第5話 包囲殲滅
布陣図(戦闘開始時)
ルートビッヒ&ホフマン
「敵前衛、リース包囲のために渡河を完了。また、敵後衛もほとんどがコスタ平原に入りました」
報告を聞いたルートビッヒ=シュナイダーは、端正な顔に満足げな笑みを浮かべた。
「ついに包囲網が完成したな」
ルートビッヒは、現レミーラ皇帝カール=ハインツ=ハイマン=フォン=レミーラの直系の曾孫にあたる。
もっとも、皇帝の四男、そのさらに四男の家系に生まれた彼に、帝位を継ぐ可能性など最初から存在しなかった。皇族の血こそ引いているものの、その立場は皇位継承という点では何の役にも立たない。彼にとって皇族という肩書は、いわば空クジのようなものだった。
それでもルートビッヒは、自らの実力で現在の地位までのし上がってきた。
都市同盟との戦いで幾度となく武功を重ね、難攻不落と謳われたレンヌを陥落させたことで、その名は帝国内に広く知られるようになった。今では四個師団からなるレミーラ東部辺境軍を率いるまでになり、帝国東部の軍事を担う将軍として確固たる地位を築いている。
そして今、そのルートビッヒが長い時間をかけて準備してきた包囲網の中に、リービッヒ軍が入り込んでいた。
卓上に広げられた地図には、両軍の配置を示す駒が並んでいる。
リービッヒ軍は予想どおりコスタ平原の奥深くまで進軍しており、その退路を遮断するための部隊も、すでに所定の位置についていた。各地に分散させていた兵力を一斉に動かせば、敵軍を広大な包囲網の中に閉じ込めることができる。
ルートビッヒは地図を一通り確認すると、静かに口を開いた。
「始めよう」
その命令を合図に、それまでリービッヒ軍との決戦を避け続けていたレミーラ軍が、一斉に行動を開始した。
* * *
一方、リービッヒ軍第七師団。
「敵襲!」
その報せが飛び込んできたのは、アムルたちが次の行動について協議している最中だった。
広げていた地図から顔を上げたアムルは、駆け込んできた伝令に問いかけた。
「どこだ?」
「第三師団のギルフォード将軍より伝令です。西にレミーラ軍およそ一個師団弱! すでに第三師団が交戦に入りました! 第七師団も注意されたしとのことです!」
「西か……」
アムルは地図へ目を戻し、第三師団の位置を確認した。
レミーラ軍の動きがおかしいことには、以前から気づいていた。
敵はここしばらく決戦を避けるように後退を繰り返しており、その一方で小規模な部隊が各地で確認されていた。まるでリービッヒ軍の進軍を誘導しているかのような動きであり、アムルはその意図を警戒していたのである。
もちろん、ただ手をこまねいていたわけではない。偵察を増やすとともに、第三、第五師団との連絡を密にし、本営にも敵の動向に注意するよう具申していた。不測の事態に備えて可能な限りの準備は進めていたが、それでも敵の狙いを完全には掴めていなかった。
「大将」
ロックが険しい顔で呼びかける。
「どうする?」
「まだ動かない。まず敵の数を確認して、それから――」
「伝令!」
アムルの言葉を遮るように、別の兵士が陣幕へ駆け込んできた。
「第五師団パウロ将軍からです。東から敵襲! リース攻略に向けて渡河した第四、第六師団も交戦中! 至急来援を請うとのことです!」
「東と北も?」
ヴァンが地図を覗き込んだ。
「アムル。これは――」
「まだ分かりません」
アムルはそう答えながら、地図上の駒を動かした。
西の第三師団だけでなく、東の第五師団、さらに北方へ進出した第四、第六師団までが同時に攻撃を受けている。
これほど広い範囲で、偶然戦闘が始まるはずがなかった。
「エヴァンス様より伝令!」
今度は第七師団の前方に展開していたエヴァンス隊からだった。
「エヴァンス隊、南西方向で敵部隊と接触! いったん後退します!」
「……南西もか」
ロックの表情から余裕が消えた。
アムルは返事をせず、地図上に示された各師団の位置と、報告された敵軍の動きを照らし合わせていた。
リービッヒ軍は西、東、北の三方向から攻撃を受け、さらに第七師団の南西にも敵が現れている。これが計画的な攻撃だとすれば、敵の狙いは単なる局地的な勝利ではない。
そのとき、四人目の伝令が陣幕へ飛び込んできた。
「鉄騎兵!」
兵士は息を切らしながら報告を続けた。
「南西の敵、鉄騎兵と確認! 数、不明! こちらへ向かってきます!」
アムルの指が止まった。
ヴァンも何も言わず、地図を見つめている。
「ちっ……そういうことかよ」
ロックが舌打ちした。
アムルにも、ようやく敵の意図が見えてきた。
レミーラ軍が後退を繰り返していたのは、兵力が不足していたからではない。各地で確認されていた小部隊も、単に偵察や警戒を行っていたわけではなかったのだろう。
こちらが攻勢を続けても決戦を避け、リービッヒ軍をコスタ平原の奥深くまで引き込んだ理由が、今になって一つにつながった。
「……やられたな」
アムルが地図を見つめたまま呟くと、ヴァンも険しい表情で頷いた。
「包囲される可能性が高いね」
「ああ。それも俺たちだけじゃない」
これほど広い範囲で同時に攻撃が始まっている以上、敵が第七師団だけを狙っているとは考えにくい。各地に散らばったリービッヒ軍をまとめて包囲し、一挙に撃破するつもりなのだろう。
アムルは地図上に配置された友軍の駒を見渡した。
「たぶん、俺たち全員、まとめて葬り去る気だ」
その言葉に、陣幕の中が静まり返った。
ロックは腕を組み、しばらく地図を眺めてから口を開いた。
「で、どうする?」
「それを今、考えてる」
アムルは地図を睨んだ。
敵の狙いは見えてきたが、実際に包囲が完成しているかどうかは分からない。敵がどこまで回り込んでいるのか、各方面にどれほどの兵力を配置しているのかも不明だった。
ただ、こちらが広げた哨戒網の外側から大きく迂回してきた以上、敵の継戦能力にも限界があるはずだった。もし包囲網に薄い場所があれば、そこへ戦力を集中させて突破することもできる。
また、本営が状況を把握して救援に向かえば、背後へ回り込んだ敵を逆に挟撃することも不可能ではない。
問題は、先行している友軍をどうするかだった。
第七師団だけならば身軽に動けるが、第三、第五師団を置き去りにすれば、敵に各個撃破の機会を与えることになる。かといって、敵の配置も分からないまま救援へ向かえば、第七師団まで包囲の中へ引きずり込まれかねなかった。
アムルはしばらく考えた後、顔を上げた。
「各師団との連絡を維持して。特にパウロ将軍とギルフォード将軍には、敵の数と位置を確認してもらいたい。それから本営にも現在の状況を報告して、至急対応を求める」
「分かった」
「南西の鉄騎兵についても規模を確認する。ただし、まだ戦うな。エヴァにもそう伝えて」
「了解!」
命令を受けた伝令たちが陣幕を飛び出していく。
敵の狙いが分かった以上、あとはその動きにどう対処するかだった。まだ包囲を突破する方法はあるし、友軍との連携が取れれば、状況を立て直すこともできる。
少なくとも、アムルはそう考えていた。
しかし、その考えをまとめ終えるよりも早く、南西から低く重い音が響いてきた。
無数の蹄が地面を踏み鳴らす音に続き、兵士たちの鬨の声が上がる。
「……戦ってる?」
アムルが顔を上げたところへ、再び伝令が駆け込んできた。
「ギュンター様の部隊が鉄騎兵と交戦に入りました!」
「は?」
予想外の報告に、アムルは一瞬言葉を失った。
「誰が攻撃しろって言った?」
「それが……包囲が完成する前に敵を突破すると……!」
「馬鹿!」
思わず地図を叩いた。
「まだ敵の配置も分かってないんだぞ!」
しかし、すでに戦闘は始まっており、南西から聞こえてくる音は激しさを増していた。
包囲されるという恐怖に駆られたギュンターの判断そのものは、理解できないわけではない。敵の包囲網が完成する前に、その一角を突破して退路を確保するという考え方は、理屈として間違っていなかった。
ただし、それは突破する相手を選べる場合の話である。
「よりによって鉄騎兵に突っ込む奴があるかよ……!」
アムルは陣幕を飛び出し、ロックとヴァンもその後を追った。
南西の平原では、すでに激しい戦闘が繰り広げられていた。
黒塗りの鎧に身を固めた騎兵たちが、ギュンターの部隊へ食らいついている。その動きは遠目にも際立っており、騎兵の集団が敵の隊列を切り裂くたびに、リービッヒ軍の兵士たちが次々と倒れていった。
「嫌な光景だ。よりによって鉄騎兵か……」
レミーラ帝国東部辺境軍の中核をなす精鋭部隊、鉄騎兵。
リービッヒでも都市同盟でも、その名を知らぬ者はいない。数々の戦場で敵軍を打ち破ってきた彼らの実力は広く知られていたが、実際に戦う姿を見れば、その悪名が誇張ではないことはすぐに分かった。
何よりも速く、そして強い。
ギュンター隊が態勢を整えるよりも早く側面へ回り込み、隊列が崩れた場所へ容赦なく突撃を重ねている。味方が立て直そうとすれば、その隙を与えずに次の攻撃を仕掛け、後退する兵士がいれば逃さず追撃した。
その猛攻の前に、ギュンター隊の隊列は見る間に崩れていった。
「大将!」
ロックが叫んだ。
「ギュンターのところ、もたねえぞ!」
「分かってる!」
アムルは戦場を見つめながら、救援に向かうべきか判断を迫られていた。
ここで新たな兵力を投入すれば、第七師団の損害も大きくなる。かといって、このまま放置すればギュンター隊が壊滅するのは時間の問題だった。
「エヴァは!?」
「後退中だ!」
「戻せ! ギュンター隊を引き剥がす!」
「しかし――」
「このままじゃ全滅する!」
アムルの命令はすぐに伝えられ、南西から後退していたエヴァンス隊が反転した。
エヴァンスは部隊を率いると、ギュンター隊へ攻撃を続けていた鉄騎兵の側面に向けて突入した。
激しい衝突とともに、それまで一方的にギュンター隊を押し込んでいた鉄騎兵の進撃が、わずかに止まった。
エヴァンスはその機会を逃さず、さらに前へ出た。
烈火。
その異名に恥じぬ激しい攻撃で鉄騎兵を押し返すと、ギュンター隊との間に強引に割って入り、敵の攻勢を食い止めた。
「今だ! ギュンター隊を下がらせろ!」
エヴァンスの命令を受け、崩れかけていたギュンター隊が後退を始めた。
ひとまず救出には成功したものの、鉄騎兵も容易には逃がしてくれなかった。エヴァンス隊が後退に転じると、すぐさま一団の騎兵が追撃に移り、執拗に攻撃を仕掛けてきた。
「しつこいな……」
アムルは敵の動きを注意深く観察していた。
特に気になったのは、鉄騎兵の先頭に立つ一人の武将だった。
その武将は常に部隊の先頭に立ち、エヴァンス隊が後退すれば猛烈な勢いで追撃してくる。反撃を受けるといったん距離を取るものの、こちらが再び下がり始めると、間髪入れずに攻撃を仕掛けてきた。
とにかく前へ出ることを好む武将らしい。
しかも、その攻撃は強力だった。
エヴァンスも巧みに部隊を指揮して応戦しているが、なかなか相手を振り切ることができずにいた。
「……あいつ」
「どうした、大将?」
「いや」
アムルは目を細めた。
「よく追う奴だなと思って」
「感心してる場合か!」
「感心してないよ」
そう答えながらも、アムルはその武将の動きをしばらく目で追っていた。
やがて、鉄騎兵の追撃が止まった。
上官から命令でもあったのだろう。先頭の武将はなおも追撃を続けたそうな様子だったが、最終的には部隊をまとめ、戦場の奥へと引き返していった。
アムルはその後ろ姿を見送りながら、小さく呟いた。
「……追うんだな」
「何が?」
ヴァンが尋ねると、アムルは首を振った。
「いや。なんでもありません」
ほどなくして、エヴァンス隊が帰還した。
ギュンター隊の救出には成功したものの、その代償は決して小さくなかった。出撃時と比べて兵の列は明らかに薄くなっており、帰還した者たちの中にも多くの負傷者がいた。
馬を失い、仲間の肩を借りながら歩いてくる兵士の姿もある。
アムルは帰還したエヴァンスを迎えた。
「損害は?」
「……軽くはありません」
「そうか」
アムルはそれ以上、詳しい報告を求めなかった。
兵士たちの様子を見れば、どれほど激しい戦闘だったのかは十分に分かる。
西では第三師団が、東では第五師団が、そして北では第四、第六師団が戦闘を続けている。さらに第七師団の南西には鉄騎兵が展開しており、こちらも戦端を開いたばかりだというのに、すでに少なくない損害を出していた。
各師団と連絡を取り、敵の配置を確認したうえで、包囲網の薄い場所を探して突破する。
それが、つい先ほどまでアムルが考えていた方針だった。
しかし、敵はその準備が整うまで待ってはくれない。
ギュンター隊の独断による攻撃は、そのことを改めて思い知らされる出来事だった。包囲されるという恐怖が兵士たちの間に広がれば、同じような事態が各地で起こるかもしれない。
そうなれば、各師団が足並みを揃えて行動することなど不可能になる。
アムルは陣幕へ戻ると、再び地図を広げた。
先ほどとは異なり、いつまでも敵の情報を待っている余裕はない。これ以上この場所に留まれば、敵の包囲網が狭まり、第七師団の行動できる範囲も限られてしまうだろう。
しばらく地図を見つめていたアムルに、ヴァンが声をかけた。
「さて、アムル。どうするかい?」
「……うん」
アムルは地図の南東部に広がる森へ指を置いた。
「撤退する」
ロックがアムルを見た。
「いいのか?」
「よくないよ」
アムルは即答した。
「でも、ここにいたらもっと悪くなる」
第七師団はまだ組織的に行動できる状態にあり、今ならば戦場を離脱することも可能だった。これ以上損害を増やす前に、敵の攻撃を受けにくい場所へ移動する必要がある。
特に問題なのは南西に展開する鉄騎兵だった。
平原に留まり続ければ、機動力に優れた彼らに追撃される危険がある。先ほどの戦闘で、その恐ろしさは嫌というほど思い知らされていた。
「南東の森へ入る」
ヴァンは地図に目を落とした。
「鉄騎兵を振り切るつもりかい?」
「平地であいつらと追いかけっこなんてしたくないですから」
アムルは地図上に置かれた第七師団の駒を掴み、南東の森の中へ移した。
森に入れば鉄騎兵の機動力は大きく制限される。追撃を振り切ることができれば、部隊を立て直す時間も得られるはずだった。
もっとも、第七師団だけが逃げ延びたところで意味はない。先行している友軍にも、できる限り早く敵の包囲網から離脱してもらわなければならなかった。
「全軍撤退」
アムルは周囲を見渡した。
「南東の森へ逃げるぞ。第三、第五師団にも伝令を飛ばせ。即時撤退だ。街道沿いに逃げるな。俺たち第七師団の後を追って森に逃げろ。このままじゃ袋叩きにされるぞ」
命令を受けた将校たちはすぐに行動を開始し、各部隊への撤退指示と、友軍への伝令が次々に送り出された。
ほどなくして、第七師団は隊列を整え、南東部の森へ向かって後退を開始した。
この戦役が始まって以来、アムルが本格的な撤退を命じたのは初めてのことだった。
そして、同じような事態は第七師団だけでなく、各地に展開するリービッヒ軍でも起こり始めていた。
勝利を疑わず、レミーラ領の奥深くまで進撃してきたリービッヒ軍。しかし、彼らが敵を追い詰めていたと思っていた戦況は、実際にはまったく逆だった。
レミーラ軍は敗走していたのではない。
リービッヒ軍を、あらかじめ準備した戦場へ誘い込んでいたのである。
第三次コスタ戦役。
それまで攻める側だったリービッヒ軍は、この日を境に追われる側となった。
戦いの主導権は、完全にレミーラ軍へと移ろうとしていた。




