第2話 パドゥーラのアムル(中)
リービッヒ軍総司令部。
広い会議室の中央には、西部一帯を描いた大きな地図が広げられ、その周囲を今回の遠征に参加する諸侯や将軍たちが取り囲んでいた。
輜重部隊まで含めれば、総勢十万を超える大軍勢である。
これほどの兵力が一堂に会することなど、リービッヒにおいても滅多にあることではない。集まった者たちの顔には、これから始まる戦いへの期待と興奮が浮かんでいた。
そんな中、総司令官アンスバッハが口を開いた。
「パドゥーラ伯には、第七師団を率いてもらう」
アムルは顔を上げた。
「第五師団のラレド侯と共に、ライプニッツへ向かってもらいたい」
「……第七師団ですか?」
聞き慣れない番号に、アムルは怪訝そうな顔をする。
「師団は現在、第六師団までしかないと思いますが……」
だが、アンスバッハは何食わぬ顔で言葉を続けた。
「侯の兵力五千と、六諸侯の兵五千。合わせて一万をもって一個師団とするのだ」
「一万……」
「本来、師団は一万五千をもって一つとするが――」
そこでアンスバッハは、口元をわずかに歪めた。
「君ほどの英雄なら、それで十分だろう?」
周囲から小さな笑い声が漏れる。
アムルは何も言わなかった。
なるほど。要するに寄せ集めということらしい。
自分の指揮下にある五千ならまだしも、残る五千は六人の諸侯から集められた兵である。当然、指揮系統も違えば練度も違う。それをまとめて一個師団として扱えというのだから、ずいぶんと無茶な話だった。
もっとも、この際そんなことはどうでもいい。
「わかりました」
アムルは平然と答えた。
「それで、俺の任務はなんなのでしょうか?」
一拍置いて、わずかに笑みを浮かべる。
「まさか各諸侯とピクニックに行くわけにもいきませんし」
「なっ……」
今度はアンスバッハの顔色が変わった。
だが、彼が何かを言い返すより先に、パウロが口を開いた。
「我々の任務は、別働隊としてライプニッツを挟撃することだと考えられますが」
パウロはあくまで冷静な口調で続ける。
「どのような行動を取ればよいのか、細かいお話をお聞かせくださいませんか?」
「……むぅ。そうだな」
アンスバッハはアムルから視線を外した。
「ユーリッヒ。作戦内容を師団長たちに聞かせてくれ」
「はっ」
呼ばれて、一人の若い男が前へ出た。
青白い顔に細身の身体。年齢もまだ若かったが、その表情には年齢に似合わぬ自信が満ちている。
参謀長ユーリッヒ。
彼はアンスバッハへ恭しく一礼すると、地図の前に立った。
「それでは、今作戦の概要をご説明いたします」
甲高い声が会議室に響く。
「今作戦の目的は、レミーラ軍に痛撃を与え、ライプニッツ、コスタはもとより、さらに多くの領土を奪還することにあります」
「より多くの領土?」
誰かが聞き返した。
「そうです」
ユーリッヒは力強く頷く。
「敵を放逐し、コスタ、レンヌはもちろん――」
その指が地図の上を西へ走る。
「リースに至る西ゼルキアのすべてを奪還するのです!」
「おお……!」
「それはすごい」
「素晴らしい戦略だ!」
各諸侯から感嘆の声が漏れた。
ユーリッヒは満足そうにそれを見渡すと、片手を上げて歓声を制した。
「現在、レミーラ軍はレンヌ以東で大規模な戦闘を行い、一進一退の攻防を繰り広げています。そのため、ライプニッツやコスタに残された兵力も手薄になっている。我らにとって、まさに願ってもない状況です」
再び地図を指しながら、ユーリッヒの声はますます大きくなっていく。
「加えて、もともと後方には大した兵力が残されていないと考えられます。我らが大挙して攻め入れば、ひとたまりもなく崩れ去りましょう!」
再び歓声が上がった。
だが、その熱気の中で、アムルだけは黙って地図を見つめていた。
おかしい。
あまりにも、こちらに都合が良すぎる。
「ちょっと待ってください」
アムルが口を開いた瞬間、会議室を満たしていた熱気がわずかに冷えた。
「確かにライプニッツ、コスタの兵力は手薄です。ですが、おかしいと思いませんか?」
「何がです?」
「敵は我々を誘っています」
周囲から冷たい視線が向けられたが、アムルは構わず続けた。
「ここから先へ進めば進むほど、補給線は長くなる。奥地まで占領すれば、いずれ物資が不足します」
アムルは地図上のライプニッツを指した。
「というより、下手をすれば我が兵は飢えます」
会議室にざわめきが起こる。
「古来より、飢えた兵で勝った戦などありません。作戦行動はライプニッツの占領までに限定するべきではないですか?」
先ほどまでの熱狂とは正反対の意見だった。
何人かの諸侯が露骨に不満そうな顔をする中、ユーリッヒは冷たい笑みを浮かべた。
「これは異なことを」
そしてアムルへ視線を向ける。
「パドゥーラ伯は戦術の天才でありながら、いったい何を恐れているのですか?」
「恐れているわけではありません」
「いくらレミーラとて、十万を超える我が軍の敵ではありますまい」
ユーリッヒはアムルの言葉を遮った。
「補給に関しても、ライプニッツ、コスタ等で敵の物資を奪えば、どうとでもなりましょう」
「それは希望的観測というものです」
アムルは即座に返した。
「確かに、いままでならコスタに敵の補給拠点がありました。しかし、それがいつまでも存在する保証はありません」
「それはそうでしょう」
ユーリッヒが笑う。
「我が軍が奪えば、それは敵の補給拠点ではありませんからな」
周囲から笑い声が起こった。
アムルは眉を寄せる。
そういう意味ではない。
「ともかく」
ユーリッヒは勝ち誇ったように続けた。
「パドゥーラ伯は、少々心配性が過ぎるというものです。もう少しお年を召されれば、それもおわかりになるでしょうが」
「なっ……」
さすがのアムルも絶句した。
その様子を見て、周囲から嘲笑が漏れる。
「ユーリッヒ殿」
それまで黙っていたパウロが口を挟んだ。
「少々、言葉が過ぎますぞ」
笑い声が止まった。
「補給の件は、我が方にとっても重大な問題です。パドゥーラ伯が慎重になるのは、至極当然のことではありませんか」
パウロは地図へ目を落とした。
「実際に戦う我々にとって、補給は文字通り生命線です。その点については、確証を持っていただきたい」
「ご心配には及びません、パウロ殿」
ユーリッヒは自信たっぷりに答える。
「我が方の物資は、約半年持ちます」
「半年……」
「半年もあれば、敵を撃破するには十分すぎる時間があります。それに、その頃には麦の収穫の時期も迎えます」
「確かにそうかもしれませんが」
パウロはなおも食い下がった。
「現時点で物資が完備されていない中、強行軍に移るというのは、いささか問題がありませんか?」
「完備されるのです」
ユーリッヒは迷いなく断言した。
「その点は疑う余地もありません。そもそも戦いには、機というものがあります」
そう言って、大きく両手を広げる。
「そして我々は今、その機を与えられているのです。それなのに行動を起こさなければ、逆に天からの仕打ちを受けましょうぞ!」
「天の仕打ちと言うが」
今度はギルフォードが口を開いた。
「それはあくまでも、本当に機が訪れていればの話だと思われるが……」
だが、ユーリッヒはまるで動じなかった。
「今回、将軍方は総司令官であるアンスバッハ様の命令に従えばよいのです」
その声には、もはや勝利を疑う色すらない。
「天に時がある以上、我々の勝利に疑う余地はありません」
そして、会議室に集まった諸侯たちを見渡した。
「皆さんは心配性の方が多いようですが――」
胸を張る。
「勝利は我が手にあると、私は断言します!」
歓声と拍手が会議室を満たした。
その熱狂の中、アムルは黙っていた。
パウロも、ギルフォードも同じだった。
三人だけが、拍手をしていなかった。
◇
「パウロ」
会議を終えて廊下へ出たところで、アムルは声を潜めた。
「あいつはいったいなんなんだ?」
「ユーリッヒか?」
「ああ」
「参謀長だ。知らないのか?」
「知らない」
即答するアムルを、パウロは呆れたように見た。
「サウスクローリーの盗賊討伐で功を挙げ、司令官の目に留まったらしい。リービッヒの誇る、もう一人の若き英雄だ」
「ふーん」
アムルは、先ほどまで甲高い声で雄弁を振るっていた青年を思い出した。
「そんなやつがいたのか。英雄の割には、戦いはできなさそうだけど」
「参謀長だからな。きっと軍略に長じていらっしゃるのだろ?」
パウロは皮肉っぽく笑った。
「しかし、奴は危険だ。アンスバッハの寵愛をいいことに、好き勝手に作戦を立案している。まあ、どこぞの英雄をライバル視していることも理由の一つだと思うがな」
「英雄?」
アムルは首を傾げた。
「誰だ? 父さんか?」
一瞬、パウロは黙った。
そして、仕方なさそうに笑う。
「おまえさ、アムル」
「なんだよ」
「やつは、おまえにできたことが自分にできないわけはないと思っているらしい」
「……俺?」
「そうだ」
パウロは肩をすくめた。
「だから、おまえより大きな功を立てようと必死なのさ。今のリービッヒには、そんな奴が多いものだ」
「俺はやつなんて知らないぞ」
アムルは露骨に不満そうな顔をした。
「勝手に敵対視するのは好きにすればいいけど、それで市民に害を与えるなんて、いい迷惑だ」
「……おまえらしいな」
パウロは小さく笑ったが、その表情はすぐに真剣なものへ戻った。
「まあいい。それより今回の戦い、おまえは勝算があると思うか?」
アムルはすぐには答えなかった。
パウロは周囲に人がいないことを確認してから、さらに声を潜める。
「大きな声じゃ言えないが、俺は勝てる気がしない」
「……」
「今から逃げる算段を考えてるところだ」
「ラレドの貴公子様らしくないじゃないか」
アムルはそう言ってから、苦笑した。
「――と言いたいところだけど、俺も同じさ」
「やはりか」
「ああ」
アムルも声を落とした。
「この戦いでどう勝つかじゃない。いかに被害を少なくして負けるべきか、さっきから必死に考えている」
二人はしばらく黙った。
どこの世界でも、戦いを前に敗北を口にする者は白眼視される。まして二人は、遠征軍の師団を預かる将である。
どれほど非公式な会話であっても、こんな話を大声でできるはずがなかった。
「モンド様もいない。おまえまでこれじゃあ、本当に勝ち目はなさそうだな」
パウロは深いため息をついた。
「ふぅ……まったく、苦労することになりそうだ」
「そうだな」
アムルは小さく頷いた。
「でも、本番が始まれば、こうも言っていられないだろう」
廊下の向こうからは、遠征軍の兵たちが行き交う喧騒が聞こえてくる。
「できることをやるしかない。いったいどうなることやら……」
「ああ」
二人の声には、先ほどまで会議室を満たしていた熱狂など欠片もなかった。
これから始まる戦いに勝利を夢見る者たちの中で、アムルとパウロだけは、すでに敗北した時のことを考えていた。




