第3話 パドゥーラのアムル(後)
◇
数日後。
出征準備のため、アムルたちはパドゥーラへと戻ってきていた。
「やっと戻ってこれた」
馬を門近くの衛兵に渡し、パドゥーラの街へ足を踏み入れたところで、アムルは大きく息を吐いた。
「そうだね」
馬を降り、隣を歩くエルも、どこかほっとしたように答える。
アムルは立ち止まり、通りを見渡した。
大通りには荷車が行き交い、その脇を商人や職人、買い物帰りの住民たちが歩いている。
軒先からは客を呼び込む商人の声が響き、荷車には郊外から運び込まれた野菜や穀物が山と積まれていた。
遠くからは金属を打つ音まで聞こえてくる。
「……ずいぶんマシになったな」
「そうだね。三年前は人通りなんて全然なかったからね」
「ああ」
アムルは苦笑する。
「周辺には統治に反抗的な有力者だらけ、お金はないし……」
「農業改革、灌漑事業、学校制度設立、いろいろやったね」
「シュバルツ商会に五千万ドゥエル借りに行った時なんて、ひどいもんだった」
「あの時はティーエも大変そうだったね」
「俺だって大変だったよ。五千万だぞ、五千万。返せる保証なんてどこにもなかったんだから。失敗したら都市同盟に夜逃げでもしようと思ったよ」
今だからこそ笑って話せる。
だが事実として3年前は、領内を立て直すための金すらなかった。
農地を整えるにも金がいる。
水路を引くにも金がいる。
兵を養うにも、商人を呼び戻すにも、何をするにも金が必要だった。
その金がないところから、すべてが始まったのである。
「でも」
エルが通りを眺めながら微笑んだ。
「いまはみんな協力してくれている」
「そうだな」
かつて自分たちを警戒していた者たちもいる。
露骨に反発していた者もいる。
それぞれ立場も違えば、考えていることも違う。
それでも少しずつ話し合い、利害を調整し、できることを一つずつ積み重ねてきた。
気がつけば、三年が経っていた。
「あっ!」
通りの向こうから声が上がった。
「エル様!」
その声を皮切りに、何人もの住民がエルに気づく。
「エル様、お帰りなさい!」
「お帰りなさい、エル様!」
エルは嬉しそうに笑った。
「ただいま」
「あれ?」
一人の住民が、ようやく隣に立っている男に気づいた。
「アム様も?」
「……俺もいるよ」
「あまりにも存在感がなくて気が付かなかった。エル様の邪魔ばかりしてないでくださいね」
「…………」
アムルは黙った。
エルが隣でくすくす笑っている。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
「なんて領民たちだ……いつか重税を課してやる」
領主として精一杯の脅しを口にしてみる。
だがエルは何でもないことのように答えた。
「でも、来月からティーエが酒税は下げるって言ってた」
住民たちから歓声が上がった。
置いてきぼりをくらったアムルは、しばらく何も言えなかった。
「……もういい」
肩を落とす領主を見て、住民たちから笑い声が上がる。
「アム様、そんなにめげないでくださいよ」
一人の男が店先から声をかけた。
「今日は良いのが入ったんでねぇ」
そう言って差し出されたのは、パクーと呼ばれる大きな魚だった。
まだ瑞々しい銀色の鱗が陽光を反射している。
「チル湖の朝獲れですよ。持ってってください」
「パクーだぞ、いいのか?」
途端にアムルの顔が明るくなる。
「どうせいつも釣れてないでしょ?」
「…………」
再び沈黙した。
周囲からまた笑い声が起こる。
「いや、釣れてるからな?」
「そうなんですか?」
「釣れてるよ。たまには」
「たまにじゃないですか」
「うるさいな。そもそもパクーなんてめったに釣れないだろ。俺が下手なわけじゃない」
文句を言いながらも、アムルは魚を受け取った。
「まあ、ありがたくもらっとくよ」
「エル様と食べてくださいな」
「ありがとう」
エルが頭を下げる。
アムルも魚を抱えたまま軽く手を上げた。
その時だった。
「あんたら」
聞き覚えのある声がした。
二人が振り返る。
そこには腕を組んだリオが立っていた。
「遊んでないで。もうみんな庁舎に集まってる」
「遊んでない」
アムルは即座に反論した。
「領民との大切な交流だ」
リオの視線が、アムルの抱えている魚へ落ちる。
「魚もらって?」
「これも交流だ」
「どうせいつも釣れてないから貰ったんでしょ?」
「……なんでみんな同じこと言うんだよ」
エルがまた笑った。
リオは呆れたように息を吐く。
「はいはい。交流はもう十分でしょ。出征するんだから、話すことはいくらでもあるの」
「わかったよ」
アムルは魚を抱え直した。
「行こう、エル」
「うん」
二人はリオに急かされながら庁舎へと歩き出す。
その背中へ、再び住民たちの声が飛んだ。
「エル様、またね!」
「アム様も頑張ってくださいよ!」
「『も』ってなんだよ、『も』って!」
振り返って文句を言うアムルの横で、エルは楽しそうに笑っていた。
三年前にはなかった喧騒が、今日もパドゥーラの通りを満たしていた。
◇
パドゥーラ庁舎。
会議室へ入ると、すでに主だった面々は席についていた。
「遅い」
開口一番、リオが言った。
「だから遊んでたわけじゃないって」
「魚まで抱えて?」
「これは領民との交流の成果だ」
「どうせ釣れなかったから貰ったんでしょ?」
「……なんで知ってるんだよ」
リオは呆れたように肩をすくめた。
「はいはい。交流の成果はあとで食べればいいから、さっさと始めるわよ」
促されるまま、アムルは席についた。
エルもその隣へ座る。
室内にはヴァン、ロック、エヴァ、ティーエ、グランワルド、そしてリオ。
現在のパドゥーラを支える面々が一堂に会していた。
「じゃあ、始めようか」
アムルは机の上に地図を広げた。
「まず兵力だけど、パドゥーラからは五千を出す」
「五千か」
ロックが腕を組む。
「パドゥーラ伯軍の半数だな。そこまで引っこ抜かれると守備に不安が残る。なんせここは都市同盟の最前線だ」
パドゥーラ伯軍の総兵力はおよそ一万。
その半数を一度に領外へ出すとなれば、当然ながら残された領地の防備は薄くなる。
だが、ヴァンは静かに首を振った。
「都市同盟の侵攻確率は低い」
全員の視線がヴァンへ向く。
「隣接するセイレンのロスバルトは、第三から第六戦隊がゼルキア方面に出征中だ。ユマ=リズナーも現在セイレンにはいない。少なくとも、こちらへ大規模な軍事行動を起こせる状態ではないだろう」
「なるほど」
アムルは地図上のセイレンへ視線を落とした。
「では、当面の心配はなさそうですね」
「油断はできないけどね」
「もちろんです」
アムルは頷き、今度はティーエを見る。
「ティーエ。兵糧は?」
「十二分に確保してあるよ」
ティーエは即答した。
「農業生産は順調すぎるほど順調だからね。一万程度であれば、一年は問題なく食べさせられる」
「一年か」
アムルは小さく息を吐いた。
かつては自分たちの食い扶持さえ心配していた土地である。
それが今では、一万の兵を一年養えるだけの食糧を蓄えられるようになっていた。
「とりあえずは出られるか」
「少なくとも、兵糧の心配はしなくていいよ」
「それを聞けただけでも安心した」
つい先ほどまで、敵地で物資を奪えばよいなどという話を聞かされていたばかりである。
食わせるものがある。
その当たり前の事実が、今のアムルには何よりありがたかった。
「それで、今回の第七師団だけど」
アムルは話を戻した。
「パドゥーラから五千。それに六諸侯の兵五千を加える。合わせて一万。寄せ集めだけど、一応これで一個師団ということらしい」
「六諸侯か」
ロックが露骨に嫌そうな顔をする。
「面倒くせえな」
「俺もそう思う」
「お前が言うな。まとめるのはお前だぞ、大将」
「だから嫌なんだよ」
アムルはため息をついた。
自分の兵だけならまだしも、指揮系統も練度も異なる諸侯軍をまとめて一個師団として動かさなければならない。
しかも、その任務はラレド侯率いる第五師団とともにライプニッツへ向かい、敵軍を挟撃することだった。
「それで、こっちから出る人間だけど」
アムルは室内を見渡した。
「俺とヴァン先生、ロック、それからエヴァ。この四人で行く」
「了解した」
「おう」
ヴァンとロックがそれぞれ応じ、エヴァも頷く。
すると、隣に座っていたエルが小さく手を上げた。
「私も行こうか?」
「危ないからダメ」
間髪入れずにアムルが答えた。
エルは目を瞬かせる。
「……そういう問題?」
「そういう問題だろ」
「違うと思うけど」
「危ないところに行くんだから危ないだろ」
「アムも行くよ?」
「俺はいいんだよ」
「なんで?」
「なんでって……」
「ボクはエルには残ってもらったほうがいいと思うよ」
不毛になりかけた二人の会話へ、ティーエが割って入った。
「アムルがいない間のパドゥーラ行政は、エルが決裁しないと回らないからね。五千の兵を出す以上、こっちだって普段通りとはいかない。残ってくれたほうが助かる」
「俺もそう思う」
アムルが即座に乗っかる。
エルがじっとアムルを見た。
「さっきと理由が違うよ?」
「結論は同じだ」
「そういう問題?」
「そういう問題だ」
今度はアムルが言い切った。
ティーエが苦笑する。
エルはしばらく不満そうにアムルを見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「わかった。じゃあ私は残る」
「うん。それがいい」
「アムがいない間は私がやればいいんだよね?」
「ああ。頼む」
先ほどまでとは違い、アムルは迷わず答えた。
自分がいない間、誰にパドゥーラを任せるのか。
そんなことは考えるまでもなかった。
「では、留守中は私がエル様を補佐いたしましょう」
グランワルドが静かに口を開いた。
「そうだな。武官全員で行くわけにもいかないからな」
アムルは頷く。
「グランワルドにエルの補佐をしてもらえれば万全だな」
「お任せください」
「あとリオ」
「なに?」
「君も残って外部折衝を頼む。取引だなんだ、話し合うことはたくさんあるだろうし」
「わかったわ。そっちは任せて」
「頼む」
これで決まった。
アムル、ヴァン、ロック、エヴァが戦場へ向かう。
エル、ティーエ、グランワルド、リオがパドゥーラに残る。
五千の兵を失う以上、決して余裕があるわけではない。
それでも三年前とは違う。
アムルがいなくとも、パドゥーラは動く。
エルが決裁し、ティーエが財政と兵站を支え、グランワルドが軍事面から補佐し、リオが外との交渉を担う。
ようやく、そこまで来たのだ。
「よし」
アムルは地図を畳んだ。
「じゃあ、準備が整いパウロたち第5師団が通過次第出発する。俺たちの留守は頼んだ」
「うん」
エルが頷く。
「こっちは任せて」
「ああ。任せた」
アムルも笑った。
◇
数日後。
パドゥーラ城門前には、出征を控えた兵たちが整列していた。
槍が並び、軍旗が朝の風にはためく。
荷馬車には兵糧や武具が積み込まれ、最後の確認をする兵たちの声があちこちから聞こえていた。
これより北上し、ラレド侯パウロ率いる第五師団と合流する。
その先に何が待っているのか。
アムル自身にもわからなかった。
「じゃあ、行ってくる」
馬の手綱を握ったアムルが振り返る。
そこにはエルが立っていた。
「うん」
エルが頷く。
それから少しだけ眉を下げた。
「ともかく、無理しないで」
「わかったよ」
「本当に?」
「本当だって」
アムルは苦笑した。
「危ないと思ったら逃げるさ。今回は最初からそのつもりだし」
「アムはそう言って、結局無茶するから」
「しないよ」
「するよ」
「しないって」
エルはじっとアムルを見る。
まるで信用していない顔だった。
「……そんな顔するなよ」
「だって心配だから」
「大丈夫だって」
「アムの大丈夫は信用できない」
「ひどいな」
アムルは困ったように笑った。
エルはそれでも納得しなかった。
少し考えてから、アムルの後ろにいるヴァンを見る。
「ヴァン先生」
「なんだい?」
「アムのこと、お願いします」
「……私は子守りではないんだけどね」
ヴァンは苦笑した。
「まあ、できる限り見ておくよ」
「お願いします」
「先生まで……」
アムルが小さく呟く。
エルは再びアムルを見た。
「ちゃんとヴァン先生の言うこと聞いてね」
「俺は子供じゃないぞ」
「知ってるよ」
「なら――」
「でも無茶するでしょ?」
「……」
言い返せなかった。
エルが少しだけ笑う。
「ほら」
「……わかったよ」
アムルも諦めたように笑った。
「それじゃあ、行ってくる」
「うん」
エルが頷く。
「行ってらっしゃい、アム」
「ああ」
アムルは馬へ足をかけた。
その時だった。
「あっ」
エルが小さく声を上げる。
「どうした?」
「ちょっと待って」
何かに気づいたように、エルがアムルのもとへ歩いてくる。
そして。
自分の髪に結んでいた青いリボンへ手を伸ばした。
「エル?」
するりと。
青いリボンが銀色の髪からほどかれる。
エルはそれを両手に持つと、アムルの前に立った。
「少しかがんで」
「え?」
「いいから」
「……わかった」
言われるまま、アムルが少し頭を下げる。
エルはその額へ青いリボンを回した。
後頭部で結ぶ。
そして、少し形を整える。
青い布がアムルの額に収まった。
エルは一歩下がり、しばらく眺める。
「これでよし」
「……これ」
アムルが額へ触れた。
何度も見てきた。
ずっとエルが身につけていた青いリボンだった。
「持っていって」
「いいの?」
「うん」
エルは微笑んだ。
「その代わり、ちゃんと返しに来て」
アムルは一瞬、何も言わなかった。
額に巻かれた青いリボンへ、もう一度触れる。
そして。
「ああ」
エルを見て笑った。
「ありがとう」
「うん」
今度こそ、アムルは馬へ跨がった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
軍旗が動く。
続いて、兵士たちがゆっくりと城門を抜け始めた。
アムルも馬を進める。
エルはその背中を見送っていた。
少しずつ。
少しずつ。
アムルの姿が遠くなっていく。
それでも。
額に巻かれた青いリボンだけは、風に揺れながらいつまでも見えていた。
エルは何も言わず、その姿を見つめ続けた。
アムルが見えなくなるまで。
ずっと。
こうしてアムルは。
エルの青を身につけて、戦場へ向かった。




