第23話 戦役の終わり
第二十三話 撤退
「偽情報だろうな。小賢しい手を……」
ルートビッヒ=シュナイダーは、手元の報告書を机へ放った。
レミーラ皇帝の容態が思わしくない。
そんな噂が東部辺境領の各地で急速に広がっている。
出所を辿ればコロール諸島の港。
そこから商人たちの口を伝い、いつの間にかケルンやリースにまで入り込んでいた。
あまりにも分かりやすい。
「アムル=ドゥットゥカースでしょうか?」
ホフマンの問いに、ルートビッヒは頷いた。
「おそらくな。正面から崩せぬなら、こちらの足元を掻き回す。実にあの男らしい」
皇帝の病状については、帝都にいた頃から多少の噂はあった。
だからこそ利用したのだろう。
完全な嘘よりも、少しばかり事実が混じっていた方が人は信じる。
「いっそのこと、別動隊をもって敵首都を急襲してはどうだ?」
紅竜騎兵団団長のハイファが提案した。
「ふむ」
ルートビッヒは地図を見る。
「悪くない。攻囲戦に諸将も飽きていたところだろう」
ノースジョウにパドゥーラ回廊。
地形を利用して守るリービッヒ軍に対し、こちらは圧倒的な兵力を十分に活かせない。
敵将モンドが引き締めたとはいえ、首都では不安が再度広がりはじめている。
今、急襲すれば混乱が広がる可能性は高い。
「門を閉じて守られば別動隊の兵力ではおとせないがな」
「しかし、検討の余地はある」
ルートビッヒが薄く笑った。
そのときだった。
「殿下!」
幕舎の外から慌ただしい声が響いた。
「マリー様より急報でございます!」
「マリーから?」
ルートビッヒが眉をひそめる。
「一体なんだ?」
伝令から封書を受け取る。
封を切った。
読む。
「…………」
ルートビッヒの表情が消えた。
「殿下?」
ホフマンが声をかける。
返事はない。
もう一度、最初から文面を読む。
そして。
「……撤退だ」
押し殺した声だった。
「は?」
「全軍、撤退する」
諸将がざわめいた。
ルートビッヒは手紙を差し出す。
「読め」
一人が受け取った。
文面へ目を落とす。
皇帝陛下崩御。
その一言をみた顔から血の気が引いた。
「これは……」
隣の将へ渡す。
さらに次へ。
読んだ者から、次々と表情が青ざめていった。
つい先ほどまで話していた別動隊よる敵首都急襲など、もはや問題ではなかった。
「今のところ、敵は我々を追ってくる気はない」
ルートビッヒが静かに言った。
「だが、本当のことが伝われば必ず追撃してくる。そうなっては我々の被害は計り知れん」
レミーラ軍は敵国深くまで侵入している。
補給線は長い。
そして既に、アムルの工作と散発的な襲撃によって、その補給には小さな綻びが生まれている。
撤退中に数万の敵軍から追撃を受ければ、何が起こるか分からない。
「ただ――」
ルートビッヒは地図へ目を落とした。
「敵は自分たちで流した偽情報によって、今のところ動く気はない」
皮肉な話だった。
アムルは皇帝に関する噂を利用した。
そして、その噂が偽情報だとレミーラ側に思わせることにも成功した。
だからこそ今、本物の情報まで偽物に見える。
「我々が引けば、奴らはほくそ笑むことだろう」
ルートビッヒの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「自分たちの工作で我々が撤退した。あるいは、回廊から誘い出すための策だと思うはずだ」
「それを逆手に取る、と」
「ああ」
ルートビッヒは頷いた。
「どのみち奴らに大規模な反撃を行う余力はない。粛々と後退すればいい」
諸将を見回す。
「各軍に伝えよ。撤退する」
◇
撤退命令は、パドゥーラ回廊前面に布陣していた帝国中央軍三個師団にも届けられた。
アシュート。
シノップ。
ゴルダ。
三人は命令を受けると、直ちに撤退準備に入った。
最初は、統制された後退だった。
部隊ごとに順序を決め、輜重隊を先行させ、後衛を残す。
敵に隙を見せぬよう、慎重に北へ下がる。
だが、日が経つにつれて様子が変わった。
皇帝崩御後に後継者争いが激化している。
自身の家門が所属派閥を変えた。
新しい話が次々と流れ込んでくる。
彼らは同じ派閥に属してはいない。自身の家をより優位な立場とするために一刻でも早く帝都へ。
「速度を上げろ!」
命令が飛ぶ。
行軍速度が上がる。
遅れた部隊がさらに急ぐ。
輜重隊まで引きずられる。
それはまだ敗走ではない。
だが、遠目から見ればそう見えても不思議ではないほど、三個師団は急速に北へ移動し始めていた。
◇
「動きました」
報告を受けたジョン=ブランは、すぐに地図を広げた。
隣ではシェ=ウィンクが報告書に目を通している。
「三個師団ともです。しかも、かなり速い」
「そうか」
ジョン=ブランは驚かなかった。
地図上のコスタを見る。
以前、アムルから受けた命令は単純なものだった。
――レミーラ軍が敗走を始めたら、コスタを攻撃しろ。
理由について、アムルはそれほど詳しく説明しなかった。
だが、今なら分かる。
レミーラ軍が急速に離脱すれば、南部戦線に空白が生まれる。
「伯爵の言った通りになりましたな」
シェ=ウィンクが言った。
「少し違うかもしれん」
ジョンは首を振った。
「どういうことで?」
「アムル殿は『敗走を始めたら』と言った。あれが本当に敗走なのかは分からん」
「では?」
「どちらでもいい」
ジョン=ブランは立ち上がった。
「条件は満たされた」
指がコスタを叩く。
「取るぞ」
命令は直ちに発せられた。
ジョン=ブランとシェ=ウィンクの一団が、一斉にコスタへ向けて動き始める。
三個師団の急速な後退によって、これまでコスタ周辺に加えられていたレミーラ軍の圧力は消えていた。
その空白へ、ジョン=ブランは躊躇なく兵を送り込んだ。
攻撃は早かった。
守備側が状況を把握し、体勢を立て直すより早く攻め立てる。
そして――。
コスタは陥落した。
◇
「殿下! 急報です!」
北へ後退を続けていたルートビッヒのもとへ、その報告が届いた。
「何だ?」
「コスタが陥落しました!」
「何?」
さすがのルートビッヒも顔を上げた。
幕舎がざわめく。
「もうですか!?」
「早すぎる!」
「我々が撤退を始めて、まだどれほども経っていないぞ」
一人の将が地図を見ながら声を上げる。
「アムル=ドゥットゥカースは、一体何を仕込んでいたのだ?」
「どういう魔法だ……」
だが、ルートビッヒは答えなかった。
地図を見る。
コスタ。
ライプニッツ。
パドゥーラ。
そして、北へ急速に後退している帝国中央軍三個師団。
「……違うな」
「殿下?」
「魔法ではない」
ルートビッヒは地図上のコスタを指した。
「おそらくコスタを落とした敵将には、事前に命令が出ていた」
「命令?」
「我々が崩れたら、コスタを攻めろ――その程度だろう」
ホフマンが地図を見る。
「そこへ今回の中央の三師団の撤退が重なった」
「ああ」
ルートビッヒは頷いた。
「中央の三個師団は予想以上の速度で後退した。敵はそれを敗走と判断したのだろう。あらかじめ受けていた命令通りに動いた。同時にコスタの守備も中央の三師団敗走を撤退とみて混乱した。」
「偶然が重なっただけ、と?」
「そういうことだ」
アムルが今回の撤退まで予測していたわけではない。
もし分かっていたなら、三日も追撃を始めないはずがない。
「未来が見えるわけでもあるまい」
ルートビッヒは鼻で笑った。
「奴も読み違えた。ただ、読み違えた時のために別の手を置いていただけだ」
そのとき。
再び伝令が飛び込んできた。
「殿下!」
「今度は何だ?」
「リービッヒ軍が追撃を開始しました!」
ルートビッヒの目が細くなる。
「規模は?」
「複数方面からです! モンド=ドゥットゥカース麾下の部隊が北進! さらにパドゥーラ方面からもアムル=ドゥットゥカースが兵を率いております!」
「……気づいたか」
ルートビッヒが小さく呟いた。
三日。
稼げた時間はそれだけだった。
だが十分でもあった。
レミーラ軍主力は既に大きく後退している。
今からで届くはずはない。
「コスタを奪還しますか?」
諸将の一人が尋ねた。
ルートビッヒは答えず、地図を眺めた。
コスタの敵兵、モンド、アムル。
合わせれば数万の追撃軍となる。
コスタを攻めれば足が止まる。
その状態で背後から追いつかれれば、今度は自分たちが包囲されかねない。
「……無理だな」
ルートビッヒは即答した。
「コスタを相手にしながら、数万の追撃部隊まで引き受けることはできん」
「では……」
「コスタは捨てる」
悔しくないわけではない。
だが都市一つに執着して全軍を危険に晒すほど、ルートビッヒは愚かではなかった。
「リースまで後退する」
「承知しました」
「戦闘は避けろ。後衛で追撃を牽制しながら主力を下げる。足を止めるな」
命令が各軍へ飛んだ。
そして、南部でも戦況は一気に動いた。
コスタが落ちた。
帝国中央軍三個師団が北へ去った。
さらにモンドとアムルの軍勢が追撃を開始した。
その知らせを受けたライプニッツのレミーラ守備部隊は、孤立を恐れた。
援軍は来ない。
このまま留まれば退路を断たれる。
守備隊はライプニッツを放棄した。
北へ向かって敗走する。
こうしてライプニッツも、レミーラの手を離れた。
ルートビッヒは報告を聞き、地図上のコスタとライプニッツをしばらく眺めていた。
「……高くついたな」
ホフマンが何も言わず隣に立つ。
「だが、ここで欲を出せばもっと高くつく」
ルートビッヒはリースを指した。
「戻るぞ」
◇
レミーラ軍は後退を続けた。
モンドとアムルも追った。
だが、三日の差は大きい。
レミーラ軍は後衛を巧みに使い、追撃を牽制しながら北へ下がった。
やがてルートビッヒの軍勢はリースへ到達する。
アムルもそれ以上の追撃は命じなかった。
敵は既に体勢を整えつつある。
ここから先まで深追いすれば、今度はこちらが危険になる。
コスタは取った。
ライプニッツも戻った。
ならば十分だった。
長かった戦いが、ようやく終わろうとしていた。
◇
リースの城壁。
ルートビッヒは一人、南の空を眺めていた。
今回の作戦で、リービッヒ王国の息の根を止め切ることはできなかった。
あと少しだった。
もう少しだけ時間があれば。
そう悔やまないわけではない。
帝国中央から三個師団もの増援を与えられた。
補給物資も潤沢だった。
兵站を担当する官僚まで派遣された。
これ以上ないほど恵まれた条件だった。
そして実際、リービッヒ軍主力を包囲殲滅し、その大半を失わせた。
王国の軍事力に対して、再生不可能に近いほどの打撃を与えた。
それでも。
リービッヒは生き残った。
「……あと少しだったな」
誰に聞かせるでもなく、ルートビッヒは呟いた。
だが、その「あと少し」を許さなかった者たちがいる。
モンド=ドゥットゥカース。
そして、その息子。
アムル=ドゥットゥカース。
今回ばかりは、あの親子の働きを賞賛するべきなのだろう。
モンドは崩壊寸前の王国軍を立て直し、最後までリービッヒを支え続けた。
アムルは包囲殲滅戦から味方を逃がした。
三万の敗残兵をリューザスへまとめ上げ、二か月もの間、自分たちを足止めした。
そして最後にはパドゥーラまで守り切った。
今回の撤退でもそうだ。
アムルは読み違えた。
自ら流した偽情報に惑わされ、こちらの撤退に気づくのが三日遅れた。
コスタの陥落にしても、すべてを読み切っていたわけではない。
中央の三個師団が崩れた場合に備え、ジョン=ブランにあらかじめ命令を与えていた。
そこへ今回の撤退が偶然重なっただけだ。
魔法ではない。
未来が見えているわけでもない。
アムル=ドゥットゥカースも間違える。
読み違える。
失敗する。
だが――。
失敗した後が、あまりにも速い。
間違いに気づけば、すぐに次の手を打つ。
失ったものを数えるより先に、残されたもので何ができるかを考える。
そして、そのための準備を戦いが始まる前からいくつも置いている。
「……厄介な男だ」
ルートビッヒは小さく笑った。
だが、アムル一人ではない。
モンドもいる。
今回、リービッヒが滅亡を免れた理由を突き詰めれば、結局そこへ行き着く。
モンドとアムル。
二人のどちらかが欠けていれば、この国は今回の戦争を生き延びることができなかっただろう。
優れた将を二人も持つ。
国家にとって、それは幸運なことである。
しかし。
彼らの有能さが、彼ら自身の幸せを保証するわけではない。
今回もモンドだった。
今回もアムルだった。
そして次も、おそらく彼らなのだろう。
リービッヒには、彼らしかいない。
国が危機に陥るたび、モンドが戦う。
それでも足りなければ、アムルが戦う。
二人が支え、二人が傷つくことでしか、この国は生き延びられない。
有能であるから頼られる。
頼られるから逃げられない。
そして国を救えば救うほど、次もまた救うことを求められる。
それがいつの日か、あの親子自身を苦しめる。
ルートビッヒは暗黙のうちに、それを理解していた。
西の空は、すでに夕暮れに染まっていた。
今回、リービッヒ王国の息の根を止めることはできなかった。
ならば、それでいい。
次がある。
ルートビッヒは南に背を向けた。
こうして――後に第三次コスタ戦役といわれるレミーラ帝国とリービッヒ王国の戦いは終わった。
第三次コスタ戦役編終了しました。
しばらく余話が続きます。




