ帰還したパウロは、玄関で立ち尽くしていた。
そこにアイリーンがいた。
小さな荷物を抱えて。
「ふぇ……」
「なぜここに?」
「昨日の夜、お父様から……今日からここがお前の家だからって……」
「…………」
早い。
あまりにも早い。
ドラグーン家の意図は明白だった。
パウロの気が変わる前に、娘を押しつけてしまったのだ。
「……そうですか」
「私……ここにいて、いいんですよね?」
不安そうに見上げてくる。
パウロはため息をつきたい気持ちを抑えた。
自分で決めたことだ。
「もちろんです」
「ふぇ……よかったぁ……」
アイリーンは心底安心したように笑った。
そして――。
翌朝。
ラレド侯邸の使用人が、廊下で奇妙なものを発見した。
「……アイリーン様?」
「はい?」
侯爵の婚約者が、床を雑巾で磨いていた。
「何をなさっているのですか?」
「お掃除ですぅ」
「…………」
「?」
そこへ騒ぎを聞きつけたパウロがやって来た。
「アイリーン殿」
「はいっ!」
「なぜ掃除を?」
「働かないと怒られますから」
「誰にですか?」
「…………」
アイリーンは考え込んだ。
「…パウロ様?」
パウロは額に手を当てた。
どうやら。
自分が選んだ花嫁との生活は、思っていたよりも大変なものになりそうだった。
◇
それから、しばらくの月日が流れた。
ラレド侯邸は、朝からいつもとは違う賑わいに包まれていた。
庭には長卓が並べられ、色とりどりの料理が次々と運び込まれている。
屋敷の入口には花が飾られ、普段は武人や役人ばかりが行き交う場所にも、この日ばかりは華やかな衣装に身を包んだ招待客たちが集まっていた。
今日は、ラレド侯パウロ=フランツベルクとアイリーン=ドラグーンの結婚式だった。
「いやあ、俺たちまでご相伴に預かっていいのかねぇ」
並べられた料理を眺めながら、ロックが言った。
「あっちから呼びつけてきたんだ。問題ないだろ」
アムルが答える。
「呼びつけたとは失礼だろう。正式な招待状だったはずだ」
エヴァンスが静かに訂正した。
「意味は同じだよ」
「ずいぶん違うと思うが」
「そう?」
「違う」
エヴァンスは即答した。
その横でエルがくすくす笑っている。
「でも、みんなで来られてよかったね」
「そうだね」
ティーエも頷いた。
「パウロさんとは南北戦争の頃からの付き合いだからね。結婚式に呼んでもらえるのは嬉しいよ」
「しかし意外だったな」
ロックが言う。
「何が?」
「パウロが俺たちより先に結婚するとは思わなかった」
「ロックはともかく、俺たちよりって何だよ」
アムルが返す。
「お前らのことだよ」
ロックの視線がアムルとエルの間を往復した。
エルがぴたりと固まる。
「な、なんで私を見るの?」
「別に?」
「絶対なんか考えてる」
「何も言ってねえだろ」
「顔が言ってるよ!」
エルの頬が赤くなる。
リオが呆れた顔で様子みていた。。
「ほんと、あんたって変わらないわね」
「そう?」
「そこが問題なのよ」
「何が?」
「もういい」
リオは早々にエルのことは諦めた。
ロックが会場を見回す。
「しかし、パウロもよくこんな人数呼んだな」
「ラレド侯の結婚式だからね。本人が呼びたくなくても来る人はいるんじゃない?それに軍部の人も多いよ。だから僕らみたいな身分の低い人間がいても問題視されない」
ティーエが答える。
「面倒くさそうだな」
「ロックが結婚しても、こんなに集まらないだろうね」
アムルが笑う。
「おい。俺だって結婚くらいするかもしれねえだろ」
その言葉に、リオがロックを見る。
「そもそも、あんたの結婚式なんて現世では存在しないわ」
「現世!?」
ロックが振り返った。
「お前、せめて可能性くらい残せよ!」
「来世ならあるかもね」
「死んでんじゃねえか!」
エルが堪えきれずに笑った。
「リオ、それはさすがにひどいよ」
「嬢ちゃん、笑ってるじゃねえよ!」
「ご、ごめん……でも……」
エルは口元を押さえる。
隣ではアムルも肩を震わせていた。
「大将! お前も笑うな!」
「いや……来世ならあるって……よかったな」
「何がよかったんだよ!」
「希望は残ったじゃん」
「今世の希望を残せ!」
「難しいんじゃない?」
ティーエが真顔で言った。
「ティーエまで!?」
「まあ、頑張れ」
エヴァンスがロックの肩を叩いた。
「その慰め方が一番腹立つんだよ!」
いつもの調子だった。
南北戦争の頃から変わらない。
立場も、爵位も、それぞれ随分と変わった。
それでも六人で集まれば、話すことなどこんなものだった。
ところが――。
不意に、会場の空気が変わった。
入口に近い場所から、話し声が消えていく。
それが波のように広がった。
「ん?」
最初に気づいたアムルが振り返る。
貴族たちが次々と入口へ視線を向けていた。
ロックもそちらを見る。
「なんだ?」
やがて、六人にも理由が分かった。
一人の少女が会場へ入ってきた。
カレリアだった。
その瞬間、会場中の視線が彼女へ集中した。
リービッヒ王女。
それだけでも、この場にいる誰よりも高い身分にある。
ましてカレリアは、現在のリービッヒ宮廷において無視することのできない存在だった。
誰が最初に挨拶するか。
誰が声をかけるか。
誰が王女の目に留まるか。
先ほどまで談笑していた貴族たちの表情が、一瞬にして変わっていく。
「うわぁ…… 相変わらず吐き気がするわ」
リオが露骨に嫌そうな顔をした。
「すごいね」
ティーエが丸眼鏡の位置を直す。
「全員見てるな」
ロックが言う。
「王女様だからね」
エルは苦笑した。
アムルだけは平然としていた。
「カレリアも大変だな」
カレリア自身も、集まった視線に気づいていた。
だが、特に反応はしなかった。
慣れている。
むしろ、こういう場所は好きではない。
自分の顔ではなく王女という肩書を見る人間。
自分の言葉ではなく、その背後にある王家との関係を考える人間。
幼い頃から嫌というほど見てきた。
何人かの大貴族が、早くもカレリアへ近づこうとしていた。
「カレリア殿下――」
声をかけようとした男に軽く会釈を返す。
だが、足は止めなかった。
向かう先は最初から決まっている。
今日の主役。
ラレド侯パウロ=フランツベルク。
カレリアが近づいてくることに気づき、パウロも彼女の方へ身体を向けた。
その前まで来ると、カレリアは足を止める。
そして、柔らかく笑った。
「叔父様。ご結婚、おめでとうございます」
周囲に小さなどよめきが起こった。
パウロは静かに頭を下げる。
「カレリア様。ありがとうございます」
「ようやくですね」
「ええ」
「叔父様が結婚なさると聞いたときは、少し驚きました」
「私もです」
「叔父様が驚いてどうするのです」
カレリアが笑う。
パウロの表情もわずかに緩んだ。
王女とラレド侯。
周囲から見ればそういう二人だった。
だが、カレリアにとってパウロは昔から叔父だった。
フランツベルク家そのものを、カレリアは好いていない。
母の生まれを考えれば、好意を持てという方が難しかった。
大貴族という存在そのものにも、どこか苦手意識がある。
けれど――。
パウロだけは違った。
母スターラッツが大切にしていた弟。
そしてカレリア自身も、幼い頃から信頼してきた叔父だった。
カレリアはパウロの隣へ視線を移した。
赤い髪の花嫁が、緊張した様子で立っている。
目が合った瞬間、アイリーンの肩が跳ねた。
「ひゃっ……」
カレリアが微笑む。
「あなたがアイリーンさんですね」
「は、はいぃ! アイリーン=ドラグーンですぅ!」
勢いよく頭を下げる。
「お、お会いできて光栄です、カレリア王女殿下!」
「そんなに緊張しないで」
「む、無理ですぅ……」
「どうして?」
「王女様ですからぁ……」
カレリアは思わず笑ってしまった。
パウロも小さく息を吐く。
「アイリーン。カレリア様はあなたを叱りに来たわけではありません」
「わ、分かってますぅ……!」
どう見ても分かっていない。
少し離れたところから見ていたエルが、くすくすと笑った。
「アイリーンさん、相変わらずだね」
「良い人なんだけどな」
アムルも笑う。
「うん。本当に良い人」
エルは素直にそう言った。
以前、パウロから話を聞いたときにも、良い人に会えたと言っていた。
実際に会ってみれば、その言葉に間違いはなかった。
気が弱い。
すぐ泣く。
貴族らしい振る舞いも得意ではない。
それでも働き者で、人に優しく、誰に対しても態度を変えない。
パドゥーラに来たときも、気がつけば使用人たちに混じって何かを運んでいた。
止めても働く。
それが少々困りものではあったが。
やがて、式の始まりを告げる声が響いた。
それまで談笑していた招待客たちが、それぞれの場所へ移っていく。
アムルたちも並んで席についた。
ほどなくして、パウロが姿を現した。
いつもと同じ、背筋の伸びた立ち姿。
南北戦争の頃から何度も見てきた男だった。
戦場でも。
軍議でも。
王宮でも。
パウロ=フランツベルクは、いつもどこか堅かった。
感情を表に出すことは少なく、何があっても自分の役割を果たす。
そんな男だった。
だが、今日は違った。
パウロの隣にはアイリーンがいる。
赤い髪を綺麗に整え、花嫁衣装に身を包んでいた。
緊張しているのだろう。
歩き方はどこかぎこちないどころか、ドレスを踏んで転びそうになる。
それでも、パウロの隣に立つその顔は幸せそうだった。
パウロがアイリーンへ手を差し出す。
アイリーンは一瞬だけその手を見て、それから自分の手を重ねた。
パウロが微笑んだ。
「……」
アムルは、その横顔を見ていた。
珍しい顔だと思った。
戦勝の宴でも。
ラレド侯に叙されたときでも。
あんな顔をしているパウロを見た記憶はない。
「幸せそうだね」
隣でエルが小さく言った。
「ああ」
アムルも小さく答えた。
「よかった」
「うん」
それだけだった。
式は静かに進んでいく。
パウロが誓いを述べる。
アイリーンも、少し震える声でそれに続いた。
あの日。
「死にたくないから結婚しますぅ――――!」
と泣き叫んで婚約を受け入れた少女が、今は自分の意思でパウロの隣に立っている。
誰かに押しつけられたからではない。
姉の代わりでもない。
今日ここにいるのは、パウロが選び、そしてパウロを選んだアイリーンだった。
誓いが終わる。
会場から拍手が起こった。
アイリーンがパウロを見上げる。
パウロも彼女を見る。
二人とも笑っていた。
エルも拍手をしながら、その姿を見つめていた。
ふと。
右手に、何かが触れた。
「……」
見るまでもなかった。
アムルの手だった。
指先が、ほんの少し触れている。
エルは何も言わなかった。
手を引くこともしなかった。
ただ、自分の手を少しだけ横へ動かした。
二人の手が重なる。
アムルも何も言わない。
握り締めるわけでもない。
ただ、重ねているだけだった。
二人の視線は、前を向いたまま。
幸せそうに笑うパウロとアイリーンを見ていた。
エルの指が、そっとアムルの指に絡む。
アムルも静かに握り返した。
エルの頬が少しだけ赤くなる。
それでも手は離さなかった。
アムルも離さない。
二人はそのまま、友人たちに囲まれて祝福されるパウロとアイリーンを見つめていた。
第二章終了です。
9月5日から第三章スタートします。




