第18話 セイレンにて(前)
◇
セントハイムを出て十日。
ようやく、セイレンの街が見えてきた。
街の周囲には城壁と呼ぶには少々頼りない外壁が巡らされ、その向こうには低い屋根の家々が密集している。街道を行き交う荷馬車の数も、ジャンがこれまで見てきた都市同盟の主要都市と比べれば明らかに少なかった。
ジャン=ワイズマンは馬上から街を眺め、率直な感想を口にした。
「……お世辞にも栄えているとは言えないな」
「そうだね。これでも、おばあ様が改革を始めてから随分とましになったんだよ?」
先を行くユマ=リズナーが振り返った。
「これでか?」
「これで」
「…………」
ジャンはもう一度、セイレンの街へ目を向けた。
古びた家屋が並び、建物の間には狭い道が走っている。ところどころに工房らしき建物があり、煙突から細い煙が上がっていた。
ゼルキアやセントハイムのような大都市とは、規模も華やかさも比べるべくもない。
これでましになったというのなら、以前はいったいどれほど貧しかったのだろう。
「まあ、住めばいいところだよ」
「……その言葉を信じることにする」
「そうしなさい」
ユマは楽しそうに笑うと、再び馬を進めた。
◇
市庁舎の前には、一人の男が待っていた。
ジャンより数歳年上に見える、まだ若い男だった。身なりは質素で、目立った装飾品も身につけていない。
しかし、ユマたちの姿を認めても慌てて駆け寄ってくることはなく、落ち着いた様子で到着を待っていた。
ジャンは隣にいたユナへ少し身を寄せた。
「あの人は?」
「カールさんだよ」
「カール?」
「うん。姉さまの副官……かな?」
「……かな?」
随分と曖昧な説明だった。
「市庁舎でいろんな仕事をしてる人。姉さまがいないときも、街のことをいろいろやってくれるんだよ」
「なるほど」
それならば、市長の補佐役と考えてよさそうだった。
そうしている間に、ユマがカールの前まで歩いていった。
「ただいま。留守中、変わったことは?」
「こちらは特にありません。予定されていた案件も、おおむね処理できております」
「そっか。助かるよ」
カールはそこで、少しだけ表情を緩めた。
「それよりも、よくぞご無事で」
「まったくだよ。今回は本当にひどい目に遭ったね」
ユマは大きく息を吐いた。
「レンヌは失うし、ゼルキアでは散々面倒なことに巻き込まれるし。もうしばらく、あんなところには行きたくないよ」
「ご苦労、お察しします」
「まあ、面白い拾い物はあったけどね」
「ほう」
カールの視線がジャンへ向けられた。
「あちらの方ですか?」
「そう。ジャン=ワイズマン。しばらくはユナとリックの家庭教師、それから傭兵団で講師をしてもらう予定だよ。セイレンのことを一通り覚えたら、ほかにも仕事を任せようと思ってる」
「承知しました」
カールはそれだけ答えた。
何をさせるつもりなのかとも、信用できる人間なのかとも聞かない。
ジャンはわずかに眉を動かした。
どうやら、ユナの言う副官という説明は、それほど間違っていないらしい。
少なくとも、ユマが細かな説明をしなくても話が通じる程度には、普段から仕事を任されている人間なのだろう。
「それじゃ、詳しい話はあとでね。まずは荷物を片づけようか」
ユマがそう言うと、カールは一礼して市庁舎へ戻っていった。
ジャンはその背中を見送った。
見たところ、随分と仕事のできそうな男だった。
貧しいだけの地方都市かと思っていたが、少なくとも市長の周囲には、それなりに有能な人間が揃っているらしい。
◇
数日後。
市庁舎を兼ねたリズナー家の邸宅。その一室で、ジャンは家庭教師としての仕事を始めていた。
「今日は昼までに算術とセレス古語、午後からは地理だ」
「はーい!」
「はい」
ユナとリックが揃って返事をする。
ジャンは二人の前へ、問題を書いた紙を置いた。
「まずはこれを解け。終わったら俺に見せろ」
「……全部?」
「全部だ」
「多いよぉ」
「この程度で文句を言うな。俺がお前たちくらいの頃は、倍以上やっていたぞ」
ユナが不満そうに頬を膨らませた。
その隣では、リックがすでに筆を動かし始めている。
「あっ、リック! 待ってよ!」
「姉さんが遅いんだよ」
「競争じゃないからな。算術で大切なのは、正確に解くことだ。焦って間違えても意味がないぞ」
「はーい」
返事を聞いたジャンは椅子へ腰を下ろした。
二人が問題を解いている間、ただ待っているつもりはない。
机の端に置いてあった一冊の本を手に取り、表紙を開いた。
『セイレン建国史』
街の図書館から借りてきたものだった。
せっかくセイレンで暮らすことになったのだから、自分が住む街について最低限のことくらいは知っておきたい。
そんなつもりで借りてきた本だったが、読み始めてみると、なかなか興味深い内容だった。
セイレンの建国から、まだ五十年余り。
都市同盟の中でも、その歴史は比較的浅い。
始まりは、一人の傭兵だったという。
ロスバルト。
彼が率いた小さな傭兵団こそ、現在のロスバルト傭兵団の前身だった。
当初は各地を転戦する、ごくありふれた傭兵集団だったらしい。しかし、戦いを重ねるうちに勢力を拡大し、やがてセイレンを拠点とするようになった。
大きな転機を迎えたのは、三代目団長シン=リズナーの時代である。
リービッヒ王国との戦争で功績を挙げたシンは、その褒賞としてセイレンの自治権を獲得。宗主都市セントハイムからも承認を受け、現在の自治都市セイレンの基礎を築いた。
「ふーん……」
ジャンはページをめくった。
さらに興味深い記述が続いていた。
その後、リービッヒ王国から一人の女性が亡命してきたという。
クリスティーヌ。
リービッヒ王国の王女にして、かつて都市同盟軍から「いばらの女王」と恐れられた人物だった。
王国内の政争に敗れたクリスティーヌはセイレンへ亡命し、後にシン=リズナーの妻となった。
元敵国の王女と、都市同盟の傭兵団長。
随分と変わった組み合わせである。
そして、シンの死後。
残されたクリスティーヌは、セイレンの改革に乗り出した。
産業の育成。
工房の整備。
金融制度の改革。
傭兵団の再編。
市民への教育の普及。
その内容を読んでいるうちに、ジャンの指が止まった。
「……ん?」
何かがおかしい。
いや、おかしいというよりも、気になることがあった。
ジャンは少し前のページへ戻り、登場人物の名前と系譜を確かめた。
シン=リズナー。
クリスティーヌ。
そして、その子孫たち。
「……なるほど」
「ジャン、どうしたの?」
「うわっ!」
突然、すぐ横から声をかけられた。
見ると、いつの間にかユナが本を覗き込んでいる。
「急に顔を出すな!」
「だって、ずっと同じところを読んでたから」
「問題は終わったのか?」
「終わったよ!」
「ぼくも」
リックも答案を差し出してきた。
「ああ、ちょっと待て」
ジャンは二人を見た。
それから本を見る。
もう一度、二人へ視線を戻した。
「今、本を読んでいて気づいたんだが……」
「うん?」
「お前たち、リービッヒ王家の血を引いているのか?」
「そうだよー」
ユナはあっさり答えた。
「……そうなのか?」
「知らなかったの?」
「聞いてないぞ」
ユナは胸を張った。
「お姫様だよ! 可愛いでしょ?」
「……それとこれとは別の話だろう」
「えー!」
ジャンは改めて二人を見た。
都市同盟にも貴族の子孫を名乗る家系は数多く存在する。昔の領主の血筋だとか、亡命貴族の末裔だとか、その程度の話なら珍しくもない。
しかし、リービッヒ王家の血筋となれば話は違う。
しかも、つい二世代前まで敵国の王女だった人物の直系である。
「……まさか、お前たちが王族の子孫だったとはな」
リックは自分の答案を眺めながら答えた。
「でも、あんまり関係ないよ」
「そうなのか?」
「うん。セイレンじゃ、みんな普通に暮らしてるし」
ジャンは少し考えた。
確かに、ここは都市同盟である。
都市同盟憲章では、市民の基本的な権利は出自や身分にかかわらず保障されている。かつて王族だった人物の血を引いているからといって、そのまま特別な法的地位が与えられるわけではない。
もっとも、リズナー家がセイレンで特別な存在であることまで否定されるわけではないが。
「……まあ、そういうものか」
「そういうものだよ!」
ユナは楽しそうに笑った。
「それよりジャン」
「何だ?」
「答え合わせ!」
「ああ、そうだったな」
ジャンは本を閉じ、二人の答案を受け取った。
まずユナの答案から確認する。
「……三問間違い」
「えっ!?」
「リックは一問だな」
「やった!」
「なんでぇ!?」
「ユナ、もう一度計算し直せ。ここは桁が違うし、こっちは途中の計算を間違えている」
「ええー……」
「文句を言うな」
「お姫様なのに!」
「知らん。こんな計算を間違えるようでは、姫も務まらんぞ」
「務まるよ!」
「威張るな!」
リックが隣で笑っていた。
ジャンも呆れたように息を吐いたが、その口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
◇
一週間後。
ジャンはユマに連れられ、セイレンの市街地を歩いていた。
「視察についてこいとは聞いていたが……」
「セイレンで暮らすんだから、街のことくらい知っておいた方がいいだろ? 買い物をするにしても、仕事をするにしても必要だからね」
「それはそうだが」
ジャンは周囲を見渡した。
初めてセイレンに到着したときの印象は、今も変わっていない。
やはり貧しい街だった。
古びた家屋が多く、道路の整備も十分とは言えない。大都市のような立派な商店街もなければ、大規模な市場もない。
しかし、実際に歩いてみると、妙なことに気づいた。
「……工房が多いな」
「そう?」
「多いぞ。街の規模に比べれば、かなりの数だ」
ジャンは通りの向こうを指差した。
金属加工の工房。
織物を扱う作業場。
小型の機械部品を製造する職人の店。
どれも規模は小さいが、扱う品目は専門化されており、職人たちが熱心に仕事をしていた。
「セイレンは大した資源を持っていないんだよ。農地も少ないし、大きな商業都市にもなれない。だから、少しずつ手に職をつける人間を増やしてきたんだ」
「なるほどな」
ジャンは工房の中を覗いた。
大規模な製鉄所や織物工場などとは比べものにならない。
しかし、小規模な生産拠点が街のあちこちに存在しているというのは、決して悪いことではなかった。
職人が増えれば技術が蓄積される。
技術が蓄積されれば、より付加価値の高い商品を作れるようになる。
そして、それらが交易品となれば、街の外から金を呼び込むこともできる。
セイレンは、そうした仕組みを少しずつ作り上げようとしているらしかった。
さらに商業区へ入ったところで、ジャンは足を止めた。
「……証券会社まであるのか?」
「あるよ」
「この規模の都市に?」
「悪い?」
「悪いとは言っていない。だが、意外だった」
ジャンは建物を見上げた。
小さな建物ではあったが、看板には確かに証券取引を扱う旨が記されていた。
普通、この程度の都市なら、金融業者はあっても貸付業務が中心になる。証券取引を扱う業者まで存在するとなれば、街の内部に投資先と投資家の双方がいるということだ。
「……なるほど」
ジャンは顎へ手を当てた。
貧しい。
それは間違いない。
だが、ただ貧しいだけの街ではなかった。
金を生み出すための仕組みがある。
産業を育てるための仕組みがある。
そして、その仕組みに市民を参加させようとしている。
先日読んだ『セイレン建国史』の記述が頭をよぎった。
「これが『一杯のエール・一枚のコイン運動』の成果か」
「ああ、建国史で読んだの?」
「名前だけはな。詳しい仕組みはまだ調べているところだ」
「おばあ様が始めた運動だよ」
ユマは懐かしむように笑った。
「昔のセイレンはね、傭兵家業で稼いだ金を、帰ってきた兵士たちが酒場で全部使っちまうような街だったんだ」
「まあ、傭兵にはありがちな話だな」
「でしょ? だからおばあ様は、酒を飲むなとは言わなかった。飲むなら飲めばいい。ただし、そのうち少しだけでも将来のために回せってね」
「それが一杯のエール、一枚のコインか」
「そういうこと。少額でもいいから貯蓄や投資に回して、街の仕事を増やそうとしたのさ」
ジャンは頷いた。
少額の資金でも、大勢から集めればまとまった金額になる。
それを職人や商人への融資に回し、新しい事業を育てる。事業が成長すれば利益が生まれ、出資者にも還元される。
理屈としては、決して目新しいものではない。
しかし、傭兵団を中心とした小都市でそれを実行し、市民に定着させたという点は評価できた。
「お前のおばあ様とやらは、なかなか面白い人物だったらしいな」
「でしょ?」
ユマは少し誇らしげに笑った。
「まあ、おばあ様は随分と苦労したらしいけどね。最初は誰も、金を預けたり出資したりなんてしたがらなかったそうだから」
「当然だろう。仕組みを理解していなければ、金を取り上げられるのと大差なく見える」
「だから、市民に読み書きや計算を教えることも始めたんだよ。何に金を使うのか、どれだけ利益が出るのか、自分で判断できなきゃ意味がないからね」
「……なるほど」
ジャンはもう一度、証券会社の看板を見た。
金融制度の改革と教育の普及。
建国史には別々の項目として記されていたが、実際には深く結びついていたらしい。
「それにしても……」
「何?」
「やはり複利は恐ろしいな」
「でしょ?」
ユマが嬉しそうに頷いた。
「時間をかければ、少額のお金だって増えるんだから」
「俺の借金もな」
「もちろん」
「嬉しそうに言うな!」
ユマは声を上げて笑った。




