第14話 敗走
第十四話
東部辺境軍鉄騎兵団長、オスワルト。
東部辺境領を統べるケルン公爵アレンの五兄妹の長子にして、鉄騎兵団長を務める東部辺境軍最強の男。
彼は馬上から、南東方向へ退いていくリービッヒ第七師団の動きを眺めていた。
最初の一戦で無秩序に攻撃。鉄騎兵からの反撃後、すぐに態勢を整えると後退を始めた。
潰走とは明らかに違う。
追撃を受けながらも隊列を完全には崩さず、林の多い地形へ入り込みながら、こちらとの距離を取ろうとしている。
「あれがアムル=ドゥットゥカースか」
オスワルトは目を細めた。
「いい判断だ」
包囲されたと知るや、その場で抗戦することなく撤退へ転じた。
平地に留まれば騎兵に食われる。
ならば森林地帯へ逃げ込み、こちらの足を殺す。
少なくとも、戦場が見えていない指揮官の動きではなかった。
「ジーン。追撃をどうする?」
隣を進む次兄のジーンが、遠ざかっていく敵軍を見た。
「ただ逃げているだけかもしれないが、我々の主任務はこの街道沿いへ逃げ込んでくる敵を殲滅することだ」
そしてオスワルトを見る。
「オスワルトは戦いたいかもしれないが」
「ふっ」
図星を刺され、オスワルトは小さく笑った。
「自重することにしよう」
手綱を握り直す。
「我々も敵の哨戒網の外側から急行してきたばかりだ。兵だけではない。軍馬まで息が上がっている」
鉄騎兵の強さは、その突撃力にある。
だが、それも十分に走れる馬があってこそだった。
「平地ならともかく、あの森林地帯となると、いささか分が悪い」
「それがいいだろうな」
ジーンも頷いた。
オスワルトは、もう一度だけ遠ざかっていく敵軍を見た。
追えば戦える。
だが、戦いたいから戦う者を将帥とは言わない。
やがて視線を街道へ戻す。
「ただし――」
声から笑みが消えた。
「街道沿いを逃げてくる敵は、すべて討ち取れ」
周囲の騎兵たちが姿勢を正す。
「一兵たりとも逃がすな。殲滅しろ」
「はっ!」
鉄騎兵たちが散開していく。
アムルたちを追うことはしない。
その代わり、包囲網から逃れようと街道へ飛び出してくる敗残兵には、一切の容赦をしない。
オスワルトは南東へ消えていく一団を見送り、馬首を返した。
* * *
「撤退する」
アムルの決断は早かった。
もはや戦線を維持できる状況ではない。
西、東、北。
至るところでリービッヒ軍は分断され、レミーラ軍の攻撃を受けている。
ここで踏みとどまれば、第七師団も同じ運命を辿るだけだった。
「大将、どこへ行く?」
ロックの問いに、アムルは地図へ視線を落とした。
「ライプニッツだ」
「ライプニッツ?コスタではなくて?」
「コスタはたぶん持たない。ライプニッツには本営がある。敵がコスタに食いついているうちにそこまで戻れば、まだ立て直せる」
ライプニッツにはリービッヒ遠征軍の総司令部が置かれている。
兵糧もある。
街道も通じている。
そして何より、そこまで戻ればリービッヒ本国へ通じる道がある。
「後続のギルフォード将軍にも伝えてくれ。戦闘を避けながらライプニッツへ向かうように。途中で味方を見つけたら、可能な限り収容する」
「分かった」
「ヴァン先生」
「なんだ?」
「敵と戦う必要はありません。逃げます」
ヴァンが小さく笑った。
「アムルらしいな」
「勝てない戦いをする趣味はありませんから」
そう言って、アムルは地図を畳んだ。
「帰ろう」
誰に向けた言葉だったのか。
それはアムル自身にも分からなかった。
* * *
撤退は困難を極めた。
アムルたち第七師団を追うようにして、各地から敗残兵が集まってくる。
所属する部隊を見失った者。
武器を捨てた者。
負傷した仲間を背負って歩く者。
中には、その場に座り込み、もはや動こうともしない兵士までいた。
アムルはそういった兵士を見るたびに馬を止めた。
「皆さん、歩けますか?」
「……はい」
「なら、一緒に来てください」
それだけだった。
所属も問わない。
敗走した理由も問わない。
武器を持っているかどうかすら、今はどうでもいい。
歩ける者は歩かせた。
歩けない者は荷車へ乗せた。
散らばっていた兵士を集め、百人、千人とまとめ直していく。
途中、敵の騎兵が姿を見せれば道を変えた。
追撃が迫れば小部隊を残して時間を稼ぎ、本隊を先へ進ませる。
戦うためではない。
逃げるためだった。
それでも兵士は増えていった。
第七師団だけだった隊列には、いつしか第三、第四、第五、第六師団の旗が混ざるようになっていた。
破れた旗。
泥に汚れた旗。
持ち主を失った旗。
そのすべてが、ただ一つの方向へ向かっていた。
ライプニッツ。
そこまで戻れば助かる。
誰もが、そう信じていた。
* * *
「見えたぞ!」
先頭から声が上がった。
遠くに城壁が見える。
ライプニッツだった。
「ライプニッツだ!」
「助かった……」
「やっと休めるぞ!」
兵士たちの間から安堵の声が漏れた。
何日も逃げ続けてきた。
まともに眠ることさえできなかった。
ようやく終わる。
少なくとも、一度は休める。
誰もがそう思った。
アムルも目を細め、遠くに見える城壁を見つめた。
そして――。
「……待て」
その表情が変わった。
「どうした?」
ヴァンが尋ねる。
アムルは答えなかった。
城壁の上。
風にはためく旗を見つめていた。
リービッヒの旗ではない。
黒と白を基調とした軍旗。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。
その言葉を最後に、周囲から声が消えた。
ライプニッツの城壁には、レミーラの軍旗が掲げられていた。
「……落ちてる」
ロックが呆然と城を見た。
「何で落ちてるんだ。本営はどうなった」
アムルは何も答えなかった。
自分たちが包囲網の中を逃げ回っている間に、敵はすでにここまで来ていた。
いや。
違う。
アムルは前方へ目を凝らした。
南方向に延びる街道上にも兵が展開している。
整然と並ぶレミーラ兵。
本国へ続く道を塞ぐように配置された軍勢。
敗残兵を逃がす気など、最初からない。
「……読まれてた」
「何がだ?」
「俺たちがライプニッツへ逃げることを」
アムルは唇を噛んだ。
ライプニッツが落ちている。
本営がどうなったのかも分からない。
そして、本国へ帰る道も塞がれている。
兵士たちの間に広がった安堵は、一瞬にして消え去った。
* * *
「北より部隊が接近しております」
報告を受けたホフマンは、馬上から遠方を見た。
「数は?」
「二万を超えます。さらに後方から続々と合流しております」
「旗は?」
「第七師団。それと……パドゥーラ伯旗を確認」
ホフマンの目が細くなる。
「アムル=ドゥットゥカースですね」
ライプニッツへ向かう街道はすでに封鎖している。
城もこちらの手にある。
そして南東へ続く本国への道も押さえている。
彼らに帰る場所はない。
「追撃部隊を出します」
「はっ!」
「ただし、深追いはしないでください。逃げ道を狭めれば十分です」
ホフマンは静かに命じた。
「追い詰める必要はありません。逃げられる方向へ逃がし、少しずつ削っていきます」
* * *
「敵が動いた!」
前方から伝令が駆け込んでくる。
「分かってる!」
アムルは馬首を返した。
「南西へ!」
「ライプニッツは!?」
「諦める!」
即答だった。
「奪い返すのは無理だ。ここで戦ったら終わる!」
兵士たちが一斉に方向を変える。
ようやく辿り着いた目的地を目前にして、再び敗走が始まった。
「アムル!」
ヴァンが馬を寄せてくる。
「南西へ行ってどうするつもりだ?吸収した友軍に兵糧を分け与えた以上、もう本国まではもたない」
「リューザスです!」
ヴァンが目を見開いた。
「あの河畔の古城か」
「はい。あそこはティーエが糧秣の荷揚げに利用していた場所です。防御拠点として役に立つかは分かりませんが、食料くらいはあるはずです」
「なるほど。あそこならこちらの手持ちの兵糧の限度までに何とかたどり着ける」
アムルは振り返った。
後方では、すでにホフマンの部隊が動き始めている。
「今は屋根と壁、それに飯があるだけで最高です!」
「それは違いない」
ヴァンが穏やかに笑った。
「大将! 追っ手が来るぞ!」
ロックが叫ぶ。
「分かってる! ともかく逃げろ! 止まったら食われるぞ!」
兵士たちは再び走り出した。
もうライプニッツを見る者はいなかった。
* * *
リューザス古城。
かつてこの地域を治めた領主が居城としていた城である。
しかし、街道の変化とともに軍事的重要性を失い、長い年月の中で放棄されていた。
城壁はところどころ崩れ、建物の多くは朽ちている。
それでも城ということで、ティーエが簡易的に補修を施し、パドゥーラ軍の糧秣集積所としていた。
今のリービッヒ軍にとって、食料があるだけでも十分な環境であった。
城門が閉じられる。
兵士たちが地面へ座り込む。
そのまま倒れるように眠る者もいた。
負傷者の呻き声が至るところから聞こえる。
アムルは城壁の上から、その光景を見下ろした。
ここまで辿り着いた兵力は三万弱。
出征時、輜重部隊まで含めれば十万を超えていた軍勢の三分の一にも満たない。
「ひどいものですね」
ヴァンが隣に立った。
「はい」
「これからどうする?」
アムルはしばらく答えなかった。
南にはノースジョウ。
その向こうには本国がある。
だが、その道をレミーラ軍が塞いでいる。
ここにいる三万を失えばどうなるか。
考えるまでもない。
本国に残る主力は第一師団。
それに各地の守備隊。
それだけでレミーラ軍を止められるはずがない。
「ここを守ります」
アムルは城内へ視線を戻した。
「幸いなことに、ティーエが集積していた食料は無事でした」
「籠城するのか?」
「はい」
アムルは頷いた。
「まずは本国が防衛体制を整えるための時間を稼ぎます」
敵を倒すためではない。
国土を守るためだった。
まずは本国が防衛体制を整えるための時間を稼ぐ。
それができなければ、リービッヒそのものが滅びる。
* * *
その日の夜。
生き残った各師団の指揮官が、古城の一室へ集められた。
机も満足にない。
古びた長机の上に地図を広げ、その周囲に将軍たちが立つ。
誰の顔にも疲労が浮かんでいた。
アムルは、その中央に立った。
「お願いがあります」
全員の視線が集まる。
「兵権を俺に委譲してもらえませんか?」
空気が変わった。
当然だった。
アムルは若い。
パドゥーラ伯とはいえ、ここにいる将軍たちの多くと比べれば軍歴も短い。
何より、それぞれ独立した指揮系統を持つ各師団を、一人の指揮下へ置くというのだ。
簡単に受け入れられる話ではない。
「現在、各師団は完全に混乱しています」
アムルは続けた。
「第三師団の兵が第五師団に混ざり、第四師団の兵が第七師団についてきている。部隊として機能していないところもあります」
誰も反論しない。
「この状態で師団ごとに命令を出していたら、次に敵が来た時に終わります」
沈黙が続いた。
見かねたパウロが口を開こうとした次の瞬間、一人の男が口を開いた。
「……兵の士気は最悪だ」
第四師団長代理、ユーノフだった。
この場にいる指揮官の中では最年長。
そして門閥貴族出身。
様々な意味でアムルとの距離が最も遠い人物でもある。
「今の兵どもは、死人と変わらん」
ユーノフは周囲を見回した。
「各個撃破による殲滅だけは免れた。だが、十万を超えた軍勢の半数以上を失い、敵の包囲網の真ん中に取り残された」
誰も言葉を挟まない。
「いまここで我々が時間を稼がねば、リービッヒは終わる」
ユーノフの視線がアムルへ向いた。
「ならば、死人を生き返らせねばならん」
そして、他の将軍たちへ向き直った。
「この中で兵どもに『まだ戦える』と思わせられる者が、パドゥーラ伯以外に何人いる?」
答える者はいなかった。
それが答えだった。
一人の将軍が息を吐いた。
「異存はない」
続いて別の将軍も頷く。
「私もだ」
反対の声は上がらなかった。
全員が納得したわけではない。
全員がアムルを好いているわけでもない。
だが、それ以上に誰もが理解していた。
この状況を打破できると兵士たちに思わせられる人間が必要だった。
そして、その役割を担える者は、この場には一人しかいなかった。
* * *
「パドゥーラ伯に兵権が委譲されたらしいぞ」
その話は、瞬く間に城内へ広がった。
「本当か!?」
「ああ。全軍をパドゥーラ伯が指揮するらしい」
「だったら……」
一人の兵士が顔を上げた。
「だったら、帰れるんじゃないのか?」
「そうだよ」
別の兵士が立ち上がった。
「南北戦争の英雄だぞ」
「今回も何とかしてくださる」
「俺たち、帰れるのか?」
「ああ」
根拠などない。
だが、根拠など必要なかった。
昨日まで地面に座り込んでいた兵士が立ち上がる。
放り出していた剣を拾う。
泥まみれになった鎧を拭く。
崩れた城壁へ石を運ぶ者が現れる。
負傷者を収容する場所が作られ始める。
死人のようだった三万の軍勢が、再び動き始めていた。
「……たいしたもんだな」
ロックが呟いた。
アムルは城内を見回した。
「何が?」
「お前だよ」
「俺?」
「お前が指揮するって決まっただけだぞ」
アムルは答えなかった。
兵士たちが自分を見る。
期待した目で。
助けてくれると信じ切った目で。
アムルは、その視線から逃げるように前を向いた。
「兵糧庫を開けてくれ」
周囲の幕僚が振り返った。
「兵士を飢えさせるな。食べたい奴には食べさせろ」
「しかし、伯爵。長期籠城となれば――」
「分かってる」
アムルは遮った。
「だから、もっとあるように見せてくれ」
「……見せる?」
「兵糧がないと思った瞬間に終わる」
アムルは城内を見渡した。
「今必要なのは安心感だ。飯がある。明日も食える。まだ戦える。そう思わせる」
「ですが、本当に長期化した場合は……」
「三か月」
アムルが言った。
「三か月?」
「敵だって無限に食糧を持っているわけじゃない」
地図へ視線を落とす。
レミーラ軍もまた、大軍を敵地深くまで進めている。
包囲網を維持するだけでも膨大な物資を消費する。
どれほど周到に準備してきたとしても、この規模の軍勢をいつまでも敵地に留めておくことなどできない。
「三か月耐える」
アムルは指を地図へ置いた。
「敵を倒す必要はない」
ここから攻める必要などない。
包囲を破ろうとして兵を失えば、それこそ敵の思う壺だった。
今のアムルに必要なのは勝利ではない。
「時間を稼ぐ、そしてこの三万人を生かす」
そして。
「全員で国へ帰る」
* * *
夜。
リューザス古城の城壁からは、遠くレミーラ軍の篝火が見えた。
一つ。
二つ。
数え切れないほどの光が、闇の中に浮かんでいる。
包囲は始まりつつあった。
今度、攻めるのはルートビッヒたちである。
アムルがすることは一つだけだった。
耐える。
三万の兵を守り、本国の防衛体制が完成するまで、リューザスに踏みとどまる。
アムルは城壁に肘をつき、遠くの篝火をぼんやりと眺めていた。
隣ではロックが腕を組んでいる。
しばらく二人とも黙っていた。
やがてアムルが、大きなため息をついた。
「ああっ、エルに会いたい」
ロックが横を見る。
「なんだ大将。ホームシックか?」
「当たり前だろ」
アムルは不満そうに答えた。
「エルに会えないなんて一番の拷問だ」
「……」
「俺、こんなところで死んだらエルと結婚できないんだけど」
「知らん」
「大問題だろ」
「俺にとっては何も問題じゃねえ」
「ひどいな」
ロックは呆れたように息を吐いた。
「……よくこの状況で正気でいられるな」
アムルは少しだけ笑った。
「だからだよ」
「あ?」
「俺はエルに会いたい。だから帰らないといけない理由がある」
もう一度、遠くの篝火を見る。
敵は多い。
退路はない。
味方は三万。
しかも、その三万すべての命が今や自分の肩に乗っている。
それでも。
「絶対に帰る」
アムルは呟いた。
「エルが待ってるから」
リューザスを巡る三か月に及ぶ籠城戦が、始まろうとしていた。




