第25話 パドゥーラへ②
第25話
プラタ川を遡った船は、4日後の昼前にはパドゥーラの川港へ到着した。
ジャン=ワイズマン、ユナ=リズナー、リック=リズナーの三人は船を降り、荷物を抱えて市街へ向かった。
ここから先はリービッヒ王国領である。
セイレンと正式な国交があるわけではない。
もっとも、そんなことを気にしているのは政治家くらいのものらしい。
港にはセイレンでも見覚えのある商品が並び、都市同盟から来たと思われる商人も普通に歩いていた。
商人たちは、国境などお構いなしに商売をしている。
ジャンたちも、その流れに紛れて街へ向かった。
「ところで」
市街を囲む門が見えてきたところで、ジャンが足を止めた。
「一応、決めておくぞ」
「何を?」
ユナが振り返る。
「俺たちの関係だ」
「関係?」
「聞かれた時の設定だ。怪しまれたら困るだろう?俺はセイレンから買い付けに来た商人ということにする。まあ大学教授でもかまわんが。」
「私は?」
「使用人」
「えー」
「何が不満なんだ」
「もっと別のがいい」
「例えば?」
ユナは少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「奥様なんてどう?」
「却下」
「早い!」
「考える余地がない」
「商人が奥さんを連れて旅するのって普通じゃない?若きやり手商人ジャンと麗しき妻の新婚旅行。いい設定じゃん。」
「俺は旅行に来たんじゃない」
「じゃあ、商談についてきた奥さん」
「余計に不自然だ」
「そうかなぁ」
「そうだ」
「じゃあ婚約者」
「却下」
「妹」
「それなら――」
「やっぱり却下!」
「お前が却下するな!」
リックが二人のやり取りを眺めていた。
「ぼくは?」
「使用人」
「僕だけ使用人なの?」
「安心しろ。ユナも使用人だ」
「安心できないよ」
「私は奥様がいい」
「まだ言ってるのか」
ジャンは歩き出した。
「とにかく二人とも使用人。それでいい」
「よくない」
「俺の指示に従うって約束しただろ」
「こういう意味じゃないんだけどなぁ」
ぶつぶつ文句を言うユナを無視して、ジャンは門へ向かった。
◇
「止まれ」
門番が三人に声をかけた。
「どんな要件だ?」
「取り引きです」
ジャンが答える。
門番はジャンを一瞥すると、その後ろにいる二人へ目を向けた。
「後ろの二人は?」
「使用人です」
「誰が使用人よ!奥様でしょ」
即座にユナが抗議した。
「お前、さっき決めただろ!」
「決めたのはジャンでしょ!」
「お前も最終的に納得しただろ!」
「してない!」
門番は三人を見比べた。
「夫婦げんかはよそでやってもらえないか?まあ、商人にしては人相が悪いが、通っていいぞ」
「夫婦はともかく、誰の人相が悪いのよ!」
ユナがさらに食ってかかる。
「お前じゃない。そっちの男だ」
門番がジャンを指した。
「ほら!」
「何が、ほら、だ!」
リックが笑いを堪えている。
「もういい。行くぞ」
ジャンは門をくぐろうとして、ふと足を止めた。
「通行料は?」
「ん?」
「いくらだ?」
門番が不思議そうな顔をする。
「何が?」
「だから、入城するための通行料だ」
「ああ」
ようやく意味が分かったらしい。
「パドゥーラにそんなものはない」
「……ない?」
「ああ」
「商人でも?」
「商人でも旅人でも同じだ。通るだけで金なんて取らんよ」
門番は笑った。
「本当に初めて来たんだな」
「ああ」
「なら、パドゥーラを楽しんでいきなさい」
三人はそのまま門をくぐった。
しばらく歩いてから、ユナが後ろを振り返る。
後続の荷車も、その後ろの商人も、門番と簡単なやり取りをしただけで通っている。
金を払っている様子はなかった。
「本当にただで入れたね」
「ああ」
ジャンも振り返った。
商人たちから聞いていた噂の一つ。
少なくとも、それは本当だった。
◇
パドゥーラの街は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
古びた建物が多い。
石畳はところどころ傷み、路地に入れば舗装すらされていない場所もある。
古い家の隣に真新しい建物が建ち、そのまた隣では職人たちが屋根を修理している。
あちらでは道路を直し、こちらでは倉庫を増築していた。
街全体に統一感がない。
だが――。
「すごいね」
ユナが辺りを見回した。
「何が?」
「人」
確かに多い。
商人。
職人。
農民。
荷運び人。
兵士。
子供たち。
とにかく人が動いている。
荷車が行き交い、店先からは威勢のいい声が飛び交っていた。
「チル湖産の新鮮なパクーだ! 釣り名人のじいさんの一本釣り! 買った、買った!」
魚屋の店先には大きな魚が並んでいる。
「釣り名人?」
ユナが足を止める。
「商売文句だろ」
ジャンはそのまま通り過ぎた。
「朝採れ野菜だよ! 南の畑から届いたばっかりだ!」
「パンはいらんか! 焼きたてだ!」
「鍋の修理ならこっちだ! 穴くらいなら今日中に塞ぐぞ!」
「ライプニッツ行き! あと二台積めるぞ!」
四方八方から声が聞こえてくる。
ユナは楽しそうだった。
リックも興味深そうに店先を眺めている。
一方、ジャンの視線は商品の横に置かれた札へ向いていた。
「……安い」
「何が?」
「麦だ」
ジャンは別の店を見る。
そこにも麦が積まれている。
さらに先の店にもある。
「セイレンより?」
「かなりな」
「じゃあ買える?」
「まだ分からん」
「安いんでしょ?」
「小売価格が安いからといって、セイレンで必要な量を確保できるとは限らない」
「相変わらず真面目だねぇ」
「仕事で来てるんだ」
その横を、麦袋を満載した荷車が通り過ぎた。
ジャンはその荷車を目で追う。
一台。
その後ろから、もう一台。
さらに別の荷車が来る。
少なくとも、食料が不足している街には見えなかった。
「変な街だな」
「そう?」
ユナが首を傾げる。
「ああ」
ジャンは周囲を見る。
「綺麗じゃない」
「失礼だよ」
「事実だろ。建物も古いし、道路も工事中だらけだ」
「でも活気はあるよ」
「だから変なんだ」
完成された豊かな都市ではない。
むしろ、街そのものが人と物の増加についていけていない。
「豊かな街というより……豊かになってる途中の街か」
ジャンは呟いた。
◇
三人は市場から少し離れたところに宿を取った。
商人向けの宿らしく、決して豪華ではないが部屋は清潔だった。
荷物を置くと、ジャンは紙を広げた。
「情報を集めるぞ」
「もう?」
「そのために来たんだ」
「何を調べるの?」
「麦」
ジャンは即答した。
「今年の価格、去年の価格、どれだけ取れているか、どこへ売っているか。大口で買えるか。それからプラタ川を使った場合の輸送費」
「多いよ」
「何万人分の麦を買うと思ってるんだ」
ジャンはユナを見る。
「ユナは市場を見てこい」
「私?」
「麦だけじゃなくていい。食料全般。それから、この街の連中がどう暮らしているか」
「分かった」
「遊ぶなよ」
「分かってるって」
「リックは港だ」
「うん」
「船乗りや荷役人から物流を聞いてこい。何が入って、何が出ているか。船賃も分かれば聞いてくれ」
「分かった」
「俺は要人と接触する方法とパドゥーラの制度、あとは大口の取引ができるのかを調べる」
ユナが笑った。
「ジャンらしいね」
「何が?」
「数字と制度」
「それを調べに来たんだ」
三人は宿を出た。
それぞれ別の方向へ歩き出す。
◇
夕刻。
三人は宿の食堂に戻っていた。
「じゃあ、リックから」
「うん」
リックは昼間に書き留めた紙を卓へ置いた。
「まず、良い町だね」
「感想じゃなくて情報を言え」
「これも情報だよ」
リックは真面目な顔だった。
「住民のみんなの表情が明るい」
ジャンの筆が止まる。
「……続けろ」
「アムル様が治めるようになってから、すごく暮らしが楽になったって。何人かに聞いたけど、みんな似たようなことを言ってた」
「具体的には?」
「市に店を出すのに税金がいらない」
「本当か?」
「うん」
入城料がない。
出店税もない。
ジャンは紙へ書き込んだ。
「それから調べた店の穀物価格。すごく安い。商店街でみた店よりも安いところもあった。」
「いくらだ?」
リックが数字を答える。
ジャンの眉が上がった。
「……セントハイム産の半分もしないじゃないか。今年だけか?」
「去年も安かったって、でも今年はさらに安く供給できているみたいだよ」
「なるほど」
「それに今は、コスタ平原で戦争があったから北部からの物流が止まってるんだって」
ジャンが顔を上げた。
「それでも、あの品数なのか?」
「うん」
「……」
「あとね、都市同盟の商品もかなりあった」
「都市同盟?」
「サウスウィンドの品だけでなくてイーストポートの物もあったよ。どこから入ってくるのかな?」
「さあな」
正式な国交などない。
それでも商品は来ている。
商人という連中は、政治家が考えているよりはるかに逞しいらしい。
「あ、それと」
「まだあるのか?」
「市場には候爵本人がよく買い物に来るって」
「アムル=ドゥットゥカースが?」
「うん」
「視察か?」
「買い物」
「……何を買うんだ?」
「食材。料理するんだって」
「領主が?」
「魚とか野菜とか。あと時々、カエルも買っていくらしい」
「カエル?」
「料理に使うとかなんとか」
リックは少し考えた。
「食べるわけじゃないよね?」
「俺に聞くな。まあいいパドゥーラではカエルも重要な食料と…」
「じゃあ次、私ね」
ユナが身を乗り出した。
「町には、かなりお金が投資されてるみたい」
「それは俺も気になっていた」
「シュバルツ商会からの投資が多いって」
「シュバルツ商会?」
「うん。この辺では有名な大きな商会だって、そこから大きなお金が入ってるみたいだよ」
ジャンは街中で見た工事を思い出す。
パドゥーラ単独の財政だけで、あれほどの開発を一度に行えるとは思えない。
外部資本が入っているなら説明はつく。
「それから、今でも城の周辺で大規模な灌漑工事を続けてるって」
「まだやってるのか」
「毎年、耕せる土地が増えてるんだって。それで麦の収穫量もずっと増えてるみたい」
「なるほど……」
「それから、関連してこれ」
ユナが一枚の紙を取り出した。
「なんだ?」
「市場の近くで配ってた」
ジャンは受け取った。
新規入植者募集。
指定された土地へ入植し、一定期間(3年間)耕作を続け、定められた条件を満たした者には、その土地の所有を認める。さあ、君もパドゥーラへ夢の未来へ。
ジャンは途中まで読んで顔を上げた。
「……市民に土地を配っているのか?」
「みたいだよ」
「無料で?」
「最初はね。ちゃんと耕して、決められた期間放棄しなかったら自分の土地になるって」
「誰でも?」
「条件を満たせば」
ジャンは最初から読み直した。
「聞いた話だとね」
ユナが続ける。
「アムル様が『土地なら余ってるから、欲しい奴は持っていけ』とかなんとか言ったのが始まりらしいよ」
「領主がそんなノリで土地を配るな」
「ちゃんと制度にはなってるよ」
「それは読めば分かる」
灌漑によって耕作可能な土地を増やす。
しかし、土地だけ増えても耕す者がいない。
ならば土地を持たない者を入植させ、その土地そのものを与える。
「地主に貸して小作人を入れるんじゃないのか……」
「違うみたい」
「領主直営地にもしない」
ジャンは告知を見つめた。
「市民そのものを土地所有者にするのか」
「変なの?」
「いや」
ジャンは少し考えた。
「自分の土地になるなら必死で耕すだろうな」
「だから収穫が増えてるのかな?」
「それだけじゃないだろうが、一因ではあるだろう」
ジャンは告知を自分の資料へ重ねた。
「単純だが、合理的だな」
「でしょ?」
「問題は、これだけの灌漑工事をしながら土地まで渡して、どうやって金を回してるかだ」
「シュバルツ商会じゃない?」
「それだけなのか……?」
ジャンの興味は、すでに麦だけではなくなりつつあった。
「あと、新しい議会庁舎も作ったみたい」
「議会?」
「商工議会」
ジャンが顔を上げる。
「産業に関係する人たちが集まって、産業に使う予算の使い方を決めるんだって」
「領主ではなく?」
「全部じゃないみたいだけどね」
「……面白いな」
「それからね」
「まだあるのか」
「侯爵の妹のエル様は天使みたいな人なんだって」
「……何の情報だ」
「重要でしょ」
「どこがだ」
「すごく綺麗で、優しくて、頭もいいんだって。みんな褒めてたよ。同性としても興味があるなぁ」
「それはお前の感想だ」
「ところがね。そのエル様、アムル様と恋仲なんだって」
「だから何の情報だ」
「二人で仲良く街を歩いてるところを、みんな見てるって」
「領主がそんなに普通に出歩いてるのか?いやまて妹だと倫理観がないのか?」
「血のつながりはないみたいだよ。エル様が本家の実子でアムル様が養子」
「……そっちは情報として使えるな」
「恋仲の方は?」
「いらん」
「いるよ」
「いらん」
「それから、隣のラレド侯が今度結婚式を挙げるんだって」
「話がどんどん関係なくなってるぞ」
「それで町の人たちは、いよいよアムル様とエル様の結婚発表も近いんじゃないかって期待してた」
「ユナ」
「何?」
「そんな四方山話までよく聞けたな」
ユナは得意げに笑った。
「私みたいな可愛い子が微笑んで話を聞けば、みんな教えてくれる」
「自分で言うな」
「何でも聞いてこいって言ったのはジャンでしょ?」
「確かに言ったが……」
「あと、公衆浴場もあるよ」
「公衆浴場?」
「溶鉱炉の冷却に使った水を再利用して、温かいお風呂にしてるんだって。気持ちよさそう」
「工業排熱を再利用しているのか」
「ジャンはそっち?」
「他にどこを見るんだ」
「お風呂」
「お前と俺では興味を持つところが違うらしい」
リックが笑った。
「それで、ジャンは?」
「ああ」
ジャンは自分の資料を取り出した。
「例の方法が分かった」
「アムル様に会えるの?」
「いきなり候爵本人に会う必要はない」
「じゃあ?」
「パドゥーラには『賢招館』という仕組みがある」
「けんしょうかん?」
「身分や出身に関係なく、意見や技術を持つ者から話を聞くための場所らしい。定期的に首脳部の人間が直接出てくる」
「へえ」
「運がいいことに、明日開かれる」
「誰が来るの?」
「エル=リージェット」
ユナの目が輝いた。
「天使様!」
「お前はそこに食いつくのか」
「だって会ってみたい」
「麦の話をしに行くんだぞ」
「分かってるって」
ジャンは少し疑わしそうにユナを見た。
「ともかく明日、賢招館へ行く」
「うん」
「今日はこれで終わりだ」
ジャンは資料をまとめ始めた。
そこでユナが立ち上がった。
「というわけで、観劇に行きます」
「……何が『というわけで』なんだ」
「観劇」
「それは聞いた」
「昼間、場所を聞いてきたの。パドゥーラの歌姫って呼ばれてる人が出るんだって」
「遊びに来たわけではないぞ」
ユナは人差し指を立てた。
「ノン、ノン、ノー」
「なんだそれは」
「だから人間を見てないって言われるの」
「誰にだ」
「私に」
「今初めて言われたぞ」
「ジャン」
ユナは妙に得意そうな顔をした。
「観劇を見れば相手の文化が分かる。文化が分かれば相手を理解できる」
「……」
「誰かさんが、さんざん私たちへの講義でのたまっていたわ」
ジャンが黙る。
確かに言った。
政治制度や経済だけを見ても、その社会を理解したことにはならない。
人々が何を食べ、何を歌い、何を見て笑うのか。
そうした文化まで知らなければ、その土地に暮らす人間は見えてこない。
六年前から、ユナとリックには何度も教えてきた。
「……確かに一理ある」
「でしょ?」
ユナの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ行こう」
「待て。一理あると言っただけで――」
「リック、お留守番よろしくね」
「うん」
「おい」
ジャンがリックを見る。
「お前も来い」
「ぼくはいいよ」
「なぜだ」
「まとめなきゃいけないものがあるんだ。」
「そうそうリックは忙しいの。ほら、行こ」
ユナがジャンの腕を掴む。
「引っ張るな!」
「開演に遅れるよ」
「俺はまだ行くとは――」
「文化を理解するんでしょ?」
「自分に都合よく俺の講義を使うな!」
そのままジャンは宿から連れ出された。
◇
夜の劇場は、大勢の客で賑わっていた。
「人が多いな」
「人気なんだって」
昼間とはまた違う人々が集まっている。
仕事を終えた職人。
商人。
兵士。
家族連れ。
若い男女。
ジャンは自然と客層を観察した。
「ずいぶん幅広いな」
「ほら、またそういうところ見てる」
「文化を見ろと言ったのはお前だろ」
「そうだけど……」
ユナとしては、もう少し別のものを見てほしかった。
せっかくリックまで置いてきたのだ。
二人で観劇。
これはどう考えても、かなりいい状況である。
少なくともユナにとっては。
二人は並んだ席を見つけた。
ユナがジャンの隣へ座る。
そのさらに隣には、すでに一人の男が座っていた。
小柄な男だった。
年齢はユナとそう変わらない。
丸眼鏡。
綺麗に切り揃えられた、おかっぱ頭。
そして。
目が妙に輝いていた。
「君たち!」
いきなり話しかけてきた。
「シャンテは初めて?」
「ああ」
「そう! 初めてなんだ!」
男の顔が一気に明るくなる。
「それはいい! 今日は本当にいい日だよ! 今日の演目は初めて見る人にも向いてるし、特に第二幕のシャンテが――いや、駄目だ。先に説明すると初めての感動が薄れる。でも一つだけ言うと――」
止まらない。
ユナがジャンの袖を引いた。
「ねえ」
「なんだ」
ユナは小声で言った。
「この人、目がいっているけど大丈夫?」
「いろんな人がいるから気にするな」
「聞こえてるよ」
丸眼鏡が言った。
「あ、ごめんなさい」
「別にいいけど」
気にした様子もない。
「それより、もうすぐ始まるよ。シャンテの最初の一音は絶対に聞き逃さない方がいいから」
「……すごいファンなのね」
「もちろん」
男は胸を張った。
「ボクはシャンテの歌を聴くためなら仕事だって――」
そこで何かを思い出したように表情を曇らせた。
「……いや、仕事は休めないんだけど」
「大変ね」
「本当にね」
照明が落ちた。
丸眼鏡は一瞬で舞台へ向き直った。
「始まる」
先ほどまでの妙なテンションが嘘のように静かになった。
やがて幕が上がる。
そして――。
歌声が響いた。
◇
一曲が終わった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、劇場を大きな拍手が包んだ。
ジャンも素直に手を叩いていた。
「……驚いた」
「どう?」
ユナが尋ねる。
ジャンは舞台を見ながら言った。
「ゼルキアでも、これほどの歌い手は稀だ」
その瞬間だった。
「お兄さん!」
「うわっ!」
丸眼鏡がものすごい勢いで顔を寄せてきた。
「分かってるね!」
「近い!」
「いや、だって分かってるじゃないか!」
丸眼鏡は興奮していた。
「そうなんだよ! シャンテはパドゥーラだから評価されてるんじゃない。どこへ行ったって通用するんだ!」
「まあ、それは同意する」
「でしょ!?」
「特に高音域の安定性がいい。声量を上げても音程が崩れない。それでいて、ただ張り上げているわけでもない」
丸眼鏡の目が見開かれた。
「……お兄さん」
「なんだ?」
「分かるの?」
「音楽くらい聞く」
「高音域への移行は?」
「滑らかだった。低音から無理に繋いだ感じがない。それに弱音でも音程がほとんど揺れない」
「そう!」
丸眼鏡が身を乗り出す。
「そこなんだよ!」
「それだけじゃない。伴奏に声量を合わせる余裕もある。あの声ならもっと出せるはずなのに、あえて抑えている」
「分かる! 分かるよ!」
ユナは二人を交互に見た。
何かがおかしい。
「それに――」
ジャンがさらに話を続ける。
丸眼鏡が熱心に聞いていたが、やがて何かに気づいたようにジャンを見た。
「お兄さん、ゼルキア出身なの?」
「ああ」
「やっぱり」
「分かるのか?」
「それに、その学識……」
丸眼鏡はジャンをまじまじと見た。
「まさか、ニューアーク?」
ジャンの口元がわずかに上がった。
「分かるか」
「分かるよ! 普通、歌を聴いてそこまで分析しないもの」
ジャンは軽く髪をかき上げた。
「すまんな。教養が溢れ出してしまった」
「何言ってるの、ジャン」
ユナの声が冷たい。
しかし丸眼鏡にはまったく効かなかった。
「いいなぁ、ニューアーク……」
今度は心底羨ましそうな顔をする。
「ボクもニューアークみたいな大学に行きたかったんですよ」
「行かなかったのか?」
「行けなかったんです」
丸眼鏡は深いため息をついた。
「毎日毎日、雇い主にこき使われて」
「……ほう」
「そいつは自分では適当に休んだり釣りに行ったりするくせに、仕事はどんどんボクのところへ持ってくるんですよ」
「それは酷いな」
「でしょ?」
「分かるぞ」
「しかも!」
丸眼鏡の声に熱が入る。
「そいつ、いつも幼なじみの可愛い彼女と一緒なんですよ!」
「……」
「こっちが仕事してる横で二人で話してるし、街へ一緒に買い物に行くし、暇があれば二人でどこか行くし!」
「それは許せんな」
「でしょう!?」
ユナが丸眼鏡を見る。
「あなた、どこかの商会にでも勤めているの?」
「まあ……そんなようなものかな」
「経理?」
「うん。そんな感じ」
国家財政を預かっている。
だが、この場でそんなことを説明する必要もなかった。
「大変なのね」
「本当に大変なんですよ。金がないって言ってるのに、次から次へと新しいことを始めるし」
「分かる」
今度はジャンが深く頷いた。
「……分かる?」
「私もそんなもんだ」
「ジャン?」
「働いても働いても仕事が増える」
「……」
「交渉へ行けば、その経費まで借金へ上乗せされる」
「ジャン、それは――」
「しかも複利だ」
丸眼鏡が息を呑んだ。
「複利!?」
「ああ」
「それは酷い!」
「だろう?」
「誰なんですか、そんな悪魔みたいな人!きっと頭に角が生えてますよ」
「……」
ユナは黙った。
ジャンもユナを見た。
そして何も言わなかった。
「お兄さん」
丸眼鏡が感動したような目でジャンを見る。
「気が合いますね」
「そうだな」
「師匠と呼ばせて下さい」
ジャンは満足そうに頷いた。
「構わん。いくらでも聞きたまえ」
「師匠!」
「うむ」
「……」
ユナは無言で二人を見た。
今日は自分がジャンを誘った。
リックを宿に置いてきた。
二人で観劇に来た。
つまりこれは、デート。
だったはずなのに、それなのに。
「師匠、さっきの高音域なんですけど――」
「ああ。私もそこはもう少し考えていた」
「やっぱり!」
「ジャン」
「少し待て。今いいところなんだ」
「……」
ユナは丸眼鏡を見る。
丸眼鏡は楽しそうだった。
ジャンも楽しそうだった。
それが余計に腹立たしい。
この男。
嫌い。
ものすごく嫌い。
初対面から一時間も経っていないというのに、ユナの中で丸眼鏡のおかっぱ頭への評価は急降下していた。
せっかくの二人きりの夜を、どこの誰とも知れない男に完全に奪われている。
「それで師匠――」
「うむ」
「ジャン」
「だから少し待て」
「……分かった」
ユナはにっこり笑った。
その笑顔だけを見れば、誰もが可愛らしい少女だと思っただろう。
ただし、その視線の先にいる丸眼鏡のおかっぱ頭に対しては、どす黒い殺意がわいていた。




