第16話 セントハイムへ(前)
アーネム大陸セントハイム地方図
◇
数日後。
ゼルキアを離れたロスバルト傭兵団は、セントハイムへ向かう街道を進んでいた。
日が暮れると、一行は街道沿いに野営地を設けた。あちこちで焚き火が焚かれ、夕食を煮込む鍋から湯気が立ち上っている。兵士たちは思い思いに食事を取り、武具の手入れをしたり、仲間と談笑したりしていた。
その一角で、ジャン=ワイズマンは焚き火の前に座っていた。
向かいにはユマ=リズナー。その隣には、ユナとリックが並んで座っている。
ジャンはしばらく黙って火を眺めていたが、やがて口を開いた。
「それで、当面の俺の仕事は何なんだ?」
「家庭教師」
「……家庭教師?」
あまりにも予想外の答えに、ジャンは聞き返した。
ユナとリックが揃って笑う。
「誰のだ?」
「見れば分かるだろ?」
ユマは隣の二人を指差した。
「ユナとリックの」
「俺が?」
「あんたが」
「なぜ?」
「あんた、知識だけは一流だからね」
「待て。知識だけとは何だ」
ジャンの眉が動いた。
「俺はニューアーク大学を主席で卒業し、法学と医学の両方を修めた人間だぞ。中央政府でも――」
「まあ、それはいいとして」
「よくない!」
ユマは綺麗に無視した。
「この子たちはセイレン市長の弟妹だからね。将来どんな仕事に就くにしても、相応の教育は受けさせておきたいんだよ。読み書きや算術は一通り教えてあるけど、そろそろ難しいことも勉強させたかったし」
「それで俺か?」
「せっかく高等教育を受けた専門家がいるんだから、使わないともったいないだろ?」
「俺は教材か何かか」
「そんな立派なものじゃないよ。ただの借金持ちさ」
「…………」
ジャンは額を押さえた。
ついこの間まで中央政府の官僚だったはずなのだが、どうしてこんな扱いになってしまったのだろう。
「よろしくね、先生!」
「よろしくお願いします、先生」
ユナが笑い、リックもそれに続いた。
ジャンは二人を見た。
レンヌの医療班で一緒に働いていた頃から、二人にはいろいろと教えてきた。読み書きも計算も十分にできるし、教えたことを理解するのも早い。家庭教師を務めること自体は、さほど難しくないだろう。
問題は、なぜ自分がそんな仕事をしなければならないのかということだった。
「それだけじゃないよ」
ユマが続けた。
「……まだあるのか?」
「隊員たちへの講義もお願いしたいんだ」
「講義?」
「読み書き、算術、法律、政治、経済。まあ、その辺りだね」
ジャンは顔を上げた。
「兵士に教えるのか?」
「傭兵に法律や経済は必要ないとでも?」
「そうは言っていないが……」
「ハンスからも頼まれているんだよ」
「ハンス?」
「ほら、あんたを殴った奴」
「あいつか!」
忘れるはずもなかった。
レンヌへ赴任して間もない頃、ロスバルトをならず者呼ばわりした結果、見事に殴り飛ばしてくれた男である。
「どうしてあいつが、俺の講義を聞きたがるんだ?」
「面白かったんだってさ」
「殴っておいてか?」
「殴ったことと、あんたの話が面白かったことは別だろ?」
「どういう理屈だ……」
「ほかにも希望者は結構いるんだよ。レンヌにいた頃、あんたは食堂で隊員たちといろんな話をしてただろ?」
ジャンは黙った。
確かに、税制や物価、都市ごとの産業、貨幣制度については何度も話した。
最初は、専門的な知識のない傭兵に説明しても理解できないだろうと思っていた。しかし、実際には質問が次々と返ってきた。中には、現実の商取引や生活に即した疑問を投げかけられ、ジャン自身も考え込んでしまうことがあった。
思い返せば、あれはあれで面白い時間だった。
「……なるほどな」
「そういうわけで、移動中は二人の家庭教師。夜営地では希望者に講義をしてもらうよ。セイレンまではまだ二十日以上かかるから、時間はあるだろう?」
「俺はまだ病み上がりみたいなものだぞ」
「そうだねぇ。さっきも靴擦れしたって騒いでたし」
「…………」
「まあ、本来の仕事とは別だから、追加の手当は出すよ」
ジャンの目がわずかに動いた。
「いくらだ?」
「食いついた」
ユマが笑った。
「食いついた!」
ユナまで真似する。
「うるさい! 俺には借金があるんだ!」
「誰から借りたの?」
「お前だよ!」
ユナとリックが堪えきれずに笑った。
ユマも満足そうに頷く。
「じゃあ、決まりだね」
「待て。まだ手当の金額を聞いていない」
「ちゃんと払うって」
「具体的な金額を言え。労働条件は契約前に明確にするべきだろう」
「細かい男だねぇ」
「お前との金銭契約で細かくならない奴は破産する!」
「失礼だね」
「複利で身代金を貸し付ける奴が言うな!」
ジャンの怒声が野営地に響き、近くにいた兵士たちが何事かと振り返った。
その中に、見覚えのある顔があった。
「おっ、先生じゃねえか!」
ハンス=ベッカーだった。
「誰が先生だ!」
「講義、明日からやるんだって?」
「…………」
ジャンはユマを見た。
ユマは笑っている。ユナも笑い、リックまで口元を押さえていた。
どうやら、断る余地など最初からなかったらしい。
「……分かった」
ジャンは大きく息を吐いた。
「やればいいんだろう。やれば。ただし、追加の手当については後で正式に取り決めるからな」
「はいはい。よろしくね、先生」
「よろしく、先生!」
「よろしくお願いします、先生」
「おう、俺も頼むぜ、先生!」
「お前ら……」
ジャンは頭を抱えた。
ニューアーク大学主席。
元ゼルキア中央官僚。
死刑囚を経て、今度は家庭教師と講師になった。
しかも、生徒は十二歳の双子と傭兵たちである。
幼い頃からジャン=ワイズマンが想像していた華々しい人生は、どうやら随分と妙な方向へ進み始めていた。
◇
それからしばらくして、ロスバルトの一行はセントハイムへ到着した。
翌朝。
「じゃあ、私たちはこれからセントハイムの庁舎へ行ってくるから」
宿の玄関で、ユマがそう告げた。
すでに外出の支度を整えており、隣にはトウヤが控えている。
ジャンは椅子に腰掛けたまま二人を見た。
「出頭か?」
「人聞きが悪いねぇ」
「出頭要請を受けたんだろう?」
「まあ、間違っちゃいないけどさ」
ユマは面倒そうに頭を掻いた。
「レンヌから帰ってきたと思ったら、ゼルキアであれだけ派手にやっただろう? 事情を説明しろって呼び出されたんだよ」
「大変だな」
「セイレンの宗主都市様だからねぇ」
その言葉には、わずかに棘があった。
セイレンは都市同盟の一員ではあるものの、セントハイムとの間には宗主都市と従属都市という関係が存在する。そのため、ロスバルトのような有力な傭兵団であっても、セントハイムからの要請を無視するわけにはいかなかった。
「まあ、罰を受けるとか、そういう話じゃないと思うけどね。レンヌの事情を聞いて、ゼルキアの失敗を笑ってやりたいんだろうさ」
「なるほど。ありそうな話だ」
「こっちとしても説明しておいた方がいいことはあるし、行ってくるよ」
ユマはそう言うと、ユナとリックへ目を向けた。
「たぶん一日潰れるから、今日は授業も休みにするよ。あんたたちも好きにしてていいからね」
ユナの顔がぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「ああ。ただし、変なところへ行くんじゃないよ」
「行かないよ!」
「リックも頼んだよ」
「分かってる」
ユマは満足そうに頷き、最後にジャンを見た。
「じゃあ先生、二人をよろしく」
「待て」
「何だい?」
「なぜ俺が引率なんだ?」
「家庭教師だろ?」
「授業時間外だ」
「細かいねぇ。じゃあ、労働時間外の追加手当も出すよ。それでいいだろ?」
「よくない。まず金額を決めろ」
「はいはい。じゃあ、よろしく」
「おい!」
ジャンの抗議を綺麗に無視して、ユマはトウヤとともに宿を出ていった。
残されたジャンは、閉まった扉をしばらく睨んでいた。
「……本当に腹の立つ女だな」
「姉さま、今日も元気だったね」
「お前の感想はそれなのか?」
ユナが楽しそうに笑った。
「ねえ、ジャン。せっかくだから町を見に行こうよ!」
「……まあ、そうするか」
せっかくセントハイムまで来たのである。
政治や経済を学んできた人間として、都市同盟有数の商業都市を見ておくのも悪くはなかった。
◇
「……なかなかの町だな」
セントハイムの大通りへ出たジャンは、素直に感想を口にした。
道の両側には立派な石造りの建物が並び、その一階には様々な商店が軒を連ねている。布や陶器、香辛料、宝飾品、書物、食料品など、扱われている商品も実に幅広かった。
通りには荷車が絶えず行き交い、商人たちの呼び声があちこちから聞こえてくる。街角では旅商人らしい一団が値段を交渉し、その向こうを仕立ての良い服を着た男女が歩いていた。
ゼルキアとは、まるで違う雰囲気だった。
都市同盟の中心であるゼルキアは、政治や軍事、学問を重んじる質実剛健な気風が強い。それに対してセントハイムは、行き交う人々の服装から店先の装飾に至るまで、どこか華やかさが感じられた。
「さすが同盟第二の都市だ」
「第二?」
ユナが不思議そうにジャンを見上げた。
「同盟一じゃないの?」
「何を言っている。第一はゼルキアだ。だから都市同盟の中央本部も置かれているんだろう」
「でも、商売ならセントハイムの方が上だって姉さまが言ってたよ」
「商業だけで都市の格が決まるわけじゃない」
「そうなの?」
「人口、政治、学術、工業、軍事。総合的に考えれば、ゼルキアが都市同盟第一の都市だ」
「ふーん」
ユナはあまり納得していない様子だった。
「でも、姉さまはセントハイムの方がお金持ちだって言ってたよ」
「だから商業ではそうだと言っているだろう」
「じゃあ、商売ではセントハイムが一番なんでしょ?」
「そうだ」
「だったら、セントハイムが一番じゃない?」
「お前は人の話を聞いているのか?」
「聞いてるよ!」
ユナが笑った。
ジャンは額を押さえた。
どうやら、この少女にとって都市の優劣を決める重要な基準は、どれだけ金を稼げるかということらしい。
誰に似たのかは、考えるまでもなかった。
「……まあいい。次の店へ行くぞ」
三人は再び大通りを歩き始めた。
しばらくすると、通りの一角から甘い香りが漂ってきた。
「……お腹すいた」
ユナが呟いた。
ジャンは呆れて振り返った。
「お前、いつも腹を減らしているな」
「育ち盛りだから!」
「便利な言葉だな、それは」
ユナは近くの菓子屋を指差した。
店先には焼きたての菓子がいくつも並び、甘い香りが通りまで漂っている。
「あれ食べたい!」
「そうか」
「ジャン、奢って!」
「俺が?」
「保護者でしょ?」
「家庭教師は生徒の食費まで負担しない」
「一個だけ!」
「……仕方ないな」
ジャンはため息をついた。
そういえば、レンヌにいた頃、二人に好きなものを食べさせると約束していた。あの約束をまだ果たせていないことは、ジャン自身も覚えている。
菓子の一つくらい、買ってやってもいいだろう。
そう思い、懐へ手を入れた。
「…………」
探る。
何もない。
反対側の懐も探ってみる。
「…………」
「どうしたの?」
ユナが首を傾げた。
「……ちょっと待て」
「お金ないの?」
「…………」
ジャンは黙った。
そうだった。
自分には財布がない。
そもそも刑務所から身一つで連れ出されたのである。財産どころか、今着ている服でさえロスバルトから借りたものだった。
給金についても、まだ現金では一度も受け取っていない。
つまり、今のジャンは完全な無一文だった。
「……残念」
ユナが心底残念そうに呟いた。
「その顔をするな!」
「だって、奢ってくれるって言ったのに……」
「金さえあれば奢っている!」
「でも、借金もあるもんね」
「知っているなら言うな!」
ジャンが頭を抱えた、そのときだった。
「何やってんだ、先生?」
聞き覚えのある声がした。
三人が振り返る。
「あっ!」
ユナが声を上げた。
「ハンスさん!」
そこに立っていたのは、ハンス=ベッカーだった。
今日は鎧を着ておらず、普段の軍装とも違う、ごく普通の市民と変わらない服装をしている。しかも、両手にはいくつもの包みを抱えていた。
「ハンスさん、何してるの?」
「見りゃ分かるだろ。買い物だよ。今日は非番なんだ」
ハンスは包みを軽く持ち上げた。
「それ、何?」
「土産だ」
「誰に?」
「うちのガキども」
ジャンは思わずハンスを見た。
「……お前、子供がいるのか?」
「あ?」
ハンスが眉を寄せる。
「いて悪いか?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
「何だよ、その意外そうな顔は」
「お前が人の親だとは思わなかった」
「相変わらず失礼な野郎だな!」
「ジャン、ハンスさんに失礼だよ」
ユナまで注意してきた。
「……俺だけが悪いのか?」
「当たり前だろ!」
ハンスは呆れながら三人を見た。
「それで、お前らは何してたんだ?」
「ジャンがお金持ってなかったの」
ユナが即答した。
「言うな!」
「お菓子を奢るって言ったのに」
「だから言うな!」
ハンスは一瞬きょとんとしたあと、大声で笑い始めた。
「何だ先生、金ねえのか!」
「笑うな!」
「ニューアーク大学主席様が無一文とはな!」
「いろいろあったんだよ!」
「知ってるよ!」
ハンスは腹を抱えて笑っていたが、やがて店先の菓子へ視線を向けた。
「……しょうがねえな」
「何がだ?」
「俺が奢ってやるよ」
「いらん」
「何でだよ?」
「これ以上、借金を増やしてたまるか」
「貸すんじゃねえよ」
ハンスは自分の拳を軽く握って見せた。
「ほら、前にお前を殴っただろ? あのときの慰謝料だ。レンヌの食堂で水を奢っただけじゃ、さすがに安すぎるからな」
「……なるほど」
ジャンは少し考えた。
「だが、菓子だけではまだ安い慰謝料だな」
「じゃあ、いらねえな?」
「待て」
「いるのかよ!」
「俺はいらん。代わりに二人へ買ってやってくれ」
ユナの顔がぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「おう。好きなの選びな」
「やったぁ!」
ユナは早速、菓子を選び始めた。
「……先生より話が分かるね」
リックまでそんなことを言っている。
「聞こえているぞ」
ハンスは笑いながら二人を眺めていたが、やがてジャンへ向き直った。
「菓子だけじゃ何だし、せっかくだ。飯でも食ってくか?」
「いい店を知っているのか?」
「ああ」
「お前が?」
「……先生」
「何だ?」
「今の一言で慰謝料なしにしてもいいんだぞ?」
「…………悪かった」
「よろしい」
ハンスは満足そうに頷くと、三人を案内して歩き始めた。




