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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第一章 都市同盟

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余話 ユマ=リズナーの夢

余話 


 ユマ=リズナーは、セイレン市長家の長女として生まれた。


 父はセイレン市長にして、ロスバルト傭兵団団長シュウ=リズナー。


 母カーラはカーライル公の娘。


 そして父方の祖母クリスティーヌ――クリスは、リービッヒから亡命してきた王族だった。


 かつてリービッヒ王女として都市同盟軍と戦い、その勇猛さから敵である都市同盟兵たちに恐怖を込めて「いばらの女王」と呼ばれた女性である。後にリービッヒ宮廷の政争に敗れ、セイレンへ亡命。そこでユマの祖父シン=リズナーと結ばれた。


 つまりユマは、セイレンを治めるリズナー家だけでなく、カーライル公家とリービッヒ王族の血まで引いている。


 血筋だけを並べれば、随分と華やかだった。


 ただし、よく見ると妙に戦場との縁が深い。


 父シュウはロスバルトを率いる歴戦の傭兵隊長。


 母方のカーライル公家は、その騎士団をもって都市同盟の軍事力を支えてきた武門。


 祖母クリスに至っては、敵軍から異名をつけられて恐れられた女傑である。


 要するに、かなり軍事力に偏った家系だった。


 そして、その勇猛さを最も分かりやすく受け継いだのがユマだった。


 もっとも、祖母クリス譲りの整った容貌と頭の回転の速さも持ち合わせていたため、粗野な印象を与えることはない。


 見た目は華やかな名家の娘。


 やることは、だいたい正面突破だった。


     ◇


「ユマ!」


 声を掛けられ、木剣を振り上げていた少女がぴたりと止まった。


 十歳になったばかりのユマの前で、一人の少年が尻餅をついている。


 ロスバルトの隊員の子、トウマだった。


 少し年上だというのに、その目には涙まで浮かんでいる。


挿絵(By みてみん)


「あ……」


 ユマは木剣を下ろした。


 少し離れたところにはクリスが立っていた。白髪の混じり始めた髪を後ろでまとめ、静かに孫娘を見ている。


「また泣かせたの?」


「でも、戦争ごっこだから」


「戦争ごっこなら、泣かせてもいいの?」


「……よくないです」


「そうね」


 クリスはそれ以上叱らなかった。


 ユマは木剣を放り出すと、トウマの前まで行って手を差し出した。


「ごめん」


「……痛かった」


「ごめんってば」


「ユマ、強すぎるんだよ!」


「だって、私が団長だもん」


「そういうところだよ!」


 トウマが怒鳴り、周囲の子供たちが笑った。


 ユマも一緒になって笑った。


 この頃のユマにとって、戦争とはそんなものだった。


 木剣を手に走り回り、勝った負けたと騒ぎ、日が暮れれば家へ帰る。


 本物の戦場へ出ている父のことも知っていた。


 けれど、その意味まではまだ分かっていなかった。


     ◇


 その日の夕方。


 ユマはクリスと一緒にセイレンの街を歩いていた。


 道沿いには古びた家が並び、軒先では女たちが針仕事をしている。仕事を終えた傭兵たちが酒場へ入り、子供たちはその間を走り回っていた。


 いつも見ている光景だった。


 だが最近になって、ユマには一つ気になることがあった。


「ねえ、おばあ様」


「なあに?」


「あの子、今日もお昼食べてなかった」


 クリスがユマの視線を追う。


 昼間、一緒に遊んでいた子供の一人だった。


「そうね」


「昨日も」


「ええ」


「なんで?」


 クリスはすぐには答えなかった。


「お腹空かないのかな」


「空いていると思うわ」


「じゃあ食べればいいじゃない」


「食べるものがないのよ」


 ユマが足を止めた。


「どうして?」


 クリスも立ち止まる。


「少し難しい話になるわよ」


「いいよ」


「本当に?」


「うん。教えて」


 クリスは微笑み、近くの石段へ腰を下ろした。ユマもその隣に座る。


「セイレンはね、あまり豊かな町ではないの」


「知ってる」


「本当に?」


「……たぶん」


 クリスが少し笑った。


「あなたの家には毎日食事があるでしょう?」


「うん」


「冬になれば暖炉に火も入る。服が破れれば、新しいものを用意してもらえる」


「うん」


「でも、それが当たり前ではない人もたくさんいるのよ」


 セイレンには大きな農地があるわけではない。


 巨大な商業都市でもない。


 ロスバルトが各地へ出て働き、そこで得た金を持ち帰る。職人たちは工房で働き、商人たちは品物を売る。


 それでも、すべての市民が満足に暮らせるほど豊かな町ではなかった。


「じゃあ、どうして私たちは食べられるの?」


「あなたがリズナー家の娘だからよ」


「ずるくない?」


 クリスは少し目を細めた。


「そう思う?」


「だって、私だけいっぱい食べられる」


「そうね」


「だったら、みんなで分ければいいじゃない」


「それだけで済めば簡単なのだけどね」


「難しいの?」


「とても」


 ユマは唇を尖らせた。


「難しいことばっかり」


「世の中は、難しいことが多いのよ」


 クリスはそう言うと、孫娘の頭へ手を置いた。


「でもね、ユマ」


「なに?」


「あなたは、人を守るために生まれた人なのよ」


 ユマが顔を上げる。


「お父さんがロスバルトを率いてるみたいに?」


「そうね。でも、剣を持つことだけが人を守ることではないわ」


「じゃあ何?」


「それは、あなたがこれから見つけなさい」


 ユマは考えた。


 本気で考えた。


 けれど十歳の少女に、そんな難しい問題の答えが出るはずもない。


 だから、もっと単純に考えた。


「じゃあ私、みんなを豊かにしてあげる」


「まあ」


「みんな自由にしてあげる」


 そして勢いよく立ち上がる。


「それで、誰も争わない世界を作ってあげる」


「……」


「そうすれば、お父さんたちも戦争に行かなくていいでしょ?」


 クリスはしばらく孫娘を見つめていた。


 やがて、ふっと頬を緩める。


「ユマの夢はおっきいわねぇ」


「できない?」


「さあ、どうでしょうねぇ」


「できるよ」


「そう?」


「うん。私がやる」


 クリスは優しく笑った。


「なら、頑張らないとね」


     ◇


 翌年。


 母カーラは双子を産んだ。


 妹のユナと、弟のリック。


 二人の赤ん坊は元気だった。


 けれど、カーラの身体は戻らなかった。


 産後の肥立ちが悪く、そのまま寝台から起き上がることなく亡くなった。


 ユマは十一歳だった。


 泣いた。


 何日も泣いた。


 それでも赤ん坊は泣く。


 ユマは小さな妹と弟を抱こうとして、何度も乳母に止められた。


「私がお姉ちゃんだから」


 そればかり言った。


 クリスは、そんなユマに無理をするなとは言ったが、泣くなとは一度も言わなかった。


 そして、そのクリスも翌年に亡くなった。


 母を失って一年。


 今度は、母親代わりでもあった祖母まで失った。


 十二歳になったユマの中には、祖母の優しい笑顔と、幼い日に言われた一つの言葉が残った。


 ――あなたは、人を守るために生まれた人なのよ。


     ◇


 十五歳になると、ユマは父シュウに従って戦場へ出るようになった。


 リズナー家の後継者。


 いずれセイレン市長となり、ロスバルトを率いる人間。


 そのための教育だった。


 子供の頃に遊んでいた戦争ごっこと、本物の戦争はまるで違う。


 木剣で叩かれても、人は死なない。


 本物の剣なら死ぬ。


 昨日まで一緒に笑っていた男が、翌日にはいなくなる。


 それは勝った戦でも同じだった。


 ある戦いで、ユマは仲間を庇った。


 振り下ろされた刃を避けきれず、左頬を深く切られた。


 血まみれになって戻ってきた娘を見て、シュウはさすがに顔をしかめた。


 だが傷そのものについては、意外なほどあっさりしていた。


「まあ、お前は婿を貰う側だからな」


「なにそれ」


「嫁に行くわけじゃないんだ。顔に傷が残ったところで問題ないだろ」


 ユマは包帯を押さえながら答えた。


「私もそう思う」


「だろ?」


「仲間を守った傷だし」


「ああ」


「勲章みたいなもんよ」


 シュウは笑った。


 ユマも笑った。


 実際、傷を恥じる気持ちは少しもなかった。


 けれど、戦いが終わったあとに並べられた死体を見るたび、ユマは考えるようになった。


 勝った。


 仲間を守った。


 セイレンも守った。


 それでも、仲間は死んだ。


 敵も死んだ。


 敵にも家族がいるのだろう。


 子供もいるのだろう。


 そして、しばらくすればまた次の戦争が始まる。


 戦争に勝っても、人は死ぬ。


 それはこちらも、敵も同じだった。


 勝ったところで、何も世界は変わらない。


 十歳の頃に思い描いた世界には、少しも近づいていなかった。


     ◇


 十八歳になった頃。


「お父さん。話があるんだけど」


 夕食を終えたシュウが娘を見る。


「珍しいな。改まって」


「ニューアーク大学へ行きたい」


 シュウは少しだけ目を丸くした。


「前から考えてたの。経済とか政治とか、もっとちゃんと勉強したい」


「そうか」


「いい?」


「何がだ?」


「ロスバルト」


「俺がいる」


「でも、私、後継者でしょ?」


「だから行くんだろうが」


 シュウは笑った。


「お前はロスバルト団長になるだけじゃない。いずれセイレン市長になる」


「うん」


「なら、剣の振り方だけ知ってても仕方ないだろ」


 あまりにもあっさり認められて、ユマは目を瞬いた。


「もっと反対するかと思った」


「なんでだ」


「戦場から逃げるなとか」


「お前、戦場から逃げたいのか?」


「全然」


「なら問題ない」


 シュウは杯を置いた。


「行ってこい、ユマ。セイレン市長になるには必要なことだ」


「うん」


「どうせなら、しっかり勉強してこい」


「当然」


 翌年。


 十九歳になったユマは、ニューアーク大学へ入った。


     ◇


 大学へ行けば、何か答えが見つかると思っていた。


 ところが、学べば学ぶほど、自分が子供の頃に口にした夢がとんでもなく難しいものだったのだと思い知らされた。


 セントハイム。


 巨大な商業都市。


 資本が集まり、商人が集まり、富がさらに富を生む。


 ゼルキア。


 都市同盟最大級の都市。


 人口が集まり、産業が集まり、市街地は周囲を飲み込みながら拡大している。


 そして、ユマが学んでいるニューアーク大学。


 その大学が建つ場所も、かつては独立した都市だった。


 学術都市アーク市。


 大学を中心に発展した小さな都市国家だったが、ゼルキアの成長とともに経済的にも市街地としても取り込まれ、今では独立したアークという都市は存在しない。


 アークだけではなかった。


 かつて存在した小都市の中には、同じように大都市へ吸収され、名を失った場所がいくつもある。


 一方、同じ学術都市でもニコスはいまだ独立を保っている。


 だが、それもセントハイムから距離があることが大きかった。


 では、セイレンは?


 今はまだ存在している。


 ロスバルトもいる。


 自治もある。


 けれど、このまま百年、二百年と続けばどうなる。


 セントハイムはさらに豊かになる。


 ゼルキアはさらに大きくなる。


 小さな都市から人が流れ、金が流れ、仕事が流れる。


 やがて自分たちで自分たちの未来を決める力まで失っていく。


 最後に残るのは、ゼルキアとセントハイムだけ。


「……それって」


 図書館で資料を読んでいたユマは、小さく呟いた。


「リービッヒやレミーラと、何が違うの?」


 もちろん、軍隊で征服することと同じではない。


 血も流れない。


 剣を突きつけられて従わされるわけでもない。


 それでも最後に、強い都市だけが残り、小さな都市が自分の未来を選べなくなるのなら。


 それで本当に自由なのだろうか。


 セイレンには、ゼルキアやセントハイムと正面から競えるだけの経済力はない。


 自分の夢は、思っていたよりずっと大きかった。


「おばあ様。本当におっきかったよ」


 思わず笑ってしまった。


 だからといって、諦める気にはならない。


 難しいなら、やり方を探せばいい。


 そのために大学まで来たのだから。


     ◇


 ある日の講義。


 ハサン教授が、都市同盟成立以後の発展について説明していた。


 ユマはしばらく聞いていたが、どうにも腑に落ちない。


 やがて手を挙げた。


「教授」


「はい。リズナーさん」


「一つ、聞いていいですか?」


「どうぞ」


「都市同盟の強さって、いろんな人がいることなんじゃないですか?」


挿絵(By みてみん)


 一瞬、教室が静かになった。


 直後。


 あちこちから小さな笑いが漏れた。


 セイレンの田舎者が何を言っている。


 そんな空気だった。


 ユマは教室を見回した。


「何がおかしいの?」


 笑い声が止まった。


「私、分からないから聞いてるんだけど。違うなら、どこが違うの?」


 誰も答えない。


 なら、続ければいい。


「だって、セントハイムだけになったら、セントハイムのやり方しか残らないでしょう?」


 今度は真正面からハサンを見る。


「ゼルキアだけになったら、ゼルキアのやり方しか残らない。違う都市がいっぱいあるから、いろんな考え方があって、いろんな商売があって、その中で競争できるんじゃないんですか?」


 間違っているなら、教えてもらえばいい。


 そのために大学へ来ている。


 周囲に笑われたところで、知ったことではなかった。


 ハサン教授が口を開いた。


「その通りです」


「え?」


 さすがに、それは予想していなかった。


 今度は教室全体が静かになった。


「都市同盟が成立した時の理念を考えてみましょう」


 ハサンは学生たちを見渡した。


「都市同盟の発展を支えた最大の要素の一つは、多様性の内包です」


 商業に強い都市。


 工業に強い都市。


 学問に強い都市。


 海運に強い都市。


 それぞれ文化も制度も産業も違う。


「異なる都市が存在するから競争が生まれる。人はより良い場所を求めて移動し、技術は別の都市へ伝わり、そこでさらに改良される。その自由な競争が、都市同盟の成長を支えてきました」


 ユマは黙って聞いていた。


「ところが、現在はその前提そのものが変わりつつあります」


 二つの巨大都市への富と人口の集中。


 広がる都市間格差。


 経済的に自立できなくなり、大都市の一部となって消えていった都市。


「自由競争とは、本来、複数の選択肢が存在して初めて成り立つものです。一つの主体が他をすべて飲み込めば、それはもはや同じ意味での競争とは呼べないでしょう」


 ユマの頭に、アーク市の名が浮かんだ。


「教授」


「はい」


「じゃあ、このままいったら、ゼルキアとセントハイムしか残らないんじゃないですか?」


 今度は誰も笑わなかった。


「極端な仮定ではあります」


 ハサンは答えた。


「ですが、今の傾向が際限なく続いた場合、その可能性を完全に否定することもできません」


「だったら」


 ユマはすぐに続けた。


「それって、リービッヒやレミーラと何が違うんですか?」


 教室が静まり返った。


 ハサンはすぐには答えなかった。


「それについては、あなた自身で考えてください」


「はい」


「ただ、一つだけ」


 ハサンは続けた。


「都市同盟は、すべての都市を一つにするために作られたものではありません」


 ユマが教授を見る。


「違う都市が、違うまま共存する。そのために作られたものです」


     ◇


 講義が終わった。


 学生たちは次々と教室を出ていったが、ユマはしばらく席に残っていた。


 ここには頭のいい人間が山ほどいる。


 経済なら、自分より詳しい者がいる。


 法律なら、到底かなわない者もいる。


 けれど。


 そこで、ふと思った。


「……私、市長になるじゃない」


 セイレンは小さい。


 貧しい。


 ゼルキアやセントハイムから見れば、都市同盟の端にある田舎町にすぎない。


 それでも自分は、その市長になる。


 市長になれば、都市同盟総会へ出る。


 そこで発言できる。


「だったら、私が言えばいいじゃない」


 考えてみれば簡単だった。


 この大学にどれほど優秀な人間がいても、その全員が同盟総会で発言できるわけではない。


 自分には、その場所がある。


 なら使えばいい。


 このままで本当にいいのか。


 小さな都市が消えていくことを、本当に自由と呼べるのか。


 ゼルキアとセントハイムだけが残る未来を、都市同盟の発展と呼んでいいのか。


「誰も言わないなら、私が言う」


 十歳の頃と、根本的なところは何も変わっていなかった。


 できない理由を一つずつ並べて、誰かが始めてくれるのを待つという発想が、ユマにはない。


 問題がある。


 なら、まず動かす。


 動かして駄目なら、次を考える。


 絡まった糸を一本ずつ丁寧に解くより、まず引っ張ってみる。


 切れたなら、その時に結び直せばいい。


「私が投げかけてやる」


 この疑問を。


 都市同盟全部に。


 ユマの口元に笑みが浮かんだ。


「それで、未来を変えさせてやる」


     ◇


 ユマは三年間、ニューアーク大学で学んだ。


 本当なら、卒業まで残りたかった。


 まだ知らないことはいくらでもある。


 ハサン教授にも、もっと聞きたいことがあった。


 都市同盟へ投げかける疑問は見つかった。


 けれど、それをどうやって現実の制度へ変えるのか。


 その答えまでは、まだ見つけられていなかった。


 だが二十一歳の年。


 父シュウ=リズナーが、レミーラとの戦いで死んだ。


 知らせを受けた日、ユマは長い間何も言わなかった。


 母はいない。


 祖母もいない。


 そして、父もいなくなった。


 泣かなかったわけではない。


 それでも翌日には、荷物をまとめた。


 ニューアーク大学を去り、セイレンへ帰るために。


 学業を終えたわけではない。


 もっと勉強したかった。


 それでも帰る。


 父が死んだのなら、今度は自分の番だった。


 セイレン市長。


 ロスバルト団長。


 その二つを継ぐ人間は、自分しかいない。


 別れ際、ハサンは静かに言った。


「残念ですね」


「はい。本当はもっといたかったです」


「私も、あなたとはまだ話したいことがたくさんありました」


「私もです」


「ですが、あなたには帰る場所がある」


「はい」


 ユマは頷いた。


「帰ります」


「リズナーさん」


「はい?」


「疑問を持つことをやめないでください」


 ユマは少し笑った。


「やめませんよ」


「そうですか」


「だって、まだ何にも解決してませんから」


 そう言って、ユマはニューアークを去った。


     ◇


 ――それから二年。


     ◇


「くおらぁ! アホ女! 仕事しろ!」


 怒声が市長執務室に響いた。


 机の前に座っていたユマは、のんびりと顔を上げた。


 目の前にはジャン=ワイズマン。


 その横では、カール=マルテルが黙々と書類を処理している。


「何よ」


「何よ、じゃない! なんだ、この書類の山は!」


 ジャンが机を叩いた。


 決裁待ち。


 確認待ち。


 署名待ち。


 見事なまでに積み上がっている。


 ユマはそれをちらりと見ると、茶器へ手を伸ばした。


「……お茶の時間よ」


「ふざけんな!」


「うるさいわねぇ」


「俺が来てからどれだけ処理したと思ってる!」


 その横でカールが一枚の書類へ目を通す。


 確認し、必要な箇所だけを抜き出すと、ユマの前へ差し出した。


「市長。こちらを」


「はーい」


 ユマが署名する。


 カールはそれを回収し、何事もなかったように次の書類へ移った。


「見ろ!」


 ジャンがカールを指差した。


「カールはちゃんと仕事してるだろうが!」


「そうね。カールは偉いわねぇ」


「お前もやれ!」


「私、事務仕事苦手なんだよねぇ」


「市長が言うな!」


「ほら、あんたこういうのだけは得意じゃない?」


「だけってなんだ、だけって!」


「計算とか、帳簿とか、契約とか」


「お前がやるべき決裁まで俺に押しつける理由になってねえだろ!」


「そこだけ私がやる」


「だったら全部やれ!」


「仕方ないじゃない。レンヌに行ってたんだから」


「もう帰ってきただろ!」


 ジャンは怒鳴りながらも、机の上に積まれた書類を一束取った。


 ぱらぱらとめくる。


「そもそも、ここの数字が合ってねえぞ!」


「あ、それ昨日私も見た」


「見たなら直せ!」


「ジャンなら気づくかなって」


「試すな!」


 ユマは茶を飲みながら、わめき続けるジャンを眺めた。


 その隣では、カールが相変わらず静かに仕事を進めている。


 静かに、そして的確に処理するカール。


 怒鳴りながら、それでも同じように次々と書類を片付けていくジャン。


 ユマは少しだけ口元を緩めた。


「ジャン」


「なんだ!」


「ずいぶんな口の利き方だねぇ。やっぱり監獄に捨ててくればよかったかな」


「なんか言ったか?」


「なーにも。さあ、頑張ろう」


「頑張るのはお前だ」

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