余話 ティーエと歌姫
ティーエとティファ
パドゥーラの歌姫シャンテ
余話 ティーエと歌姫
ティーエ=クラビスがパドゥーラへやって来て以来、寝起きしているのは鍛冶屋棟梁ジウの家だった。
別に深い事情があったわけではない。
パドゥーラへ来た当初、戦乱の傷跡が残る町には、すぐに使える適当な家がなかった。
そこでアムルとエルの昔からの知り合いだったジウが、
「部屋なら余ってるぞ」
と言った。
だから借りた。
それだけである。
もちろん最初は一時的なつもりだった。
だが、市庁舎へ通うにも不便はない。食事にも困らない。ジウは少々口が悪いが、面倒見はいい。
そして何より――。
「ティエちゃん、朝だよ」
その声で、ティーエは目を覚ました。
「……ん……」
「朝ごはんできてるよ。そろそろ起きないと遅れちゃうよ」
薄く目を開ける。
茶色い髪を大きな三つ編みにまとめた少女が、寝台の横に立っていた。
ティファだった。
身長はティーエとほとんど同じ。
分厚い瓶底眼鏡をかけ、地味な町娘らしい服を着ている。
派手さはない。
箒でも持たせれば、そのまま家の前を掃いていそうな娘だった。
「……ティファ」
「おはよう、ティエちゃん」
「おはよう」
ティーエはむくりと身体を起こした。
朝一番にティファの顔を見る。
それだけで、なんとなく今日はいい日になりそうな気がする。
「また寝ないでね」
「寝ないよ」
「昨日もそう言ってたよ」
「昨日は昨日。今日は今日だから」
「もう」
ティファが小さく笑った。
大人しく、面倒見がよく、何かと人の世話を焼く少女だった。
ティーエがこの家へ転がり込んだ時から、食事だの洗濯だのと何かと気にかけてくれている。
最初の頃は申し訳ないと思っていた。
今でも多少は思っている。
思ってはいるのだが――。
「じゃあ、先に行ってるね」
「うん」
扉が閉まる。
ティーエはしばらくそれを眺めていた。
「…………」
やっぱり引っ越す必要はないと思う。
◇
「鉄鉱石が足りん」
朝食の席で、ジウが言った。
ティーエはパンをちぎる手を止めた。
「鉄じゃなくて?」
「鉄を作るための石だ」
ジウは不機嫌そうに言う。
ジウは鍛冶屋の棟梁であり、同時にパドゥーラ鉄鋼ギルドの長である。
「あの馬鹿息子が開発した反射炉とかいうやつのおかげで、生産量そのものはずいぶん上がった」
「バーナードの?」
「ああ。あの馬鹿、女を追いかけ回す以外にも多少は役に立つらしい」
「お兄ちゃんは仕方ないからねぇ」
ティファが困ったように兄を擁護した。
「まあ、仕事だけは昔からできる」
ジウは吐き捨てるように言った。
「炉はいい。前よりずっと鉄を作れる。職人も増えた。だが今度は原料が足りん」
「……鉄鉱石かぁ」
「そうだ」
ジウは指を折りながら続ける。
「農具がいる。水路工事にも道具がいる。町じゃ建物が増えて釘もいる。軍の連中は武器だの鎧だの寄越せと言いやがる。反射炉なんぞ作ったところで、放り込む石がなきゃただのでかい箱だ」
「今の仕入れ量だと、どのくらい足りない?」
「今ならどうにかなる。だが、このまま開墾と工事が増えれば間違いなく足りなくなる」
「うーん……」
ティーエの頭の中で数字が動き始めた。
鉄鉱石の在庫。
鍛冶工房の処理能力。
反射炉の稼働率。
農具需要。
トネリーの進める用排水路工事。
建築需要。
輸入価格。
輸送費。
「ティエちゃん」
「…………」
「ティエちゃん?」
「え?」
目の前に皿が置かれていた。
ティファが瓶底眼鏡の奥から心配そうに見ている。
「ちゃんと食べないと駄目だよ」
「あ……ありがとう、ティファ」
「冷めちゃうよ」
「うん」
ティーエは素直に食べ始めた。
ジウがその様子をじっと見る。
「なに?」
「いや」
ジウはそれ以上何も言わなかった。
ただ、娘に世話を焼かれて嬉しそうに飯を食っている居候を見て、一度だけ大きくため息をついた。
◇
昼。
旧パドゥーラ伯爵邸を改装した市庁舎。
ティーエの執務室には、今日も書類が山積みになっていた。
「次」
「北部第二灌漑区の追加予算です」
「トネリーさんのところ?」
「はい」
ティーエは書類へ目を通した。
水路そのものは順調だった。
問題は、その先である。
水を引ける土地は増えている。
だが、その土地を耕す人間が足りない。
「入植希望者は?」
「今月で百二十七世帯です」
「少ないなぁ」
ティーエは椅子へ深く腰を沈めた。
パドゥーラは、かつてアーネム帝国の首都地域として百万を超える人口を養っていた土地だった。
土地そのものが貧しいわけではない。
むしろ逆だった。
長い戦乱と荒廃によって用排水路の多くが失われ、かつての耕地の大半が使われなくなっている。
現在利用できているのは、最盛期のほんの一部にすぎない。
しかし、トネリーが先祖伝来のパドゥーラ地方の用排水路図をもとに水利を復旧し始めたことで、状況は変わりつつあった。
水さえ戻せば、使える土地はいくらでもある。
今度は、その土地を使う人間がいない。
「開墾地取得制度の案、もう一回持ってきて」
「はい」
別の書類が置かれる。
現在、ティーエたちが検討している新しい制度だった。
指定された未利用地へ実際に入植し、一定期間そこへ住み、耕作を続けた者には、その土地の所有権を認める。
ただし、名義貸しは禁止。
大商人や貴族が人の名を借りて大量の土地を取得することも認めない。
土地を欲しいなら、自分で住んで、自分で耕す。
「三年でいいかな」
「五年案もありますが」
「長すぎるよ。土地が自分のものになるまで五年もかかったら、途中で諦める人が出る」
「では三年で?」
「うん。それと最初の一年は農具を貸し出そう」
「農具ですか?」
「土地だけ渡しても、鍬も鋤もなかったら耕せないでしょ」
そこでティーエは朝の話を思い出した。
「……あ」
「どうしました?」
「また鉄がいる」
「はい?」
「なんでもない」
ティーエは額を押さえた。
土地を開く。
人を呼ぶ。
農具がいる。
農具を作る。
鉄がいる。
鉄を作る。
鉱石がいる。
「……全部つながってるんだよなぁ」
ぼそりと呟く。
だが、それが面白くもあった。
水路を直せば、土地が使える。
土地が使えれば、人を呼べる。
人が増えれば、商売が増える。
商売が増えれば、税収が増える。
農地が増えれば、食料も増える。
食料が増えれば、さらに人を呼べる。
何か一つだけを直せばいいわけではない。
全部がつながっている。
だから全部を少しずつ動かす必要がある。
「次」
「学校予算です」
「リスデン子爵かぁ」
「増額希望です」
「また?」
「児童数が増えていますし、成人向けの夜間学校への入学希望者も増えています」
「嬉しいけど、お金は嬉しくないなぁ」
その後も書類は続いた。
学校。
水路。
道路。
農業試験。
商業区画。
軍費。
そして、シュバルツ商会から引き出した五千万ドゥエルの運用状況。
パドゥーラの年間予算を遥かに超える巨額の資金である。
数字だけ見れば、胃が痛くなる。
失敗すれば終わる。
だが、去年と比べれば税収は増えている。
人口も増えた。
耕地も増えた。
商人も増えた。
「……うん」
ティーエは小さく頷いた。
「まだいける」
◇
夜。
仕事を終えたティーエは、市庁舎からまっすぐ家へ帰らなかった。
劇場へ向かった。
これはティーエの数少ない趣味だった。
子どものころから芝居を見るのが好きだった。
役者が舞台の上で泣いたり笑ったりする。
数時間だけ、帳簿も税収も兵站も忘れられる。
だから、パドゥーラへ来てからも時間を見つけては劇場へ足を運んでいた。
◇
その頃。
観劇場の舞台袖では、一人の少女が鏡の前に座っていた。
「ティファ、そろそろ出番よ」
「う、うん」
返事をしたのは、今朝までティーエと同じ食卓を囲んでいたティファだった。
ただし、その姿は朝とはまるで違う。
いつもの瓶底眼鏡はない。
大きな三つ編みも解かれ、長い茶色の髪が背中へ流れている。
顔にはしっかりと舞台化粧が施されていた。
身にまとっているのは青を基調とした華やかな衣装。
普段なら到底着ようとは思わない、肌の露出も多い舞台衣装だった。
足元にはヒールまで履いている。
地味な町娘ティファの姿は、どこにもない。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫」
まだ声は小さい。
舞台袖にいる間は、いつものティファだった。
「シャンテ、出番よ!」
「はい!」
だが、その名を呼ばれた瞬間。
ティファの表情が変わった。
一歩、舞台へ踏み出す。
眩しい照明を浴びる。
客席から歓声が上がった。
歌を歌う時だけ、ティファは変わる。
普段の大人しく奥手な少女からは想像もできないほど明るく、華やかに。
パドゥーラの歌姫――シャンテ。
それが、舞台に立つティファのもう一つの名前だった。
◇
「……?」
客席のティーエは目を瞬いた。
長い茶色の髪。
青い華やかな衣装。
化粧を施した顔。
ヒールを履いているせいか、舞台の上では自分よりずっと背が高く見える。
その女が歌い始めた。
「…………」
ティーエは動けなくなった。
歌声は明るく、よく伸びた。
それでいて澄んでいる。
何より楽しそうだった。
舞台の上を歩き、客席へ笑いかける。
歌うことそのものが嬉しくて仕方ない。
普段の大人しいティファとは、あまりにも印象が違った。
――もっとも。
同一人物なのだが。
「……綺麗だ」
ティーエはそんなことにはまったく気づかず、見入っていた。
パドゥーラの歌姫。
シャンテ。
噂には聞いていた。
しかし、実際に歌を聴くのは初めてだった。
歌が終わる。
一瞬の静寂。
そして劇場全体が大きな拍手に包まれた。
ティーエもようやく我に返り、慌てて手を叩いた。
「すごい……」
胸が妙に高鳴っている。
芝居を見て感動した時とは、少し違う。
一方、舞台の上のシャンテ――ティファも、客席へ向かって笑顔を振りまいていた。
だが、ティーエがいることには気づいていない。
そもそも、見えていない。
舞台へ上がるため、いつもの瓶底眼鏡を外しているからである。
ティファにとって客席など、ぼんやりとした人影の集まりにしか見えなかった。
したがって。
ティーエは、舞台の歌姫がティファだと分からない。
ティファは、客席にティーエがいると分からない。
同じ家で暮らしている二人は、互いの存在にまったく気づかないまま、一人は歌い、一人は恋に落ちた。
◇
翌朝。
「ティエちゃん、朝だよ」
「……ん」
「朝ごはんできてるよ」
ティーエは目を開けた。
大きな三つ編み。
瓶底眼鏡。
地味な町娘の服。
いつものティファだった。
「おはよう、ティファ」
「おはよう、ティエちゃん」
ティーエは起き上がる。
そして昨日のことを思い出した。
「あっ、ティファ。聞いてよ」
「なに?」
「昨日、すごい歌手を見つけたんだ」
「…………え?」
ティファの動きが止まった。
「噂には聞いてたけど、シャンテって人。あんなに綺麗な歌声、ボク聞いたことないよ」
「…………」
「それに、すごく綺麗なんだ。みんなが『パドゥーラの歌姫』っていうのは当然だよ」
「…………そ、そうなんだ」
「うん。本当にすごかった」
ティーエは嬉しそうに続ける。
「また聴きに行きたいなぁ」
「…………」
「ティファ?」
「な、なに?」
「顔赤くない?」
「赤くないよ!」
「そう?」
「う、うん」
ティファは慌てて背を向けた。
言えばいい。
ただ一言。
――それ、私だよ。
それだけでいい。
別にシャンテであることを秘密にしているわけでもない。
アムルもエルも知っている。
リオも知っている。
ジウだって当然知っている。
隠さなければならない理由など何一つない。
「…………」
だが、言えない。
普段のティファは、そういうことを自分から言い出せる性格ではなかった。
しかもティエちゃんが、自分の歌をあんなに褒めてくれている。
綺麗だと言ってくれた。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
だからこそ、余計に言えなくなった。
「ティファ?」
「な、なんでもないから。早く着替えて。ご飯冷めちゃうよ」
「うん」
ティーエは何の疑問も持たずに頷いた。
◇
数日後。
ティーエは深刻な顔で、アムルとエルのところを訪れていた。
そこには、たまたまリオもいた。
「相談があるんだ」
ティーエは深刻そうに言った。
「ティーエが相談なんて珍しいな」
アムルが答える。
「お金のこと?」
エルが聞く。
「違うよ。全然違う。もっと深刻なことなんだ」
「じゃあ何?」
「……僕は恋に落ちた」
三人が黙った。
リオが眉を上げる。
「お前が?」
「失礼だな!」
「だって、お前だぞ」
「ボクだって恋くらいするよ!」
ティーエはむっとした。
だが、すぐにまた肩を落とした。
「……だから困ってるんだ」
「何が?」
エルが首を傾げる。
ティーエは両手を握りしめた。
「ボク、最低の男かもしれない」
「どうして?」
「二人の女性を同時に好きになってしまったんだ」
「二人?」
「うん……」
ティーエは重々しく頷いた。
「ティファのことは前から好きだったんだ」
アムルとエルが顔を見合わせた。
だいたいそんなもんだろうとは思っていた。
リオは黙っている。
「でも、この前、劇場でシャンテさんの歌を聴いた」
「ああ……」
アムルが何とも言えない声を出した。
「それで?」
「好きになってしまったんだ」
ティーエは頭を抱えた。
「ティファが好きなのに、シャンテさんのことを考えると胸が苦しい。二人の女性を同時に好きになるなんて、最低だよ」
「うーん……」
アムルが腕を組んだ。
「俺はエルしか見てないし……」
「アムルに聞いたボクが馬鹿だったよ」
「ひどくないか?」
ティーエは今度はエルを見る。
「エルはどうなの?」
「どうなのって言われても……」
エルは困ったように視線を逸らした。
頬がわずかに赤くなる。
こういう話を人前でするのは苦手だった。
「まったく参考にならないなぁ」
「なんで私まで怒られるの?」
するとリオが、面倒くさそうに言った。
「じゃあ、二股かければいいじゃん」
「だから君と同じにしないで。ボクは誠実なんだ。複数人の女性と同時に愛を語るなんて……」
「…………」
リオのこめかみがぴくりと動いた。
「どうしたの?」
「こいつ殴っていい?」
「俺に聞くなよ」
アムルが即答した。
「ティーエ、それ以上はやめた方がいいと思うよ」
エルも小声で忠告する。
「なんで? ボクは普通のことを言ってるだけだよ」
「……ほんっと、ムカつく」
「なんで!?」
「なんでも!」
ティーエには理解できない。
そもそも、二股ですらない。
ティファとシャンテは同じ女である。
だが、それを知らないティーエだけは真剣だった。
「ボクはティファを裏切りたくない。でもシャンテさんのことも忘れられないんだ」
「…………」
リオはしばらくティーエを見つめた。
それから、ゆっくりとアムルを見る。
次にエルを見る。
「なに?あいつ、知らないの?」
アムルとエルが首を縦に振った。
ティファの近くにいるものが皆知っている事実をこいつは知らない。
普段、ティファの何をみているのだろうか。
「…………」
リオは大きなため息をついた。
「じゃあ放っておくしかないね」
「え?」
「知らない」
「ちょっと待ってよ。今なんの話したの?」
「なんでもない」
「絶対なんか知ってるよね!?」
「知らない」
「リオ!」
「本人に聞けば?」
「ティファにこんなこと相談できるわけないだろ!」
「…………」
「なに、その顔」
「別に」
「ちゃんと相談に乗ってよ!」
「乗ったじゃん。二股かければいいって」
「だから君と同じにしないで! ボクは誠実なんだ!」
「うるさい!」
結局、誰もまともな答えをくれなかった。
ティーエはその場にしゃがみ込んだ。
「ああ……二人の女性を同時に好きになるなんて……」
「…………」
「ボクは最低だぁ……」
アムルとエルは、そっと顔を見合わせた。
リオだけが、もう一度大きなため息をついた。




