第12話 判決
◇
「ワイズマン君は、非常に優秀な官僚でした」
証言台に立つグリフィス三世は、穏やかな口調でそう切り出した。
「ニューアーク大学を首席で卒業しただけあって、仕事は速いし、理解も早い。私も当初は、大いに期待しておりました」
「当初は?」
検察官が尋ねた。
「ええ。しかし、次第に気になる行動が目立つようになりましてな」
グリフィスは困ったように眉を下げた。
「具体的には?」
「必要以上に軍務資料を調べていたことです。食糧備蓄、各門の兵力、哨戒区域、増援計画……そういった情報を、ずいぶん熱心に調べておりました」
「それらは被告の職務に必要な情報だったのですか?」
「一部はそうでしょう。彼は出納係と医療物資の補給係を兼ねておりましたからな。ただ、私には少々行き過ぎに思えました」
「職務です!」
思わずジャンが声を上げると、すぐさま裁判長の槌が鳴った。
「被告、静粛に!」
「ですが、私は出納係として――」
「発言を許可していない。次は退廷を命じるぞ」
「……失礼しました」
ジャンは歯を食いしばった。
グリフィスはこちらを見ている。その目はどこか悲しげで、まるで自分も心を痛めているかのようだった。
その顔が、たまらなく腹立たしかった。
「もちろん、当時の私は、単に職務熱心なのだろうと思っておりました。優秀な若者ですからな。多少の行き過ぎはあるものと考えていたのです」
「では、いつから疑念を抱くようになったのですか?」
「レミーラ軍の攻撃を受ける少し前からです」
その一言で、法廷が静かになった。
「最初は熱心なのだろうと思っておりました。ですが、あまりにも熱心なのです。包帯や酒精の数量まで一つ一つ確認し、普通なら気にも留めないような細かな記録まで調べて、過去の帳簿にまで遡っておりました」
「それで、部署を異動させたと?」
検察官の問いに、グリフィスは頷いた。
「その通りです。もっとも、その時点では私も、そこまで深刻には考えておりませんでした。仕事への熱意が強すぎるだけかもしれませんからな」
グリフィスはそこで言葉を切り、少しだけ声音を落とした。
「ですが、レンヌが攻撃を受けた時、敵の行動はあまりにも正確でした」
ジャンは黙ってグリフィスを睨んだ。
「敵軍は北方の山地を大きく迂回し、我々の警戒網を避けて東側から接近しました。そして、東門へ激しい攻撃を仕掛けてきたのです」
「東門を突破するつもりだったと?」
「ええ。あれは決して見せかけの攻撃ではありませんでした。ロスバルト傭兵団が迅速に増援を送らなければ、東門は突破されていたでしょう」
グリフィスは重々しく頷いた。
「しかし、我々が東門の防衛に追われている間、要塞内部に潜入していた工作員によって、西部の食糧庫が焼き払われました」
「結果として、要塞の防衛継続が困難になったわけですね」
「その通りです。敵は我々の弱点を、実に巧みに突いてきたのです」
グリフィスは法廷を見渡した。
「私も長く前線におりますが、これほど正確に弱点を突かれた経験は、そう多くありません」
やがて、その視線がジャンへ向いた。
「ですから、考えたのです。敵はなぜ、あれほど正確に行動できたのかと」
「……」
「要塞内部の情報を、あらかじめ敵へ伝えた者がいたのではないか。そう考えれば、いくつもの疑問に説明がつきます」
法廷が静まり返った。
「そして、そのような情報を熱心に調べていた人物が、我々のすぐ近くにいたのです」
グリフィスは、それ以上言わなかった。
言わなくとも、誰のことを指しているのかは明らかだった。
「さらに、その人物は他部署へ異動した後、ロスバルト傭兵団とも頻繁に接触しておりました」
「待ってください」
ジャンが低い声を出した。
「ロスバルトの情報まで敵に流していたとでも言うんですか?」
「私は、そのようなことは言っていないよ」
グリフィスは穏やかに答え、一度だけ傍聴席へ目を向けた。
「ただ、ロスバルトの本拠であるセイレンは、長くセントハイムの軍事的影響下にある都市です」
傍聴席に小さなどよめきが起こった。
「ゼルキア出身の我が部下たちの中には、彼らとの接触を避ける者も少なくなかった。ゼルキア市民の皆様にも、その心情は多少ご理解いただけるのではないでしょうか」
ざわめきが、先ほどより少し大きくなった。
「それにもかかわらず、ワイズマン君はロスバルトの者たちと積極的に意思疎通を図っていたのです」
「まったくの無関係です!」
再び槌が鳴った。
「被告!」
ジャンは荒く息を吐いた。
グリフィスは、ほとんど嘘を言っていない。
そこが一番厄介だった。
自分が軍務資料を調べていたことも、ロスバルトの連中と話していたことも事実である。レミーラ軍が警戒網を避け、東門へ攻撃を仕掛け、その間に食糧庫が焼かれたこともまた事実だった。
ただ、それぞれ本来は無関係な事実を、グリフィスは一本の線で結んでいる。
しかも、その線の先には、最初からジャンがいるように仕向けられていた。
「証人」
検察官が尋ねた。
「レンヌ撤退時、なぜ被告へ撤退命令を伝えなかったのですか」
「混乱しておりましたからな」
グリフィスはため息を吐いた。
「敵襲によって指揮系統は大きく乱れていました。すべての者へ命令が行き届かなかったことについては、司令官として私にも責任があります」
そう言って、わずかに目を伏せた。
ずいぶん殊勝な言葉だった。
「ただ、彼の行動を訝しく思った私は、その少し前に彼を司令部から他部署へ異動させておりました。あの混乱の中、すでに司令部付きではない者にまで撤退命令が行き届かなかったことについては、やむを得ない部分もあったかと」
ジャンは言葉を失った。
この男は、自分でジャンを左遷しておきながら、今度はその左遷を撤退命令が届かなかった理由に使っている。
「ですが、結果としてワイズマン君はロスバルトと行動を共にし、無事に脱出しております」
検察官が問いを重ねた。
「仮に被告がレミーラ側の協力者だったとするならば、なぜ敵軍へ合流せず、ロスバルトとともに撤退したのでしょう?」
「さあ、そこまでは分かりませんな。逃げ遅れたのかもしれません」
グリフィスは首を傾げた。
「ただ、私も長く戦場におります。戦闘中に自分一人だけ所属する集団から離れるのは、非常に危険なことです。目の前に撤退する部隊があるなら、それについていく。生き延びることだけを考えれば、何ら不自然ではありません」
裁判官たちは黙って聞いていた。
グリフィスの前線経験が長いことは、この場にいる誰もが知っている。その彼が当然のこととして口にすれば、それだけで妙な説得力が生まれてしまう。
「それに、敵地へ逃げ込むより、一度中央へ戻った方が、その後も諜報活動を続けられる。そう考えた可能性もありますな」
「なっ……!」
「無論、推測にすぎません」
グリフィスはすぐに付け加えた。
「私は、彼の考えを知る立場にはありませんので。ただ、敵側へ逃げなかったという事実だけで、すべての嫌疑が晴れるとも思いません」
検察官が頷いた。
「以上です」
「待ってください!」
ジャンが声を上げた。
「私からも質問させてください」
裁判長がジャンを見る。
「何を質問する?」
「司令官がレンヌから撤退した時のことです」
その瞬間、グリフィスの表情がほんのわずかに固まった。
「許可する」
ジャンは証言台にいる男を睨みつけた。
「グリフィス司令官」
「何かね」
「あなたは撤退の際、自分の私財を大量に荷車へ積み込んでいたでしょう」
傍聴席がざわめいた。
「私財?」
グリフィスが眉を上げた。
「そんなものを持ち出すはずがない」
「私は見ました。レンヌの城壁から、あなたが大量の荷車を引き連れて撤退していくところを」
「はあ……」
グリフィスはため息を吐き、仕方がないというように頷いた。
「確かに、私はレンヌにあった資産の一部を持ち出した。ただし、戦乱から保護すべき都市同盟の資産だ」
「……何ですって?」
「要塞が陥落するのだ。持ち出せる財産を、むざむざ敵に渡せと?」
「絵画もですか?」
「財産には違いない」
「酒も?」
「……酒?」
「高級家具まで積んでいたでしょう」
グリフィスは怪訝そうな顔をした。
「何の話だね?」
「とぼけないでください」
「私は、そのようなものを持ち出した覚えはないよ。ただ、君が言うように、大量の物資を荷車に積んで撤退したことは事実だ」
「では、なぜそんなものを――」
「作戦の一部だったからだよ」
ジャンは言葉を止めた。
「……作戦?」
「そうだ。あの状況で、ただ撤退するだけでは敵の追撃を受ける。しかも、司令部には敵の手に渡してはならない機密文書が数多く残されていた。私はそれらを守り、可能な限り多くの者を脱出させなければならなかった」
グリフィスは落ち着いた口調で続けた。
「そこで、敵の目を引くために大量の物資を運び出したのだ。あれだけの荷車が動けば、敵も無視できまい。物資を奪おうと追撃してくることは、十分に予想できたからね」
「……何を言っているんですか?」
「実際、その通りになっただろう?」
グリフィスは検察官へ視線を向けた。
「敵軍は我々の荷車に食いつき、追撃部隊の一部をそちらへ向けた。その結果、敵の包囲に隙が生まれ、我々は機密情報を守りながら撤退することができたのだ」
検察官が頷いた。
「つまり、物資を囮として利用したと?」
「その通りです。もちろん、追撃を受ける危険はありました。しかし、敵に重要な情報を渡さず、味方の脱出を助けるためには必要な判断でした」
ジャンは呆然とグリフィスを見つめた。
確かに、敵軍が荷車を追ったことは事実だった。
大量の財産を積んだ荷車を見つけたレミーラ兵たちは、鹵獲品を求めて追撃に向かった。その結果、南側の包囲が薄くなり、ユマはその隙を突いて残された兵士や住民を脱出させた。
だが、それはグリフィスが自分の財産を守ろうとした結果、偶然生まれた隙にすぎない。
少なくとも、撤退前にそのような作戦が伝えられたことはなかった。
「それなら、なぜロスバルトに何も知らせなかったんですか?」
ジャンが問い詰めた。
「彼らは撤退命令すら受けていなかったんですよ!」
「その点については、申し訳なく思っている」
グリフィスは素直に頭を下げた。
「敵襲による混乱の中で、命令を十分に行き渡らせることができなかった。それは司令官として反省すべき点だろう」
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「だが、ユマ=リズナーは私の意図を察してくれた」
「……は?」
「彼女は敵軍が荷車を追い、南側の包囲が薄くなったことを見逃さなかった。そして、私の撤退行動に呼応する形で、残された兵士や住民を率いて脱出に成功したのだ」
グリフィスは感心したように頷いた。
「さすがはロスバルト傭兵団の団長だ。私が直接命令を伝えられなかったにもかかわらず、こちらの意図を正確に読み取ってくれた。実に見事な判断だったよ」
ジャンは、もはや怒鳴ることすら忘れていた。
この男は、自分の私財を守るために部下を置き去りにした。
そして今、その行為を敵軍の追撃を誘う作戦だったと説明している。
それだけではない。
命令も受けず、取り残された人々を救うために必死で戦ったユマの判断さえ、自分の意図を汲んだ結果だったことにしてしまった。
「……あなたは、本気でそれを言っているんですか?」
「もちろんだとも」
グリフィスは不思議そうに首を傾げた。
「結果が証明しているではないか」
その言葉に、ジャンは背筋が寒くなるのを感じた。
結果だけを見れば、グリフィスの言っていることは間違っていない。
敵は荷車を追い、包囲が薄くなり、ユマは脱出に成功した。
しかし、その出来事を誰が意図し、何のために行動したのかについては、まるで別の話だった。
「……ふざけるな」
ジャンが低く呟いた。
「何かね?」
「自分の財産を持って逃げただけでしょう。それを作戦だったなんて、よくもそんなことが言えますね!」
グリフィスは悲しそうに眉を下げた。
「ワイズマン君。君は私を嫌っているようだが、軍事行動というものは、個人の感情で判断するものではないよ」
「何を――」
「結果として敵の追撃を引きつけ、味方の脱出を助けた。それは紛れもない事実だ。君もそこは認めるだろう?」
ジャンは答えられなかった。
その事実だけは、否定できなかったからだ。
「証人」
裁判長が告げた。
「質問への回答は十分だ。退廷を許可する」
「承知しました」
グリフィスは裁判官たちへ丁寧に頭を下げると、証言台を降り、法廷脇の扉へ向かった。
そしてジャンの前を通り過ぎた、その瞬間だった。
グリフィスが、ほんのわずかにこちらへ顔を向けた。
口元だけが笑っていた。
ほんの一瞬、誰にも気づかれないほど小さな笑みだったが、ジャンには分かった。
あれは勝ち誇った顔だった。
グリフィスは何も言わず、そのまま扉の向こうへ消えていく。
扉が閉まった後も、ジャンはしばらくそこを睨み続けていた。
あいつは分かっている。
自分が何をしているのかも、それによって誰がどうなるのかも、すべて分かった上で、自分をここへ立たせているのだ。
◇
グリフィスが去った後も尋問は続いたが、検察側が提示するのは、ジャンが軍務資料を閲覧していたことやロスバルトと親しくしていたことなど、すでに説明した事実ばかりだった。
敵との通信記録も、金銭の授受も、情報を渡した証拠もない。
それでも検察官は質問を続けた。
「君の母親は、レミーラから亡命した貴族の家系だそうだな?」
「事実です。それが何か?」
「恋人のエルザ=ジョシアも、ゼルキアの旧貴族の娘だと聞いている。将来は結婚も考えていたそうだな」
「そうですが?」
「君は貴族の家柄に特別な関心があるのではないか?」
「ありますよ」
ジャンはあっさり認めた。
「私は将来、評議会議長になるつもりでした。政界で活動するなら、旧貴族との繋がりは役に立ちます」
「つまり、恋人も政治的な利益を考えて選んだと?」
「理由の一つです。それが犯罪ですか?」
「では、レミーラにある母方の旧領地にも関心があったのでは?」
「ありません。私は都市同盟で出世したかったんです。レミーラの領地をもらって、何の得があるんですか?」
「しかし、帝国から領地の返還を持ちかけられた可能性はある」
「そんな話は一度もありません」
検察官は頷き、何事かを書き留めた。
ジャンは呆れていた。
政治的な打算があったことは否定しない。だが、それと敵国への内通は別の話だ。
検察側は、事実と推測を繋ぎ合わせ、あたかも一つの犯罪があったかのように見せている。
そこでジャンは、ようやく理解した。
この裁判は、真相を明らかにするためのものではない。
レンヌ陥落の責任を負わせる人間を決めるためのものだ。
ロスバルトには責任を押しつけられず、グリフィスを守る必要がある。
だから、自分が選ばれたのだ。
◇
「最後に申し開きはあるか」
裁判長の問いに、ジャンは立ち上がった。
「あります。検察側が提示したものの中に、私がレミーラへ情報を流したという直接証拠は一つもありません」
法廷は静まり返っていた。
「軍務資料を調べたことも、ロスバルトと親しくしていたことも事実です。ですが、それが内通の証拠になりますか? 敵との通信記録も、金銭の授受も、目撃証言もないでしょう」
ジャンは裁判官たちを見渡した。
「私は何もしていません。以上です」
裁判長は手元の書面へ目を落とした。
「判決を言い渡す。被告、ジャン=ワイズマン」
ジャンは息を呑んだ。
「軍事機密を敵国へ漏洩し、レンヌ要塞陥落を招いた罪は重大である。よって、被告を死刑に処する」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「待ってください。証拠がないでしょう!」
「判決は以上である」
衛兵が近づき、ジャンの両腕を掴んだ。
「私は全部説明した! 何もやっていない!」
必死に抵抗したが、衛兵たちは構わず彼を引きずっていく。
ニューアーク大学を首席で卒業し、いつか評議会議長になるつもりだった。そのために努力を重ね、誰よりも優秀であろうとしてきた。
説明すれば分かる。証拠を示せば認められる。
ずっと、そう信じていた。
だが、裁判官はもうジャンを見ていなかった。
法廷の扉が閉まり、薄暗い廊下に連れ出される。
「……俺は」
ジャンは衛兵に両腕を掴まれたまま、呆然と呟いた。
「何もやっていない」
その言葉に答える者は、誰もいなかった。




