余話 アムルとエルのお仕事
アムル&エル
余話
朝のチル湖は静かだった。
風は弱く、水面には小さな波がゆっくりと広がっている。
湖岸から少し突き出した岩場に、二人の男が並んで座っていた。
一人はアムル=ドゥットゥカース。
もう一人は、禿げあがった額。残った白髪混じりの髪を無造作に後ろへ流した老人だった。
二人とも釣竿を握り、湖面に浮かぶ小さな浮きを眺めている。
「動かないなぁ」
アムルが呟いた。
「当たり前じゃ」
隣の老人が鼻で笑う。
「お前さんは竿の入れ方からして雑なんじゃ。そんなところに落として何が釣れる」
「昨日はここで釣れたんだけど」
「昨日と今日で風が同じか?」
「違う」
「水の流れは?」
「違う」
「なら昨日と同じところに入れる馬鹿がおるか」
「……爺さん、朝から厳しいなぁ」
「魚はお前さんの都合に合わせてくれんからの」
老人はそう言うと、自分の竿をわずかに動かした。
少しして浮きが沈む。
「ほれ」
「あ」
老人が竿を上げる。
銀色の魚――パクーが水面から飛び出した。
「また爺さんか」
「腕の差じゃな」
「場所じゃない?」
「なら代わってやろうか?」
「……いや、いい」
「負けるのが怖いか」
「そういう言い方する?」
老人が笑う。
アムルは不満そうに餌を付け直した。
この老人と知り合ったのは、いつだっただろうか。
気がつけばこの辺りで顔を合わせるようになり、気がつけば釣りを教えられていた。
老人も老人で、アムルがパドゥーラ侯爵であることなど気にもしていない。
アムルにとっては、それが楽だった。
「今日こそ爺さんより釣るから」
「毎回聞いとる」
「今日は違う」
「前回も聞いた」
「……今日は本当に違う」
「アム」
「うん?」
聞き慣れた声が背後からした。
アムルの動きが止まる。
老人が横目でアムルを見る。
「迎えじゃないか?」
「……たぶん」
アムルが振り返った。
湖岸に一頭の馬が止まっている。
その上から銀髪の少女がこちらを見ていた。
エル=リージェットだった。
「やっぱりここにいた」
エルは馬から軽やかに降りると、手綱を引きながら二人のところまで歩いてきた。
「おはよう、エル」
「おはよう。市庁舎にいないから探したんだよ」
「今日は休み」
「違うよ」
「……違うの?」
「視察」
「聞いてない」
「先週、言ったよ」
「覚えてない」
「聞いてなかったんでしょ」
「たぶん」
エルは呆れたように息を吐いた。
そこでようやく、アムルの隣に座っている老人に気づく。
「ところで……誰?」
老人が答えた。
「この下手くその師匠じゃ」
「酷いなぁ」
「事実じゃ」
エルは少し驚いたように老人を見た。
「アムに釣りの師匠がいたんだ」
「儂は弟子にした覚えはないがな」
「俺も弟子になった覚えないよ」
「なら下手くその知り合いでいい」
「悪化してない?」
老人はアムルを無視してエルを見る。
「ところで、お前さんは誰じゃ?」
「あっ、すいません。申し遅れました」
エルは小さく頭を下げた。
「エル=リージェットと言います」
老人の眉が、ほんのわずかに動いた。
エル=リージェット。
――あのモンドの娘か。
老人はしばらくエルを見た。
だが、それ以上のことは口にしなかった。
「えらい礼儀正しいお嬢さんじゃな。気に入った」
「ありがとうございます」
「それで、こいつに用があるんじゃろ?」
「あっ、すいません。その子を呼びに来ました」
「そうか」
老人は再び湖へ顔を向けた。
「なら連れていけ。下手くそがおると魚が逃げるだけじゃ」
「酷いなぁ」
「ほれ、さっさと行け」
アムルは渋々釣竿を片付け始めた。
「はぁ……視察かぁ」
「侯爵がいるってだけで役に立つ仕事。だから来て」
「俺、何もしなくていい?」
「ちゃんと話は聞いてね」
「それは仕事じゃん」
「仕事だよ」
「騙された」
「騙してないよ」
釣具をまとめたアムルは立ち上がる。
そしてエルの連れてきた馬を見た。
一頭。
「……エル」
「なに?」
「俺の馬は?」
「連れてきてないよ?」
「どうやって行くの?」
エルは不思議そうな顔をした。
「一緒に乗ればいいでしょ?」
「最初からそのつもりだった?」
「うん」
「そうですか……」
アムルが諦めた。
エルが先に馬へ乗る。
続いてアムルがその後ろへ乗った。
「ちゃんと掴まってね」
「はいはい」
アムルがエルの腰へ腕を回す。
エルの優しい匂いが鼻孔をくすぐる。
エルは手綱を握った。
「じゃあ行こっか」
エルが馬を進ませる。
老人は二人の背中を黙って見送っていた。
「……モンドの娘、か」
やがて小さく呟く。
「妙な娘に育ったもんじゃ」
老人――コンラートは再び湖へ釣り糸を垂らした。
◇
最初の視察先は、パドゥーラ市街から少し離れたところに造られた学校だった。
校庭へ馬が入る。
先に気づいたのは子供たちだった。
「あっ!」
一人の少女が声を上げる。
「エル様だ!」
その声で、一斉に子供たちが振り返った。
「ほんとだ!」
「エル様!」
「本物だ!」
「本当に天使みたい!」
「こんにちは」
エルは馬上から笑って手を振った。
歓声が上がる。
その後ろでアムルがぼそりと言った。
「人気あるなぁ」
「アムも手振ったら?」
「俺?」
アムルも一応手を振ってみる。
反応は薄い。
むしろ子供たちは首を傾げた。
「……誰?」
「エル様の後ろにいるお兄ちゃん誰?」
「知らない」
「護衛?」
「護衛がエル様と同じ馬に乗る?」
「護衛ならもっと強そうな人だよ」
「聞こえてるぞ」
アムルが言った。
エルが笑いながら馬を止める。
二人が降りると、子供たちはすぐにエルの周囲へ集まった。
「エル様、こんにちは!」
「こんにちは。ちゃんと勉強してる?」
「してる!」
「僕も!」
「ほんとかなぁ?」
エルが子供たちと話している。
その少し後ろにアムルが立っていた。
子供たちの視線が時折アムルへ向く。
「ねえ」
「なに?」
「あのお兄ちゃん、エル様の恋人じゃない?」
「えっ?」
「そうなの?」
「聞いたことある」
「じゃあ、侯爵様?」
ひそひそ声のつもりらしい。
だが、全部聞こえている。
「こんな凡人が?」
「なんで?」
「おかしいよ」
「きっとエル様を騙したんだ」
「そうだよ!」
「レミーラの人が、ペテン師って呼んでるって聞いたことある!」
「じゃあ本当に騙したんだ!」
「エル様かわいそう」
「……おい」
アムルが口を挟んだ。
「君たち、ひそひそ話って知ってる?」
子供たちが一斉にアムルを見る。
一人が聞いた。
「エル様を騙したんですか?」
「騙してないよ」
「でもペテン師なんでしょ?」
「それは……」
アムルが言葉に詰まった。
まったく身に覚えがないわけではない。
「ほら!」
「やっぱり!」
「エル様!」
「違う違う!」
さすがにエルが割って入った。
「私はアムに騙されてないよ」
子供たちがエルを見る。
一人の少女が真剣な顔で言った。
「でも騙されてる人って、自分が騙されてるって分からないんだよ」
「……あ」
エルが少し考える。
「それもそうだね」
「エル!?」
子供たちが騒ぐ。
「やっぱり騙されてる!」
「かわいそう!」
「なんでそうなるんだよ!」
そこへ声が飛んだ。
「こら。お前たち」
子供たちが振り返る。
一人の男が校舎から歩いてきていた。
「侯爵閣下になんという口を利いている」
「え?」
子供たちがアムルを見る。
「本当に侯爵様なの?」
「そうだ」
「ほんとに?」
「本当だ」
「見えない」
「……子供って残酷だなぁ」
アムルが肩を落とす。
「申し訳ありません、侯爵閣下」
「いいですよ、リスデン子爵。子供の言うことですから」
「しかし――」
「まあ、凡人はちょっと傷つきましたけど」
エルが横で吹き出した。
「笑うなよ」
「ごめん。ふふっ……」
この男がリスデン子爵だった。
パドゥーラ侯爵家に仕える有力諸侯の一人。
そして、かつて『奴隷子爵』と呼ばれた人物でもある。
その異名だけを聞けば、悪名高い領主を想像する者も多いだろう。
だが、その実態はまるで違っていた。
前パドゥーラ伯エルバの統治下にあった時代、リスデンは表向きエルバに従っていた。
正面から逆らえば、自らの領地ごと潰される。
それでは誰も守れない。
だから彼は従った。
その一方で、エルバの統治から逃れてきた市民を、自らの『奴隷』という名目で領内へ抱え込んだ。
奴隷であれば、それはリスデン子爵の財産である。
他者が勝手に手を出すことはできない。
そうやって彼は、自らの手の届く範囲で人々を守り続けた。
身寄りを失った子供たちについては、子爵家で保護し、読み書きや算術まで教えていた。
それが思わぬ形で役立ったのは、パドゥーラが解放され、アムルが新たな伯爵として叙任されてからだった。
新しい統治機構を作ろうにも、圧倒的に人が足りない。
文書を書ける者。
数字を扱える者。
帳簿を作れる者。
そんな人材を大量に必要としていたアムルたちへ、リスデンは自らが育ててきた若者たちを送り出した。
後のパドゥーラ官僚組織を支える人材の少なからぬ部分が、彼らである。
もっとも、リスデンが最初からアムルに協力的であったわけではない。
新しい領主がまともな人間なのか。
エルバが別の人間に代わっただけではないのか。
彼は自分の目で見定めた。
アムルが奴隷制度の縮小を進めたときには、リスデン領で奇妙な事件も起きた。
解放されるはずの奴隷たち自身が、奴隷解放に反対したのである。
自分たちはリスデン子爵の奴隷だから生き延びられた。
その関係を切られることを恐れたのだ。
アムルとエルは子爵領まで来て、一人一人と話をした。
自由になることは、リスデンから捨てられることではない。
それを時間をかけて説明した。
リスデンが二人への協力を決めたのも、その頃だった。
そして今。
かつて奴隷として人々を守り、その子供たちを自らの屋敷で教育していた男は、パドゥーラの学校制度を支える人物となっていた。
「こちらが新しい教室になります」
リスデンが校舎を案内する。
「今年から算術の授業を増やしました」
「教師は足りてます?」
アムルが尋ねた。
「十分とは言えません。ただ、昨年よりは改善しております」
「地方の学校は?」
「そちらがまだ問題です。教師を送っても、住居を用意できない地域があります」
「そこかぁ」
アムルが頭を掻く。
エルが教室を覗いた。
子供たちが机に向かい、文字を書いている。
「でも、増えたね」
「はい」
リスデンが答える。
「最初の頃とは比べものになりません」
アムルも教室を見る。
その中には農民の子もいれば、商人の子もいる。
かつてなら教育とは縁のなかった家の子供たちも混じっていた。
「この中から、役所に来る子もいるのかな」
エルが言った。
「おりますでしょう」
リスデンが答える。
「ですが、それだけが目的ではありません」
「うん」
エルが笑った。
「字が読めて、計算ができるだけでも、できることはいっぱい増えるからね」
アムルが頷く。
「騙されにくくもなる」
「侯爵様みたいなペテン師に?」
後ろから子供の声。
「まだ言うか!」
笑い声が校舎に響いた。
◇
学校を出た二人は、再び一頭の馬に乗った。
もちろん手綱を握るのはエルである。
「アム」
「ん?」
「凡人だって」
「ふふっ」
「結構傷ついてるんだからな」
「私はアムが凡人でも好きだよ」
「……ならいっか」
エルは楽しそうに笑いながら馬を進めた。
しばらくすると、風景が変わってきた。
広い農地の間を、真新しい水路が走っている。
その先には、大きな水車がゆっくりと回っていた。
「おお」
アムルがエルの肩越しに水車を見る。
「ちゃんと動いてる」
「当たり前でしょ」
水路の近くでは、多くの人間が作業をしていた。
その中心にいた男が二人に気づく。
「侯爵閣下。エル様」
「こんにちは、トネリーさん」
エルが馬を止める。
二人が降りた。
トネリーはパドゥーラ各地の灌漑事業を担う技術者である。
祖先がパドゥーラの出身で、先祖代々伝えられてきたこの地域の用排水路図を持っていた。
かつて帝国の中心地として多くの人口を養ったパドゥーラには、広大な農地と複雑な水利網が存在していた。
しかし長年の混乱によって、その多くが失われている。
トネリーが行っているのは、それを一つずつ蘇らせる仕事だった。
アムルは回転する巨大な水車を見上げた。
「この灌漑用の水車、高かったんだよなぁ」
「まだまだ灌漑工事は終わりませんよ」
トネリーは平然と言った。
「農地はもっと広げられます」
「……まだやるの?」
「当然です」
トネリーは遠くを指した。
「あちらをご覧ください。現在の水路をさらに南へ延長できます。あの一帯も開墾可能です」
「いくらかかる?」
「詳細な見積もりは主計長へ提出してあります」
「もうティーエに出したの?」
「はい」
「仕事が早いなぁ……」
「いいことじゃない」
エルが言う。
「俺たちが払う側じゃなければな」
「必要なんでしょ?」
「必要なのと高いのは別問題」
「それはそうだけど」
トネリーは二人の会話など気にせず、水路の説明を続ける。
どこから水を取り、どこで分水し、どの地域まで灌漑するのか。
エルは真面目に聞いていた。
アムルも最初は聞いていた。
やがてエルが振り返る。
「アム、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「今、何の話?」
「……水」
「聞いてないじゃん」
「大体は分かってる」
トネリーが苦笑した。
「では、実際に農地をご覧になりますか?」
「そうしよう」
アムルが即答する。
「説明から逃げた」
「違う。現場主義」
「ほんとかなぁ」
三人は水路に沿って歩いた。
その先には、広大な農地が広がっていた。
青々とした麦が風に揺れている。
「おお」
アムルが今度は素直に声を上げた。
「ずいぶん広がったな」
「去年はここまで畑じゃなかったよね?」
エルも周囲を見回す。
「ええ」
答えたのは、農地の中から歩いてきた別の男だった。
「今年から試験的に作付面積を広げています」
「ヴィルマー博士」
アムルが手を上げる。
ヴィルマー。
都市同盟出身の農学者。
農業研究とその技術指導を行う、パドゥーラの食料生産を急速に押し上げた立役者の一人だった。
彼が改良した麦――ヴィルマーⅠ。
高い収量を誇る一方で、大量の水と肥沃な土地を必要とする。
だからこそ、トネリーの灌漑事業との相性は抜群だった。
「今年はどう?」
「今のところ順調です。水量も十分です」
ヴィルマーが麦の一本を手に取る。
「このままいけば、昨年を大きく上回るでしょう」
「また食料余る?」
「余る、という表現が適切かは分かりませんが、域外へ回せる量はより増えると思います」
「ならいいや」
アムルは満足そうに麦畑を見る。
エルも隣に立った。
「すごいね」
「うん」
風が吹く。
広大な麦畑が一斉に揺れた。
かつて荒れていた土地だった。
水路が戻り、人が戻り、再び麦が育っている。
トネリーが水を引く。
ヴィルマーが作物の育て方を指導する。
アムルがやったことなど、そのための場所と金を用意した程度なのかもしれない。
だが、それでよかった。
「侯爵閣下」
ヴィルマーが言った。
「来年度なのですが、もう少し試験農地を――」
「帰ろう、エル」
「アム」
「嫌な予感がする」
「話くらい聞こうよ」
「ティーエに言って」
「もう話しております」
ヴィルマーが答えた。
「なんでみんな俺より先にティーエに話すんだよ」
「その方が早いからじゃない?」
「侯爵ってなんなんだろうな」
エルが笑った。
◇
夕方。
二人は再び一頭の馬に乗ってパドゥーラ市街へ戻ってきた。
市庁舎が見えてくる。
それは、かつてのパドゥーラ伯爵邸だった。
アムルが叙任された当初、パドゥーラにはほとんど金がなかった。
旧伯爵邸に残されていた財物は売却され、その金は新しい統治機構を動かすための資金になった。
そして広い伯爵邸そのものは、市庁舎へと改装された。
では新しい伯爵はどこに住むのか。
市庁舎のすぐ脇に、かつて召使いたちが暮らしていた小さな家があった。
アムルとエルはそこへ入った。
ただの応急措置だった。
だが、そのまま居着いた。
伯爵が侯爵になった今でも、二人の家は変わっていない。
エルが家の前で馬を止める。
アムルが後ろから降りた。
「疲れた……」
大きく伸びをする。
エルも馬から降りた。
「でも、よかったでしょ?」
「何が?」
「学校も。水路も。畑も」
「学校では凡人って言われた」
「ふふっ」
「まだ笑う」
「だって」
エルは馬の首を撫でながら笑っている。
アムルは市庁舎の向こうへ目を向けた。
さらにその向こうには、今日見てきたパドゥーラの土地が広がっている。
学校では子供たちが学んでいた。
新しい水路には水が流れていた。
荒れていた土地には麦が育っていた。
「でも、よかったでしょ?」
エルがもう一度聞いた。
アムルは少しだけ考えた。
「……まあな」
「でしょ?」
「うん」
エルが嬉しそうに笑う。
アムルは家の扉へ向かった。
「じゃあ明日は釣り行っていい?」
「仕事が終わったらね」
「今日働いたじゃん」
「明日の仕事は明日あるよ」
「……エルの鬼」
「はいはい。帰ろ」
二人は並んで家へ入っていった。
その隣では、かつて領主が暮らしていた大きな屋敷に明かりが灯り始めている。
今ではそこに、パドゥーラを動かす多くの人々が働いていた。
今日もまた、いつもと変わらない一日が終わろうとしていた。




