第6話 敗走
東部辺境軍鉄騎兵団長、オスワルト。
東部辺境領を統べるケルン公爵アレンの五兄妹の長子であり、レミーラ東部辺境軍最強と称される武将である。
そのオスワルトは馬上から、南東方向へ退いていくリービッヒ軍第七師団の動きを眺めていた。
最初の交戦では一部の部隊が無秩序に攻撃を仕掛けてきたものの、鉄騎兵の反撃を受けると、救援部隊を投入して態勢を立て直し、すぐさま組織的な後退へ転じている。
潰走とは明らかに違っていた。
追撃を受けながらも隊列を完全には崩さず、林の多い地形へ入り込むことで、こちらとの距離を取ろうとしている。戦場から逃げ出したというよりも、敵の得意とする地形を避け、有利な場所へ移動しているように見えた。
「あれがアムル=ドゥットゥカースか」
オスワルトは目を細めた。
「いい判断だ」
包囲を察知するや、無理に抗戦することなく撤退へ転じた。平地に留まれば鉄騎兵の機動力に圧倒されると判断し、こちらが十分に力を発揮できない森林地帯へ逃げ込もうとしているのだろう。
少なくとも、戦場が見えていない指揮官の動きではなかった。
「オスワルト。追撃はどうする?」
隣を進んでいた次兄のジーンが、遠ざかっていく敵軍に目を向けた。
「ただ逃げているだけかもしれんが、我々の主任務は街道沿いへ逃げ込んでくる敵の殲滅だ。あそこまで追いかける必要はないと思うがな」
ジーンは兄の顔を見た。
「もっとも、お前は戦いたいのだろうが」
「ふっ」
図星を刺され、オスワルトは小さく笑った。
「今回は自重することにしよう」
手綱を握り直しながら、周囲の騎兵たちへ視線を向ける。
「我々も敵の哨戒網の外側から急行してきたばかりだ。兵だけではない。軍馬まで息が上がっている」
鉄騎兵の強さは、その機動力と圧倒的な突撃力にある。しかし、それも十分に走れる馬があってこそ発揮できるものであり、疲労した軍馬を無理に走らせれば、本来の戦闘力を失うことになる。
「平地ならともかく、あの森林地帯で戦うとなれば、いささか分が悪い」
「それが分かっているなら結構だ」
ジーンも満足そうに頷いた。
オスワルトはもう一度だけ、南東へ退いていく第七師団を眺めた。
追えば戦えるだろう。あの若い指揮官がどれほどの腕を持っているのか、直接確かめてみたいという気持ちもある。
だが、自分が戦いたいという理由だけで部下を危険に晒す者を、将帥とは呼ばない。
やがてオスワルトは視線を街道へ戻した。
「ただし――」
その声から笑みが消えた。
「街道沿いを逃げてくる敵は、すべて討ち取れ」
周囲の騎兵たちが姿勢を正した。
「一兵たりとも逃がすな。殲滅しろ」
「はっ!」
命令を受けた鉄騎兵たちは、街道を監視するために各所へ散開していった。
アムルたち第七師団を追撃することはしない。その代わり、包囲網から逃れようと街道へ飛び出してくるリービッヒ軍の敗残兵には、一切の容赦をしない。
それがオスワルトに与えられた任務だった。
彼は南東の森林地帯へ消えていく敵軍を見送ると、馬首を返した。
* * *
「ライプニッツへ戻る」
南東の森へ退避したアムルは、追撃が途切れたことを確認すると、幕僚たちに次の方針を告げた。
もはや当初の戦線を維持できる状況ではなかった。
西、東、北の各方面でリービッヒ軍は分断され、レミーラ軍の攻撃を受けている。このまま各師団が独自に行動を続ければ、いずれ各個撃破されることは明らかだった。
「大将、ライプニッツか? コスタじゃなくて?」
ロックの問いに、アムルは地図へ目を落とした。
「コスタはたぶん持たない。敵は最初から俺たちを包囲するつもりだったんだ。今から各師団がコスタへ集まろうとしても、その前に潰される」
「じゃあ、ライプニッツなら何とかなるのか?」
「分からない。でも、あそこには本営がある」
ライプニッツにはリービッヒ遠征軍の総司令部が置かれており、兵糧も集積されている。主要街道も通じているため、各地から撤退してくる部隊を収容し、軍を再編成するには最も適した場所だった。
何より、そこまで戻ることができれば、リービッヒ本国へ通じる退路を確保できる。
「森を通って敵との接触を避けながら、ライプニッツを目指す。ギルフォード将軍にも伝えてくれ。途中で味方を見つけたら、可能な限り収容してほしい」
「分かった」
「ヴァン先生」
「なんだい?」
「これ以上、敵と戦う必要はありません。逃げます」
ヴァンは小さく笑った。
「アムルらしいな」
「勝てない戦いをする趣味はありませんから」
そう言って、アムルは地図を畳んだ。
「帰ろう」
誰に向けた言葉だったのか、アムル自身にもよく分からなかった。ただ、今は一人でも多くの兵士を連れて、本国へ帰らなければならない。
その思いだけは、はっきりしていた。
* * *
撤退は困難を極めた。
第七師団が森林地帯を抜けてライプニッツへ向かう間にも、各地で敗走したリービッヒ軍の兵士たちが次々と合流してきた。
所属する部隊を見失った者もいれば、武器や防具を捨て、身軽になって逃げてきた者もいる。負傷した仲間を背負って歩く兵士も少なくなく、中には疲労と絶望から道端に座り込み、動こうとしない者までいた。
アムルはそうした兵士を見つけるたびに馬を止めた。
「皆さん、歩けますか?」
「……はい」
「なら、一緒に来てください」
アムルが尋ねるのは、それだけだった。
所属する師団も、敗走した理由も問わない。武器を持っているかどうかすら、今はどうでもよかった。
歩ける者には隊列へ加わるよう促し、負傷して歩けない者は荷車へ乗せた。指揮官を失った兵士たちを集めて臨時の部隊を編成し、使える将校がいればその指揮を任せる。
こうして数十人、数百人と兵士を収容しながら、第七師団は撤退を続けた。
もちろん、レミーラ軍も黙って見逃してくれるわけではなかった。
前方に敵の騎兵が確認されれば進路を変更し、追撃部隊が迫れば一部の兵力を残して時間を稼ぐ。後衛部隊には無理な戦闘を禁じ、敵を足止めした後は速やかに本隊へ合流するよう命じた。
戦うことが目的ではない。
少しでも多くの兵士を生かし、逃がすための戦闘だった。
その甲斐もあって、第七師団を中心とする隊列は次第に大きくなっていった。
出発したときには第七師団の旗しか見られなかった隊列に、いつしか第三、第四、第五、第六師団の旗が混ざるようになった。破れた旗もあれば、泥に汚れた旗もあり、旗を守るべき指揮官を失った部隊さえあった。
それでも兵士たちは、ただ一つの目的地へ向かって歩き続けていた。
ライプニッツ。
そこまで戻れば本営があり、食料も休息する場所もある。そして何より、故郷へ帰る道があるはずだった。
兵士たちはその希望だけを頼りに、重い足を前へ運び続けた。
* * *
「見えたぞ!」
先頭を進む兵士が声を上げた。
遠方に城壁が見えていた。
ライプニッツだった。
「ライプニッツだ!」
「助かった……」
「やっと休めるぞ!」
兵士たちの間に安堵の声が広がった。
ここまで何日も逃げ続け、満足に眠ることすらできなかった。負傷した仲間を支えながら歩いてきた者もいれば、空腹と疲労で足元がおぼつかなくなっている者もいる。
それでも、ようやく目的地に辿り着いたのである。
少なくとも、今夜くらいはまともに休めるだろう。
兵士たちはそう信じていた。
アムルも馬上から遠くの城壁を見つめたが、すぐに違和感を覚えた。
「……待て」
城壁の上には何本もの旗が掲げられている。
しかし、その色と紋章は、見慣れたリービッヒ軍のものではなかった。
風にはためくのは、レミーラ帝国の金獅子の旗。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。
その言葉を最後に、周囲から安堵の声が消えていった。
ライプニッツは、すでにレミーラ軍の手に落ちていたのである。
「……落ちてる」
ロックが呆然と城を見た。
「何で落ちてるんだ。本営はどうなった?」
アムルにも答えられなかった。
自分たちが包囲網の中を逃げ回っている間に、敵はすでにライプニッツまで進出していたらしい。
しかも、敵が確保しているのは城だけではなかった。
アムルがさらに目を凝らすと、南方向へ延びる街道上にもレミーラ兵が展開しているのが確認できた。部隊は整然と配置され、本国へ続く道を塞ぐように陣を構えている。
ライプニッツを奪っただけでなく、ここへ逃げ込んでくるリービッヒ軍の退路まで遮断しているのである。
「……読まれてた」
「何がだ?」
ロックの問いに、アムルは苦々しい表情で答えた。
「俺たちがライプニッツへ逃げることを」
アムルは唇を噛んだ。
考えてみれば、当然のことだった。
コスタ方面で敗北したリービッヒ軍が本国へ撤退するのであれば、ライプニッツを目指す可能性が高い。そこには本営があり、補給物資も集められているのだから、敗残兵が集結するには最も都合のよい場所だった。
そして、それは敵にとっても予想しやすい行動だったのである。
ライプニッツは陥落し、本営がどうなったのかも分からない。さらに本国へ通じる主要街道まで封鎖されている以上、ここへ集まった兵士たちには、もはや帰る場所がなかった。
つい先ほどまで広がっていた安堵の空気は、一瞬にして消え去った。
* * *
「北より部隊が接近しております」
報告を受けたホフマンは、馬上から遠方へ目を向けた。
「数は?」
「二万を超えます。さらに後方から続々と合流している模様です」
「旗は確認できましたか?」
「第七師団。それと……パドゥーラ伯旗を確認しております」
ホフマンの目が細くなった。
「アムル=ドゥットゥカースですね」
ライプニッツへ続く街道はすでに封鎖しており、城もこちらの手にある。本国へ戻るための主要な退路まで押さえている以上、敵がここを通過することは容易ではない。
しかも、接近してくるのは各地から敗残兵を収容した混成部隊である。兵力こそ二万を超えているが、まともな補給を受けられず、長期間の撤退で疲労も蓄積しているはずだった。
「追撃部隊を出します」
「はっ!」
「ただし、深追いはしないでください。敵の退路を狭めれば十分です」
ホフマンは静かに命じた。
「無理に決戦へ持ち込む必要はありません。逃げられる方向へ逃がしながら、少しずつ戦力を削っていきましょう」
すでに勝敗の大勢は決している。
ここで焦って攻撃を仕掛ける必要などなかった。
* * *
「敵が動いた!」
前方から伝令が駆け込んできた。
「分かってる!」
アムルは敵の動きを確認すると、すぐに馬首を返した。
「南西へ!」
「ライプニッツは!?」
「諦める!」
即答だった。
「奪い返すのは無理だ。ここで戦ったら終わる!」
ライプニッツを攻略しようとすれば、城を守る敵だけでなく、街道を封鎖している部隊とも戦わなければならない。疲弊した兵士たちを率いて、そのような戦闘に勝てる見込みはほとんどなかった。
命令を受けた各部隊が一斉に方向を変え、ようやく辿り着いた目的地を目前にして、再び撤退が始まった。
「アムル!」
ヴァンが馬を寄せてきた。
「南西へ行ってどうするつもりだ? 収容した友軍にも兵糧を分け与えた以上、もう本国まではもたないぞ」
「リューザスです!」
ヴァンが目を見開いた。
「あの河畔の古城か」
「はい。あそこはティーエが糧秣の荷揚げに利用していた場所です。防御拠点としてどれほど役に立つかは分かりませんが、食料くらいは残っているはずです」
リューザスは川沿いに築かれた古城で、現在では軍事的な重要性をほとんど失っていた。しかし、ティーエが輸送拠点として利用していたため、簡単な補修が施され、補給物資も集積されていたのである。
アムルはそこに望みを託そうとしていた。
「なるほど。あそこなら、残っている兵糧でも何とか辿り着けるだろう」
ヴァンが頷く。
敵の包囲網を突破できる見込みがない以上、まずは兵士たちを休ませ、食料を確保する必要がある。リューザスが要塞として不十分だったとしても、今の軍勢を収容できる場所があるだけで十分だった。
アムルは後方を振り返った。
すでにホフマンの部隊が動き始めており、追撃が迫りつつある。
「今は屋根と壁、それに飯があるだけで最高です!」
「それは違いない」
ヴァンが穏やかに笑った。
「大将! 追っ手が来るぞ!」
ロックが叫ぶ。
「分かってる! ともかく逃げろ! 止まったら食われるぞ!」
アムルの命令を受け、兵士たちは再び足を速めた。
もはやライプニッツを振り返る者はいなかった。




