第26話 賢招館
第26話
「わあ、綺麗な人……」
隣から漏れたユナの嘆息に、ジャンは現実から引き離されかけていた意識を取り戻した。
無理もない。
机を挟んで向かい側に座っている少女は、同性であるユナでさえ思わず声を漏らすほど整った容姿をしていた。
銀色の髪に、淡い氷色の瞳。
年齢は自分たちとさほど変わらないはずなのだが、整った顔立ちと小柄な体格のせいか、それよりも幾分幼く見える。
エル=リージェット。
パドゥーラ侯アムル=ドゥットゥカースの義妹にして、この地の統治を支える人物の一人。
エル本人が自らの容姿を意識し、それを他人に対して行使したことは一度もなかったが、その存在が無意識に周囲へ与える影響は計り知れなかった。
「ようこそ、パドゥーラへ」
エルは柔らかく微笑んだ。
「試験官のエル=リージェットです」
賢招館。
身分や出自を問わず、人材を求めるためにパドゥーラが設けた登用機関である。
ジャンたちはそこへ仕官希望者を装って入り込んでいた。
「まず、あなたの姓名と、どのような役職をお望みなのかをお聞きしたいと思います」
その穏やかな声音に、ジャンは一瞬感じていた緊張から解放された。
そしていつもの不敵さを取り戻す。
「名はクローゼです」
「クローゼさんですね。それでは、希望する役職は?」
「そうですね」
ジャンは少し考える素振りを見せた。
「なんでもできる、といったところでしょうか」
「……なんでも?」
「内に入りては宰相となり国を安んじることができます。外に出でては将帥となり、成果をもたらしましょう」
「…………」
エルが一瞬、あっけに取られた。
後ろに座っていたユナも目を丸くしている。
しかしジャンだけは平然としていた。
やがてエルの表情が元に戻る。
「たいした自信ですね」
「自信のない者を雇いたいとは思われないでしょう?」
「それはそうかもしれませんね」
エルは小さく笑った。
それから机の上で指を組む。
「ですが、今のパドゥーラの実情を考えれば、それがどれほど難しいことなのかは想像しやすいと思います。北にはレミーラ、東には都市同盟。そして内政にもまだ多くの問題を抱えています」
「そして南にはリービッヒ――といったところでしょうか?」
エルの言葉が止まった。
「……」
ジャンは続ける。
「単刀直入に申し上げれば、この三者の中で、現在もっともパドゥーラにとって危険なのはリービッヒでしょう」
「リービッヒが?」
「ええ」
ジャンは迷わなかった。
「レミーラは強大です。名将ルートビッヒ=ハイマンをはじめ、きら星のごとき将帥を抱えている。軍事力だけを見れば、三者の中でもっとも恐るべき相手でしょう」
「それなら、なぜ?」
「強いからですよ」
ジャンは即答した。
「強者には選択肢があります。わざわざ損をする戦争を選ぶ必要がない」
エルの瞳がわずかに細くなった。
「現在のパドゥーラを攻めれば、レミーラ側にも甚大な損害が出ることは疑いありません。勝てるかどうかではなく、勝って何を得られるかという問題です。少なくとも、ルートビッヒほどの人物なら、その程度の計算はするでしょう」
「……なるほど」
「都市同盟も同じです。現在の都市同盟にとって最大の問題はレミーラへの対抗です。わざわざパドゥーラと争い、余計な戦力を消耗する理由がない」
そこでジャンは一度言葉を止めた。
ことさら脅威を煽ろうとしたわけではない。
一気に喋ったため、単純に口が渇いたのだ。
用意されていた水を一口飲む。
「しかし――リービッヒは違います」
ジャンは杯を置いた。
「パドゥーラにとってリービッヒは宗主国にあたるわけですが、現在の実力から言えば、その差は以前ほど大きくありません」
南北戦争によってリービッヒ本国は疲弊した。
一方のパドゥーラは、内戦後の混乱から急速に立ち直りつつある。
「そしてリービッヒでは、大貴族による門閥政治が行われている。失礼ながら、現在の中央にこれといった人材がいるようにも見えません」
「ずいぶんと言いますね」
「事実を述べたまでです」
ジャンは悪びれない。
「彼らから見れば、パドゥーラはどう映るでしょう?」
エルは答えなかった。
「形式上は自分たちに従属している。ところが年々豊かになり、軍事力を蓄え、民衆から絶大な支持を受ける侯爵が統治している」
ジャンは机を指先で軽く叩いた。
「恐ろしいでしょうね」
「……」
「パドゥーラが反乱を起こすかどうかなど問題ではありません。彼らが『反乱を起こすかもしれない』と思えば十分です」
部屋が静かになった。
「遅かれ早かれ、理性のたがが外れれば、リービッヒはパドゥーラに害をなすでしょう」
「……なるほど」
エルはしばらく考えていた。
「面白い理論ですね。しかし、少し危険を煽りすぎとも思えます。それに、パドゥーラの力を高く評価しすぎているようにも思います」
「そうでしょうか?」
「ええ」
「私としては、控えめに評価したつもりなのですが」
ジャンは肩をすくめた。
「まあ、この状況における解決策を私なりに整理すると、パドゥーラの取るべき道は一つだと思われます」
「その取るべき道とは?」
「都市同盟への加入。もしくは都市同盟と盟約を結び、東方の憂いを取り除くことです」
言ってから、ジャン自身も少し踏み込みすぎたと思った。
仕官試験を受けに来た人間が語る内容ではない。
だが――。
「なるほど……面白い理論ですね」
エルはもう一度そう言った。
そして、優しく微笑んだ。
「ですが、今回の役目はそうではないのでしょう?」
「……?」
「あなたがセイレンの参事官、ジャン=ワイズマンさんですね?」
ジャンの表情が止まった。
後ろでユナが息を呑む。
「……なるほど」
数秒後。
ジャンは苦笑した。
「我々の到来は予期していたということですか?」
「はい」
エルはあっさり認めた。
「パドゥーラ侯アムルより指示を受けています。別段、何かをするよう命じられたわけではありませんが、パドゥーラへ入ってからのあなた方の行動を、無断で監視させてもらいました」
エルは頭を下げる。
「まず、そのことをお詫びします。あなた方同盟人にとって、自由の侵害は何にも代え難い苦痛と聞いていますので」
「そこまで分かっていながら監視したのですか?」
「必要でしたから」
柔らかい口調のまま、エルは言い切った。
ジャンは思わず笑った。
「なかなか手厳しい」
「それはこちらの台詞です」
エルの視線がジャンからユナとリックへ移る。
「しかし、軽率ですね」
「……何がでしょう?」
「あなた一人ならともかく、お連れの方まで連れてくるなんて」
ジャンの目つきが変わった。
エルはそれを見逃さなかった。
「あなたは外交官です。敵地で倒れることも覚悟なさっているでしょう。でも、うしろのお二方まで同じ覚悟をしているとは思えません」
「……」
「それに――」
エルは何かを言いかけ、やめた。
ジャンの額に小さな汗が浮かんでいる。
「……少し脅しすぎましたね」
エルは苦笑した。
「その反応で十分です」
「反応?」
「2人をを巻き込むつもりはない。それだけわかってもらえれば十分です」
そして少しだけ表情を柔らかくする。
「アムルも、そういうことは好みません」
「……」
「彼は戦場では非情な決断をすることがあります。でも、平時から同様の人間ではありません。ご安心ください」
ジャンはしばらくエルを見つめた。
「……肝に銘じておきましょう」
「そうしてください」
エルは頷いた。
「では、本題に入りましょうか」
空気が変わった。
「セイレンへの食料援助については、すでに準備が整っています」
「……すでに?」
「港をご覧になりましたよね?」
ジャンは思い出した。
湖岸に積み上げられた大量の穀物。
船へ積み込まれていた袋。
「あれを?」
「はい。すぐにセイレンへ向けて搬送できるよう手配します」
「……見返りは?」
ジャンは眉を寄せた。
「まさか、リービッヒへの帰順ということもないでしょう」
「アムルはそのようなことを望んでいません」
エルは即答した。
「今回の物資は人道上の援助です」
「無償で?」
「はい」
話がうますぎる。
ジャンの警戒が顔に出たのだろう。
エルが続ける。
「ただし、援助とは別に一つお願いがあります」
「やはり」
「そんな怖い顔をしなくても大丈夫ですよ」
「外交官ですので」
「では、外交のお話をしましょう」
エルは机の上に一枚の地図を広げた。
「パドゥーラと都市同盟の通商関係は、現在ほぼ断絶しています。私たちはこれを回復したいと考えています」
「都市同盟との通商を?」
「いいえ」
エルは首を振った。
「まずはセイレンとです」
「セイレン?」
「こちらからは小麦をはじめとする穀物類を輸出します。そしてセイレン側からは――サドリーの鉄鉱石を輸入したい」
「……サドリーの鉄鉱石?」
ジャンは訝しんだ。
サドリーと聞いて最初に思い浮かぶのは錫である。
良質な錫の産地として知られる土地だ。
鉄鉱石も産出するが、品質が高いと聞いたことはない。
「錫ではなく?」
「鉄鉱石です」
「なぜ?」
ジャンは率直に尋ねた。
「我々は現在、農業改革と鉄鋼生産を主軸に経済政策を進めています」
エルは包み隠さず答えた。
「ですが、パドゥーラでは良質な鉄鉱石が十分に得られません。昨今の農具や鉄器の生産量増加もあって、国内生産だけでは不足し始めています」
「なるほど……」
「もちろん、これは援助の対価ではありません。鉄鉱石については相応の代金を支払います」
ジャンは地図を見る。
食料を必要とするセイレン。
鉄を必要とするパドゥーラ。
互いに余っているものを、互いに不足しているものへ交換する。
単純な話だった。
「……分かりました。私の権限だけで決められる話ではありませんが、セイレンへ持ち帰ります」
「お願いします」
エルは微笑んだ。
「では、この後は侯爵邸へご案内します。アムルもそちらで待っていると思いますので」
「ようやくパドゥーラ侯にお会いできるわけですか」
「はい」
エルはなぜか少しだけ困ったように笑った。
「……あまり期待しすぎない方がいいかもしれません」
「?」
その言葉の意味を、ジャンは間もなく知ることになった。
◇ ◇ ◇
「……ない」
ジャンは立ち止まった。
「ないね」
ユナとリックも周囲を見回している。
三人が立っているのはパドゥーラ市街の一角だった。
賢招館を出た後、エルにはまだ仕事が残っていたため、教えられた場所へ先に向かったのである。
だが、問題があった。
「本当にここなのか?」
「エル様が言ってた場所はここだよ」
「俺もそう記憶している」
三人はもう一度周囲を見回した。
商店。
民家。
民家。
小さな路地。
また民家。
「侯爵邸がないぞ」
「うん」
「見落とすようなものか?」
「普通は見落とさないよね」
当然である。
仮にも侯爵の邸宅だ。
豪華絢爛である必要はないにしても、それなりの規模の屋敷があるものだろう。
ところが、それらしい建物がない。
「一本、道を間違えたか」
三人は戻った。
違った。
反対側へ行った。
違った。
路地を一本ずつ確認した。
ない。
ジャンは次第に真剣になってきた。
「おかしい、まさか騙されたか?」
「そんなことする?誰かに聞こうよ」
「そうするか」
近くを歩いていた老人に尋ねる。
「すみません。パドゥーラ侯爵邸はどちらでしょう?」
「ああ、アムル様ん家か」
「はい」
「そこ」
老人が指差した。
「……」
三人は振り返った。
そこには、さっきから何度も前を通っている家があった。
周囲の民家より多少大きい。
多少、である。
衛兵も一人いる。
塀もある。
庭もある。
しかし、それだけだ。
「……あれですか?」
「そうだよ」
「侯爵邸ですよ?」
「だから、アムル様ん家だろ?」
「……ありがとうございます」
ジャンは礼を言った。
老人が去っていく。
しばらく沈黙。
「ジャン」
「なんだ」
「普通のお家だね」
「……そうだな」
三人は門の前まで歩いた。
表札を確認する。
間違いない。
「アムル=ドゥットゥカース」
ジャンは読み上げた。
「本当にここか」
「本当にここみたいだね」
ジャンはしばらく建物を眺めた。
そして、小さく呟く。
「……分からん国だ」
門をくぐった。
◇ ◇ ◇
衛兵に紹介状をみせると応接室へ通された。
一人の青年が茶を運んできた。
黒髪。
童顔。
服装も質素で、とても貴族には見えない。
年齢はユマ・リックとさほど変わらないように見えた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
青年が茶を置く。
ジャンは一口飲んだ。
悪くない。
むしろ美味い。
しばらく待ってみたが、侯爵が現れる気配はない。
暇を持て余したジャンは、茶を追加している青年に声をかけた。
「一つ聞いてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「パドゥーラ侯とは、どういった方ですか?」
半分は興味だった。
ここまで見てきたパドゥーラの統治は、見事としか言いようがない。
賢招館。
整備された市場。
港。
そしてエル=リージェット。
それらを束ねている人物がどのような男なのか、ジャンは純粋に興味を持っていた。
青年は少し考えた。
「侯爵様ですか?」
「ええ」
「いい加減な方ですよ」
「……は?」
「今日だって公務をエル様に押し付けて、とっとと帰ってきたんですから」
「それは……」
想像していた答えと違った。
青年は呆れたような顔をしている。
「働くの嫌いですし。暇があれば釣りに行こうとするし」
「……しかし」
ジャンは困惑しながらも言った。
「この国はよく治まっています。正直、大したものだと思いますが」
「周りに優れた人物が多いですからね」
青年は平然と答えた。
「侯爵様だけの力じゃありませんよ」
「なるほど」
それにはジャンも同意できた。
「ちなみに、どのような方がおられるのですか?」
「エル様に、軍師のヴァン先生。ティーエに三将軍。それ以外にもたくさんいますよ」
「ほう」
「特にエル様は大した方ですよ。市民はみんな彼女を慕っています」
「それは今日お会いして、よく分かりました」
「でしょう?」
なぜか青年が嬉しそうに笑う。
「侯爵様なんて、おまけみたいなものだって言ってる連中も多いですよ」
「いや」
さすがにジャンが否定した。
「そんなことばかりでもないでしょう」
「そうですか?」
「私が街で聞いた限りでは、市民は皆、侯爵を尊敬していました。南北戦争以来の功績もあります。あなたは主人に少々厳しすぎるのでは?」
「そうかなぁ」
「そうだと思いますよ」
「へえ」
青年が少し嬉しそうな顔をした。
そのときだった。
玄関の方から扉が開く音がした。
「アム、帰ったよ」
聞き覚えのある声。
「あ、エル」
青年が返事をした。
ジャンは立ち上がった。
部屋へ入ってきたエルへ声をかける。
「エル殿。先ほどから家人の方に、侯爵についていろいろと教えていただいて――」
「家人?」
エルが止まった。
ジャンが青年を見る。
エルも青年を見る。
「……アム?」
エルの秀麗な顔が、一気に曇った。
「アム!!」
「うわっ」
エルが青年のところへ駆け寄った。
「なんてことするの! 賓客の方に向かって!」
「何するんだよ!」
首根っこを押さえられた青年が抗議する。
「別に何もしてないよ!」
「してるでしょ!」
「率直な感想を聞いただけだし!」
「それを何もしてないとは言わないの!」
「痛い、痛いって!」
ジャンは呆然とその光景を眺めていた。
隣のユナも口を開けている。
やがて青年はエルの手から逃れると、乱れた襟元を直した。
そして何事もなかったかのようにジャンたちへ向き直る。
「改めまして」
童顔の青年は笑った。
「はじめまして。アムル=ドゥットゥカースです」
「……」
「……」
ジャンとユナ、リックは、揃って言葉を失った。
南北戦争の英雄。
荒廃していたこの土地を立て直した、パドゥーラの奇跡の立役者。
そして現在、リービッヒ東部でもっとも強大な勢力を率いるパドゥーラ侯。
その男を。
ジャン=ワイズマンは先ほどまで――。
侯爵家の使用人だと思っていた。




