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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第二章 第三次コスタ戦役

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第23話 戦役の終わり

第二十三話 撤退


「偽情報だろうな。小賢しい手を……」


 ルートビッヒ=シュナイダーは、手元の報告書を机へ放った。


 レミーラ皇帝の容態が思わしくない。


 そんな噂が東部辺境領の各地で急速に広がっている。


 出所を辿ればコロール諸島の港。


 そこから商人たちの口を伝い、いつの間にかケルンやリースにまで入り込んでいた。


 あまりにも分かりやすい。


「アムル=ドゥットゥカースでしょうか?」


 ホフマンの問いに、ルートビッヒは頷いた。


「おそらくな。正面から崩せぬなら、こちらの足元を掻き回す。実にあの男らしい」


 皇帝の病状については、帝都にいた頃から多少の噂はあった。


 だからこそ利用したのだろう。


 完全な嘘よりも、少しばかり事実が混じっていた方が人は信じる。


「いっそのこと、別動隊をもって敵首都を急襲してはどうだ?」


 紅竜騎兵団団長のハイファが提案した。


「ふむ」


 ルートビッヒは地図を見る。


「悪くない。攻囲戦に諸将も飽きていたところだろう」


 ノースジョウにパドゥーラ回廊。


 地形を利用して守るリービッヒ軍に対し、こちらは圧倒的な兵力を十分に活かせない。


 敵将モンドが引き締めたとはいえ、首都では不安が再度広がりはじめている。

 

 今、急襲すれば混乱が広がる可能性は高い。


「門を閉じて守られば別動隊の兵力ではおとせないがな」


「しかし、検討の余地はある」


 ルートビッヒが薄く笑った。


 そのときだった。


「殿下!」


 幕舎の外から慌ただしい声が響いた。


「マリー様より急報でございます!」


「マリーから?」


 ルートビッヒが眉をひそめる。


「一体なんだ?」


 伝令から封書を受け取る。


 封を切った。


 読む。


「…………」


 ルートビッヒの表情が消えた。


「殿下?」


 ホフマンが声をかける。


 返事はない。


 もう一度、最初から文面を読む。


 そして。


「……撤退だ」


 押し殺した声だった。


「は?」


「全軍、撤退する」


 諸将がざわめいた。


 ルートビッヒは手紙を差し出す。


「読め」


 一人が受け取った。


 文面へ目を落とす。


 皇帝陛下崩御。


 その一言をみた顔から血の気が引いた。


「これは……」


 隣の将へ渡す。


 さらに次へ。


 読んだ者から、次々と表情が青ざめていった。


 つい先ほどまで話していた別動隊よる敵首都急襲など、もはや問題ではなかった。


「今のところ、敵は我々を追ってくる気はない」


 ルートビッヒが静かに言った。


「だが、本当のことが伝われば必ず追撃してくる。そうなっては我々の被害は計り知れん」


 レミーラ軍は敵国深くまで侵入している。


 補給線は長い。


 そして既に、アムルの工作と散発的な襲撃によって、その補給には小さな綻びが生まれている。


 撤退中に数万の敵軍から追撃を受ければ、何が起こるか分からない。


「ただ――」


 ルートビッヒは地図へ目を落とした。


「敵は自分たちで流した偽情報によって、今のところ動く気はない」


 皮肉な話だった。


 アムルは皇帝に関する噂を利用した。


 そして、その噂が偽情報だとレミーラ側に思わせることにも成功した。


 だからこそ今、本物の情報まで偽物に見える。


「我々が引けば、奴らはほくそ笑むことだろう」


 ルートビッヒの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「自分たちの工作で我々が撤退した。あるいは、回廊から誘い出すための策だと思うはずだ」


「それを逆手に取る、と」


「ああ」


 ルートビッヒは頷いた。


「どのみち奴らに大規模な反撃を行う余力はない。粛々と後退すればいい」


 諸将を見回す。


「各軍に伝えよ。撤退する」


        ◇


 撤退命令は、パドゥーラ回廊前面に布陣していた帝国中央軍三個師団にも届けられた。


 アシュート。


 シノップ。


 ゴルダ。


 三人は命令を受けると、直ちに撤退準備に入った。


 最初は、統制された後退だった。


 部隊ごとに順序を決め、輜重隊を先行させ、後衛を残す。


 敵に隙を見せぬよう、慎重に北へ下がる。


 だが、日が経つにつれて様子が変わった。


 皇帝崩御後に後継者争いが激化している。


 自身の家門が所属派閥を変えた。


 新しい話が次々と流れ込んでくる。


 彼らは同じ派閥に属してはいない。自身の家をより優位な立場とするために一刻でも早く帝都へ。


「速度を上げろ!」


 命令が飛ぶ。


 行軍速度が上がる。


 遅れた部隊がさらに急ぐ。


 輜重隊まで引きずられる。


 それはまだ敗走ではない。


 だが、遠目から見ればそう見えても不思議ではないほど、三個師団は急速に北へ移動し始めていた。


        ◇


「動きました」


 報告を受けたジョン=ブランは、すぐに地図を広げた。


 隣ではシェ=ウィンクが報告書に目を通している。


「三個師団ともです。しかも、かなり速い」


「そうか」


 ジョン=ブランは驚かなかった。


 地図上のコスタを見る。


 以前、アムルから受けた命令は単純なものだった。


 ――レミーラ軍が敗走を始めたら、コスタを攻撃しろ。


 理由について、アムルはそれほど詳しく説明しなかった。


 だが、今なら分かる。


 レミーラ軍が急速に離脱すれば、南部戦線に空白が生まれる。


「伯爵の言った通りになりましたな」


 シェ=ウィンクが言った。


「少し違うかもしれん」


 ジョンは首を振った。


「どういうことで?」


「アムル殿は『敗走を始めたら』と言った。あれが本当に敗走なのかは分からん」


「では?」


「どちらでもいい」


 ジョン=ブランは立ち上がった。


「条件は満たされた」


 指がコスタを叩く。


「取るぞ」


 命令は直ちに発せられた。


 ジョン=ブランとシェ=ウィンクの一団が、一斉にコスタへ向けて動き始める。


 三個師団の急速な後退によって、これまでコスタ周辺に加えられていたレミーラ軍の圧力は消えていた。


 その空白へ、ジョン=ブランは躊躇なく兵を送り込んだ。


 攻撃は早かった。


 守備側が状況を把握し、体勢を立て直すより早く攻め立てる。


 そして――。


 コスタは陥落した。


        ◇


「殿下! 急報です!」


 北へ後退を続けていたルートビッヒのもとへ、その報告が届いた。


「何だ?」


「コスタが陥落しました!」


「何?」


 さすがのルートビッヒも顔を上げた。


 幕舎がざわめく。


「もうですか!?」


「早すぎる!」


「我々が撤退を始めて、まだどれほども経っていないぞ」


 一人の将が地図を見ながら声を上げる。


「アムル=ドゥットゥカースは、一体何を仕込んでいたのだ?」


「どういう魔法だ……」


 だが、ルートビッヒは答えなかった。


 地図を見る。


 コスタ。


 ライプニッツ。


 パドゥーラ。


 そして、北へ急速に後退している帝国中央軍三個師団。


「……違うな」


「殿下?」


「魔法ではない」


 ルートビッヒは地図上のコスタを指した。


「おそらくコスタを落とした敵将には、事前に命令が出ていた」


「命令?」


「我々が崩れたら、コスタを攻めろ――その程度だろう」


 ホフマンが地図を見る。


「そこへ今回の中央の三師団の撤退が重なった」


「ああ」


 ルートビッヒは頷いた。


「中央の三個師団は予想以上の速度で後退した。敵はそれを敗走と判断したのだろう。あらかじめ受けていた命令通りに動いた。同時にコスタの守備も中央の三師団敗走を撤退とみて混乱した。」


「偶然が重なっただけ、と?」


「そういうことだ」


 アムルが今回の撤退まで予測していたわけではない。


 もし分かっていたなら、三日も追撃を始めないはずがない。


「未来が見えるわけでもあるまい」


 ルートビッヒは鼻で笑った。


「奴も読み違えた。ただ、読み違えた時のために別の手を置いていただけだ」


 そのとき。


 再び伝令が飛び込んできた。


「殿下!」


「今度は何だ?」


「リービッヒ軍が追撃を開始しました!」


 ルートビッヒの目が細くなる。


「規模は?」


「複数方面からです! モンド=ドゥットゥカース麾下の部隊が北進! さらにパドゥーラ方面からもアムル=ドゥットゥカースが兵を率いております!」


「……気づいたか」


 ルートビッヒが小さく呟いた。


 三日。


 稼げた時間はそれだけだった。


 だが十分でもあった。


 レミーラ軍主力は既に大きく後退している。


 今からで届くはずはない。


「コスタを奪還しますか?」


 諸将の一人が尋ねた。


 ルートビッヒは答えず、地図を眺めた。


 コスタの敵兵、モンド、アムル。


 合わせれば数万の追撃軍となる。


 コスタを攻めれば足が止まる。


 その状態で背後から追いつかれれば、今度は自分たちが包囲されかねない。


「……無理だな」


 ルートビッヒは即答した。


「コスタを相手にしながら、数万の追撃部隊まで引き受けることはできん」


「では……」


「コスタは捨てる」


 悔しくないわけではない。


 だが都市一つに執着して全軍を危険に晒すほど、ルートビッヒは愚かではなかった。


「リースまで後退する」


「承知しました」


「戦闘は避けろ。後衛で追撃を牽制しながら主力を下げる。足を止めるな」


 命令が各軍へ飛んだ。


 そして、南部でも戦況は一気に動いた。


 コスタが落ちた。


 帝国中央軍三個師団が北へ去った。


 さらにモンドとアムルの軍勢が追撃を開始した。


 その知らせを受けたライプニッツのレミーラ守備部隊は、孤立を恐れた。


 援軍は来ない。


 このまま留まれば退路を断たれる。


 守備隊はライプニッツを放棄した。


 北へ向かって敗走する。


 こうしてライプニッツも、レミーラの手を離れた。


 ルートビッヒは報告を聞き、地図上のコスタとライプニッツをしばらく眺めていた。


「……高くついたな」


 ホフマンが何も言わず隣に立つ。


「だが、ここで欲を出せばもっと高くつく」


 ルートビッヒはリースを指した。


「戻るぞ」


        ◇


 レミーラ軍は後退を続けた。


 モンドとアムルも追った。


 だが、三日の差は大きい。


 レミーラ軍は後衛を巧みに使い、追撃を牽制しながら北へ下がった。


 やがてルートビッヒの軍勢はリースへ到達する。


 アムルもそれ以上の追撃は命じなかった。


 敵は既に体勢を整えつつある。


 ここから先まで深追いすれば、今度はこちらが危険になる。


 コスタは取った。


 ライプニッツも戻った。


 ならば十分だった。


 長かった戦いが、ようやく終わろうとしていた。


        ◇


 リースの城壁。


 ルートビッヒは一人、南の空を眺めていた。


 今回の作戦で、リービッヒ王国の息の根を止め切ることはできなかった。


 あと少しだった。


 もう少しだけ時間があれば。


 そう悔やまないわけではない。


 帝国中央から三個師団もの増援を与えられた。


 補給物資も潤沢だった。


 兵站を担当する官僚まで派遣された。


 これ以上ないほど恵まれた条件だった。


 そして実際、リービッヒ軍主力を包囲殲滅し、その大半を失わせた。


 王国の軍事力に対して、再生不可能に近いほどの打撃を与えた。


 それでも。


 リービッヒは生き残った。


「……あと少しだったな」


 誰に聞かせるでもなく、ルートビッヒは呟いた。


 だが、その「あと少し」を許さなかった者たちがいる。


 モンド=ドゥットゥカース。


 そして、その息子。


 アムル=ドゥットゥカース。


 今回ばかりは、あの親子の働きを賞賛するべきなのだろう。


 モンドは崩壊寸前の王国軍を立て直し、最後までリービッヒを支え続けた。


 アムルは包囲殲滅戦から味方を逃がした。


 三万の敗残兵をリューザスへまとめ上げ、二か月もの間、自分たちを足止めした。


 そして最後にはパドゥーラまで守り切った。


 今回の撤退でもそうだ。


 アムルは読み違えた。


 自ら流した偽情報に惑わされ、こちらの撤退に気づくのが三日遅れた。


 コスタの陥落にしても、すべてを読み切っていたわけではない。


 中央の三個師団が崩れた場合に備え、ジョン=ブランにあらかじめ命令を与えていた。


 そこへ今回の撤退が偶然重なっただけだ。


 魔法ではない。


 未来が見えているわけでもない。


 アムル=ドゥットゥカースも間違える。


 読み違える。


 失敗する。


 だが――。


 失敗した後が、あまりにも速い。


 間違いに気づけば、すぐに次の手を打つ。


 失ったものを数えるより先に、残されたもので何ができるかを考える。


 そして、そのための準備を戦いが始まる前からいくつも置いている。


「……厄介な男だ」


 ルートビッヒは小さく笑った。


 だが、アムル一人ではない。


 モンドもいる。


 今回、リービッヒが滅亡を免れた理由を突き詰めれば、結局そこへ行き着く。


 モンドとアムル。


 二人のどちらかが欠けていれば、この国は今回の戦争を生き延びることができなかっただろう。


 優れた将を二人も持つ。


 国家にとって、それは幸運なことである。


 しかし。


 彼らの有能さが、彼ら自身の幸せを保証するわけではない。


 今回もモンドだった。


 今回もアムルだった。


 そして次も、おそらく彼らなのだろう。


 リービッヒには、彼らしかいない。


 国が危機に陥るたび、モンドが戦う。


 それでも足りなければ、アムルが戦う。


 二人が支え、二人が傷つくことでしか、この国は生き延びられない。


 有能であるから頼られる。


 頼られるから逃げられない。


 そして国を救えば救うほど、次もまた救うことを求められる。


 それがいつの日か、あの親子自身を苦しめる。


 ルートビッヒは暗黙のうちに、それを理解していた。


 西の空は、すでに夕暮れに染まっていた。


 今回、リービッヒ王国の息の根を止めることはできなかった。


 ならば、それでいい。


 次がある。


 ルートビッヒは南に背を向けた。


 こうして――後に第三次コスタ戦役といわれるレミーラ帝国とリービッヒ王国の戦いは終わった。

第三次コスタ戦役編終了しました。

しばらく余話が続きます。

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