第19話 グランヴァレの戦い
グランヴァレ砦の城壁には、すでにいくつものレミーラ旗が翻っていた。
トランシル峠を越えて押し寄せたレミーラ軍は、グランヴァレの橋を渡ると、そのまま砦へ殺到した。
守備兵はよく戦ったが、兵力の差はいかんともしがたい。城門は半ば破壊され、城壁の一角ではレミーラ兵が次々と梯子を登っている。
陥落は時間の問題だった。
フィリップは馬上からその光景を眺めていた。
「もう終わりだな」
砦一つを落とすのに、いくらか余計な時間を取られた。それでも、この程度ならば予定の範囲内だった。
グランヴァレさえ抜けば、その先はコクである。
そう考えていたときだった。
「陛下。砦の東方に敵です」
「数は」
「およそ五百」
フィリップは思わず聞き返した。
「五百?」
「はい」
見ると、砦の背後、コクへ続く街道の向こうから小さな一隊が近づいてくる。
先頭に立つ男は、すでに若くはなかった。鎧の上から外套を羽織り、こちらを見ながら悠然と馬を進めている。
「何者だ」
「リービッヒの大将軍モンド=ドゥットゥカースかと」
「あれが?」
フィリップは鼻で笑った。
名だけは聞いたことがある。リービッヒ軍の名将であり、この地域を治める侯爵。
だが、連れてきた兵はたった五百だった。
「蠅が一匹増えたところで変わらん。潰せ」
命令を受けた一隊が向きを変えた。
ところが、五百のリービッヒ兵は正面からぶつかってこなかった。
接近してきたかと思えば矢を浴びせ、レミーラ兵が隊列を組み直す前に退く。追えば街道脇の林へ入り、追撃を止めれば別の場所から姿を現した。
砦への攻撃が再開されると、今度はその側面へ食いついてくる。
大きな損害ではない。
だが、鬱陶しい。
「何をしている。さっさと囲め」
フィリップの命令で兵が増やされた。
モンドはそれを見ると、わずかに口元を緩めた。
「ほう。今度は増やしたか。皇帝陛下は働き者だ」
隣にいた兵が苦笑した。
「閣下、笑っている場合ではありませんぞ」
「分かっている。だから笑っている」
モンドは馬首を返した。
「下がれ。追わせろ」
五百の兵が一斉に後退する。
レミーラ兵が追った。
少し進んだところで、左右から矢が飛んできた。街道脇の低い斜面に伏せていた兵が一斉に射かけたのである。
先頭の兵が倒れ、後続が詰まった。
その瞬間、先ほどまで逃げていたモンド隊が反転した。
「今だ。押せ」
短い突撃だった。
混乱した先頭だけを叩き、すぐに引く。深追いはしない。
敵が隊列を整えるころには、もう次の場所へ移っている。
◇
モンドの散発的な攻撃は、その後も続いた。
矢を射かけては退き、追ってきた部隊だけを叩く。レミーラ軍が追撃を警戒して動かなくなれば、今度は砦を攻めている部隊の側面へ姿を現した。
フィリップがそちらへ兵を向ける。
すると、モンドはもういない。
少し離れた別の場所から、また矢が飛んでくる。
「……何をしている!」
フィリップの怒声が響いた。
わずか五百の敵が、いつまで経っても消えない。
「二千を向けろ! 今度こそ逃がすな!」
命令を受けた部隊が左右に広がった。
正面から追うだけでは逃げられる。それならば回り込み、退路を塞げばいい。
モンドはその動きを遠目に眺めていた。
「ようやく考えたか」
「閣下、左右から来ます」
「見れば分かる」
「どうします?」
「下がる」
「またですか」
「まただ」
何でもないことのように答えると、モンドは手を振った。
「全隊、退け。今度は少し慌てて逃げろ」
「慌てて?」
「そうだ。上手に逃げるな。必死に逃げているように見せろ」
兵たちが顔を見合わせた。
「……難しい注文をなさる」
「役者になれ。今日は観客が多いぞ」
モンド自身も馬首を返した。
今までより速い。
五百の部隊が崩れたように東へ走り出す。
「逃げたぞ!」
「追え!」
レミーラ兵が勢いづいた。
左右から回り込もうとしていた部隊も、モンド隊が崩れたと見るや包囲を狭める。
モンドは何度か後ろを振り返った。
「もう少し」
敵が近づく。
「まだだ」
さらに引きつける。
先頭のレミーラ兵が、逃げるリービッヒ兵の背中を捉えようとした。
「よし。左右へ割れ!」
五百の兵が突然、二手に分かれた。
その正面には、街道を横切るように浅い溝と切り倒された木々が並んでいた。最初の攻撃を繰り返している間に、後方へ残した兵に準備させていたものだった。
「止まれ!」
遅かった。
勢いのついた先頭が障害物へ突っ込み、後続がそこへ詰まる。
「射ろ!」
左右へ分かれたリービッヒ兵から矢が降り注いだ。
密集したレミーラ兵が次々と倒れる。
「前へ出るな! 射るだけでいい!」
モンドは欲を出さなかった。
「退くぞ」
「もうですか?」
「欲張ると死ぬ」
レミーラ軍が態勢を立て直す前に、再び兵を引いた。
◇
さらに時が過ぎた。
グランヴァレ砦では激しい戦闘が続いている。
レミーラ軍は圧倒的な兵力で城壁へ殺到していたが、攻撃に集中しようとするたびにモンドが現れた。
フィリップの顔から笑みは完全に消えていた。
「なぜだ……」
五百しかいない。
こちらは、その何十倍もの兵を持っている。
それなのに五百を排除するためだけに何度も部隊を動かし、隊列を組み替え、そのたびに砦への攻撃が鈍る。
「五千だ」
フィリップが言った。
「後方の予備隊から五千を出せ」
側近が目を見開いた。
「陛下、五百の敵に五千を?」
「うるさい! 包囲して潰せ! 追い回すな。東側まで大きく回り込め!」
「しかし、後方の警備が手薄になりますが……」
「五百の敵を片付けるだけだ! いつまでかかると思っている!」
「はっ!」
命令が伝えられた。
グランヴァレの橋近くに控えていた予備隊五千が動き出す。
隊列を組んだ兵士たちは次々と橋を渡り、砦の東側へと進んでいった。
モンドは、その動きを遠目に眺めていた。
「そうだ。やっと気づいたか」
「閣下?」
「戦力の逐次投入よりも、一気に片をつけに来るべきだ。教科書にもそう書いてあるだろう」
「そんなことを言ってないでくださいよ。こちらにそんな余裕はありませんよ」
「分かっておる」
モンドは頷いた。
「よい判断と褒めてやりたいところだが、今回は不正解だ」
モンドは不敵に笑った。
◇
グランヴァレの橋から西へ少し離れた丘陵地帯。
街道を見下ろす林の中に、ギルフォード率いる別動隊が潜んでいた。
兵士たちは馬を下り、息を潜めている。
眼下には、トランシル峠から続く街道が見えた。
兵糧や飼料を積んだ荷車が長い列を作り、グランヴァレへ向かっている。
そのさらに向こうでは、レミーラ軍の予備隊が動き始めていた。
「ギルフォード将軍。敵兵が動きます」
傍らの兵が小声で告げた。
ギルフォードは林の隙間から街道を見下ろした。
数百、数千。
予備隊の兵士たちが、次々とグランヴァレの橋を渡って東へ向かっていく。
「……さすが、モンド様」
ギルフォードは小さく呟いた。
「もう少しだけ我慢だ」
「今なら仕掛けられるのでは?」
「まだだ。あれでは後方に兵が残りすぎている」
ギルフォードは再び街道へ目を向けた。
予備隊の移動は続いていた。
石造りの橋脚の上に架けられた木製の橋を、兵士たちが次々と渡っていく。
グランヴァレの橋は、かつては石造りだった。
しかし、古い橋はすでに崩落しており、現在は残された石の橋脚を利用して、木製の橋桁と橋面が架けられていた。
ギルフォードが狙っているのは、その橋だった。
予備隊の移動が続く間にも、輸送隊は峠から到着し、街道に荷車の列を作っていた。
兵糧、飼料、矢、予備の武具。
数万の大軍を維持するために必要な物資が、続々と運び込まれている。
ギルフォードは動かなかった。
やがて、予備隊の最後尾が橋を渡り終えた。
後方に残された兵の姿は、目に見えて少なくなっていた。
「……頃合いだ」
ギルフォードが立ち上がった。
「行くぞ」
兵士たちが一斉に馬へ跨がる。
「目標は輸送隊とグランヴァレの橋だ。荷車を焼き、橋を落とす。余計な戦闘はするな」
「はっ!」
「モンド様が命を懸けて作ってくださった機会だ。必ず成功させるぞ」
ギルフォードが剣を抜いた。
「全隊、前進!」
◇
そのころ。
グランヴァレの西側では、輸送隊がゆっくりと街道を進んでいた。
兵糧を満載した荷車が続き、その後ろには馬の飼料や予備の武具を積んだ荷車が並ぶ。
橋の手前では通行待ちの列ができていた。
護衛についていたレミーラ兵が、退屈そうに欠伸をした。
「まったく。輸送部隊の護衛なんて、ついてないぜ」
「どうした?」
「先行している連中は戦利品を山分けできるらしいじゃないか」
「ああ、そうらしいな」
「コクに入ったら好きなだけ略奪していいんだとよ」
「女も好き放題できるらしいぞ」
「そうなのか。最悪だな」
兵士が顔をしかめた。
「こっちは荷車の番をしてるだけだってのに」
「まあ、その代わり後ろにいれば死にはしないからな。給金は入るし、我慢だな」
「それもそうか」
二人は笑った。
そのときだった。
「……ん?」
一人が街道の脇へ目を向けた。
「何だ、あれ?」
「どうした?」
「いや、向こうの林から……」
土煙が見えた。
最初は小さかった。
だが、すぐに大きくなった。
騎兵だった。
林の中から次々と馬が飛び出し、街道へ向かって駆け下りてくる。
「……おい」
「何だよ」
「あれ、味方か?」
先頭の騎兵が掲げていたのは、レミーラの旗ではなかった。
「て、敵襲!!」
叫び声が響いた。
そのときには、すでにギルフォード隊が街道へ突っ込んでいた。
「突撃!」
ギルフォードの号令とともに、リービッヒ騎兵が護衛の隊列へ殺到した。
「うわああっ!」
「敵だ! 敵が来たぞ!」
「槍を構えろ!」
慌てて武器を取ろうとした護衛兵たちを、騎兵の突撃が打ち倒した。
輸送隊は混乱に陥った。
荷車が道を塞ぎ、馬が暴れる。
御者たちは荷車を捨てて逃げ出した。
「荷車を止めろ! 橋を塞ぐな!」
「敵です! 敵が!」
「何でこんなところに敵がいるんだ!」
ギルフォードは護衛兵を追い散らすと、橋の方へ剣を向けた。
「火矢を放て! 荷車を燃やせ!」
火矢が一斉に放たれた。
橋の上には、通過中の荷車が何台も残されていた。
積まれていた干草や飼料に火がつき、たちまち炎が広がっていく。
「火だ!」
「荷車が燃えているぞ!」
「水を持ってこい!」
だが、混乱した兵士たちに消火などできるはずもなかった。
ギルフォード隊はさらに街道沿いの荷車へ襲いかかった。
「兵糧を焼け! 飼料もだ! 一台でも多く燃やせ!」
兵たちは荷車へ次々と火を放っていった。
積まれていた物資が炎に包まれる。
黒い煙が空へ立ち昇り始めた。
「将軍! 輸送隊への放火は成功です!」
「よし! 次は橋だ!」
ギルフォードは橋へ目を向けた。
橋上では荷車が燃え盛っていたが、木製の橋そのものはまだ持ちこたえている。
「油を持ってこい! 橋桁にも火をつけろ!」
命令を受けた兵たちが馬を下り、携行していた油を橋の木組みにかけ始めた。
川岸から手の届く部分にも油が撒かれ、火が放たれる。
木製の橋桁に炎が燃え移った。
「よし、そのまま燃やせ!」
橋の上では、積まれた飼料が激しく燃えていた。
その炎が木製の橋面を焼き、さらに下の橋桁へ広がっていく。
石の橋脚は残るだろう。
だが、その上に架けられた木造部分を焼き落とせば、荷車は通れなくなる。
「将軍! 敵兵です!」
東側から兵が駆け戻ってきた。
砦へ向かっていた予備隊の一部が、後方の異変に気づいて引き返してきたのである。
「輸送隊が襲われているぞ!」
「橋を守れ!」
レミーラ兵はまだ炎の回っていない橋の一角を駆け抜け、西側へ殺到した。
「将軍! 敵が迫っています!」
「橋を守るぞ! 焼け落ちるまで持ちこたえろ!」
ギルフォードは自ら剣を抜いた。
「騎兵、続け!」
リービッヒ騎兵が突撃した。
橋の西詰で両軍が激突する。
レミーラ兵は数を頼みに押し返そうとしたが、燃え盛る荷車が邪魔をして、思うように展開できなかった。
「押せ! 火を消させるな!」
ギルフォードは馬を進め、正面の敵兵を斬り伏せた。
敵兵が倒れる。
だが、その後ろから新たな兵が現れた。
「将軍! 敵の増援です!」
「分かっている!」
ギルフォードは剣を振るった。
橋の向こうから、さらにレミーラ兵が押し寄せてくる。
五千の予備隊のすべてが戻ってきたわけではない。
しかし、このまま時間が経てば、兵力差は広がる一方だった。
「橋はまだか!」
「燃え広がっています! ですが、まだ落ちません!」
「構わん! もう少し持ちこたえるぞ!」
ギルフォード隊は橋の西詰を守り続けた。
騎兵が倒れる。
馬が悲鳴を上げる。
橋の上では炎が勢いを増し、黒煙が両軍の視界を遮り始めていた。
「将軍! 敵が橋の下へ回ろうとしています!」
「行かせるな! 火を消されるぞ!」
ギルフォードは兵を振り向けた。
レミーラ兵も必死だった。
橋が失われれば、後方との連絡が断たれる。
火を消そうとする兵と、それを阻止するリービッヒ兵が川岸で激しく争った。
やがて、橋の方から大きな音が響いた。
木材が軋む音だった。
「将軍!」
ギルフォードが振り返った。
炎に包まれた橋桁が、大きくたわんでいる。
その直後だった。
鈍い音とともに、一本の梁が折れた。
続いて、隣の橋桁も崩れ始めた。
「退がれ! 橋が落ちるぞ!」
叫び声が上がった。
木製の橋面が傾き、燃え盛る荷車が滑り落ちる。
轟音が響いた。
石の橋脚の間に架けられていた木製の橋桁が、炎を上げながら川へ崩れ落ちていった。
「橋が!」
「橋が落ちたぞ!」
レミーラ兵が叫んだ。
橋の西側の一径間が、完全に失われていた。
石の橋脚だけが残され、その間には川面が見えている。
もはや荷車は通れない。
ギルフォードはそれを確かめると、剣を掲げた。
「よし! 撤退するぞ!」
「はっ!」
「敵に構うな! 全隊、離脱!」
リービッヒ騎兵は戦闘を切り上げ、街道脇の林へ向かって退き始めた。
西側にいたレミーラ兵が追いかけようとしたが、ギルフォード隊の撤退を阻止できるほどの兵力は残されていなかった。
ギルフォードは馬を走らせながら、最後に振り返った。
グランヴァレの橋は焼け落ち、輸送隊の荷車からは幾筋もの黒煙が上がっている。
敵の後方は混乱していた。
これで、レミーラ軍の補給は止まる。
ギルフォードは東の空へ目を向けた。
その先では、今もモンドが戦っているはずだった。
「……モンド様」
ギルフォードは小さく呟いた。
「やりましたぞ」
◇
グランヴァレ砦の東側。
モンドは、いまだに戦い続けていた。
すでにグランヴァレ砦は陥落し、レミーラ軍が鬨の声をあげていた。
モンド隊も半数が打ち倒されていた。
五千の予備隊によって東側の街道も押さえられ、周囲はすでに敵兵ばかりだった。
そのときだった。
西の空に、黒い煙が上がった。
一筋。
続いて、もう一筋。
さらにその向こうでも、黒煙が立ち昇る。
最初は細かった煙が、たちまち空を覆うほどに大きくなっていった。
レミーラ兵たちがざわめいた。
「あれは何だ?」
「後方から煙が上がっているぞ!」
「火事か?」
モンドは黙って西の空を見ていた。
やがて、その顔に笑みが浮かんだ。
「……かかったな」
傍らの兵が西を見た。
「閣下、あれは……」
「ギルフォードだ」
「では、作戦が?」
「ああ。成功した」
モンドは確信していた。
あの位置から、あれほどの黒煙が上がる理由は一つしかない。
敵の輸送隊が燃えている。
ギルフォードは後方への強襲を成功させたのだ。
橋も焼き落としたはずだった。
「見事だ、ギルフォード」
モンドは小さく呟いた。
「さすがは私の副将だ」
フィリップの目をモンドへ向けさせる。
兵をこちらへ集めさせる。
何度も部隊を動かさせ、最後には後方の予備隊まで引っ張り出す。
その間にギルフォードが輸送隊を襲撃する。
兵糧を焼き、飼料を失わせ、最後にグランヴァレの橋を焼き落とす。
それがモンドの狙いだった。
グランヴァレ砦は、いずれ陥落する。
五百で数万の大軍を止めることもできない。
だが、橋を落とし、輸送隊を焼けば話は別だった。
いかに大軍であろうとも、補給が途絶えれば動けない。
レミーラ軍の主力がグランヴァレの東側へ渡り終えたからこそ、橋の破壊は大きな意味を持つ。
数万の兵を養うための物資が、届かなくなるのだから。
モンドはもう一度、西の空を見た。
黒煙はなおも高く立ち昇っている。
「……十分だ」
モンドは静かに呟いた。
これで、フィリップの進軍は止まる。
コクまでたどり着けても、その先に全軍を送り込むことはできない。
エルたちが軍民を連れて撤退する時間を稼ぐことができた。
「さて」
敵兵は、もうすぐそこまで迫っている。
「仕事は終わった」
モンドは剣を抜いた。
残った仕事は、自分よりずっと戦の上手い男に任せればいい。
モンドは小さく息を吐いた。
「……あとは頼んだぞ、息子よ」
返事など聞こえるはずもなかった。
それでも、モンドの顔にはもう迷いがなかった。
「閣下」
部下に呼ばれ、モンドは振り返った。
「ここからは好きに戦え。逃げたい者は逃げても構わん」
「逃げる気はありません。最後までお供します。ただ、もう逃げ場もありませんがね」
モンドは周囲を見渡した。
確かに、どこを見ても敵兵ばかりだった。
「そうか。すまんな」
「今さらですな」
モンドは苦笑した。
「では、もう少し付き合ってもらおう」
「はっ!」
レミーラ兵が殺到した。
モンドの残兵も前へ出る。
ただ少しでも長く、一歩でも敵を前へ進ませない。
そのためだけに剣を振るい、槍を突き出し、押し寄せる敵を食い止める。
一人、また一人と、モンドの周囲から兵が消えていった。
肩に矢を受けた。
それでも剣を振るった。
馬が倒れ、地面へ投げ出された。
立ち上がった。
「閣下!」
「構うな! 前を見ろ!」
剣を拾い、再び敵へ向かう。
腕が上がらなくなれば、左手で支えた。
足を斬られて膝をついても、すぐに立ち上がった。
どれだけの時間が経ったのか、もう分からない。
気づけば、周囲に立っているリービッヒ兵は数えるほどしか残っていなかった。
モンドは荒い息を吐きながら、それでも口元だけは笑っていた。
「まったく……若い者は元気で困るな」
返事をする部下は、もういなかった。
正面からレミーラ兵が迫る。
モンドは最後に剣を構えた。
「来い。モンド=ドゥットゥカースが相手をしてやる」
その声とともに、敵兵が一斉に殺到した。
やがて、グランヴァレの戦場からモンド=ドゥットゥカースの姿は消えた。
◇
「橋が落とされました!」
本陣へ戻ったフィリップは報告を聞き、机を叩いた。
「どういうことだ!」
「敵の別動隊です。輸送隊を襲撃した後、橋に火を放ち、木製部分を焼き落とした模様です!」
「守備兵は何をしていた!」
「後方の予備隊を前方へ回していたため、橋の警備が手薄になっておりまして……」
「何だと!」
フィリップの怒声に、報告に来た将校が身を縮めた。
「橋の被害は?」
「西側の一径間が焼け落ちました。石の橋脚は残っていますが、荷車の通行は不可能です」
「ならば架け直せばよかろう!」
「それが、陛下……」
将校は言いにくそうに続けた。
「橋桁を新たに用意する必要があります。木材の調達と架橋作業には、相応の日数が必要かと」
「輸送隊は?」
「多数の荷車を焼かれました。兵糧と飼料の損失が特に大きく……」
フィリップは歯を食いしばった。
グランヴァレの橋の東側には、すでにレミーラ軍の大半が渡っている。
軍そのものが閉じ込められたわけではない。
だが、問題は後ろだった。
トランシル峠を越えてくるはずだった補給物資は、すべてあの橋を通る。
その橋を焼き落とされた。
しかも輸送隊まで焼かれている。
「……あの老いぼれ」
フィリップは拳を握りしめた。
五百程度の兵を引き連れ、無駄な抵抗を続けているだけだと思っていた。
違った。
モンドは最初から、こちらの兵力を前方へ引きつけるつもりだったのだ。
散々追い回させ、最後には後方予備隊五千まで投入させた。
その結果、輸送隊を守る兵力が足りなくなった。
自分がモンドに兵を向けている間、敵は後方で好きなだけ仕事をしていたのである。
「モンドはどうした!」
「すでに討ち取ったとの報告が届いております」
「ふん……」
フィリップは鼻を鳴らした。
「たかが五百で余に逆らった報いだ」
そう言い捨てたものの、不快さは消えなかった。
モンドは死んだ。
グランヴァレ砦も落とした。
戦場では勝利したはずだった。
それなのに、こちらの進軍は止められている。
「工兵を橋へ回せ。すぐに架け直せ!」
「はっ!」
「補給隊も再編しろ! 失った物資を補充させろ!」
「しかし陛下。峠からの輸送にも時間がかかります」
「分かっている!」
フィリップは苛立たしげに答えた。
「コクまでは進む。その後は橋が使えるようになるまで待つ」
数万の軍を、そのまま補給もなしにリブロフまで進めるわけにはいかない。
苛立たしいが、足を止めるしかなかった。
そこへ新たな報告が入った。
「陛下。コク城から敵軍が撤退しています」
フィリップが顔を上げた。
「撤退?」
「はい。兵だけではありません。住民も伴っている模様です」
「……そうか」
フィリップは少し考えた。
モンドが自ら五百の兵を率いて戦場に現れた理由。
それがようやく理解できた。
逃げるための時間を稼いでいたのだ。
フィリップの顔が歪んだ。
「騎兵を集めろ」
「騎兵を?」
「本隊は動かせん。だが馬なら話は別だ。動かせる騎兵を全部出せ」
橋の東側には、すでに多くの騎兵がいる。
集めれば一万ほどになる。
歩兵や大量の荷車を伴わなければ、行動速度は大きく上がる。
「携行できるだけの糧秣を持たせろ。長期間の行動はできんが、逃げる連中を追いかけるくらいはできるだろう」
「はっ」
「住民を連れているなら遠くへは行けん。追いついて叩け」
騎兵隊長のアシュートが命令を受けて下がろうとした。
「待て」
フィリップが呼び止めた。
「一人、捕らえてこい」
「誰をでしょうか」
「あのモンドとかいう将の娘だ」
騎兵隊長がわずかに眉を動かした。
「エル=リージェットですか」
「そうだ。リービッヒの将軍で、天使だの聖女だの言われているそうだな」
フィリップは口元を歪めた。
「余は気の強い女が好きだ。それを跪かせるのがいい」
アシュートは黙っていた。
「まあ、すでに先に逃げているかどうかも分からんがな」
「……承知しました。善処いたします」
「見つけたら殺すなよ。できれば傷もつけるな。生きて捕らえた者には、思いのまま恩賞を取らせると伝えろ」
「はっ」
騎兵隊長のアシュートは頭を下げ、天幕を出ていった。
やがて、グランヴァレを一万の騎兵が発った。




