第12話 嵐の前
第十二話
リービッヒ暦二七四年十二月十六日。
ライプニッツへ向けて進軍を続けるアムルたち第七師団のもとへ、前線から新たな報告が届いた。
「アムル様。第二、第三師団がライプニッツ南部に展開していた敵部隊を撃破。敵は北方へ敗走したとのことです」
幕舎の中で報告を聞いていたアムルは、わずかに眉を寄せた。
「……撃破?」
「はい」
「どの程度の戦闘だった?」
「敵は抵抗の構えを見せたものの、我が軍の攻勢を受けるとすぐに退却したとのことです。損害も軽微との報告です」
「そうか」
アムルはしばらく黙った。
やがて、小さく息を吐く。
「ご苦労だった。下がっていい」
「はっ」
兵士が幕舎を出ていく。
その姿が見えなくなったところで、ロックが腕を組んだ。
「やけにもろいな、大将」
「だな……」
アムルは机の上に広げられた地図を見る。
リブロフ、ノースジョウを経て北へ伸びる進軍路。
その先にライプニッツがある。
「先生、どう思います?」
アムルに尋ねられ、ヴァンは顎を撫でた。
「少々、出来すぎているね」
「ですよね」
「先行するパウロ君の第五師団も、もうじきライプニッツに到着する。おそらくライプニッツそのものも、さほど時間をかけず落ちるかもしれないね」
「俺もそう思います」
それが、アムルには不気味だった。
敵が弱い。
それだけなら喜べばいい。
戦わずして勝てるのであれば、それに越したことはない。
だが――。
「先生。敵は最初からライプニッツを守るつもりがないんじゃないですか?」
「その可能性は十分あるね」
「だとすると、コスタも同じか」
ヴァンは答えなかった。
代わりにエヴァンスが地図を覗き込む。
「敵が意図的に下がっているということか?」
「ああ」
「だとすれば、どこまで下がるつもりなのかが問題だな」
「そうなんだよ」
アムルは指でライプニッツを叩いた。
ロックが顔をしかめる。
「俺たちを引きずり込もうってわけか?」
「そこまでは分からない。ただ、俺たちが進めば進むほどリブロフから遠くなる。」
「補給線が伸びるってことか」
「十万を超える軍勢だからな」
アムルは地図の上を指でなぞった。
「兵士だけじゃない。馬も食う。武器も壊れる。矢も減る。病人も出る。十万の軍勢を一日動かすだけでも、とんでもない量の物資が必要になる」
「うちはティーエがいるから、まだいいけどね」
「ああ」
パドゥーラからはティーエが中心となって組み上げた補給体制がある。
第七師団だけを考えるならば、今のところ深刻な問題はない。
だが、それはリービッヒ軍全体の話ではなかった。
「他の師団は現地調達をかなり当てにしてる」
アムルが呟く。
「敵が食糧を残していなかったら?」
「……まずいな」
ロックの表情が変わった。
「略奪に走る奴が出る」
アムルは露骨に顔をしかめた。
「それだけは勘弁してほしいな」
パドゥーラ軍では、民間人への暴行や略奪は厳しく禁じられている。
軍令違反として処罰するだけではない。
アムル自身が、そうした行為をひどく嫌っていた。
「でも大将、他の師団まで止める権限は俺らにはねえぜ」
「分かってる」
各師団の指揮権は、それぞれの師団長にある。
アムルが命令できるのは、自らの第七師団だけだった。
「だから俺たちは俺たちで徹底する。民家から勝手に物を持ち出すな。住民に手を出すな。必要なものがあれば正規に買え。今まで通りだ」
「了解」
「それと――」
アムルはもう一度地図を見る。
「コスタまで簡単に落ちるようなら、本当に考えた方がいい」
「何をだ?」
エヴァンスが尋ねる。
「俺たちが、本当に勝ってるのかどうかってことをね」
幕舎が静かになった。
その日の夕刻。
パウロ=フランツベルク率いる第五師団がライプニッツへ入城したとの報告が届いた。
ライプニッツは陥落した。
遠征開始から、わずか二週間あまり。
リービッヒ軍は大勝利に沸いた。
だが、第七師団の幕舎で歓声が上がることはなかった。
◇
それからさらに二週間。
アムルの予想は的中した。
コスタは落ちた。
いや、落としたと表現することさえ正しいのか分からない。
レミーラ軍はリービッヒ軍の接近を知ると、一部で小規模な抵抗を行っただけで撤退した。
リービッヒ軍はほとんど損害を出すことなく、コスタ一帯を占領した。
ライプニッツ。
コスタ。
かつて幾度となく両国が争った土地が、次々とリービッヒの手に落ちていく。
当然、総司令部は沸き立った。
そして、新たな作戦会議が開かれた。
「この勢いを止める理由はない」
ライプニッツに置かれた総司令部。
アンスバッハは諸侯や将軍たちを前に、そう言い切った。
「敵軍はすでに戦意を失っている。コスタを越え、さらに北進する」
地図の上。
アンスバッハの指が、一つの都市を示した。
「次の目標は現在レミーラ領が居座るリースだ」
ざわめきが起こった。
だが、それは動揺ではない。
期待だった。
「リースまで!」
「そこまで進めば大戦果ですな」
「レミーラ軍など恐れるに足らん!」
口々に声が上がる。
アムルだけは黙っていた。
ライプニッツ。
コスタ。
そして、リース。
地図の上では、ほんの指先ほどの距離でしかない。
だが実際には、その一本一本が補給線となる。
長く。
細く。
伸び続けている。
「パドゥーラ伯」
「はい」
「貴官の第七師団には、後方を担当してもらう」
アムルは顔を上げた。
「後方ですか?」
「コスタ南部からリース方面にかけての治安維持、街道の確保、ならびに後続部隊の支援だ」
「承知しました」
即答した。
周囲から小さな笑い声が聞こえた。
パドゥーラ伯は後ろか。
南北戦争はたまたまだったのだ。
そう言いたげな視線だった。
アムルは気にしなかった。
むしろ都合がいい。
前線に出ずに済む。
兵を鍛える時間も取れる。
何より――。
何かが起きた時、まだ動ける。
「では、その任務をお受けします」
アムルは静かに頭を下げた。
◇
「……ひどいな」
街道脇で馬を止め、エヴァンスは周囲を見渡した。
後方の治安維持を命じられた第七師団では、街道や周辺集落の巡回も任務の一つとなっている。
この日、その任に当たっていたエヴァンスは、すでにいくつもの村を回っていた。
そして、北へ進むほど状況は悪くなっていた。
壊された戸口。
踏み荒らされた畑。
空になった穀物庫。
道端には壊れた家具まで転がっている。
家々の窓から、村人たちが怯えた目でこちらを窺っていた。
エヴァンスは馬から降りた。
「村長はいるか?」
しばらく待つと、年老いた男がおそるおそる姿を現した。
「これをやったのはレミーラ軍か?」
「い、いえ……」
老人は首を振った。
「昨日、こちらを通られたリービッヒの兵隊様方です」
同行していた兵士たちの間に小さなどよめきが起こる。
エヴァンスの表情は変わらなかった。
「何を持っていった?」
「麦と干し肉を……それから酒も。馬の飼葉もほとんど……」
「代金は?」
「……いただいておりません」
「そうか」
エヴァンスは短く答えた。
視線を横へ移す。
穀物庫の扉が壊されている。
徴発ならば、こんな壊し方をする必要はない。
「他には?」
「家にあった金目の物を持っていかれた者もおります。逆らった者は殴られて……」
エヴァンスの目がわずかに細くなった。
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
老人に向かって静かに頭を下げる。
「我々は第七師団だ。この村から物資を徴発する予定はない。部下にも手を出させない」
「は、はい……」
「ただし、他の師団についてまで私から約束することはできない」
老人は何も答えなかった。
エヴァンスは踵を返した。
「戻るぞ」
「はっ」
「アムルに報告する」
◇
「やはり始まったか……」
報告を聞いたアムルは、深く息を吐いた。
幕舎にはロックとヴァンもいる。
エヴァンスは机の上に広げられた地図の前に立っていた。
「一つや二つではない。私が確認しただけでも、街道沿いの五つの村で同じことが起きている」
「どこの部隊だ?」
アムルが尋ねる。
「複数だ。特定の師団だけではないらしい」
「……そうか」
「最初は食糧と飼葉だ。だが、酒や金品まで持ち出している。すでに物資の徴発では済まない。明らかな略奪も起きている」
ロックが顔をしかめた。
「思ったより早かったな」
「ああ」
アムルは地図を見る。
エヴァンスが続けた。
「それと、もう一つ気になる」
「何だ?」
「先行部隊の兵を何人か見た。装備の傷みが目立つ。馬も痩せ始めている」
ヴァンが静かに口を開いた。
「補給が追いついていないということだね」
「おそらくは」
エヴァンスは頷いた。
「軍は前へ進んでいる。しかし、物資は同じ速さでは進んでいない。現地調達で補うつもりだったのだろうが――」
「敵が何も残してない」
アムルが言葉を継いだ。
「そういうことだ」
幕舎が静かになった。
ライプニッツ。
コスタ。
そしてリースへ。
軍は勝ち続けている。
領土も広がり続けている。
だが、その軍を支えるものだけが、少しずつ足りなくなっていた。
「大将」
ロックが腕を組む。
「このまま前に進み続けたら、もっとひどくなるぜ」
「分かってる」
「略奪の件はどうする?」
エヴァンスが尋ねた。
「……俺には他の師団を処罰する権限がない」
アムルが少しうつむいた。
「エヴァ」
「何だ?」
「巡回も続けてくれ。友軍の動きも見ておいてほしい」
「分かった」
エヴァンスは頷いた。
「では、明日はもう少し北まで見てこよう」
「頼む」
エヴァンスが幕舎を出ていく。
アムルは再び地図へ目を落とした。
北へ。
さらに北へ。
リービッヒ軍を示す駒は、順調すぎるほど順調に進んでいる。
「……先生」
「何だい?」
「やっぱり、この勝ち方はおかしい」
ヴァンは地図を見つめたまま、静かに答えた。
「そうだね。私もそう思うよ。敵に何かの意図はある。そう考えるのが自然だね」
それは何か?アムルはもう一度地図をみた。
◇
「前へ!」
号令とともに兵士たちが進む。
「止まれ!」
隊列が止まる。
「遅い! 後ろが詰まってるぞ!」
ロックの怒声が飛んだ。
第七師団は進軍を続けながら、連日のように調練を行っていた。
錬度の高いパドゥーラ兵だけならば、その必要はさほどない。
問題は今回の遠征に際して組み込まれた諸侯軍だった。
歩調は揃わない。
号令への反応も遅い。
部隊間の連携も悪い。
それぞれの領地では立派な兵士なのかもしれないが、一つの軍として動かそうとすれば話は別だった。
「もう一度!」
当然、進軍速度は落ちる。
他の師団が北へ北へと進んでいく中、第七師団は次第に遠征軍の最後尾へと取り残されていった。
そして当然のように、不満も出た。
「おい、パドゥーラ伯!」
聞き覚えのある声に、アムルが振り返る。
若い貴族がこちらへ歩いてきていた。
ギュンター=アルビス。
十六歳。
アルビス男爵家の嫡男であり、今回の遠征に父の名代として参加している。
若い。
血気盛ん。
そして何より、自分が戦場へ来たことを誇りにしている少年だった。
「いつまでこのようなことを続けるつもりだ!」
「このようなこと?」
「訓練だ!」
「ああ」
アムルは兵士たちを見る。
「敵が来るまでじゃないか?」
「敵など来るものか!」
ギュンターは吐き捨てた。
「ライプニッツもコスタも我が軍の前に逃げ出した! 敵は我々を恐れている! それなのに貴公は毎日毎日、行軍と訓練ばかりだ!」
「うん」
「兵たちも不満を持っている!我々は武勲をたてにきたのだと」
「知ってる」
「ならばなぜやめない!」
「必要だから。弱すぎる。」
あまりに淡々と返され、ギュンターの顔が赤くなった。
「貴公はそれでも将軍か!」
「一応そういうことになってるね」
「ふざけるな!」
周囲の兵士たちがちらりとこちらを見る。
ロックが近づこうとするのを、アムルは手で制した。
「貴公は戦術の天才だと聞いていた! 南北戦争では数々の戦功を立てた! だからこそ我慢して従ってきた!」
「それはどうも」
「だが、実際はどうだ! 率先して最後尾に陣取り、敵と戦おうともしない! 貴公には貴族としての誇りがないのか!」
「誇り?」
アムルは少し考えた。
「そんなもの、だいぶ前に捨てたよ」
「なっ……」
「ほこりってのは部屋の隅にあるだけでも邪魔なのに、戦場まで持ってきたらもっと邪魔だろ」
「貴様……!」
ギュンターの拳が震える。
「もういい!」
踵を返した。
「私はここを離れる! 最前線へ行く! 貴公のような臆病者に付き合っていられるか!」
その瞬間だった。
「待て」
声が変わった。
ギュンターの足が止まる。
「最前線はすぐそこだ」
先ほどまでの気の抜けた声ではない。
「お前が今から行こうとしている場所は、死地かもしれない」
ギュンターが振り返る。
アムルは笑っていなかった。
「……何を言っている」
「おかしいと思わないのか?」
「何がだ」
「俺たちは勝ちすぎてる」
ギュンターが眉をひそめる。
「勝って何が悪い。敵が弱ければそうなる」
「悪くないよ。俺だって楽に勝てるならその方がいい」
アムルは北を見た。
「でも、敵はどこへ行った?」
「逃げたに決まっている!」
「十万を超える軍勢を前にして?」
「だから恐れたのだ!」
「じゃあ、なんで俺たちは敵兵をほとんど捕まえてない?」
「……」
「なんで敵の主力を一度も叩いてない?」
ギュンターが黙る。
「俺たちは土地を取った。ライプニッツを取った。コスタも取った。でも敵軍を倒したわけじゃない」
アムルは地面に落ちていた木の枝を拾った。
土の上に簡単な線を引く。
「ここがライプニッツ」
もう一つ。
「こっちがコスタ」
さらに北へ線を伸ばす。
「そして今、味方はリースへ向かってる」
「それがどうした」
「長すぎるんだよ」
アムルは線を見つめた。
「十万の軍隊が、この一本の道で故郷とつながってる」
「補給線を分断するとでも。ならば敵が割り込んできたところを前後から挟撃すればよい!」
ギュンターはすぐに言い返した。
「ライプニッツにも兵力は残っている。前線の部隊と挟めば――」
アムルは少しだけ目を細めた。
なるほど。
ただの馬鹿ではないらしい。
「そうだな」
「なら――」
「同時に動ければな」
「……何?」
「前線はもう遠い。これ以上離れれば、ライプニッツから援軍が来るまで何日かかる?」
ギュンターが黙る。
「敵がその間に俺たちを叩いて、次にライプニッツへ向かったら?」
「そんな都合よく……」
「できる奴なら?」
風が吹いた。
冬の冷たい風だった。
「俺ならそうする」
アムルは言った。
「ぎりぎりまで敵を引き込む。勝ったと思わせる。補給線を伸ばさせる。前線と後方が助け合えないところまで離れたら、その間を切る」
土に描いた線を、枝で横切った。
「これで十万の軍隊は十万じゃなくなる」
ギュンターの額に汗が浮かぶ。
「前から順番に潰せばいい」
「……」
「もちろん、俺の考えすぎかもしれない」
アムルは枝を放り捨てた。
「敵は本当に怖がって逃げてるだけかもしれない。だったらそれでいい」
そして、いつもの調子に戻る。
「俺としても、そっちの方が嬉しいしね」
「……」
「だから訓練する」
アムルは兵士たちを見る。
「何も起きなければ無駄になる。それでいい」
ギュンターは何も言わなかった。
「でも、本当に何か起きた時――」
アムルは静かに続けた。
「訓練してなかったことを後悔しても遅い」
遠くで号令が響く。
第七師団の兵士たちが再び隊列を組み始めていた。
そのさらに北。
リービッヒ軍主力は、勝利を疑うことなくリースへ、リースへと向かっていた。




