第16話 誤算
第十六話
リューザス籠城から、一か月が過ぎた。
城壁の上からレミーラ軍の陣地を眺めながら、アムル=ドゥットゥカースは小さく息を吐いた。
最初の十日ほど続いた激しい攻撃は、すでに鳴りを潜めている。
もちろん、包囲が解かれたわけではない。
東西南北。
どちらを見てもレミーラ軍の旗がある。
完全な包囲だった。
それでも、一か月前とは違う。
あの時、この古城へ逃げ込んだ三万人はただの敗残兵だった。
所属も指揮官もばらばら。
武器を失った者。
負傷した者。
何日も満足に眠っていない者。
誰が誰の部下なのかすら分からない。
そんな三万人だった。
アムル自身も、最初の三日間は城壁に立ち続けた。
敵が来れば戦う。
崩れそうな場所があれば兵を集める。
逃げ出そうとする者がいれば押し戻す。
ロックとエヴァンスも同じだった。
そうやって最初の猛攻をどうにか凌ぎ、戦況が安定してから、ようやくアムルはヴァンとともに軍の再編へ取りかかった。
元の部隊を復元することは早々に諦めた。
必要なのは、かつてのリービッヒ軍を元通りにすることではない。
このリューザスで戦える軍隊を作ることだった。
戦える者は城壁へ。
負傷していても動ける者は運搬や修繕へ。
重傷者の中でも帳簿をつけられる者、武具を直せる者はいる。
兵士だけではない。
従軍していた職人、御者、商人まで調べた。
誰が何をできるのか。
それを一人ずつ拾い上げ、組み直した。
城壁にも生き残った将校を配置し、その下へ所属に関係なく兵を割り振った。
一か月。
ようやく三万人の敗残兵は、一つの軍隊になりつつあった。
「大将!」
城壁の下から声が飛んできた。
見下ろすと、ロックがこちらを見上げている。
「なんだ?」
「先生が呼んでるぞ!」
「ヴァン先生が?」
「食い物の話だとよ!」
「……嫌な話だな」
「籠城してんだから仕方ねえだろ!」
もっともだった。
◇
「無尽蔵どころか、あと一か月しかねぇって話じゃねえか!」
食料庫を確認したロックの声が響いた。
アムルは積み上げられた穀物袋を眺めながら、耳を塞いだ。
「うるさいな」
「うるさくもなるだろ、大将! お前、兵士にはいくらでもあるみたいな顔してただろうが!」
「あるとは言ったよ。無尽蔵とは言ってない」
「同じようなもんだろ!」
「全然違うだろ」
籠城開始から一か月。
当初の計算では、リューザスに備蓄されていた兵糧は第7師団1万人の6か月分。それが三万人で二か月分。
つまり、残りは一か月。
その事実を知っている将校は限られていた。
兵士たちに余計な不安を与える必要はない。
食料はある。
当面は心配するな。
アムルはそう言い続けてきた。
「だから。あと一か月以内に何とかするつもりだったんだよ」
「何とかってなんだよ!」
「それを今考えてる」
「考えてなかったのかよ!」
「考えてる途中だった」
「同じだろうが!」
「アムル」
食料庫の入口から、穏やかな声がした。
二人が振り返る。
ヴァンが何冊かの帳簿を抱えて立っていた。
「先生」
「やっときたね。二人とも、少し見てほしいものがあるんだ」
ヴァンは近くの木箱へ帳簿を置いた。
「食糧について調べ直していたんだけどね。どうも最初の計算が違っていたみたいなんだ」
「少なかったのか?」
ロックが顔をしかめる。
「逆だよ」
「逆?」
「もう一か月分くらいある」
一瞬、沈黙した。
ロックがヴァンを見る。
それからアムルを見る。
もう一度ヴァンを見る。
「……つまり?」
「あと二か月くらいは持つと思うよ」
「あるじゃねえか!」
食料庫にロックの声が響いた。
「大将! あるじゃねえか!」
「俺に言うなよ。今、先生から聞いたんだから」
アムルはヴァンから帳簿を受け取った。
数字を追っていく。
確かに多い。
「でも、変ですね」
「そうなんだ」
ヴァンが頷いた。
「僕もそこが気になったんだよ」
別の帳簿が開かれる。
「この物資は、今回の戦いが長期化したことに備えてパドゥーラから運び込まれたものが中心だね」
「ティーエですね」
「そう、ティーエが手配したもの」
アムルはもう一度数字を見る。
ティーエが兵站を担当しているなら、必要量の計算を間違えるとは考えにくい。
多すぎても少なすぎても駄目。
必要な量を計算し、必要な場所へ、必要な時期までに運ぶ。
それがティーエだった。
「……ティーエにしては多いですね」
「私もそう思った」
ヴァンが答える。
「軍が必要とする量だけなら、ここまで積み増す理由がない」
「じゃあ、なんでだ?」
ロックが尋ねる。
ヴァンは少し考えてから答えた。
「おそらく、エルの判断じゃないかな」
アムルが顔を上げた。
「エル?」
「うん。リューザス周辺で何か起きた場合に、住民へ供出するための備蓄を増やしたんじゃないかな」
ヴァンは帳簿の一か所を指した。
「軍用として考えると過剰だけど、周辺住民への非常用備蓄まで含めれば不自然じゃない。ティーエが自分の判断でこれだけ増やしたとは考えにくいからね」
「なるほど……」
アムルは食料庫を見回した。
エルなら、やる。
軍が何日戦えるかだけではなく、その周囲で暮らしている人間のことまで考える。
ティーエが必要量を計算し、その上にエルが余裕を持たせた。
戦争のために用意されたものではなかった。
ましてや、敗走した三万人を籠城させるための食糧でもない。
それでも今、その余分な一か月が三万人の命を繋いでいる。
「救われたな」
アムルが小さく呟いた。
ロックが横目で見る。
「嬢ちゃんにか?」
「うん」
アムルは少しだけ笑った。
「帰ったら礼を言わないとな」
「その前に帰れるようにしてくれ、大将」
「だから、そのための二か月だよ」
アムルは帳簿を閉じた。
残り二か月。
十分とは言えない。
だが、一か月と二か月ではまるで違う。
時間ができた。
三万人を立て直す時間。
この包囲を破る方法を考える時間。
そして、生きて帰るための時間が。
◇
籠城開始から、二か月が過ぎた。
「ルートビッヒ様、こちらの兵糧に問題が出てきました」
ホフマンから告げられた言葉に、ルートビッヒは地図から顔を上げた。
「こちらの?」
「はい」
妙な話だった。
兵糧が尽きるというのなら、本来はリューザスに籠もるリービッヒ軍が先でなければならない。
包囲され、外部からの補給を完全に断たれた三万の軍勢である。
ところが二か月を過ぎても、リューザスが飢えている様子はない。
それどころか、問題が出始めたのは包囲しているレミーラ軍の側だった。
「現地調達は?」
「従前と変わらず、ほとんど期待できません」
ホフマンは淡々と答えた。
「リービッヒ軍が撤退以前に周辺の物資を大量に徴発しております。そのうえ、我々が失地を回復した際には住民への物資供出も行っておりますので」
「……あいつら」
ルートビッヒは眉間を押さえた。
敵地から物資を奪う。
それは戦場ではあることだ。
そこまでは分かる。
だが、後先を考えず、ありったけ奪って自分たちで消費してしまえば、その土地を占領した側にも何も残らない。
普通、占領後の統治のことを考えれば、根こそぎ奪うなど考えられない。
一方で、ルートビッヒも焦土作戦によってリービッヒ軍の物資を奪うことを重視した結果、失地を回復した後、その地域の住民を食わせるために自軍の物資を供出しなければ戦後の統治に影響する。
敵から奪えると見込んでいた物資がない。
それどころか、自分たちの物資まで予定以上に住民へ回している。
第一の誤算だった。
「敵が無能すぎるとこちらにも有害ということか…… 補給のほうは?」
「そちらも芳しくありません。ライプニッツ方面においては、パドゥーラ伯旗を掲げた小部隊が補給線への攻撃を継続しております」
「あの男の配下か。奴が指示しているとは思えんが、本国に有能な将官が残っているようだな」
ホフマンの指が地図の上を動く。
「それ以上に問題なのは、レンヌ・コスタ間でも敵残党による補給線への襲撃です」
「まだ掃討できんのか」
「兵を割いておりますが、成果は上がっておりません。それどころか――」
ホフマンが一瞬、言葉を切った。
「昨日、兵糧庫の一つが焼かれました」
ルートビッヒの目が据わった。
「……なんだと?」
第二の誤算だった。
敗走の過程で取り残されたリービッヒ兵。
当初、ルートビッヒは彼らをさほど問題視していなかった。
指揮系統を失い、数十人、数百人単位で山野を彷徨う敗残兵である。
放っておいても飢えるか、投降する。
そう考えていた。
ところが二か月が経過した現在、その残党が中隊単位で蠢動を始めていた。
補給部隊を襲う。
橋を壊す。
ルートビッヒも放置できなくなり、包囲軍の一部を割いて掃討に当たらせていた。
それでも成果は上がらない。
そしてついに、兵糧庫まで焼かれた。
「モルトたちは何をしている」
ルートビッヒの声から笑みが消えた。
◇
「兵糧庫がやられただと?」
報告を受けたモルトは、思わず立ち上がった。
「簡単な掃討すら出来んというのか!」
彼にとっても意外な報告だった。
味方はリューザスを巡る我慢比べ。
まさか包囲している自分たちの方が先に兵糧を心配することになるなど、誰が予想しただろう。
だが、それはモルトが無能だったからではない。
彼らが追っている相手が、予想以上に厄介だったのである。
◇
「よーく燃えたなぁ」
遠くで上がる黒煙を眺めながら、シェ=ウィンクは呟いた。
リービッヒ王国軍第四師団、第十五中隊長。
それが彼の肩書だった。
もっとも、同僚からの評価は決して芳しいものではない。
良くて――給料泥棒。
平民出身のシェ=ウィンクは、中隊長へ昇進するまでは、有能という言葉が服を着て歩いているような男だった。
命令された仕事は手早く片付ける。
兵士の扱いもうまい。
戦場での判断も早い。
だからこそ、平民という出自にもかかわらず中隊長まで昇進した。
そして――そこで止まった。
中隊長という立場になり、それまで見えなかったものが見えるようになった。
能力より家柄。
功績より人脈。
どれだけ働いても、その上には最初から席を予約されている者たちがいる。
シェ=ウィンクは働くのをやめた。
命令されたことだけをやる。
余計な仕事はしない。
危険なこともしない。
昇進など期待しない。
給料だけ受け取って、適当に軍人生活を終える。
いつしか同僚からは給料泥棒と呼ばれるようになった。
本人も、それで構わないと思っていた。
だが。
「隊長! 見物していないでください。追っ手が来ます!」
「分ーかってる! さっさと運べ! 持てない分は全部燃やせ!」
「はい!」
どうやら人間というものは、本当に死にそうになると変わるらしい。
敗走。
部隊の崩壊。
指揮官の喪失。
補給もない。
行く場所もない。
周囲にはレミーラ兵がいる。
途方に暮れる部下たちを前にして、シェ=ウィンクは久しぶりに頭を使った。
生きなければならない。
自分も。
こいつらも。
そのためには、働くしかなかった。
「東へ抜けるぞ! 三日前に見つけた沢を使う!」
「でも、あそこは行き止まりじゃ――」
「それがいいんだよ。途中で北へ上がれる! 昨日確認した! いいから走れ!」
兵士たちが動き出す。
シェ=ウィンクも最後尾についた。
本人は知らなかった。
自分が今、レミーラ軍の補給計画にどれほど大きな打撃を与えたのか。
彼が狙ったのは、ただの物資集積所だった。
食料が欲しかった。
冬を越すための衣類も欲しかった。
だから襲った。
まさかそこが、リューザス包囲軍を支える中核補給基地の一つだったとは夢にも思っていない。
「隊長!」
「今度はなんだ!」
「肉の塩漬け、思ったよりいっぱいあります!」
「全部持ってけ!」
「持てません!」
「じゃあ食えるだけ食って、残りは燃やせ!」
戦略などない。
祖国を救うという壮大な使命感もない。
リューザスで時間を稼ぐ友軍を助けようなどとは、これっぽっちも考えていない。
ただ、生き残りたいだけだった。
だが、そのために必死になった男が率いる数百人の敗残兵が、結果として数万の軍勢を苦しめ始めていた。
ルートビッヒは当初、彼らを寄生虫程度にしか考えていなかった。
やがてその寄生虫が鬱陶しくなり、兵を送り込んで駆除しようとした。
しかし、駆除するどころか――。
寄生虫の方が、腹を食い破ったのである。
◇
「どうなさいますか?」
ホフマンが尋ねた。
ルートビッヒは答えず、地図を見つめていた。
リューザスを包囲して二か月。
本来ならば、先に音を上げるのは城内の三万であるはずだった。
だが、現実は違う。
現地から得られる物資はほとんどない。
長く伸びた補給線は各地で襲撃を受け、ついには兵糧庫まで焼かれた。
このまま包囲を続ければ、先に苦しくなるのはこちらかもしれない。
「敵戦力の殲滅という作戦目標は、すでに達成しております」
ホフマンは続けた。
「リービッヒ軍は壊滅。残存する三万も、リューザスに封じ込めました。これ以上ここに留まる必要はありません」
そして、静かに付け加える。
「撤退もありかと」
ルートビッヒはしばらく何も言わなかった。
やがて地図から顔を上げる。
「撤退は性に合わん」
口元に、わずかな笑みが戻った。
「ならば、別の手でいく」




