第17話 セントハイムへ(後)
◇
ハンスに案内された店は、大通りから少し外れたところにあった。
大きな窓から柔らかな日差しが差し込み、店内には小さな丸机が整然と並んでいる。酒場のような騒々しさはなく、客たちは茶や食事を楽しみながら、落ち着いた様子で会話を交わしていた。
ジャンは店内を見回した。
「……意外だな」
「おい」
「まだ何も言っていないぞ」
「続きが分かるんだよ」
「いい趣味の店じゃないか」
「ほらな」
「褒めているだろう?」
「『お前みたいな傭兵にしては』って続くんだろ?」
「被害妄想だ」
「相変わらず口が減らねえな、先生は」
言い合いながら、四人は席についた。
ほどなくして、注文した料理が運ばれてくる。
焼きたてのパンに香草を添えた肉料理、野菜をじっくり煮込んだスープ。そして、ユナとリックの前には、焼きたてのアップルパイが置かれた。
「いただきます!」
ユナは待ってましたとばかりにパイへ手を伸ばした。
「姉さん、早いよ」
そう言いながら、リックもパンをちぎる。
「おいしい!」
「ほんとだ。おいしいね」
二人はすっかり料理に夢中になってしまった。
ジャンはその様子を眺めながら、自分の前に置かれた茶を口にした。
「……悪くないな」
「だろ?」
ハンスが得意げに答えた。
「セントハイムに来ると、だいたいここに寄るんだ」
「随分と慣れているんだな」
「そりゃな。ロスバルトにいりゃ、セントハイムには何度も来るからよ」
「仕事でか?」
「仕事もあるし、遠征の行き帰りにも寄る。セイレンじゃ手に入らねえものも多いからな」
ハンスは先ほど買った包みを軽く叩いた。
「子供への土産も、ここで買うのか?」
「そういうことだ」
「何を買ったんだ?」
「上の娘には髪飾り、下の坊主には図鑑だ」
「……へえ」
「何だよ?」
「いや」
ジャンは少し笑った。
「本当に父親なんだなと思って」
「まだ疑ってたのかよ!」
「ジャン、失礼だよ」
アップルパイを頬張りながら、ユナが口を挟んだ。
「お前は食べながら喋るな」
「はーい」
返事だけは素直だった。
ハンスは呆れたように笑っていたが、やがてジャンへ話しかけた。
「しかし先生、意外と教えるのが上手いよな」
「……何の話だ?」
「講義だよ。結構評判いいぞ」
「そうなのか?」
ジャンは少しだけ姿勢を正した。
「何だ、知らなかったのか?」
「毎晩集まってくるから、単に暇を持て余しているだけだと思っていた」
「暇なのもあるけどな」
「おい」
「でも、つまらなかったら二日目から誰も来ねえよ」
「……それは、まあ、そうだな」
「特に金の話は人気あるぜ」
「経済の話か?」
「そう、それだ。難しい言葉はよく分からねえけどな」
ハンスは肩をすくめた。
「俺たち傭兵はいろんな町に行くだろ。給金をもらって、そこで飯を食って、物を買って、家に金を送る。物の値段が上がったとか、税金が変わったとか、そういう話はそのまま生活に響くんだよ」
「なるほど」
「先生の話を聞いてると、あの町であれが高かったのはそういうことかって、分かることが結構あるんだ」
ジャンは黙ってハンスを見た。
ニューアーク大学では、経済を学問として学んだ。
税制、貨幣、交易、都市間の物資流通。
それらの仕組みについては誰よりも詳しいという自負があるし、実際に大学でも優秀な成績を収めていた。
だが、ハンスにとって、それらは学問ではない。
昨日まで買えていたパンが、今日はなぜ高いのか。
給金をどの町で使えば得なのか。
故郷の家族へ、いくら送ることができるのか。
すべてが自分たちの生活に直結している。
ジャンが理論として学んだことを、ハンスたちは日々の暮らしの中で経験しているのである。
「……そういうものか」
「そういうもんだ」
ハンスは茶を一口飲んだ。
「まあ、難しすぎるときもあるけどな」
「どこがだ?」
「先生、説明してるうちに、どんどん楽しくなるだろ?」
「……悪いか?」
「最初はみんな分かってるんだよ。でも、途中から先生一人だけ楽しそうに喋ってるときがあるんだ」
「…………」
「昨日なんか、途中から半分くらい置いていかれてたぞ」
「なぜ質問しない!」
「質問できるところまで戻ってこねえんだよ」
「なら、どうして最後まで聞いているんだ?」
「寝る前にはちょうどいいからな」
「…………何?」
「よく眠れるんだよ」
ハンスは真顔だった。
「先生の講義を聞いた日は寝つきがいいって奴も結構いるぜ」
「それは講義の評判がいいとは言わん!」
ユナが吹き出した。
「分かる!」
「分かるな!」
「ジャン、わたしたちの授業でもそういうことあるよ」
「お前まで言うのか」
「わたしが分からないって言うと、もっと詳しく説明してくれるでしょ?」
「当然だろう。理解できないところがあれば、補足する必要がある」
「でも、もっと分からなくなるんだよ」
「…………」
リックが静かに頷いた。
「ぼくも、たまにある」
「お前ら……」
ハンスが声を上げて笑った。
「まあ、役には立ってるんだからいいじゃねえか」
「俺は睡眠導入剤として雇われた覚えはない!」
「家庭教師と講師だろ?」
「そっちの役に立っていると言え!」
「だから先生も勉強だな」
「……俺が?」
「教える勉強だよ」
ジャンは不満そうに茶を飲んだ。
反論したかった。
しかし、思い当たる節がないわけでもない。
専門的な話になると、つい細かいところまで説明してしまう。相手が理解できないと言えば、さらに詳しい理論を持ち出すこともあった。
自分には分かりきっていることでも、相手にとっては初めて聞く話なのだ。
その違いについて、あまり考えたことはなかった。
ジャンは少し考え込んだが、やがて話題を変えるように窓の外へ目を向けた。
「しかし、セントハイムは随分と平穏なんだな」
「ああ」
窓の向こうでは、大通りを大勢の人々が歩いていた。
商人や職人、買い物客に、元気よく走り回る子供たち。兵士の姿も見えるが、誰も緊張した様子はない。
レンヌの光景を知っているジャンには、同じ都市同盟とは思えないほど平和に見えた。
「こっちは長いこと、大きな戦がないからな」
ハンスが答えた。
「西にはリービッヒ王国があるだろう?」
「あるぞ」
「国境も近いはずだ」
「だから兵は置いてる。でも、ここ何年も大きな動きはねえよ。リービッヒもこっちに手を出してこねえし、こっちも向こうへ攻め込まねえ。小競り合いくらいはあるけど、まあ静かなもんだ」
「それで、これだけ商業が発展したのか」
「それもあるんじゃねえか?」
「曖昧だな」
「俺は学者じゃねえぞ」
「それもそうか」
「殴るぞ」
「また慰謝料が増えるぞ」
「金がねえくせに、そういうところだけ頭が回るんだな」
ジャンが笑い、ハンスも笑った。
「でもまあ、ゼルキアとは違うよな」
ハンスが続けた。
「西にはレミーラがいる。レンヌもあった。今は敵に取られちまったけど、どうしたって戦の話が多くなるだろ」
「……そうだな」
「同じ都市同盟でも、ゼルキアとセントハイムじゃ、置かれている状況が全然違うんだよ」
ハンスは窓の外へ目を向けた。
「ゼルキアからすりゃレミーラが怖い。セントハイムからすりゃリービッヒが気になる。俺たちセイレンからすりゃ……」
そこで少し笑った。
「どっちも偉そうで面倒くせえ」
「お前、それをここで言うのか?」
「こんな店で一兵卒の話なんか、誰も気にしねえよ」
「傭兵らしいな」
「セイレン人らしいって言ってくれ」
ジャンは苦笑した。
しかし、妙に納得もしていた。
都市同盟は、一つの国家のように呼ばれている。
だが実際には、それぞれの都市が独自の政治制度や利害を持ち、置かれている状況も違っている。
ゼルキアにとっての脅威が、そのままセントハイムにとっての脅威になるとは限らない。セイレンのような都市に至っては、宗主都市との関係まで考えなければならないのである。
もちろん、そのようなことは大学でも学んでいた。
だが、実際に町を歩き、そこで暮らす人間の話を聞いてみると、教科書で読んだ知識とはまた違って感じられた。
「ジャン!」
ユナが声をかけてきた。
「何だ?」
「このサウスウィンドウ産オレンジのタルトも頼んでいい? わたし、オレンジ大好きなの!」
見ると、ユナが品書きに載っている別の菓子を指差していた。
すでにアップルパイは綺麗になくなっている。
「俺に聞くな」
「何で?」
「金を払っているのはハンスだ」
その言葉を聞いたユナとリックが、揃ってハンスを見た。
「…………」
ハンスはやれやれといった顔で品書きを眺めた。
「いいぞ」
「やったぁ!」
ユナの顔が一気に明るくなる。
「じゃあ、ぼくもこれがいい!」
リックまで隣の菓子を指差した。
「おい、待て」
ジャンが口を挟んだ。
「二つも追加するのは悪いだろう」
「いいって」
ハンスはあっさり答えた。
「ただし――」
そこで親指をジャンへ向けた。
「こっから先は、こいつにつけとく」
「…………は?」
ジャンの顔から笑みが消えた。
「待て。何で俺なんだ?」
「お前が最初に奢るって言ったんだろ?」
「それは金を持っていると思っていたからだ!」
「払うつもりがあったんなら、後払いでもいいじゃねえか」
「よくない!」
「ジャン、ごちそうさま!」
ユナが満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、ジャン」
リックまで嬉しそうに頭を下げる。
「まだ頼んでもいない!」
「すみませーん!」
ハンスが店員を呼んだ。
「おい、待て!」
ジャンの制止を完全に無視して、ハンスは菓子を二つ追加した。
「これでまた借金が増えたな」
「増やすな!」
「いいじゃねえか。もう随分と借金を抱えてるらしいだろ?」
「…………誰から聞いた?」
「みんな知ってるぞ」
「なぜだ!」
「団長が楽しそうに喋ってた」
「ユマァ……!」
この場にいない債権者へ、ジャンの怒声が飛んだ。
ハンスは腹を抱えて笑った。
「今さら菓子二個増えたところで、誤差の範囲だろ。大して変わらねえよ」
「…………」
ジャンは絶句した。
反論しようと口を開く。
しかし、頭の中で現在の借入金を計算してみると、確かに菓子二個分など総額から見れば微々たるものだった。
グリフィスへ支払われた補填金。
救出にかかった費用。
おまけに複利で増え続ける利息。
そこへ追加される、焼き菓子二個。
確かに、誤差と言えなくもない。
「……もういい。好きにしてくれ」
ジャンは力なく椅子にもたれた。
やがて、追加の菓子が運ばれてくる。
「いただきます!」
「いただきます」
ユナとリックは嬉しそうに食べ始めた。
ハンスも満足そうに茶を飲んでいる。
ジャンだけが、黙って天井を見上げていた。
死刑を免れてからというもの、どういうわけか彼の借金だけは、実に順調に増え続けていた。




