第18話 帰還
第十八話 帰還
「東へ行く」
アムルの決断は早かった。
リューザスを囲んでいたレミーラ軍を打ち破った直後である。
戦場には、まだ戦いの熱が残っていた。
崩れた隊列を立て直そうとするレミーラ兵。敗走する部隊。散発的に反撃を試みる騎兵。
完全に勝負が終わったわけではない。
ここで判断を誤れば、せっかく開いた包囲網を再び閉じられる。
「東?」
ロックが聞き返した。
「ああ。チル湖の東岸を通ってパドゥーラへ帰る」
「ノースジョウじゃねえのか? 距離だけなら西岸の方が近いぞ」
「だから嫌なんだ」
アムルは即答した。
ロックが怪訝そうな顔をする。
傍らでヴァンが静かに地図へ視線を落とした。
「三か月だね」
「はい」
アムルは頷いた。
「俺たちは三か月近く、まともな情報を得ていません。ノースジョウがどうなっているのかも分からない。味方がどこまで展開しているのかも、敵がどこにいるのかも分からない」
ノースジョウへ向かう道は近い。
だが、その先に何が待っているのか分からない。
リューザスを脱出した兵たちは疲れ切っている。
ここまで連れてきた兵を、情報のない土地へ突っ込ませるつもりはなかった。
「東なら?」
エヴァンスが尋ねた。
「分かる」
アムルは地図の上、チル湖東岸を指でなぞった。
「こっちは俺たちの土地だ。湖族もいる。パドゥーラからの支援も受けられる。回廊まで入れば、もう追いつかれてもどうにでもなる」
「だが遠いぞ」
「分かってる」
ロックの言葉に答えると、アムルは顔を上げた。
「全軍、パドゥーラ方面へ撤退。動ける部隊から先に行かせろ。負傷者を優先する」
「大将は?」
「俺は残る」
「またかよ」
「誰かが殿をやらなきゃならないだろ」
「だから、なんでそれが毎回お前なんだ」
アムルは少しだけ笑った。
「俺が一番、逃げるのが上手いから」
「自分で言うか?」
「事実だろ?」
ロックは呆れた顔をした。
だが、否定はしなかった。
アムル旗下の軍勢は高速戦を得意とする。
進撃、展開、離脱。
そのいずれにおいても、彼の部隊の速度は大陸随一と評されていた。
とりわけ撤退となれば、その能力は際立った。
戦闘に入ってしまえば別である。
だが、敵が戦闘態勢を整えるより先に離脱できる状況ならば、アムルには鉄騎兵からさえ逃げ切る自信があった。
「ロック、エヴァ。先に行け」
「大将」
「大丈夫だよ」
アムルは笑った。
「追いつくから」
そう言って、アムルは再び戦場へ向き直った。
◇
レミーラ軍の反撃は散発的だった。
包囲網を突破された直後である。
各部隊の指揮系統は乱れ、命令も十分には行き渡っていない。
それでも敵は動いた。
敗走するリービッヒ軍を見れば追う。
敵が退けば押し返す。
戦場に立つ兵士としては当然の行動だった。
だが、そのたびにアムルが現れた。
「そこ、前に出すぎるな!」
追ってきた敵を弓兵が射る。
敵が止まれば退く。
騎兵が突っ込んでくれば槍兵を前へ出し、その足を止める。
決して深追いしない。
勝とうともしない。
ただ時間だけを奪った。
その間にも、リービッヒ軍の本隊は東へ、東へと遠ざかっていく。
やがて最後の部隊が十分な距離を取ったことを確認すると、アムルは後方を振り返った。
「よし」
もういい。
「撤収!」
そこからは速かった。
戦っていた部隊が一斉に離脱する。
追おうとしたレミーラ兵が態勢を整えた頃には、すでにアムルの姿は遠い。
隊列を組み直して追撃を開始した頃には、さらに距離が開いている。
追いつけそうで、追いつけない。
見えているのに、捕まらない。
後世、アムル=ドゥットゥカースと戦った将軍たちは、彼の用兵について奇妙なほど一致した証言を残している。
――あれほど綺麗に逃げる者はいなかった。
東部辺境軍鉄騎兵団長オスワルトは、それを「魔法」と呼んだ。
バルナは「芸術」と評している。
勝利する将軍は数多い。
敵を打ち破る猛将も珍しくない。
だが、数万の軍勢を率いながら、追撃する敵の眼前から軍そのものを消してしまうように逃げる将軍は、大陸広しといえどもアムルくらいのものであった。
ただし。
この時点でレミーラ軍は、まだそのことを知らなかった。
◇
「見つけたぞ!」
バルナの声が響いた。
前方にリービッヒ軍の後尾が見える。
逃げている。
間違いない。
「追え!」
鉄騎兵第二大隊が速度を上げた。
重い蹄の音が大地を揺らす。
ここまで逃げ続けた敵も、ついに足が鈍った。
パドゥーラ回廊は近い。
だが、まだ入ってはいない。
ここで捕まえればいい。
「アムル!」
バルナは叫んだ。
「今度こそ逃がさんぞ!」
前方のリービッヒ兵が振り返った。
その中に黒髪の青年がいる。
アムル=ドゥットゥカース。
ようやく捕まえた。
バルナはそう思った。
次の瞬間だった。
「敵襲!」
左から声が上がった。
「なに!?」
林の中から兵が飛び出してくる。
パドゥーラ兵。
「右にも敵!」
反対側からも鬨の声が響いた。
左右から、一斉に矢が降り注ぐ。
「伏兵だと!?」
バルナが馬を巡らせる。
左翼を率いているのは大柄な男だった。
グランワルド。
そして右翼。
その先頭に、小柄な少女がいた。
「突撃!」
エル=リージェット。
パドゥーラに残っていた軍勢が、ここまで出迎えに来ていた。
鉄騎兵第二大隊の隊列が乱れる。
「慌てるな!」
バルナが怒鳴った。
「左右を押し返せ! 敵は――」
そこで気づいた。
前方から聞こえていた足音が消えている。
逃げていたはずの軍勢が止まっていた。
アムルが振り返る。
そして剣を抜いた。
「反転!」
リービッヒ兵が一斉に向きを変えた。
「鉄騎兵を潰す!」
「おおおおおおっ!」
「くそっ!」
前からアムル。
左右からパドゥーラ軍。
鉄騎兵第二大隊は完全に包み込まれた。
騎兵の最大の武器は速度である。
だが、左右から攻撃を受け、前方を塞がれた状態では、その速度を発揮する場所がない。
「突破しろ!」
バルナは叫んだ。
「止まるな! 道を開けろ!」
だが、すでに遅かった。
槍が馬を止める。
矢が騎兵を射落とす。
密集したところへアムルの兵が突っ込んでくる。
追い詰めたはずだった。
逃げ場を失ったのは、自分たちだった。
「くそぉぉぉぉ!」
バルナの怒声が響いた。
だが、その声も戦場の喧騒に飲み込まれていった。
◇
鉄騎兵第二大隊は壊滅した。
バルナ自身は辛うじて戦場を脱出したものの、重傷を負い反撃の意思はない。
アムルは追わなかった。
「もういい」
逃げていく敵を見ながら、剣を下ろした。
「帰ろう」
そして振り返る。
そこに。
ずっと会いたかった少女がいた。
「アム!」
エルが走ってくる。
「エル」
何か言おうとした。
だが、その前にエルが飛び込んできた。
「うわっ」
細い身体を受け止める。
エルは何も言わなかった。
ただ、アムルの服を両手で強く掴んでいた。
三か月。
連絡はほとんどなかった。
生きているという報告が届いても、その次の日にはどうなっているか分からない。
包囲された。
逃げられない。
決戦になる。
断片的な情報だけがパドゥーラへ届いた。
エルは顔を上げた。
「……遅い」
「ごめん」
「ずっと待ってた」
「うん」
「馬鹿アム」
「それは酷くない?」
「酷くない」
エルの声が震えていた。
アムルは笑った。
そして、その身体を抱きしめた。
「ただいま、エル」
「……うん」
エルも腕を回す。
「おかえり、アム」
三か月に及んだ戦いが、ようやく終わった。
◇
後に第三次コスタ戦役と呼ばれる一連の戦闘は、リービッヒ王国に甚大な被害を与えた。
コスタにおける一次会戦。
戦死者。
レミーラ帝国軍、約二千五百名。
リービッヒ王国軍、約五万名。
一方、リューザスを巡る第二次会戦から撤退戦にかけての戦死者は、
レミーラ帝国軍、約八千五百名。
リービッヒ王国軍、約五百名。
二度の会戦におけるレミーラ側の戦死者の、およそ八割。
それはアムル=ドゥットゥカースとの直接戦闘によって生じた損害であった。
この数字は、ルートビッヒ=シュナイダーがアムルとの戦いにおいて、いかに苦戦を強いられたかを物語っている。
またアムルは第二次会戦において、旗下の兵力のおよそ九割を本国へ帰還させることにも成功した。
包囲された軍勢を救い。
決戦で敵を退け。
追撃部隊を壊滅させ。
自らも生還した。
アムル=ドゥットゥカース個人の戦績だけを見れば、紛れもない勝利であった。
しかし――。
リービッヒ王国は、この戦争に敗北した。
レミーラ帝国の逆侵攻によって、リービッヒは外征戦力の大半を喪失。
ライプニッツまでもがレミーラ帝国の支配下へ入った。
第三次コスタ戦役以前、リービッヒには自国を守るだけの十分な軍事力が存在していた。
それが、わずか数か月で失われたのである。
アムルは勝った。
だが、リービッヒは負けた。
そしてこの敗北は、後のリービッヒ王国とパドゥーラの運命を大きく変えることになる。




