第10話 ノースジョウ帰順
279年9月後半。
リービッヒ北部ノースジョウ。
領主館を取り囲んだ群衆は、昼を過ぎても減る気配を見せなかった。
最初は数十人だったという。
食糧を分けてほしい。
せめて冬まで生きられるだけの麦を用意してほしい。
そんな陳情だった。
だが、領主館から満足な返答が得られないと知れると、人は人を呼んだ。百人になり、五百人になり、昼前には広場を埋め尽くすほどの人間が押し寄せていた。
「麦を出せ!」
「もう倉にはないと言っているだろう!」
「なら、どこから持ってくるんだ!」
領主館の正門前では、兵士たちが槍を構えていた。
しかし、誰も積極的に前へ出ようとはしなかった。
兵士自身、腹を空かせている。
命じられれば群衆を押し返すことくらいはできるかもしれない。しかし、その後どうするのか。
牢へ入れる食糧すらないというのに、何百人もの住民を捕らえることなどできるはずもなかった。
ノースジョウの食糧事情は、春先から急速に悪化していた。
春にはエル=リージェットが住民を慰撫するために軍を率いてこの地へ入った。
そのとき住民たちは不安を覚えながらも、まだ耐えることができた。
だが、それで食糧が増えるわけではない。
国内の流通は日に日に細り、商人たちは来なくなった。麦も塩も油も高騰し、夏を過ぎる頃には、金を持っていても買う物そのものがないという状態になっていた。
そして何より、ノースジョウの人々には見えてしまっていた。
隣のライプニッツが。
かつてノースジョウ以上に荒れ、食糧不足に苦しんでいた土地には、今では荷馬車が行き交っていた。
パドゥーラ侯の正式な統治下へ入ってから街道の警備が戻り、都市同盟やパドゥーラ方面から商人が入り、麦の値段も落ち着いている。
豊かになったわけではない。
それでも、明日食べる物がある。
その違いはあまりにも大きかった。
「なぜライプニッツには麦があって、俺たちにはない!」
一人の男が叫んだ。
「向こうだって少し前までは俺たちと同じだったじゃないか!」
「パドゥーラ侯が入ってからだ!」
その声をきっかけに、群衆の中から別の叫びが上がった。
「パドゥーラへ行こう!」
ざわめきが広がった。
「俺たちもパドゥーラ侯に保護してもらえばいい!」
「そうだ!」
「領主様から頼んでくれ!」
「もう王都は何もしてくれない!」
要求が変わった。
食糧ではない。
「パドゥーラへ帰順しろ!」
何百という声が重なった。
「ライプニッツと同じにしてくれ!」
「パドゥーラ侯を呼べ!」
「俺たちは飢えたくない!」
領主館の窓から広場を見下ろしていた役人たちは、誰一人として口を開かなかった。
鎮圧する兵はいない。
食糧もない。
そして彼ら自身、群衆の言っていることが間違っているとは思えなかった。
◇
「……パドゥーラへの帰順か」
ノースジョウの領主は、窓の外を見つめながら呟いた。
眼下では、今も住民たちが声を上げている。
「領主様。いかがなさいますか」
背後に控えていた家令が尋ねた。
「王都から返答は?」
「ありません」
「食糧の融通については?」
「それも……」
家令は首を横に振った。
「こちらから送った陳情に対して、王都は各領で対処するようにと。それだけです」
「そうか」
領主は小さく息を吐いた。
春から何度も救援を求めてきた。
一度は軍を派遣して住民の慰撫を行っていったが、その後は税の減免も、食糧の融通も、商人への通行許可についてもまともな返答は一度もなかった。
「兵はどれほど動かせる?」
「守備兵はおりますが、住民を鎮圧するとなれば……」
「何だ」
「兵たちの家族も、この町に暮らしております」
それ以上の説明は必要なかった。
領主は再び広場へ視線を向けた。
自分はリービッヒ王国の貴族である。
王家に忠誠を誓い、この土地を預かってきた。
その立場を捨ててパドゥーラ侯へ帰順するなど、本来なら許されることではない。
だが。
「このまま冬を迎えれば、何人死ぬ?」
家令は答えなかった。
「百人か。千人か」
「……分かりません」
「私にも分からん」
領主は机へ戻った。
しばらく考えた後、一枚の紙を取り出した。
「パドゥーラ侯へ使者を出す」
「領主様!」
「ノースジョウはパドゥーラ侯の保護を求める。住民への食糧供給と引き換えに、その統治を受け入れる」
「王都が黙っておりません」
「だろうな」
領主は筆を取った。
「だが、王都が我々に何をしてくれるというのだ」
家令は何も言えなかった。
「忠誠を尽くして飢え死にするのが正しいというなら、私は正しくない領主で構わん」
書状を書き終えると、領主は封蝋を施した。
「急がせろ。できるだけ早くパドゥーラ侯へ届けるのだ」
「承知しました」
家令が書状を受け取り、部屋を出ていく。
領主は窓を開いた。
広場に集まった住民たちが、一斉にこちらを見上げた。
「聞いてくれ!」
領主は声を張り上げた。
「パドゥーラ侯へ使者を送る! ノースジョウは、パドゥーラ侯の保護を求める!」
一瞬の沈黙。
そして、歓声が爆発した。
「パドゥーラ侯だ!」
「これで助かる!」
「麦が来るぞ!」
領主は、その光景を黙って見つめていた。
まだ何も決まったわけではない。
パドゥーラ侯が受け入れる保証もない。
それでも、人々は喜んでいた。
その日の午後。
一騎の使者がノースジョウを発った。
南東のパドゥーラへ向かうために。
◇
「ノースジョウから正式な帰順の申し出がありました」
パドゥーラ城。
ホウアンの言葉に、机を囲んでいた者たちの視線が集まった。
アムルは椅子に腰掛けたまま、手元の報告書へ目を落とした。
「帰順?」
「はい。ノースジョウ領主の署名と封印があります」
ホウアンは机の上へ書状を置いた。
「住民からの要求を受け、パドゥーラ侯の保護を求めるとのことです」
「またかよ」
ロックが呆れたように呟いた。
「今度はノースジョウか」
「住民はどのくらい騒いでいる?」
アムルが尋ねた。
「領主館を数千人が取り囲んだとのことです。今のところ、大規模な略奪や放火には至っていません」
「それだけ集まって、よく暴動にならなかったな」
「領主側が帰順の要請を受け入れたため、ひとまず収まったようです」
「なるほど」
アムルは書状を手に取った。
しばらく目を通してから、ティーエへ渡した。
「どう思う?」
「受け入れるしかないと思うよ」
ティーエは書状を読みながら答えた。
「このまま放っておけば本当に暴動になるよ。食べ物がないんだから」
「ライプニッツへ逃げてくる人間も増えるな」
エヴァンスが続けた。
「ノースジョウで住民反乱が起きたとなれば、リービッヒ側が鎮圧軍を出す可能性もある」
「そうだな」
アムルは椅子の背に身体を預けた。
「……また進駐か」
ロックが横目を向けた。
ライプニッツのことを思い出したのだろう。
あのときも、アムルが力ずくで奪ったわけではなかった。
だが王都では、パドゥーラ侯が領土欲からライプニッツへ軍を入れたかのように語る者がいた。
事情を知ろうともせず、最初から疑ってかかる人間も少なくなかった。
そして、その結末はエルとの離別だった。
「嫌なら断るか?」
ロックが聞いた。
「それはできない」
アムルはすぐに答えた。
「だろうな」
「放っておいたら住民が死ぬ。それに、ここまで来て断ればライプニッツまで不安定になる」
アムルは地図を広げた。
「問題は軍だな」
「リービッヒが黙っているとは思えん」
エヴァンスが言った。
「ああ。今度は本当に戦争になるかもしれない」
アムルはしばらく地図を眺めていた。
「今、すぐ動かせる兵は?」
「一万ならすぐに動かせる」
ロックが答えた。
「古参兵を中心にすればな。それ以上となると、部隊の編成に少し時間がいる」
「一万か」
ラレドの敗北以降、パドゥーラは明確に軍備を増強していた。
それ以前は、むしろ逆だった。
リービッヒと決別したと言いながら、貢納金も完全には止めず、軍事力の増強も抑えてきた。交易を妨害することもなく、リービッヒ商人はこれまで通りパドゥーラへ出入りできた。
理由は一つではない。
リービッヒは重要な商売相手だった。
商人たちからも、無用に関係を悪化させないでほしいという要望が繰り返し上がっていた。
そしてアムル自身にも、リービッヒとの関係を完全には切りたくない理由があった。
いつか。
本当にいつか。
戻ってくるかもしれない人間がいたからだ。
しかし、状況は変わった。
リービッヒ側がパドゥーラとの交易を減らし始めると、パドゥーラは代わりに都市同盟との取引を増やした。
セレス協商が成立したことで、その流れは決定的になった。
もうリービッヒと交易できなくなったからといって、パドゥーラ経済が立ち行かなくなることはない。
そしてなによりも、リービッヒ軍がパドゥーラへ侵攻した。
刺激しないよう軍備を抑えていた相手が、こちらから何もしなくても攻め込んできた。
それ以降、方針は変わった。
新規募兵を進め、リービッヒ軍から逃れてきた兵士も受け入れた。
現在、パドゥーラの影響下ある地域の全兵力は五万前後に達している。
だが、そのすべてが熟練兵というわけではない。
「まず一万出す」
アムルが言った。
ティーエが顔を上げた。
「一万?」
「俺とロックが先に入る。すぐに動ける精鋭だけでいい」
「残りは?」
「エヴァンス」
アムルが顔を向けた。
「お前は一万をまとめて、後から来てくれ」
「了解した」
「新規募兵した部隊も混ぜていい。ただし、行軍中に隊列が崩れないようにしてくれ」
「任せろ」
「最終的には二万か」
ロックが呟いた。
「多くないか?」
「相手次第だな」
アムルは地図上のリブロフを指した。
「モンド様の直属軍が五千。首都防衛隊が一万五千。合わせれば二万だ」
「さらにコクに一万いる」
エヴァンスが付け加えた。
「ああ」
「全部集められたら三万だぞ」
「だから先にノースジョウを押さえる。増援を待っている間に、向こうが動いたら面倒だからな」
ロックは腕を組んだ。
「お前と俺で一万か。モンド様が来たら、結構きついぞ」
「分かってる」
アムルは地図へ視線を戻した。
「だから野戦はしない」
「ほう」
「ノースジョウへ入る。住民を保護して、城と街の防備を固める。リービッヒ軍が来ても、こっちから外には出ない」
「敵が退いたら?」
「追わない」
ロックが少しだけ笑った。
「ラレドで懲りたか」
「まあな」
アムルはあっさり認めた。
「長期戦ができない相手に、こっちから決戦を求めて負けたんだ。同じことをする必要はないだろ」
その言葉に、ロックは少しだけ目を細めた。
アムルが自分の敗北を、こうも素直に口にするのは珍しかった。
「それに、モンド様と先生だ」
アムルは続けた。
「退却したからって、本当に逃げているとは限らない。追えば何を仕掛けてくるか分からない」
「それはそうだな」
「城にいればいい。相手が攻めてくるなら守る。無理に勝ちに行く必要がない」
エヴァンスが頷いた。
「補給さえ続けば、こちらが有利だ」
「そういうこと」
アムルはティーエへ顔を向けた。
「食糧の計画は?」
「問題ないよ」
ティーエはすぐに答えた。
「もともとリービッヒ向けに用意していた麦が、まだ全部は捌けていないんだ。都市同盟との交易は増えているけど、売り先をすぐに全部切り替えられるわけじゃないからね」
「余っているのか?」
「余っているというより、備蓄に余裕があるんだよ」
ティーエは地図に手を伸ばし、チル湖を指した。
「それにノースジョウはチル湖の対岸だからね。船を使えば麦を大量に運べるよ。輸送の手配も簡単だし、陸路だけに頼る必要もないんだ」
「兵二万と住民を食わせられる?」
「当面は問題ないよ」
「じゃあ大丈夫だな」
アムルは頷いた。
「先に食糧を運び始めてくれ。俺たちが入る頃には、住民への配給を始められるようにしたい」
「分かったよ」
「本国はコンラートに任せる。エヴァンスが出た後も、守備兵は十分に残すようにしてくれ」
「了解した」
エヴァンスが答えた。
アムルはもう一度地図を見た。
ノースジョウ。
第三次コスタ戦役で、ルートビッヒの猛攻を退けた城。
しかし、城そのものが特別に堅牢だったわけではない。
あのとき守っていたのはモンドとパウロだった。
そして今度は、そのモンドが攻める側に回る可能性がある。
城の弱点も、防御の難しさも知り尽くしている相手だ。
「……油断はできないな」
アムルが小さく呟いた。
「何だ?」
ロックが尋ねた。
「いや、何でもない」
アムルは顔を上げた。
「じゃあ決まりだ。出発の準備を始めよう」
◇
十日後。
ノースジョウの城門が開いた。
先頭を進むのは、パドゥーラ侯アムル=ドゥットゥカース。
その隣にはロックがいた。
率いる兵は一万。
パドゥーラ軍の中でも実戦経験の豊富な精鋭たちだった。
「パドゥーラ侯だ!」
誰かが叫んだ。
「侯爵様!」
「これで助かる!」
道の両側から歓声が上がった。
兵士たちが行進するたびに、住民が手を振り、頭を下げる。
中には泣きながら祈りを捧げる老人もいた。
「大歓迎だな」
ロックが呟いた。
「そうだな」
アムルは短く答えた。
しかし、手を振ることはしなかった。
凱旋ではない。
戦って勝ち取った土地でもない。
食べる物を失い、国に助けを求めても応じてもらえなかった人々が、隣へ救いを求めただけだ。
「まず食糧だ」
アムルはロックへ言った。
「船で運んだ麦を使って、今日中に配給を始める」
「ああ」
「兵には徹底させろ。勝手に民家へ入るな。物を取るな。住民との揉め事は厳罰だ」
「分かってる」
「あと、城の防備を調べたい。城壁だけじゃなく、門や水路もだ」
「父さんが攻めてくると思うか?」
「分からない」
アムルは正面の城を見上げた。
「でも、来るつもりで準備しておく」
「そうだな」
ロックは頷いた。
「エヴァンスが到着するまでは一万しかいねえ。無茶はできんな」
「到着してからも無茶はしないけどな」
「はいはい」
ロックは苦笑した。
そのとき、道の脇から一人の老人が歩み出た。
兵士が制止しようとしたが、アムルは片手を上げて止めた。
「どうした?」
老人は震える手を合わせた。
「侯爵様……本当に、麦をいただけるのでしょうか」
「ああ」
「明日も……?」
アムルは一瞬だけ黙った。
それから、はっきりと答えた。
「明日もだ。冬の分も何とかする」
老人の目から涙がこぼれた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
アムルは小さく頷くと、再び馬を進めた。
その日の午後。
ノースジョウの各所で麦の配給が始まった。
チル湖を渡ってきた荷船から次々に袋が降ろされ、兵士たちが倉庫へ運び込んでいく。
城壁では守備兵の配置が進められ、各門の警備が強化された。
そしてアムルは、エヴァンスの増援を待ちながら、防衛の準備を始めた。




