第15話 契約
◇
死刑執行日の朝。
ジャンは夜明け前に起こされた。
眠れたのか。
眠れなかったのか。
もう、自分でも分からなかった。
身体を洗われた。
服を替えさせられた。
簡単な食事も出された。
だが。
ほとんど喉を通らなかった。
「時間だ」
「……はい」
目隠しをされた。
何も見えなくなる。
両腕を取られ。
歩かされる。
廊下。
階段。
いくつかの扉。
やがて。
朝の冷たい空気が頬へ触れた。
外へ出たらしい。
馬の鳴き声が聞こえる。
「乗れ」
「……馬車?」
返事はなかった。
ジャンは促されるまま、馬車へ乗った。
子どもの頃。
死刑囚が馬車で処刑場へ運ばれるところを見たことがある。
自分も。
あれと同じなのだろう。
扉が閉じられた。
しばらくして。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を叩く。
ガタガタ。
ガタガタ。
ジャンは目隠しをされたまま、黙って座っていた。
不思議と。
恐怖はなかった。
いや。
恐怖を感じ続けることにも。
もう疲れたのかもしれない。
◇
馬車は、がたがたと音を立てながら走り続けていた。
「…………」
目隠しをされたまま、ジャンはわずかに眉をひそめる。
処刑場というのは、こんなに遠かっただろうか。
牢から連れ出されてから、すでにかなりの時間が経っている。それでも馬車が止まる気配はなく、車輪が石を踏むたびに身体が小さく揺れた。
やがて、馬車の速度が少し落ちた。
「……」
ジャンは無意識に背筋を伸ばした。
着いたのか。
そう思って身構える。
この馬車が止まれば、次に降りる場所が自分の最期の場所になる。
だが――
馬車は止まらなかった。
しばらくゆっくり進んだ後、何事もなかったように再び速度を上げる。
「…………」
ジャンは小さく息を吐いた。
それから、さらに時間が過ぎた。
「……まだですか?」
返事はない。
「処刑場まで、あとどれくらいです?」
やはり誰も答えない。
聞こえてくるのは、馬車の軋む音と馬蹄の響きだけだった。
「…………?」
その時だった。
「クスッ」
ジャンが顔を上げる。
「……?」
今、誰か笑わなかったか。
気のせいだろうか。それとも、死ぬ直前には幻聴でも聞こえるようになるのだろうか。
「くっ……」
まただ。
「……誰かいるんですか?」
返事はない。
だが今度は、はっきりと聞こえた。
「ふっ……ふふっ……」
明らかに、誰かが笑いを堪えている。
「…………」
ジャンの眉間に皺が寄った。
「いったい何なんです?」
「もう……無理……」
「……?」
聞き覚えのある声だった。
「え?」
「あははははは!」
とうとう耐えきれなくなったらしい。少女の大きな笑い声が、狭い馬車の中へ響き渡った。
ジャンは目隠しをされたまま固まった。
「……ちょっと待て」
この声。
「ユナ?」
「あははは! ごめん、ジャン! もう無理!」
「…………は?」
今度は隣から、リックの笑い声まで聞こえてくる。
そして、もう一人。
「まったく。もう少し我慢しなさいよ」
「だって姉さま! ジャンがずっと『まだですか』って……!」
「……ユマ?」
ジャンの声が裏返った。
直後、目隠しが外される。
「っ……」
突然差し込んだ光に目を細め、何度か瞬きをするうちに、少しずつ視界が戻っていった。
最初に見えたのは、目の前で腹を抱えて笑っているユナだった。
「ジャン、すごい顔!」
「…………」
その横にはリック。
さらに、その向こうにはユマがいる。
ジャンは三人を順番に見た。
「…………何してるんです?」
「見れば分かるでしょ」
「分からないから聞いてるんです!」
ユナがまた吹き出した。
「元気じゃない」
「処刑場は!?」
「行かないわよ」
「…………は?」
ユマは、まるで今日の夕食でも告げるような気軽さで答えた。
「あなたを買ったの」
ジャンが固まった。
「…………はい?」
「だから、あなたを買った」
「……どういう意味です?」
「そのままの意味」
「説明になってない!」
「詳しい話は帰りながら」
「帰る?」
「セイレンに」
「…………」
ジャンは再び固まった。
セイレン。
帰る。
自分が?
呆然としているジャンの袖を、ユナがそっと引いた。
「ジャン」
「……なんだよ」
ユナはまだ笑っていた。
ただ、笑いすぎたせいなのか、それとも別の理由なのか、目元には涙が浮かんでいる。
「おかえり」
一拍置いて、もう一度呼ぶ。
「ジャン」
「…………」
ジャンは何も言えなかった。
ただ、目の前にいる三人を見つめる。
ここは処刑台ではない。
牢獄でもない。
馬車は、確かにゼルキアから遠ざかっている。
自分は生きている。
死ぬはずだったのに、まだ生きている。
「……」
何か言わなければと思った。
けれど喉が詰まり、どうしても言葉にならない。
結局、ジャンは何も言えないまま、セイレンへ向かって走り続ける馬車に身を預けた。
◇
「しかし――」
しばらくして、ジャン=ワイズマンは寝台の上で身体を起こし、ユマを見た。
「一つ聞きたいことがある。どうやって俺を買ったんだ?」
ジャンは死刑判決を受け、刑の執行まで決まっていた人間である。それを執行直前に連れ出し、記録上は処刑済みとして扱わせたのだ。
いくらゼルキアが腐敗しているとはいえ、ただ金を積んだだけで済む話とは思えなかった。
ところが、ユマはさも当然のように肩をすくめた。
「ゼルキアって便利だよねぇ」
「何がだ?」
「お金さえあれば、なんだって買えるんだから」
にこりと笑う。
「…………」
ジャンは黙った。
否定できないのが、なおさら腹立たしかった。
「まあ、いろいろとルートがあるのよ」
「ルート?」
「そう。あんたの知らないところにも、いろいろあるってこと」
「死刑囚を買えるルートが存在すること自体、おかしいだろう」
「ゼルキアだからねぇ」
「便利な言葉にするな!」
ユマは楽しそうに笑ったが、すぐに少しだけ表情を変えた。
「まあ、今回はちょっと面倒だったけどね」
「面倒?」
「グリフィスが、だいぶごねてね」
その名前を聞いた瞬間、ジャンの目が細くなった。
「あいつ、本当にあんたらに消えてもらいたかったみたいだよ」
「……あんたら?」
「ああ、そっか。何も知らないんだったね」
ユマは椅子の背にもたれた。
「あんたみたいに濡れ衣を着せられた人間は、ほかにも何人もいるんだよ。みんなレンヌ失陥の責任を押しつけられた連中さ」
「……そうだったのか」
「生かしておけば、いつ何を話されるか分からない。だから刑の執行日まで無理やり早めるし、こっちが身柄の引き渡しを持ちかけても、なかなか首を縦に振らない。結構大変だったんだからね」
ジャンは眉をひそめた。
自分だけではなかったのか。
グリフィスはレンヌ失陥の責任を逃れるため、複数の人間を罪人に仕立て上げ、口封じを図っていたらしい。
そう考えれば、異例の速さで死刑執行が決まったことにも説明がつく。
「……あの男ならやりかねないな」
「でしょ? でも、何人もいたからこそ、一人くらいならどうにかなったし、こっちも交渉の条件をまとめられたのよ」
「条件?」
「まず、ロスバルトはレンヌ司令部の不正について何も知らない。これから先も、外で余計なことは話さない」
「……口止めか」
「そういうこと」
ユマは指を一本立てた。
「それから、今回の裁判や処刑についても、ロスバルトから異議を申し立てない。あんたを含めて、記録上は全員きちんと処理されたことにする」
「……なるほど」
「そして、最後が一番面倒だったんだけどね」
ユマは少し嫌そうな顔をした。
「グリフィスがレンヌで失った財産。その一部について、こっちから補填金を出すことになったのよ」
「……あいつ」
ジャンの頬が引きつった。
「あの状況で、まだ金を取るのか?」
「取るのよ。まあ、あいつもため込んだ資産を失ったから話に乗った」
「救いようがないな」
「まったく同感だね」
ユマは呆れたように肩をすくめた。
「もっとも、高い金を払うだけになりたくないから、条件を全部のませて、あんたの身柄を引き取ったわけさ」
「…………」
「まあ、そんなところかな」
ジャンはしばらく考え込んだ。
グリフィスのような男が相手なら、金銭による交渉そのものは成立し得るだろう。しかも、ロスバルトが今後の追及を放棄するという条件までついている。
グリフィスにとっては、かなり都合のよい取引だったはずだ。
その代わりとして、自分は牢獄から救い出された。
「……そういうことか」
「ああ、それともう一つ」
「まだあるのか?」
「あんたは記録上、死刑を執行されたことになってる。つまり、ゼルキア市民としての身分も、もうないんだよ」
「……ああ」
「当然、今後はゼルキア市への立ち入りも禁止。これも引き渡しの条件だからね」
ジャンは何も言わなかった。
自分は、もうゼルキア市民ではない。
故郷へ帰ることもできず、実家を訪ねることも、ニューアーク大学へ顔を出すこともできない。
将来は評議会議長になると豪語し、そのために積み上げてきた学歴も経歴も、ゼルキアではすべて死んだ人間のものになってしまった。
改めて言葉にされると、胸に来るものがないわけではなかった。
もっとも、家族に会えなくなることについては、残念とも思わなかったが。
「……まあ」
ジャンは小さく息を吐いた。
「生きているだけ、ましか」
「そういうことさ」
ユマはあっさり答えた。
「そのせいで、まあ……」
そこで、妙な間が空いた。
「値段も上がったけどね」
「……上がった?」
ジャンが眉を寄せると、隣で聞いていたユナがおかしそうに笑った。
「ジャン、高かったんだね!」
「人を商品みたいに言うな!」
「でも、姉さまが買ってきたんでしょ?」
「そういう話ではない!」
ジャンはため息をつくと、改めてユマを見た。
「……すまなかったな」
「ん?」
「助けてもらった。礼は言っておく」
「ああ、いいよ」
ユマはそう答えると、ちらりと横を見た。
「まあ、礼ならこの二人にも言ってやりな」
「二人?」
「あんたの死刑が決まってから、散々泣きつかれたんだからね」
ユマはユナとリックへ目を向けた。
「ジャンを助けてくれ、何とかしてくれって、もう大変だったよ。犬や猫じゃないんだから、そんな簡単に拾ってこられないって言っても聞かないし」
「姉さま!」
「その言い方はひどいよ!」
ユナが頬を膨らませ、リックも少し気まずそうに視線を逸らした。
「本当のことだろ? あんたたち、毎日うるさかったじゃないか」
「だって……」
ユナはジャンを見た。
「ジャン、何も悪いことしてないのに、死刑だって言うから……」
「……」
「そんなの、おかしいよ」
リックも小さく頷いた。
「それに、ジャンは約束してくれたから」
「……約束?」
「レンヌから帰ったら、三人でご飯を食べに行こうって」
ジャンは二人を見つめた。
覚えている。
包囲されたレンヌの医療班で、何の気なしに交わした約束だった。
好きなものを食べさせてやる。
肉でも魚でも、甘い菓子でも、好きなだけ食べればいい。
あのときの自分にとっては、大した金額でもない、取るに足らない約束だった。
だが、二人は覚えていたのだ。
処刑を待っていた夜、ジャンはユナの笑顔を夢に見た。
もう二度と会えないと思っていた。
約束を守ることもできず、二人に謝ることさえできないのだと。
「……そうか」
それ以上の言葉は、すぐには出てこなかった。
ユナが笑った。
リックも小さく笑った。
ジャンは二人を見つめ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
しかし、二人には十分聞こえたらしい。
「うん!」
「どういたしまして!」
ユナとリックが嬉しそうに答えた。
それを見ていたユマが、満足そうに頷いた。
「さて」
ぱん、と手を叩く。
「まあ、それはそれとして」
妙に明るい声だった。
「ジャン」
「何だ?」
「今、名前を書ける?」
「……名前?」
「そう」
ユマがジャンの顔を覗き込んだ。
「意識ははっきりしてる?」
「見れば分かるだろう」
「じゃあ、元気だね」
「何なんだ、さっきから」
「ちょっと確認したいことがあるのよ。ここに名前を書いておくれ」
ユマは懐から紙とペンを取り出し、ジャンへ差し出した。
ジャンは訝しみながら受け取った。
「ここか?」
「そうそう。そこにお願い」
「……何の確認だ?」
「まあ、ちょっとした手続きだよ」
ジャンは面倒そうに息を吐いた。
死刑執行を免れたばかりで、まだ頭が十分に働いているとは言い難い。それに、命の恩人が自分の名前を書けと言っているだけなのだから、わざわざ疑う必要もないだろう。
長年の習慣で、ジャンは示された欄へさらさらと署名した。
ジャン=ワイズマン。
大学時代から数え切れないほど書いてきた自分の名前だった。
ユマは紙を受け取ると、感心したように眺めた。
「へぇ」
「何です?」
「さすが元官僚。綺麗な字だねぇ」
「元をつけるな」
「じゃあ――」
ユマがにっこり笑った。
「契約成立っと」
「…………」
ジャンの動きが止まった。
「……今」
「ん?」
「何と言った?」
「契約成立」
「……契約?」
「うん」
ユマは満足そうに頷き、紙を折り畳もうとした。
「待て」
「何だい?」
「その紙は何だ?」
「紙?」
「見せろ」
「あっ」
「見せろ!」
ジャンはユマの手から紙を奪い取り、上から順に読み始めた。
一行、二行と読み進めるうちに、眉間の皺が深くなっていく。
そして三行目を読んだところで、顔から血の気が引いた。
「…………おい」
「何?」
「何だ、これは」
「借用書と労働契約書だよ」
「それは読めば分かる!」
ジャンは紙を突きつけた。
「なぜ俺が、こんなものに署名しているんだ!」
ユマはきょとんとした顔をした。
「誰が――」
そこで一拍置いた。
「ただで助けたなんて言った?」
「……は?」
「身代金を肩代わりしてもらったんだから、返済するのは当たり前だろ?」
「待て待て待て!」
ジャンは慌てて借用書へ目を戻した。
金額を見る。
桁を数える。
目を擦って、もう一度確認する。
「……何だ、この金額は!」
「何が?」
「レンヌでロスバルトに支払っていた契約報酬と、大差ないじゃないか!」
「評価が高いだろ?」
「ジャン一人で、そんなにしたんだ!」
ユナまで驚いたように声を上げた。
「そんな評価、喜べるか!」
ジャンは紙を握り締めた。
「そもそも、何でこんな大金になるんだ!」
「グリフィスへの補填金だけじゃないからね。交渉にかかった費用や、あんたをここまで運ぶ手間もあるし」
「それを全部俺に請求するのか!?」
「当然だろ?」
「当然なものか!」
ユマは笑いながら続けた。
「まあ、安心しておくれ。ちゃんと働けば返せるようにしてあるから」
「……働く?」
「そう。労働契約書もあるだろ?」
ジャンは改めて書類を見た。
確かに、借用書の後ろには労働条件が並んでいた。
雇用主はロスバルト傭兵団。
勤務地はセイレン。
給与の支払い条件から、借入金の返済方法まで細かく記載されている。
「……何だ、これは」
「だから労働契約だって」
「俺はまだ働くとも言っていない!」
「大丈夫だよ」
ユマがにっこり笑った。
「お給料は主席殿にふさわしく、中央官僚時代より高くしてあるから」
「……」
「大昇給だよ。気前がいいだろ?」
「そういう問題じゃない!」
「働かないで、どうやって借金を返すのさ?」
「そもそも俺は借金することに同意していない!」
「でも、さっき署名したよね?」
「お前が騙して書かせたんだろうが!」
「ちゃんと書いてあるじゃないか」
「読ませろ!」
「今読んでるだろ?」
「そういう意味じゃない!」
ジャンは頭を抱えた。
しかし、そのとき、借用書のある一文が目に入った。
「……おい」
「今度は何だい?」
「元本の返済だけじゃないのか?」
「もちろん」
「……金利付き?」
「うん」
嫌な予感がした。
ジャンはさらに読み進めた。
返済期間。
利率。
利息の計算方法。
そして、最後の一文を読んだところで絶句した。
「…………複利?」
ユマの顔が、ぱっと明るくなった。
「私ね――」
「…………」
「複利って大好きなのよ」
「…………」
「利息にまで利息がつくなんて、素晴らしい仕組みだと思わない?」
ユマは楽しそうに両手を広げた。
「時間が経つほど、どんどん増えていくんだよ。金利の仕組みを考えた人って、本当に素敵よね」
「それはセントハイム人だ!」
ジャンが叫んだ。
「ゼルキア人は、そんな阿漕なことはしない!」
「今さらゼルキアを庇うのかい?」
「それとこれとは別だ!」
ジャンは借用書を握り締めた。
「認めん!」
「何を?」
「こんな契約は無効だ! 裁判を要求する!」
「いいよ」
「…………」
あまりにもあっさり返され、ジャンは一瞬黙った。
「……いいのか?」
「うん」
「ならば、すぐに――」
「ところで、どこで裁判するんだい?」
「……どこって」
ユマがにこりと笑った。
「あんた、もうゼルキア市民権はないけど」
「…………」
「ゼルキアで裁判を起こすつもり?」
「……」
「市内への立ち入りも禁止されてるよね?」
「…………」
「それとも――」
ユマは自分を指差した。
「セイレンでやる?」
「……」
「私、市長なんだけど」
「…………」
ジャンの口元が震えた。
しかし、ニューアーク大学主席はまだ諦めない。
「心神喪失状態で締結された契約は無効だ!」
びしりとユマを指差した。
「俺は死刑執行直前に連れ出され、長期間拘束されたうえ、極度の精神的苦痛を受けた直後なんだぞ! 正常な判断能力を欠いていたことは明白だ!」
「うん」
「したがって、この契約には法的効力が――」
「こんなに元気なのに?」
ユマが笑った。
「…………」
「さっきから私に怒鳴りっぱなしじゃないか」
「それと判断能力は別だ!」
「へぇ。そんなに頭が働くなら、契約書くらい読めたんじゃない?」
「ぐっ……!」
ジャンは言葉に詰まった。
正論だった。
いや、正論に聞こえるのが腹立たしい。
法律を学び、ニューアーク大学を主席で卒業した自分が、契約内容を一切確認せずに署名してしまったのである。
しかも、相手はユマ=リズナー。
出会って以来、散々嫌味を言い合い、一度たりとも気を許した覚えのない女だった。
そんな相手を、命の恩人だからという理由だけで信用してしまった。
「……不覚だ」
「そうだねぇ」
「お前が言うな!」
「姉さま」
とうとうユナが口を挟んだ。
「何だい?」
「ひどい」
ジャンも大きく頷いた。
「ユナ、俺もそう思う」
「でしょ?」
「ちょっと、二人とも」
「だいたい、せっかく助けた人からお金を取るなんて!」
「助けるのにもお金がかかったんだよ」
「でも複利はひどいよ!」
「ほら、ユナもこう言っているぞ!」
「主席殿まで便乗するんじゃないよ」
ジャンはリックへ目を向けた。
「リック、お前はどう思う?」
「……ぼくに振らないでよ」
リックは即座に視線を逸らした。
「姉さまとジャンの喧嘩に巻き込まれたくない」
「喧嘩じゃない! 俺は正当な権利を主張しているんだ!」
「はいはい」
「人の話を聞け!」
ユマは愉快そうに笑うばかりだった。
ジャンはもう一度、手元の借用書へ目を落とした。
そこには間違いなく、自分の署名があった。
ジャン=ワイズマン。
実に見事な筆跡である。
ニューアーク大学主席。
元ゼルキア中央官僚。
将来は評議会議長を目指していた男。
そして現在は、市民権なし、無職。
おまけに、莫大な借金まで背負わされている。
「…………」
ジャンは天井を見上げた。
死刑は免れた。
どうやら命だけは助かったらしい。
ただし。
人生まで助かったわけではなかった。




