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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第七章 君のいる場所へ

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第19話 グランヴァレの戦い

挿絵(By みてみん) 




 グランヴァレ砦の城壁には、すでにいくつものレミーラ旗が翻っていた。


 トランシル峠を越えて押し寄せたレミーラ軍は、グランヴァレの橋を渡ると、そのまま砦へ殺到した。


 守備兵はよく戦ったが、兵力の差はいかんともしがたい。城門は半ば破壊され、城壁の一角ではレミーラ兵が次々と梯子を登っている。


 陥落は時間の問題だった。


 フィリップは馬上からその光景を眺めていた。


「もう終わりだな」


 砦一つを落とすのに、いくらか余計な時間を取られた。それでも、この程度ならば予定の範囲内だった。


 グランヴァレさえ抜けば、その先はコクである。


 そう考えていたときだった。


「陛下。砦の東方に敵です」


「数は」


「およそ五百」


 フィリップは思わず聞き返した。


「五百?」


「はい」


 見ると、砦の背後、コクへ続く街道の向こうから小さな一隊が近づいてくる。


 先頭に立つ男は、すでに若くはなかった。鎧の上から外套を羽織り、こちらを見ながら悠然と馬を進めている。


「何者だ」


「リービッヒの大将軍モンド=ドゥットゥカースかと」


「あれが?」


 フィリップは鼻で笑った。


 名だけは聞いたことがある。リービッヒ軍の名将であり、この地域を治める侯爵。


 だが、連れてきた兵はたった五百だった。


「蠅が一匹増えたところで変わらん。潰せ」


 命令を受けた一隊が向きを変えた。


 ところが、五百のリービッヒ兵は正面からぶつかってこなかった。


 接近してきたかと思えば矢を浴びせ、レミーラ兵が隊列を組み直す前に退く。追えば街道脇の林へ入り、追撃を止めれば別の場所から姿を現した。


 砦への攻撃が再開されると、今度はその側面へ食いついてくる。


 大きな損害ではない。


 だが、鬱陶しい。


「何をしている。さっさと囲め」


 フィリップの命令で兵が増やされた。


 モンドはそれを見ると、わずかに口元を緩めた。


「ほう。今度は増やしたか。皇帝陛下は働き者だ」


 隣にいた兵が苦笑した。


「閣下、笑っている場合ではありませんぞ」


「分かっている。だから笑っている」


 モンドは馬首を返した。


「下がれ。追わせろ」


 五百の兵が一斉に後退する。


 レミーラ兵が追った。


 少し進んだところで、左右から矢が飛んできた。街道脇の低い斜面に伏せていた兵が一斉に射かけたのである。


 先頭の兵が倒れ、後続が詰まった。


 その瞬間、先ほどまで逃げていたモンド隊が反転した。


「今だ。押せ」


 短い突撃だった。


 混乱した先頭だけを叩き、すぐに引く。深追いはしない。


 敵が隊列を整えるころには、もう次の場所へ移っている。


 ◇


 モンドの散発的な攻撃は、その後も続いた。


 矢を射かけては退き、追ってきた部隊だけを叩く。レミーラ軍が追撃を警戒して動かなくなれば、今度は砦を攻めている部隊の側面へ姿を現した。


 フィリップがそちらへ兵を向ける。


 すると、モンドはもういない。


 少し離れた別の場所から、また矢が飛んでくる。


「……何をしている!」


 フィリップの怒声が響いた。


 わずか五百の敵が、いつまで経っても消えない。


「二千を向けろ! 今度こそ逃がすな!」


 命令を受けた部隊が左右に広がった。


 正面から追うだけでは逃げられる。それならば回り込み、退路を塞げばいい。


 モンドはその動きを遠目に眺めていた。


「ようやく考えたか」


「閣下、左右から来ます」


「見れば分かる」


「どうします?」


「下がる」


「またですか」


「まただ」


 何でもないことのように答えると、モンドは手を振った。


「全隊、退け。今度は少し慌てて逃げろ」


「慌てて?」


「そうだ。上手に逃げるな。必死に逃げているように見せろ」


 兵たちが顔を見合わせた。


「……難しい注文をなさる」


「役者になれ。今日は観客が多いぞ」


 モンド自身も馬首を返した。


 今までより速い。


 五百の部隊が崩れたように東へ走り出す。


「逃げたぞ!」


「追え!」


 レミーラ兵が勢いづいた。


 左右から回り込もうとしていた部隊も、モンド隊が崩れたと見るや包囲を狭める。


 モンドは何度か後ろを振り返った。


「もう少し」


 敵が近づく。


「まだだ」


 さらに引きつける。


 先頭のレミーラ兵が、逃げるリービッヒ兵の背中を捉えようとした。


「よし。左右へ割れ!」


 五百の兵が突然、二手に分かれた。


 その正面には、街道を横切るように浅い溝と切り倒された木々が並んでいた。最初の攻撃を繰り返している間に、後方へ残した兵に準備させていたものだった。


「止まれ!」


 遅かった。


 勢いのついた先頭が障害物へ突っ込み、後続がそこへ詰まる。


「射ろ!」


 左右へ分かれたリービッヒ兵から矢が降り注いだ。


 密集したレミーラ兵が次々と倒れる。


「前へ出るな! 射るだけでいい!」


 モンドは欲を出さなかった。


「退くぞ」


「もうですか?」


「欲張ると死ぬ」


 レミーラ軍が態勢を立て直す前に、再び兵を引いた。


 ◇


 さらに時が過ぎた。


 グランヴァレ砦では激しい戦闘が続いている。


 レミーラ軍は圧倒的な兵力で城壁へ殺到していたが、攻撃に集中しようとするたびにモンドが現れた。


 フィリップの顔から笑みは完全に消えていた。


「なぜだ……」


 五百しかいない。


 こちらは、その何十倍もの兵を持っている。


 それなのに五百を排除するためだけに何度も部隊を動かし、隊列を組み替え、そのたびに砦への攻撃が鈍る。


「五千だ」


 フィリップが言った。


「後方の予備隊から五千を出せ」


 側近が目を見開いた。


「陛下、五百の敵に五千を?」


「うるさい! 包囲して潰せ! 追い回すな。東側まで大きく回り込め!」


「しかし、後方の警備が手薄になりますが……」


「五百の敵を片付けるだけだ! いつまでかかると思っている!」


「はっ!」


 命令が伝えられた。


 グランヴァレの橋近くに控えていた予備隊五千が動き出す。


 隊列を組んだ兵士たちは次々と橋を渡り、砦の東側へと進んでいった。


 モンドは、その動きを遠目に眺めていた。


「そうだ。やっと気づいたか」


「閣下?」


「戦力の逐次投入よりも、一気に片をつけに来るべきだ。教科書にもそう書いてあるだろう」


「そんなことを言ってないでくださいよ。こちらにそんな余裕はありませんよ」


「分かっておる」


 モンドは頷いた。


「よい判断と褒めてやりたいところだが、今回は不正解だ」


 モンドは不敵に笑った。


 ◇


 グランヴァレの橋から西へ少し離れた丘陵地帯。


 街道を見下ろす林の中に、ギルフォード率いる別動隊が潜んでいた。


 兵士たちは馬を下り、息を潜めている。


 眼下には、トランシル峠から続く街道が見えた。


 兵糧や飼料を積んだ荷車が長い列を作り、グランヴァレへ向かっている。


 そのさらに向こうでは、レミーラ軍の予備隊が動き始めていた。


「ギルフォード将軍。敵兵が動きます」


 傍らの兵が小声で告げた。


 ギルフォードは林の隙間から街道を見下ろした。


 数百、数千。


 予備隊の兵士たちが、次々とグランヴァレの橋を渡って東へ向かっていく。


「……さすが、モンド様」


 ギルフォードは小さく呟いた。


「もう少しだけ我慢だ」


「今なら仕掛けられるのでは?」


「まだだ。あれでは後方に兵が残りすぎている」


 ギルフォードは再び街道へ目を向けた。


 予備隊の移動は続いていた。


 石造りの橋脚の上に架けられた木製の橋を、兵士たちが次々と渡っていく。


 グランヴァレの橋は、かつては石造りだった。


 しかし、古い橋はすでに崩落しており、現在は残された石の橋脚を利用して、木製の橋桁と橋面が架けられていた。


 ギルフォードが狙っているのは、その橋だった。


 予備隊の移動が続く間にも、輸送隊は峠から到着し、街道に荷車の列を作っていた。


 兵糧、飼料、矢、予備の武具。


 数万の大軍を維持するために必要な物資が、続々と運び込まれている。


 ギルフォードは動かなかった。


 やがて、予備隊の最後尾が橋を渡り終えた。


 後方に残された兵の姿は、目に見えて少なくなっていた。


「……頃合いだ」


 ギルフォードが立ち上がった。


「行くぞ」


 兵士たちが一斉に馬へ跨がる。


「目標は輸送隊とグランヴァレの橋だ。荷車を焼き、橋を落とす。余計な戦闘はするな」


「はっ!」


「モンド様が命を懸けて作ってくださった機会だ。必ず成功させるぞ」


 ギルフォードが剣を抜いた。


「全隊、前進!」


 ◇


 そのころ。


 グランヴァレの西側では、輸送隊がゆっくりと街道を進んでいた。


 兵糧を満載した荷車が続き、その後ろには馬の飼料や予備の武具を積んだ荷車が並ぶ。


 橋の手前では通行待ちの列ができていた。


 護衛についていたレミーラ兵が、退屈そうに欠伸をした。


「まったく。輸送部隊の護衛なんて、ついてないぜ」


「どうした?」


「先行している連中は戦利品を山分けできるらしいじゃないか」


「ああ、そうらしいな」


「コクに入ったら好きなだけ略奪していいんだとよ」


「女も好き放題できるらしいぞ」


「そうなのか。最悪だな」


 兵士が顔をしかめた。


「こっちは荷車の番をしてるだけだってのに」


「まあ、その代わり後ろにいれば死にはしないからな。給金は入るし、我慢だな」


「それもそうか」


 二人は笑った。


 そのときだった。


「……ん?」


 一人が街道の脇へ目を向けた。


「何だ、あれ?」


「どうした?」


「いや、向こうの林から……」


 土煙が見えた。


 最初は小さかった。


 だが、すぐに大きくなった。


 騎兵だった。


 林の中から次々と馬が飛び出し、街道へ向かって駆け下りてくる。


「……おい」


「何だよ」


「あれ、味方か?」


 先頭の騎兵が掲げていたのは、レミーラの旗ではなかった。


「て、敵襲!!」


 叫び声が響いた。


 そのときには、すでにギルフォード隊が街道へ突っ込んでいた。


「突撃!」


 ギルフォードの号令とともに、リービッヒ騎兵が護衛の隊列へ殺到した。


「うわああっ!」


「敵だ! 敵が来たぞ!」


「槍を構えろ!」


 慌てて武器を取ろうとした護衛兵たちを、騎兵の突撃が打ち倒した。


 輸送隊は混乱に陥った。


 荷車が道を塞ぎ、馬が暴れる。


 御者たちは荷車を捨てて逃げ出した。


「荷車を止めろ! 橋を塞ぐな!」


「敵です! 敵が!」


「何でこんなところに敵がいるんだ!」


 ギルフォードは護衛兵を追い散らすと、橋の方へ剣を向けた。


「火矢を放て! 荷車を燃やせ!」


 火矢が一斉に放たれた。


 橋の上には、通過中の荷車が何台も残されていた。


 積まれていた干草や飼料に火がつき、たちまち炎が広がっていく。


「火だ!」


「荷車が燃えているぞ!」


「水を持ってこい!」


 だが、混乱した兵士たちに消火などできるはずもなかった。


 ギルフォード隊はさらに街道沿いの荷車へ襲いかかった。


「兵糧を焼け! 飼料もだ! 一台でも多く燃やせ!」


 兵たちは荷車へ次々と火を放っていった。


 積まれていた物資が炎に包まれる。


 黒い煙が空へ立ち昇り始めた。


「将軍! 輸送隊への放火は成功です!」


「よし! 次は橋だ!」


 ギルフォードは橋へ目を向けた。


 橋上では荷車が燃え盛っていたが、木製の橋そのものはまだ持ちこたえている。


「油を持ってこい! 橋桁にも火をつけろ!」


 命令を受けた兵たちが馬を下り、携行していた油を橋の木組みにかけ始めた。


 川岸から手の届く部分にも油が撒かれ、火が放たれる。


 木製の橋桁に炎が燃え移った。


「よし、そのまま燃やせ!」


 橋の上では、積まれた飼料が激しく燃えていた。


 その炎が木製の橋面を焼き、さらに下の橋桁へ広がっていく。


 石の橋脚は残るだろう。


 だが、その上に架けられた木造部分を焼き落とせば、荷車は通れなくなる。


「将軍! 敵兵です!」


 東側から兵が駆け戻ってきた。


 砦へ向かっていた予備隊の一部が、後方の異変に気づいて引き返してきたのである。


「輸送隊が襲われているぞ!」


「橋を守れ!」


 レミーラ兵はまだ炎の回っていない橋の一角を駆け抜け、西側へ殺到した。


「将軍! 敵が迫っています!」


「橋を守るぞ! 焼け落ちるまで持ちこたえろ!」


 ギルフォードは自ら剣を抜いた。


「騎兵、続け!」


 リービッヒ騎兵が突撃した。


 橋の西詰で両軍が激突する。


 レミーラ兵は数を頼みに押し返そうとしたが、燃え盛る荷車が邪魔をして、思うように展開できなかった。


「押せ! 火を消させるな!」


 ギルフォードは馬を進め、正面の敵兵を斬り伏せた。


 敵兵が倒れる。


 だが、その後ろから新たな兵が現れた。


「将軍! 敵の増援です!」


「分かっている!」


 ギルフォードは剣を振るった。


 橋の向こうから、さらにレミーラ兵が押し寄せてくる。


 五千の予備隊のすべてが戻ってきたわけではない。


 しかし、このまま時間が経てば、兵力差は広がる一方だった。


「橋はまだか!」


「燃え広がっています! ですが、まだ落ちません!」


「構わん! もう少し持ちこたえるぞ!」


 ギルフォード隊は橋の西詰を守り続けた。


 騎兵が倒れる。


 馬が悲鳴を上げる。


 橋の上では炎が勢いを増し、黒煙が両軍の視界を遮り始めていた。


「将軍! 敵が橋の下へ回ろうとしています!」


「行かせるな! 火を消されるぞ!」


 ギルフォードは兵を振り向けた。


 レミーラ兵も必死だった。


 橋が失われれば、後方との連絡が断たれる。


 火を消そうとする兵と、それを阻止するリービッヒ兵が川岸で激しく争った。


 やがて、橋の方から大きな音が響いた。


 木材が軋む音だった。


「将軍!」


 ギルフォードが振り返った。


 炎に包まれた橋桁が、大きくたわんでいる。


 その直後だった。


 鈍い音とともに、一本の梁が折れた。


 続いて、隣の橋桁も崩れ始めた。


「退がれ! 橋が落ちるぞ!」


 叫び声が上がった。


 木製の橋面が傾き、燃え盛る荷車が滑り落ちる。


 轟音が響いた。


 石の橋脚の間に架けられていた木製の橋桁が、炎を上げながら川へ崩れ落ちていった。


「橋が!」


「橋が落ちたぞ!」


 レミーラ兵が叫んだ。


 橋の西側の一径間が、完全に失われていた。


 石の橋脚だけが残され、その間には川面が見えている。


 もはや荷車は通れない。


 ギルフォードはそれを確かめると、剣を掲げた。


「よし! 撤退するぞ!」


「はっ!」


「敵に構うな! 全隊、離脱!」


 リービッヒ騎兵は戦闘を切り上げ、街道脇の林へ向かって退き始めた。


 西側にいたレミーラ兵が追いかけようとしたが、ギルフォード隊の撤退を阻止できるほどの兵力は残されていなかった。


 ギルフォードは馬を走らせながら、最後に振り返った。


 グランヴァレの橋は焼け落ち、輸送隊の荷車からは幾筋もの黒煙が上がっている。


 敵の後方は混乱していた。


 これで、レミーラ軍の補給は止まる。


 ギルフォードは東の空へ目を向けた。


 その先では、今もモンドが戦っているはずだった。


「……モンド様」


 ギルフォードは小さく呟いた。


「やりましたぞ」


 ◇


 グランヴァレ砦の東側。


 モンドは、いまだに戦い続けていた。


 すでにグランヴァレ砦は陥落し、レミーラ軍が鬨の声をあげていた。


 モンド隊も半数が打ち倒されていた。


 五千の予備隊によって東側の街道も押さえられ、周囲はすでに敵兵ばかりだった。


 そのときだった。


 西の空に、黒い煙が上がった。


 一筋。


 続いて、もう一筋。


 さらにその向こうでも、黒煙が立ち昇る。


 最初は細かった煙が、たちまち空を覆うほどに大きくなっていった。


 レミーラ兵たちがざわめいた。


「あれは何だ?」


「後方から煙が上がっているぞ!」


「火事か?」


 モンドは黙って西の空を見ていた。


 やがて、その顔に笑みが浮かんだ。


「……かかったな」


 傍らの兵が西を見た。


「閣下、あれは……」


「ギルフォードだ」


「では、作戦が?」


「ああ。成功した」


 モンドは確信していた。


 あの位置から、あれほどの黒煙が上がる理由は一つしかない。


 敵の輸送隊が燃えている。


 ギルフォードは後方への強襲を成功させたのだ。


 橋も焼き落としたはずだった。


「見事だ、ギルフォード」


 モンドは小さく呟いた。


「さすがは私の副将だ」


 フィリップの目をモンドへ向けさせる。


 兵をこちらへ集めさせる。


 何度も部隊を動かさせ、最後には後方の予備隊まで引っ張り出す。


 その間にギルフォードが輸送隊を襲撃する。


 兵糧を焼き、飼料を失わせ、最後にグランヴァレの橋を焼き落とす。


 それがモンドの狙いだった。


 グランヴァレ砦は、いずれ陥落する。


 五百で数万の大軍を止めることもできない。


 だが、橋を落とし、輸送隊を焼けば話は別だった。


 いかに大軍であろうとも、補給が途絶えれば動けない。


 レミーラ軍の主力がグランヴァレの東側へ渡り終えたからこそ、橋の破壊は大きな意味を持つ。


 数万の兵を養うための物資が、届かなくなるのだから。


 モンドはもう一度、西の空を見た。


 黒煙はなおも高く立ち昇っている。


「……十分だ」


 モンドは静かに呟いた。


 これで、フィリップの進軍は止まる。


 コクまでたどり着けても、その先に全軍を送り込むことはできない。


 エルたちが軍民を連れて撤退する時間を稼ぐことができた。


「さて」


 敵兵は、もうすぐそこまで迫っている。


「仕事は終わった」


 モンドは剣を抜いた。


 残った仕事は、自分よりずっと戦の上手い男に任せればいい。


 モンドは小さく息を吐いた。


「……あとは頼んだぞ、息子よ」


 返事など聞こえるはずもなかった。


 それでも、モンドの顔にはもう迷いがなかった。


「閣下」


 部下に呼ばれ、モンドは振り返った。


「ここからは好きに戦え。逃げたい者は逃げても構わん」


「逃げる気はありません。最後までお供します。ただ、もう逃げ場もありませんがね」


 モンドは周囲を見渡した。


 確かに、どこを見ても敵兵ばかりだった。


「そうか。すまんな」


「今さらですな」


 モンドは苦笑した。


「では、もう少し付き合ってもらおう」


「はっ!」


 レミーラ兵が殺到した。


 モンドの残兵も前へ出る。


 ただ少しでも長く、一歩でも敵を前へ進ませない。


 そのためだけに剣を振るい、槍を突き出し、押し寄せる敵を食い止める。


 一人、また一人と、モンドの周囲から兵が消えていった。


 肩に矢を受けた。


 それでも剣を振るった。


 馬が倒れ、地面へ投げ出された。


 立ち上がった。


「閣下!」


「構うな! 前を見ろ!」


 剣を拾い、再び敵へ向かう。


 腕が上がらなくなれば、左手で支えた。


 足を斬られて膝をついても、すぐに立ち上がった。


 どれだけの時間が経ったのか、もう分からない。


 気づけば、周囲に立っているリービッヒ兵は数えるほどしか残っていなかった。


 モンドは荒い息を吐きながら、それでも口元だけは笑っていた。


「まったく……若い者は元気で困るな」


 返事をする部下は、もういなかった。


 正面からレミーラ兵が迫る。


 モンドは最後に剣を構えた。


挿絵(By みてみん)


「来い。モンド=ドゥットゥカースが相手をしてやる」


 その声とともに、敵兵が一斉に殺到した。


 やがて、グランヴァレの戦場からモンド=ドゥットゥカースの姿は消えた。


 ◇


「橋が落とされました!」


 本陣へ戻ったフィリップは報告を聞き、机を叩いた。


「どういうことだ!」


「敵の別動隊です。輸送隊を襲撃した後、橋に火を放ち、木製部分を焼き落とした模様です!」


「守備兵は何をしていた!」


「後方の予備隊を前方へ回していたため、橋の警備が手薄になっておりまして……」


「何だと!」


 フィリップの怒声に、報告に来た将校が身を縮めた。


「橋の被害は?」


「西側の一径間が焼け落ちました。石の橋脚は残っていますが、荷車の通行は不可能です」


「ならば架け直せばよかろう!」


「それが、陛下……」


 将校は言いにくそうに続けた。


「橋桁を新たに用意する必要があります。木材の調達と架橋作業には、相応の日数が必要かと」


「輸送隊は?」


「多数の荷車を焼かれました。兵糧と飼料の損失が特に大きく……」


 フィリップは歯を食いしばった。


 グランヴァレの橋の東側には、すでにレミーラ軍の大半が渡っている。


 軍そのものが閉じ込められたわけではない。


 だが、問題は後ろだった。


 トランシル峠を越えてくるはずだった補給物資は、すべてあの橋を通る。


 その橋を焼き落とされた。


 しかも輸送隊まで焼かれている。


「……あの老いぼれ」


 フィリップは拳を握りしめた。


 五百程度の兵を引き連れ、無駄な抵抗を続けているだけだと思っていた。


 違った。


 モンドは最初から、こちらの兵力を前方へ引きつけるつもりだったのだ。


 散々追い回させ、最後には後方予備隊五千まで投入させた。


 その結果、輸送隊を守る兵力が足りなくなった。


 自分がモンドに兵を向けている間、敵は後方で好きなだけ仕事をしていたのである。


「モンドはどうした!」


「すでに討ち取ったとの報告が届いております」


「ふん……」


 フィリップは鼻を鳴らした。


「たかが五百で余に逆らった報いだ」


 そう言い捨てたものの、不快さは消えなかった。


 モンドは死んだ。


 グランヴァレ砦も落とした。


 戦場では勝利したはずだった。


 それなのに、こちらの進軍は止められている。


「工兵を橋へ回せ。すぐに架け直せ!」


「はっ!」


「補給隊も再編しろ! 失った物資を補充させろ!」


「しかし陛下。峠からの輸送にも時間がかかります」


「分かっている!」


 フィリップは苛立たしげに答えた。


「コクまでは進む。その後は橋が使えるようになるまで待つ」


 数万の軍を、そのまま補給もなしにリブロフまで進めるわけにはいかない。


 苛立たしいが、足を止めるしかなかった。


 そこへ新たな報告が入った。


「陛下。コク城から敵軍が撤退しています」


 フィリップが顔を上げた。


「撤退?」


「はい。兵だけではありません。住民も伴っている模様です」


「……そうか」


 フィリップは少し考えた。


 モンドが自ら五百の兵を率いて戦場に現れた理由。


 それがようやく理解できた。


 逃げるための時間を稼いでいたのだ。


 フィリップの顔が歪んだ。


「騎兵を集めろ」


「騎兵を?」


「本隊は動かせん。だが馬なら話は別だ。動かせる騎兵を全部出せ」


 橋の東側には、すでに多くの騎兵がいる。


 集めれば一万ほどになる。


 歩兵や大量の荷車を伴わなければ、行動速度は大きく上がる。


「携行できるだけの糧秣を持たせろ。長期間の行動はできんが、逃げる連中を追いかけるくらいはできるだろう」


「はっ」


「住民を連れているなら遠くへは行けん。追いついて叩け」


 騎兵隊長のアシュートが命令を受けて下がろうとした。


「待て」


 フィリップが呼び止めた。


「一人、捕らえてこい」


「誰をでしょうか」


「あのモンドとかいう将の娘だ」


 騎兵隊長がわずかに眉を動かした。


「エル=リージェットですか」


「そうだ。リービッヒの将軍で、天使だの聖女だの言われているそうだな」


 フィリップは口元を歪めた。


「余は気の強い女が好きだ。それを跪かせるのがいい」


 アシュートは黙っていた。


「まあ、すでに先に逃げているかどうかも分からんがな」


「……承知しました。善処いたします」


「見つけたら殺すなよ。できれば傷もつけるな。生きて捕らえた者には、思いのまま恩賞を取らせると伝えろ」


「はっ」


 騎兵隊長のアシュートは頭を下げ、天幕を出ていった。


 やがて、グランヴァレを一万の騎兵が発った。

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