第14話 約束
◇
判決から八日目。
ジャン=ワイズマンが収監されている牢へ、二人の役人がやって来た。
「ジャン=ワイズマン」
「はい」
名前を呼ばれ、ジャンは寝台から立ち上がった。再審請求について何か進展があったのではないかと、一瞬だけ期待したが、役人の口から告げられたのは、まったく別の知らせだった。
「死刑執行日が決定した」
「…………」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……いつです?」
「二十日後だ。今月三十日、日の出後に執行する」
「待ってください。私は再審を請求しています」
「承知している」
「なら、なぜ執行日が決まるんです?」
「決定事項だ」
「異議申立ては?」
「認められない」
「そんな馬鹿な話があるか!」
ジャンは鉄格子へ歩み寄ったが、役人たちの表情は変わらなかった。
「判決から二十日ですよ!? 死刑執行まで二十日なんて聞いたことがない! 早すぎるでしょう!」
「我々は、決定を伝えに来ただけだ」
「誰の決定です?」
役人は答えなかった。
「誰が決めたんです!」
二人はそれ以上の説明をせず、背を向けた。
「待て!」
ジャンは鉄格子へしがみついた。
「まだ手続きは終わっていない! 再審請求だってあるんだ! 執行を止めろ!」
叫び続けたが、足音は遠ざかっていくばかりで、役人たちが戻ってくることはなかった。
「…………ふざけるな」
鉄格子を握る指に力が入った。
「ふざけるなよ……」
半年、あるいは一年。
ジャンは、それだけの時間があるものと考えていた。再審請求を続け、中央へ上申書を送り、判決の不当性を訴えれば、どこかで状況を変えられるかもしれない。
少なくとも、生きている限りは何かができる。
そう考えていた。
それが、たった二十日。
「なんで俺が……」
レンヌを捨てたのは自分ではない。救援要請を握り潰したのも、兵士や住民を置き去りにして逃げたのも自分ではなかった。
それなのに、責任を負うべき人間は平然と生き延び、自分だけが処刑されようとしている。
「俺が何をした!」
ジャンは鉄格子を殴った。
「逃げたのはグリフィスだろうが!」
もう一度、拳を叩きつける。
「なんであいつが生きて、なんで俺が死ぬんだよ!」
鈍い痛みが走り、拳から血が滲んだ。それでも怒りは収まらず、ジャンは何度も鉄格子を殴り続けた。
だが、どれほど叫んでも、返事はなかった。
◇
それからの数日間、ジャンは怒り続けた。
看守へ食ってかかり、再審を要求し、紙と筆を寄越せと怒鳴った。裁判官に会わせろと言い、中央へ上申書を出せと何度も求めたが、返ってくるのは決定事項だという言葉ばかりだった。
執行まで二十日あった時間は十九日になり、十九日は十八日になる。
どれだけ怒鳴っても、一日は一日だった。
十七日。
十六日。
十五日。
最初のうちは、何としてでも判決を覆してやるという気力があった。しかし、何をしても状況が変わらないことを思い知らされるうちに、その気力も少しずつ失われていった。
やがてジャンは、怒鳴ることにも疲れてしまった。
◇
死刑執行まで、残り一週間。
「食事だ」
看守が鉄格子の向こうから皿を差し入れた。
「…………」
「食べないのか?」
「……あとで」
看守はそれ以上何も言わず、去っていった。
ジャンは寝台に横たわったまま、天井を見つめていた。
腹は減っている。だが、起き上がって食事を取ることさえ面倒だった。考えることにも、怒ることにも疲れ、あと何日残されているのかを数える気にもなれなかった。
どうせ、その日は来る。
どれほど嫌がっても、時間は止まってくれない。
ふと、処刑される前に自分で命を絶つことはできないだろうかと考えた。
舌を噛み切れば、死ねるのだろうか。
ジャンは舌先を歯で挟み、試しに少しだけ力を入れてみた。
「…………」
すぐにやめた。
怖かった。
「……馬鹿みたいだな」
どうせ死刑になるというのに、自分で死ぬことさえできない。
「怖いに決まってるだろ……」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
ジャンは寝台の上で身体を丸め、そのまま目を閉じた。
もう、何も考えたくなかった。
◇
「ジャン!」
声がした。
目を開けると、ユナがこちらへ手を振っていた。
「こっち! 早く!」
そこはレンヌ要塞の医療班執務室だった。
負傷兵が次々と運び込まれ、薬草と血の臭いが入り混じっている。医療兵たちは慌ただしく動き回り、机の上には書類や包帯が山積みになっていた。
「何してるの、早く!」
「俺は医者じゃないんだぞ」
「知ってるよ」
「なら呼ぶな」
「人手が足りないの!」
反対側では、リックが大量の包帯を抱えて走っていた。
「ジャン、これどこ?」
「そっちじゃない。右だ」
「こっち?」
「逆だ!」
「あ、そっか」
「お前、右と左くらい覚えろ!」
少し離れたところで、ユマが楽しそうに笑っていた。
「案外、面倒見いいじゃない」
「誰のせいでこんなことしてると思ってるんです?」
「はいはい」
「聞いてます?」
「聞いてる、聞いてる」
忙しかった。
うるさかったし、暑かった。腹も減っていたし、仕事は次から次へと増えていく。
最悪の環境だった。
なのに、不思議と嫌ではなかった。
「ジャン」
今度はユナが袖を引っ張ってきた。
「何だ、今度は」
「お腹減ったよぉ」
「さっき食っただろ」
「足りないよ」
「知らん」
「帰ったら、なんか食べさせてよ」
「なんで俺が」
「お願い」
ユナは両手を合わせ、期待に満ちた目で見上げてきた。
「ね?」
「…………」
ジャンはため息を吐いた。
「分かったよ。帰ったら、何か食わせてやる」
その瞬間、ユナの顔がぱっと明るくなった。
まるで太陽のような笑顔だった。
「本当に?」
「ああ」
「約束だよ」
すると、隣からリックが顔を出した。
「ぼくも」
「お前もかよ」
「だめ?」
「……二人分くらい変わらん」
「やった!」
二人が嬉しそうに笑った。
ジャンもつられて、少しだけ笑いかけた。
◇
目を開けると、そこには見慣れた石の天井があった。
「…………」
しばらく、何が起きたのか分からなかった。
夢だった。
ここはレンヌではない。
ユナも、リックも、ユマもいない。医療班の喧騒も、薬草の臭いも、忙しなく行き交う人々の姿も、すべて消えていた。
あるのは、冷たい石壁に囲まれた牢獄だけだった。
「……」
頬が冷たかった。
指で触れると、濡れていることに気づいた。
「……なんだ、これ」
涙だった。
ジャンは慌てて頬を拭ったが、涙は止まらなかった。拭っても拭っても、次から次へと流れてくる。
「なんで……」
悲しいのか、怖いのか、それとも寂しいのか。
自分でも分からなかった。
ただ、もう一度あの場所へ戻りたいと思った。
忙しくて、うるさくて、何かにつけて面倒事を押しつけられた、あのレンヌの医療班へ。
「なんで俺、泣いてるんだよ……」
声が震えた。
答えてくれる者は、誰もいなかった。
◇
同じ頃。
ゼルキアに滞在していたユマ=リズナーは、朝からひどく困っていた。
「姉さまの鬼! 人でなし! もう嫌い!」
目の前では、ユナが顔を真っ赤にして怒っている。
普段なら妹が癇癪を起こしても、ユマは適当に受け流すだけだった。ところが今日は、いつもならユナを呆れた目で眺めているリックまで、明らかに妹の味方をしている。
何も言わないものの、こちらを見つめる目が実に恨めしそうだった。
「……二人とも、そんな顔で見ないでくれる?」
「だって姉さまが悪いんだもん!」
「何が悪いのさ」
「ジャンを助けてくれない!」
ユナは机を叩いた。
「ジャンは何も悪いことしてないのに! あんなに頑張ってたのに!」
「それは私も分かってるよ」
「だったら助けてよ!」
「犬や猫を助けるんじゃないんだから、無理に決まっているだろ」
ユマは呆れたように肩をすくめた。
相手は正式な裁判で死刑判決を受けた囚人である。しかも、都市同盟の軍事機密を敵国へ漏洩したという重罪だ。いくらユマがロスバルト傭兵団の団長で、セイレンでもそれなりの立場にあるとはいえ、簡単に手を出せる問題ではなかった。
「姉さま、仲間は見捨てないっていつも言ってるじゃん!」
「言ってるよ」
「なのにジャンは見捨てるんだ!」
「ジャンはロスバルトの団員じゃないだろ」
「そんなの関係ないもん!」
「関係あるの。どうにもならないことが、この世にはあるんだよ」
「ない!」
「ある」
「ないったらない!」
「……ユナ」
「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! あんぽんたん!」
ついにユナは泣き出してしまった。
「うぇーん! 姉さまの馬鹿ぁ!」
「はいはい。馬鹿で結構」
「ジャンが死んじゃうんだよぉ!」
その言葉に、ユマは返事をしなかった。
ユナが泣きながら訴える横で、リックが小さく口を開いた。
「姉さま」
「何だい?」
「ジャン、本当に悪いことしてないよ」
「……そうだね」
「ぼく、知ってるよ。ジャン、いつも仕事してたし、ぼくたちのことも助けてくれた」
リックは真剣な顔で続けた。
「なのに、なんで死ななきゃいけないの?」
「…………」
ユマは答えに詰まった。
ジャンが無実だということは、ユマ自身も疑っていない。あの男は傲慢で、口が悪く、何かと人を見下すところがあるが、少なくともレミーラへ軍事情報を流すような人間ではなかった。
そもそも、レンヌで彼が何をしていたかは、ユマがよく知っている。
だが、無実だと知っていることと、死刑判決を覆せることは別だった。
「姉さまぁ……」
ユナが涙でぐしゃぐしゃになった顔を向けてくる。
「お願いだから、ジャンを助けてよぉ……」
「……まいったね」
ユマは額を押さえた。
これでは、何を言っても納得しないだろう。
しかも、リックまで同じ顔をしている。
「はいはい、分かった。分かったよ」
ユナが顔を上げた。
「本当!?」
「面会くらいは行ってきてやるよ。直接会って、何か言い残したことがないか聞いてくる」
「じゃあ、助けてくれるの!?」
「そうは言ってないだろ」
ユマは釘を刺した。
「面会に行くだけだよ。何とかなるなんて思わないこと。私にだって、できないことはあるんだからね」
「……うん」
ユナは不満そうだったが、それでも先ほどよりは落ち着いたらしい。
リックも小さく頭を下げた。
「ありがとう、姉さま」
「礼を言うのはまだ早いよ」
ユマはため息を吐いた。
まったく、面倒なことになった。
とはいえ、あの二人にあそこまで頼まれてしまえば、知らん顔をするのも難しい。
せめて最後に一度くらい、本人の顔を見ておくべきだろう。
ユマはそう考え、ジャンが収監されている牢獄へ向かうことにした。
◇
その日の午後。
ユマは役人に案内され、死刑囚との面会室へ通された。
薄暗い部屋には机と椅子が置かれ、壁際には看守が立っている。ユマは勧められた椅子に腰を下ろすと、向かいの空席を眺めながら、小さくため息を吐いた。
正直なところ、あまり気の進まない面会だった。
ジャン=ワイズマンが無実であることは、ユマも疑っていない。レンヌで彼がどのように働いていたかは知っているし、レミーラへ軍事情報を流すような人間ではないことも分かっていた。
だが、それと彼の人格をどう評価するかは別の話だった。
あの男は、とにかく自尊心が強い。
ニューアーク大学を首席で卒業したことを鼻にかけ、将来は評議会議長になると公言し、他人の無能さを平然と指摘する。頭が切れることは認めるが、他人に好かれるような性格ではなかった。
そんな男が、死刑を目前にして何を言うのだろう。
どうせ、自分は悪くない、なぜ自分が死ななければならないのか、悪いのはグリフィスだと、延々と文句を並べるに違いない。
あるいは、最後には自尊心もかなぐり捨てて、何とか助けてくれと命乞いを始めるかもしれなかった。
人間は死を目前にすると、本性が出る。
普段どれほど立派なことを言っていても、いざ自分の命が失われるとなれば、そう簡単に平静ではいられない。
まして、あのジャンだ。
きっと、相当に見苦しい姿を見せることになるだろう。
ユマはそう考えていた。
もちろん、彼が取り乱したところで責めるつもりはない。無実の罪で処刑されようとしているのだから、怒るのも泣くのも当然だった。
ただ、そんな姿を見たところで、自分に何ができるわけでもない。
ユナとリックに頼まれなければ、わざわざ会いに来ることもなかっただろう。
「……まったく、面倒なことを引き受けちゃったね」
ユマが小さく呟いた時、奥の扉が開いた。
看守に連れられ、ジャン=ワイズマンが姿を現した。
その顔を見た瞬間、ユマは思わず眉をひそめた。
想像していた以上に、ひどい顔だった。
頬はこけ、髪は伸び、目の下には濃い隈ができている。かつての自信に満ちた姿は見る影もなく、歩く足取りにも力がなかった。
「久しぶり」
ユマが声をかけると、ジャンはゆっくりと顔を上げた。
「……ユマ?」
「随分ひどい顔だね」
いつものように嫌味の一つくらい返してくるかと思ったが、ジャンは何も言わず、向かいの椅子へ腰を下ろした。
ユマは、そんな彼を静かに見つめた。
さて、何から始まるだろう。
グリフィスへの恨み言か。それとも、自分の無実を訴える長い演説か。
どちらにしても、少しくらいは聞いてやろう。
そう思っていた。
「……」
だが、ジャンは何も言わなかった。
俯いたまま、机の上をぼんやりと見つめている。こちらから声をかけなければ、そのまま面会時間が終わってしまいそうだった。
ユマは軽く息を吐いた。
「私たち、セイレンに戻ることになったんだ」
「……そうか」
「ようやく中央も帰還を認めてくれてね。近いうちにゼルキアを発つ予定だよ」
「……よかったな」
それだけだった。
ユマは少し意外に思った。
てっきり、なぜ自分だけが処刑されるのかと食ってかかってくるものだと思っていた。あるいは、セイレンへ戻る前に中央の有力者に働きかけてほしいと頼まれるかもしれない。
だが、ジャンは何も求めてこなかった。
「……何か言いたいことはないの?」
ユマが尋ねても、ジャンは小さく首を横に振るだけだった。
「そう」
これ以上、話すこともなさそうだった。
ユマは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、私は行くよ」
そのまま扉へ向かおうとした時だった。
「あ……」
背後から、か細い声が聞こえた。
ユマは足を止め、振り返った。
「何?」
ジャンは俯いたまま、何かを言おうとしていた。しかし、なかなか言葉が出てこないらしい。
「……一つだけ」
「うん?」
「お願いがある」
ユマは黙って続きを待った。
やはり来たか。
助けてほしいと言うのだろうか。それとも、グリフィスに一矢報いてほしいとでも頼むつもりなのか。
だが、ジャンの口から出てきたのは、まったく予想していなかった言葉だった。
「二人に……」
声が詰まり、ジャンは一度大きく息を吸った。
「ユナとリックに……」
「……」
「約束、守れなくてごめんって……伝えてほしい」
ユマは、思わず目を見開いた。
ジャンは相変わらず俯いており、その表情はよく見えなかった。ただ、声が震えていることだけは分かった。
自分の無実を訴えるわけでも、助けてほしいと懇願するわけでもない。
死を目前にしたこの男が、最後に口にしたのは、二人の子供との約束だった。
ユマは、しばらく何も言えなかった。
「……そう」
ようやく、それだけ答えた。
「分かった。ちゃんと伝えておくよ」
ジャンは小さく頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
ユマはしばらく彼を見つめていたが、やがて踵を返し、面会室を後にした。
扉が閉まる直前、もう一度だけ振り返った。
ジャンは椅子に座ったまま、俯いていた。
その姿が、なぜか目に焼きついた。
◇
面会室を出たユマは、看守に案内されて長い廊下を歩いた。
背後で重い扉が閉まり、鉄の錠が掛けられる音が響く。
あの扉の向こうで、ジャンは残された時間を過ごすのだろう。
あと数日もすれば、彼は処刑される。
ユマは歩きながら、先ほどの言葉を思い返していた。
『ユナとリックに……約束、守れなくてごめんって……伝えてほしい』
最後まで、助けてくれとは言わなかった。
グリフィスへの恨み言も、自分を陥れた者たちへの呪いもなかった。
あれほど自分の優秀さを誇り、将来は評議会議長になると豪語していた男が、最後に気にかけていたのは、二人の子供との約束だった。
ユマは、ジャンのことを分かっているつもりだった。
だが、どうやらそうではなかったらしい。
「……まいったね」
小さく呟き、ユマは空を見上げた。
監獄の高い壁の向こうには、雲一つない青空が広がっている。
あの男が夢見ていた未来も、積み重ねてきた努力も、あと数日ですべて失われる。
それでも、街は何事もなかったかのように動き続けていた。
ユマはしばらく空を眺めていたが、やがて視線を下ろした。
そして、何も言わずに歩き出した。




