第7話 生き残る理由
* * *
リューザス古城。
かつてこの地域を治めていた領主が居城としていた城である。
しかし、街道の変化とともに軍事的重要性を失い、長い年月の中で放棄されていた。城壁はところどころ崩れ、建物の多くも朽ち果てていたが、ティーエが糧秣集積所として利用するため、最低限の補修を施していた。
防御拠点としては心許ないものの、食料を備蓄できる倉庫があり、兵士を収容するだけの広さもある。
今のリービッヒ軍にとって、それだけでも十分な環境だった。
最後の部隊が城内へ入ると、城門が閉じられた。
兵士たちは割り当てられた場所へ向かったものの、腰を下ろした途端に動けなくなる者が続出した。疲労に耐えかね、そのまま地面へ倒れるように眠る兵士もいる。
一方、負傷者の収容された場所からは呻き声が絶えず聞こえており、衛生兵たちは休む間もなく治療に追われていた。
アムルは城壁の上から、その光景を見下ろしていた。
ここまで辿り着いた兵力は三万弱。
出征時、輜重部隊まで含めれば十万を超えていた軍勢が、今では三分の一にも満たない数になっている。
もちろん、残りの兵士すべてが戦死したわけではない。各地にはまだ孤立している友軍もいるだろうし、すでに本国へ逃げ延びた者もいるかもしれない。
しかし、少なくともアムルたちが指揮できる兵力は、これだけだった。
「ひどいものですね」
隣に立ったヴァンが、城内を眺めながら呟いた。
「はい」
「これからどうする?」
アムルはすぐには答えなかった。
南にはノースジョウがあり、その向こうにはリービッヒ本国が広がっている。しかし、そこへ続く道はすでにレミーラ軍によって封鎖されており、今の兵力で突破するのは難しい。
かといって、ここにいる三万の兵士を失えば、事態はさらに深刻なものになる。
本国に残された主力は第一師団と各地の守備隊だけであり、その兵力で勢いに乗るレミーラ軍を食い止められる保証はなかった。
「ここを守ります」
アムルは城内へ視線を戻した。
「幸いなことに、ティーエが集積していた食料は無事でした。城壁も完全に崩れているわけじゃありませんから、補修すれば何とか使えるでしょう」
「籠城するのか?」
「はい」
アムルは頷いた。
「まずは本国が防衛体制を整えるための時間を稼ぎます」
レミーラ軍がこのまま進撃を続ければ、リービッヒ本国にも戦火が及ぶだろう。しかし、ここに三万の兵士が立て籠もっていれば、敵も無視して先へ進むわけにはいかない。
その間に本国が軍勢を再編成し、防衛体制を整えることができれば、王国が滅亡するという最悪の事態だけは避けられるかもしれない。
今のアムルに求められているのは、敵を倒して勝利を収めることではなかった。
ここにいる兵士たちを生かし、祖国を守るための時間を稼ぐことだった。
* * *
その日の夜、生き残った各師団の指揮官たちが、古城の一室へ集められた。
長い間使われていなかった部屋には満足な調度品もなく、古びた長机の上に地図が広げられているだけだった。集まった将軍たちの顔には疲労が色濃く浮かび、鎧や軍服には撤退戦でついた泥が残っていた。
その中央に立ったアムルは、全員を見渡してから口を開いた。
「お願いがあります」
将軍たちの視線が集まった。
「兵権を俺に委譲してもらえませんか?」
室内の空気が変わった。
アムルはまだ若い。
南北戦争で大きな功績を挙げ、パドゥーラ伯の地位を得たとはいえ、この場にいる将軍たちの多くと比べれば軍歴は短かった。
何より、それぞれ独立した指揮系統を持つ各師団を、一人の指揮下へ置こうというのである。いくら非常時とはいえ、簡単に受け入れられる話ではなかった。
「現在、各師団は完全に混乱しています」
アムルは将軍たちの反応を確かめながら続けた。
「第三師団の兵が第五師団に混ざり、第四師団の兵が第七師団についてきている。指揮官を失って、部隊として機能していないところも少なくありません」
誰も反論しなかった。
実際、各師団の兵士たちは入り乱れており、もはや元の編制を保つことは難しくなっている。所属が分かったところで、指揮官が生きているとは限らなかった。
「この状態で師団ごとに命令を出していたら、次に敵が攻めてきたときに終わります。兵士たちを編成し直し、統一した指揮系統で動かさなければなりません」
アムルの主張が正しいことは、その場にいる誰もが理解していた。
しかし、それとアムルに全軍の指揮権を委ねるかどうかは別問題だった。
将軍たちは互いに顔を見合わせたものの、誰もすぐには口を開こうとしない。
見かねたパウロが何か言おうとしたとき、一人の男が先に口を開いた。
「……兵の士気は最悪だ」
第四師団長代理、ユーノフだった。
この場にいる指揮官の中では最年長であり、門閥貴族の出身でもある。年齢や経歴、そして家柄という点でも、アムルとは最も距離のある人物の一人だった。
「今の兵どもは、死人と変わらん」
ユーノフは周囲を見回した。
「各個撃破による殲滅だけは免れたが、十万を超えた軍勢は散り散りになり、我々は敵の包囲網の真ん中に取り残された。指揮官を失った部隊も多く、兵士たちは逃げることしか考えられなくなっている」
誰も言葉を挟まない。
「だが、ここで我々が時間を稼がねば、リービッヒは終わる。何としても、この兵どもをもう一度戦える軍勢に戻さねばならん」
ユーノフはそこでアムルへ視線を向けた。
「ならば、死人を生き返らせるしかあるまい」
そして、他の将軍たちに向き直った。
「この中で兵どもに『まだ戦える』と思わせられる者が、パドゥーラ伯以外に何人いる?」
誰も答えなかった。
ユーノフの言うとおりだったからである。
今の兵士たちに必要なのは、優れた作戦や命令だけではない。自分たちはまだ助かる、まだ戦えるのだと信じさせてくれる指揮官だった。
南北戦争最大の英雄として知られ、今回の撤退戦でも多くの敗残兵を収容してきたアムルには、その役割を果たせるだけの名声があった。
ユーノフはそれを認めていたのである。
やがて、一人の将軍が息を吐いた。
「異存はない」
続いて別の将軍も頷いた。
「私もだ。今は指揮系統を統一することが先決だろう」
それをきっかけに、他の将軍たちも次々と賛意を示し、最後まで反対の声が上がることはなかった。
全員がアムルを好いているわけではないし、その能力を無条件に信頼しているわけでもない。
それでも、今の危機を乗り切るためには、誰かが全軍を率いなければならなかった。
そして、その役割を担える人物として、将軍たちが選んだのはアムルだった。
* * *
「パドゥーラ伯に兵権が委譲されたらしいぞ」
その話は、瞬く間に城内へ広がった。
「本当か!?」
「ああ。これからは全軍をパドゥーラ伯が指揮するらしい」
「だったら……」
話を聞いた一人の兵士が、それまで伏せていた顔を上げた。
「だったら、帰れるんじゃないのか?」
「そうだよ。南北戦争の英雄だぞ」
「パドゥーラ伯なら、今回も何とかしてくださるかもしれん」
「俺たち、帰れるのか?」
「ああ、きっと帰れるさ」
確かな根拠があったわけではない。
包囲されているという状況が変わったわけでもなければ、レミーラ軍が撤退したという知らせが届いたわけでもなかった。
ただ、アムルが全軍の指揮を執ることになった。
それだけのことで、兵士たちの間に少しずつ希望が戻り始めたのである。
昨日まで地面に座り込んでいた兵士が立ち上がり、放り出していた武器を拾い始めた。鎧についた泥を落とし、手入れをしていなかった剣を磨く者もいる。
やがて、崩れた城壁へ石を運ぶ者や、負傷者を収容する場所を整える者も現れ始めた。
命令されるまでもなく、自分たちにできる仕事を探し、動き出したのである。
死人のようだった三万の軍勢に、ようやく生気が戻りつつあった。
「……たいしたもんだな」
その様子を眺めていたロックが呟いた。
アムルは城内を見回した。
「何が?」
「お前だよ」
「俺?」
「お前が指揮するって決まっただけで、これだぞ」
ロックは城内で作業を始めた兵士たちを顎で示した。
「さっきまで死にそうな顔をしていた連中が、もう働き始めてやがる」
アムルは何も答えなかった。
兵士たちは自分の姿を見つけるたびに顔を上げ、期待に満ちた目を向けてくる。
きっと、この人なら助けてくれる。
そんな思いが、その視線から伝わってきた。
アムルは少しだけ居心地が悪くなり、視線を逸らした。
自分だって、絶対に勝てる方法を知っているわけではない。ここから全員を連れて帰れるという保証など、どこにもなかった。
それでも、兵士たちは自分を信じている。
ならば、今はその期待に応えるしかなかった。
「兵糧庫を開けてくれ」
アムルは近くにいた幕僚へ声をかけた。
「兵士を飢えさせるな。食べたい奴には食べさせろ」
「しかし、伯爵。長期籠城となれば、食料の配分を考えなければなりません」
「分かってる」
アムルは頷いた。
「だから、もっとあるように見せてくれ」
「……見せる?」
「兵糧がないと思った瞬間に、みんな戦えなくなる」
実際に食料を無制限に配れば、長期籠城など不可能になる。備蓄量を把握し、配分を考える必要があることはアムルにも分かっていた。
しかし、兵士たちに食料不足を意識させれば、せっかく持ち直した士気が再び崩れてしまう。
今は安心して食事ができることを示す方が重要だった。
「飯がある。明日も食える。まだ戦える。兵士たちにはそう思わせたいんだ」
「ですが、本当に長期化した場合は……」
「三か月」
アムルが言った。
「三か月ですか?」
「ああ。敵だって無限に食料を持っているわけじゃない」
アムルは卓上に広げられた地図へ視線を落とした。
レミーラ軍もまた、大軍を率いて敵地深くまで進出している。これだけの包囲網を維持するには膨大な物資が必要であり、兵士や軍馬に食わせるだけでも相当な負担になるはずだった。
いくら周到に準備してきたとしても、この規模の軍勢をいつまでも敵地に留めておくことは難しい。
もちろん、敵が三か月で撤退するという保証はなかった。それでも、今のアムルには、それだけの期間を耐えることを目標にするしかなかった。
「三か月耐える」
アムルは地図上のリューザスを指で押さえた。
「敵を倒す必要はない。こちらから攻めて兵を失えば、それこそ敵の思う壺だ」
今のリービッヒ軍に必要なのは勝利ではない。三万の兵士を生き残らせ、本国が防衛体制を整えるまで時間を稼ぐことだった。
「まずは全員で生き延びる。そのために、ここを守る」
アムルは周囲の幕僚たちを見渡した。
「そして、全員で国へ帰る」
* * *
その日の夜。
リューザス古城の城壁からは、遠くに展開するレミーラ軍の篝火が見えていた。
闇の中に浮かぶ無数の光は、敵軍が次々と集結していることを物語っている。夜が更けるにつれて、その数は増え続けていた。
包囲網は、着実に狭まりつつあった。
今度、攻めるのはルートビッヒたちである。
一方、アムルに残された選択肢は限られていた。
三万の兵士を守り、本国が防衛体制を整えるまで、このリューザスに踏みとどまらなければならない。
敵の攻撃を退け、食料を確保し、崩れかけた軍の士気を維持する。考えなければならないことは山ほどあったが、そのすべてを解決できる見通しが立っているわけではなかった。
アムルは城壁に肘をつき、遠くの篝火をぼんやりと眺めていた。
隣ではロックが腕を組んでいる。
しばらく二人とも黙っていたが、やがてアムルが大きなため息をついた。
「ああっ、エルに会いたい」
ロックが横を見た。
「なんだ大将。ホームシックか?」
「当たり前だろ」
アムルは不満そうに答えた。
「エルに会えないなんて一番の拷問だ」
「……」
「俺、こんなところで死んだらエルと結婚できないんだけど」
「知らん」
「大問題だろ」
「俺にとっては何も問題じゃねえ」
「ひどいな」
ロックは呆れたように息を吐いた。
つい先ほどまで、アムルは三万の兵士を守るために籠城の準備を進めていた。誰もが絶望的な状況にあることを理解している中で、全軍の指揮権を引き受け、兵士たちには必ず帰ると約束している。
そんな男が、今は恋人に会えないと嘆いているのである。
「……よくこの状況で正気でいられるな」
ロックが呟くと、アムルは少しだけ笑った。
「だからだよ」
「あ?」
「俺はエルに会いたい。だから帰らないといけない理由がある」
アムルは再び遠くの篝火へ目を向けた。
敵は多く、退路も塞がれている。味方は三万いるものの、そのほとんどが長い撤退戦で疲弊しており、食料にも限りがあった。
しかも、その三万すべての命が、今や自分の肩にかかっている。
それでも、アムルには諦めるという選択肢がなかった。
「絶対に帰る」
静かに呟いた。
「エルが待ってるから」
ロックは何も言わず、遠くの篝火に目を向けた。
リューザスを巡る三か月に及ぶ籠城戦が、始まろうとしていた。




