第19話 セイレンにて(後)
◇
視察は市街地だけでは終わらなかった。
午後になると、ユマはジャンを連れて周辺の村々へ向かった。
市街地を離れるにつれ、道は狭くなり、畑や牧草地が増えていく。ところどころに小さな集落があり、山の斜面には家々が点在していた。
「今度は何を見るんだ?」
ジャンが尋ねた。
「少し寄りたいところがあるんだよ」
「役所の出張所か?」
「いや。人に会いに行くのさ」
それだけ答えると、ユマは馬を進めた。
やがて一軒の家の前に到着した。
質素な造りの家だった。
庭には小さな畑があり、軒先には薪が積まれている。取り立てて目立つところのない、ありふれた農家である。
ユマは馬を下りると、戸を叩いた。
しばらくして、年老いた女性が顔を出した。
「……はい?」
老女はユマの姿を認めた途端、目を見開いた。
「ユマ様……!」
「遅くなって、ごめんなさい」
ユマは静かに頭を下げた。
ジャンは少し離れたところで、その様子を見ていた。
老女は震える手でユマの手を握った。
「よくぞ……ご無事で……」
「ありがとう」
「息子は……」
老女の声が途切れた。
ユマは顔を上げ、老女をまっすぐ見た。
「最期まで、立派に戦ってくれました」
「……そうですか」
「私が連れていって、帰してやれなかった。ごめんなさい」
ユマはもう一度、深く頭を下げた。
老女は首を横に振った。
「いいえ……あの子は、自分で決めてロスバルトへ入ったんです。ユマ様をお恨みすることなんて、ありません」
そう言うと、老女はユマの手を握り直した。
「それよりも……あの子のことを、覚えていてくださって……ありがとうございます」
その目から涙がこぼれた。
ユマは何も言わず、老女の手を握り返した。
ジャンは黙って二人を見ていた。
レンヌで戦死したロスバルト兵の家だった。
ユマは彼を連れて戦場へ赴き、そして帰してやれなかった。
恨まれてもおかしくない立場のはずである。
それなのに、老女は泣きながらユマに感謝していた。
ジャンには、その理由がすぐには理解できなかった。
◇
次の家でも。
その次の家でも。
ユマは同じように戸を叩き、遺族と向き合った。
夫を亡くした女性。
父親の帰りを待っていた幼い子供。
息子を失った両親。
家によって事情は違ったが、ユマの態度は変わらなかった。
自分から美辞麗句を並べることはない。
戦死した者を英雄として褒め称え、悲しみを紛らわせようとすることもなかった。
ただ、遺族の話を聞いた。
どこで戦ったのか。
どのように最期を迎えたのか。
尋ねられれば、分かる範囲で答えた。
そして最後には、必ず頭を下げた。
「私が連れていって、帰してやれなかった。ごめんなさい」
遺族たちは泣いた。
中には、しばらく言葉を返せない者もいた。
それでも、ユマを責める者はいなかった。
むしろ、わざわざ足を運んでくれたことに礼を言い、無事に帰ってきたユマを気遣う者までいた。
ジャンは少し離れたところから、その様子を見続けていた。
これまで彼が知っていた軍の上層部とは、随分と違う光景だった。
レンヌ司令官グリフィス三世は、兵士たちの損害を帳簿上の数字として扱っていた。
兵糧が減れば配給を削る。
負傷兵が増えれば医療費を削る。
そして要塞が危うくなれば、部下たちを残して自分だけ逃げ出した。
少なくとも、彼が戦死者の家族を一軒ずつ訪ねて頭を下げる姿など、ジャンには想像できなかった。
だが、ユマは違う。
彼女は団長であり、市長でもある。
戦死者の家族に対する補償も、当然、制度として用意されているのだろう。それならば、部下に任せることだってできるはずだった。
しかし、ユマは自分で足を運んでいた。
誰かに命じられたわけでもない。
彼女自身が、そうすべきだと考えているのだ。
レンヌで見たユマの姿が、ジャンの脳裏に浮かんだ。
南門を突破し、避難民を逃がすために殿を務めた女。
自分の弟妹まで他人に託し、最後まで部下と一緒に戦場へ残った女。
あのときのユマと、今、遺族の前で頭を下げているユマは、同じ人間なのだ。
ジャンはようやく、そのことを理解し始めていた。
そして、もう一つ。
遺族たちがユマを責めない理由も、少しは分かった気がした。
彼らは、この女が自分の家族を見捨てるような人間ではないと知っているのだろう。
だからこそ、息子や夫を失った悲しみの中でも、彼女に礼を言うことができる。
それは、長い時間をかけなければ築けない関係だった。
――少しは見直してやってもいいか。
ジャンはそう思った。
もちろん、口には出さなかった。
そんなことを言えば、間違いなくユマにからかわれるだろうから。
◇
すべての訪問を終えた頃には、日が傾き始めていた。
二人はセイレンの街を見下ろす丘に立っていた。
眼下には、低い屋根の家々が並んでいる。
街のあちこちから工房の煙が立ち上り、夕暮れの空へ細く伸びていた。
初めて見たときと、何も変わらない街だった。
古びた家屋。
狭い道。
決して多くはない商店。
ゼルキアやセントハイムに比べれば、貧しい小都市であることに変わりはない。
しかし、ジャンには少し違って見えていた。
「ねえ、ジャン」
隣に立つユマが声をかけた。
「何だ?」
「私の新都市同盟構想……」
ユマは街を見たまま言った。
「今は、どう思ってる?」
「…………」
ジャンも街へ目を向けた。
新都市同盟構想。
かつてレンヌでユマから聞かされたとき、馬鹿げた夢物語だと思った。
都市同盟の軍事的な負担を見直し、各都市の利害を調整し、より対等な関係を築く。
言葉にするのは簡単だった。
しかし、都市同盟はそんなに単純な組織ではない。
ゼルキアは政治的な主導権を握り、セントハイムは商業で優位に立っている。
その周囲に存在する都市は、地理も産業も軍事的な事情も異なり、互いに対立する利害を持っていた。
仮に制度を改革するとしても、その費用は誰が負担するのか。
既存の利権を持つ都市や政治家をどう説得するのか。
そもそも、改革に反対する勢力が簡単に引き下がるはずもない。
問題点なら、いくらでも挙げられた。
「……以前の俺なら」
「うん?」
「こんな穴だらけの構想、どこから突っ込めばいいのか分からないくらい文句を言っただろうな」
「レンヌで散々言ってたじゃないか」
「そうだったな。ハンスに殴られた」
ジャンは苦笑した。
「あれは余計だったが」
「余計なことを言ったのは、あんただろ?」
「……まあ、それは認める」
ユマが笑った。
ジャンはもう一度、セイレンの街を眺めた。
レンヌでの敗戦。
グリフィスの逃亡。
ゼルキアでの裁判と死刑判決。
ロスバルトに救われてからの日々。
そして、セイレンで見てきたもの。
貧しい街でありながら、少しでも産業を育てようと努力する人々。
傭兵として働きながら、家族を養い、将来のために金を蓄える兵士たち。
戦死した部下の家族を、一軒ずつ訪ねて頭を下げるユマ。
大学の講義では、どれも教えてもらえなかったことだった。
「……ここまでいろいろ見てきて、思ったんだ」
「何を?」
「都市同盟は、俺が考えていたほど単純じゃない。ゼルキアで正しいとされていることが、ほかの都市でも正しいとは限らないんだな」
ユマは黙って聞いていた。
「セントハイムにはセントハイムの事情がある。セイレンにはセイレンの事情がある。各都市が抱えている問題は違うし、必要としている制度も違う」
「そうだね」
「だから、お前の構想を実現するのは相当難しいと思う。反対する人間も多いだろうし、金だってかかる。下手をすれば、今の都市同盟以上に混乱する可能性もある」
「……相変わらず厳しいねぇ」
「事実を言っているだけだ」
ジャンは少し笑った。
「ただ――」
眼下の街へ視線を戻す。
「もし、お前の夢想が本当に実現できるなら……」
そこで言葉を切った。
ユマが顔を向ける。
ジャンは口元を緩めた。
「面白い」
「……面白い?」
「ああ。実現できれば、今よりずっと面白い都市同盟になるかもしれない」
ジャンは続けた。
「それに、問題が多いということは、それだけ考える余地があるということだ。利害の調整も、制度の設計も、財源の確保も、全部考えなければならない」
少しだけ、楽しそうな顔になった。
「なかなかやりがいがありそうじゃないか」
ユマは一瞬、目を丸くした。
それから笑った。
「じゃあ、その『面白い』を実現するために、手伝ってもらおうかな」
「…………」
ジャンは横目でユマを見た。
「……嘘をつけ」
「何が?」
「最初からそのつもりだったんだろう?」
「さて、どうだろうね」
「あれだけ借金を背負わせておいて、家庭教師と講師だけで終わるとは思っていなかったが……」
ジャンは呆れたように息を吐いた。
「最初から、俺をこき使うつもりだったな?」
「おや、ばれた?」
「ばれるに決まっている!」
ユマは楽しそうに笑った。
ジャンもつられて笑いかけたが、すぐに口元を引き締めた。
「一つ言っておくぞ」
「何だい?」
「俺が協力するからには、実現できる構想にしてもらう。理想ばかり並べたところで、政治は動かないからな」
「もちろん」
「それと、金の使い道については俺にも口を出させろ。お前のような奴に任せていたら、ろくなことにならん」
「ひどい言われようだねぇ」
「複利で人に金を貸す奴を信用できるか!」
「それはそれ、これはこれだよ」
「便利な言葉にするな!」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
ジャンはもう一度、セイレンの街を見た。
これまで目指していたものは、ゼルキアでの出世だった。
中央政府で功績を挙げ、政治家となり、いずれは評議会議長へ上り詰める。
そのためにニューアーク大学を主席で卒業し、レンヌへ赴任したのである。
しかし、その道はすでに失われた。
ジャン=ワイズマンという名は、ゼルキアでは死刑を執行された罪人のものになっている。
もう中央政府へ戻ることはできない。
けれど、それで自分の人生が終わったわけではなかった。
学んできた知識も、能力も、何一つ失われていない。
ならば、それを別の場所で使えばいい。
「……まあ、いいか」
ジャンはそう呟くと、右手を差し出した。
「やってやるよ」
ユマが差し出された手を見る。
「ニューアーク大学主席を甘く見るな。お前の夢物語を、実現できる計画に変えてやる」
ユマはにっこり笑った。
「期待してるよ、主席殿」
そう言って手を差し出す。
二人の手が重なった。
しっかりと握手を交わすと、どちらからともなく笑った。
「姉さまぁー!」
そのとき、丘の下から声が聞こえてきた。
二人が振り返る。
ユナとリックが、こちらへ向かって駆け上がってくる。
「ジャンー!」
「おい! そんなに走ると転ぶぞ!」
「大丈夫だよー!」
「姉さん、待って!」
「ほら、言っているそばから危ない!」
ジャンは呆れながら、駆けてくる二人を待った。
隣ではユマが楽しそうに笑っている。
その向こうには、小さなセイレンの街が広がっていた。
古びた家々の間から工房の煙が立ち上り、夕日に照らされた屋根が赤く染まっていく。
決して豊かではない、小さな街だった。
だが、ジャンにはもう、ただ貧しいだけの街には見えなかった。
第1章はここで終わりになります。
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