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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第一章 都市同盟

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15/102

第15話 契約

 ◇


 死刑執行日の朝。


 ジャンは夜明け前に起こされた。


 眠れたのか。


 眠れなかったのか。


 もう、自分でも分からなかった。


 身体を洗われた。


 服を替えさせられた。


 簡単な食事も出された。


 だが。


 ほとんど喉を通らなかった。


「時間だ」


「……はい」


 目隠しをされた。


 何も見えなくなる。


 両腕を取られ。


 歩かされる。


 廊下。


 階段。


 いくつかの扉。


 やがて。


 朝の冷たい空気が頬へ触れた。


 外へ出たらしい。


 馬の鳴き声が聞こえる。


「乗れ」


「……馬車?」


 返事はなかった。


 ジャンは促されるまま、馬車へ乗った。


 子どもの頃。


 死刑囚が馬車で処刑場へ運ばれるところを見たことがある。


 自分も。


 あれと同じなのだろう。


 扉が閉じられた。


 しばらくして。


 馬車が動き出す。


 車輪が石畳を叩く。


 ガタガタ。


 ガタガタ。


 ジャンは目隠しをされたまま、黙って座っていた。


 不思議と。


 恐怖はなかった。


 いや。


 恐怖を感じ続けることにも。


 もう疲れたのかもしれない。





 ◇


 馬車は、がたがたと音を立てながら走り続けていた。


「…………」


 目隠しをされたまま、ジャンはわずかに眉をひそめる。


 処刑場というのは、こんなに遠かっただろうか。


 牢から連れ出されてから、すでにかなりの時間が経っている。それでも馬車が止まる気配はなく、車輪が石を踏むたびに身体が小さく揺れた。


 やがて、馬車の速度が少し落ちた。


「……」


 ジャンは無意識に背筋を伸ばした。


 着いたのか。


 そう思って身構える。


 この馬車が止まれば、次に降りる場所が自分の最期の場所になる。


 だが――


 馬車は止まらなかった。


 しばらくゆっくり進んだ後、何事もなかったように再び速度を上げる。


「…………」


 ジャンは小さく息を吐いた。


 それから、さらに時間が過ぎた。


「……まだですか?」


 返事はない。


「処刑場まで、あとどれくらいです?」


 やはり誰も答えない。


 聞こえてくるのは、馬車の軋む音と馬蹄の響きだけだった。


「…………?」


 その時だった。


「クスッ」


 ジャンが顔を上げる。


「……?」


 今、誰か笑わなかったか。


 気のせいだろうか。それとも、死ぬ直前には幻聴でも聞こえるようになるのだろうか。


「くっ……」


 まただ。


「……誰かいるんですか?」


 返事はない。


 だが今度は、はっきりと聞こえた。


「ふっ……ふふっ……」


 明らかに、誰かが笑いを堪えている。


「…………」


 ジャンの眉間に皺が寄った。


「いったい何なんです?」


「もう……無理……」


「……?」


 聞き覚えのある声だった。


「え?」


「あははははは!」


 とうとう耐えきれなくなったらしい。少女の大きな笑い声が、狭い馬車の中へ響き渡った。


 ジャンは目隠しをされたまま固まった。


「……ちょっと待て」


 この声。


「ユナ?」


「あははは! ごめん、ジャン! もう無理!」


「…………は?」


 今度は隣から、リックの笑い声まで聞こえてくる。


 そして、もう一人。


「まったく。もう少し我慢しなさいよ」


「だって姉さま! ジャンがずっと『まだですか』って……!」


「……ユマ?」


 ジャンの声が裏返った。


 直後、目隠しが外される。


「っ……」


 突然差し込んだ光に目を細め、何度か瞬きをするうちに、少しずつ視界が戻っていった。


 最初に見えたのは、目の前で腹を抱えて笑っているユナだった。


挿絵(By みてみん)


「ジャン、すごい顔!」


「…………」


 その横にはリック。


 さらに、その向こうにはユマがいる。


 ジャンは三人を順番に見た。


「…………何してるんです?」


「見れば分かるでしょ」


「分からないから聞いてるんです!」


 ユナがまた吹き出した。


「元気じゃない」


「処刑場は!?」


「行かないわよ」


「…………は?」


 ユマは、まるで今日の夕食でも告げるような気軽さで答えた。


「あなたを買ったの」


 ジャンが固まった。


「…………はい?」


「だから、あなたを買った」


「……どういう意味です?」


「そのままの意味」


「説明になってない!」


「詳しい話は帰りながら」


「帰る?」


「セイレンに」


「…………」


 ジャンは再び固まった。


 セイレン。


 帰る。


 自分が?


 呆然としているジャンの袖を、ユナがそっと引いた。


「ジャン」


「……なんだよ」


 ユナはまだ笑っていた。


 ただ、笑いすぎたせいなのか、それとも別の理由なのか、目元には涙が浮かんでいる。


「おかえり」


 一拍置いて、もう一度呼ぶ。


「ジャン」


「…………」


 ジャンは何も言えなかった。


 ただ、目の前にいる三人を見つめる。


 ここは処刑台ではない。


 牢獄でもない。


 馬車は、確かにゼルキアから遠ざかっている。


 自分は生きている。


 死ぬはずだったのに、まだ生きている。


「……」


 何か言わなければと思った。


 けれど喉が詰まり、どうしても言葉にならない。


 結局、ジャンは何も言えないまま、セイレンへ向かって走り続ける馬車に身を預けた。



 ◇


「しかし――」


 しばらくして、ジャン=ワイズマンは寝台の上で身体を起こし、ユマを見た。


「一つ聞きたいことがある。どうやって俺を買ったんだ?」


 ジャンは死刑判決を受け、刑の執行まで決まっていた人間である。それを執行直前に連れ出し、記録上は処刑済みとして扱わせたのだ。


 いくらゼルキアが腐敗しているとはいえ、ただ金を積んだだけで済む話とは思えなかった。


 ところが、ユマはさも当然のように肩をすくめた。


「ゼルキアって便利だよねぇ」


「何がだ?」


「お金さえあれば、なんだって買えるんだから」


 にこりと笑う。


「…………」


 ジャンは黙った。


 否定できないのが、なおさら腹立たしかった。


「まあ、いろいろとルートがあるのよ」


「ルート?」


「そう。あんたの知らないところにも、いろいろあるってこと」


「死刑囚を買えるルートが存在すること自体、おかしいだろう」


「ゼルキアだからねぇ」


「便利な言葉にするな!」


 ユマは楽しそうに笑ったが、すぐに少しだけ表情を変えた。


「まあ、今回はちょっと面倒だったけどね」


「面倒?」


「グリフィスが、だいぶごねてね」


 その名前を聞いた瞬間、ジャンの目が細くなった。


「あいつ、本当にあんたらに消えてもらいたかったみたいだよ」


「……あんたら?」


「ああ、そっか。何も知らないんだったね」


 ユマは椅子の背にもたれた。


「あんたみたいに濡れ衣を着せられた人間は、ほかにも何人もいるんだよ。みんなレンヌ失陥の責任を押しつけられた連中さ」


「……そうだったのか」


「生かしておけば、いつ何を話されるか分からない。だから刑の執行日まで無理やり早めるし、こっちが身柄の引き渡しを持ちかけても、なかなか首を縦に振らない。結構大変だったんだからね」


 ジャンは眉をひそめた。


 自分だけではなかったのか。


 グリフィスはレンヌ失陥の責任を逃れるため、複数の人間を罪人に仕立て上げ、口封じを図っていたらしい。


 そう考えれば、異例の速さで死刑執行が決まったことにも説明がつく。


「……あの男ならやりかねないな」


「でしょ? でも、何人もいたからこそ、一人くらいならどうにかなったし、こっちも交渉の条件をまとめられたのよ」


「条件?」


「まず、ロスバルトはレンヌ司令部の不正について何も知らない。これから先も、外で余計なことは話さない」


「……口止めか」


「そういうこと」


 ユマは指を一本立てた。


「それから、今回の裁判や処刑についても、ロスバルトから異議を申し立てない。あんたを含めて、記録上は全員きちんと処理されたことにする」


「……なるほど」


「そして、最後が一番面倒だったんだけどね」


 ユマは少し嫌そうな顔をした。


「グリフィスがレンヌで失った財産。その一部について、こっちから補填金を出すことになったのよ」


「……あいつ」


 ジャンの頬が引きつった。


「あの状況で、まだ金を取るのか?」


「取るのよ。まあ、あいつもため込んだ資産を失ったから話に乗った」


「救いようがないな」


「まったく同感だね」


 ユマは呆れたように肩をすくめた。


「もっとも、高い金を払うだけになりたくないから、条件を全部のませて、あんたの身柄を引き取ったわけさ」


「…………」


「まあ、そんなところかな」


 ジャンはしばらく考え込んだ。


 グリフィスのような男が相手なら、金銭による交渉そのものは成立し得るだろう。しかも、ロスバルトが今後の追及を放棄するという条件までついている。


 グリフィスにとっては、かなり都合のよい取引だったはずだ。


 その代わりとして、自分は牢獄から救い出された。


「……そういうことか」


「ああ、それともう一つ」


「まだあるのか?」


「あんたは記録上、死刑を執行されたことになってる。つまり、ゼルキア市民としての身分も、もうないんだよ」


「……ああ」


「当然、今後はゼルキア市への立ち入りも禁止。これも引き渡しの条件だからね」


 ジャンは何も言わなかった。


 自分は、もうゼルキア市民ではない。


 故郷へ帰ることもできず、実家を訪ねることも、ニューアーク大学へ顔を出すこともできない。


 将来は評議会議長になると豪語し、そのために積み上げてきた学歴も経歴も、ゼルキアではすべて死んだ人間のものになってしまった。


 改めて言葉にされると、胸に来るものがないわけではなかった。


 もっとも、家族に会えなくなることについては、残念とも思わなかったが。


「……まあ」


 ジャンは小さく息を吐いた。


「生きているだけ、ましか」


「そういうことさ」


 ユマはあっさり答えた。


「そのせいで、まあ……」


 そこで、妙な間が空いた。


「値段も上がったけどね」


「……上がった?」


 ジャンが眉を寄せると、隣で聞いていたユナがおかしそうに笑った。


「ジャン、高かったんだね!」


「人を商品みたいに言うな!」


「でも、姉さまが買ってきたんでしょ?」


「そういう話ではない!」


 ジャンはため息をつくと、改めてユマを見た。


「……すまなかったな」


「ん?」


「助けてもらった。礼は言っておく」


「ああ、いいよ」


 ユマはそう答えると、ちらりと横を見た。


「まあ、礼ならこの二人にも言ってやりな」


「二人?」


「あんたの死刑が決まってから、散々泣きつかれたんだからね」


 ユマはユナとリックへ目を向けた。


「ジャンを助けてくれ、何とかしてくれって、もう大変だったよ。犬や猫じゃないんだから、そんな簡単に拾ってこられないって言っても聞かないし」


「姉さま!」


「その言い方はひどいよ!」


 ユナが頬を膨らませ、リックも少し気まずそうに視線を逸らした。


「本当のことだろ? あんたたち、毎日うるさかったじゃないか」


「だって……」


 ユナはジャンを見た。


「ジャン、何も悪いことしてないのに、死刑だって言うから……」


「……」


「そんなの、おかしいよ」


 リックも小さく頷いた。


「それに、ジャンは約束してくれたから」


「……約束?」


「レンヌから帰ったら、三人でご飯を食べに行こうって」


 ジャンは二人を見つめた。


 覚えている。


 包囲されたレンヌの医療班で、何の気なしに交わした約束だった。


 好きなものを食べさせてやる。


 肉でも魚でも、甘い菓子でも、好きなだけ食べればいい。


 あのときの自分にとっては、大した金額でもない、取るに足らない約束だった。


 だが、二人は覚えていたのだ。


 処刑を待っていた夜、ジャンはユナの笑顔を夢に見た。


 もう二度と会えないと思っていた。


 約束を守ることもできず、二人に謝ることさえできないのだと。


「……そうか」


 それ以上の言葉は、すぐには出てこなかった。


 ユナが笑った。


 リックも小さく笑った。


 ジャンは二人を見つめ、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 しかし、二人には十分聞こえたらしい。


「うん!」


「どういたしまして!」


 ユナとリックが嬉しそうに答えた。


 それを見ていたユマが、満足そうに頷いた。


「さて」


 ぱん、と手を叩く。


「まあ、それはそれとして」


 妙に明るい声だった。


「ジャン」


「何だ?」


「今、名前を書ける?」


「……名前?」


「そう」


 ユマがジャンの顔を覗き込んだ。


「意識ははっきりしてる?」


「見れば分かるだろう」


「じゃあ、元気だね」


「何なんだ、さっきから」


「ちょっと確認したいことがあるのよ。ここに名前を書いておくれ」


 ユマは懐から紙とペンを取り出し、ジャンへ差し出した。


 ジャンは訝しみながら受け取った。


「ここか?」


「そうそう。そこにお願い」


「……何の確認だ?」


「まあ、ちょっとした手続きだよ」


 ジャンは面倒そうに息を吐いた。


 死刑執行を免れたばかりで、まだ頭が十分に働いているとは言い難い。それに、命の恩人が自分の名前を書けと言っているだけなのだから、わざわざ疑う必要もないだろう。


 長年の習慣で、ジャンは示された欄へさらさらと署名した。


 ジャン=ワイズマン。


 大学時代から数え切れないほど書いてきた自分の名前だった。


 ユマは紙を受け取ると、感心したように眺めた。


「へぇ」


「何です?」


「さすが元官僚。綺麗な字だねぇ」


「元をつけるな」


「じゃあ――」


 ユマがにっこり笑った。


「契約成立っと」


「…………」


 ジャンの動きが止まった。


「……今」


「ん?」


「何と言った?」


「契約成立」


「……契約?」


「うん」


 ユマは満足そうに頷き、紙を折り畳もうとした。


「待て」


「何だい?」


「その紙は何だ?」


「紙?」


「見せろ」


「あっ」


「見せろ!」


 ジャンはユマの手から紙を奪い取り、上から順に読み始めた。


 一行、二行と読み進めるうちに、眉間の皺が深くなっていく。


 そして三行目を読んだところで、顔から血の気が引いた。


「…………おい」


「何?」


「何だ、これは」


「借用書と労働契約書だよ」


「それは読めば分かる!」


 ジャンは紙を突きつけた。


「なぜ俺が、こんなものに署名しているんだ!」


 ユマはきょとんとした顔をした。


「誰が――」


 そこで一拍置いた。


「ただで助けたなんて言った?」


「……は?」


「身代金を肩代わりしてもらったんだから、返済するのは当たり前だろ?」


「待て待て待て!」


 ジャンは慌てて借用書へ目を戻した。


 金額を見る。


 桁を数える。


 目を擦って、もう一度確認する。


「……何だ、この金額は!」


「何が?」


「レンヌでロスバルトに支払っていた契約報酬と、大差ないじゃないか!」


「評価が高いだろ?」


「ジャン一人で、そんなにしたんだ!」


 ユナまで驚いたように声を上げた。


「そんな評価、喜べるか!」


 ジャンは紙を握り締めた。


「そもそも、何でこんな大金になるんだ!」


「グリフィスへの補填金だけじゃないからね。交渉にかかった費用や、あんたをここまで運ぶ手間もあるし」


「それを全部俺に請求するのか!?」


「当然だろ?」


「当然なものか!」


 ユマは笑いながら続けた。


「まあ、安心しておくれ。ちゃんと働けば返せるようにしてあるから」


「……働く?」


「そう。労働契約書もあるだろ?」


 ジャンは改めて書類を見た。


 確かに、借用書の後ろには労働条件が並んでいた。


 雇用主はロスバルト傭兵団。


 勤務地はセイレン。


 給与の支払い条件から、借入金の返済方法まで細かく記載されている。


「……何だ、これは」


「だから労働契約だって」


「俺はまだ働くとも言っていない!」


「大丈夫だよ」


 ユマがにっこり笑った。


「お給料は主席殿にふさわしく、中央官僚時代より高くしてあるから」


「……」


「大昇給だよ。気前がいいだろ?」


「そういう問題じゃない!」


「働かないで、どうやって借金を返すのさ?」


「そもそも俺は借金することに同意していない!」


「でも、さっき署名したよね?」


「お前が騙して書かせたんだろうが!」


「ちゃんと書いてあるじゃないか」


「読ませろ!」


「今読んでるだろ?」


「そういう意味じゃない!」


 ジャンは頭を抱えた。


 しかし、そのとき、借用書のある一文が目に入った。


「……おい」


「今度は何だい?」


「元本の返済だけじゃないのか?」


「もちろん」


「……金利付き?」


「うん」


 嫌な予感がした。


 ジャンはさらに読み進めた。


 返済期間。


 利率。


 利息の計算方法。


 そして、最後の一文を読んだところで絶句した。


「…………複利?」


 ユマの顔が、ぱっと明るくなった。


「私ね――」


「…………」


「複利って大好きなのよ」


「…………」


「利息にまで利息がつくなんて、素晴らしい仕組みだと思わない?」


 ユマは楽しそうに両手を広げた。


挿絵(By みてみん)


「時間が経つほど、どんどん増えていくんだよ。金利の仕組みを考えた人って、本当に素敵よね」


「それはセントハイム人だ!」


 ジャンが叫んだ。


「ゼルキア人は、そんな阿漕なことはしない!」


「今さらゼルキアを庇うのかい?」


「それとこれとは別だ!」


 ジャンは借用書を握り締めた。


「認めん!」


「何を?」


「こんな契約は無効だ! 裁判を要求する!」


「いいよ」


「…………」


 あまりにもあっさり返され、ジャンは一瞬黙った。


「……いいのか?」


「うん」


「ならば、すぐに――」


「ところで、どこで裁判するんだい?」


「……どこって」


 ユマがにこりと笑った。


「あんた、もうゼルキア市民権はないけど」


「…………」


「ゼルキアで裁判を起こすつもり?」


「……」


「市内への立ち入りも禁止されてるよね?」


「…………」


「それとも――」


 ユマは自分を指差した。


「セイレンでやる?」


「……」


「私、市長なんだけど」


「…………」


 ジャンの口元が震えた。


 しかし、ニューアーク大学主席はまだ諦めない。


「心神喪失状態で締結された契約は無効だ!」


 びしりとユマを指差した。


「俺は死刑執行直前に連れ出され、長期間拘束されたうえ、極度の精神的苦痛を受けた直後なんだぞ! 正常な判断能力を欠いていたことは明白だ!」


「うん」


「したがって、この契約には法的効力が――」


「こんなに元気なのに?」


 ユマが笑った。


「…………」


「さっきから私に怒鳴りっぱなしじゃないか」


「それと判断能力は別だ!」


「へぇ。そんなに頭が働くなら、契約書くらい読めたんじゃない?」


「ぐっ……!」


 ジャンは言葉に詰まった。


 正論だった。


 いや、正論に聞こえるのが腹立たしい。


 法律を学び、ニューアーク大学を主席で卒業した自分が、契約内容を一切確認せずに署名してしまったのである。


 しかも、相手はユマ=リズナー。


 出会って以来、散々嫌味を言い合い、一度たりとも気を許した覚えのない女だった。


 そんな相手を、命の恩人だからという理由だけで信用してしまった。


「……不覚だ」


「そうだねぇ」


「お前が言うな!」


「姉さま」


 とうとうユナが口を挟んだ。


「何だい?」


「ひどい」


 ジャンも大きく頷いた。


「ユナ、俺もそう思う」


「でしょ?」


「ちょっと、二人とも」


「だいたい、せっかく助けた人からお金を取るなんて!」


「助けるのにもお金がかかったんだよ」


「でも複利はひどいよ!」


「ほら、ユナもこう言っているぞ!」


「主席殿まで便乗するんじゃないよ」


 ジャンはリックへ目を向けた。


「リック、お前はどう思う?」


「……ぼくに振らないでよ」


 リックは即座に視線を逸らした。


「姉さまとジャンの喧嘩に巻き込まれたくない」


「喧嘩じゃない! 俺は正当な権利を主張しているんだ!」


「はいはい」


「人の話を聞け!」


 ユマは愉快そうに笑うばかりだった。


 ジャンはもう一度、手元の借用書へ目を落とした。


 そこには間違いなく、自分の署名があった。


 ジャン=ワイズマン。


 実に見事な筆跡である。


 ニューアーク大学主席。


 元ゼルキア中央官僚。


 将来は評議会議長を目指していた男。


 そして現在は、市民権なし、無職。


 おまけに、莫大な借金まで背負わされている。


「…………」


 ジャンは天井を見上げた。


 死刑は免れた。


 どうやら命だけは助かったらしい。


 ただし。


 人生まで助かったわけではなかった。

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