第22話 東部辺境領
第二十二話
「我が軍は、そんなに脆弱なのか?」
傷も癒え、すっかり生気を取り戻したバルナは、妹にそう尋ねた。
マリーは机の上に広げた地図から顔を上げる。
「東部辺境軍の弱点なんて、挙げたらきりがないわ」
「……そこまで言うか」
「兄さんたちは強いよ。強いけど、それと東部辺境領そのものが強いかどうかは別の話」
マリーは指を一本立てた。
「まず、産業が軍事に偏りすぎ」
二本目。
「次に、慢性的な男性労働力の不足」
三本目。
「食料生産。特に穀物生産が慢性的に不足してる」
四本目。
「それから、官僚不足による内政の非効率」
「……聞いていると、よく今まで戦えていたな」
「だから兄さんたちが強いって言ってるの」
マリーは呆れたように答えた。
「戦争にはあれだけ強い。何度も勝ってる。でも、それでも国は豊かにならない。普通だったら、とっくに行き詰まってるよ」
レミーラ帝国東部辺境領。
長年にわたり都市同盟、そしてリービッヒ王国と国境を接してきたこの地域は、否応なく軍事を中心として発展してきた。
精強な軍隊。
多数の軍馬。
戦争に適応した産業。
そして何より、長い戦乱の中で鍛え上げられてきた将兵たち。
東部辺境軍の強さに疑問を挟む者はいない。
だが、強い軍隊を持つことと、豊かな国を作ることは同じではなかった。
兵士となった男は畑を耕せない。
軍馬は大量の飼料を食う。
武器を作る職人は農具を作れない。
そして戦争が続けば、行政を担う人材まで軍務へ吸い取られる。
「今回、かなり取ったでしょう?」
マリーは地図へ視線を戻した。
「西ゼルキア――私たちがそう呼んでるコスタ平原の主要な拠点は六つ。北西部のコリント、リース。北東部のレンヌ、ウィンザー。そして南部のコスタ、ライプニッツ」
指が順番に都市をなぞる。
「以前から私たちが押さえていたのはコリント、リース、レンヌ。そして今回、コスタとライプニッツまで取った」
「ほとんど押さえたな」
「そう。だから困ってるの」
「……何?」
バルナが眉をひそめる。
「取ることと、持ち続けることは別なのよ」
マリーはレンヌを指した。
「レンヌ方面を手薄にすれば都市同盟が動く」
次にリース。
「リースを薄くすれば、今度はリービッヒ方面への備えがなくなる」
さらに指を南へ滑らせる。
「コスタとライプニッツには新しく守備隊が必要。占領したばかりだから行政官も送らなきゃならない。食料も必要。武器も必要。馬の飼料も必要。街道の警備も増える」
「……取った分だけ仕事が増えた、と」
「そういうこと」
「だが、土地も増えたんだろう?」
バルナは地図を眺めた。
「これだけ広い平原を押さえたなら、食料の方は少し楽になるんじゃないのか?」
「ならない」
即答だった。
「西ゼルキアって、見た目ほど豊かな土地じゃないもの」
「そうなのか?」
「兄さん、何年ここで戦ってるのよ」
「戦場の地形なら分かる」
「でしょうね」
マリーはため息をついた。
「北へ行けば行くほど草原が広がる。だから馬を育てるにはいい。牧草も取れるし、放牧地もある。鉄騎兵にとっては最高の土地よ」
「いい土地じゃないか」
「馬にとってはね」
ぴしゃりと言われ、バルナが黙る。
「問題は人間が食べる方。冬が寒すぎるのよ」
西ゼルキアの北部は、広大な草原が続く土地だった。
夏は決して短すぎるわけではない。
草は育つ。
家畜も育つ。
だが、冬になると事情が変わる。
大陸内部から吹き込む冷たい風によって気温は大きく下がり、雪に覆われる地域も少なくない。
秋に播かれた小麦が、春まで無事に越冬できない年がある。
そのため、この地域では小麦よりも寒さに強いライ麦が広く栽培され、大麦も重要な穀物となっていた。
だが、それだけで大軍を養えるほどの余裕があるわけではない。
「不作の年なんてひどいものよ。秋に播いた小麦が冬を越せなくて、そのまま駄目になることもある。だからライ麦や大麦を作ってるけど、それだって限界はある」
「南はどうなんだ? コスタやライプニッツなら北より暖かいだろう」
「今度は森」
「ああ……」
「さっき兄さんも言ったでしょう?」
マリーはコスタとライプニッツ周辺を指で囲んだ。
「大森林地帯。雨は北より多いし、気温も少し穏やか。でも、森を切り開かなきゃ畑にはならない。平原みたいに見渡す限り麦畑、なんて土地じゃないの」
西ゼルキアは広い。
だが、広いことと農地が広いことは同じではなかった。
北部には草原が広がる。
軍馬の育成や牧畜には適しているが、寒冷な冬が小麦栽培を難しくする。
南へ向かえば降水量は増える。
しかしコスタ、ライプニッツ周辺には大森林が広がり、農地として利用するには長い時間をかけて開墾しなければならない。
それでも、人は住んでいる。
都市もある。
だから占領すれば、その住民を食わせなければならない。
「つまりね」
マリーは地図を指で叩いた。
「西ゼルキアを取れば食料が手に入る、なんて単純な話じゃないの」
「むしろ食わせる人間が増えるのか」
「そういうこと」
「……嫌な話だな」
「だから最初からそう言ってるでしょう」
しかも、問題は食料だけではなかった。
土地そのものが東部辺境軍の軍事行動を制約している。
「北部は草原だからいいの。鉄騎兵が一番強い地形だから。でもコスタやライプニッツ周辺は違う」
「森林か」
「そう。大森林地帯」
東部辺境軍最強の武器である鉄騎兵。
広大な草原では圧倒的な突破力を発揮する彼らも、森林へ入ればその力を大きく削がれる。
実際、アムル=ドゥットゥカースはその地形を利用して包囲網をかいくぐった。
「今回は中央から三個師団も増援が来た。補給物資も来た。官僚まで派遣された。だからここまでできたの」
マリーは地図上の五都市を眺めた。
「でも、普段の東部諸侯軍は三個師団と各地の守備隊を合わせても、せいぜい四個師団程度。東部辺境領に加えてこの広い地域を守り続けろっていう方が無理なのよ」
「まあ、俺たちが欲しがったというより、中央が欲しがった土地でもあるからな」
「だから問題なの」
「何が?」
「自立できてない」
バルナの表情が変わった。
「自立……。お前、何を――」
「誰も独立するなんて言ってないわよ」
マリーは兄を睨んだ。
「もっと自活できるようになる必要があるって言ってるの」
「自活?」
「そう。中央から兵を送ってもらう。食料を送ってもらう。お金を送ってもらう。官僚まで送ってもらう。それがなきゃ、今取った土地の維持すら難しい」
マリーはコスタとライプニッツを指で叩いた。
「取れたことと、私たちだけで守れることは同じじゃない」
「……なるほどな」
「むしろ今回の戦果で、それがはっきりしたのよ」
マリーは椅子にもたれた。
「鉄騎兵をもっと強くする必要なんてない。兄さんたちはもう十分強い」
「褒められている気がしないな」
「褒めてるよ」
マリーは肩をすくめた。
マリーとてケルン公アレンの娘である。
父が創設した鉄騎兵を、誰より誇りに思っている。
「強すぎるくらい強い。だから今まで誤魔化せてただけ」
戦場では勝てる。
都市も奪える。
だが、奪った土地を自分たちの力だけで維持できなければ、いつまでも中央に頼り続けることになる。
領土を増やせば食料問題が解決する。
そんな単純な話でもなかった。
西ゼルキアの草原は馬を育てるには適していても、大軍と都市人口を養えるほど豊かな穀倉地帯ではない。
むしろ領土を広げれば、守る兵が増え、その兵を養う食料がさらに必要になる。
勝てば勝つほど軍が必要になる。
軍が増えれば食料が必要になる。
食料が足りなければ中央に頼る。
その中央から与えられた力で、また領土を広げる。
どこかで、この循環を断ち切らなければならない。
必要なのは、強い軍隊をさらに強くすることではない。
その強い軍隊を、自分たちの力で支え続けられる東部辺境領を作ること。
マリーは、そう考え始めていた。
◇
数週間後。
「なあ、マリー。町で流れている陛下の噂は聞いたか?」
バルナは新聞を読みながら、マリーが埋もれているであろう書類の山へ話しかけた。
妹の姿は見えない。
机の上だけではない。
床にも椅子にも書類が積み上げられている。
「どうせ、あの噂でしょう?」
山の向こうから不機嫌そうな声が返ってきた。
「バル兄みたいな世間に興味のない人間にまで届いている話なんて、誰でも知っているわ。流言飛語のたぐいよ」
「だがなあ。本当なら一大事だぞ」
「そんなわけないでしょ。話の出所がコロール諸島の港だってところまで分かってるんだから。まーったく、手の込んだ嫌らしい真似をする。だいたい……」
がさり。
書類の山が動いた。
「しかも何なの、あいつら……」
「……マリー?」
声の調子が変わった。
バルナは新聞から顔を上げる。
長年この妹の兄をやっている彼には分かる。
これはまずい。
そっと席を立とうとした。
「馬鹿なんじゃないの!?」
書類の山が爆発した。
紙束が宙を舞い、その中心から髪をぐしゃぐしゃにしたマリーが姿を現す。
「無能が味方だと、どれだけ苦労すると思ってるの!? ねえ、聞いた!? 『有能なマリー様には分からないでしょうが』じゃないわよ! 分からないんじゃなくて、あんたたちの帳簿が滅茶苦茶なの!」
「お、おう……」
「食料の搬入量と払い出し量が合ってない! 軍馬用飼料はどこに消えたの!? 輸送隊の編成表と実際の人数も違う! しかも諸侯ごとに書式が違う! 中央から来た補給担当官に聞いたら『従来からこの方式です』って、知らないわよそんなこと!」
一冊の帳簿が床へ叩きつけられる。
「資料を寄越せって言ったら三年前の数字を持ってくるし、数字が違うって言えば『現場ではよくあることです』って――よくあってたまるかぁ!」
バルナは完全に腰を浮かせていた。
「バル兄……」
「なんだ?」
「どこ行くの?」
「いや……水でも持ってきてやろうかと」
「いらない」
「そうか」
逃げ道を塞がれた。
「あーーーー、むかつく!」
マリーは頭を抱えた。
「何が『輸送費を削減する余地はありません』よ! あるでしょうが! どれだけ無駄な輸送してると思ってるの!? そもそも軍隊が多すぎるのよ! 農民まで兵隊に取っておいて『今年も穀物が足りません』って当たり前でしょう! 麦は勝手に生えてこないの!」
「まあ、そうだな」
「バル兄もその一人だからね」
「俺!?」
「働き盛りの男が馬に乗って戦争ばっかりしてるでしょうが!」
「俺に言われても困るぞ!」
「知ってる! だから余計にむかつくの!」
理不尽だった。
だが、反論すれば長くなる。
バルナにもそれくらいは分かった。
やがてマリーは再び書類の山へ潜り込んだ。
紙をめくる音が続く。
しばらくして。
「……ねむい」
「寝ろ」
「ちょっと寝る」
「そうしろ」
机に突っ伏したマリーは、数秒で動かなくなった。
「相変わらず嵐みたいな奴だな……」
バルナが呟いた。
◇
その頃。
パドゥーラ回廊の前面に布陣するレミーラ軍でも、同様の問題が持ち上がっていた。
「陛下が不慮……だと!?」
報告を受けたアシュート、シノップ、ゴルダの三人は、揃って首を傾げた。
帝都にいた頃から、その手の噂がなかったわけではない。
皇帝の体調が優れない。
政務に出る日が減っている。
侍医が頻繁に宮殿へ出入りしている。
だが、どれも確証のない話だった。
「本営からは?」
「流言飛語の類いが領内に蔓延している。兵を動揺させぬよう注意せよ、とのことです」
「……だろうな」
アシュートは腕を組んだ。
「しかし、それより問題なのはこちらへの補給物資の遅延だ」
「確かに」
シノップも頷く。
一日遅れる。
一部の物資が後便に回される。
必要な飼料が予定量に満たない。
一つ一つは些細な問題だった。
だが、それが積み重なっている。
「補給の方はどうなっている?」
「モルト将軍が対応しております。ただ、リース以降で輸送の混乱が続いているようで……」
三人の顔が曇った。
精鋭師団といえども、食わずに戦うことはできない。
まして彼らは帝都から遠く離れた敵地にいる。
そして、彼らにはもう一つ不満があった。
戦果がない。
もちろん彼らも無能ではない。
何度か要塞化された回廊を抜くべく攻勢は仕掛けた。
しかし、そのたびに下品な罵声をあげる相手の副将の仕掛けた意地汚い罠にかかり。
力づくで正面突破を図ろうとすれば悪鬼のような男が立ちはだかった。
そして退却しようすれば銀髪の男が率いる騎兵に火を噴くような反撃にさらされる。
帝国中央から送り込まれた最新鋭三個師団。
それが三分の一程度の兵力しか持たない田舎諸侯を相手に、前進すらできていない。
彼らの矜持を傷つけるには十分だった。
一方でルートビッヒの三将への評価は違った。
三個師団がパドゥーラ回廊に存在している。
ただそれだけで、アムル=ドゥットゥカース率いるパドゥーラ軍主力を南部へ釘付けにできる。
その間にリービッヒ本国を叩く。
戦略的には十分な働きだった。
だが、三人はルートビッヒほどアムルを危険視していなかった。
「もしこのまま陛下に相見えたら……なんと言われるであろうか」
ゴルダがぽつりと漏らした。
その一言が、三人の心情をよく表していた。
◇
「地味な嫌がらせが好きだね」
報告書を読みながら、エルは呆れた顔をした。
「エル、そんなことはないぞ」
向かいのアムルが心外そうに言う。
「敵の弱点を突くなんて常道手段だ。暗殺とかしているわけでもないし、その程度で卑怯、卑劣と罵られても、勝ってしまえばどうということはない」
「皇帝陛下が危ないって噂を流すのは、まだ分かるよ。でも、相手の領内で小さな問題を頻発させて、家宰に仕事を押しつける嫌がらせまでする?」
レミーラ皇帝の容態が思わしくないらしい。
その情報はアムルたちのもとにも届いていた。
だが、どこまで事実なのかは分からない。
それだけでは使える情報とは言えなかった。
そこでヴァンは別の部分に注目した。
帝都から派遣された三個師団である。
彼らは精鋭だった。
だからこそ、戦果がないことに耐えられない。
そして、皇帝から送り出された彼らにとって、その皇帝の容態に関する噂は無視しづらい。
真実である必要などなかった。
彼らが気にすれば、それでいい。
もう一つの標的が兵站だった。
「物資じゃなく、人だね」
ヴァンが言った。
アムルも頷く。
「俺もそう思います」
東部辺境軍の兵站を実質的に支えているのは二人。
ケルンで全体を管理する家宰マリー。
そしてリース以降の補給実務を担うモルト将軍。
マリーは優秀だった。
だが若く、女性である。そのうえケルン公の唯一の実子。
能力とは無関係であっても、東部辺境領の社会ではその三つが彼女の行動範囲を狭めている。
だからケルンから彼女は指示は出せるが、それ以上はできない。
その先はモルトが繋ぐ。
この二人の組み合わせ自体は悪くない。
問題は帝都から三個師団とともに派遣された中央官僚だった。
彼らと東部辺境領の実務担当者との折り合いが悪い。
敵であるアムルの耳に届く程度には、不満が溜まっていた。
「だったら、そこを突けばいい」
アムルは間者を使った。
マリーの優秀さを、ことさらに吹聴させる。
東部辺境領の兵站を支える才女。
中央官僚よりも優秀な若き家宰。
多少の誇張も混ぜて噂を広げた。
「『有能なマリー様なら全部できるでしょう』ってなる。半分以上事実だから始末が悪い。」
アムルが笑った。
エルの目が細くなる。
「……性格悪い」
「戦争だし、そもそもエルは俺の性格をよいなんて思ってないだろ?」
そして、もう一つ。
ケルンで小さな問題を起こし続ける。
倉庫の帳簿が合わない。
荷車の手配が遅れる。
伝達が行き違う。
市場で妙な噂が立つ。
役人同士で責任の押し付け合いが起きる。
一つ一つは取るに足らない。
だからこそ対応しなければならない。
放置するほどではない。
しかし、マリーの時間を少しずつ奪うには十分だった。
「マリーという人が一日に処理できる仕事の量には限界がある。だってエルやティーエだって限界があるだろ?」
「それはそうだけど」
「だったら、そのうち何割かをどうでもいい仕事で潰せばいい。そこへ中央の連中との喧嘩まで増やしてやれば、もっと効率は落ちる」
「それで補給が遅れる」
「うん」
「その結果、前線の三人が焦る」
「うん」
「そこへ皇帝陛下の噂まで流す」
「そういうこと」
エルはしばらく黙った。
そして深々とため息をつく。
「……やっぱり地味な嫌がらせじゃない」
「効果あるだろ?」
「あるから嫌だって言ってるの。アムルは事務仕事を投げ出すから分からないかもしれないけど、最悪だわ。マリーって人に同情したくなる」
アムルは笑った。
狙っているのは敵兵ではない。
城でもない。
一本の補給路ですらない。
その補給路を支える人間だった。
マリーを暗殺するなど野蛮な行為は必要ない。
彼女の優秀な事務処理能力の一部を、無駄な仕事に使わせればいい。
そして前線には、ほんの少しだけ物資が遅れて届けばいい。
それだけだった。
◇
「……ん」
マリーが目を開けた。
いつの間に眠っていたのだろう。
目の前には相変わらず書類の山。
その向こうにバルナがいる。
「起きたか」
「……何時間寝てた?」
「大して寝てない」
「そう」
マリーは目を擦った。
そのとき、扉が叩かれた。
「マリー様。急報でございます」
「私に?」
差し出された封書を受け取る。
封を切った。
「……」
一度読む。
もう一度読む。
眠気が消えた。
「バル兄!」
「なんだ?」
「これ、本物?」
「何が書いてある?」
マリーは答えなかった。
立ち上がる。
「馬を用意して」
「おい?」
「今すぐ」
声が変わっていた。
「ルートビッヒ殿下に知らせる。急いで!」




