第16話 迎撃準備
布陣図
◇
コク城。
モンド=ドゥットゥカースとヴァンが到着したのは、レミーラ軍がトランシル峠を越えて間もなくのことだった。
モンドが率いてきたのは、直属のコク侯軍五千。
本来ならリブロフの首都防衛部隊一万五千も、ほどなくコクへ入る予定だった。しかし敵の進撃が予想以上に早く、モンドは自軍だけを先行させていた。
城門をくぐると、エルたちが待っていた。
「父さん」
「ああ。状況を聞こう」
久しぶりの再会だったが、挨拶はそれだけだった。
エルはモンドとヴァンを軍議室へ案内した。
机の上には西方の地図が広げられている。
エル、ギルフォード、ヴィオラ、ケント。そしてモンドとヴァンが、その周囲に集まった。
エルがトランシル峠を指した。
「敵はもう峠を越えた。数は四万から五万」
「間違いないか?」
「正確な数までは分からない。でも、大きくは違わないと思う」
その指が峠から東へ動く。
「街道沿いを進んでる。村を焼きながら」
モンドの眉が動いた。
「焼いている?」
「うん。食料も家畜も全部取って、そのあと火をつけてる」
ギルフォードが続けた。
「略奪は軍全体で許可されているものと思われます。抵抗した住民も殺害されています。逃げられた者は山中へ入っているようです」
「……そうか」
モンドは低く答えた。
「グランヴァレは?」
「もう包囲されてる」
エルの指が、峠とコクの間にある一点へ移った。
「昨日、最後の伝令が来た。敵の本隊がもうじき到着する」
「どれくらい持つ?」
「三日。よくても四日」
モンドは地図を見つめた。
グランヴァレは砦と呼ばれているが、大軍の攻撃を受け止める要塞ではない。街道管理や治安維持、徴税などを担う地方行政の拠点に、防備を加えた程度の施設だった。
西には中央山脈があり、その向こうにはドグラ族の土地がある。荒廃したトランシル峠を数万の軍勢が突破してくるなど、これまで想定されてこなかったのだ。
「撤退は?」
ヴァンが尋ねた。
エルは首を振った。
「先生、もう無理。包囲されてる。今から出ても追いつかれる」
「そうだね」
グランヴァレが三日、四日持つというのも、守り切れるという意味ではない。
そこにいる者たちが、どれだけ時間を稼げるか。
ただ、それだけだった。
「逃げてきた住民はいるか?」
「かなりいるよ」
「話を聞きたい」
「分かった」
◇
城内の一角には、山を抜けてきた住民たちが集められていた。
老人、女、子供。
誰もが泥に汚れ、手足には山道を歩き続けた傷が残っている。
モンドは、そのうちの一人から話を聞いた。
四十を少し過ぎたくらいの男だった。
「村には何人いた?」
「百五十ほどです」
「ここへ来た者は?」
「分かりません。みんな、ばらばらに逃げましたから」
「最初から山へ逃げたのか?」
男は首を振った。
「何が来たのか分からなかったんです。兵隊が家に入ってきて、麦を持っていって。豚も酒も全部……」
男の拳が震えた。
「親父が止めたんです。冬を越せなくなるって」
そこで俯いた。
「斬られました」
誰も口を挟まなかった。
「それから家の中の物まで持っていって……若い女を見つけると連れていって……」
ヴィオラの表情が険しくなる。
「連れていった?」
「はい」
「どこへ?」
「分かりません。止めた家族も……」
その先は言わなかった。
「……外道が」
ケントが低く吐き捨てた。
「ケント」
ギルフォードが名を呼ぶ。
「ですが将軍! 戦争だからって、こんなことが許されるんですか!」
「許されるわけがないだろう」
ヴィオラも怒りを隠さなかった。
「普通に暮らしていただけの人たちだぞ」
別の村から逃げてきた老婆も、同じような話をした。
家財を奪われ、家を焼かれ、家族が逃げ遅れた。
さらに別の男もそうだった。
違うのは村の名前だけだった。
「逃げなかった人は?」
エルが尋ねた。
男は首を振った。
「……残っていないと思います」
「そう」
エルはそれ以上何も言わなかった。ただ、握った手に強く力が入っていた。
「もういい」
モンドが言った。
「よくここまで来てくれた。今は休みなさい」
「侯爵様……俺たちの村は……」
男は言葉を詰まらせた。
戻れるのか。また暮らせるのか。
おそらく、そう聞きたかったのだろう。
だが、モンドにも答えはなかった。
「……まずは生きることだけを考えなさい」
男はゆっくりと頭を下げた。
◇
軍議室へ戻る途中も、ケントの怒りは収まらなかった。
「絶対に許せません。感情だけで戦をしてはいけないことくらい分かっています。でも……」
「ああ」
モンドは否定しなかった。
「あれが許される理由にはならん」
「グランヴァレが落ちれば、この周辺の村も同じ目に遭います」
ヴィオラが言った。
「避難を急がせなければ」
「ああ」
その横で、ヴァンが静かに口を開いた。
「フィリップは、占領した土地を統治するつもりがないようだね」
「俺もそう思う」
「領地として使うなら、村を焼き、住民を追い散らす必要はない。あとで困るからね」
「リブロフを落とすことしか考えていないか」
「たぶんね」
「現地で食料を奪いながら前へ進む」
「そういうことだろうね」
モンドは地図に目を落とした。
「ならば、後方は脆い」
「そうなるだろうね」
その後も、コク城では敵情の確認、周辺住民の避難。そして防備の整備が続いた。
◇
10月26日夕刻。
コク城に、リブロフからの急使が到着した。
「モンド様! 王都より緊急の報告と命令書です!」
「何があった?」
「王宮で急変がございました!」
伝令が差し出した書状には、王宮の正式な印章が押されていた。
モンドは封を切り、本文へ目を落とした。
「……何だと」
「父さん?」
エルが近づく。
そこには、こう記されていた。
ミュルス大公オーウェン=フランツベルク、病死。
ガレスおよび王女カレリアが協力して幼い国王を輔弼し、国政を担う。
急な政務の引き継ぎにより、首都防衛部隊一万五千の進発には遅れが生じる。
ただし、準備が整い次第、予定どおりコクへ向かわせる。
コク城は引き続き防備を固め、敵軍を迎撃せよ。
「……オーウェン様が亡くなられた」
モンドが低い声で言った。
「えっ?」
「病死だそうだ」
エルは言葉を失った。
「病気だったのかい?」
ヴァンが尋ねた。
「聞いていない」
「僕もだ」
モンドは伝令へ目を向けた。
「詳しい事情は?」
「申し訳ありません。王宮では突然のことで混乱していると。それ以上は聞いておりません」
「……そうか」
オーウェンはすでに高齢だった。宰相という政務の負担を考えれば突然の病死も、不思議なことではない。
「カレリア殿下が政務を担われるのか」
ギルフォードが尋ねた。
「ああ。ガレスと協力して、国王陛下を輔弼するとある」
「カレリアが……」
エルの顔に心配そうな色が浮かんだ。
祖父を亡くしたばかりで、今度は王宮の政務まで担うという。幼い頃からの親友が、どれほど大変な思いをしているか。
「王都では相当な混乱が起きているのだろう」
モンドが言った。
「だが、カレリア殿下が政務に加わっているなら、無茶な判断はなさらんはずだ」
ヴァンも頷いた。
「そうだね」
「首都防衛部隊は、まだ進発していないのか?」
「はい。新たな指示が出るまで待機するよう命じられております」
「いつ出せる?」
「そこまでは……」
「分かった。王都へ伝えろ。こちらは一万五千を受け入れる準備を進める。兵糧の輸送を最優先してほしいとな」
「承知しました!」
伝令が下がる。
「援軍、遅れるんだね」
エルが言った。
「ああ。痛い遅れだが、来ないわけではない」
モンドは地図上のグランヴァレを指した。
「敵があそこで止まっているうちに、できることを進めよう」
「分かった」
コク城では防衛準備が続けられた。
城壁には兵を増やし、矢や投石用の石を集め、城門を補強する。
周辺の村には城内への避難を命じた。住民たちは荷車に家財を積み、家畜を連れてコクへ向かった。
モンドは首都防衛部隊一万五千の到着を前提に、兵舎や物資置き場を割り振った。
エルとギルフォードは防御区画を分担し、ヴィオラとケントは各部隊の配置を整えた。
援軍が来るまで、自分たちで持ちこたえる。
その方針を疑う者はいなかった。
◇
『エル日記』10月26日
ミュルス大公が病死した。
正直、驚いた。
カレリアが幼王を輔弼する。
私たちにとっては助かる。
けれど、援軍は遅れるらしい。
けど、父さんの言う通り、この城は守り切れるだろう。
ただ、その先に何があるのだろうか……




