第24話 パドゥーラへ①
ジャン・ユナ・リック
ジャン=ワイズマン29歳
ユナ=リズナー19歳
第二十四話
第三次コスタ戦役が終結してから、しばらくが経った。
半年近くに及んだ戦争は、リービッヒ王国の勝利という形で幕を閉じた。
レミーラ軍はコスタ方面から撤退。
さらに、七十年以上にわたって帝国を統治してきた皇帝カール=ハインツ=ハイマンが死去したことで、帝国内では後継者を巡る争いが始まっている。
少なくとも当面、レミーラが都市同盟へ大規模な侵攻を行う可能性は低い。
そう判断したセイレンは、レンヌ方面へ出していた部隊を帰還させた。
275年6月。
ユマ=リズナーも、半年ぶりにセイレンへ戻ってきた。
「残念だったよ。レンヌ奪還の機会を逃した」
市庁舎の執務室に戻るなり、ユマは不満そうにそう言った。
向かいでは、ジャン=ワイズマンが書類から顔を上げる。
「駄目だったか」
「駄目だった」
ユマは椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「レミーラ軍がウィンザーから撤退した時点で攻めるべきだったんだよ。リービッヒとの戦争に兵を取られてたんだから、あれ以上の機会なんてなかったのに」
「同盟本部は動かなかった」
「カーライルのお祖父様とも一緒に申し入れたんだけどねぇ。レンヌ失陥から、みんなすっかり及び腰」
「俺も攻めるなら、あそこだったと思う」
「でしょ?」
ユマが身を起こした。
「しかも今度は皇帝が死んだ。レミーラは後継者争いでそれどころじゃない。結果だけ見れば、なおさら攻めておけばよかった」
「それは結果論だ」
「分かってるよ。だから余計に腹が立つんじゃない」
レンヌを失ってから六年。
かつて都市同盟中央部を守っていた要衝は、今もレミーラの手にある。
奪還する好機は確かにあった。
だが、都市同盟は動かなかった。
「まあ、終わった話をしても仕方ないか」
ユマは窓の外へ目を向けた。
初夏の日差しがセイレンの街を照らしている。
「それよりさ」
「なんだ?」
「帰ってくる途中で見たんだけど、今年、麦のなりがずいぶん悪くない?」
ジャンの表情が曇った。
「かなり悪い」
「やっぱり?」
「ああ。場所によって差はあるが、セイレン周辺は全体的に悪い。このままなら相当な不足が出る」
「困ったなぁ……」
ユマが頬杖をつく。
セイレンは決して豊かな土地ではない。
クリスティーヌの改革以来、精密加工や金融をはじめとする新たな産業は育ちつつある。以前と比べれば市民の暮らしも改善した。
それでも、食料まで十分に自給できるようになったわけではない。
「セントハイムから入れるしかないか」
「それが問題なんだ」
ジャンが机の上から一枚の書類を取り出した。
「見ろ」
ユマが受け取る。
セイレンへ入ってくる麦の取引価格だった。
数字を追ったユマの眉間に皺が寄る。
「……高いわね」
「今年に入ってから急速に値上がりした。セントハイム方面から入ってくる麦だけ、特にな」
「向こうも不作というのは聞いているけど、これは異常ね」
「ああ。商人たちからも相談を受けている。このまま上がれば、かなり厳しい」
ユマはもう一度価格表を眺めた。
考え込むほどのことでもなかった。
「となると、この前の意趣返しね」
「そうだろうな。むしろ遅かったくらいだ」
「セントハイムだって馬鹿じゃない。レミーラが攻めてきている時に、自分のところの軍事衛星都市に嫌がらせなんてできるわけがない」
「だから今になって、か」
「でしょうね」
前年、二七四年。
第十九回同盟会議において、ユマは新都市同盟構想を提示していた。
もっとも、正式な憲章改正案を提出したわけではない。
予備提案。
いわば観測気球だった。
現在の都市同盟は、ゼルキアとセントハイムの二大都市が大きな権限を握っている。
それを改め、加盟する諸都市がより対等な立場で参加する新たな都市同盟を作る。
そのための憲章改正を将来的に行う意思があることだけを、ユマはまず同盟会議の場へ投げ込んだ。
当然、セントハイムが反発することも予想していた。
むしろ、それも含めての予備提案だった。
どの都市が反対するのか。
どの都市が沈黙するのか。
そして、どの都市が興味を示すのか。
第十九回同盟会議によって、それまで曖昧だった各都市の立場がかなり見えた。
特に鉱山都市や山岳都市のいくつかは、明らかにセイレン側へ関心を示していた。
次に切り崩すなら、そこだった。
その代償としてセントハイムから何らかの報復を受けることも、ユマとジャンは織り込み済みだった。
ただし、セントハイムも時期を選んだ。
274年10月レミーラ帝国東部辺境軍司令ルートビッヒは2万の大軍を持ってウィンザー方面に進出した。
ウィンザー方面はコスタにおける戦役のおとりではあったが、実際にウィンザーの防衛にロスバルトついた。
セイレンは都市同盟の軍事力の中核の一つありで、同時にセントハイムの軍事衛星都市である。
レミーラの軍事的脅威が続いている最中にセイレンを弱体化させれば、セントハイム自身の安全保障にも跳ね返る。
だから、これまでは動かなかった。
その第三次コスタ戦役が終結し、レミーラ皇帝が死去した。
帝国が後継者争いに入り、当面の軍事的脅威が後退した。
その途端、麦の価格が上がった。
「まあ、来るとは思ってたけどね」
ユマは価格表を机へ戻した。
「問題は今年の不作と重なったことか」
「そういうこと」
報復そのものは想定内だったが、今年の麦の不作は想定外だった。
政治上の駆け引きだけなら耐えればいい。
だが、市民の食料が絡むのは別だった。
「この値段で必要量を買ったら?」
「財政的には買えないことはない」
「その言い方、嫌だなぁ」
「他を削ることになる。何より市中価格への影響が大きい」
「だよねぇ」
ユマは腕を組んだ。
新都市同盟構想を引っ込めれば、セントハイムとの関係は改善するかもしれない。
だが、その選択肢は最初からない。それは幹部たちを後戻りはできないことを確認しての提案だった。
だからといって、政治的な意地のために市民へ高い麦を買わせるというのも現実的ではない。
しばらく考えていたジャンが口を開いた。
「パドゥーラから買い付けるのはどうだ?」
ユマが顔を上げた。
「パドゥーラ?」
「ああ」
「リービッヒとセイレンは仇敵同士よ?あんたも知っていると思うけど。」
「そんなことは分かっている。ただ、今のパドゥーラ伯爵?いや侯爵になったのか?まあ、ともかく商人たちの噂ではずいぶん開明的な人物らしい。うまくいけば麦の融通をしてくれるかもしれない」
「アムル=ドゥットゥカースか……」
ユマも、その名前くらいは知っていた。
南北戦争の英雄。
若くしてパドゥーラ伯となり、荒廃していたパドゥーラを急速に立て直している人物。そしてこの前の戦役でも国を守り切った知将。その功績で侯爵に昇爵していたとも、セイレンへ出入りする商人から、その名を聞くことが増えていた。
戦争に強いだけではない。
パドゥーラでは税が安い。
商売がしやすい。
農地が急速に広がっている。
食料もかなり出回っているらしい。
だが、セイレンとパドゥーラには国交がない。
ユマもジャンも、パドゥーラへ行ったことはなかった。
知っていることのほとんどが、商人たちの噂に過ぎない。
「私は反対です」
それまで黙って話を聞いていたカール=マルテルが口を開いた。
ジャンがそちらを見る。
「理由は?」
「危険が大きすぎます。パドゥーラはリービッヒ王国領です。都市同盟は長年パドゥーラを係争地として敵対して過去がある。」
「戦争をしに行くわけじゃない。麦を買いに行くだけだ」
「麦だけの問題ではありません」
カールはすぐに返した。
セイレンの主計長。
ニコス大学経済学部を主席で卒業した男である。
パドゥーラから麦を輸入するというジャンの提案が、単なる食料調達に留まらないことくらい、すぐに理解していた。
「一度交易路を開けば、それは今後も残ります。セイレンがパドゥーラから恒常的に食料を輸入するようになれば、都市同盟内部の流通にも影響が出る」
「それの何が悪い?価格が安くなればその市民の可処分所得が増える」
「悪いとは言っていません。慎重に考えるべきだと言っている」
「今年の麦は、慎重に考えている間にも高くなるぞ」
「セントハイムとは交渉の余地がある」
「値段を上げている相手に、安くしてくださいと頼むのか?」
「ジャン殿。外交関係のある同盟国と、国交すらない敵国の諸侯では話が違う」
「その同盟国様が圧力をかけてきてるんだろ」
「だからといって、即座にリービッヒへ接近する理由にはならない」
カールの声がわずかに強くなった。
「今年の不作への対処だけを見て、今後何十年も影響する交易関係を作るべきではないと言っている」
「だったら、セントハイムからこの値段で買い続けるのか?」
「まず価格交渉を行うべきです」
「来年また上げられたら?」
「その時は――」
「再来年は?」
「ジャン殿」
「俺はセントハイムとの交易を切れと言ってるんじゃない」
ジャンも引かなかった。
「仕入れ先を増やせと言ってるんだ。セントハイムが安ければセントハイムから買えばいい。パドゥーラが安ければパドゥーラから買う」
「食料供給は価格だけで判断するものではありません。安全保障もあります」
「だから、まず話を聞きに行くんだろ」
「その行為自体が政治的な意味を持つと言っているんです」
「意味を持たせなきゃいい」
「相手がそう受け取る保証はありません」
二人の視線がぶつかった。
ユマは黙ったまま、そのやり取りを眺めていた。
カールの言っていることは間違っていない。
一度できた交易路は、政治にも影響する。
パドゥーラから大量の麦が安定して入るようになれば、セイレンのセントハイム依存は確実に低下する。
そして、それはセイレンだけで終わるとは限らない。
第十九回同盟会議でこちらへ関心を示した鉱山都市や山岳都市。
食料自給力の低い彼らに、新たな食料供給路を提示できる可能性まで生まれる。
新都市同盟構想が、単なる政治的な主張ではなくなる。
独自の経済圏を持ち得る構想へ変わる。
セントハイム出身のカールが、それを警戒するのは当然だった。
「カール」
ジャンが言った。
「今年、足りない麦をどうする?」
「であるかこそ、セントハイムと――」
「間に合わなかったら?」
カールが黙った。
「もう商人からも相談が来てる。値段がさらに上がれば、一番困るのは金のない市民だ」
「……」
「パドゥーラが売らないなら、それで終わりだ。だが、売るかどうかを聞きに行くことまで止める理由にはならない」
「はいはい。そこまで」
ユマが両手を叩いた。
二人が同時に彼女を見る。
「カールの言ってることは分かるよ」
「ユマ……」
「一度できた交易路は簡単には消えない。まして相手はリービッヒ。慎重に考えろってことでしょ?」
「そうだ」
「ジャンの言ってることも分かる。今年の麦は待ってくれない」
ユマは机の上の価格表へ目を落とした。
少しだけ考える。
そして、ジャンを見た。
「やるだけやってみな、ジャン」
「いいのか?」
「まだ買えると決まったわけでもないんでしょ。まず本当に麦が余っているのか。それから、私たちに売る気があるのか。確かめてきて」
カールが口を開く。
「しかし、ユマ」
「カール」
ユマは穏やかに遮った。
「話を聞きに行くだけだよ。それで条件が悪ければ買わない。それならいいでしょ?」
「……分かった」
カールはそれ以上反対しなかった。
ジャンが頷く。
「じゃあ、行ってくる」
「頼みます」
ユマはにっこり笑った。
「それであんたの借金減るように、頑張って交渉してみて」
「……待て」
ジャンの顔が引きつった。
「なんで俺の借金が出てくる」
「だって交渉に行くんでしょ?」
ユマが指を一本立てる。
「川港までの旅費」
二本目。
「船代」
三本目。
「宿代、食費、向こうで使う交渉経費」
「国家の仕事だぞ?」
「セイレン、お金ないもん」
「知るか!」
あれから六年。
ジャン=ワイズマンの借金は、減っていなかった。
返していないわけではない。
ジャンは働いた。
ユナとリックの家庭教師を務め、講義を行い、外部との交渉にも赴いた。
その報酬の多くは借金返済へ回されている。
それなのに減らない。
理由は簡単だった。
働けば働くほど経費が発生する。
そして、なぜかその経費がジャンの借金へ上乗せされる。
さらに利子がつく。
しかも複利だった。
「お前、今回の経費まで俺につける気じゃないだろうな」
「もちろん」
「もちろんじゃない!」
「大丈夫だって。パドゥーラから安く麦を買えたら、その功績を評価して借金を少しくらい減らしてあげる」
「いくらだ」
「成果次第」
「信用できるか!」
「ひどい。もう六年も付き合ってるのに」
「六年付き合ったから信用できないんだよ!」
ユマが声を上げて笑った。
先ほどまでジャンと激しく議論していたカールは、何も言わずにこめかみを押さえている。
「ともかく」
ジャンは咳払いした。
「俺はパドゥーラへ行く。実情を見て、取引できそうなら条件を詰めてくる」
「任せた」
「ああ」
「なるべく安くね」
「努力する」
「旅費も節約してね。借金増えるから」
「お前は黙ってろ!」
◇
数日後。
ジャンはセイレンを発った。
まず陸路で向かうのは、セイレン領を流れるプラタ川河畔の川港レプターだった。
プラタ川はセイレンにはいった付近でレプターの滝という地形的な障壁があり、滝の上流のレプターがプラタ川上流への玄関口になっていた。
そこから船へ乗り換え、川を遡ってパドゥーラへ向かう。
今回、ジャンは一人だった。
普段ならば護衛としてハンス=ベッカーがつくことが多い。
ジャンには、武人としての才能がほとんどない。
というより、剣以前に体力からして怪しい。
六年前には少し歩いただけでへばり、地面に転がってよだれまで垂らしていた男である。
そんなジャンが各地を歩き回るようになってからは、昔から馴染みのあるハンスが護衛につくことが多かった。
だが、今回は同行させなかった。
必要がないと判断したからである。
セイレン市内の治安はリズナー家の統治の賜として安定していた。
街道を行く商人が山賊や盗賊に襲われたという話も、近頃ではほとんど聞かない。
そして商人たちの話を聞く限り、それは最近のパドゥーラも同じだった。
パドゥーラへ向かう街道も、プラタ川を行き来する船も安全だという。
アムル=ドゥットゥカースの統治が始まって以降、山賊や盗賊の類はほぼ消滅したらしい。
国交はなくとも、商人はすでに行き来している。
護衛を一人つけるためだけにハンスを連れ出す必要はない。
そう考えての一人旅だった。
数日をかけて川港へ到着すると、ジャンはパドゥーラ方面へ向かう船を探した。
心配していたほど難しくはなかった。
港には大小いくつもの船が停泊している。
上流から運ばれてきた荷を下ろす船。
反対に、パドゥーラ方面へ商品を運ぶ船。
商人たちの姿も多い。
「なるほどな……」
ジャンは港を見回した。
国交がないという言葉から想像していたほど、人の往来が途絶えているわけではない。むしろかなり人の往来がある。
政治と商売は別ということらしい。
パドゥーラへ向かう船を決め、荷物を積み込ませる。
出航までは、まだ少し時間があった。
ジャンが船着場で積み荷を眺めていると――。
「姉さん、だからもう無理だって」
「しーっ! 声が大きい!」
聞き覚えのある声がした。
ジャンの眉が動いた。
ゆっくり振り返る。
少し離れた荷物の陰から、二つの頭が覗いていた。
「……お前たち」
二人の肩が同時に跳ねた。
ユナ=リズナーが、ぎこちなく振り返る。
「あ」
その隣でリックが目を閉じた。
「だから言ったのに……」
「何をやってるんだ、お前たちは!」
「ばれちゃった」
「ばれちゃった、じゃない!」
ジャンは頭を抱えた。
「なんでここにいる!」
「ジャンがパドゥーラに行くって聞いたから」
「だからなんでついてくる!」
「行ってみたかったの」
「俺は仕事で行くんだぞ!」
「分かってるよ」
「分かってる奴は黙ってついてこない!」
ジャンは今度はリックを見る。
「リック!」
「ぼくは止めたよ」
「嘘!」
「姉さんが絶対行くって言うから!」
「最後にはリックも行きたいって言ったじゃん!」
「それは川港まで来てからだよ!」
「同じでしょ!」
「同じじゃないよ!」
「二人とも黙れ!」
二人が同時に口を閉じた。
ジャンは大きく息を吐いた。
「ユマの許可は?」
ユナが目を逸らした。
「……取った記憶がないなぁ」
「帰れ!」
「やだ」
「やだじゃない!」
「でも、ここから二人だけで帰るの?」
「それは……」
ジャンが言葉に詰まった。
ここまで数日。
二人だけで帰すこと自体、不可能ではない。
セイレン領内の治安はいい。
だが、わざわざそんなことをさせるくらいなら――。
「それに」
ユナが続けた。
「ジャン、護衛いないじゃん」
「必要ないからハンスを連れてきてないんだ」
「でも、何かあったら?」
「何もないと判断したから一人で来たんだ」
「だったら私たちが一緒でも問題ないよね?」
「話が飛んでるぞ」
「飛んでないよ」
ユナは胸を張った。
「私もリックも戦えるし」
「姉さまの言う通りだよ」
「リック、お前まで乗るな」
「むしろさ」
ユナがにっこり笑った。
「護衛が必要なの、ジャンじゃない?」
「……」
「私とリックがジャンを守ってあげる」
「誰が誰を護衛するって?」
「私たちが、ジャンを」
「二回言うな」
「だってジャン、弱いもん。すぐにへばるし、よだれは垂らすし」
「うるさい、過去の話を持ってくるな」
「私よりずっと弱いよね」
「知ってる!」
横からリックが真面目な顔で口を挟んだ。
「ぼくよりもかなり弱いと思う」
「お前は冷静に分析するな!」
「じゃあ決まりね」
「何も決まってない!」
ジャンは頭を抱えた。
だが、安全面だけを理由に二人を追い返すことは難しかった。
そもそも危険だと思っていれば、自分だってハンスを連れてきている。
ここまでの街道で治安に不安を感じることはなかった。
港には商人だけでなく、普通の旅人の姿まである。
パドゥーラ方面についても、商人から盗賊や山賊を警戒するような話は聞いていない。
そして、何より。
腹立たしいことに、ユナとリックの言っていることは事実だった。
三人の中で、何かあったときに一番役に立たないのはジャンである。
「……絶対に勝手なことをするな」
ジャンが低い声で言った。
ユナの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ!」
「まだ何も言ってない!」
「連れていってくれるんでしょ?」
「仕方なくだ!」
「やった!」
「俺は仕事で行くんだからな。向こうでは俺の指示に従え」
「うん!」
「リック」
「分かった」
「それから、ユナが馬鹿なことをしそうになったら止めろ」
「分かった」
「なんでリックが私の監視役なの?」
「お前が一番信用できないからだ!」
こうして。
一人で向かうはずだったジャンのパドゥーラ行きは、なぜか三人旅になった。
◇
船はゆっくりと川港を離れた。
風を受けた帆が膨らみ、船はプラタ川を遡っていく。
岸辺には畑が広がり、その向こうには低い山々が連なっている。
ユナとリックにとっても、ここから先は初めて見る土地だった。
しばらくして、ジャンが船縁から川岸を眺めていると、ユナが隣へやってきた。
「ねえ、ジャン」
「なんだ」
「カールさんとやりあったんだってね」
ジャンがちらりと横を見る。
「誰から聞いた」
「お姉さま」
「あいつ……」
「パドゥーラから麦を買うかどうかで、結構言い合ったんでしょ?」
「言い合ったというほどじゃない。意見が違っただけだ」
「ふーん」
ユナは船縁に両腕を乗せた。
「ジャン、カールさんとあんまり仲良くないよね」
「ニコス大学の奴は気に食わない。俺はニューアーク――」
「はいはい。ニューアーク大学主席」
「最後まで言わせろ」
「何回も聞いたと思ってるの?」
「ニコスよりニューアークの方が上だ」
「それも何回も聞いた」
「事実だからな」
「はいはい」
ユナがくすくす笑った。
ジャンは不満そうに鼻を鳴らし、再び川へ目を向ける。
ユナはその横顔をしばらく眺めていた。
ジャンがカールを気に入らない理由くらい、とっくに分かっている。
大学がどうこうという話だけではない。
ジャンが誰を見ているのかも知っている。
六年も一緒にいれば、それくらい分かる。
だからこそ、それを本人に指摘してやるつもりはなかった。
お姉さまとジャンは年齢も近い。
でも、お姉さまにはカールがいる。
それでいい。
「……ジャン」
「今度はなんだ?」
「なんでもない」
「なんなんだ、お前は」
ユナは笑った。
自分がどれだけ近づいても、ジャンは昔から変わらない。
十二歳の頃と同じように、教え子か妹を見るような目を向けてくる。
もう十九歳なのに。
そこだけは、少しくらい変わってくれてもいいと思う。
「ジャン」
「だからなんだ」
「パドゥーラ、どんなところかな」
「知らん。俺も初めてだ」
「商人の話だと、すごく景気がいいんでしょ?」
「らしいな」
「若い侯爵様なんだよね」
「おまえたちと同じくらいだったはずだ」
「へえ」
少し離れたところで景色を眺めていたリックも振り返った。
「ぼくもパドゥーラの話、もっと聞きたい」
「だから俺も噂しか知らないって」
三人とも、パドゥーラを訪れるのは初めてだった。
セイレンとパドゥーラには国交がない。
彼らが知っているのは、商人たちが持ち帰ってきた噂だけである。
荒廃していた土地が、急速に豊かになっている。
新しい農地が次々と拓かれている。
商人が集まり、船が増え、食料が余るほど作られている。
そして、その中心にはアムル=ドゥットゥカースという若い領主がいる。
どこまでが本当なのか。
ジャン自身、まだ半信半疑だった。




